。それらさまざまな要因によって……あぁもうダメだ、本気で死のう。 さらば。 さらば宗教のオバサン。 さらば日傘を差した岬ちゃん。 みなさんさようならさようなら。 俺はもう旅立ちます。 アパートのドアを閉め、鍵をかけ、部屋のカーテンも閉め切って、俺はこれから旅立ちます。 ベッドに腰を下ろして、息の根を止めます。 両手で口をぎゅっと塞《ふさ》ぎ、息を、止めます。 ……あぁ、苦しい。苦しい。 もうすぐ死ぬ。もう三十秒も息を止めた。もうすぐ死んでしまう。 しかし、なかなか臨終の時はやってこなかった。なぜならば、鼻から息が漏れていたからだ。 世の中、何事もままならないものである。 誰か、なんとかしてくれ。 [#改ページ] 三章 邂逅
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昨日|勃発《ぼっぱつ》した宗教オバサンとの対決によって、バイカル湖よりもマリアナ海溝よりも深く深刻に落ち込んだ俺は、しかしそれでも復活した。 数ヵ月ぶりに真っ昼間から外出して、賑《にぎ》やかな街へと繰り出したのだ。それはあまりに雄々しい行為で、全世界の喝采を浴びるに相応《ふさわ》しい、英雄的な振る舞いだった。自分で自分を褒めてやりたい。 だが……その目論見《もくろみ》は、すべてが虚しく失敗した。 あとに残されたものは「もうダメだー」という絶望だけ。 アパートに帰ってきた俺は、辛い記憶を消し去るために、部屋に籠もって酒を飲んだ。 コタツに座って「酒らあ。もっと酒持ってこいー」と叫んでみる。けれどもそれは、あくまで虚しい独り言に過ぎず、夕方の薄暗い六畳一間に、陰々滅々とわびしく響いた。 すでに教本、空になった缶ビールがコタツの上に転がっている。 隣室から響いてくる大音量のアニメソングにイラつきながら、それでもなおも、俺はむやみにアルコールを過剰摂取する。 目が回り、頭が激しくグルグルした。 もう少しだった。 もう少しですべてを忘れてしまえるだろう。
*
それは半日前のこと。 昨日の意気消沈から立ち直った俺は、一刻も早いひきこもり脱出を決意した。 そして思った。 「今日からバイトしよう」 ──そうなのだった。就職が無理なら、まずはバイトから始めればいいのだ。そうすれば俺の肩書きが、ひきこもりからフリーターに変更される。そのどちらの語感も、多分にダメ人間的雰囲気を漂わせてはいるが、ひきこもりに比べれば、フリーターの方がはるかに健康的である。だから今すぐバイトを探そう。 そこで俺はコンビニに向かい、バイト情報誌を購入した。 早足でアパートに戻り、真剣に熟読。 どれだ? 俺に相応しいバイトはどれだ? 力仕事は却下だった。疲れる仕事はやっぱりイヤだ。かといって、コンビニ店員なども願い下げだ。あのような激しい接客業など、俺につとまるワケがない。 そして──おお!
マンガ喫茶、時給七百円
間違いない。この仕事こそが、俺に最も相応しい。小さな街のマンガ喫茶などには、どうせそれほど客も来ないだろうし、暇なときにはレジでマンガを読んでいればいい。実にラクそうな仕事だ。最高だ。 ──というわけで、俺はさっそく履歴書を書き、意気揚々とアパートを出発した。 向かうは駅前だ。マックの裏に、目指すマンガ喫茶が存在する。 涼やかな四月の住宅街を、俺はてくてく、ぼちぼちと歩いた。 だが──数ヵ月ぶりに昼の街を歩く俺を、「奴ら」が妨害した。肩を丸めて歩道の隅を歩く俺を、奴らが、NHKの妨害工作員が、ニヤニヤと嘲笑していた。 それは激しい妨害工作だった。 『ねぇ見てよアレ。気持ち悪いねぇ』 『無職のひきこもりよ。最悪だね』 『アパートに帰った方が良いんじゃないの。この街は、君なんかが歩いちゃいけない所よ』 通りすがりの主婦が、女子高生が、オバサンが、すれ違うたびに小声でささやく。俺はすっかり青くなる。 ──あぁ、帰りたい。 あの薄暗くて居心地の良い六畳一間に帰りたい。あったかい布団に潜って、何も考えずに目を瞑《つぶ》りたい。しかし、ダメだ。それはダメだ。そんなことをしたら、ますます奴らをつけあがらせるだけだ。だから耐えろ。ここが勝負どころなんだ。頑張るんだ── 事実、俺にはある程度の予想がついていた。社会復帰に乗り出そうとする俺を、奴らが放っておいてくれるわけがないと、最初から知っていた。 だから俺は負けなかった。一歩歩くごとに高まる不安を無理に抑えつけつつ、かなりの早足で目的地を目指した。 そして──やっとのことで目指すマンガ喫茶に到着。駅の裏手にある、このこぢんまりとした佇まいのマンガ喫茶「ブレイクタイム」が、これからの俺の職場となる。明日から毎日、ここで働くのだ。 ひきこもり脱出は、すでに目前だった。 昼間の街を歩くだけで、これほどまでに気分が悪くなってしまうのも困りものだが、それもおそらく慣れの問題だろう。一度フリーターになってしまえば、他人の視線への過剰不安も、あっうという間に消え失せるはずだ。 だから……そう。ついに暗がきたのだ。 今こそ俺は、脱出してやる。普通人になってやる。もう宗教家などに馬鹿にされたりしない、ごくごく一般的なフリーターになってやる。 だから──だから俺は行くぜ。 勇気を出して、踏み込むぜ。 ドアを勢いよくからんからんと開き、軽やかに店内へと足を踏み入れて── レジで働く女の人に履歴書を差し出して、元気よく言うのだ。 『あのう、こちらでバイト募集してると聞いたんですが』と言ってやるのだ! そうして──俺は、言った。 しかし、その言葉は途中でとぎれた。 「…………」 灰皿、ポット、コーヒーメーカー等々が整然と陳列されているカウンターの中には、椅子に座ってマンガを読んでいる一人の女性店員がいた。 