R> 反応は無かった。 ……バ、バカにしやがって。 みんな、みんな、よってたかって俺をバカにして。 くそ。見てろよ。 後悔させてやる。 酒を飲み、もっと酔い、前後不覚になるまで酔っぱらって── 俺は、行くぜ。目にもの見せてやるぜ。 悪いのはそっちだからな。 コタツから立ち上がり、すっ転びそうになりながら玄関のドアを開ける。 隣室の202号室へと千鳥足で歩を進め──呼び鈴を連射。 「ピンポンピンポンピンポン──」 しかし、返事は無い。 ドアを殴ってみた。 それでも返事は無い。室内から聞こえてくるのは、相も変わらぬアニメソングだけ。ファンシーララのテーマソングだ。 「わったっしファンシーララー」 かっと頭に血が上った。 ドアノブを捻《ひね》る。鍵はかかっていない。 どうとでもなれ。 「ぐらぁ!」と叫び、怒りにまかせて室内に足を踏み入れ、「うっせーぞ!」と怒鳴った── その瞬間だった。 「…………」 俺は見た。 部屋の奥に設置されたパソコンデスクに腰をかけ、壁際に設置されたスピーカーに耳を傾けている、ひとりの男。 彼は、唐突な客の到来に気づくと、回転椅子をゆらりと回して振り返った。 彼は──泣いていた。 さめざめと、涙を流していた。 さらに信じがたいことに、俺は、彼が何者なのかを知っていた。 「…………」 絶句してしまった。自分の目を疑った。 彼も涙を拭《ふ》き、「信じられない」という表情を浮かべて、こちらを見た。 身を乗り出し、俺の顔をまじまじと眺めている。 そんなしばしの沈黙の後── 震える声で、彼は言った。 「……さ、佐藤さん?」 間違いない。 山崎だった。 四年ぶりの、あまりに予期せぬ再会だった。 [#改ページ] 2
高校時代、俺は文芸部に所属していた。 と言っても、何も小説などが好きだったわけではない。新入生歓迎会の折りに、ヤケに可愛い先輩に勧誘されたのだ。 『君、文芸部に入ってよ』 俺は思わずうなずいてしまった。そうするより他になかった。なぜならば、一年歳上のその先輩は、文芸部などというオタク臭い部活に加入していたにもかかわらず、ちょっとしたアイドル並みに可愛かったからだ。 そんな適当な動機で部活に入ったものだから、日々の活動はトランプの七並べに終始した。暇を見つけては、狭い部室で先輩と七並べをした。まったく、何をやっていたのだろう。もっと他にやることがあっただろうに。 まぁ、今となっては、そんなことはどうでもいい。過去は過去である。 ともかく、そんなある日の放課後の事なのだった。俺と先輩は、中庭に面した一階の廊下を歩いていたのだ。 先輩が、ふと中庭の隅を指さした。 『……あれ』 『あぁ、イジメですね』 中等部の制服を着た少年が、数人の生徒に囲まれて、お腹をぼこぼこ叩かれていた。 イジメを受けているその少年は、弱々しい微笑みを浮かべていた。 イジメている方も、にこにこ笑っていた。 よくある風景だった。 『ひどいよね』 先輩が言った。彼女はずいぶんと感情移入能力が高い人なので、本当に気の毒そうな顔をしていた。 そのときだった。すごく良いアイデアがひらめいた。 『助けてきましょうか?』 先輩に、俺の格好いいところを見せつけてやる。 『できるの?』 俺はうなずいた。 中等部のガキぐらい、どうってことはないだろう── もちろんそれは、大きな判断ミスだった。 『イジメ、かっこわるい!』と叫んで、イジメ現場に踏み込んで行ったのはいいものの、逆にすっかりやり返《か》されて、さらにイジメグループはそのまま逃走、先輩は呆《あき》れかえった目で俺を見つめ、イジメられっ子はその後一年間、相も変わらずイジメられ続け──と、俺の行動は何ひとつ長い結果を生み出さなかった。 それでもイジメられっ子の山崎君は、何を勘違いしたのか、俺を尊敬してしまったらしい。高等部に進学すると同時に、文芸部に入部してきやがった。 だが、そのときの俺はすでに三年生。先輩も卒業してしまい、すっかりヤル気が無くなっていた俺は、山崎を部長に仕立て上げて、自分は受験勉強に集中した。 そうしてそのまま、俺もあっさり卒業。 卒業式で二、三の会話を交わして以来、山崎とは完全な音信不通だったのだが──
*
六畳一間の真ん中で、山崎は大げさにはしゃいでいた。痩《や》せていて、ロシア人並みに色が白いところは、あの頃とまったく変わっていない。多少は男らしい顔つきになっているかと思えば、やはりそんなこともない。見るからに戦闘力が低そうな、ひ弱な青年である。 「マジですか?本物ですか?」 先ほどまでは目を真っ赤に腫《は》らして泣いていたくせに、今ではもう、すっかり笑顔だ。アニメソングもすでに鳴りやんでいる。 玄関に立ちすくんだまま、俺は訊いた。 「どうしてお前がここに──?」 「佐藤さんこそ」 「俺は……」 このアパートが大学の近くだったから偶然入居しただけだ、と言おうとして、思わず口ごもってしまった。俺の正体(中退無職のひきこもり)を山崎には知られたくない。 すると山崎は俺の葛藤《かっとう》に気がつかないまま、自らの境遇を説明してくれた。 「僕はこの春、専門学校に入学したんです。で、家賃が安くて、通学にも便利なアパートを探したら、たまたまここが気に入って──」 なるほど。やはりまったくの偶然らしい。 「とにかくあがってくださいよ。汚い部屋ですけど」 あまりと言えばあまりな偶然に、かなりのとまどいを感じていた俺を、山崎は明るく促した。 俺は素直に靴を脱ぎ、室内へと足を踏み入れた。 当然の事ながら、間取りは俺の部屋と変わらない。 「…………」 だが──なんだ、これは? 俺は思わず立ちすくんだ。 山崎の部屋には、妙な気配が漂っていた。それは今まで感じたことのない、ごくごく微妙な雰囲気だった。 壁に貼られた奇妙なポスター、巨大な二台のタワー型パソコン、壁際に天井近くまで積みあげられたマンガの山──その他さまざまな家具や装飾が、ある種の困った空気を醸し出しているのだった。 「どうぞ、そこに座ってください」 山崎の声で、ふと我に返る。 その言葉に従い、おぼつかない足取りで部屋の奥へと移動する。 と──いきなり足元で、何かがばきっと音をたてて割れた。俺はびくんと飛び上がった。 「あ、CD──Rのケースです。気にしないでいいですよ」 足元を見ると、マンガやら小説やら、ビデオソフトやらDVDやら、ペットボトルやティッシュの空き箱などのゴミクズやらが、床一面に散乱していた。 「汚い部屋ですけどね」 本当だ。これほどに汚い部屋、初めて見た。 「それにしても、嬉《うれ》しいなぁ。まさか佐藤さんが隣にいたとは」 ベッドの端に腰をかけた山崎は、一歩歩くごとに何かを踏んでしまう俺に構わず、だいぶ遠い目をしてそんなことを言う。 ようやく俺もパソコンデスクに到着した。回転椅子に、腰を下ろす。 酔いは、醒《さ》めていた。完全に、醒めていた。 何を言ったら良いものか分からず、十七インチのディスプレイに目をやる。そこには、俺の知らないアニメ絵の壁紙が貼り付けられていた。 「僕がこのアパートに入ってきてから、もう半月も経ってるのに、お互いに気がつかなかったとは、まったくおかしい話ですね」 ディスプレイの上には、赤いランドセルを背負った少女の人形(ガレージキットという物らしい)が飾られていた。 