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悪霊シリーズ第2巻 悪霊がホントにいっぱい
作者:    出处:    发表时间:2007-09-20    浏览次数:     

盲俊
「あたくしも?」
「こいつらは、霊ににぶい。昨日みたいに、ねむりこけてもらっちゃ困《こま》る。あんたも行って、霊が近づいたようすがあったら知らせてやってくれ」
「……わかりましたわ」
 綾子は立ち上がりながら、
「で? あんたは?」
「真言《マントラ》がきいてた。こっちが思っているより祈祷《きとう》は役にたっているのかもしれん。除霊《じょれい》の努力をしてみる」
 ぼーさんが言ってあたしを振りかえる。
「嬢ちゃん、準備を手伝ってくれ」
 もはや夕刻。夜が近い、準備を急がなければ。

 典子《のりこ》さんが用意をしてやって、礼美《あやみ》ちゃんを家から連《つ》れ出す。
 その前に、綾子がお守りを作った。紙に筆で、わけのわかんない漢字を書きつらねたお札を作って、礼美ちゃんにもたせる。
「これでやつらには、礼美ちゃんが見えないはず」
 綾子が言ったとおり、家を出るとき真砂子に、
「やつらのようす、どう?」
と聞いたら、
「けっこうあのお札が、役にたっているようですわね。
 ――だいじょうぶ、霊たちは気づいていませんわ」
 そっと家を抜け出す五人を見送ってから、祈祷の準備のために、あたしたちとぼーさんは悪戦苦闘して居間の家具を運び出した。
 居間に祭壇を設けて夜に備えるためだ。
「ねぇ、ぼーさん、ちゅううってなに?」
 あたしは、ぼーさんのカバンの中から、道具を出しながら聞いた。
「あの世とこの世の間」
「それがよくわかんないだなー」
 ぼーさんはため息をつく。
「おまえ、本当になんにも知らないんだな。
 ――三鈷杵《さんこしょ》を取ってくれ、その両端が三つ又になったやつ」
「これ?」
「中有《ちゅうう》っていうのはな、仏教で、死んだ人間が四十九日の間、留まるところ。
 つまり浄化してない世界。橋のこちら側。わかるか?」
「いまいち」
「よく死にかけた人間が、息を吹きかえして死後の世界を見てきたとか言うじゃないか。聞いたことはないか?」
「あ、それならある」
「そういうのをニア・デスって言うんだけどな。ニア・デスの経験者は、だいたい同じことを言うんだ。
 ふと気がつくと自分は河原にいた。川があって、橋があって、大勢の人が、橋を渡って行ってとか。
 そうしてたいがい、橋を渡らずにいて、こちらに帰ってくるのさ」
「ふんふん」
 よく聞く話だ。
「つまり……死んだ人間は端を渡ってあの世へ行くわけだな。
 橋を渡ってしまえば、この世での苦しかったこととか、つらいこととか、全部忘れてしまえる。新しい生活が始まるんだ。
 でも、橋に気がつかない人間もいる。何か心を残していて橋を渡る気になれないやつも」
「たとえば子供を探している……」
 あの、富子《とみこ》を探している女のように。
「そう、中有っていうのは、いわば川のこちら側さ。
 体は死んだのに、魂が死にきれない人間たちがさまよう場所。
 橋を渡らないからこの世での悩みを忘れられない。死んだときの痛みや恐怖、そんなもの全部を忘れることができないんだ」
「それが幽霊……?」
「そういうことだ」
「あの女は、子供のことが忘れられずに、橋を渡れないでいるわけだな。それで子供を集めてる。
 集めた子供の霊が自分を置いて行ってしまわないように、子供たちには橋が見えないようにしている」
「……それって、なんかハラがたたない?」
「たつな」
 あたしはぼーさんと眼を見交わした。
 ぼーさんが不適な笑顔を作る。
「橋が見えるようにしてやろうじゃねぇか」
「賛成」

 ぼーさんの手伝いを終えたあたしは、今度はリンさんを手伝って、礼美《あやみ》ちゃんの部屋に設置していた機材をできるかぎり居間に運んだ。
 機材の準備ができると、リンさんとふたりで機械の前にスタンバって、レシーバーでぼーさんに合図を送る。ぼーさんが祈祷《きとう》を開始する。
 がんばって。あいつをやっつけて、捕らわれている子供を解放してやって。
 礼美ちゃんを助けてあげて。
 ぼーさんが祈祷を始めやいなや、その声に抵抗するように、部屋がキシミを発した。同時に、部屋の温度が下がり始める。
 床の上を冷気がはう。サーモ・グラフィーの映像は、床全体があざやかなブルーになっている。
 追尾カメラが移動する。サーモ・グラフィーと連動して、一番温度の低いところを自動的に追いかけるようにしてあるカメラ。
 カメラは部屋の中央、少し窓よりの床のあたりを映している。
 ……今、あのへんの温度が一番低い……。
 パシッと居間のどこかで音がする。部屋中の空気がざわめく。
 ふいにドンッと衝撃波《しょうげきは》が駆《か》けぬける。床が揺《ゆ》れて、思わずぼーさんが身じろぎする。
 一瞬、真言《マントラ》の声が途切れた。
 
 それを待っていたように、部屋の中は轟音《ごうおん》のウズになる。
 ダダダ……と部屋の中を誰《だれ》かが駆けぬける音。煙のようなものが漂《ただよ》い始める。サーモ・グラフィーの映像は、もう濃紺《濃紺》になっている。
 床が揺れる祭壇の上の法具が振り落とされる。
「ぼーさん、ムリだよ! 居間から出て!」
 あたしはレシーバーに怒鳴《どな》る。
 ぼーさんの声。
『ばかやろー! 男に逃げろなんて言うもんじゃない!』
 そんなことにこだわってる場合か?
 煙が濃くなり、ぼーさんの姿がかすむ。部屋中に満ちる子供の悲鳴。
 あたしはTVに身を乗り出した。
 黒い影。部屋の中。ぼーさんのすぐ後ろ。形をなし始めている。
「ぼーさん、後ろ! ヤツっ!」
 ぼーさんが振り向く。その視線は黒い影を素通りする。
 いけない! ぼーさんには見えてないんだ!
 あたしはイスをけって立ち上がった。
「谷山《たにやま》さん、やめなさい!」
 リンさんの声。かまってられるか。
 居間まで走ってドアを開けた。
 ゆうべと同じだ。部屋の反対側が見えないほどの煙《けむり》……もや。
「ぼーさん、だいじょうぶ!?」
「馬鹿! 来るな!!」
 だって……。
 激しい横揺《ゆ》れが走った。あたしは足をとられてバランスを崩《くず》す。とっさにふんばった足の下で、メキッという音がした。
 床がねじれているのがわかる。
 いけない!
「ぼーさんっ! ねえっ、部屋を出て!」
 あたしは中へ駆《か》けこむ。
 その姿は……見えない……。どうしよう。カメラにしか映らないんだ。あたしは、かすかに見えたぼーさんの姿めがけて走る。
 ぼーさんの背中に手が届きそうになったとき、あたしは何かを通りぬけた。
 なにか。ゾクリとするほど冷たいもの。ねっとりした空気。
 同時に飛びこんできた思念。
 ……ジャマヲ、
 ……スルモノハ、
 ……ユルサイ……。
 突然体が凍《こお》りついた。ぼーさんの肩口まで伸ばした手。その手がもう動かない。
 誰《だれ》かがあたしの首に手をまわした。……冷たい手。
 あいつ? ……あいつなの?
 あたしの首にまわった女の指に力がこもる。
 ぼーさんが振りかえった。さっと金色の法具を突き出す。
「ナウマク、サマンダ、バザラダン、カン!」
 すっと首にまわっていた手が消えて、かなしばりがとけた。
「だいじょうぶか?」
 あたしはうなずき、ぼーさんの着物をつかむ。
「出よう! ムリだよ! ここは危ない!」
 ぼーさんも今度は立ち上がった。
 ドアに向かって走る。足がもつれる。床が揺れて転《ころ》びそうになる。
 足元が揺《ゆ》れる。きしむ、ゆがむ。
 バキッといやな音がした。ふいに足元が大きく沈む。
 泳ぐようにあたしは前へつんのめる。倒れた足元の床がたわむ。
「麻衣《まい》っ!」
 起き上がろうと、よつんばいになったところで再び上下に揺すられた。
 ぼーさんがあたしの体をすくい上げて、乱暴に引きずる。猫《ねこ》か犬みたいにかかえあげて、放り出すようにドアの外に押し出した。
 続いてぼーさんが飛び出して来たとたん、部屋の中の音がいっせいにやんだ。
 しばらくは言葉も出なかった。あたしとぼーさんと、ふたりして廊下《ろうか》にすわりこむ。
 部屋の中の煙みたいなものが、みるみる薄れて消える。
 消えたあとに、床に穴があいているのが見えた。部屋の中央。窓より。床が裂《さ》けてできた、大きな穴。
 サーモ・グラフィーが追いかけていた場所だ。冷気の中心。
 ぼーさんが、いきなり身を起こして駆《か》け出す。
「ぼーさん?」
「綾子に電話だ。やつら、礼美ちゃんのところへ行った」
「礼美《あやみ》ちゃんのところ……って……」
「部屋を出るとき……なんてこった!俺《おれ》はヤツの体の中を通りすぎたらしい」
 ……あ! あたしのあれも!
「ヤツの意志が飛びこんで来た。
 礼美ちゃんの行方《ゆくえ》の見当をつけたらしい」

     5

 玄関ホールの電話に飛びついたとき、反対に電話がかかってきた。
 ……胸が痛い。嫌《いや》な予感がする。
 ぼーさんが、少しためらって受話器をとる。

 ――やつらは礼美《あやみ》ちゃんのもとへ現れたのだった。
 やつらのやったことは簡単明瞭《かんたんめいりょう》だった。
 突風のように現れて、礼美ちゃんをホテルの窓から突き落とそうとした。十五階の窓から。
 とっさにジョンが、礼美ちゃんをかばって抱きかかえた。そのままふたりは激しい勢いで窓にたたきつけられた。
 ジョンと礼美《あやみ》ちゃんが助かったのは、綾子《あやこ》のせいでも、ましてや真砂子《まさこ》のせいでもない。
 ホテルの窓は強化ガラスでできていて、ふたりがたたきつけられた衝撃《しょうげき》に耐えることができたのだ。

 あたしたちは朝の光の中で、居間に開いた穴を見つめる。
 昼間ならば、ということで、全員が昨夜の惨状を見るためにもどってきている。ナルをのぞいて。ナルからは連絡なし。
 床の下には半分埋もれた穴があった。
 直径、およそ一・五メートル。石造りの竪穴《たてあな》で、深さは三メートル近く。「こいつぁ、井戸を埋めた跡だな」
 ぼーさんが綾子に言う。
「みたいね。しかもかなり古い井戸だわ」
 穴の中には何もない。もちろん、水もなくて、ボコボコした土があるだけ。そこに落ちた祭壇や法具が散らばっている。
 あたしはふたりの肩をつつく。
「ねぇ、まさか……」
「井戸の中に死体……ってか?」
「うん」
「わからん。そうかもしれん」
 綾子が言う。
「だったら簡単よね。掘ってお骨を探せばいいんだもの」
「ああ……。
 しかし、掘るとなったら、俺《おれ》たちじゃムリだな。専門の業者を呼ばないと」
 真砂子は疲労でうるんだ眼を井戸にそそぐ。この世の外のものを見ている眼。そうしてふいに青くなって井戸から離れた。
「どうした?」
 ぼーさんが声をかける。
「あたくしには……この井戸が地の底まで続いているように見えますわ」
 え?
「はるか底に、霊が……子供たちの霊が淀《よど》んでいる……まるで無数の死体を投げこんだみたいに、折り重なって……」
 
 ……う……。
「出てくるようすはないか?」
「わかりませんわ……でもたぶん、いまはだいじょうぶ……」
 綾子は軽く体を震《ふる》わせてから、特大のため息をついた。
「ナルはどこに行ってるの!」
 ……そんなこと、知るわけねーだろ。
「いつになったら帰ってくるのよっ!」
「オヤ、綾子はナルがいないと不安なのか?」
 ぼーさんがわらう。綾子がにらみつけた。
「冗談、言わないでよね。あたしがまるで、あのコを頼《たよ》りにしてるみたいじゃない」
「そうじゃないのか?」
「ちがうわよっ! そんなはずないでしょ!」
 ……綾子、あんたムキになってないか?
「ないよなぁ。十近くも年下の子供だもんな」
 ぼーさんがニヤッとわらう。
「六つしかちがわないわよ」
「どっちにしたって、年がつりあいませんわ」
 言ったのは真砂子だ。
 綾子が真砂子を振りかえる。
「あのくらいの年頃の男のコにはね、年上の女のほうがいいのよ? 知らないの」
「そんなはず、ございませんでしょう?」
「あら、いやにムキになるじゃない。
 真砂子ちゃん、ナルに気でもあるの?」
「下世話《げせわ》な表現はやめていただきたいわ。
 そういう松崎さんこそ、年がいもなく……」
「冗談、言わないでよね。
 あんた、その根性の悪さじゃ、ナルをおとすのなんてムリよ」
「年上の性悪《しょうわる》女よりはましですわ」
 ……いいかげんにしろ。そういう話をしてる場合か?
 ジョンが困《こま》ったような表情で割って入る。
「渋谷サンは、仕事一本やりのおひとやから、
 そういうことには、興味ないのと違いますか?」
「言えてる」
 ぼーさんがニンマリわらう。
「ありゃ、女の子とデートしたこともないぜ、きっと」
 ……だろうねー。
 そう思ったのに。
「あら、そんなことございませんわ」
 真砂子があっさり言ってのけた。
 ……なんで、あんたが知ってんの?
「あたくし、何度かおともいたしましたもの」
 お人形のような整った顔でニッコリわらう。
「……ウソつき」
 綾子がにらむ。
「失礼ですのね。じゃあ、一也さんにお聞きになったら?」
 ……一也……さん!?
 一瞬あたしは、誰《だれ》だか考えこんでしまった。それがナルの名前だと気づいてめまいがする。
 みんなが真砂子を、ジトッとながめる。
 綾子がようよう、うわずった声を出した。
「どうせ、仕事がらみでしょ?」
 ……そーよ、そーよ。
「ま、映画やコンサートは、あまり仕事とは関係ございませんわね」
 ……映画にコンサート? あの仕事馬鹿《ばか》で映画どころかTVも見ないナルが? それじゃ、まるっきりデートじゃないのぉ!
 真砂子は、憎らしいくらいあでやかな微笑《ほほえ》みをうかべる。
 驚きのあまり硬直したあたしたち。
 いちばんに硬直からさめたのは、ジョンだった。
「まぁ、渋谷さんかて年頃なんやし、そういうことかてありますです。
 それより、いつもどっておこしやすおつもりどすやろかいな」
 ……ジョン、言葉に動揺があらわれてるよ。
「とにかく」
 ぼーさんがシビアな声を出した。
「この際、ナルがいつ帰ってくるかはどうでもいい」
 言って全員を見渡す。
「ナルがいたって関係なかろう?
 あいつは霊能者じゃないぜ。単なる心霊現象の調査員。
 この場にいたところで、霊を吹き飛ばせるわけでも、礼美《あやみ》ちゃんを守りきれるわけでもない」
「……だって!」
「あいつがいたっていなくたって、状況は変わらないってことさ。
 俺《おれ》たちには、ヤツを除霊《じょれい》するか、逃げるかどっちかしかない」
「…………」
 全員が考えこんだ。
「もう一度チャレンジしてみようぜ。
 綾子、ジョン、今度はおまえら、どっちがいい?
 言っとくが、居間のほうは強烈だぜ」
 綾子はチラリとぼーさんをにらむ。
「それとも帰るか?」
「あんた、礼美《あやみ》ちゃんのほうに行って。
 あたしじゃ守りきれない。ジョンは礼美ちゃんのそばに必要だと思う」
「了解」

     6

 ぼーさんとあたしが、穴から祭壇を引き上げるかたわらで、綾子《あやこ》が祈祷《きとう》の準備をする。
「つかえそう?」
「まぁ、なんとかなるだろう」
 祭壇を整えて、ぼーさんとジョンはホテルに向かう。あたしと綾子、そして、いるかいなのかわからないリンさんが家に残された。

 綾子は、ベースで巫女《みこ》装束を整える。
「ねぇ、麻衣《まい》ちゃん」
 ぎょっ。……麻衣……ちゃん?
「祈祷の間、居間にいない?」
 綾子は背中を向けたまま言う。
「あ、こわいんだ、霊能者のくせに」
「そんなんじゃ、ないわよ!」
「強気な顔であたしを振りかえったけど、すぐにナサケナイ表情になる。
「そんなんじゃ、ないけど……ただ……」
「いいよ。いたげる」
「よかったら」
 巫女さんが機械の山を振りかえる。
「リンさん、あなたも……」
「わたしはここで、データを集めなくてはいけませんから」
 
 リンさんはあくまでも冷たい。
「……本当にいい性格よね。雇《やと》い主に似て。
 あの猫被《ねこかぶ》りの女たらしっ」
「は……?」
 さすがのリンさんも、言葉の意味をつかみきれずに、ちょっと眼を丸くする。
「なんでもないわっ。あんたのボスはスケベだって話よっ。――行こ、麻衣!」
 綾子は、あたしの手を乱暴につかんで引っ張って行く。
 ……おい、綾子。あんたまさか、マジなんじゃないだろうなぁ……?

 まだ夕陽《ゆうひ》の最後の明かりが残っているうちに、綾子が祈祷《きとう》を始めた。血のように赤い光が、暗い部屋の中に差しこむ。かえってなんだか不吉な効果。
「このおくとこをかりのさいじょうとはらいきよめ、ひもろきたて、おまつりしずめまつる」
 祈祷の開始と同時に、部屋がかすかにきしみ出した。
 床を冷気がはう。背筋がゾクゾクするあたしはドアの近くの床にすわっている。すぐに足が冷たくなってきた。
 あたしはカメラを振りかえる。追尾カメラ。やはりカメラは、古井戸のほうを向いている。冷気は穴の中から来る……。
 大きく横揺《ゆ》れが来る。床がきしむ。綾子の声が、とぎれがちになる。
「あきつみかみと……おおやしまのくに……に、しろしめす……」
 寒い。これを覚悟してブラウスを三枚重ねているのに。
 夕陽が庭の樹《き》の影に入った。部屋の中を闇《やみ》が侵食しはじめる。
「綾子! 続けて!」
「さしずしないでよっ!」
 気を取り直すように姿勢を正した綾子。そのまわりで激しいノックの音がする。気温が下がる。息が白い。
「あきつみかみと、おおやしまのくにに、しろしめす、すめらみことがおおみかみどには、やとかわもより……」
 綾子のノリトに送られて陽が落ちた。部屋には闇。綾子が灯《とも》したロウソクの火だけ。
 部屋の中に煙のようなものが漂《ただよ》い始めた。息をするのがこわくなる……。
「きゃっ!」
 綾子が叫んで、ふいに立ち上がった。
「綾子!」
「誰《だれ》かが背中をたたいたのよ!」
 そんなことで動じてんじゃ、ねぇっ!
「しっかりしなよ! あんた巫女《みこ》でしょ!」
 言ったあたしの腕を誰《だれ》かが引っ張る。
 思わずあたしまで悲鳴をあげる。
 ひとの気配。大勢の人間にとりまかれている気配。
 部屋を揺《ゆ》する激しい音。
 じりじりとあたしと綾子は歩み寄る。もう祈祷《きとう》どころじゃない。
「麻衣、やっぱりムリだわ! 出ましょう!」
「う……うん」
 綾子が走り出した。
 同時に激しい横揺れが走る。あたしは足元を救われる。膝《ひざ》から転《ころ》んで、床に転がった。
 床がうねっている。
 あたしは痛みに膝《ひざ》をかかえた。
「麻衣! 早く!」
 ドアのところで綾子が叫ぶ。
「うん!」
 立ち上がろうとした瞬間、激しい部屋が揺れた。起き上がることさえできない!
「麻衣っ!」
 再び起き上がろうと、よつんばいになったところで誰かがあたしの足をつかんだ。
 思わず悲鳴が喉《のど》をつく。
 足元を振りかえる。煙のようなものがからみついている。
 必死で足を振る。離れない。誰かが足を引っ張る感触。冷たい汗をかいた手。つかまれた足首から悪寒《おかん》がはいのぼってくる。
「綾子! 助けて!」
「麻衣っ!!」
 ズルッと体を後ろへもっていかれる。
 あたしは思わず振りかえる。後ろの床に穴がある。
 前へはうあたしの足を、さらに誰かがつかむ。力まかせに引っ張られる。
「いや!」
 叫んで床にしがみつく。それを難なくひきはがす強い力。
 綾子はパニックを起こしている。
「谷山《たにやま》さん!」
 部屋にリンさんが飛びこんで来た。
「助けて!」
 リンさんが駆《か》けつけて来て長い腕を伸ばす。届かない。
 あたしの足にからみつく手が増える。足がきしむほどの力で引っ張られる。ガクンと足が穴の中に落ちた。
「……リンさん! 落ちる!」
「谷山さん!」
 さらに伸ばしたリンさんの手。手が届きそうになった瞬間。さらに引っ張られてあたしの腰が穴の縁《ふち》から落ちる。
 早く助けて! 落ちてしまう!
 あいつのすみか、冷気の中心。中有《ちゅうう》に続く穴。子供たちの霊が死体のように折り重なった。
 激しい横揺《ゆ》れがきて、リンさんと綾子が転《ころ》ぶ。同時にあたしの体が穴へ沈む。胸まで落ちて、縁の床板にしがみつく。
 だめだ、落ちる!
 爪《つめ》も立たない堅い床。ギザギザの縁が腕を引っかく。絶望的な感触。
「麻衣っ!!」
 ガクンと引っ張られて、胸が沈む。腕がきしんで床から離れた。
 …………!
 叫び声をあげる間もない。
 とっさに伸ばした指が穴の縁を引っかいて、あたしの体は落下を始めた。
 耳の奥にふたりの声。
 言葉はききとれなかった……。


四章 おんな、汝《なんじ》に子を与う


     1

 ……暗い部屋だった。
 典子《のりこ》さんの家ではない。たたみとふすまの日本建築。
 その縁側の外に、庭がある。庭には池。典子さんの家の池ににている……。
 庭には子供がいる。ぼうっとかすんでよく見えない。それでもその子が、礼美《あやみ》ちゃんくらいの年齢の女の子だとわかる。着物を着ている。いつの時代だろう。
『富子《とみこ》! 富子ぉ!』
 家のどこからか、女の人の悲痛な叫びが聞こえる。聞いた者の胸が痛くなるような声。 女の子は振り向かない。庭でマリをついている。そこに黒い影。男の影だ。
 あたしは、いけない! と思う。その人について行ってはいけない!
 男は女の子に話しかけて、やがて女の子の手をとる。
 家の中では悲しげな叫びが続いている。
 行ってはだめ! その人について行ってはいけない! そう思うのに声にならない。
 男は女の子の手をひいて行ってしまう。池のほうへ。池の上へ。
 女の子は手を引かれるままに、池の水面を歩いて遠くなる。
『富子ぉぉ!』
 悲しい声。ああ、あたしの声だ。あたしが叫んでいたんだ。
 あたしは駆《か》け出す。後を追う。池の上には深い霧が立ちこめて、もう何も見えない。
 あたしは涙を落としながら、身をかがめる。うつむいたところに、深い井戸がある。 はるか下に、鏡のような水面《みなも》。
 
 日本髪を結《ゆ》った、年かさの女が水面に映っている。
 女は涙を落とす。水面に落ちて水がかき乱される。
 いつのまにかあたしは、部屋の中から井戸をのぞきこんでいる女の姿を見ている。
 あたしは女があわれで、思わず駆け寄りたくなる。立ち上がろうとしたところに、後ろから手が伸びて、あたしを押しとどめた。
 振りかえるとナルが、じっとあたしを見ていた。さびしい色の瞳。黙って首を振る。心を痛めているようす。
 あたしは眼を女にもどす。
 井戸に身をかがめて、嗚咽《おえつ》している女。
 女は泣いて、泣いて、一声叫ぶと井戸の中に身を投げた。
 深い虚《うつ》ろな水音……。

 ……そこであたしは眼が覚《さ》めた。
 今のはなに?
 夢なのはわかってる。どうしてあんな夢を見たんだろう。
 ハッと気がついて身を起こすと、全身が痛んだ。
 ここは……あの穴の底だ。
 思った瞬間、上から声が降ってくる。
「麻衣! だいじょうぶ!?」
 穴の縁《ふち》に手をかけて、綾子《あやこ》がのぞきこんでいる。心配の色のにじんだ声。
 ふいにあたしは夢の中で聞いた、女の声を思い出す。
「だいじょうぶだけど、登れないよ!」
「いま、リンが足場になるものを探しに行ってるわ! だいじょうぶ?」
「うんっ」
 答えるのと同時に、走ってくる足音が聞こえた。すぐにリンさんが顔を出す。彼は、穴の縁に手をかけると、身軽に下へ降りてきた。
「けがは」
「ないよ」
 ニコリともせずにうなずいて、彼は綾子を仰《あお》ぐ。
「イスを」
 綾子が上からイスをおろした。
 それを見ながらあたしはボーッと考える。
 ……埋《う》められた井戸。
 あたしは突然わかってしまった。
 この井戸は、女が身を投げた井戸だ。
 女の子供はいなくなった。女はそれを悲しんで身を投げた。
 女は亡霊となって、今も自分の子供を探している……。
 リンさんがイスの上から手を伸ばす。
 あたしは、その手に助けられて、穴の底から脱出した。
「今……何時?」
 あたしは穴からはいでて、綾子に聞く。今度から、調査のときはスカートはやめよう、とつくづく思いながら。
「十時。まだまだこれからよ」
 ……すると穴の中には、大した時間はいなかったんだ……。あの夢も、一瞬の間にみたんだな。

「ひとさらい~?」
 綾子があたしの足のすり傷に薬をぬりたくりながら言う。
「うん。だと思うんだ。
 それでね、富子ちゃんがいなくなって、そのお母さんが井戸に身を投げるの。
 けっこう意味ありげな夢でしょ?」
「バカなんじゃないの?」
 綾子がアザ笑う。
「霊能者でもないあんたの夢が、なんか意味があると思うの?」
 こいつ、さっきまでオロオロしてたくせに。
 リンさんは考えこむ風情《ふぜい》。
「……真偽のほどはわかりませんが……案外的《まと》を得ているかもしれませんね」
「あ、やっぱし、そう思います?」
 リンさんは、さらに考えこむ。
「ねぇ、どうしたらいいと思う?
 アタシにはあいつを祈祷《きとう》で祓《はら》うなんてムリだわ」
「…………」
 リンさんの答えはない。
「ねぇ!」
「……力技はムリだと思いますね」
 彼はやっと口を開く。
「わたしの意見を言わせていただくなら、ナルがもどるまで祈祷はとりあえず待つべきです。
 祈祷というのは、いわば力で相手を抑《おさ》えこむワザですから抵抗も大きい」
「……だって他にどうするのよ。
 第一、ナルを待つって、あいつ、いつ帰ってくるの?」
「ナルだって、こちらの状況はわかっています。時間を無駄に使うはずがありません。すぐにもどって来ます」
「……ずいぶんボスには甘いのね」
 リンさんは、冷ややかな視線を綾子に向ける。
「ナルがまわりの期待を裏切ったことは、一度だってありませんから」
 そっけなく言って、あたしを振りかえる。
「少しここで休んだほうがいいでしょう。頭を打っていると、いけないので」
「うん」
 じつはさっきからあちこちが痛い。体がギシギシ悲鳴をあげている。あたしはおとなしくカウチに横になった。

     2

 ふうっとした浮上感。
 浮上感のままにあたしは眼を覚《さ》ます。
 暗い部屋、勝手に作業を続けている機械の山。みなれたベース。
 機械の前には、リンさんではなくナルがすわっている。
 ナルのはずがない。ナルはまだもどってきてない。あたし、また寝ぼけてるんだ……。 そう思ったけど、ムリに眼を覚ます気にはなれなかった。
 ナルと眼があう。ナルが微笑《ほほえ》む。
 うん。その笑顔って好きだなぁ。現実のナルはぜったいにしない顔。
「ナル?」
 あたしは声をかける。横になったままで。
 ナルが首をかしげた。どうした? と言っている。
「礼美《あやみ》ちゃん、助けてあげられる?」
 このままあたしたちが負けてしまったら、礼美ちゃんはあの女に連《つ》れて行かれてしまう。たくさんの、この家で死んでいった子供たちのように。
「だいじょうぶ」
 ナルがわらう。
「……真砂子《まさこ》とデートしたでしょ」
 ……ああ、あたしは何を言ってるんだ。こんなときに。
 ナルはクスリとわらう。
「誤解だよ」
 優しい笑顔。あたしは満足する。
 ……だったら、いいんだ……。

 突然、人声がして、ベースのドアが開いた。
 あたしはそれで、本当に眼が覚めた。
 あわてて身を起こす。入って来たのはナルだった。
 ……あれ? あたし、まだ寝ぼけてるのかな?
 
 ナルはあたしに視線を向けるる
「眼が覚めたか?」
 優しさのかけもない声。
 げっ。本物のほうだ。
「もどって来たの!?」
「だからここにいるんだろうが」
 ……悪かったな、つまんねーこと聞いて。
 ナルは後ろを振りかえる。
「リン、今までのぶんを再生してくれ」
「はい」
 あとに続いて入って来たリンさんが、機械の前にすわる。誰《だれ》もいないイスの上に。
 リンさんのあとに続いて、ぼーさんたちが入ってくる。礼美《あやみ》ちゃんについて、ホテルにいるはずなのに。ジョンも、真砂子もいる。
「礼美ちゃんは?」
 あたしが聞くと、ぼーさんは肩をすくめる。
「典子《のりこ》さんとふたりで、残してきた。
 ナルがそうしろとよ」
 ……え!?
「ナル! だいじょぅぶなの?」
「だいじょうぶだろう」
 あっさり答える。
「だろう……って、そんな、無責任な」
「今夜中に決着をつける」
 ナルが闇《やみ》色の瞳《ひとみ》をあげる。不安も躊躇《ちゅうちょ》もない眼。
「できるの!?」
「何のために、ひとがかけずりまわったと思ってるんだ?」
 軽蔑《けいべつ》するように言ってから、
「まったく、これだけの人間がいて、このザマとはね」
 ……あんた、たいがいの性格してんなー。
 綾子がヒステリックな声をあげる。
「勝算はあるんでしょうね!?
 ナルは見てないらか知らないだろうけど、あいつ、ハンパじゃないわよ」
 ナルの軽蔑の眼。
「やつがケタはずれの力を持ってることなんか、最初からわかってる。ポルターガイストのようすを見ていれば一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ。」
 言葉につまる綾子のわきから、ぼーさんが身を乗り出す。
「で? その勝算とやらを聞かせてもらおうか?」
 ナルはTVから眼をはなして、腕を組む。
「原因ははっきりしている。あの女は子供を探しているんだ。取りもどしたいと思っている」
 綾子が突っかかる。
「そんなことは、わかってるわよ。
 問題は、どうやってその執着を解くかということなんでしょ?」
「子供を連《つ》れて来ればいい」
「え!?」
「その子がいれば、あの女は満足するはずなんだ」
「その子……って、今どこにいるの?
 いくつになってると思うの?
 もう死んでる可能性だってあるのよ」
「僕《ぼく》が、その程度のことも考えないとでも?
 もちろん、富子《とみこ》自身を連れて来るのは不可能だし、無意味だ。
 年をとった富子を見ても、あの女は納得しないだろう」
「……だったら……!」
 ナルは綾子を無視する。
「原さん、家の中のようすは?」
 真砂子が、何かに聞き入るように首をかしげる。
「居間に……たぶん居間にいますわ。
 まだ、ホテルのほうには行ってない……」
 綾子が割って入った。
「ねぇ、あたしたち、自分の身の安全を考えるべきじゃない!?」
 ナルは冷たい視線を向ける。
「おや、プロの言葉とも思えませんね」
「いくら、プロだって力の限界ってもんがあるわ! 冗談じゃないわよ、この家、異常よ。
 あたしもたくさん幽霊《ゆうれい》屋敷は見て来たけどね、こんなムチャクチャなのは初めてだわ」
 ……そんな、礼美《あやみ》ちゃんをどうするの? 見捨てるの、このまま!?
 あたしはぼーさんを振りかえる。
 ぼーさんも、のんびりとうなずいた。
「下手《へた》をすると、こっちまで地縛霊《じばくれい》にされそうだなー」
「……ちょっと!」
 ぼーさんを怒鳴《どな》りつけようと思ったら、反対に綾子に怒鳴られた。
「ものには、引きぎわってもんがあるの!」
「あのねっ!」
 あたしが怒鳴ったとたん、
「麻衣《まい》」
 ナルが静かな声をはさんだ。
「帰りたい人間は帰ればいい。その程度の霊能者なら、必要ない」
 ぐっ、と綾子がつまる。
 ぼーさんがナルの顔をしみじみと見つめる。
「本当に勝算はあるのか?」
「信じる信じないは、御勝手に」
 そっけなく言われて、ぼーさんと巫女《みこ》さんは顔を見交わす。
「よし……」
 ぼーさんが立ち上がる。
「そいじゃあ、ナルちゃんを信じて、もう少し己《おのれ》を酷使《こくし》してみるか。
 もう一度、除霊《じょれい》の努力をしてみよう」
「しょうがないわね……」
 綾子もシブシブ立ち上がる。
「できるかぎりふんばってみる。
 なんかあってブッ倒れたら、そこまでだ」
「骨ぐらいは拾ってあげるわよ」
 綾子の声に、
「神道《しんとう》で葬式を出されちゃ、死ぬに死ねねぇよ」
 ……口の減らないやつ。でもよかった。アリガトウ。

     3

「で、どうすりゃいいんだ?」
 ぼーさんの声にナルが指示を始める。
「とにかく手下の数が多すぎる。問題はあの女だ。
 女を引きずり出さなければ意味がない」
「どうやってぇ?」
 綾子のやゆするような声に、
「子供たちを散らす」
 鋭利な声で言ってから、
 
「巫女《みこ》さん、霊を通さない護符《ごふ》があるな?」
「あるわよ。ホテルに貼《は》ったやつが。たいして役にはたたなかったけど」
「それを大量に作って貼ってくれ」
「すぐに突破されるわよ」
「いいんだ。ジョンも手伝ってくれ」
「はい、そやけど……」
 言いかけるジョンを手で制して、
「結界《けっかい》をはる。内側に向けて」
「なにぃ!?」
「霊が礼美《あやみ》ちゃんのそばに侵入できないようにするのではなく、この家から出られないようにする」
 ぼーさんは眼をぱちくりさせたあと、
「できるかねぇ」
「効果はたいしてなくていいんだ。
 家全体に結界をきずいて、鬼門《きもん》だけを解放する」
「鬼門って?」
 あたしがついうっかり声をあげると、
「うるさいぞ、麻衣」
「だって」
「北東の方角。悪霊《あくりょう》が出入りする方向。
 もともと通りやすい方角だ。しかも、鬼門以外は護符で守られていて通りにくいとなれば、連中は家を出てホテルに向かうのに必ず鬼門を使うだろう。
 ――そこで、鬼門の外で巫女《みこ》さんとぼーさんが構える」
「出てきた霊を散らすわけか?」
「そう。散らすだけでいい」
「それじゃ、問題の解決にならないわよ。散らしたところで、すぐにまたもどって来ちゃう」
 綾子の抗議に、
「いいんだ。そうやって女のまわりに群がる霊を少しでも減らせれば。一時的にでも。ジョンは居間に来てくれ。いちおう、居間でも霊を散らせるかどうかやってみる」
「はい」
 うなずいてナルが立ち上がる。それをぼーさんが制す。
「おい、子供らをおっぱらうてはずはわかったが、肝心《かんじん》の女の除霊は誰《だれ》がやるんだ?」
 ……そうか。ぼーさんと綾子が家の外。ジョンが中でも、ジョンひとりの手には負えないだろう。ましてやナルは、霊を散らすだけでいいと言う。
「まさか、ナル、おまえさんか?」
 ナルの不敵なわらい。そうして軽く手をたたく。
「始めよう」

 午前四時。
 家の壁《かべ》は護符《ごふ》だらけになった。やつらが居間から外に出られないよう、ジョンが居間の壁に聖水で十字を書く。いつだか礼美《あやみ》ちゃんにほどこしてあげた、オマジナイ。やつらはしばらくの間礼美ちゃんを見つけられずに、家中をあばれまわった。結局突破されたけど。
 そうしてその外。ぼーさんと綾子とで作った護符の山。壁一面に。礼美ちゃんが泊《と》まっているホテルと同じように。あれだって結局は突破されたけど。
 護符の山は家の一角だけにない。鬼門《きもん》の方角はやつらに解放されている。
 ぼーさんと綾子がそこに構える。
 ジョンとナルは居間へ。リンさんが機械を守る。
 あたしと真砂子はベースにいるようナルに言われたのだけど、肝心《かんじん》の真砂子が一緒に居間に行くと言ってきかない。
「麻衣、少し危険になるが、原さんのそばについててくれ。
 万が一、いつかのように憑依《ひょうい》されて妨害されるとめんどうだ」
 ナルに言われて、あたしも居間へ。真砂子のわきにしっかりひかえる。
 もはや夜明けが近い。空にはまだ、光の色はないけれども。
 ナルはどうするつもりなのだろう。女は子供を――富子を探している。富子がいなくなって、それが心に残って橋の向こうに行けないでいる。富子が見つかれば、女はよろこんでこの世を離れるだろう。――でも、どうやって?
 富子はこの場にいない。この世のどこにもいないかもしれない。

「ジョン」
 ナルにうながされて、ジョンがうなずく。
 見なれた手順で静かに祈祷《きとう》を開始する。
 間もなく、家自体が身震いするように、ギシッと家鳴《やな》りがした。
 始まった……。
 あたしは眼をさまよわす。何の影もない。何も見えない。ただ、ギッと床がゆがむ音。カタカタと床の上を震えが走る。壁をたたくノックの音。どこかで者をぶつけるような音。真砂子は青い顔をしている。こわいんだったら、ベースにいればいいのに。
「だいじょうぶ? ベースにもどらなくていい?」
 あたしは小声で話しかける。真砂子は首を振る。
「いいえ……。ここにいますわ」
 そんなにナルのそばにいたいわけ?
 あたしは思わず、イヤミのひとつも言いたくなる。あたしだってこわいんだからね。井戸にひきずり落とされるような悲惨な経験は、一度でじゅうぶん。
「除霊《じょれい》にはふたつありますの……」
 真砂子は、おびえた眼を周囲にやりながら口を開く。
「浄霊《じょうれい》と除霊。浄霊は霊に語りかけて、こだわりを解いてやるのですわ。橋のあちらに行けない原因を取り除いてあげますの。……でもこれは、霊媒《れいばい》にしかできない……。
 ナルは霊媒じゃないのですもの、除霊をするつもりなのですわ」
「除霊って?」
「力で霊を吹き飛ばすの……。
 悪い人間が……いたとしますでしょ? 説得して会心させるのが浄霊。ウムをいわさず殺してしまうのが除霊ですの。
 除霊はしてほしくありませんわ。すくなくともあたしの前では――」
 真砂子はこの世の外を見ている。霊媒である彼女には霊も人間も、同じような存在なんだ。人が死ぬのはいや。霊が滅《ほろ》びるのもいや。それは真砂子にとって同じこと。 ……よくはわからないけど、そんなものかもしれない。
 あたしと真砂子が小声で話し合っている間にも、部屋に満ちた騒音は大きくなる。
 床がきしむ。そして足音。大勢の子供が走りまわる音。
 冷気が床をはって、白いものがただよい始めた。煙のようなもの。部屋をおおう白いもや。かすかに人間の輪郭《りんかく》。
 聞こえるはずのない悲鳴が、聞こえる気がする。苦しげな叫び。耳を打つ悲しみ。
 ジョンの祈祷《きとう》に、逃げまどうように揺《ゆ》れて流れる。
「……!」
 誰《だれ》かがあたしの肩をたたいた。振りかえっても誰《だれ》もいない。髪を引っ張る手。
 ジョンも、何かに驚いたよう身じろぎをする。その度《たび》、聖水のびんを振って、しずくを降らす。近寄った霊を散らしているんだ。
 ドンッと部屋が抵抗する。
 床がしなって、体が揺れる。稲妻のように壁《かべ》に亀裂が走った。
 そして激しい縦揺れ。
 ……大きい!
 宙に投げ出されて、あたしは思わず声をあげる。ジョンたちまでもが放り出されて姿勢を崩《くず》す。
 誰《だれ》かがあたしの腕をつかむ。あたしはそれにあらがう。有無を言わさず引き寄せる力。あたしは床に引き倒される。
「麻衣さん!」
 ジョンが振りかえって、あたしのほうに向かって聖水をまく。体を押さえこんでいた強い力が途切れる。
 部屋にたちこめた、煙とももやともつかないもの。
 ジョンは祈祷《きとう》をゆるめない。しかし、煙のようなものが、切れてちぎれるだけ。
「原さん! どうです!?」
 ナルが真砂子を振りかえる。
「逃げまどっていますわ。ずいぶん数が減りました……。居間の外へ逃げて行きます」
 そのあと、泣きながら、という声はあたしにしか聞こえなかったろう。
 部屋にうごめく子供たち。みんなこの家に捕らわれて。どこにも行けず、なつかしい自分の家に帰ることもできず、さびしくて悲しくて、耐えかねて仲間を呼んで。そのうえ祈祷に苦しめられる。
 ……真砂子の気持ちが少しだけわかる。子供たちがかわいそうだ。さびしいまま、悲しいままナルに吹き飛ばされてしまうんだろうか。
 あの女だってそうだ。娘をなくして、悲しくて。いなくなった富子ちゃんを探して、探して、ここに悲しい檻《おり》を作った。
 だからと言って、このままにはしておけない。生きている礼美《あやみ》ちゃんを渡すわけには、絶対にいかない。こんな悲しい子供たちの仲間にするわけには。
 居間に満ちた煙が少し薄れた。子供たちが減っている証拠。ジョンとぼーさんと綾子。三人がかりで家からはじきとばされて。
「子供たちを浄霊《じょうれい》できないの?」
 あたしの声に真砂子は首を振る。
「ムリですわ……あの女がいるかぎりは。子供たちをとらえてる女を浄霊しないことには……」
 ハッと息を飲んで、真砂子は急に口をつぐんだ。おびえたように見開いた眼を、床に口を開けた穴に向ける。
「……出てくる……」
 声と同時に、ふと音がやんだ。
 
 薄い薄い煙《けむり》が無言でたゆたう。
 あたしたちの息づかい。
 突然、澄んだ音が聞こえた。
 深い空洞の中に水滴が落ちる音だ。高い高い、澄んだ音。
 穴の中から――

 穴の中がかすかに光った。青い暗い光。
 人の影がせり上がってくる。
 あたしたちの眼は、それにくぎづけになる。うっすらと女の姿。髪を結《ゆ》った女。着物。細かいようすはわからない。いまにも消えそうなほど薄い影。
「富子さんはいません!」
 真砂子が叫ぶ。
「地上を探しても、どこにもいませんのよ!」
 青ざめた女の姿。首をたれて、深くうつむいたまま。
「どうぞ、わかって! 富子さんはどこにもいないのです!」
 真砂子が悲痛な声をあげる。
「その子たちは富子さんではありません! どうぞもう自由にしてあげて! みんなほんとうのお母さんのもとに帰りたいのですわ!」
 女をなんとか説得しようとして声をはりあげた真砂子の喉《のど》が、突然ヒッと鳴った。
 女の姿は、今や腰のあたりまで穴の上に現れている。その穴の縁《ふち》に白いものがうごめく。虫のような白いもの。白い、小さな子供の……指。
 子供の指が穴の縁にかかる。指で床を引っかいて手を差し出す。
 のぼってこようとしている。
 そのとなりにも子供の手。ひとつふえ、ふたつふえ……。やがていくつもの子供の手が、穴の上ににじりのぼろうとして、うごめきはじめる。床に爪《つめ》をたて、体を引き上げようとのたうつ。
「いや! こないで!」
 真砂子の悲鳴。あたしはもう、声なんか出ない。
 ジョンが、あたしたちの前に立ちふさがる。
 聖水のびんを構えたとたん、部屋が揺《ゆ》れる。ジョンの体が何かに突き倒されて床にたたきつけられる。
「ジョン!」
 そのとき、うつむいていた女がスゥと顔をあげた。
 うらみをこめた眼。女は真砂子の声など聞く気がないのだ。富子ちゃんが恋しくて恋しくて。この世を離れる気にもなれない。
 女は陰鬱《いんうつ》な目を部屋の中にさまよわす。その眼がふと止まった。ドアのところにある黒い影に。
 闇《やみ》に溶け入るほど黒い影。ほのかに白い顔。
 ナルが女を見据《みす》える。闇色の眼には自信の色。
 ナルは白い右手をかざした。
「ナル、やめてください! 少し待って!」
 真砂子の悲鳴。ナルは真砂子を振りかえりもしない。白い手をあげて、手の中にあるものを女に向かって突《つ》きつける。女の眼がナルの右手にくぎづけになる。
「おまえの子供はここにいる」
 ナルの静かな声。かざしたのは板を人の形に切って、そこに札を貼《は》ったものだった。
 女の眼が人形《ひとがた》の板を射抜《いぬ》く。
「集めた子供ともども……連《つ》れて行くがいい」
 ナルが板を投げた。
 女がなにか叫び声をあげた。
 闇《やみ》の中にほの白く軌跡《きせき》を描いて、ゆっくりと回転しながら板が飛んでいく。まわるうちに輪郭《りんかく》が溶《と》けて、花が開くように広がるとやわらかな形を作った。――小さな子供の姿を――。
 あたし知っている。あの子が富子ちゃんだ。
 女は身をかがめて腕を伸ばした。白い白い富子ちゃんのほうへ。富子ちゃんは宙を駆《か》けて女のほうにすべり寄った。
 部屋の空気が渦《うず》巻く。逆巻《さかま》く。
 女の影がