一体なにを考えー」 「対立する理性と本能、しかしそのどちらをも、消し去ることは叶《かな》いません。ならば僕たちはどうするべきなのか?──適当なところで妥協して、女とつきあってみたりする? 結婚して子供を作ってみたりする? えぇ、確かにそれが普通のやり方です。しかしですね。僕は知ってるんですよ。女ってのは、アレ、人間じゃありませんよ。むしろ限りなく化け物に近いんです。一年はど前に、僕はその事実に気がつきました。学費を稼ぐためにコンビニでバイトしてた頃、だいぶいろいろあったんですよ。あまりにも最悪な思い出で、もう思い出したくもないですがね」 そこまで一気に喋《しゃべ》ったところで、山崎は俺の冷蔵庫から二本目のビールを取り出した。 止めるまもなくプルトップを引き開けて、一気に飲み干しやがる。 そうして彼は、唐突に叫んだ。 「──女はクソだ! 女は死ね!」 すでに山崎の顔面は、嫌な感じに赤い。完全に酔っぱらっているらしい。 この男、すぐに酔うクセに、しょっちゅう酒を飲んでいる。若年性アル中なのではないかと疑ってみたこともあったが、いつだったか彼は教えてくれた。 『北海道の実家がワイン工場でね。中学の頃から酒を飲んでるんです。だから僕は大丈夫なんですよ!』 どこらへんが大丈夫なのか、それはぜんぜんわからない。だが──一度酔っぱらった山崎は、怒鳴ってもすかしても自分の気が済むまで演説をやめない。経験上、俺はその事実を知っている。 「…………」 どうしたものかと途方に暮れていると、彼はがっくりと肩を落とし、今度はぼそぼそと呟《つぶや》いた。 「女はクソだ。……しかしいかんせん、僕にも女の子とつきあいたいと思ってしまう時もある。人間だもの、それはしかたがない。……だが、だがしかし、またもや僕は、酷《ひど》い思いを味わった。──クラスで一番可愛い娘がいた。名前は七菜子ちゃん。オタク女が全国から集合している僕の学校でも、その娘だけはそこそこに見れる顔をしていた。そして一方、自分で言うのもナンですが、僕はなかなかに格好いい。この華著《きゃしゃ》な体と整った容貌《ようぼう》によって、イジメられたり、女子にイタズラされたりしたこともあったが、僕の格好よさは、今となっては人生における大きなアドバンテージに違いない。だからこそ僕は、七菜子ちゃんにこう言った。 『つきあおう!』 ……しかし七菜子はこう答えた。 『ゴメン、山崎君って、ちょっとアレだし。それにあたし、今、和夫君とつきあってるから』 アレってなんだよ? ていうか、和夫って、あの脂ぎった男か? 僕が、いや、このオレが、わざわざご丁寧にコクってやったのに、おいおいちょっと、そりゃねえぜ!」 山崎は両手を振り回して、大声でわめいた。 「身の程を知れよなクソ女が! つーかヤらせろよ! ふざけんなよ!」 俺は激しい恐怖を感じた。彼の隠された一面を見てしまったらしい。 すると、俺の表情に気がついたのか、山崎は慌てた様子で嘘くさい笑顔でとりつくろった。 「は、はははは! いやいや、冗談ですよ。全部、嘘ですよ。まさかこの僕が、女に告白したりするわけないですよ。現実の女なんて、クソばっかりですからね。……僕はねぇ、中学生の頃に、姉ちゃんの友達に強姦《ごうかん》されかかって以来、現実の女は見限ってるんですよ」 さらに衝撃的な話を聞かされてしまった。 「…………」 俺は平静を装って、タバコをふかした。 山崎はますます大声を出した。 「……な?ん?て?ね! 全部嘘ですよ。僕が言ったことは、全部嘘です。ははは、僕、ちょっと酔ってるなぁ。……ん? なんですか佐藤さん。僕をそんな目で見ないでくださいよ。なんですかその憐《あわ》れみと軽蔑と恐怖が入り交じったような微妙な視線は? み、見るなよ。僕をそんな目で見るなよ!」 どうしていいものやら、俺はすっかり参ってしまった。
*
つまり、山崎の言いたいことを要約すると。 ──現実の女は、ろくなもんじゃない。しかし人間には、女とヤりたい本能がある。理性は女を拒絶しているが、本能は女とヤりたくてしかたがない。だから困った。 などなどといった感じの話になるらしかった。 んなこと俺に言ってもしょうがねぇだろうが! と叫びたかったが、俺は大人なので、ぐっと堪《こら》える。 考えてみれば、彼も不幸な人間なのだ。現代社会の歪《ひず》みだかなんだかによって、彼の精神はすっかりねじ曲げられてしまったのだ。 ──可哀想になぁ。 「いいえ、僕はちっとも可哀想じゃありませんよ」 「無理すんなよ。……あ、そうだ。風俗に行けよ。そうすればモヤモヤがスッキリするらしいぞ!」 「……だからさっきから言ってるでしょうが。僕は現実の女には見向きもしないんです」 「現実の女以外に、どんな女がいるんだよ?」 その質問をした瞬間、彼は、いまにも泣き崩れそうだった弱々しい姿勢を立て直し、しゃきっと胸を張った。 ニヤリと笑い、言う。 「すぐ近くにいるじゃないですか。まだ気づかないんですか? 佐藤さんも、ここ一週間、彼女たちの魅力にメロメロだったはずでしょうに」 「…………」 「僕が何を言おうとしているのか、佐藤さんは、もう気づいているでしょう?」 俺は軽い圧迫感を感じ始めた。 「二次元の世界に住む彼女たちは、なんと愛《いと》おしいことでしょうかねぇ。ディスプレイの中の彼女たちは、なんと素敵なことでしょうかねぇ」 「…………」 まったく、これほどに回りくどい演説をされてしまっては、もはや山崎の情熱を認めてやるしかない。 「わかったよ山崎君。……エロゲーは素晴らしい文化だ」 「わかれば良いんですよわかれば。エロゲーこそが、人類の知恵が本能に勝利するための、唯一の道標です。エロゲーがあれば現実の女など用済みなんです。エロゲーこそが僕らの希望なんです。ですから佐藤さん、そろそろゲームの企画はできましたか?」 「も、もう少しだけ待ってくれ。……しかし、君が貸してくれたエロゲー、傾向が偏ってるような気がしないか?」 「と、言いますと?」 「こう、なんというか、登場キャラの年齢が低すぎるというか、どう見ても小学生にしか見えないヒロインばかりが登場するというか──」 「は! いまさら何を言ってるんですか佐藤さんらしくもない。もともとエロゲーのヒロインたちは、二次元のCGによって描かれた架空の存在にすぎないんですよ。ならばその無垢《むく》さ純潔さ女らしさを表現するにあたって、幼女キャラほどに最適なデフォルメは他にありえないでしょうに。幼女という記号によって、我々は安心するんです。──我々の弱々しい精神に打撃を与える可能性のない二次元キャラ。しかもその上、社会的肉体的精神的に最弱な、幼女というモチーフ。その二重のセイフティーロックによって、僕たちの脆弱《ぜいじゃく》な精神は完全に保護されるんです。傷つく心配から逃れられるんです。すなわちそれこそ萌《も》え萌えです。わかりますか? わかるでしょう?」 「…………」 俺はさんざん彼の言葉に頭を捻《ひね》った末に、 さっぱりわかんねぇよ! と怒鳴ろうとした。が、その頃にはすでに、山崎は俺の部屋から消えていた。 しかし、コタツの上には置き土産が残されていた。 山崎のプレゼント、それは一枚のCD─Rだった。 [#改ページ] 2
翌朝になってから、俺はよくよく考えてみた。 どうも山崎は、昨日、女にフラれたらしい。そうして彼は、やけ酒を飲みつつ決心したらしい。 ──現実の女なんか、もう絶対にクソくらえだ。僕にはエロゲーがある。 などといった感じの強い決意を固めたらしい。 しかし──それだけならば何も、わざわざ俺に向かって自らの恥をさらけ出したりする必要はない。自分が凄いロリコンであると、明言する必要はない。ずいぶんと無茶苦茶な理論で武装していやがったが、つまるところ、あいつはエロゲー好きのロリコンだ。危険人物だ。 「…………」 というか、予想以上に山崎はヤバい。 昨夜プレゼントされたCD─Rの中身をパソコンで確かめてみたところ、俺はかなり慄然《りつぜん》とした。 ──いや、なんというか、これはマズいぜ。ヤバすぎる。 七百メガバイトのCD─R、そこにはぎっしりとjpeg画像が詰まっていた。その画像は、写真だった。小学校高学年と思われる少女のポートレートだった。 しかも少女は、全裸である。いわゆる、ヌード写真である。 「…………」 俺はおもむろに、部屋のカーテンを閉め切った。児童ポルノ規制法案が施行されている現在、このCDは、あまりにも危険すぎる。山崎のせいで、無実の俺までが牢屋《ろうや》にぶち込まれかねない。 まったく、何を考えているんだあの男は? CGで我慢しとけよ! そう文句を言ってやりたかったが、彼は現在、夜アニに登校中だ。 「…………」 十五インチのディスプレイの中で、全裸の少女はニッコリと微笑んでいるのだった。 俺は胸が痛くなった。息苦しい。 頭を抱えつつも、とりあえずフォルダの中身を隅々まで調べてみる。すると、ひとつのテキストファイルを発見した。 そのファイルをエディタで開く。 『どうですか佐藤さん! かなりビビッてるでしょう? ですが高クオリティなエロゲーを作るには、やっぱり生の資料が欠かせません。この実写画像で、イマジネーションをガンガンに膨らませてください。ロリコン界の至宝とも呼ばれている、ニシムラリカの写真集です。全部ソフトコア画像なので、安心してて結構ですよ。さぁ、リカちゃんの笑顔で、素敵なエロゲーを作りましょう!』 「……あんのやろう」 俺は怒りに打ち震えた。そもそもいつ俺が、ロリータ系エロゲーを作ることに同意したというのか? 自分の趣味を俺に押しっけるなよなぁ、まったく。 ……だけど、んん? よくよく考えてみれば、だ。 もしかしてあいつは、俺を同志に仕立てあげようとしているのではないか? 光源氏の時代ならまだしも、この現代において、ロリコン者は社会的に抹殺されるべき存在である。当然、同好の士を見つけだすことは限りなく難しい。だからこそ山崎は、エロゲー製作の同志であるこの俺を、手っ取り早くロリコン仲間にグレードアップしようと企《たくら》んでいるのではないか? 「…………」 いや、このような勘ぐりは、ただの下世話な憶測に過ぎず、あくまであいつは純粋に、良質なエロゲーを作ろうとしているだけなのかもしれない。事実、現在のエロゲーシーンにおいて、幼女系のヒロインは決して少数派ではない。エロゲーという病んだメディアの特質を、もっとも端的に象徴しているのが、ロリータ系のキャラクターと言えないこともない。 そう言えば、エロゲーの別名は『美少女ゲーム』である。 美女ゲームではなく、美少女ゲーム。 ……そのあたりに、何か深い病巣が隠れているようではある。 「美少女ゲームなんて名前のソフトが巨大な市場を確立しているこの日本は、この先一体、どうなってしまうんだろう」 ともかく俺は、立派な社会問題を考えるフリをして、なんとかムリヤリ思考停止した。 それから恐るおそる、ニシムラリカの写真集を、パソコンのディスプレイで観賞した。