少女漫画を真剣な目つきでめくっている、彼女の横顔── なぜだか不思議に、見覚えがあった。 というか、昨日、会ったばかりだった。 彼女は、「あのう、こちらでバイ」と言ったきり、レジの手前で硬直している俺に気づくと、膝《ひざ》の上のマンガから顔を上げた。 目が合った。 「…………」 宗教勧誘娘、岬ちゃんだった。 昨日見た時とは違って、今日は極めて普通な格好をしていた。そこらの若者風なジーンズ姿だ。 そこに宗教の影は見えない。 だが──彼女の正体に気づいた瞬間、俺の心臓は通常の十倍速で脈打ち始めた。 さまざまな思考が脳裏を激しく駆けめぐる。 ──なぜ宗教家がマンガ喫茶などでバイトを? それは戒律違反じゃないのか? いやいや、そんなことはどうでもよくて、この娘、俺の顔を覚えているだろうか? 覚えられているとしたら、それはもう、身の破滅だ。バイト先に、俺の秘密を知っている人間などが存在していてはいけない。俺の秘密を知っている人間などと、一緒に働けるワケがない。ならば俺はどうするべきか? 逃げるんだ! その決断はごくごく当然の論理的帰結であって、とにかく逃げだせ! しかし宗教娘は、きびすを返そうとする俺を呼び止めた。つい数瞬前までの硬い表情を崩し、昨日と同じ、俺を見下す嘲笑をニコニコと浮かべ、小声で訊《き》いた。 「こちらで、バイ?」 そこには通常の客への対応と、明らかに大きな差異が見てとれるような気がした。間違いなくこの娘は、俺が昨日の、頭のおかしいひきこもり人間であると気がついている様子であった。 嫌な感じの冷や汗が首筋をつたう。逃げたい。一刻も早くここから立ち去りたい。 だが──それでも俺は、彼女の問いに答えなければならない。一度口に出してしまった言葉を、うまい具合にひっこめなけれはならない。 だからあくまでさりげなく、ごくごく自然に、とにかく何か言え!「バ、バイ──」 「…………?」 「バイクとか、好き?」 ……俺は一体、なにを考えているんだろう? 「俺は好きだなぁ。バイク。風になれるよね」 店の奥に座っている数人の客も、俺に注目し始めた。 「あのエンジンの鼓動がたまらないんだ。ところでどう? いつか一緒にツーリングでも」 ……あぁ、もうダメだ。 「つていうか、そもそもバイクなんて乗ったこともないけどな! ははははははー……………それじゃあね」 早足で店から逃げた。 帰り道、コンビニによってビールと焼酎《しょうちゅう》を買った。 死のう、もう死のう。 しかし俺は死なない。なぜならば、今日は天気がいいからだ。だから死ぬかわりに、死ぬほど酒を飲んで全部忘れよう。 忘れてしまおう。 酒だ。 酒を──
*
「酒らあ。もっと洒持ってこい!」と叫んでみるも、それはあくまで虚しい独り言に過ぎず、夕方の薄暗い六畳一間に、陰々滅々とわびしく響いた。泣きたくなった。 全部あの女のせいなのだった。あの女のおかげで、俺のひきこもり脱出大作戦は、惨めな失敗に終わってしまった。人を呪い殺すカが欲しい。 ……あのやろう、あのやろう、く、く、くそう。いまごろ奴らは、俺を嘲笑っているに違いない。俺は笑いものにされているに違いない。 『店長、今日、頭の変なひきこもりが店に来ましたよ』 『えっ、それは本当かい岬ちゃん』 『この店でバイトするつもりだったみたいですよ。ひきこもりのくせに、身の程をわきまえろって感じですよね』 『まったくだね。無職で中退で気持ちの悪いひきこもりなんかが、社会に出られるワケないのにね』 などなどといった感じで、奴らは俺を、面白おかしい話のネタに使っているのだ。あぁ、なんてことだ。許し難い。ゆるせない。 だから復讐《ふくしゅう》を。今こそ復讐を。絶対に仕返ししてやる── 「…………」 しかし、俺はひきこもりなので、上手に復讐する方法が思いつけなかった。だからこの件は諦《あきら》めることにして、何か別の、もっと気分が良くなることを考えることにした。嫌なことは忘れて、楽しいことを考えようと思った。 楽しいことと言えば、NHKである。 辛《つら》いとき苦しいときには、NHKが水面下で繰り広げている陰謀の事を考えればいい。そうすれば、いくぶん気が楽になる。 NHK、NHK── 「そうかわかったぞ!」 俺は叫んだ。 「あの女は、NHKの特殊工作員だったんだ!」 そのようなことを大声で叫んでみた。 だが予想に反して、気分はちっとも良くならなかった。 「……あぁ」と呻《うめ》き、さらにビールと焼酎を空ける。 頭が痛かった。隣室から鳴り響くアニメソングも、激しくやかましい。 気がつくと、いつのまにやら悪酔いしていた。気分がどんどんネガティブ方向にまっしぐらだった。未来に希望が見いだせない。このまま俺は、ひとり寂しくバ力みたいに死んでいく、そんな気がした。 「……もうダメだ、もうダメだ、もうダメだ!」と唱える。 しかし、いまだ隣室からはアニメソソグが響いていた。その歌詞には、「愛」「夢」「恋」「希望」などなどといったポジティブ系の単語が頻出していて、それはかなりの皮肉に聞こえた。前途を塞がれた俺に対する、かなり嫌みな皮肉に聞こえた。怒りと悲しみに打ち震えた。 そもそもどうして今日に限って、俺の隣人はこれほどまでに大音量でアニメソングを鳴らしているのだろう? いつもは昼間しか鳴らさないのに。今はもう夜中だぜ。 そうして俺は、ふと気づく。 これはもしや、俺に対する嫌がらせじゃないのか? フリーターにすらなれなかった、あまりに惨めでバカな俺に対する嫌がらせなのか? 「…………」 だとしたら、許せなかった。 壁をがこんと殴ってみる。 アニメソングが鳴りやむ気配は無かった。 壁をばこんと蹴《け》ってやる。 反応は無かった。 ……バ、バカにしやがって。 