「これが大都会の隣人無関心ってヤツなんでしょうね」 壁に貼られたポスターには、小学生としか思えない少女の裸体が、やはりアニメ調の絵で描かれていた。俺は目をそらして、パソコンデスクの上を見た。 「どうしたんですか? 佐藤さん。黙っちゃって。……あ、音楽がうるさかったんですよね。今度から気をつけます」 パソコンデスクの上には、何かのゲームのパッケージと思われる、四角い箱が大量に積まれていた。そのパッケージには、「貴」「濡」「虐」「淫」「縛」「学園」「監禁」「陵辱」「鬼畜」「純愛」「調教」「アドベンチャー」などなどといった、普段あまりお目にかからない種類の単語が大量にちりばめられていて、さらにそのうえ、やはりどう見ても小学生としか思えない少女の裸体が、アニメ絵で見事に描かれていた。十八歳未満お断りと書かれたシールも貼られていた。 またもや俺は慌てて視線をそらし、壁際に積まれたマンガの山に目をやった。 「それにしても嬉しいなぁ佐藤さん。まさかもう一度会えるとは。僕、佐藤さんのこと尊敬してたんですよ。知ってました? 知ってましたよね──」 俺はマンガを一冊手にとって、ぱらぱらとめくってみた。 やはりそこには、小学生としか思えない少女の裸体が、そして、「成年コミック」と書かれた黄色いマークが…… 「ところで、僕の通ってる学校、知ってますか? テレビのCMとかで見たことあると思うんですけど──」 俺はマンガを山に戻し、額の汗を拭ってから、訊いた。 「どこの学校に通ってるんだ?」 その問いに、山崎は胸を張って答えた。 俺は思わず天を仰いだ。
*
──数年前のあの頃。俺たちは夢を見ていた。 汚い校舎の、ぼんやりした生活。 美しい少女たち。鬱屈《うっくつ》しながらも笑っていた少年たち。 俺も、皆も、夢を見ていた。 夢のような生活の中で、俺たち若者は、誰しもが素晴らしい未来を思い描いていた。 放課後は部室に入り浸り、先輩とダラダラした時間を過ごす、そんな毎日。 地震が起きたら一発で崩壊しそうなほどに古くさい、そんな粗末なプレハブ小屋で、ピクピクしながらタバコを吸う。 バイトをするでもなく、部活に精を出すわけでもなく、成膚も悪く、ヤル気もない。うだつのあがらない高校生だった俺は、それでもいつも、笑っていたのだ。 ある日のことだった。 ゴミやガラクタが一面に散らばった部室で、俺と先輩は呆けていた。 「佐藤君。君、将来どうするの?」先輩は訊いた。 「まずは適当な大学に行きますよ。……何をやるかは知りませんが、たぶんそのうち、やりたいことが見つかるでしょう」 「ふうん」 先輩は目をそらし、そしてぽつんと呟《つぶや》いた。 「この前のさ、イジメられっ子救出大作戦。バ力みたいだったけど、ちょっとかっこよかったよ。……だから大丈夫だよ。佐藤君なら大丈夫だよ」 俺は、照れる。 ──そして暗が経ち、先輩は卒業。 やはり汚い部室には、数学の参考書を睨《にら》む俺と、山崎がいた。 山崎が言う。 「佐藤さんも、今年で卒業ですね」 「そうだな。……これからはお前が部長だ、頑張れよ」 「寂しくなりますね。みんな大きくなりますね」 「若いうちからそんなこと言うなよ。──そうだ。吸うか?」 俺はポケットからタバコを取りだして、山崎に差し出した。 山崎はそれを受け取り、恐るおそる火をつけた。 盛大に咳《せ》き込んだ。 涙目になりながら、山崎は言った。 「うまくいくといいですね」 「なにがだよ?」 「いろいろなことがですよ。今みたいに、気楽な毎日が続けばいいですよ。……だから佐藤さんは、頑張ってくださいよ。どこに行っても、頑張ってくださいよ。僕も頑張ります。元気にいきますよ。なんとかなりますよ」 不安と希望が、共にあった。 夕日の射し込むボロ部室で、俺たちはぼんやり笑っていた。
──そうして俺は、大学に進学。 しかし、中退。 先の見えない生活に脅《おび》え、ワケの分からない不安にビビリ、見通しの利かない、うだつの上がらない、笑ってしまうほどにバカげた生活が延々延々と続いて続いた。 四方は姿の見えない恐怖に取り囲まれていた。 だから俺は閉じこもり、そして眠った。ぐうぐうぐうぐうと、眠り疲れるまで眠っていた。春が過ぎ、夏が去り、秋になって、冬が来た。 そして何度目かの、優しい、春。 未来に続く、時間はしかし、ばったりきっぱり閉鎖されていて、俺はまったく途方に暮れた。 夜風は涼しく、気持ち長く、それでも俺は、眠り続けた。 そんなある日に、俺たちは再会した。 俺と山崎は、もう一度出会った。 貧弱なイジメられっ子。それでもずいぶん良いヤツだった、山崎。 ──あの頃の俺たちは、同じ街の空気を吸っていた。 具体的な未来が何ひとつ見えなくても、それでも上を向いていた。 今でも俺は、はっきりと思い出せる。あの、懐かしい部室。狭い窓から射し込む夕日。 たわいのない、会話。 「俺たち、どうなるんだろうな」 「きっと、なるようになりますよ」 「……だといいな」 それは心地の良い、優しい放課後だった。
*
だけど俺たちは若かったしバカだった。くだらなかったし、どうしようもなかったし、たった四年後の未来さえも予想できなかった。 数年ぶりに山崎と再会した俺は、彼に訊いた。 「どこの学校に通ってるんだ?」 その問いに対し、山崎は胸を張って答えた。 「夜々木アニメーション学院です」 「…………」 人生って、とても不思議だ。 「そんな先輩は、今、なにをやってるんですか?」 「……中退、したよ」 「…………」 山崎は、顔をそらした。 気まずい沈黙が流れた。 俺は無理矢理、陽気な声を出した。 「そう言えばお前、どうして泣いてたんだ?」 「……最近、学校に行ってないんです。やっぱり、周りにとけ込めなくて。友達もいないし、一人暮らしは初めてだし──それでヤケになって、思いっきりでかい音でCDを──」 「もしかしてお前──最近ずっと、ひきこもってたのか?」 「……そ、そうです」 俺は椅子から立ち上がり、「ちょっと待ってろ」と言い残して、自室に戻った。 両手に缶ビールを抱え、もう一度山崎の部屋に入る。 「飲もう」 「……は?」 「いいから、飲もう」 俺は缶ビールを山崎に手渡した。 「大丈夫だ。いつか、かならず、ひきこもりから抜け出せる日が来る」 自らの願望を、大声で口に出す。 「大丈夫だ山崎君。俺はひきこもりに関してはプロフェッショナルなんだ。俺がついている限り、これ以上事態は悪化しない!」 そうして俺たちは、酒を飲んだ。大音量でアニメソングをかけ、意識が飛ぶまで酔っぱらった。 その宴は深夜遅くまで続いた。 アニメソングのCDが終わると、俺たちは歌を歌った。ずいぶんと酔っぱらっていたので、もしかしたらそれは、夢の中での絶唱だったのかもしれない。 だが、夢なら夢で、それでいい。 ともかく俺は、元気に歌った。
ひきこもりの歌
作詞作曲佐藤達広
凍てつゞく六畳一間 たゞひといろにアパートは 絶えると見えて脱出遠く 起き伏すベッドに一日十六時間 あのコタツの陰あのあたり ゴキブリの何ぞ隠れたる
飯を食べれば一日一食 体重ますます減り痩せる コンビニしばし向かえども 他人の視線に脅えれば 冷たい汗さえわきいでて 脱出の困苦おもふべし
妄想にも似たるNHKを 求めて得ざるむなしさに けふも日暮れてとぼとぼと 湿ったベッドに横たわる 疲れて重き脳味噌《のうみそ》の あぁ もうダメだ もうダメだ!