そうして、数刻の時が流れた。 俺は戦慄していた。 ……ニシムラリカは、実際、可愛い。 「いいい、いいや違うぞ! これは一時の気の迷いだ!」 薄暗い六畳一間に、その雄叫《おたけ》びは虚《むな》しく木霊《こだま》した。そしてリカちゃんが俺に微笑みかけていた。そのあどけない笑顔。するどく浮き上がった肋骨《ろっこつ》。どこまでもしなやかな肢体。 俺はごくりと唾《つば》を飲みこみ、震える指先でマウスをクリック。すると次の画像がディスプレイに表示されて……あぁ、リカちゃん。 「違う!」 俺は頭を振りかぶり、渾身《こんしん》の力を込めて部屋の壁に打ち付けた。がこんと音がした。涙が出た。 痛かった。しかしリカちゃんが微笑んでいる。………あぁ、リカちゃん。 「違う違う!」 俺は慌ててインターネットエクスプローラーを起動した。 ──そうなのだ。リカちゃんが特別に美少女すぎるのがいけないのであって、何も俺がロリコンなわけではない。たまたまリカちゃんの可憐《かれん》さにグラッと来ただけで、俺はぜんぜん正常だ。 だから別のロリータ画像をネットで探そう。他のロリータ画像を見たならば、そのときこそ俺の正常さが証明される。なぜならば、リ力ちゃん以外のロリータ画像などには、俺はちっとも興奮しないに決まってるからだ。 「…………」 しかし、ロリータ画像の探索は困難を極めた。やはり児童ポルノ規制法案の影響だろう。ネットの表面を探索してみただけでは、国際電話を利用した詐欺サイト程度しか発見できない。 だが、俺のネットサーフィンスキルを舐《な》めてもらっては困る。これでも俺は、ネット接続歴四年のベテランなのだ。 希少価値のあるデータを探すには、掲示板を巡るに限る。それがこの世の法則である。 そこで俺は、ひとまずロボット型のサーチエンジンを用いて、エロ画像情報系の掲示板を検索することにした。 しかし──あぁ、なんてことだ。数千件ものページがヒット。検索条件を絞り込んでも、なおも数百件がヒット。数が多すぎるぜ。 とりあえず一番上のページを開いてみる。その瞬間、恐ろしい勢いで、無数のブラウザが勝手に開く。 「くそっ! やはり罠《わな》か!」 有料エロページにありがちな、JacaScriptを用いたブラウザ多重オープン攻撃である。しかしそれでも、俺は怯《ひる》まない。 「そうかわかったぞ! インターネットエクスプローラーには、荷が重すぎるんだ。こんなときこそタブブラウザにチェンジだぜ!」 ──タブブラウザ。ひとつのウィンドウで、複数のウェブページを同時に閲覧できる優れものブラウザのことである。俺はそのタブブラウザの中でも、最も安定性に定評がある「donut」をダウンロードし、即座に起動した。 「おお! なんて軽快なブラウジングなんだ! この調子では、目指すページにたどり着くのも間近だな!」 リソースが許すギリギリまで複数のページを同時に開き、それを片っ端から調べていく。 ロリータ画像、ロリータ画像…… 掲示板に書き込まれたリンク全てを新しいタブで開き、開いた先のページに存在するリンクをも、端から端まで確認し── 目指すはアングラ系のエロ画像掲示板。 有料ページに騙《だま》されるな! 拡張子がexeのファイルには注意しろ! 邪魔な広告は、ポップアップ抑止ソフトで鎮圧だ! 時計の針は回転し、窓の外は、すでに夜。六畳一間を照らす灯《あか》りは、青白く光るディスプレイ、ただそれだけ。蛍光灯をつける手間すらもったいない。 驚異の神速キーボードタイプ! うなれ光速のマウス捌《さば》き! 野性の勘で、広大なネットを駆け巡れ! 俺は野獣だ! オオカミだ! [#改ページ] 3
……気がつけば、すでにあれから一週間もの時が経過していた。 俺はマウスとキーボードから、数十時間ぶりに我が身を解放した。 風呂《ふろ》場に向かい、鏡を覗《のぞ》く。 そこに映し出されているのは、どうしようもないデンジャラスパーソン、すなわち危険人物、つまり俺。 伸びた無精髭《ぶしょうひげ》脂ぎった頭髪、虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》、緩んだ口元── 汚らわしい、乱れきった、腐臭のする、誰もが避けて通る、近寄りたくない、悪夢のような、大学中退の、無職の、ひきこもりの── ロリコン男がそこにいた。 「……うぅう」 俺は風呂場の床に、力無く崩れ落ちた。 ……どうしてこんなことになったんだろう? もう、取り返しがつかない。俺は、俺は、全世界のロリータ画像を収集してしまった。画像だけでは飽きたらず、MPEGやらRealMovieやらの動画にすら手を出してしまった。三十ギガのハードディスクはもう満杯だ。可哀想な少女たちの、あられもない姿で一杯なのだ。 ……もうダメだ。もうダメだよう。ひきこもりのロリコンなんて、そんなの最悪じゃん。人間以下じゃん。ケダモノじゃん。生きていけない。もう二度と日の光の下を歩けない。 あぁ、確かに俺はひきこもりだった。しかしそれでもロリコンではなかったはずだ。あくまで嗜好《しこう》は正常であり、むしろ年上が好きだったはずだ。それなのに── 「うぅう。……うぅうー」 堪えきれない鳴咽《おえつ》がこみ上げてくる。涙もぽとりと床に落ちる。 贖罪《しょくざい》の涙だった。 ……そう。悔い改めたいのだ。俺はもう、悔い改めたいのだ。 しかしいまさら、それはまったく手遅れだった。 『ノゾミちゃんは可憐だなぁ』などといった独り言を呟くようになってしまったこの俺は、もうすぐ地獄に落下する。 『キヨミちゃんは凄いなぁ。中一なのに、凄いなぁ』などといった感想を呟くようになってしまったこの俺は、まもなく地獄に墜落する。 『ロシア人はハードだなぁ。アメリカ人も、酷いことするなぁ』などといってニヤつく俺は、十割の確率で地獄に堕《お》ちる。 あぁ……ごめん。ごめんなさい。あやまります。本当に、そんな気は無かったんです。ほんの気軽な気持ちだったんです。最初は冗談のつもりだったんです。それなのに、それなのに── 「……うぅう」 苦しい。苦しいよう。胸が苦しいよう。罪悪感で張り裂けそうだよう。ロリコンになんてなりたくなかったよう。ただのひきこもりでいたかったよう。それなのに、それなのにいまや、俺は最高級のロリコンひきこもりだよう。史上最強のクズ人間だよう。 だけど聞いてくれよ。それは違うんだよ、誤解なんだ! 俺は監禁なんかしたくないぞ! 誘拐とか、そんなのしたくないぞ! 違うんだよ! あの事件の犯人は俺じゃない! 信じてくれ! トラストミー! そんな目で見るなよ! 俺を見るなよ! ……だけど赤いランドセルが、そして縦笛が。公園で遊ぶ無邪気な少女が。 ……あぁ。 『お兄ちゃんと遊ぼうか?』 『飴《あめ》をあげるよ』 『スカートを』 『お医者さん』 『注射』 ──もうダメだもうダメだもうダメだ! 死のう死のう今すぐ死のう! 「…………」 だけど──んん? なんだよ。うるさいな。 「佐藤さん! いるんでしょう? 開けてくださいよ」 遠くから、どこか遠くから、誰かが俺を呼んでいた。 「佐藤さん! 生きてるんですか? 死んでるんですか? 生きてるんなら開けてくださいよ!」 ドアが、アパートのドアが、激しくノックされていた。 だけども俺は、もはや人前に姿を現せるだけの資格を持っていない。だから放って置いてくれ。 「……なんだ、本当にいないんですか?……せっかくスンゲー裏ビデオ貸してやろうと思ったのに」 俺は立ち上がり、涙を拭《ふ》いて、ドアを開けた。
俺の話を聞くなり、山崎は顔をしかめた。『呆《あき》れかえった』という表情をしていた。 「一週間も部屋に閉じこもってエロ画像集めてたって──あんた、もしかして白痴ですか?」 「大体なぁ!……全部お前が悪いんだよ」 「んなこと言ったって、結局は佐藤さんの素質じゃないですか」 「お、お、俺をロリコンに引き込んでおいて、それをお前、罪悪感は感じないのかぁ!」 「だから、アレはただの資料だって言ってるでしょうが。三十ギガもエロ画像を集めた佐藤さんは、そもそもぜんぜん普通じゃないっすよ。僕でもかないませんよ。近寄らないでくださいよ、気持ち悪いから」 「……く、く、く」 怒りのあまり、視界が真っ赤に染まった。両手がぶるぶると震えていた。 「ま、まぁ、いいから機嫌直して、そろそろゲーム製作の話、本腰を入れて進めましょうよ。ほら、ビデオも貸してあげますから」 俺は山崎の手からビデオテープを奪い取ると、膝に叩きつけてまっぷたつにへし折った。 「なな、何を──」 そうして俺は、たったひとつのロリコン脱出方法を思いついた。 真剣な表情で山崎を睨《にら》む。 「山崎君」 「なんですか?……ビデオ、弁償してくださいよ」 「ロリコンってのは、人間じゃない。ケダモノだ」 「…………」 「だから俺たちは脱出しよう。二人で脱出しよう。今すぐ抜け出さないと、一生ロリコンで終わってしまう! 急げ!」 俺は強引に山崎の手を取ると、部屋の外へと連れだした。
*
一度山崎の部屋に入り、彼の所持品であるデジカメを手に持つ。そして再び外に出て、俺は早足で住宅街を歩く。 五月の昼下がり、街はぽかぽかと暖かく、しかし人通りは少ない。 「どこに行くんですか?」 俺は答えず、目的地を目指す。 途中、コンビニによって、使い捨てカメラを購入した。それを山崎に手渡し、さらに先を急ぐ。 時刻は午後三時。最高のタイミングだ。 「デジカメの他にも使い捨てカメラだなんて、一体なんに使えって言うんです?」 山崎は息を切らしながら質問した。 目的地にたどり着いたところで、俺は答えてやった。 「君が、俺を、撮るんだよ」 「はぁ?」 「ここが、どこだかわかるか?」 「えーと。見たところ、小学校の校門前ですね」 「そうだ。生田小学校だ。生徒数約五百人の公立小学校だ。そうして俺は、校門前の植え込みの陰に姿を隠す。山崎君、君も身を隠しなさい。ほら、急いで」 「は、はぁ」 「もうすぐ終業のチャイムが鳴るぞ。そうすると、小学生がこの校門から溢《あふ》れだしてくる」 「……そうっすね。それで?」 「俺は、撮る」 「な、何を?」 「しょ、小学生を」 「…………」 「君のハイテクデジカメで、俺は可憐な美少女を激写する」 「…………」 「わ、わかるか山崎君? 俺はこれから盗撮する。春の少女を盗撮する。もしかしたら、パンチラ写真なんかを撮ってしまうかもしれない。だけど大丈夫だ。この植え込みの陰にじっと息を潜めて隠れていれば、俺たちは決して見つからない。だから俺は小学生を撮る。可愛い子だけを狙って、撮りまくる」 チャイムが鳴った。 あと数分で、小学生がこの校門から溢れだしてくることだろう。 「そして山崎君。君は俺の姿を、その使い捨てカメラで激写するんだ。小学生を盗撮する醜い俺を、最高に汚らしいロリコン男を、君はばっちり激写するんだ! わかるか? ただこれこそが、ロリコンからの脱出方法なんだ! わかるか? 君にはわかるか? この俺の、醜い姿。しかし、それは同時に君の姿でもある。醜くて惨めで汚らしいその姿を、君はフィルムに焼き付けるんだ。そうして、あとでそのフィルムを現像して一緒に観賞しょう。そうすれば、自分たちの醜さ汚さ不様さを客観的に眺めることができる。そのときこそ俺たちは、ロリコンから脱出できるだろう。正常な人間に戻ることができるだろう──」 昇降口から、少女たちのざわめきが響いてきた。 俺はデジカメを構えた。もうすぐだ。 「準備はいいか山崎君! 撮るぞ。もうすぐ一人目が来る。そのとき俺は、盗擬するぞ! だから君も、俺を撮れ! わかったか? わかったら返事をするんだ山崎君! ……おっと、いきなりかなりの美少女が現れたぜ! 白ワンピに黒タイツに焦げ茶のブーツをはいているぜ! 素敵だぜ! 萌え萌えだぜ! 聞いているのか山崎君! 俺はシャッターを押すぜ! だから君もシャッターを押しなさい!……しかしストロボは焚《た》くなよ。バレるからな。見つかったら、マジで警察直行だぜ。 ……あぁ。このスリル。血湧き肉躍るスリル。興奮するぜ。ドキドキするぜ。最近の小学生は可愛いぜ。そして俺はシャッターを押すぜ! バシッ! バシッ! ナイスショット! あの素敵な小学生、おそらくは六年生の女の子、仮に名前をサクラちゃんとしよう。そのサクラちゃんが、うしろから来る友達に向かってくるりと振り向いたその瞬間! その斜め四十五度の最高角度を、俺は逃さずゲットだぜ! へへへへ、聞いているのか山崎君? ちゃんと俺を撮っているのか山崎君。