みんな、みんな、よってたかって俺をバカにして。 くそ。見てろよ。 後悔させてやる。 酒を飲み、もっと酔い、前後不覚になるまで酔っぱらって── 俺は、行くぜ。目にもの見せてやるぜ。 悪いのはそっちだからな。 コタツから立ち上がり、すっ転びそうになりながら玄関のドアを開ける。 隣室の202号室へと千鳥足で歩を進め──呼び鈴を連射。 「ピンポンピンポンピンポン──」 しかし、返事は無い。 ドアを殴ってみた。 それでも返事は無い。室内から聞こえてくるのは、相も変わらぬアニメソングだけ。ファンシーララのテーマソングだ。 「わったっしファンシーララー」 かっと頭に血が上った。 ドアノブを捻《ひね》る。鍵はかかっていない。 どうとでもなれ。 「ぐらぁ!」と叫び、怒りにまかせて室内に足を踏み入れ、「うっせーぞ!」と怒鳴った── その瞬間だった。 「…………」 俺は見た。 部屋の奥に設置されたパソコンデスクに腰をかけ、壁際に設置されたスピーカーに耳を傾けている、ひとりの男。 彼は、唐突な客の到来に気づくと、回転椅子をゆらりと回して振り返った。 彼は──泣いていた。 さめざめと、涙を流していた。 さらに信じがたいことに、俺は、彼が何者なのかを知っていた。 「…………」 絶句してしまった。自分の目を疑った。 彼も涙を拭《ふ》き、「信じられない」という表情を浮かべて、こちらを見た。 身を乗り出し、俺の顔をまじまじと眺めている。 そんなしばしの沈黙の後── 震える声で、彼は言った。 「……さ、佐藤さん?」 間違いない。 山崎だった。 四年ぶりの、あまりに予期せぬ再会だった。 [#改ページ] 2
高校時代、俺は文芸部に所属していた。 と言っても、何も小説などが好きだったわけではない。新入生歓迎会の折りに、ヤケに可愛い先輩に勧誘されたのだ。 『君、文芸部に入ってよ』 俺は思わずうなずいてしまった。そうするより他になかった。なぜならば、一年歳上のその先輩は、文芸部などというオタク臭い部活に加入していたにもかかわらず、ちょっとしたアイドル並みに可愛かったからだ。 そんな適当な動機で部活に入ったものだから、日々の活動はトランプの七並べに終始した。暇を見つけては、狭い部室で先輩と七並べをした。まったく、何をやっていたのだろう。もっと他にやることがあっただろうに。 まぁ、今となっては、そんなことはどうでもいい。過去は過去である。 ともかく、そんなある日の放課後の事なのだった。俺と先輩は、中庭に面した一階の廊下を歩いていたのだ。 先輩が、ふと中庭の隅を指さした。 『……あれ』 『あぁ、イジメですね』 中等部の制服を着た少年が、数人の生徒に囲まれて、お腹をぼこぼこ叩かれていた。 イジメを受けているその少年は、弱々しい微笑みを浮かべていた。 イジメている方も、にこにこ笑っていた。 よくある風景だった。 『ひどいよね』 先輩が言った。彼女はずいぶんと感情移入能力が高い人なので、本当に気の毒そうな顔をしていた。 そのときだった。すごく良いアイデアがひらめいた。 『助けてきましょうか?』 先輩に、俺の格好いいところを見せつけてやる。 『できるの?』 俺はうなずいた。 中等部のガキぐらい、どうってことはないだろう── もちろんそれは、大きな判断ミスだった。 『イジメ、かっこわるい!』と叫んで、イジメ現場に踏み込んで行ったのはいいものの、逆にすっかりやり返《か》されて、さらにイジメグループはそのまま逃走、先輩は呆《あき》れかえった目で俺を見つめ、イジメられっ子はその後一年間、相も変わらずイジメられ続け──と、俺の行動は何ひとつ長い結果を生み出さなかった。 それでもイジメられっ子の山崎君は、何を勘違いしたのか、俺を尊敬してしまったらしい。高等部に進学すると同時に、文芸部に入部してきやがった。 だが、そのときの俺はすでに三年生。先輩も卒業してしまい、すっかりヤル気が無くなっていた俺は、山崎を部長に仕立て上げて、自分は受験勉強に集中した。 そうしてそのまま、俺もあっさり卒業。 卒業式で二、三の会話を交わして以来、山崎とは完全な音信不通だったのだが──
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六畳一間の真ん中で、山崎は大げさにはしゃいでいた。痩《や》せていて、ロシア人並みに色が白いところは、あの頃とまったく変わっていない。多少は男らしい顔つきになっているかと思えば、やはりそんなこともない。見るからに戦闘力が低そうな、ひ弱な青年である。 「マジですか?本物ですか?」 先ほどまでは目を真っ赤に腫《は》らして泣いていたくせに、今ではもう、すっかり笑顔だ。アニメソングもすでに鳴りやんでいる。 玄関に立ちすくんだまま、俺は訊いた。 「どうしてお前がここに──?」 「佐藤さんこそ」 「俺は……」 このアパートが大学の近くだったから偶然入居しただけだ、と言おうとして、思わず口ごもってしまった。俺の正体(中退無職のひきこもり)を山崎には知られたくない。 すると山崎は俺の葛藤《かっとう》に気がつかないまま、自らの境遇を説明してくれた。 「僕はこの春、専門学校に入学したんです。で、家賃が安くて、通学にも便利なアパートを探したら、たまたまここが気に入って──」 なるほど。やはりまったくの偶然らしい。 「とにかくあがってくださいよ。汚い部屋ですけど」 あまりと言えばあまりな偶然に、かなりのとまどいを感じていた俺を、山崎は明るく促した。 俺は素直に靴を脱ぎ、室内へと足を踏み入れた。 当然の事ながら、間取りは俺の部屋と変わらない。 「…………」 だが──なんだ、これは? 俺は思わず立ちすくんだ。 