*
エロマンガを枕にして床に寝ていた俺は、ひどい頭痛に目が覚めた。 山崎は、パソコンデスクの下に俯《うつぶ》せになって眠っていた。 「学校は?」 肩を揺すってやった。 「……休みます」 それだけを答えると、山崎はもう一度目を閉じた。 俺は自室に戻り、ベッドに横になった。 バファリンを飲み、再び寝た。 [#改ページ] 四章 造物主への道
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出口はすべて塞がれていた。希望が見えなかった。どうしようもなかった。『世界を牛耳る悪の組織、NHK』などといったバカらしい空想によって、気分を紛らわせていられるだけの精神的余裕すら、もはや完全に消え失せていた。 鬱鬱鬱鬱と思い悩む春だった。唐突にビンセント?ギャロのモノマネがしたくなる春だった。 トイレに入り、頭を抱え、呻く。 「もう、生きていけない」 バッファロー66である。 ……死んでしまえ、俺。
だがそれでも── 今日はなぜだか、いつもと違った。 だいぶびっくりすることがあった。 昼の一時に目を覚ました俺は、新聞受けに、見慣れぬ紙切れが挟まっていることに気がついたのだ。 手にとって、眺める。 それは数日前の、マンガ喫茶でバイトをするために書いた履歴書だった。思い出したくない記憶ナンバーワンの、例の一件、あのときに書かれた履歴書なのだった。 ──なぜ? なぜ、あの履歴書が新聞受けに? 俺は早足で、山崎が住む隣室へと赴いた。 山崎は、今日も学校を休んでいた。パソコンに向かい、何かのゲームをやっていた。 俺は訊いた。 「今日、宗教の勧誘が来なかった?」 「えーと、二時間ぐらい前に来ましたよ。ほら、例の冊子も貰《もら》いました。この直訳調の文体が最高ですよね。あれ? 佐藤さんのところには来なかったんですか?」 山崎のその証言によって、俺は恐ろしい事実に気がついた。 どうやら俺は、マンガ喫茶に履歴書を置き忘れてきてしまったらしい。 ポケットから落ちたのか、無意識のうちに、岬ちゃんに差し出していたのか、それはいまいち思い出せない。あまりの動揺によって、あのときの記憶は激しく混乱している。 だが──これだけは確かだった。 岬ちゃんが宗教勧誘のついでに、わざわざ履歴書を持ってきてくれたのだ。つまり『バイクとか、好き?』などと阿呆《あほう》なセリフを吐いて、バイトの面接にやって来たことをムリヤリ誤魔化《ごまか》そうとした俺の試みは、完全に失敗していたのだ。 その事実に気づいた俺は、もう、何もかもがどうでもよくなった。人間、あまりに恥ずかしい出来事に遭遇すると、感情が麻痺《まひ》してしまうものらしい。 俺は「……どうでもいいや」と呟いて、その履歴書をゴミ箱に捨てようとした。 だがそのとき、履歴書の裏が目に入った。そこには何かのメッセージが、黒いボールペンで書き込まれていた。
あなたは私の『プロジェクト』に大|抜擢《ばってき》されました。ですので、今夜九時に、三田四丁目公園に来てください。
「……はぁ?」 俺はゴミ箱の手前で腰をかがめたまま、ぽかんと口を開けてしまった。
*
冷静に考えてみると、これは驚天動地の事態なのだった。二度会っただけの女から、謎の手紙がやって来る。それはあまりに不可解で、なにがなにやらワケがわからない。 しかしなぜだか従順に、俺はそのメッセージに従ってしまった。 アパートから歩いて二分の所に、指定された公園が存在する。 すでに時刻は夜だった。 等間隔で生い茂る街路樹を、古びたジャングルジムを、ペンキの剥《は》げ落ちたペンチを──ブランコの手前に屹立《きつりつ》した街灯が蒼《あお》くうっすらと照らしている。 俺は、この公園が好きだった。 一週間に一度、深夜にコンビニへ食料の買い出しに行く途中、俺は必ずこの公園に寄る。誰もいない公園。それは俺だけの空間だ。 涼しい夜風。ベンチに腰を下ろして空を見上げれば、かすかに揺れる木々の枝と、その隙間から覗《のぞ》ける月、そして星。 開放感と、安らぎが、そこには共に存在した。 それなのに──今夜の公園は、俺だけの空間ではなかった。 他人がいた。 俺は、こちらから声をかけることをしなかった。 事実、ある程度まで腹が立っていた。 ──なんのつもりなのか? 何を考えているのか? おまえは何者なのか? それらさまざまな疑問と共に、ある種の怒りが存在したのだ。 しかし、なぜか頭は冴《さ》えていた。落ち着いてもいた。思考は冷静な回転を続けていて、決して空回りすることがなかった。 それはある種の諦観《ていかん》であったのかもしれない。すでに俺は、現状のすべてを受け入れていたのかもしれない。自らがひきこもりであることを、未来のない人種であることを、死ぬべき存在であることを──俺はそれらを穏やかに認めていたのだろう。そうに違いない。 実際、最近の俺は、昔の時間を生きていた。昔の夢を、毎晩見ていた。 懐かしいふるさと、友、家族。嫌なこと、嬉しいこと、さまざまな思い出、そのフラグメント──夜に見る夢は優しく切ない。 そうなのだ。いまや未来は問題ではなかった。未来はすでに決定していた。だからこそ過去を、素敵な思い出を── それはまったく、あまりに後ろ向きな逃避であったが、もはや何事も、どうでもいい。 あぁ、そうさ。俺はひきこもりさ。精神虚弱のダメ人間だ。しかしそれでもいいじゃないか。 放って置いてくれ。俺は静かに消えていく。もう結構! もうダメだ! 「ダメだダメだダメだ──」 「何がダメなのさ?」 ベンチに腰を下ろして頭を抱えていた俺に、女が訊いた。 彼女はベンチの脇のブランコに揺られていた。肩の辺りまで伸びた髪が、さらさらとなびいていた。やはり今夜も、そこらの若者的な、ごくごく普通の格好をしていた。当然、日傘なんかを差しているわけもなく、宗教の気配は窺《うかが》えない。 しかし──それでも油断は禁物だ。なにより、このシチュエーションの異常さ自体が、彼女のおかしさを如実に物語っている。あくまでも慎重に、冷静な対応をせねばならない。 そこで俺は、彼女のことを、ホンダが開発した二足歩行ロボットであると思いこむことにした。 そうすることによって、かなりの精神安定が得られる。 ……あぁ。最近のロボットは、さすがに進んでいるなぁ。どこから見ても、まるっきり人間だ。 ぎこぎことブランコを小さく揺らしながら、ロボットが言う。 「どうしてこの前、逃げたの? 今、人が足りなくて困ってるのに。即決だよ」 すごいなぁ。音声出力も完璧《かんぺき》だ。関節の動きも滑らかだ。スカートから伸びた足も、実にしなやかだ。日本の技術は世界一だなぁ。 「やっぱり、ひきこもりだから、外で働くの、途中で怖くなった?」 「…………」 だいぶカチンと来たが、所詮《しょせん》、ロボットの言うことである。機械に何を言われても、それほど腹は立たない。 が、さらにロボットは謎めいた言葉を口にした。 「大丈夫だよ。あたし、ひきこもりの脱出方法、知ってるから」 「……なんだそれ?」 俺はついつい反応してしまう。 「佐藤君、だよね。……君、やっぱりひきこもりなんでしょ?」 