俺の醜い姿を細大漏らさず写しておけよ、でないと、まるっきり俺、ただの変態だからな。 ……しかし、おお! ますます大量に小学生が溢れ出てきたぜ。見よや、あの生命力に満ちあふれた美しくも可憐な少女たちを。俺は撮るぜ。撮るぜ撮るぜ撮るぜ! 春風よ吹け! 突風よ、巻け! そしてスカートを! ……だけど、本当にそこにいるのか山崎君。俺はデジカメのファインダーを覗き込んでいるからわからないけど、ちゃんと俺の右斜め後方にいるんだろうな山崎君。ちゃんと俺の醜い姿を撮っておけよ。わかってるんだろうな? ……な、なぁ。本当に聞いているのか山崎君。おい、何とか言えよ。俺がこれほど頑張って、小学生のパンチラ写真を狙ってるんだ。君も俺の熱意に打たれて、ハートを燃やしたっていいだろうに。聞いているのか? おい、何とか言えってば! ……ま、まぁいいさ。確かに俺たちは犯罪行為を犯している。ビビって声が出せなくなっても、それは当たり前だ。そもそも君は、気が小さいからな。まぁいいよ。 ……しかしなんだな。盗撮って、面白いな。そしてこの俺は、限りなく醜いな。……あぁ、そうだぜ。俺だって、本当はこんな汚い人間にはなりたくなかったぜ。小さかった頃は、東大に入って偉い学者になるのが夢だったんだぜ。人類の役に立つ、凄《すご》い発明をするのが夢だったんだぜ。 ……それが今や、ひきこもりのロリコンだ!……だからお前は泣いてしまえばいい。あぁ、そうだよ。泣くんだよ! この俺の醜い姿に涙を流せ! ……俺たちだって、軽快に朗らかに、毎日を笑って、普通に平凡に、すがすがしい日々の生活を送りたかった。だけどもそれは、理解しがたい運命の荒波によって、なぜだかまったく不可能になってしまった。だからあぁ悲しいなぁって、お前は泣け! 本当は、みんなの役に立つ人になりたかった、みんなに尊敬されたかった。みんなと仲良く生きていきたかった、それなのに今じゃ、ロリコンひきこもりだよって、絶望して、泣け! 泣くんだ! ……うぅう。悲しいなぁ。凄く悲しいなぁ。だけど小学生は可愛いなぁ。興奮するなぁ。 ……うぅう。うぅうー。涙が止まらないよう。ファインダーが曇ってよく見えないよう。だけど俺はまだまだ少女を盗撮するぜ。だから山崎君、君も頑張って俺を撮るんだ。悲しいけれど頑張ろう。涙が止まらないけど頑張ろう。頑張って小学生を盗撮しょう! ……ん? なんだよ。いきなり俺の肩を叩いてどうしようってんだ? どうかしたのか? おいおい、うるさいなぁ。今、良いところなんだよ。 ほら見ろよ、あのニーソックスを穿《は》いたショートカットの女の子。可愛いよなぁ。持って帰りたいよなぁ。小脇に担いでテイクアウトしたいよなぁ。……んん? しつこいなぁ君も。今、忙しいんだよ! まったく、どうしたんだ山崎君。そんなに肩を叩くなって、カメラがブレるからさ。……おいおい、ホントにうるさいってば。なんなんだよ急に。君もおかしな奴だなぁ」 「……佐藤君、佐藤君ってば」 「シッ! 静かにしろよ、バレるだろうが!」 「こんな所で何やってるの? 佐藤君」 「だから決まってるだろうが、あのショットカットの女の子を──」 「女の子を?」 「とうさ──」 そのときだった。 俺は何気なく、ファインダーから目を離した。すると、俺の肩に置かれている手のひらが、視界の隅に映った。細くしなやかなその指先──男の指ではありえなかった。 俺は背後を振り返った。 そこにいたのは岬ちゃんだった。 心臓が通常の五十倍速で脈打ちはじめた。 そよ風が吹いていた。 時間が止まった。
*
いつの間にやら山崎は消え、彼のかわりに、岬ちゃんがいた。 しかも今日の岬ちゃんは、宗教ルックに身を包んでいた。 地味な長袖《ながそで》ワンピース。白い日傘。 その格好で、俺と一緒に、植え込みの陰にしゃがみ込んでいるのだった。 「……い、い、い、いつからそこに居たの?」 「ついさっき」 俺のセリフをどこまで聞いた──と訊《き》こうとして、俺は思いとどまった。 どちらにせよ、もはや絶体絶命だ。 小学校の校門の陰で、デジカメを首からぶら下げている怪しい人間。そんな男を目の前にしたら、誰だって気づく。変態だと。 すでに、万事休した。 ……あぁ。 ごめんなさい、お父さんお母さん。 大学を中退してしまったばかりでは飽きたらず、性犯罪で牢屋にぶち込まれてしまう。まったく俺は、できの悪い息子だった。どうしたらこの罪が償えるのだろう? ……しかし、もはや時間は残されていないのだった。俺の顔をしげしげと覗き込んでいる岬ちゃんは、もうすぐ大声でわめきはじめることだろう。 『変態がいます! 誰か来て!』 ──いやいや、きっとそれどころではおさまらないに違いない。 なぜならば、今日の彼女は宗教ルックに身を包んでいる。そして、宗教といえば厳しい戒律だ。汝《なんじ》、姦淫《かんいん》を犯してはならない。当然、小学生に欲情するなどもってのほかだ。だからこそ、ロリコン男には神の怒りが降りそそぐ。 ──そう。 『神はすべての罪を知っている!(ルカ 18:18)』と言って、岬ちゃんは俺を脅すだろう。 『み子に従わない者は命を見ない!(ヨハネ 3:16)』と言って、俺を震え上がらせるだろう。 『罪の報いは死!(ローマ 6:23)』と言って、神の怒りの業火に、俺を投げこうもうとするだろう! だから──あぁ。 ……もう、絶対に、おしまいだ。 俺は天を仰ぎ、裁きが下る瞬間を待ちかまえた。 人生が閉ざされる瞬間。未来が閉鎖されるその瞬間。それほまもなくのことだった。 しかし──いつまで待っても、岬ちゃんは俺を糾弾しなかった。 視線を岬ちゃんに戻すと、彼女は俺を、上目づかいに覗き込んでいた。植え込みの陰に身を隠した姿勢のまま、しばし無言で見つめ合ってしまった。 「…………」 そうしてついに、岬ちゃんが口を開いた。 「さっき、両手で顔を隠して、アパートの方に走って逃げていく山崎君を見たよ。それで、何かなって思ってここを覗いてみたら、佐藤君がいたから──」 「……山崎のこと、知ってるの?」 「202号室の人でしょう? あの人、ずいぶん嬉《うれ》しそうに『目を覚ませよ!』を貰《もら》ったからね。珍しいよ」 「へ、へぇ。面白い奴だねぇ」 「……やっぱりあたし、邪魔だった? 佐藤君、なにか忙しそうだったけど」 「いいい、いやぁ! それほどでもないというか、なんというか。……ときに岬ちゃん、君はこんなところで何をやってるわけ?」 俺は話題をそらそうとした。なんとなく逃げ切れそうな気配がしてきたのだ。 「あたしは宗教勧誘の帰りだよ。和子オバサンと、ここを通りかかったんだけどさ。オバサンには先に帰ってもらったよ」 「へぇ、そうなんだ。……ところで、その宗教ルック、素敵だね。日傘を差してるところなんか、いかにも宗教って感じだよね」 すると岬ちゃんはうつむいた。 「……これ、変装なんだよ」 微妙に顔を赤らめて、そんなことを言う。 「はぁ?」 「あたしだって勧誘するの、本当は大変なんだから。……だから街の人に顔を覚えられないように、わざわざ日傘を差してるの!」 なぜだか妙に、力強い言い訳をしてくれる。 やはり彼女は依然として謎めいていた。底が見えない。 「…………」 が、ともかく、今こそ脱出のチャンスなのだった。このまま逃げてしまえ。 「それじゃ、もう行くから」 俺は立ち上がった。岬ちゃんも日傘を閉じて、起立した。 そのまま俺は、ぎくしゃくと歩き出した。植え込みの陰から歩道へと乗りだし、アパートへの道を、早足で── しかしそのとき、背後から声がかけられた。 「佐藤君ってさ」 「……何?」振り返らずに訊く。 「実はロリコンだったの?」 心臓が破裂するかと思った。 俺は聞こえないフリをして、さらに歩くスピードをあげた。 岬ちゃんは、さらに言った。 「別にロリコンでも良いけどさ。……もしかしたら、その方が都合が良いかもね。ひきこもりのロリコンって言ったら、もう最高だもんね。人間ランクの最下位だもんね」 「…………」 俺は足を止めて振り返った。 岬ちゃんは、いつもと同じ、変わらぬ笑顔を浮かべていた。 「うん。考えてみれば、ロリコンの方がいいや。その方があたしのプロジェクトにはバッチリだと思うよ」 そして彼女は、ぴょんと飛び跳ねた。はしゃいでいるらしかった。けれどもそれは、やっぱりいまいちワザとらしい仕草に見える。 俺は精一杯冷静な声で言ってやった。 「なんだかよくわかんないけどな、とにかく俺は、ロリコンでもひきこもりでもないぞ。……く、クリエイターだ! 資料に使う写真を撮っていただけさ」 「へぇ」 「ホントだぞ」 「また会おうね。……ニュースに出るようなことは、やっちゃダメだよ」 岬ちゃんはすたすたと歩き去っていった。 五月の午後のことだった。 [#改ページ] 六章 追憶、そして誓約
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ゴールデンウィークが来たと思ったら、いつの間にやら梅雨が終わっていた。月日が素晴らしいスピードで、俺の目の前を流れ流れ流れ過ぎていった。 しかしこの一ヵ月、それなりに様々なイベントが発生した。 たとえばこの前、深夜のコンビニで岬ちゃんとバッタリ会った。岬ちゃんは、俺に一枚のワープロ用紙を手渡した。その紙は契約書だった。黒いボールペンで大きく『契約書』と書かれていたので、それはおそらく契約書に違いない。 あと、一週間ほど前に、高校の頃の先輩と渋谷で待ち合わせをした。喫茶店などに入って、ちょっとばかり歓談などをした。だいぶドキドキしたが、それほど特筆するべきこともない。 それと、親がリストラされた。来月から仕送りが止まる。 一方、俺の隣人、山崎の方も、最近になってにわかに発生してきた世知辛い事態に、かなりいろいろ参っているらしかった。 『第一次産業を営む父親が、肝臓を悪くして入院』 『そして山崎は、長男である』 『実家の仕事を継ぐべきか、否か?』 しかし実際、もはや彼には選択肢が残されていないように見える。今すぐ実家に帰って、酪農とワイン造りを引き継ぐのがベストな選択だろうと思う。 が──なにやら彼には、両親との間に深い葛藤《かっとう》が存在しているらしい。 『あいつら、金があるクセに、僕を進学させてくれなかった』 『酪農学校に、勝手に願書を出しやがった』 『それで僕は、自分で一年間、コンビニと警備員のバイトをして夜アニの学費を稼いだ』 『それを、いまになって、ふざけるなよ!』 よくわからないが、山崎は怒っているようだった。 それでも彼は、激しく怒りつつも、すべての問題を先送りにすることに決めたらしい。問題が破局を迎えるその瞬間まで、知らないフリをしておくことに決めたらしい。俺もとりあえず、彼に倣って現実逃避することにした。 現実逃避と言えば、エロゲー作りである。 もはや今となってはほとんど意味のない、まったくもって無駄で無意味な創作活動に邁進《まいしん》する俺たちだった。 本当ならば、一刻も早くひきこもりから脱出して、就職活動しなきゃいけないのに…… だけどなぜだか、俺は笑顔で呟くのだ。 「やっぱりロリータ系は、かんべんな」 「ええ、佐藤さんの好みで結構ですよ。この前の小学生盗撮会は、ホントに捕まるかと思いましたからね」 んなことはどうでもいいんだよ、いますぐ就職活動しなきゃ身の破滅なんだよ! と叫ぶべきなのに…… 俺はまたもや笑顔で言うのだ。 「今日からシナリオ書くよ」 「よろしくお願いしますよ。ゲームの出来は、佐藤さんのシナリオにかかってます」 「わかってるさ。気合いを入れて書くよ。全力でエロゲー作るよ!」 ……あぁ。 モラトリアムここに極まれり。 天晴! というか最低!