山崎の部屋には、妙な気配が漂っていた。それは今まで感じたことのない、ごくごく微妙な雰囲気だった。 壁に貼られた奇妙なポスター、巨大な二台のタワー型パソコン、壁際に天井近くまで積みあげられたマンガの山──その他さまざまな家具や装飾が、ある種の困った空気を醸し出しているのだった。 「どうぞ、そこに座ってください」 山崎の声で、ふと我に返る。 その言葉に従い、おぼつかない足取りで部屋の奥へと移動する。 と──いきなり足元で、何かがばきっと音をたてて割れた。俺はびくんと飛び上がった。 「あ、CD──Rのケースです。気にしないでいいですよ」 足元を見ると、マンガやら小説やら、ビデオソフトやらDVDやら、ペットボトルやティッシュの空き箱などのゴミクズやらが、床一面に散乱していた。 「汚い部屋ですけどね」 本当だ。これほどに汚い部屋、初めて見た。 「それにしても、嬉《うれ》しいなぁ。まさか佐藤さんが隣にいたとは」 ベッドの端に腰をかけた山崎は、一歩歩くごとに何かを踏んでしまう俺に構わず、だいぶ遠い目をしてそんなことを言う。 ようやく俺もパソコンデスクに到着した。回転椅子に、腰を下ろす。 酔いは、醒《さ》めていた。完全に、醒めていた。 何を言ったら良いものか分からず、十七インチのディスプレイに目をやる。そこには、俺の知らないアニメ絵の壁紙が貼り付けられていた。 「僕がこのアパートに入ってきてから、もう半月も経ってるのに、お互いに気がつかなかったとは、まったくおかしい話ですね」 ディスプレイの上には、赤いランドセルを背負った少女の人形(ガレージキットという物らしい)が飾られていた。 「これが大都会の隣人無関心ってヤツなんでしょうね」 壁に貼られたポスターには、小学生としか思えない少女の裸体が、やはりアニメ調の絵で描かれていた。俺は目をそらして、パソコンデスクの上を見た。 「どうしたんですか? 佐藤さん。黙っちゃって。……あ、音楽がうるさかったんですよね。今度から気をつけます」 パソコンデスクの上には、何かのゲームのパッケージと思われる、四角い箱が大量に積まれていた。そのパッケージには、「貴」「濡」「虐」「淫」「縛」「学園」「監禁」「陵辱」「鬼畜」「純愛」「調教」「アドベンチャー」などなどといった、普段あまりお目にかからない種類の単語が大量にちりばめられていて、さらにそのうえ、やはりどう見ても小学生としか思えない少女の裸体が、アニメ絵で見事に描かれていた。十八歳未満お断りと書かれたシールも貼られていた。 またもや俺は慌てて視線をそらし、壁際に積まれたマンガの山に目をやった。 「それにしても嬉しいなぁ佐藤さん。まさかもう一度会えるとは。僕、佐藤さんのこと尊敬してたんですよ。知ってました? 知ってましたよね──」 俺はマンガを一冊手にとって、ぱらぱらとめくってみた。 やはりそこには、小学生としか思えない少女の裸体が、そして、「成年コミック」と書かれた黄色いマークが…… 「ところで、僕の通ってる学校、知ってますか? テレビのCMとかで見たことあると思うんですけど──」 俺はマンガを山に戻し、額の汗を拭ってから、訊いた。 「どこの学校に通ってるんだ?」 その問いに、山崎は胸を張って答えた。 俺は思わず天を仰いだ。
*
──数年前のあの頃。俺たちは夢を見ていた。 汚い校舎の、ぼんやりした生活。 美しい少女たち。鬱屈《うっくつ》しながらも笑っていた少年たち。 俺も、皆も、夢を見ていた。 夢のような生活の中で、俺たち若者は、誰しもが素晴らしい未来を思い描いていた。 放課後は部室に入り浸り、先輩とダラダラした時間を過ごす、そんな毎日。 地震が起きたら一発で崩壊しそうなほどに古くさい、そんな粗末なプレハブ小屋で、ピクピクしながらタバコを吸う。 バイトをするでもなく、部活に精を出すわけでもなく、成膚も悪く、ヤル気もない。うだつのあがらない高校生だった俺は、それでもいつも、笑っていたのだ。 ある日のことだった。 ゴミやガラクタが一面に散らばった部室で、俺と先輩は呆けていた。 「佐藤君。君、将来どうするの?」先輩は訊いた。 「まずは適当な大学に行きますよ。……何をやるかは知りませんが、たぶんそのうち、やりたいことが見つかるでしょう」 「ふうん」 先輩は目をそらし、そしてぽつんと呟《つぶや》いた。 「この前のさ、イジメられっ子救出大作戦。バ力みたいだったけど、ちょっとかっこよかったよ。……だから大丈夫だよ。佐藤君なら大丈夫だよ」 俺は、照れる。 ──そして暗が経ち、先輩は卒業。 やはり汚い部室には、数学の参考書を睨《にら》む俺と、山崎がいた。 山崎が言う。 「佐藤さんも、今年で卒業ですね」 「そうだな。……これからはお前が部長だ、頑張れよ」 「寂しくなりますね。みんな大きくなりますね」 「若いうちからそんなこと言うなよ。──そうだ。吸うか?」 俺はポケットからタバコを取りだして、山崎に差し出した。 山崎はそれを受け取り、恐るおそる火をつけた。 盛大に咳《せ》き込んだ。 涙目になりながら、山崎は言った。 「うまくいくといいですね」 「なにがだよ?」 「いろいろなことがですよ。今みたいに、気楽な毎日が続けばいいですよ。……だから佐藤さんは、頑張ってくださいよ。どこに行っても、頑張ってくださいよ。僕も頑張ります。元気にいきますよ。なんとかなりますよ」 不安と希望が、共にあった。 夕日の射し込むボロ部室で、俺たちはぼんやり笑っていた。