俺はその間いに答えるかわりに、公園の入り口に立てられた看板を指さした。その看板には『チカンに注意!若い女性の被害が相次いでいます』との警告文が、赤いペンキで毒々しく書かれていた。 「俺みたいなあやしげな人間を、こんな時間に呼びだして大丈夫なのか? 危険だぜ」 「大丈夫。あたしの家、すぐそこだから。……あたし、いろいろ知ってるんだよ。君、日曜の夜には、いつもこの公園でぼんやりしてるよね。窓から見えたよ」 「…………」 ここに至って、俺はようやく、かなり不安になってきた。 意図がつかめない。彼女の正体も依然として謎だ。すべてが普通じゃない。 ……もしかして、これは遠回しな宗教勧誘なのではないだろうか? 「違うよ。だってあたし、和子《かずこ》オバサンにつきあってるだけだから」 「はぁ?」 「ずっとオバサンに迷惑かけてるから、せめてもの恩返し」 さっぱり話が見えないが、互いに正面の街灯を見つめたままの心許《こころもと》ない会話は、さらに続く。 「……とにかく、そんなことはどうでもいいからさ。佐藤君、知りたくないの? ひきこもり脱出方法」 「佐藤君とか呼ぶな。俺の方が年上──」 「あたしの歳、知ってるの?」 「……見たところ、十七、八」 「大正解──」 彼女はブランコから勢いをつけて、ぴょんと飛び降りた。その元気な振る舞いは、しかし、なぜだか不思議にわざとらしく見えた。気のせいかもしれないが。 そうして彼女はベンチに座る俺の目の前まで来ると、真正面からこっちを見た。 「だからね、脱出方法、知りたいでしょう? 教えてあげるよ」 膝に手を当てて中腰になり、そんなことを言う。 やはりこの前と同じように、無駄に可愛い笑顔を浮かべていて、彼女をアシモの後継機と見なすのは、もはや不可能だった。 俺は顔をそらして、呟く。 「……俺はひきこもりじゃない」 「嘘。この前、オバサンに勧誘されたとき、自分から思いっきりバラしたクセに。あたしに気づくと、逃げたクセに。普通の人間は、そんなことしないよ」 「な──」 俺の言葉は、しかし遮られる。 「怖いんでしょう? 他の人が」 顔を上げると、目があった。黒目がちの大きな瞳《ひとみ》をしていた。 その目を見つめたまま、俺は何を言うべきか、しばらくのあいだ迷ってしまう。 しかし── 「…………」 結局、何も言わずに、もう一度顔をそらした。 ふと気づくと、いつのまにやら風が出ていた。頭上では、木々の枝がざわめいていた。 肌寒い夜だった。 俺はアパートに帰ることにした。ベンチから立ち上がり、背を向けた。 背後の彼女が呼び止めた。 「待ってよ! きっと後悔するよ」 「何がだよ。そもそもあんた、何者だ?」 「ひきこもりのダメ人間を救済する、親切な娘です」 「手紙に書いてあった『プロジェクト』ってのは、なんなんだ?」 「計画の内容は、現時点では極秘です。でも、悪いようにはしないので、安心してください」 「…………」 具合が悪くなってきたので、適当な大嘘をついて、ともかく逃げ去ることにする。 「俺はねぇ、そもそも普通のひきこもりじゃないの。確かにひきこもってはいるけど、それは仕事柄、仕方がないの」 「仕事って、何さ?」 「……そ、SOHO?」 「何それ?」 「在宅で仕事する人間のこと。だから俺、ソーホーなの。アパート──つまりホームオフィスで仕事をしているだけであって、決して単なる無職じゃないの。確かにひきこもってはいるけど、それは職業柄、仕方がないんだ! マンガ喫茶でバイトしようとか思ったのは、たんなる気の迷いで──」 「へぇ、そうなんだ。じゃあ、どんな仕事してるの?」 「き、聞いて驚くなよ。……く、クリエイターだ!」 横文字職業で驚いてくれ! 「クリエイティブな仕事をしてるから、ちょっと精神的におかしく見えるけど、むしろそれこそが、俺の素晴らしい才能を物語ってるんだ! ただの穀潰《ごくつぶ》しの無職とかじゃないぞ!」 しかし岬ちゃんは、ニヤニヤ笑って、こう言った。 「じゃ、何を作ってるの?」 「それは──こう、なんというか、最先端の、IT革命的な、一言じゃ言えない……」 「今の仕事、出来上がったら教えてよ」 「そ、それはダメだ。守秘義務があるからな。それに、この企画にはかなりの金が動いてる。そうそう簡単にバラすわけには……」 と、自らのセリフのあまりのバカらしさに、思わず死にたくなってしまった頃──岬ちゃんはくるりと背を向けた。 「……もったいないなぁ。せっかくあたしが、脱出方法、教えてあげようと思ったのにさ」 それは本気で残念そうな── 「こんなチャンス、二度と無いのにさ」 低い、ささやきだった。 横顔の輪郭だけが、街灯の逆光にうっすらと浮かびあがっている。 ちょっと、いや、だいぶドキドキしてきた。 そうしてついに、俺の悪い癖が噴出する。 「お、俺の言うことを疑ってるみたいだけどね、実際俺、凄《すご》いクリエイターなんだぜ。君みたいな小娘は知らないだろうけど、業界じゃ、ちょっとは顔が知られてる。……そうそう、今度会ったときには教えてあげるよ、俺の仕事。かなりビックリするぜ! 尊敬するぜ!」 ……今度会うときって、なんだよ? 俺の仕事ってなんだよ? どうして俺は、必ずバレる嘘を、こうも堂々と披露してしまうのか? 無職のひきこもりだよって、正直に言えばいいじゃないか! 変なところで妙なプライドを発揮するなよなぁ! ……あぁ。 もういい。 いいから逃げよう。これ以上どうしようもない大嘘をつく前に、さっさと逃げよう。 「じゃ、じゃあ、それじゃあね!」 俺はぎくしゃくとした足取りで、公園の出口を目指した。背後で彼女が何かを呟いたような気がしたが、聞き取れなかった。 [#改ページ] 2
アパートに戻ってきた俺は、山崎に訊いた。 「山崎君、クリエイターつて、どうやったらなれるんだろう?」 「……はぁ? なんですか唐突に?」 「早急に、俺はクリエイターにならなきゃダメなんだ。君、夜々木アニメーション学院の生徒だろう? そこらへん、詳しいんじゃないの?」 「いや、まぁ、それはそうですけど。……しかし、本気ですか?」 「本気だよ。俺は本気だ。何でもいいから、どうやったらクリエイターになれるのか、それを今すぐ教えてくれ。頼む!」 「……電話、切りますよ。僕の部屋に来てください」 わざわざ隣室にいる男に電話をかけてしまうほど、俺の動揺は激しかった。