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事実、辛《つら》い現実から目を背ける逃避活動には、エロゲー製作こそがまさに最適なのだった。そもそもエロゲーというゲームのジャンル自体に、現実逃避的要素が限りなく多分に含まれている。 二台の巨大なタワー塾パソコンに腰を下ろした山崎が、演説を始めた。 「そうなんですよ。現実逃避こそがエロゲーの本質です。そこで我々クリエイターは、楽しい現実逃避体験をプレイヤーに提供しなければなりません。 ……現実世界には、辛いことが溢れかえっています。我々男子をバカにする女子。我々男子を軽んじる女子。コンビニの店長と二股《ふたまた》をかけやがってたあのクソ女。僕の青春を弄《もてあそ》びやがった短大生。それら様々な辛いことで、この世の中は、大変です」 後半はずいぶんと具体的な話だったが、俺は無言で次のセリフを促した。山崎は烏龍《ウーロン》茶で一息ついてから、さらに朗々と声を張り上げた。 「つまり、現実の女は、ろくなもんじゃありません。限りなくモンスターに近い生き物なんです。──そこで!」 「そこで?」 「そこで我々エロゲークリエイターは、現実には決して存在しない、どこまでも都合のいい女性キャラクターを創造する必要があるんです」 ──都合のいい女性キャラ。 山崎は説明した。 「理由もなく主人公を好きになり、純粋な好意のみによって主人公に近づいてくる、そんなキャラクターです。なにひとつ下心を持っていない、そのうえ、決して主人公を裏切らない──そのような、現実には決して存在しえないキャラクターです」 「だけど、それほどに現実離れしたキャラを登場させたら、リアリティーがなくなってしまうんじゃないか?」 「いいんですよ。プレイヤーはエロゲーにリアリティーなんて求めてません。ヘタにリアリティーを出そうなんて考えても、結局はプレイヤーをゲンナリさせてしまうだけです。現実的なキャラクターと恋愛がしたかったら、エロゲーなんかやらずに、本物の女に声をかければいいんですよ」 「なるほど」 「とはいえ一応、キャラクター創造におけるテクニックというものも、あるにはあります」 「というと?」 「普通の女性キャラをポンと登場させて『彼女こそが最高の理想的ヒロインだ!』などと宣言してみても、さすがにそんな言葉には真実味のかけらもありません。ですから『理想的ヒロイン』が理想的であるがゆえの、その理由付けを、設定上のテクニックによって、しっかりと補強しなければならないのです。 たとえばテクニックその一、幼なじみ。 主人公の幼なじみをヒロインにすることによって、小さい頃からの仲良しという強い絆《きずな》が発生します。その幻想によって、どこまでも都合のいい理想的ヒロイン像に、ある種の説得力が生じます。 そしてテクニックその二、メイド。 メイドさんをヒロインにします。メイドという職業特性によって、ヒロインと主人公との間に主従関係が発生します。その幻想によって、どこまでも都合のいい理想的ヒロイン像に、ある種の説得力が生まれます。 さらにテクニックその三、ロボット。 ロボットをヒロインにします。ロボットは人間に逆らえないので、『下心を持っていない』『主人公を裏切らない』という理想的ヒロイン像に、ある種の説得力が──」 「……ろ、ロボットって?」 「ロボットはロボットですよ。ロボットをエロゲーのヒロインにするんです」 「……………」 ずいぶんとシュールな話だが、山崎はさも当然という顔をしていた。 「つまり、エロゲーキャラクター製作のポイントはですね、ヒロインが主人公に逆らえない理由を、ヒロインのキャラ設定中に織り込んでしまうことなんです。主人公の命令ならば何でも聞く、聞かざるを得ない、そして無条件に主人公を好きになる──そのような理由を、できる限り物理的に設定してやればいいんです」 俺は、あまり深く考え込まないようにしようと思った。 やけくそ気味に言ってやる。 「同級生で幼なじみのメイドロボットってのはどうだ?」 「いいですね、その設定!」山崎は真顔で答えた。 「……さらに前世で、主人公と恋人同士だったって設定は?」 「さ、最高っすよー」 「そのうえ病弱で、目も見えない、口も利けない。頼れる人は主人公だけ──ってのは?」 「完璧《かんぺき》じゃないですか!」 「さらにアルツハイマーで──」 「ナイスですよ!」 「しかも分裂病」 「パーフェクト!」 「だけど本当は宇宙人だった」 「グレイト!」
その後数時間に及ぶ打ち合わせの結果、我々が製作するエロゲーのヒロイン設定が、ついに決定した。 『主人公の幼なじみのメイドロボット。だが彼女は、盲目で聾唖《ろうあ》で病弱で、しかもアルツハイマーで分裂病の宇宙人だった。だけど本当は幽霊。主人公とは、前世からの絆がある。しかしその実、正体は狐』 「すんげーっすよ! カンペキッすよ! 萌《も》え萌えっすよ!」 「こ」 「なんですか佐藤さん? さっそく今日からシナリオ書いて──」 「こ、こ」 「……こ?」 「こんなん書けるかぁ!……俺の好きにやらせてもらうからな」 俺は山崎を足蹴《あしげ》にすると、自室に戻った。 すでに時刻は深夜二時。 「どうなってしまうんだろう? 俺たちは」などと悩んでみることもあるが、しかし結局はひきこもりのダメ人間だ。限界が来るまで、現実逃避を続けることにした。 そう! 現実逃避と言えばエロゲー製作である。 だからさっそくシナリオを書くぜ! [#改ページ] 2
あっさりと数日が経過した。 『悪の巨大組織に立ち向かう戦士たちの、愛と青春の旅立ち』云々《うんぬん》の、極めて適当なストーリーを、俺は思うがままに書き散らしていた。 最初のうちは驚くほどに順調だった。スラスラと書けた。自らの文才に打ち震えた。 が、すぐに俺は、大きな問題に気がついた。 俺が書いているこのテキスト、それはすなわちエロゲーのシナリオだ。 エロゲーのシナリオである限りは、エロいシーンが必要になる。 つまり、エロ小説的な文章で、イヤらしいシーンをしっかりと描写しなければならないのだ。 濡《ぬ》れ場をじっくり描かなければならないのだ。 ……それは、辛い。 何が悲しくて、二十二歳のこの俺が、エロ小説もどきを書かなければならないのか? 辛すぎる。 部屋に籠《こ》もって早三日。 すでに作業は困難を極めていた。シナリオは一時間に一行も進まない。 語彙《ごい》が。語彙がないのだ。 エロ小説における特殊な比喩《ひゆ》。それが俺の脳内に整備されていなかった。 まったく、迷ってしまう。 単語ひとつ選ぶのに、えらく手間取る。 そしてなにより──恥ずかしい。こんなにも恥ずかしい文章を書いているこの俺は、一体ぜんたい、何を考えているのだろう。現実逃避にもほどがある。 暗い部屋で一人、赤面してしまう。心拍数があがる。冷や汗をかく。キーボードを打つ手が止まる。……もうイヤだ。 エロシナリオなんて書きたくない。あぁ、もうイヤだ。 本当に、イヤだ。 だけどそれでも俺は勇気を振り絞り、全身全霊をかけて文章を構築する。 なぜならば、エロゲー製作をやめた瞬間、必死で忘れようと努めている現実の問題が、大迫力で目の前に迫って来るに違いないからだ。辛い現実を直視せざるを得なくなるに違いないからだ。 それはマズイ。それはダメだ。 だからこそ俺は、以前購入したフランス書院文庫を参考にして、ひたすらエロシナリオを書く。 単語を探せ! 比喩を見つけろ! しかし……なんとも疲れる作業だった。書いては削除。書いては削除。 そろそろ頭が変になりそうだ。 『男はジッパーを下ろし、ジーンズを膝《ひざ》まで』 『い、いやあぁ』 『──姉さん姉さん姉さん』 『柔らかな乳房を』 『しごきあげた』 ダメだ。削除。 『怒張した』 違う。削除。 『雄々しくそそり立った』 ダメだ! 削除削除。 『天を貫く』 ふざけるな! 削除だ削除だ削除だ。 『濡れそぼった』違う! 『毒々しいサーモンピンク』違うってば! 『てらてらと光る』ダメだ! 『べっとりと下腹部に張り付いた』やめろ! 『ぬるぬると』もうイヤだ! 『脈打ち』もうダメだ! 『ラヴィアが』俺は。 『シェル?ピンクの』俺は、俺は。 『白濁した』俺は…… 『小ぶりの乳房を』 『みずみずしい』 『汗ばんだ』 『もっと強く』 『い、いやぁ』 『甘い吐息が』『ふくらみをこすりつけ』 『ツンと尖《とが》った』『揉《も》みしだく』『起伏』 『入力される』『ヒップが』『唇から』 『グラインド』『甘えた』『子猫のような』 『女体の』『張りつめた』『俺は、俺は……』 『怒張』 『股間《こかん》への』『可愛い』『切迫』 『硬くしこった』『淡いピンクの』『見たいんだ』 『うん、いいよ』『あられもない』『何ひとつ覆う物がなくなった』 『船底形のシミが』『恥丘に』『秘裂が』『もうイヤだ』 『ヘソのすぐ下に』『秘部が』『胸を高鳴らせ』『もうおしまいだ』 『怒張』 『秘めやかに息づいている』『シンプルな』『茂みが』 『あふれた蜜《みつ》が』『人差し指で』『まるで、おもらしを』 『じれったそうに』『淫《みだ》らな』『粘膜の』『俺の人生って』 『怒張』 『ピストン』『卑猥《ひわい》な』『裂け目』『未来が見えない』 『怒張』 『粘着音』『漏らし』『熱い』 『ぬかるみ』『突き立てる』『包皮』 『柔肉』『ほんのりと上気した』 『淫靡《いんび》な』『もう死んだほうがいい』 『怒張』 『怒張』 『天を貫く』 『そそり立つ』 『怒張』 『怒張』 『怒張』 『怒張』 『怒張!』 「うがあああああああああああああああああああああああ」 俺は頭をかきむしった。 全削除全削除全削除…… フランス書院文庫などを手本にしたのが、そもそもの間違いだったのだ。フィクションを参考にしてフィクションを書くから、どんどん描写が変になっていくのだ。気が狂いそうになるのだ。 「…………」 だからオーケイ。落ち着け俺。 深呼吸して落ち着いたら──今度は自らの実体験を参考にして、もう一度最初からやり直してみよう。そうしたならば、自らが体験したノンフィクションによって、真実味のあるエロシーンが描けるはずだ。 実体験、実体験── エロゲーに使えそうな実体験となると、かなりの過去を持ち出してくるしかない。五年ほど昔まで遡《さかのぼ》る必要がある。 五年前の、楽しかったあの頃──それはすなわち高校時代だ。 「…………」 俺は目を閉じ、回想してみた。 するとすぐに、その回想シーンの行く先が、精神的に厳しい方向に向かってしまうと気がついた。 俺は慌てて目を開けて、考えるのをやめようとした。しかし、一度方向づけられた思考のベクトルは、もはやとどまるところを知らなかった。 「…………」
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明るく朗らか高校時代。 爽《さわ》やか青春、高校時代。 高校時代と言えば、ほろ苦い恋愛である。世間一般では、そのように取り決められている。 実際俺も、恋愛していた。恋愛シミュレーションゲーム並みに、ドキドキする毎日を送っていた。 たとえば俺は、先輩が好きだった。部活の先輩が好きだった。 文芸部に所属しているだけあって、先輩は結構な読書家なのだった。だけどそのくせ大馬鹿野郎なのだった。 先輩は俺の目の前で『完全自殺マニュアル』を読んでいた。 俺は思う。 そうゆう振る舞いは格好悪いからやめた方がいいのに。スンゲー可愛いんだから、普通にしてりゃあいいのに── だけど先輩は一向に気にする気配を見せなかった。 「なんですか、その本は」 と、しかたがなしに俺が訊くと、先輩は照れ笑いを浮かべて、こう言ったものだ。 「自殺ってのも、ちょっといい感じだと思わない?」 そのころ彼女は、つきあっていた男と酷《ひど》い別れ方をしたとかなんとかで、それなりに落ち込んでいるようだった。 「あのさぁ佐藤君。自殺とかする人ってどう思う?」 そんなことすら訊いてきた。 「いいんじゃないですか。その人が自殺したいんだったら、たぶんそれはその人の自由だと思います。他人がどうこう言うことじゃないでしょう」 「ふーん」 先輩は俺のつまらない返答に感銘を受けるわけもなく、気の抜けた返事をして、膝の上の本に再び目を落とした。 そしてまた、ある日の放課後。 二人だけのトランプに俺が飽きてしまった頃、先輩は言った。 「あのさぁ」 「なんですか」 「佐藤君はさ。やっぱりさ。あたしが死んじゃったりしたら、悲しんでくれたりするのかな?」 その唐突な問いに自分がどう答えたのか、俺にはどうしても思い出せなかった。 ただ数日後、先輩がその細い手首に白い包帯を巻いて学校に来たことだけは、はっきりと覚えていた。 ……まったく、呆《あき》れかえってしまう。どこまで本気で死ぬ気だったのかは知らないが、少しは恥じらいというものを覚えるべきだろう。 「頭の悪い女子中学生じゃないんだから」 すると、先輩は言った。 「あたし、頭の悪い女子高生だから」 志望校は早稲田《わせだ》のくせに、堂々とそんなことを言う女だった。 「ところであたしたちの問題は、どこにも悪者がいやしないってことだよね」 そんな意味不明なセリフを、胸を張って言う女だった。 「誰も悪くないのに。バスケ部の水口君も、あたしも、もちろん佐藤君も、誰も悪い人はいないのに。だけどなぜか、いろいろなことがマズイ方向に転がっていくよね。変だよね」 「変なのは、先輩の頭でしょうよ」 「救急病院から出てきたばっかりの女の子に、そんな冷たいことを言うものじゃないよ佐藤君。 ……ところであのさぁ佐藤君、佐藤君は知ってる? あたしたちは何も悪くないのに、ずいぶんとむやみにいろいろ辛いことが身のまわりに起こる。それはなぜかというと、巨大な組織があたしたちに悪い陰謀をしかけているからで」 「はいはい」 「ホントだよ。このまえ風の噂で聞いたんだけど」 「……はいはい」 頭がおかしいフリをするのが好きな女だった。それでもずいぶんと美人だったので、俺は彼女が好きだった。 卒業式の数日前に、一発ヤらせてもらったりもした。 二年間、ひたすら彼女のご機嫌をとって、その見返りがこの一発かと思うと、それなりに感慨深いものがあった。やたらと興奮したが、なぜか悲しい心持ちもあった。 しかし結局、うまい具合にヤれたのは、その一回だけである。 もっと何回もヤッておくべきだったような気もした。いやいや、むしろ一回もヤらない方が良かったような気もした。 実際、どうなんだろう? あぁ──