──そうして俺は、大学に進学。 しかし、中退。 先の見えない生活に脅《おび》え、ワケの分からない不安にビビリ、見通しの利かない、うだつの上がらない、笑ってしまうほどにバカげた生活が延々延々と続いて続いた。 四方は姿の見えない恐怖に取り囲まれていた。 だから俺は閉じこもり、そして眠った。ぐうぐうぐうぐうと、眠り疲れるまで眠っていた。春が過ぎ、夏が去り、秋になって、冬が来た。 そして何度目かの、優しい、春。 未来に続く、時間はしかし、ばったりきっぱり閉鎖されていて、俺はまったく途方に暮れた。 夜風は涼しく、気持ち長く、それでも俺は、眠り続けた。 そんなある日に、俺たちは再会した。 俺と山崎は、もう一度出会った。 貧弱なイジメられっ子。それでもずいぶん良いヤツだった、山崎。 ──あの頃の俺たちは、同じ街の空気を吸っていた。 具体的な未来が何ひとつ見えなくても、それでも上を向いていた。 今でも俺は、はっきりと思い出せる。あの、懐かしい部室。狭い窓から射し込む夕日。 たわいのない、会話。 「俺たち、どうなるんだろうな」 「きっと、なるようになりますよ」 「……だといいな」 それは心地の良い、優しい放課後だった。
*
だけど俺たちは若かったしバカだった。くだらなかったし、どうしようもなかったし、たった四年後の未来さえも予想できなかった。 数年ぶりに山崎と再会した俺は、彼に訊いた。 「どこの学校に通ってるんだ?」 その問いに対し、山崎は胸を張って答えた。 「夜々木アニメーション学院です」 「…………」 人生って、とても不思議だ。 「そんな先輩は、今、なにをやってるんですか?」 「……中退、したよ」 「…………」 山崎は、顔をそらした。 気まずい沈黙が流れた。 俺は無理矢理、陽気な声を出した。 「そう言えばお前、どうして泣いてたんだ?」 「……最近、学校に行ってないんです。やっぱり、周りにとけ込めなくて。友達もいないし、一人暮らしは初めてだし──それでヤケになって、思いっきりでかい音でCDを──」 「もしかしてお前──最近ずっと、ひきこもってたのか?」 「……そ、そうです」 俺は椅子から立ち上がり、「ちょっと待ってろ」と言い残して、自室に戻った。 両手に缶ビールを抱え、もう一度山崎の部屋に入る。 「飲もう」 「……は?」 「いいから、飲もう」 俺は缶ビールを山崎に手渡した。 「大丈夫だ。いつか、かならず、ひきこもりから抜け出せる日が来る」 自らの願望を、大声で口に出す。 「大丈夫だ山崎君。俺はひきこもりに関してはプロフェッショナルなんだ。俺がついている限り、これ以上事態は悪化しない!」 そうして俺たちは、酒を飲んだ。大音量でアニメソングをかけ、意識が飛ぶまで酔っぱらった。 その宴は深夜遅くまで続いた。 アニメソングのCDが終わると、俺たちは歌を歌った。ずいぶんと酔っぱらっていたので、もしかしたらそれは、夢の中での絶唱だったのかもしれない。 だが、夢なら夢で、それでいい。 ともかく俺は、元気に歌った。
ひきこもりの歌
作詞作曲佐藤達広
凍てつゞく六畳一間 たゞひといろにアパートは 絶えると見えて脱出遠く 起き伏すベッドに一日十六時間 あのコタツの陰あのあたり ゴキブリの何ぞ隠れたる
飯を食べれば一日一食 体重ますます減り痩せる コンビニしばし向かえども 他人の視線に脅えれば 冷たい汗さえわきいでて 脱出の困苦おもふべし
妄想にも似たるNHKを 求めて得ざるむなしさに けふも日暮れてとぼとぼと 湿ったベッドに横たわる 疲れて重き脳味噌《のうみそ》の あぁ もうダメだ もうダメだ!
*
エロマンガを枕にして床に寝ていた俺は、ひどい頭痛に目が覚めた。 山崎は、パソコンデスクの下に俯《うつぶ》せになって眠っていた。 「学校は?」 肩を揺すってやった。 「……休みます」 それだけを答えると、山崎はもう一度目を閉じた。 俺は自室に戻り、ベッドに横になった。 バファリンを飲み、再び寝た。 [#改ページ] 四章 造物主への道
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出口はすべて塞がれていた。希望が見えなかった。どうしようもなかった。『世界を牛耳る悪の組織、NHK』などといったバカらしい空想によって、気分を紛らわせていられるだけの精神的余裕すら、もはや完全に消え失せていた。 鬱鬱鬱鬱と思い悩む春だった。唐突にビンセント?ギャロのモノマネがしたくなる春だった。 トイレに入り、頭を抱え、呻く。 「もう、生きていけない」 バッファロー66である。 ……死んでしまえ、俺。
だがそれでも── 今日はなぜだか、いつもと違った。 だいぶびっくりすることがあった。 昼の一時に目を覚ました俺は、新聞受けに、見慣れぬ紙切れが挟まっていることに気がついたのだ。 手にとって、眺める。 それは数日前の、マンガ喫茶でバイトをするために書いた履歴書だった。思い出したくない記憶ナンバーワンの、例の一件、あのときに書かれた履歴書なのだった。 ──なぜ? なぜ、あの履歴書が新聞受けに? 俺は早足で、山崎が住む隣室へと赴いた。 山崎は、今日も学校を休んでいた。パソコンに向かい、何かのゲームをやっていた。 俺は訊いた。 「今日、宗教の勧誘が来なかった?」 「えーと、二時間ぐらい前に来ましたよ。ほら、例の冊子も貰《もら》いました。この直訳調の文体が最高ですよね。あれ? 佐藤さんのところには来なかったんですか?」 山崎のその証言によって、俺は恐ろしい事実に気がついた。 どうやら俺は、マンガ喫茶に履歴書を置き忘れてきてしまったらしい。 ポケットから落ちたのか、無意識のうちに、岬ちゃんに差し出していたのか、それはいまいち思い出せない。あまりの動揺によって、あのときの記憶は激しく混乱している。 だが──これだけは確かだった。 岬ちゃんが宗教勧誘のついでに、わざわざ履歴書を持ってきてくれたのだ。つまり『バイクとか、好き?』などと阿呆《あほう》なセリフを吐いて、バイトの面接にやって来たことをムリヤリ誤魔化《ごまか》そうとした俺の試みは、完全に失敗していたのだ。 その事実に気づいた俺は、もう、何もかもがどうでもよくなった。人間、あまりに恥ずかしい出来事に遭遇すると、感情が麻痺《まひ》してしまうものらしい。 俺は「……どうでもいいや」と呟いて、その履歴書をゴミ箱に捨てようとした。 だがそのとき、履歴書の裏が目に入った。そこには何かのメッセージが、黒いボールペンで書き込まれていた。
あなたは私の『プロジェクト』に大|抜擢《ばってき》されました。ですので、今夜九時に、三田四丁目公園に来てください。
「……はぁ?」 俺はゴミ箱の手前で腰をかがめたまま、ぽかんと口を開けてしまった。
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冷静に考えてみると、これは驚天動地の事態なのだった。二度会っただけの女から、謎の手紙がやって来る。それはあまりに不可解で、なにがなにやらワケがわからない。 しかしなぜだか従順に、俺はそのメッセージに従ってしまった。 アパートから歩いて二分の所に、指定された公園が存在する。 すでに時刻は夜だった。 等間隔で生い茂る街路樹を、古びたジャングルジムを、ペンキの剥《は》げ落ちたペンチを──ブランコの手前に屹立《きつりつ》した街灯が蒼《あお》くうっすらと照らしている。 俺は、この公園が好きだった。 一週間に一度、深夜にコンビニへ食料の買い出しに行く途中、俺は必ずこの公園に寄る。誰もいない公園。それは俺だけの空間だ。 涼しい夜風。ベンチに腰を下ろして空を見上げれば、かすかに揺れる木々の枝と、その隙間から覗《のぞ》ける月、そして星。 開放感と、安らぎが、そこには共に存在した。 それなのに──今夜の公園は、俺だけの空間ではなかった。 他人がいた。 俺は、こちらから声をかけることをしなかった。 事実、ある程度まで腹が立っていた。 ──なんのつもりなのか? 何を考えているのか? おまえは何者なのか? それらさまざまな疑問と共に、ある種の怒りが存在したのだ。 しかし、なぜか頭は冴《さ》えていた。落ち着いてもいた。思考は冷静な回転を続けていて、決して空回りすることがなかった。 それはある種の諦観《ていかん》であったのかもしれない。すでに俺は、現状のすべてを受け入れていたのかもしれない。自らがひきこもりであることを、未来のない人種であることを、死ぬべき存在であることを──俺はそれらを穏やかに認めていたのだろう。そうに違いない。 実際、最近の俺は、昔の時間を生きていた。昔の夢を、毎晩見ていた。 懐かしいふるさと、友、家族。嫌なこと、嬉しいこと、さまざまな思い出、そのフラグメント──夜に見る夢は優しく切ない。 そうなのだ。いまや未来は問題ではなかった。未来はすでに決定していた。だからこそ過去を、素敵な思い出を── それはまったく、あまりに後ろ向きな逃避であったが、もはや何事も、どうでもいい。 あぁ、そうさ。俺はひきこもりさ。精神虚弱のダメ人間だ。しかしそれでもいいじゃないか。 放って置いてくれ。俺は静かに消えていく。もう結構! もうダメだ! 「ダメだダメだダメだ──」 「何がダメなのさ?」 ベンチに腰を下ろして頭を抱えていた俺に、女が訊いた。 彼女はベンチの脇のブランコに揺られていた。肩の辺りまで伸びた髪が、さらさらとなびいていた。やはり今夜も、そこらの若者的な、ごくごく普通の格好をしていた。当然、日傘なんかを差しているわけもなく、宗教の気配は窺《うかが》えない。 しかし──それでも油断は禁物だ。なにより、このシチュエーションの異常さ自体が、彼女のおかしさを如実に物語っている。あくまでも慎重に、冷静な対応をせねばならない。 そこで俺は、彼女のことを、ホンダが開発した二足歩行ロボットであると思いこむことにした。 そうすることによって、かなりの精神安定が得られる。 ……あぁ。最近のロボットは、さすがに進んでいるなぁ。どこから見ても、まるっきり人間だ。 ぎこぎことブランコを小さく揺らしながら、ロボットが言う。 「どうしてこの前、逃げたの? 今、人が足りなくて困ってるのに。即決だよ」 すごいなぁ。音声出力も完璧《かんぺき》だ。関節の動きも滑らかだ。スカートから伸びた足も、実にしなやかだ。日本の技術は世界一だなぁ。 「やっぱり、ひきこもりだから、外で働くの、途中で怖くなった?」 「…………」 だいぶカチンと来たが、所詮《しょせん》、ロボットの言うことである。機械に何を言われても、それほど腹は立たない。 が、さらにロボットは謎めいた言葉を口にした。 「大丈夫だよ。あたし、ひきこもりの脱出方法、知ってるから」 「……なんだそれ?」 俺はついつい反応してしまう。 「佐藤君、だよね。……君、やっぱりひきこもりなんでしょ?」 俺はその間いに答えるかわりに、公園の入り口に立てられた看板を指さした。その看板には『チカンに注意!若い女性の被害が相次いでいます』との警告文が、赤いペンキで毒々しく書かれていた。 「俺みたいなあやしげな人間を、こんな時間に呼びだして大丈夫なのか? 危険だぜ」 「大丈夫。あたしの家、すぐそこだから。……あたし、いろいろ知ってるんだよ。君、日曜の夜には、いつもこの公園でぼんやりしてるよね。窓から見えたよ」 「…………」 ここに至って、俺はようやく、かなり不安になってきた。 意図がつかめない。彼女の正体も依然として謎だ。すべてが普通じゃない。 ……もしかして、これは遠回しな宗教勧誘なのではないだろうか? 「違うよ。だってあたし、和子《かずこ》オバサンにつきあってるだけだから」 「はぁ?」 