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『今度合ったときには教えてあげるよ、俺の仕事』 数十分前に、俺は確かにそう言った。堂々と、胸を張って。 今度会うとき──それはおそらく、そう遠くない未来のような気がした。岬ちゃんは、ごくごく近所に暮らしているらしい。偶然街でバッタリ遭遇してしまうこともあるだろう。だからそれまでに、あまりにもバカらしい大嘘を、なんとかして真実に仕立て上げなければならない。俺はクリエイターにならなければならない。 しかし、クリエイターってなんだ? なんなのさ? いつものようにパソコンデスクに腰を下ろしている山崎が言った。 「つまり佐藤さんは、可愛い女の子に見栄を張って、ひどい嘘をついてしまったと。で、慌ててその嘘をごまかそうとしていると。要するに、そーゆーことですか」 顔を赤らめながらも俺はうなずく。 別に軽蔑《けいべつ》してくれてもかまわない。すでに山崎には、俺の正体(中退無職のひきこもり)が知られている。もはやそれ以上に恥ずかしい秘密は存在しない。だから俺を助けてくれ山崎君! 「いやいや、なにも軽蔑したりはしませんよ。ですが……うーん」 山崎は腕を組んで唸《うな》り始めた。俺は床に座って、彼の言葉をしおらしく待った。 しかし──次の言葉はあまりにも意味不明だった。 「そもそもですねぇ。生身の女ごときに、いくら見下されたって、そんなの別にどうって事ないじゃないですか」 「……は?」 「いいですか佐藤さん。女ってのはねぇ、人間じゃないんですよ」 「…………」 「奴らは普通の人間じゃないんですよ。むしろ限りなく人外の化け物に近いと言っても過言ではないですよ。ですから、そんな奴らのために、無駄な努力をしたりする必要はないんです。軽蔑されたって良いじゃないですか。女ごときに」 彼の表情は、いつもと変わらず穏やかだった。 俺は急激に居心地が悪くなってきた。 「あいつらはねぇ、真っ当な人の心を持ってないんです。人の形をしてますが、本当は別の生き物なんです。佐藤さんも、まずはそのことを理解した方が良いですよ」 「や、山崎君……」 「ははは!……いえいえ、まぁ、それは別に大した問題じゃありません。動機がどうであれ、クリエイターになりたいというその決意は、それほど悪いものじゃないでしょう。いいですよ。一緒に考えましょうか」 そうして彼は、パソコンデスクから立ち上がると、俺の目の前に腰を下ろした。その振る舞いには、妙な自信が満ちあふれていた。 やはり四年という歳月は、人の性格を激変させてしまうものらしい。イジメられっ子だった山崎君の精神は、いまやすっかり、ヤバイ感じにねじ曲がっているようだった。 だが──それはこの際、どうでもいい。目の前に立ちはだかる問題を解決してくれるものならば、俺は悪魔にでも頭《こうべ》を垂れよう。 「いやいや、なにも頭を下げたりしなくてもいいですけど。まぁ、とにかく話を始めましょう。──さて、クリエイターと一言で言っても色々ありますが、佐藤さん、あなた一体、何がやりたいんですか?」 「え? だからクリエイター……」 「クリエイターという職業はありませんよ!」山崎は声を荒げた。「小説家とか、漫画家とか、そーゆー職業を総称して、クリエイターって言うんです。つまり作家です。……だから佐藤さんは何が作りたいんですか? 僕はそう訊《き》いてるんです」 「クリエイターつて肩書きがつくんなら、何でもいいよ」 「……ぐっ」 山崎は右拳《みぎこぶし》をきつく握りしめた。 そして気を取り直したのか、今度は「はあ」と大きなため息を吐いた。 「ま、まぁ、良しとしましょう。それじゃあ、佐藤さん、あなた、どんな技術があるんですか?」 「技術、と言うと?」 「絵がうまいとか、作曲できるとか、凄いプログラムが組めるとか、いろいろあるでしょうが」 「……なんにも、できない。しいて言うなら、一年間、誰とも会わなくたって生きていけ──」 「ぜんぜんダメじゃないですかー」山崎は両手を床に叩《たた》きつけた。 「だからダメなんだよ!」俺も怒鳴り返した。しかし山崎は臍を浮かせて、さらに大迫力で畳みかけてきた。 「なんの技術もない奴が、そうそう簡単に作家になんかなれるわけないでしょう! 都合のいいことばっかり言ってちゃダメですよ。いいですか。このまえ佐藤さんは、僕が夜アニに通ってるって聞いたとき、笑ったでしょう? あぁいいんですよ隠さなくても。……ですがね。こと創作に関する話では、明らかに僕の方が佐藤さんより格上です。それを知っててくださいよ」 その長ゼリフには、かなりの威圧感があり、俺は思わず何度もうなずいてしまう。 すると山崎は、ふいにくたんと力を抜いた。 「……いや、クラスのバカどものことを思い出しちゃって、ついつい興奮しちゃいました。あいつらみたいに、口先ばかりの奴が一番腹立つんですよ。……なんにもできないくせに、群れやがって」 どうやら俺は、学園生活に関する彼の葛藤を刺激してしまったらしい。コーヒーなどを飲ませて、落ち着かせてやることにした。 床に散らばったゴミクズの中から、まだ使われていない紙コップを拾い、押入れの中に設置されているポットからお湯を注ぐ。さらにベッドの下などをあさってみると、煎餅《せんべい》の徳用パックなどが出てきた。 俺たちはその煎餅を食いつつ、コーヒーを飲んだ。 一息つくと、山崎は本題に戻った。 「それじゃあ、今度は具体的に考えていきましょう。音楽──は、かなりのセンスと技術を必要とするから、佐藤さんには無理ですね。プログラムは──数学とか苦手でしょう? だから無理。絵──も、無理ですよね。一度佐藤さんが描いた絵を見たことがあります。だからマンガも不可能。ならば──」 山崎はそこでハタと膝《ひざ》を打った。 「佐藤さん、あなた文芸部員だったでしょうが!」 「……だから?」 「小説ですよ小説!」 俺は顔をしかめた。 「やだよそんなの。俺、中学生の頃に作文書かされたっきり、長い文章なんて書いたことないよ。そもそも小説なんて、地味でダメ──」 またもや山崎は俺を睨んだ。鼻息が荒かった。小声で「……いいかげんにしろよな」と呟いていた。 俺は軽い恐怖を感じたので、話題を変えることにした。 「──と、ところで山崎君、君、学校ではどんなことをやってんの? やっぱりアニメ? セル画に色を塗ったりとか?」 山崎は首を横に振った。 「夜アニって言っても、いろいろな学部があるんですよ。僕が通っているのは、ゲームクリエイター学部です」 ──ゲームクリエイター? その単語を聞いた瞬間、俺は思わず興奮した。 ゲームクリエイター、その響き。それはいかにも最先端だった。現代の花形職業だ。小学生があこが憧《あこが》れる職業、そのナンバーワンだ。 脳裏に浮かぶイメージ、それはランボルギーニカウンタックを乗り回す業界人。銀座の高級クラブで接待されて、ヘッドハンティングで札束が飛び交い、発売された超人気ソフトには長蛇の列が。そして悪い高校生が、品薄のソフトを小学生からひったくり、六時のニュースで取り上げられて、だけどそれでも、ゲームクリエイターは大金持ちだ。 高給取りだぜ、年収一億だぜ、格好いいぜ! 最高だ! 俺はコーヒーの残りを一息に飲み干すと、山崎の手を取った。 「俺と一緒にゲームクリエイターを目指そう!」