渋谷の、コジャレた喫茶店で「どうなんですか?」と俺は訊いた。 数年ぶりに出会った先輩に、俺は訊いた。 この前の日曜日に、いきなり何の前触れもなく電話がかかってきたのだ。『会おうよ』と先輩は言った。俺はのこのこ出かけていった。 待ち合わせ場所はモヤイ像前だった。ちょっと地方出身者っぽい行動だったが、事実俺たちは地方出身者なので、特に問題ない。 出会い頭に、先輩は言った。 「佐藤君の実家に電話をかけて、佐藤君の今の連絡先を教えてもらおうと思ったら、君のお母さんにセールスマンと間違われて、だいぶ胡散《うさん》くさがられたよ」 「あぁ、よくあるんですよ。学校の同級生を名乗って、名簿を集めようとする業者──」 数年ぶりに再会して、一番最初の会話がこれかと思うと、ちょっとげんなりした。 が──が、記憶に違《たが》わず先輩は、やはりばっちり可愛かったので、俺はだいぶドキドキした。ついでに、ひきこもり特有の視線恐怖と広所不安がやってきた。 喫茶店に入っても、冷や汗が止まらなかった。 窓際の席に座った先輩は、アイスコーヒーなどをストローでかき回しながら訊いた。 「あのさぁ佐藤君、君、今、なにやってるの?」 俺は包み隠さずに本当のことを答えた。笑顔で。 すると、先輩も笑った。 「もしかしたら、そんな感じになってたりとか、ちょっとは予想済みだったけどね」 俺は自慢してやった。 「いやもう、籠もり籠もってもう四年ですよ! プロフェッショナルのひきこもりです!」 「やっぱり今も、外に出るのは大変なの?」 俺はうなずいた。 「なら、良いものがあるよ」 先輩は、小さなバッグからピルケースなどを取り出して、何やら小粒の錠剤を俺に手渡した。 「これ、リタリン」 「なんすかそれ?」 「抗鬱《こううつ》剤。覚醒《かくせい》剤の親戚《しんせき》みたいなクスリだから、すっごい効くよ。これでいつでも元気でバリバリ!」 先輩は、今もやっばりおかしい人だった。精神科を三つはど掛け持ちしているそうだ。 それでも彼女の心遣いは、なかなかに嬉しかったので、俺はありがたく、そのあやしげな抗鬱剤をいただいた。 そしたら元気になった。 俺たちは無駄に陽気に会話を交わした。 「高校時代は、佐藤君、普通だったのにね。……いや、そうでもないか」 「先輩は、今、何やってるんです?」 「無職」 「大学は卒業したんでしょう?」 「そうだけど、だけど今は無職。……もうすぐ主婦になるけど」 「へぇ、結婚するんですか」 二十四歳の若奥様か。萌え萌えだ。 「ビックリした?」 「それなりに」 「悲しい?」 「まさか」 「どうしてさ?」 「どうなんですか?」 喫茶店を出た。先輩は俺の周りをくるくるとふらつきながら、にこやかに笑っていた。 そして「あたし、今、幸せだよ」と言った。堅実な国家公務員、金持ち、それでいて格好いい、つまりは最高な人との結婚だ! と自慢してくれた。 「難しく考えちゃダメだよ。複雑なことを考えたらダメだよ。ハッピーだよ」 そのセリフはひたすらに陽気で、どうやら彼女も例のクスリを囓《かじ》っているらしい。 人混みをすいすいとすり抜けながら、先輩は言う。 「あの頃、ちゃんと付き合っておけば良かったかもね。佐藤君、凄くあたしが好きだったんでしょ?」 「凄くヤらせてもらいたかったです」 「ごめんねホントに。毎日トランプなんかしてる場合じゃなかったよね」 「別れ際の一発ってのは、だいぶキツイものがありました」 「もしかして、君がひきこもっちゃったのも、あたしのせいかもね」 「……それはぜんぜん関係ないですよ。もっとこう、別の大きな──」 「巨大組織とか?」 「ええそうです。巨大な悪い組織に、俺はすっかりやられちゃったんです」 「あたしも、ねえ。悪い組織にたぶらかされたよ。もうダメかもしれないよ──」 そして先輩は唐突に、子供が出来たと教えてくれた。 「スゲー! マジスゲー! 母親じゃん!」 俺はビックリした。 「だから結婚するの。これであたしは人生合格! もう、バッチリ軌道に乗ったよ。あとはもう、このまま一直線に行けると思うよ」 先輩は、俺の前方一メートルを、てくてく早足で歩いていた。だから表情は窺《うかが》えない。しかしその声色から察するに、事実正しく浮かれている。ハッピーなのだ。そうに違いない。 「良かったですね。良かったですね。良かったですね」 俺は同じセリフを三回連呼して、彼女の新たな門出を盛大に祝った。 「佐藤君、辛くない?」 先輩は足を止めた。 「いや、別に」 俺も立ち止まった。 「なんか知らないけど、あたしは辛いよ」 いつのまにやら、ここはホテル街だった。 真っ昼間だというのに、女の肩を抱いて歩く奴が、数組ぶらぶら歩いていた。俺はちょっと興奮した。 「不倫とか、しようか?」 そんなことを言って先輩は微笑む。 「若奥様と不倫! テレビみたいですね!」俺はますます興奮する。 「一回しかヤらせてあげなかったから、可哀想だからね」 「…………」 俺たちはホテルの前で、真正面から向き合っていた。 ものすごく休憩していきたかった。 だけど二人とも、笑っていた。 「……先輩は、今、幸せなんでしょう?」 「そうだよ」 「もはや先輩は、巨大な組織の手の届かないところにいるんでしょう?」 先輩は、もう一度、「そうだよ」と言った。 「なら、俺は帰ります」 俺は前屈《まえかが》みになりつつそそくさと立ち去った。 すれ違いざま、先輩の横顔を盗み見た。 涙が流れていた。 そりゃあねえぜと俺は思った。
まったく、先輩のように、可愛くて気だての良い人間ぐらいは、にこやかに健やかに軽やかに、誰もが羨《うらや》むぐらいの幸せをゲットしたっていいはずなのだが。あーゆー可憐な人ぐらいは、悩みのない人生を送ってくれても良さそうなものだが。 しかし現実は、またしてもまたしても、ロクでもなく陰鬱《いんうつ》で、どうしようもない。 やるせない怒りがあった。だけども、腹を立てて殴りつける、その相手が見つからない。 巨大な組織。願わくば、巨大な悪の組織が存在していて欲しいのだが。それが俺たちの願いだったのだが── 「…………」 嫌なことばかりが溢《あふ》れていた。世の中は、複雑でグチャグチャな、ワケの分からない、理解しがたい、不幸と悲しみに包まれていた。 大学の友人は自殺した。『夢に破れて恋にも破れたので死にます』などと、頭の悪い遺書を残して自殺した。小学校の同級生は結婚して離婚した。男手ひとつで二児を育てるヤマダ君、白髪が生えてて笑ってしまった。男と同棲《どうせい》してたカズミちゃん、実家に帰った。公務員を目指してたユウスケ君、試験に落ちた。エロゲーを作る山崎君、夢やぶれた。 『僕は自分の才能を試す。……いや、別にエロゲーじゃなくてもいいんですけど、何かをやって、やってやる』 洒に酔っぱらってそう宣言した彼の未来も、もはや牛を追う酪農家だ。逃げ出すすべは、見あたらない。 みんな笑っていたのだが。みんなはしゃいでいたのだが。 同窓会とかコンパとか、そうゆう場所では楽しげで、カラオケなんかも楽しげで、あの頃みんな、楽しげで、このさき未来は完璧だ! 俺たちは何にでもなれる! なんだってできる! 幸せになれる! そう確信していたはずだったのに── そうなのだ。じわじわと、本当にじわじわと、あまりに遅くて気がつかないほどの、どこまでもどこまでもイヤらしいスピードで、俺たちはゆっくりと追いつめられているのだ。困ったり、参ったり、泣いてみたりしてみても、どうしようもないのだ。誰もがみんな、いつかは大変な目に遭うのだ。それは遅いか早いかの違いだけで、結局いつかは、ものすごくやりきれない事態に陥ってしまうのだ。 だから──俺は、怖いんだ。 かなりいろいろ、怖いんだ。 なぁ先輩。 俺はダメですよ先輩。あなたが見合いでゲットした公務員なんかよりも、俺は五百倍ぐらいへボい人間です。だから俺にはどうしようもない。すんげーヤりたかったけど、余計に辛く、なるだけだ。別にカツコつけてたわけじゃない。あぁ不倫したかったなぁ。しかしそれは無理なんだ。無理に決まってる。自分のことすら手が回らない、情けないひきこもりのこの俺には、あなたを喜ばせてやるだけの力は無い。……いや、テクニックがどうとかって話じゃなくて。 あぁ、俺だって、強い人間になりたかったさ。頼りがいのある、そこにいるだけで周囲を明るくする、そんな人間になりたかったさ。幸福をばらまきたかったさ。 しかし現実は、ひきこもりだ。外を恐れるひきこもりだ。 なんか知らないけど怖くて怖くてしかたがないんだ。 だからもう、ダメなんだ──
*
来月、仕送りがストップする。そのとき俺は、どうしよう? この生活も、もうすぐ終わる。 いっそ人生、終わらすか? 「…………」 俺はエロゲーのシナリオを書いていたパソコンの電源を切り、とりあえず山崎に電話をかけた。 『ごめん、シナリオ、もう書けない』と謝ろうとしたのだ。 だが電話は話し中だった。耳を澄ますと、隣室から怒鳴り声が聞こえてきた。 『どうしてそうゆう話になるんだよ!』 『そもそも僕は、自分の金で、こっちに来たんだ。あんたらの指図を受ける義務なんて、どこにもない!』 などなど、どうやらまたまた親と揉めているらしい。 どこも大変だ。 俺もそろそろ本格的に、生きていく勇気がなくなってきた。 一句浮かんだ。
梅雨明けて、すかっと爽やか、スーサイド
かぶり俺は頭を振った。とりあえず、今日のところはもう寝よう。 パジャマに着替えてベッドに横になろうとした。 「…………」 そのとき、テレビの上に置いてあった一枚の紙切れが目に留まった。 それは、岬ちゃんからもらった契約書だ。 いつだったか、コンビニの雑誌コーナーでマンガを立ち読みしていると、いつの間にやら背後に岬ちゃんがいた。彼女は『今度会う時までに、サインとハンコを押しておいてね』と言うと、鞄《かばん》の中から表の紙切れを取り出して(ずっと持ち歩いていたらしい)、俺に手渡した。 「…………」 その紙切れ──すでに何度も目を通しているその紙切れを、俺はもうl度、手にとって読んだ。 やはりそれは、あまりにもバカらしい、どこまでも意味不明な文面の、頭が痛くなってきそうなしろものだった。しかし、マックスに神経衰弱している今の俺には、妙に魅力的な紙切れでもあった。なので、ついつい俺は、その契約書にサインをして、ついでにハンコを押してしまった。 「……………」 その契約書をポケットに突っ込み、近所の公園へと赴く。 夜。 月が出ていた。どこかで犬が吠《ほ》えていた。 ブランコ脇のベンチに座り、ぼんやり夜空を見上げていると、唐突に岬ちゃんがやってきた。 今夜も宗教ルックではない、通常の衣服に身を包んでいた。 俺の隣に腰を下ろし、訊《き》いてもいないことを弁解してくれる。 「別に、毎晩毎晩、あそこの窓から公園の入り口を監視しているワケじゃあないよ」 俺は笑った。 その小さな笑い声が消え去って、犬の遠吠えも鳴りやんで、聞こえてくるものが、遠くの方の救急車のサイレンだけになった頃に、岬ちゃんは訊いた。 「ゲーム作り、終わったの?」 「あ、あぁ、エロゲー製作は結局中止になった。──って、なんでそれを?」 「この前、山崎君がマンガ喫茶に来たとき、小耳に挟んだんだけど。ところでエロゲーって何?」 「……エロアとガリオアの略だよ。要するに、EROA──占領地域経済復興資金と、GARIOA──占領地域統治救済資金のこと。第二次大戦後のアメリカ占領地における、疾病や飢餓などの社会不安を防止するために、アメリカ政府が──」 「それ、大嘘でしょ」 「うん」 「クリエイターつてのも、やっぱり嘘でしょ」 「うん」 「本当は、無職のひきこもりなんでしょう?」 「……うん」 俺は契約書を差し出した。岬ちゃんはそれを素早く奪い取ると、ぴょん、と飛び上がった。 「ようやくその気になってくれた。これで佐藤君は、もう大丈夫。ちょっとの訓練で、広い世界に旅立っていけるよ」 「……岬ちゃん、結局あんた、何者だ?」 「だから前から言ってるでしょう。苦しんでいる若者を救済する親切な娘だってば。……あぁ、もちろんこれは、あくまでプロジェクトの一環としての活動なんだけど、だけど安心してていいよ。なんにも悪いことはないからさ。ね?」 どこまでも嘘臭い話だった。 が── 「とにかく、これで契約完了! 契約を破ったら、罰金百万円だからね」 岬ちゃんは契約書をポケットにしまうと、ニッコリ微笑んだ。ここに至って、俺はようやく不安になってきた。自分がものすごい間違いを犯してしまったような気がした。 この契約書。どこまで法的な強制力が働くのだろう? 大学の頃の、法学部の友人にでも尋ねておけばよかった。 ちなみに契約書の文面は、こうである。
ひきこもり脱出と、そのサポートに関する契約書
ひきこもり者名 佐藤達広 脱出サポート著名 中原岬