「ずっとオバサンに迷惑かけてるから、せめてもの恩返し」 さっぱり話が見えないが、互いに正面の街灯を見つめたままの心許《こころもと》ない会話は、さらに続く。 「……とにかく、そんなことはどうでもいいからさ。佐藤君、知りたくないの? ひきこもり脱出方法」 「佐藤君とか呼ぶな。俺の方が年上──」 「あたしの歳、知ってるの?」 「……見たところ、十七、八」 「大正解──」 彼女はブランコから勢いをつけて、ぴょんと飛び降りた。その元気な振る舞いは、しかし、なぜだか不思議にわざとらしく見えた。気のせいかもしれないが。 そうして彼女はベンチに座る俺の目の前まで来ると、真正面からこっちを見た。 「だからね、脱出方法、知りたいでしょう? 教えてあげるよ」 膝に手を当てて中腰になり、そんなことを言う。 やはりこの前と同じように、無駄に可愛い笑顔を浮かべていて、彼女をアシモの後継機と見なすのは、もはや不可能だった。 俺は顔をそらして、呟く。 「……俺はひきこもりじゃない」 「嘘。この前、オバサンに勧誘されたとき、自分から思いっきりバラしたクセに。あたしに気づくと、逃げたクセに。普通の人間は、そんなことしないよ」 「な──」 俺の言葉は、しかし遮られる。 「怖いんでしょう? 他の人が」 顔を上げると、目があった。黒目がちの大きな瞳《ひとみ》をしていた。 その目を見つめたまま、俺は何を言うべきか、しばらくのあいだ迷ってしまう。 しかし── 「…………」 結局、何も言わずに、もう一度顔をそらした。 ふと気づくと、いつのまにやら風が出ていた。頭上では、木々の枝がざわめいていた。 肌寒い夜だった。 俺はアパートに帰ることにした。ベンチから立ち上がり、背を向けた。 背後の彼女が呼び止めた。 「待ってよ! きっと後悔するよ」 「何がだよ。そもそもあんた、何者だ?」 「ひきこもりのダメ人間を救済する、親切な娘です」 「手紙に書いてあった『プロジェクト』ってのは、なんなんだ?」 「計画の内容は、現時点では極秘です。でも、悪いようにはしないので、安心してください」 「…………」 具合が悪くなってきたので、適当な大嘘をついて、ともかく逃げ去ることにする。 「俺はねぇ、そもそも普通のひきこもりじゃないの。確かにひきこもってはいるけど、それは仕事柄、仕方がないの」 「仕事って、何さ?」 「……そ、SOHO?」 「何それ?」 「在宅で仕事する人間のこと。だから俺、ソーホーなの。アパート──つまりホームオフィスで仕事をしているだけであって、決して単なる無職じゃないの。確かにひきこもってはいるけど、それは職業柄、仕方がないんだ! マンガ喫茶でバイトしようとか思ったのは、たんなる気の迷いで──」 「へぇ、そうなんだ。じゃあ、どんな仕事してるの?」 「き、聞いて驚くなよ。……く、クリエイターだ!」 横文字職業で驚いてくれ! 「クリエイティブな仕事をしてるから、ちょっと精神的におかしく見えるけど、むしろそれこそが、俺の素晴らしい才能を物語ってるんだ! ただの穀潰《ごくつぶ》しの無職とかじゃないぞ!」 しかし岬ちゃんは、ニヤニヤ笑って、こう言った。 「じゃ、何を作ってるの?」 「それは──こう、なんというか、最先端の、IT革命的な、一言じゃ言えない……」 「今の仕事、出来上がったら教えてよ」 「そ、それはダメだ。守秘義務があるからな。それに、この企画にはかなりの金が動いてる。そうそう簡単にバラすわけには……」 と、自らのセリフのあまりのバカらしさに、思わず死にたくなってしまった頃──岬ちゃんはくるりと背を向けた。 「……もったいないなぁ。せっかくあたしが、脱出方法、教えてあげようと思ったのにさ」 それは本気で残念そうな── 「こんなチャンス、二度と無いのにさ」 低い、ささやきだった。 横顔の輪郭だけが、街灯の逆光にうっすらと浮かびあがっている。 ちょっと、いや、だいぶドキドキしてきた。 そうしてついに、俺の悪い癖が噴出する。 「お、俺の言うことを疑ってるみたいだけどね、実際俺、凄《すご》いクリエイターなんだぜ。君みたいな小娘は知らないだろうけど、業界じゃ、ちょっとは顔が知られてる。……そうそう、今度会ったときには教えてあげるよ、俺の仕事。かなりビックリするぜ! 尊敬するぜ!」 ……今度会うときって、なんだよ? 俺の仕事ってなんだよ? どうして俺は、必ずバレる嘘を、こうも堂々と披露してしまうのか? 無職のひきこもりだよって、正直に言えばいいじゃないか! 変なところで妙なプライドを発揮するなよなぁ! ……あぁ。 もういい。 いいから逃げよう。これ以上どうしようもない大嘘をつく前に、さっさと逃げよう。 「じゃ、じゃあ、それじゃあね!」 俺はぎくしゃくとした足取りで、公園の出口を目指した。背後で彼女が何かを呟いたような気がしたが、聞き取れなかった。 [#改ページ] 2
アパートに戻ってきた俺は、山崎に訊いた。 「山崎君、クリエイターつて、どうやったらなれるんだろう?」 「……はぁ? なんですか唐突に?」 「早急に、俺はクリエイターにならなきゃダメなんだ。君、夜々木アニメーション学院の生徒だろう? そこらへん、詳しいんじゃないの?」 「いや、まぁ、それはそうですけど。……しかし、本気ですか?」 「本気だよ。俺は本気だ。何でもいいから、どうやったらクリエイターになれるのか、それを今すぐ教えてくれ。頼む!」 「……電話、切りますよ。僕の部屋に来てください」 わざわざ隣室にいる男に電話をかけてしまうほど、俺の動揺は激しかった。