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すでに時刻は午後十一時を回っていた。山崎は十杯目のインスタントコーヒーを啜《すす》っていた。 俺は腹が減ったので、インスタントラーメンを作った。山崎は怒った。 「勝手に人の食料、減らさないでくださいよなぁ!」 俺は頭を下げつつ、ラーメンに胡椒《こしょう》を振りかけた。 ラーメンを啜っていると、山崎は訥々《とつとつ》と語り始めてくれた。 「ゲーム作りってのは、素人には不可能です」 「そこをなんとか」 「現代のゲームってのは、総合芸術です。さまざまな専門技術が組合わさって、初めてまともなゲームが完成します。佐藤さんなんかは、お呼びじゃありません」 ちょっと見ないうちに、ずいぶん生意気な口を利くようになったなぁ──などと絡んでやろうかとも思ったが、よくよく思い出してみれば、こいつは昔から生意気だった。 そうなのだった。この男は、ひ弱なクセに、誰にでも言いたいことを言う男なのだった。 『お前たちはバカだ!』とか『あっち行け』とか、クラスメートにも堂々とそんなことを言う。だからこいつはイジメられていた。まったくの自業自得だ。 俺にだけは丁寧な口を利くが、無職中退のひきこもりという俺の正体を知ってしまった今現在、面と向かって「ダメ人間!」とバカにしてくるのも、もはや時間の問題だろう。 ──が、そんなことはどうでもいい。ともかく俺は、なんとしてもゲームクリエイターにならなければいけない。業界人にならなければいけない。だから頼むぜ山崎君。 「頼まれても困るんですってば。いくら佐藤さんの頼みでも、世の中にはどうにもならないことだってあるんですよ」 「そこをなんとかー」 「大体ねぇ、女の子に尊敬されたいとか、そーゆーバカげた動機で始める物事が、そうそう長続きするワケがないんですよ。すぐにヤル気が無くなるに決まってるんです」 「そんなことはないぞ! 俺は本気だ! 燃えている!」 「……明日は学校なんですよ。僕、もう眠いんですけど」 「岬ちゃんに尊敬されたいだけじゃないんだ! もしもゲームクリエイターになれたのならば、ひきこもりからも脱出できるじゃないか!」 「無理ですよ」 「無理じゃない!」 「ダメですよ」 「ダメじゃない──」 俺の懇願は、その後一時間ほども延々と続いた。 なだめ、すかし、怒鳴り、「お前が学校に行ってる間に放送されてるアニメ、俺が録画しておいてやるから。CMカットもしてやるから」とご機嫌を取ったところで──ついに山崎は譲歩した。 「……佐藤さん。本気なんですね」 それは真面目な声だった。 「あ、ああ。俺は本気だ。マジメだぜ」 「それならば──たったひとつだけ、佐藤さんでもゲームクリエイターになれる方法があります。ですが──」 「ですが?」 「それはおそらく血塗られた道です。どこまでも険しく苦しい、誰もが逃げ出したくなる、そんな方法です。ましてや佐藤さんのような一般人では──」 山崎の顔はどこまでもどこまでも深刻で、俺は思わず、ごくりと喉《のど》を鳴らしてしまう。 だが──もはや決意は固まっている。 俺はやる。 「……どんなことでも俺はやる」 「それは本当ですか?」 俺はうなずく。 「絶対ですね? 途中で『やーめた!』ってのは、ナシですよ」 もう一度、俺は大きくうなずいてみせる。 山崎は十一杯目のコーヒーを入れた。俺は一気に二杯目のラーメンを啜りこんだ。 「……わかりましたよ佐藤さん。ならば話しましょう。僕の目論見《もくろみ》を話して聞かせましょう」 山崎は身を乗り出して、低い声でささやいた。 「いいですか? 現在のゲームは、あまりにも大規模です。大量のデータと緻密《ちみつ》なプログラムが必要で、僕たち素人には絶対に手が出せません。せいぜい、一昔前のファミコンゲーム程度を作るのがやっとです。それでは到底、ゲームクリエイターを名乗ることなどできません」 「だったら──」 口を挟もうとする俺を、山崎は素早く遮った。 「いいから聞いてください。……方法は、あるんですよ。予算もない、仲間もいない、極々限られたリソースしかない──そういった貧しい状況でも、だけど、方法はあるんです。ろくなプログラムが組めなくても、ヘボい音楽しか用意できなくても、五十枚程度のCGと、小説一本分ぐらいのシナリオさえあれば、ただそれだけでオッケーな、そんなゲームのジャンルが存在するんです!」 山崎の声には、いまや紛れもない情熱が込められていた。 「そ、そのジャンルとは?」俺の声もうわずっている。 「プログラムは、フリーのゲーム用インタプリタを借用すればオッケーです。音楽もフリー素材のCDから適当に抜きましょう。そしてCGは僕が書きます。佐藤さんはシナリオです」 ──シナリオ? あぁ、どうせ、『悪者に攫《さら》われたお姫様を主人公が助けに行く』って感じのお話を、適当にこさえればいいんだろう? 「ああ、ゲームのシナリオぐらい、いくらでも書いてやるよ!……だから、そのゲームのジャンルは?」 「やってくれますか佐藤さん!」山崎は俺の肩を叩いた。 「よし、やろう山崎君。俺たち二人でゲームを作ろう! だからゲームのジャンルは?」 「CGとシナリオさえ良ければ、がつんと有名になれますよ。ゆくゆくはプロだって目じゃありません。同人で一儲《ひともう》けしたら、会社だって作れます」 「おお、会社! それは凄いな山崎君。君が社長だ。俺は副社長だ!……だからゲームのジャンルは?」 「やるんですよね? 佐藤さん」 「……あぁ、やるよ」 「ここまできたら、後戻りはできませんよ」 「しつこいなぁ」 「それじゃあ、握手です。明日に向かって、僕たちは駆け抜けましょう!」 山崎は俺の手を取り、固く握りしめた。 「僕たちは、同志です」 「だから、ゲームのジャンルは?」 「僕たちは、仲間です!」 「ゲームのジャンルは?」 「僕たちはクリエイターです!」 「……だから、ゲームのジャンルはなんなんだよ?」 何度目かのその問いに対し、ついに山崎は胸を張って答えた。 「エロゲーです!」 ……誰か、助けてくれ。
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ふらつく足取りで自室に戻ろうとする俺を、山崎が引き留めた。 「これが資料です。早いところ、目を通しておいてください。これだけの数のゲームをプレイすれば、業界の傾向が理解できるでしょう」 彼はそう言って、ゲームのパッケージを三十本はど俺に手渡した。 そのパッケージには、「責」「濡」「虐」「淫」「縛」「学園」「監禁」「陵辱」「鬼畜」「純愛」「調教」「アドベンチャー」などなどといった、普段あまりお目にかからない種類の単語が大量にちりばめられていた。 俺は泣きたくなった。しかし山崎は笑っていた。 「十八歳未満購入禁止のゲームですよ。エロいゲームですよ。つまりそれこそエロゲーですよ。エロゲーこそが、僕たちに残された唯一の道なんです。エロゲーでクリエイターになりましょう。エロゲーでクラスの奴らを見返してやりましょう。エロゲーで億万長者になりましょう。エロゲーで世界に羽ばたきましょう。エロゲーでハリウッドに進出しましょう。エロゲーで文化勲章をもらいましょう。エロゲーでノーベル──」 その笑顔はどこまでもどこまでも晴れ晴れとしていて、「やーめた!」と言って逃げ出せるだけの雰囲気は、もはやどこにも残されていなかった。 [#改ページ] 五章 二十一世紀のハンバート?ハンバート