ひきこもり者を甲とし、脱出サポート者を乙として、両者の間に次のとおり契約する。 1.甲はそのひきこもり脱出に関し、乙に苦悩、葛藤、泣き言、弱音、その他いっさいの内 心をうち明ける。 2.甲のひきこもりに関して、乙はその脱出のために尽力し、社会復帰(以下「丙」)を成 功させるよう努める。また、丙への過程において、乙は甲の精神状態の保全をはかる。 3.そのかわり、甲は乙に対して、丁寧な口を利く。 4.甲は乙の言うことを、何でも素直に聞く。 5.あと、甲は乙を、うるさがったりしない。乙を、邪険に扱ったりしない。 6.当然、殴る蹴るの暴行を加えたりもしない。 7.カウンセリングは、毎晩、三田四丁目公園で行われる。夕ご飯を食べた後に来ること。 8.そうすれば、たぶん、良い方向に行くと思う。 9.約束を破ったら、罰金百万円。
文面を思い返してみると、激しい不安に襲われた。 「やっぱりやめた! 契約書返せ!」 しかし岬ちゃんは、とっくの昔に公園の外へと歩き去っていた。 取り残された俺は、ひとり途方に暮れていた。 [#改ページ] 七章 回転する岩石
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いつのまにやら社会的精神的に追いつめられていた──そんな感じの夏だった。 いつのまにやら脱出不可能な檻の中に閉じこめられていた──そんな感じの七月だった。 「ヘルプミー!」と救済を求めてみる。しかし、愛も夢も希望も、努力も友情も勝利も、決して俺たちを救ってはくれなかった。困ったものである。 たとえば山崎は叫んでいた。 「おおおお! ふざけてるんじゃないぜよなぁ!」 彼には大志があったのだが。彼は小さい頃から考えていたものだが。 『こんな腐れたクソ田舎から抜け出して、都会で一旗揚げてやる』 『ぎぎぎ偽善者どもめ! いつか見てろよ見返してやるからな!』 『僕には才能があるのさ! どんな才能かは知らないが、ともかく僕には才能があるのさ!』 だけども彼は、自らの才能の有無を確かめる前に、もうすぐ田舎に帰らねばならなくなった。くだらないしがらみと、イラつく笑顔と、田舎ヤンキーと、地元政治家が作り上げた無駄に広い国道と、一軒だけのコンビニの──嫌な感じのクソ田舎に、彼はUターンせねばならなくなった。ご愁傷様である。 そうして俺も、みごと雄々しく叫んでいた。 「うあああ! もうダメだもうダメだもうダメだ!」 自分にも何がダメなのかよくわからないが、とにかくダメなことは確かだった。あまりにダメな要因が多すぎて、解決の糸口がまったく見えないのだ。 たとえば先日、とうとう実家からの仕送りが止まった。それなのに、なぜか働く気力が湧いてこない。ここまで追いつめられていながらも、外に出られない。『高レベルひきこもり人間』という俺の肩書きは、伊達《だて》ではないのだった。 しかし──せめて生活費だけでも早急に工面しなければ、明日にでもアパートを追い出されてしまう。なんとかせねば。 そこで俺は、学生の頃に作ったカードで、ちょっと大胆に借金してみた。ついでに家具も売った。近所のリサイクルショップに、洗濯機と冷蔵庫とテレビとパソコンとコタツとベッドを持ち込んで、蔵書なんかも、ぜんぶ古本屋に売り払ってみた。すると、当面の生活費が工面できた。 執行猶予がついた。 そうして俺たちは、暇になった。 この暇をどうやってすごすか、それが当面の問題だった。 「どうしよう? なんにもやることがないなぁ」俺は山崎に相談した。 山崎も途方に暮れているようだった。アパートの床に俯《うつぶ》せになって、力無く呟《つぶや》いていた。 「時間は結構あるんですけど、なんとなく落ち着きませんよねぇ。……現実逃避するにしても、できることならば、スカッと爽やかに逃避したいものですねぇ」 現実逃避──その言葉に触発された俺は、良いことを思いついた。 「逃避と言えば、刹那《せつな》的な若者のすることだよな」 「……はぁ」 「で、刹那的と言えば、ロックだよな」 「……!」 俺は山崎の肩をガクガクと揺さぶった。 「そうだよ、ロックンロールだよ! セックス?ドラッグ?バイオレンスだよ!」 山崎も立ち上がり、拳《こぶし》を振り上げ、大きく吼《ほ》えた。 「なるほど! それは最高ですね1……ところでロックンロールと言えば、実は僕、ジェリー?リー?ルイスを尊敬してるんです」 「誰それ?」 「周囲の反対を押し切って十三歳のいとこと結婚した、五十年代のロリコンロックンローラー、いわばロリコン界の巨人です。その生き様、まさに反体制! 火の玉ロック!」 「…………」 ともかく、これからのトレンドは「セックス?ドラッグ?バイオレンス」に決定した。そのような方向性で生きていくことで、多少は元気で朗らかな若者らしい毎日が過ごせるのではないか──そんな虫のいい希望があった。
?セックス セックスと言えば18禁だ。 18禁と言えばエロゲーだ! 「…………」 いまだ山崎はエロゲー製作を続けていた。──なんのために? それは誰にもわからない。だが、とにかく悲しい。もの悲しい。それだけは確かだ。なぜだか知らないが、泣きたくなった。
?ドラッグ 俺は家具を売って工面した金を使って、悪いドラッグを購入した。 「だけどこれ、ぜんぶ合法モノじゃないですか!」山崎が文句を言った。俺はうなだれた。 「……しょうがないだろう。通販で非合法薬物なんて買えるわけがない。ひきこもりには、これが精一杯なんだよ」 「惨めな話ですよね。なんかすごくかっこわるいですよね」
?バイオレンス そして最後に俺と山崎は、六畳一間で格闘することにした。家具の無くなった部屋の真ん中で向かい合い、ファイティングポーズを取ってみた。 俺はこの前テレビで見たブルースリーのまねをした。山崎は、格闘ゲームを参考にして、鶴の構えをとっていた。 そうして俺達は、殴り合おうとした。すると、フローリングの床に滑って転んだ。後頭部を思いっきり床に打ち付けた。涙が出てきた。 「ぜんぜん楽しくないですね」 「そんなこと言うなよ」 「余計に虚《むな》しくなりますね。──そうだ、公園でやりましょうか?」 「……まずはそれよりも、せっかくだからクスリを使おう。合法だからってバカにすんなよ。結構キクぞ。楽しくなるぞ」 事実、クスリは効いた。酷いバッドトリップで死ぬかと思った。 死のうかなと思った。 [#改ページ] 2
しかし俺は死ななかった。 かなりの最悪ひきこもり生活を送る俺であったが、それでも一応、人と会う約束というものも、存在するには存在したのだ。 アパートの外に人の気配が無くなった頃、遅い晩飯を腹におさめて良いあんばいになった頃──つまりは夜。 夜になったら、俺は向かう。近所の公園に、俺は、向かう。 初夏の夜風が心地良い。 ベンチに座って見上げれば、空には月、そして星。 その俺の目の前を、悠々と横切っていく黒猫。街灯を反射してキラリと光る、彼の瞳《ひとみ》、その輝き。 ──あぁ、夜だ。 まさしく今は、夜だった。夜の公園には、岬ちゃんがいるのだった。 「遅いよ」 ギコギコとブランコを揺らしていた彼女は、俺に気がつくと、大きく勢いをつけて飛び降りた。その足元に黒猫が忍び寄る。岬ちゃんは猫を抱き上げた。猫は「にゃん」と鳴いたが逃げなかった。 「良い子だ。今、缶詰あげるからね」 岬ちゃんは背中の鞄からキャットフードを取り出した。毎晩こうやって、餌付《えづ》けしているらしい。 「猫は良いよね」岬ちゃんが言った。 「何が?」 「猫は平気そうだもんね、いつでもどこでも、ひとりでも」 そのセリフの意味はイマイチよくわからなかったが、俺は適当なことを言ってやった。 「猫って結構恩知らずだぜ」 「知ってるよ」 「すぐに岬ちゃんのことなんて忘れちゃうぜ。キャットフードの投資なんて無駄無駄」 「こうやって、猫が欲しがってるものをあげてるうちは、きっと大丈夫。あたしのことを覚えててくれるよ。邪険にしないよ。毎晩公園に来てくれるよ。ね?」 ガツガツとキャットフードを喰らう猫の背中を、彼女は優しく撫でていた。猫は食事を終えると、とことこと茂みの中に歩き去っていった。俺たちはベンチに腰を下ろした。岬ちゃんは、鞄の中から『秘密ノート』を取り出した。 そうして今夜も、ひきこもり脱出のためのカウンセリングが始まるのだった。
*
岬ちゃんが言うところのカウンセリング。 その初日からして、彼女の言動は充分におかしかった。まったく、なにかのギャグかと思った。 だけど彼女は本気のようだった。 「遅いよ。夕ご飯食べたら来るようにって、契約書に書いてあったでしょうが」 「俺はさっき食ったばっかりなんだけど──」 「あたしの家は、七時に夕食なの」 んなこと知るかぁ! と叫びたかったが、俺はぐっと堪《こら》えた。 「まぁ、明日からはもう少し早く来てよ。……とにかくそれじゃあ、これからひきこもり脱出カウンセリング、その第一回目を始めるからね。はい、ここに座って」 俺は言われたとおりに、ベンチに腰を下ろした。岬ちゃんも正面のベンチに座って、俺に向かい合った。 夜の公園、誰もいない。 ──これから一体、何が始まるのか? この小娘は何を始めるつもりなのか? ちょっとドキドキしてきた。 と、何やら岬ちゃんは、背中に背負った巨大な鞄を下ろし、その中をごそごそとあさり始めた。 そして「……あ、あったあった」などと呟き、一冊の大学ノートを取り出した。その表紙には、黒いサインペンで『秘密ノート』と書き込まれていた。 俺は訊いた。 「何それ?」 「秘密ノート」 「だから、何それ?」 「……秘密ノート」 「…………」 岬ちゃんは秘密ノートを開いて、付箋紙《ふせんし》が貼り込んであるページをめくった。 「はい、それではこれから講義を始めます」 街灯の逆光で、彼女の顔は窺えない。しかしその声色は、ずいぶんとマジメだ。ワケがわからないままに、俺はごくりと喉《のど》を鳴らす。 岬ちゃんは講義を始めた。 「えーと。まずはひきこもり概論から。──さてさて、ひきこもりの原因、それは一体、何なのでしょう。佐藤君にはわかりますか? え? わからない。そうでしょうそうでしょう。大学を中退しちゃった佐藤君の頭では、こんな難しい問題、きっとわからないことでしょう。ですが、あたしにはわかります。あたし、頭が良いから。今も大検の勉強中だよ。毎日五時間の勉強。偉いでしょう。ははは──」 ははは──と笑いながら、彼女は先を続けた。 「あたしの研究成果によると、ひきこもりに限らず、すべての精神的問題は、身のまわりの環境との不適合によって引き起こされます。ようするに、この世の中と上手にやっていくことができないから、いろいろ苦しいことが起こるんです」 そこで岬ちゃんは次のページをめくった。 「古来あたしたち人類は、世の中とうまく折り合いを付けていく方法を、いろいろ頑張って考えてきました。たとえばそれは神様です。いろいろな神様がいます。日本だけでも、八百万人。──え? 八百万? それってちょっと多すぎるよね? これホント?」 「…………」 「……ま、まぁとにかく、世の中には沢山の神様がいて、そのおかげで、苦しみから救われる人も、結構沢山いるみたいです。会館とかにね。……だけど、神様に救ってもらえない人は、他のことを考えるんです。たとえば哲学とか」 岬ちゃんは再び鞄の中をあさり始めた。顔を突っ込むようにして、巨大な鞄の中を調べている。 そして──ようやく捜し物を見つけたらしい。 「あ、あったあった。はいコレ」 何かの本を取りだして、俺に手渡した。その本のタイトルは、『ゾフィーの世界』。 「なんだか難しくてよくわからなかったけど、哲学関係は、その一冊でバッチリわかるらしいよ。図書館から借りてきた本だから、明日までに読んでおいてね」 本を受け取ったまま、どうしたものかと途方に暮れていると、岬ちゃんの話はさらにどんどん先に進んで行った。 「えー、さて。哲学の次は、精神分析! フロイトさんって人が考え出して、十九世紀ぐらいから流行したらしいよ。精神分析を受けると、すごく悩みが消えたりするそうです。 ……たとえば今日の夢、覚えてる? これから分析してあげるので、佐藤君が見た夢の内容を教えてください」 俺は言ってやった。 「すごく巨大で逞《たくま》しい蛇が出てきた。その蛇が、海に潜った。あと、リンゴとかに太い剣を突き刺した。それと、黒光りする立派な拳銃《けんじゅう》を打ちまくった」 するとまたまた岬ちゃんは、巨大な鞄から一冊の文庫本を取りだした。その本のタイトルは、『夢分析──この一冊で、あなたの深層心理が手に取るようにわかる!』。 「えーと、蛇、海、リンゴ、剣、拳銃……」 ぶつぶつと呟きながら、索引を検索している。──と、ふいに岬ちゃんは顔を赤くしてうつむいた。真っ暗な公園でも、なぜだかその様子が手に取るようにわかった。 「ふ、フロイトは終了! 次はユング!」岬ちゃんは大声で叫んだ。 「なぁ、夢分析の結果はどうなんだよ? 逞しい蛇は、一体何を象徴しているのか、それを岬ちゃんの口から聴かせてくれよ」 俺はねちっこくセクハラしてやった。 「ユング。この人は、フロイトさんとケンカして、別の方向に行ったらしいです。それでは、ユング流の精神分析開始!」 「なぁ、無視すんなよ。おい、ちょっと──」 「あたしが見たところ、佐藤君は、『内向』タイプの、『感情』タイプ! グレートマザーに脅《おび》えています。あと、シャドーとかともケンカしています。大変ですね。詳しくは、この本を読んでください」 そうして岬ちゃんは、またもや鞄の中から本を取りだして俺に手渡した。その本のタイトルは、『マンガでわかる、ユングのすべて!』。 頭が痛くなってきた。しかし岬ちゃんの講義はまだまだ続いた。ユングからアードラーから、果てはラカンまで。「ラカンはわからん!」と言ってニッコリ微笑む彼女の素敵さに、俺はすっかり打ちのめされた。もう部屋に帰りたい。 そんな俺の様子を見かねたのか、岬ちゃんは大胆に方向転換した。 「あぁ、ごめんね、難しいことばっかり言っちゃって。やっぱり佐藤君には、こうゆう学術的な話は向いてなかったみたいです。……でも、大丈夫だよ。明日があるから」 「……はぁ?」 「人間だもの、苦しいよ」 「…………」 「悩んでる君は可哀想。だけど、上を向いて歩こうよ。そのままの君でいいんだよ。夢があるから大丈夫。ひとりぼっちじゃないんだよ。歩いていけば、道はあるのさ。みんなが君を、応援してる。頑張ってる君、輝いてる。ポジティブシンキングで行けばいいのさ。明日に向かって一緒に歩こうよ。未来は素敵だよ。人間だもの、人間だもの、人間だもの……」 俺は岬ちゃんの鞄をひったくると、逆さまにした。どさどさどさっと大量の書物が地面に雪崩落ちた。──PHS文庫、知的生活文庫。『早わかり精神分析』『完全精神病マニュアル』『人生に詰まった時に読む本』『マーフィーズゴーストの人生成功法則』『脳髄革命』『みつお』『みつる』エトセトラエトセトラ── 「なぁ岬ちゃん。あんた俺のこと、バカだと思ってる?」 岬ちゃんは、「そんなことないよ」という顔をして、ふるふると首を振った。
*
ともかく、現在までの一週間にわたる岬ちゃんとの接触によって、彼女の一生懸命さだけは理解できた。 そう。彼女は実に頑張っていた。最初の数日間は、その努力が思いっきり空回りしていたが、ひきこもり問題を一生懸命に考察してくれる彼女の熱意、ただそれだけは、確かに本物らしかった。 ……もちろん、彼女の真意がどこにあるのか、本当は何を企《たくら》んでいるのか、それはいまだにわからない。わからないが、まぁ、それは結局どうでもいい。 若い娘との交流によって、俺の腐れ果てた精神に少しでもエネルギーが充填《じゅうてん》されてくれれば、それで万々歳なのである。いつかマズイ問題が持ち上がったとしても、もはや俺には失うものなど何もないのだ。それにどっちみち、どうせもうすぐお別れである。アパートから追い出されるか、それとも何か、別の方法でどっかに行くか──とにかくもうすぐ、俺は消える。そのときまでの、単なる暇つぶしなのである。 ──と、そんな感じのナゲヤリなことを考えているので、親しくない女子とふたりっきりで会話を交わすという、ひきこもり人間にとっては最大級のプレッシャーになる現在のシチュエーションも、今の俺にはまったく苦にならない。 当然、いかに岬ちゃんが可愛くても、それでどうこうしてやろうという気も起こらない。『チカンに注意!』という看板が公園の入り口に設置されているが、これでも俺は紳士的なひきこもりだ。だから安心してくれ岬ちゃん。 「んん? なにさニヤニヤして」 「……いやいや、それよりも今日の特訓メニューは?」 いつものようにベンチに腰を下ろして俺に向かい合っている岬ちゃんは、やはりいつものように秘密ノートを覗《のぞ》き込んだ。 「えーと、今夜のメニューは、会話の仕方!」 「はぁ?」 「ひきこもり人間は一般的に言って、会話がヘタクソです。他人とお喋《しゃべ》りするのが苦手なために、余計に部屋に籠《こ》もります。今夜からは、その辺りを矯正しようと思います」 「ほう」 「そうゆうわけで、これからあたしが素晴らしい会話テクニックを伝授してあげます。よく聴いていてください」 岬ちゃんは秘密ノートにちらちらと目をやりながら講義を始めた。俺はよく聴いた。 「人と話すと緊張する。だからドモったり、困ったり、青くなったり、舞い上がったりする。それでますます精神の安定が無くなって、どんどんと会話がへたくそになっていく──そのような悪循環を断ち切るにはどうしたらよいのか? 答えは簡単です。緊張しないようにすれば良いんです。なら、緊張しないためにはどうするか? なぜ人は、緊張するのか? それはですねぇ、自分に自信がないからです。自分が相手にバカにされているのではないか、相手に見下されているのではないか、相手に嫌われているのではないか、そのようなことを考えてしまうからなのです」 だからどうした、と口を挟みたいところではあるが、岬ちゃんの口調は真剣だった。 「つまり問題は、いかにして自分に自信を持つかという、その点に尽きます。ですが──自信を持つ。それは実際、ずいぶんと難しいことです。はっきりいって、普通のやり方では不可能です。だけどあたしは不可能を可能にする、すごく画期的な方法を考え出しました。その方法、知りたいですか? 知りたいでしょう?」 そう言って俺を見る。うなずくしかない。 すると岬ちゃんは、重々しく口を開いた。 「……いいですか、よく聴いてください。発想のコペルニクス的大転換なんです。つまり──自分に自信が持てないのなら、相手を自分よりもダメ人間にしてしまえばいい! そうゆうことです!」 ……まったくもって、意味がわからない。 「ですからね、会話の相手を、自分よりもさらに酷《ひど》いダメ人間だと想定するんです。人間のクズだと仮定して、思いっきり見下すんです。そうしたら、緊張することなく、落ち着いてスラスラと話せます。のんびりします。和みます。──ね?」 「…………」 「だけど、注意点があります。──内心で思ってることを、わざわざ相手の人に教えちゃダメですよ。怒られるから。……佐藤君だって、面と向かってクズとか最悪とか人間失格とか言われたら、きっとすごく落ち込んじゃうでしょう? だからあたしは黙ってます」 これは……と俺は考えた。 これはもしかして、ものすごく遠回しな、俺に対する悪口なのか? それにしては、岬ちゃんの表情はずいぶんと無邪気だ。 俺は訊いた。 「もしかして岬ちゃん、その『会話テクニック』、日常生活でも実践してる?」 「うん、してるよ。……でもねぇ、やっぱりなかなかうまくいかない。たいていの人はあたしよりも立派な人だから、会話の相手をダメ人間だと思いこもうとしても、普通は失敗する。だけどその点、佐藤君なんかが相手だと、すごく自然に──」 「すごく自然に?」 「……やっぱりいいや。言うと傷つくから」 とっくの昔に傷ついている。 「気にすること無いよ。佐藤君みたいな人でも、それはそれで人の役に立ってるんだから」 そうして岬ちゃんはベンチから立ち上がった。 「今日はコレでおしまい。また明日」 [#改ページ] 3
山崎はひとりでゲームを作っていた。俺が途中まで書き上げたシナリオを使って、ひとりシコシコとゲーム製作に励んでいた。先日購入した幻覚剤で脳味噌《のうみそ》に気合いを入れつつ、無言でひたすらパソコンに向かっているのだった。 これもまた現実逃避のひとつの形か。実に末期的である。 しかし──幻覚剤をキメながらのゲーム製作など、はたして本当に可能なものなのだろうか? 俺は山崎の背中越しに、パソコンのディスプレイを覗き込んだ。 「…………」 ディスプレイは、細かいフォントで書かれた大量の文章で、びっしりと埋め尽くされていた。 『苦死不安最悪地獄毒奈落等、それらを操る巨大な組織、それが僕らの敵なのだ、そんな敵を倒してヒロインの愛をゲットするのだ、それがこのゲームの使命なのだ! だけど敵は目に見えないぞ、どこにいるのかもわからないぞ、だから気をつけろ! 後ろから刺されるぞ、危険危険──』 「……なにこれ?」俺は訊いた。 山崎は椅子を回転させて、ゆらりと振り返った。 瞳孔《どうこう》が完全に開ききっていた。唇を限界まで引きつらせていた。見る者を恐怖させる、危険な笑みを浮かべていた。 「何って、見ればわかるでしょう? これが僕のエロゲーですよ。このエロゲーは、いわばRPGで、主人公がプレイヤーです。プレイヤーはテキストファイルを読みながら、ゲームを進めていくんです。すると、色々と大切なことがわかるようになっていて、さらにヒロインも萌え萌えなんです。ホウラ、すごいんですよ。ヒロインは猫耳をはやした宇宙人なんです。だけど、ヒロインは敵に拘束されています。敵というのは悪者です。目に見えない悪者です。その目に見えない悪者を目に見えるようにする、そこにこのゲームの真意があります。そこに人生の真理が存在します。──ねぇ? わかりますか? ようするに僕は、この世の真理を悟ったんです。その悟りを、皆に広める使命があると知ったんです。そうしてこのエロゲーは、新世紀の聖書となるんです。百万本売れるんです。金持ちになるんです。 だから──あぁ、楽しいなぁ。……ねぇ、佐藤さんも楽しいでしょう?」 俺は恐怖におののき、一歩あとずさった。すると山崎は「ひひ」と金属的な笑い声をあげた。 その自らの声に触発されたのか、彼の笑いは、まもなく爆笑にまで高まった。 「……ふふふ、あははは、ひひひひ! あぁおかしい!」 山崎は椅子から派手に転げ落ちると、四つん這《ば》いになって、全身をがくがくと震わせながら俺に近づいてきた。その様子はゾンビ映画を想起させた。俺は軽い恐慌をきたして、立ちすくんでしまった。その俺の足首を強い力で捕まえると、山崎は叫んだ。 「おかしくっておかしくって、しかたがないなぁ!」 俺は怖くて怖くてしかたがなかった。 「虚しくて虚しくてやってられないなぁ!」 その点については同感だったが、クスリではじけた山崎は、とにもかくにも大迫力に恐ろしかった。俺は一刻も早く彼が正気を取り戻してくれるよう祈った。しかし彼は、いつまでたっても元に戻らなかった。振り切れた笑顔を浮かべ、ひとりでくすくすと笑っていた。 「…………」 しょうがないので、俺も仲間入りすることにした。 白いクスリを鼻腔粘膜から吸収。 すぐに効き目は現れた。 「……あぁ、楽しいなぁ」 「面白いですよね」「すごく愉快だなぁ」「最高ですよね」「……だけど、あぁ、もうダメだ」「おしまいですか?」「辛《つら》いなぁ」「惨めですよね」「どうすればいいんだろう?」「どうしようもないですよ」「苦しいなぁ──」 またもやバッドトリップだった。 幻覚剤の効果は、本人の心理状態と周囲の環境──いわゆるセットとセッティングによって左右される。楽しい気分でクスリを使えば天国行き、落ち込んでいるときにクスリを使えば地獄に直行。だから現実逃避目的で幻覚剤を使うとロクな事にならない。それはわかっている。わかっているのだが── 薬の作用でグルグルと回転する視界の中に、凄《すご》くドラマティックな恐怖が存在した。その恐怖は、常日頃感じている曖昧《あいまい》な不安とは違い、ほとんど目に見えるほどの、すっきりハッキリした、極めて分かりやすい不安だった。 強大で、だけども目に見える、わかりやすい恐怖、不安。それはむしろ望むところだった。ジワジワと真綿で首を絞め付けられるような日常の不安に比べれば、クスリによる抑鬱は、むしろ極めて愉快で最高なのだった。 山崎は冷蔵庫に向かって、拳を振り上げていた。 「くそっ、来るなら来い! 迎え撃ってやるぞ!」どうやらその辺りに、仮想上の敵が存在しているらしい。 一方俺は、部屋の隅で体育座りをし、頭を抱えて震えていた。 「やめろ! 来るな!」敵はすぐそこにまで追っていた。その恐怖に脅えつつも、俺はどこかで楽しんでいた。悪者に追いつめられ、悪者に殺される。そのビジョンは、とても心躍るものだった。とてもウキウキするものだった。 「…………」 ウキウキする──それはつまり、愉快だと言うことだ。 愉快ならば、楽しいということだ。 ──そう。 ようするに俺たちはハッピーなのだ。だからこそ最高なのだ! いまこそ俺はロックンロールな生き様を理解した。その生き様をさらにパーフェクトなものとするために、俺は決心した。 「ドラッグの次はバイオレンス!」 クスリの効果も醒《さ》めやらぬうちに、俺たちはアパートから飛び出して公園に向かった。 格闘するのだ。この前のバイオレンスの続きを、今夜こそ広い公園で繰り広げてやるのだ。なぜならば、俺たちは刹那的な若者なのだ。だからケンカするのだ。ドラマティックに、華々しく、K─1なみの熱いファイトを繰り広げてやるのだ。そうしたならば、きっと俺たちはもっと愉快になるのだ── とっくの昔に日は暮れていて、周囲に人影はない。いたら困る。恥ずかしいからな。 公園の街灯の下で、俺たちは向かい合った。俺はジャージとTシャツ、山崎はトレーナー。どちらも動きやすい格好をしている。準備は万全だ。 クスリが効いているので、山崎の口は滑らかだった。べらべらと意味不明なことを話してくれた。 「よくありますよね。若くて格好いい俳優ふたりが、青春とか恋愛とかを議論しつつ、雨に濡れた公園とかで殴り合ったりするドラマ。『お前には本当の愛がわからないんだ!』『なんの、俺はヒトミを心から愛している!』『ドカッ!』『バキッ!』って感じの──」 俺は屈伸運動しつつ、続きを促した。 「僕はねぇ。あーゆー感じのドラマに心底憧《あこ》れているんです。テレビドラマの中には、真実がありますからね。起承転結があり、感情の爆発があり、結論がありますからね。……なのに一方、僕らの生活は、いつまでもいついつまでも、薄らぼんやりな不安に満たされているだけで、わかりやすいドラマとか、わかりやすい事件とか、わかりやすい対決とか、そーゆーものが一切ありません。──それはねぇ、ちょっと不条理な話でしょう? 僕は二十で佐藤さんは二十二です。それなのに、本気で人を好きになったり、本気で人を憎んだり、愛憎の果てに殴り合いをしてみたり、そーゆー経験が一切無いんですよ。ひどい話です!」 そこで山崎は、アキレス腱《けん》を伸ばしている俺の肩を激しく揺さぶった。 「だからこそ僕らもドラマティックな殴り合いをしてみましょう! 格好良く、軽快に、荒々しく! そーゆーコンセプトでレッツファイトです!」 「おう!」俺も勇ましく応《こた》え、ファイティングポーズをとった。 そうして俺たちは、ぽかんぽかんと殴り合いを始めた。しかしファイトは、どこまでも牧歌的だった。痛いことは痛いのだが、クスリに酔っぱらった貧弱男のパンチなど、その威力はたかが知れている。 山崎は必死でファイトを盛り上げようとしてか、ドラマティックな(だけどひたすら抽象的な)セリフを叫んだ。 「佐藤さん、あんたは何もわかっちゃいない!」 彼の努力を無駄にしてはいけない。俺も適当なセリフを怒鳴る。 「間違っているのはお前の方だ!」 「いったい僕のどこが間違っているって言うんですか!」 「…………」 急にそのような具体的なことを訊かれても困る。俺は振り上げた拳を止めて、しばし考え込んでしまった。 「……たとえば夜アニに進学したこととか?」おずおずと答える。 すると山崎は、いきなり蹴《け》りを放ってきた。 「夜アニを馬鹿にするな!」 「痛ってぇ、いきなり本気で蹴るか、この──」 「ひきこもりのくせに、でかい口|叩《たた》かないでくださいよなぁ!」 かっと頭に血が上った。 「ロリコンは死ね! エロゲーオタクは死ね!」俺は思いっきり右拳を振り上げ、山崎の腹部に叩きつけた。山崎はうめき、うめきつつもタックルしてきた。俺たちはもつれあいながら地面に転んだ。 頭の上に、月を背負った山崎がいた。このままではタコ殴りにされてしまう。 俺は山崎の首に足を引っかけて、馬乗りになられた状態から、なんとか脱出した。 ふたりとも肩で息をしている。 山崎は俺を脱《にら》み、それから目をそらし、うつむいてくすくすと笑い──最後に大きなため息を吐いた。 「……あー、面白い」と言った。 「だけどまだまだこれからです。死ぬまでファイトを続けましょう」と言った。 だから俺たちはファイトを続けた。ふらふらと蹴り、よろよろと殴る。虚弱な男たちが繰り広げる熱いバトルだ。 痛い。痛くて痛い。だけど楽しい。楽しくて虚しい。 鳩尾《みぞおち》に挙がめり込み、胃液がせり上がり、涙が溢《あふ》れて、ハッピーだ。股間《こかん》を蹴られて、ぴょんぴょんと飛び跳ねる山崎の姿は、かなりクールだ。あぁ、いったい俺たちは何をやっているんだろう──そんな疑問を拳に乗せて、殴り、殴られ、今はもう七月。 もうすぐなのだった。もうすぐ何かが変わるだろう。俺はそろそろ決心するだろう。そのとき俺は笑っているだろう。ニコニコと楽しげな笑顔を浮かべているだろう。なぁそう思うだろう山崎君── 「…………」 しかし俺たちはもう、傷だらけ痣《あざ》だらけだった。全身が激しく痛んだ。どこもかしこも痛かった。 前歯がひとつ、ぐらぐらする。山崎の右目には見事な青疸《あおたん》、俺の右拳は破れて出血。 ちょっとした一大ファイトを繰り広げてしまった俺たちであった。 それでも俺は、山崎の顔面にもう一発パンチを叩き込もうとした。すると、腕を取られて、逆にゴロンと転がされた。さらにそのまま山崎は、俺の関節をキメてきた。腕ひしぎだ。 「痛い痛い折れる折れる!」 俺は地面をタップした。 「折りますよ折りますよポキッと折りますよ」 俺は山崎のふくらはぎに思いっきり噛《か》みついてやった。山崎はギャーと叫んだ。 「反則じゃないですか!」 「うるさいよ、いいから夜アニは死ね!」 「だからそうゆうこと言われるとマジでムカつく──」 そうして俺たちの馬鹿らしいファイトは、ますます空虚にエキサイトしていくかに思われた。 だが、そのときだった。 「おまわりさーん!」 「……ん?」 「こっちですおまわりさん!」 それは若い女性の甲高い叫び声だった。 山崎はガバッと跳ね起きると、一目散にアパートへ駆けだしていった。 俺を置き去りにして、ひとりで逃げだしやがった。
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数分後、俺は岬ちゃんにポカポカ叩かれていた。それはいわゆる女の子叩きだったが、俺の体は山崎との格闘によって、だいぶボロボロになっている。かなり骨に響く。 「──!」 声にならないわめき声をあげて、岬ちゃんは俺を叩く。 ともかく俺は頭を下げた。 岬ちゃんはさらに数十発俺を叩くと、ようやく落ち着いてくれた。 ──ようするに。 『おまわりさーん!』という叫び声、それはつまり、岬ちゃんの芝居だったらしい。 夕ご飯を食べたあと、いつもと同じようにこの公園を訪れた岬ちゃんは、何事かを大声でわめきながら殴り合う、二人の怪しい男を見たのである。 当然の事ながら、岬ちゃんは動転した。 ──助けなきゃ! しかし辺りに人はいない。携帯電話も持ってない。あぁ、どうしよう! そうだ芝居だ! おまわりさんがすぐ近くにいるという芝居を打って、佐藤君を助けよう! などと、勇気を出して決心してくれたそうだ。 「……ホントにもう……どうしようかと……殺されるんじゃないかって」 ちょっと涙目でそんなことを言う岬ちゃんに、俺はずいぶんと申し訳ない気持ちを味わった。 そこでとりあえず、面白い話をして笑わせてやることにした。 「いや実は、あの植え込みの陰で女の子がチカンに襲われててさ。それに気づいた俺は、その女の子を助けようとして現場に飛び込んだんだけど、だけどその暴行犯、いきなり逆ギレしてさ。懐からナイフまで取り出して、俺に飛びかかってきて──いやいや、かなり危ないところだったよ。俺じゃなかったら殺されてたよ」 「……それ、大嘘でしょ」 「うん」 「ホントは何してたの?」 俺は正直に全てを教えてやった。 岬ちゃんは盛大に吹き出したあと、それからなぜだか、またまた辛そうな顔をした。 こてんとベンチに座り込み、呟く。 「ダメだよ。友達とケンカとかしちゃあ。……冗談でも、暴力はダメだよ。絶対に」 「……なんだよ。そんな真面目なコメントしなくて良いよ。結構楽しかったぜ、人をぶん殴るのも殴られるのも初めてだったから、意外にスッキリ気分|爽快《そうかい》──」 「だからダメだってば!」 「なんでさ? 空手は健康にいいんだぜ」 俺は岬ちゃんの目のまえで、シャドーボクシングのモノマネをしてみた。 右フックを打とうと構えた瞬間、岬ちゃんはピクッと体を震わせて、両手で自分の頭を包むようにした。 「……ん?」 腕の隙間から、上目づかいに俺の様子を窺《うかが》っている。 「なにそれ?」 「…………」 岬ちゃんは、恐る恐るといった様子で、その腕を下ろした。 俺はもう一度、右フックの構えを取ってみた。するとまたまた岬ちゃんは、両手で頭をガードした。 その仕草が面白かったので、俺は何度か、パンチの構えを繰り返してみた。 「…………」 だが──しまいに岬ちゃんは、ベンチの上でぎゅっと体を小さくして、頭を両手で包んだ姿勢で固まってしまった。 そうしてそのとき、岬ちゃんの洋服の袖口《そでぐち》が、肘《ひじ》の辺りまでずり上がった。 何気なく、俺は見た。 青白い街灯に照らされた岬ちゃんの腕には、火傷《やけど》の疵痕《きずあと》らしいものが、いくつもいくつも点在していた。直径五ミリぐらいの、円形の疵痕だ。田舎の不良とかがよくやる、いわゆるひとつの根性焼きに、それはまったく酷似していた。 俺の視線に気がついたのか、岬ちゃんは慌てた様子で袖を下ろした。 震える声で「……見た?」と言った。 「何を?」俺は知らないフリをした。 そう言えば、いつも岬ちゃんは長袖を着ている。もうずいぶん暑い日が続くのに、それでもいつも、長袖だ。……だからどうした。 明るい声で言ってやる。 「今日のカウンセリングは?」 しかし岬ちゃんは答えなかった。 体を小さく縮めたまま、ベンチの上で、カタカタカタカタ小刻みに震えていた。ついでに歯まで、カチカチカチカチ鳴らしていた。 結構な時間が流れた。 ようやく体の硬直を解いた岬ちゃんは、「帰る」と言った。 よたよたとおぼつかない足取りで、公園の出口へと歩いていく。俺はその後ろ姿を、ぼんやり見送った。 声をかけるべきかと迷っていると──岬ちゃんはブランコの前で立ち止まり、くるりと振り返った。 「……やっぱり、イヤになった?」 そう訊《き》いてきた。 「はぁ?」 「きっと明日からは、もう、来ないよね」 妙に自己完結的なセリフを喋る女であった。 「…………」 俺たちは五メートルほどの距離を取って向かい合っていた。 岬ちゃんは、俺の目を見て、それからすぐに視線をそらし、その後再びチラリとこちらを盗み見た。 「……明日も、来てくれる?」 「だって、約束破ったら罰金百万円なんだろ」 「う、うん。……そうだったよね!」 ようやく岬ちゃんは小さく微笑んだ。 俺もアパートに帰った。体中にサロンパスを貼って、それから寝た。 [#改ページ] 八章 潜入
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おそらく脳味噌のホルモンバランスなどが関係しているのだろう。寄せては返す波のように、躁《そう》と鬱《うつ》が交互にやってくる。そんな毎日だった。 元気になったと思っても、その翌日になると、死にたくて死にたくて仕方がない。 クスリのパワーで無理矢理テンションを上げてみても、時間が経てば、やっぱりあぁ、もうダメだ! 過去の恥、未来への不安、その他もろもろの恐怖が一斉に襲いかかってくる。ハイテンションのリバウンドだけあって、それはひたすらに激しい鬱だ。 いまではもう充分に慣れてしまったはずの、岬ちゃんとのカウンセリングでさえ、なにやら今夜は恐ろしい。原因不明な不安が、俺をすっぱり包み込んでいた。その不安の原因が定かでないことが、ますます恐怖に拍車をかけるのだった。 まず、目に見えて現れる症状としては、視線がふらふらと四方八方を彷徨《さまよ》い始め、他人の目を見て話すことが不可能になる。 あぁ、まるで俺は自意識過剰な中学生だ。恥ずかしい、心底そう思う。だが、その恥ずかしさの自覚によって、ますます俺の挙動は、どこまでも怪しく不審になっていく。悪循環である。 とりあえず、タバコを吸って気を落ち着けることにする。震えがちな手でタバコを取りだし、百円ライターで火を点ける。だが、しまった、ガスが切れかかっている。なんてことだ、最悪だ。 しかし、一度取り出してしまったライターとタバコを、そのまま為《な》すすべもなくポケットに戻してしまうなどといった恥ずべき行動は、なんとしても回避するべきであった。だからこそ俺は、なんとか頑張って火を点ける。カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、と数回点火を試みて、ようやく着火に成功、あぁ助かった。 すかさず俺は岬ちゃんから目をそらし、むやみやたらに喫煙する。一本/五分のペースで、ただひたすらに喫煙する。肺が痛い。心臓も苦しい。タバコの先が、ぶるぶると細かく震えている。 そして首筋には、じっとりと冷や汗が── と、あまりに挙動不審な俺の様子に気がついたのか、 「どうしたの?」と岬ちゃんが訊いた。 今はカウンセリングの最中だ。俺たちは夜の公園で、ベンチに座って向き合っている。 俺は何とか口を開いた。 「持病の癪《しゃく》が!」 「シャクって何?」 ……これだから困る。最近の娘はモノを知らない。もう少し勉強しろ! そう叫んでやろうかと思ったが、やっぱりそれは不可能だった。数年間のひきこもり生活によって獲得した、嫌な感じのダメ人間アビリティ、すなわち広所不安、視線恐怖、その他もろもろの神経症が、かなりのパワーで迫っていた。 ──あれ? 部屋の鍵《かぎ》、締めてきたっけ? タバコの火とか、ちゃんと消してきたっけか? というか岬ちゃん、そんなつぶらな瞳で俺を見るなよ! かといって、沈黙するのはやめてくれ。無言で俺を見つめるのはやめてくれ! ものすごく不安になるんだ。胃が、胃が痛いんだ。 だけど、あぁ──とにかく素早く、何か言わねば。 「……ところで岬ちゃん、お菓子とか、食う?」なんだそりやあ! 「食わない」 「普通さぁ、君ぐらいの年頃の女子だと、二十四時間、常にお菓子食ってるよね。あたかも小動物のごとく、ばりばりばりばりと。……アレは一体、どうしてだろうね? やっぱり若いから、代謝が速いのかね? だからいつでもカロリーを補給してないと、たぶんコロリと死んでしまうんだろうね。きっと、そうゆうことかね?」 「…………」 死のうかな。 「…………」 死のうかな。 「──だけど俺は死なないぞ! なぜならば、俺は元気な男だからだ! この溢れんばかりのエネルギー、最高だ! 実際、まだ二十二だぜ! 未来は広がっている! あーたーらしーいーあーさが来た、きぼーおの──」 岬ちゃんは、俺の服の袖を指でつまんだ。 「……ん?」 「明後日《あさって》、街に出よう」 服の袖をくいくいとひっぱって、そう言った。 「駅前とかにさ。一緒にさ。──昔の偉い人が言いました。『本を捨てて街に行きなさい』とか、そんな感じのことを言いました。この前読んだ本に書いてあったから、嘘じゃないよ。──だからそろそろあたしたちも街に行きましょう。そうすると、きっと良い方向に向かうと思うよ。ね?」 「…………」 俺は思わずうなずいてしまった。
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だが岬ちゃんとの約束は、俺に新たな恐怖をもたらした。 いまだ正体のつかめない、謎の女子、そいつと一緒に昼間から街に出る──そんな行動は、俺に最高のプレッシャーをもたらすに違いなかった。プレッシャーに打ちのめされた俺は、きっとまたもや恥ずかしい行動をとってしまう |