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『今度合ったときには教えてあげるよ、俺の仕事』 数十分前に、俺は確かにそう言った。堂々と、胸を張って。 今度会うとき──それはおそらく、そう遠くない未来のような気がした。岬ちゃんは、ごくごく近所に暮らしているらしい。偶然街でバッタリ遭遇してしまうこともあるだろう。だからそれまでに、あまりにもバカらしい大嘘を、なんとかして真実に仕立て上げなければならない。俺はクリエイターにならなければならない。 しかし、クリエイターってなんだ? なんなのさ? いつものようにパソコンデスクに腰を下ろしている山崎が言った。 「つまり佐藤さんは、可愛い女の子に見栄を張って、ひどい嘘をついてしまったと。で、慌ててその嘘をごまかそうとしていると。要するに、そーゆーことですか」 顔を赤らめながらも俺はうなずく。 別に軽蔑《けいべつ》してくれてもかまわない。すでに山崎には、俺の正体(中退無職のひきこもり)が知られている。もはやそれ以上に恥ずかしい秘密は存在しない。だから俺を助けてくれ山崎君! 「いやいや、なにも軽蔑したりはしませんよ。ですが……うーん」 山崎は腕を組んで唸《うな》り始めた。俺は床に座って、彼の言葉をしおらしく待った。 しかし──次の言葉はあまりにも意味不明だった。 「そもそもですねぇ。生身の女ごときに、いくら見下されたって、そんなの別にどうって事ないじゃないですか」 「……は?」 「いいですか佐藤さん。女ってのはねぇ、人間じゃないんですよ」 「…………」 「奴らは普通の人間じゃないんですよ。むしろ限りなく人外の化け物に近いと言っても過言ではないですよ。ですから、そんな奴らのために、無駄な努力をしたりする必要はないんです。軽蔑されたって良いじゃないですか。女ごときに」 彼の表情は、いつもと変わらず穏やかだった。 俺は急激に居心地が悪くなってきた。 「あいつらはねぇ、真っ当な人の心を持ってないんです。人の形をしてますが、本当は別の生き物なんです。佐藤さんも、まずはそのことを理解した方が良いですよ」 「や、山崎君……」 「ははは!……いえいえ、まぁ、それは別に大した問題じゃありません。動機がどうであれ、クリエイターになりたいというその決意は、それほど悪いものじゃないでしょう。いいですよ。一緒に考えましょうか」 そうして彼は、パソコンデスクから立ち上がると、俺の目の前に腰を下ろした。その振る舞いには、妙な自信が満ちあふれていた。 やはり四年という歳月は、人の性格を激変させてしまうものらしい。イジメられっ子だった山崎君の精神は、いまやすっかり、ヤバイ感じにねじ曲がっているようだった。 だが──それはこの際、どうでもいい。目の前に立ちはだかる問題を解決してくれるものならば、俺は悪魔にでも頭《こうべ》を垂れよう。 「いやいや、なにも頭を下げたりしなくてもいいですけど。まぁ、とにかく話を始めましょう。──さて、クリエイターと一言で言っても色々ありますが、佐藤さん、あなた一体、何がやりたいんですか?」 「え? だからクリエイター……」 「クリエイターという職業はありませんよ!」山崎は声を荒げた。「小説家とか、漫画家とか、そーゆー職業を総称して、クリエイターって言うんです。つまり作家です。……だから佐藤さんは何が作りたいんですか? 僕はそう訊《き》いてるんです」 「クリエイターつて肩書きがつくんなら、何でもいいよ」 「……ぐっ」 山崎は右拳《みぎこぶし》をきつく握りしめた。 そして気を取り直したのか、今度は「はあ」と大きなため息を吐いた。 「ま、まぁ、良しとしましょう。それじゃあ、佐藤さん、あなた、どんな技術があるんですか?」 「技術、と言うと?」 「絵がうまいとか、作曲できるとか、凄いプログラムが組めるとか、いろいろあるでしょうが」 「……なんにも、できない。しいて言うなら、一年間、誰とも会わなくたって生きていけ──」 「ぜんぜんダメじゃないですかー」山崎は両手を床に叩《たた》きつけた。 「だからダメなんだよ!」俺も怒鳴り返した。しかし山崎は臍を浮かせて、さらに大迫力で畳みかけてきた。 「なんの技術もない奴が、そうそう簡単に作家になんかなれるわけないでしょう! 都合のいいことばっかり言ってちゃダメですよ。いいですか。このまえ佐藤さんは、僕が夜アニに通ってるって聞いたとき、笑ったでしょう? あぁいいんですよ隠さなくても。……ですがね。こと創作に関する話では、明らかに僕の方が佐藤さんより格上です。それを知っててくださいよ」 その長ゼリフには、かなりの威圧感があり、俺は思わず何度もうなずいてしまう。 すると山崎は、ふいにくたんと力を抜いた。 「……いや、クラスのバカどものことを思い出しちゃって、ついつい興奮しちゃいました。あいつらみたいに、口先ばかりの奴が一番腹立つんですよ。……なんにもできないくせに、群れやがって」 どうやら俺は、学園生活に関する彼の葛藤を刺激してしまったらしい。コーヒーなどを飲ませて、落ち着かせてやることにした。 床に散らばったゴミクズの中から、まだ使われていない紙コップを拾い、押入れの中に設置されているポットからお湯を注ぐ。さらにベッドの下などをあさってみると、煎餅《せんべい》の徳用パックなどが出てきた。 俺たちはその煎餅を食いつつ、コーヒーを飲んだ。 一息つくと、山崎は本題に戻った。 「それじゃあ、今度は具体的に考えていきましょう。音楽──は、かなりのセンスと技術を必要とするから、佐藤さんには無理ですね。プログラムは──数学とか苦手でしょう? だから無理。絵──も、無理ですよね。一度佐藤さんが描いた絵を見たことがあります。だからマンガも不可能。ならば──」 山崎はそこでハタと膝《ひざ》を打った。 「佐藤さん、あなた文芸部員だったでしょうが!」 「……だから?」 「小説ですよ小説!」 俺は |