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たとえば蛍。蛍の美しさを思い描いてみてください。 一週間足らずの短い命、その儚《はかな》さを、その美しさを、今こそ僕たちは思い起こしてみるべきです。 蛍の雌は、雄と交尾をするためだけに輝き、雄は雌と交尾をするためだけに瞬きます。しかし、交尾を終えると彼らは死ぬ。つまり「子孫を残す」という本能、ただそれこそが、最高にして唯一の、蛍の生涯目標なのです。 その単純な本能と、単純な世界には、いかなる種類の哀しみさえも、決して介在することがありません。 だからこそ蛍は儚く、そして美しい。 あぁ! 蛍、最高! ……ですが一方、今度は僕たち人類を振り返ってみてください。そうすれば、そこに広がっているのは、あまりにも複雑な社会です。
人間は本能の壊れた動物である。 ──確か、フロイトの言葉でしたか。 生活の中の様々な悩み、怒り、哀しみに接するとき、僕はこの言葉を思い出さずにはいられません。 本能の壊れた動物である人間は、「恋」や「愛」という近代的概念によって、自らの本能を綺麗《きれい》に覆ってしまいました。だけど当然、そこには欺瞞《ぎまん》があります。その欺瞞を覆い隠すために、さらに人類は新たな概念を生み出します。だから世界は日を追うごとに複雑になっていくんです。しかしその複雑さは、壊れてしまった本能が生み出す様々な矛盾を、完全に隠しきってはくれません。 そして生み出されるのは、絶望的な二項対立です。 言葉と本能。 思考と肉体。 理性と性欲。 これらの対立概念は、互いの尻尾《しっぽ》に食らいついている二匹の蛇のようなものです。二匹の蛇は、自らの優位を確立するために、つねに激しい闘争を繰り広げています。ですから蛇は、ぐるぐる回ります。ぐるぐるぐるぐる回り回って、ますます僕たちは苦しみます。 わかりますか? 僕の言ってること、理解できてますか? え? 全然意味がわからない? なら、別にそれでもいいですよ。 ともかくですね、僕の言いたいことは── 「うっせえよ! 死ね!」 俺は枕を山崎に投げつけた。コタツの上に腰を下ろしている山崎は、上体を反らしてひらりと枕をかわし、さらにぶつぶつ演説を続けた。 「──壊れた本能によって、僕たちは苦しんでいる。理性によってねじ曲げられた本能によって、僕らはひたすら苦しんでいる。ならば僕たちはどうするべきか? 知恵を放棄する? 理性を捨てる? しかしそれは不可能です。善かれ悪しかれ、遥《はる》か昔に僕たちは知恵の実を食ってしまいました。このまえ宗教勧誘のオバサンから貰った『目を覚ませよ!』に、そう書いてありました」 「だからなんだよ! 深夜二時に俺を叩き起こしたかと思えば、人の部屋で酒を飲みながら意味不明な演説しやがって、お前は一体なにを考えー」 「対立する理性と本能、しかしそのどちらをも、消し去ることは叶《かな》いません。ならば僕たちはどうするべきなのか?──適当なところで妥協して、女とつきあってみたりする? 結婚して子供を作ってみたりする? えぇ、確かにそれが普通のやり方です。しかしですね。僕は知ってるんですよ。女ってのは、アレ、人間じゃありませんよ。むしろ限りなく化け物に近いんです。一年はど前に、僕はその事実に気がつきました。学費を稼ぐためにコンビニでバイトしてた頃、だいぶいろいろあったんですよ。あまりにも最悪な思い出で、もう思い出したくもないですがね」 そこまで一気に喋《しゃべ》ったところで、山崎は俺の冷蔵庫から二本目のビールを取り出した。 止めるまもなくプルトップを引き開けて、一気に飲み干しやがる。 そうして彼は、唐突に叫んだ。 「──女はクソだ! 女は死ね!」 すでに山崎の顔面は、嫌な感じに赤い。完全に酔っぱらっているらしい。 この男、すぐに酔うクセに、しょっちゅう酒を飲んでいる。若年性アル中なのではないかと疑ってみたこともあったが、いつだったか彼は教えてくれた。 『北海道の実家がワイン工場でね。中学の頃から酒を飲んでるんです。だから僕は大丈夫なんですよ!』 どこらへんが大丈夫なのか、それはぜんぜんわからない。だが──一度酔っぱらった山崎は、怒鳴ってもすかしても自分の気が済むまで演説をやめない。経験上、俺はその事実を知っている。 「…………」 どうしたものかと途方に暮れていると、彼はがっくりと肩を落とし、今度はぼそぼそと呟《つぶや》いた。 「女はクソだ。……しかしいかんせん、僕にも女の子とつきあいたいと思ってしまう時もある。人間だもの、それはしかたがない。……だが、だがしかし、またもや僕は、酷《ひど》い思いを味わった。──クラスで一番可愛い娘がいた。名前は七菜子ちゃん。オタク女が全国から集合している僕の学校でも、その娘だけはそこそこに見れる顔をしていた。そして一方、自分で言うのもナンですが、僕はなかなかに格好いい。この華著《きゃしゃ》な体と整った容貌《ようぼう》によって、イジメられたり、女子にイタズラされたりしたこともあったが、僕の格好よさは、今となっては人生における大きなアドバンテージに違いない。だからこそ僕は、七菜子ちゃんにこう言った。 『つきあおう!』 ……しかし七菜子はこう答えた。 『ゴメン、山崎君って、ちょっとアレだし。それにあたし、今、和夫君とつきあってるから』 アレってなんだよ? ていうか、和夫って、あの脂ぎった男か? 僕が、いや、このオレが、わざわざご丁寧にコクってやったのに、おいおいちょっと、そりゃねえぜ!」 山崎は両手を振り回して、大声でわめいた。 「身の程を知れよなクソ女が! つーかヤらせろよ! ふざけんなよ!」 俺は激しい恐怖を感じた。彼の隠された一面を見てしまったらしい。 すると、俺の表情に気がついたのか、山崎は慌てた様子で嘘くさい笑顔でとりつくろった。 「は、はははは! いやいや、冗談ですよ。全部、嘘ですよ。まさかこの僕が、女に告白したりするわけないですよ。現実の女なんて、クソばっかりですからね。……僕はねぇ、中学生の頃に、姉ちゃんの友達に強姦《ごうかん》されかかって以来、現実の女は見限ってるんですよ」 さらに衝撃的な話を聞かされてしまった。 「…………」 俺は平静を装って、タバコをふかした。 山崎はますます大声を出した。 「……な?ん?て?ね! 全部嘘ですよ。僕が言ったことは、全部嘘です。ははは、僕、ちょっと酔ってるなぁ。……ん? なんですか佐藤さん。僕をそんな目で見ないでくださいよ。なんですかその憐《あわ》れみと軽蔑と恐怖が入り交じったような微妙な視線は? み、見るなよ。僕をそんな目で見るなよ!」 どうしていいものやら、俺はすっかり参ってしまった。
*
つまり、山崎の言いたいことを要約すると。 ──現実の女は、ろくなもんじゃない。しかし人間には、女とヤりたい本能がある。理性は女を拒絶しているが、本能は女とヤりたくてしかたがない。だから困った。 などなどといった感じの話になるらしかった。 んなこと俺に言ってもしょうがねぇだろうが! と叫びたかったが、俺は大人なので、ぐっと堪《こら》える。 考えてみれば、彼も不幸な人間なのだ。現代社会の歪《ひず》みだかなんだかによって、彼の精神はすっかりねじ曲げられてしまったのだ。 ──可哀想になぁ。 「いいえ、僕はちっとも可哀想じゃありませんよ」 「無理すんなよ。……あ、そうだ。風俗に行けよ。そうすればモヤモヤがスッキリするらしいぞ!」 「……だからさっきから言ってるでしょうが。僕は現実の女には見向きもしないんです」 「現実の女以外に、どんな女がいるんだよ?」 その質問をした瞬間、彼は、いまにも泣き崩れそうだった弱々しい姿勢を立て直し、しゃきっと胸を張った。 ニヤリと笑い、言う。 「すぐ近くにいるじゃないですか。まだ気づかないんですか? 佐藤さんも、ここ一週間、彼女たちの魅力にメロメロだったはずでしょうに」 「…………」 「僕が何を言おうとしているのか、佐藤さんは、もう気づいているでしょう?」 俺は軽い圧迫感を感じ始めた。 「二次元の世界に住む彼女たちは、なんと愛《いと》おしいことでしょうかねぇ。ディスプレイの中の彼女たちは、なんと素敵なことでしょうかねぇ」 「…………」 まったく、これほどに回りくどい演説をされてしまっては、もはや山崎の情熱を認めてやるしかない。 「わかったよ山崎君。……エロゲーは素晴らしい文化だ」 「わかれば良いんですよわかれば。エロゲーこそが、人類の知恵が本能に勝利するための、唯一の道標です。エロゲーがあれば現実の女など用済みなんです。エロゲーこそが僕らの希望なんです。ですから佐藤さん、そろそろゲームの企画はできましたか?」 「も、もう少しだけ待ってくれ。……しかし、君が貸してくれたエロゲー、傾向が偏ってるような気がしないか?」 「と、言いますと?」 「こう、なんというか、登場キャラの年齢が低すぎるというか、どう見ても小学生にしか見えないヒロインばかりが登場するというか──」 「は! いまさら何を言ってるんですか佐藤さんらしくもない。もともとエロゲーのヒロインたちは、二次元のCGによって描かれた架空の存在にすぎないんですよ。ならばその無垢《むく》さ純潔さ女らしさを表現するにあたって、幼女キャラほどに最適なデフォルメは他にありえないでしょうに。幼女という記号によって、我々は安心するんです。──我々の弱々しい精神に打撃を与える可能性のない二次元キャラ。しかもその上、社会的肉体的精神的に最弱な、幼女というモチーフ。その二重のセイフティーロックによって、僕たちの脆弱《ぜいじゃく》な精神は完全に保護されるんです。傷つく心配から逃れられるんです。すなわちそれこそ萌《も》え萌えです。わかりますか? わかるでしょう?」 「…………」 俺はさんざん彼の言葉に頭を捻《ひね》った末に、 さっぱりわかんねぇよ! と怒鳴ろうとした。が、その頃にはすでに、山崎は俺の部屋から消えていた。 しかし、コタツの上には置き土産が残されていた。 山崎のプレゼント、それは一枚のCD─Rだった。 [#改ページ] 2
翌朝になってから、俺はよくよく考えてみた。 どうも山崎は、昨日、女にフラれたらしい。そうして彼は、やけ酒を飲みつつ決心したらしい。 ──現実の女なんか、もう絶対にクソくらえだ。僕にはエロゲーがある。 などといった感じの強い決意を固めたらしい。 しかし──それだけならば何も、わざわざ俺に向かって自らの恥をさらけ出したりする必要はない。自分が凄いロリコンであると、明言する必要はない。ずいぶんと無茶苦茶な理論で武装していやがったが、つまるところ、あいつはエロゲー好きのロリコンだ。危険人物だ。 「…………」 というか、予想以上に山崎はヤバい。 昨夜プレゼントされたCD─Rの中身をパソコンで確かめてみたところ、俺はかなり慄然《りつぜん》とした。 ──いや、なんというか、これはマズいぜ。ヤバすぎる。 七百メガバイトのCD─R、そこにはぎっしりとjpeg画像が詰まっていた。その画像は、写真だった。小学校高学年と思われる少女のポートレートだった。 しかも少女は、全裸である。いわゆる、ヌード写真である。 「…………」 俺はおもむろに、部屋のカーテンを閉め切った。児童ポルノ規制法案が施行されている現在、このCDは、あまりにも危険すぎる。山崎のせいで、無実の俺までが牢屋《ろうや》にぶち込まれかねない。 まったく、何を考えているんだあの男は? CGで我慢しとけよ! そう文句を言ってやりたかったが、彼は現在、夜アニに登校中だ。 「…………」 十五インチのディスプレイの中で、全裸の少女はニッコリと微笑んでいるのだった。 俺は胸が痛くなった。息苦しい。 頭を抱えつつも、とりあえずフォルダの中身を隅々まで調べてみる。すると、ひとつのテキストファイルを発見した。 そのファイルをエディタで開く。 『どうですか佐藤さん! かなりビビッてるでしょう? ですが高クオリティなエロゲーを作るには、やっぱり生の資料が欠かせません。この実写画像で、イマジネーションをガンガンに膨らませてください。ロリコン界の至宝とも呼ばれている、ニシムラリカの写真集です。全部ソフトコア画像なので、安心してて結構ですよ。さぁ、リカちゃんの笑顔で、素敵なエロゲーを作りましょう!』 「……あんのやろう」 俺は怒りに打ち震えた。そもそもいつ俺が、ロリータ系エロゲーを作ることに同意したというのか? 自分の趣味を俺に押しっけるなよなぁ、まったく。 ……だけど、んん? よくよく考えてみれば、だ。 もしかしてあいつは、俺を同志に仕立てあげようとしているのではないか? 光源氏の時代ならまだしも、この現代において、ロリコン者は社会的に抹殺されるべき存在である。当然、同好の士を見つけだすことは限りなく難しい。だからこそ山崎は、エロゲー製作の同志であるこの俺を、手っ取り早くロリコン仲間にグレードアップしようと企《たくら》んでいるのではないか? 「…………」 いや、このような勘ぐりは、ただの下世話な憶測に過ぎず、あくまであいつは純粋に、良質なエロゲーを作ろうとしているだけなのかもしれない。事実、現在のエロゲーシーンにおいて、幼女系のヒロインは決して少数派ではない。エロゲーという病んだメディアの特質を、もっとも端的に象徴しているのが、ロリータ系のキャラクターと言えないこともない。 そう言えば、エロゲーの別名は『美少女ゲーム』である。 美女ゲームではなく、美少女ゲーム。 ……そのあたりに、何か深い病巣が隠れているようではある。 「美少女ゲームなんて名前のソフトが巨大な市場を確立しているこの日本は、この先一体、どうなってしまうんだろう」 ともかく俺は、立派な社会問題を考えるフリをして、なんとかムリヤリ思考停止した。 それから恐るおそる、ニシムラリカの写真集を、パソコンのディスプレイで観賞した。
そうして、数刻の時が流れた。 俺は戦慄していた。 ……ニシムラリカは、実際、可愛い。 「いいい、いいや違うぞ! これは一時の気の迷いだ!」 薄暗い六畳一間に、その雄叫《おたけ》びは虚《むな》しく木霊《こだま》した。そしてリカちゃんが俺に微笑みかけていた。そのあどけない笑顔。するどく浮き上がった肋骨《ろっこつ》。どこまでもしなやかな肢体。 俺はごくりと唾《つば》を飲みこみ、震える指先でマウスをクリック。すると |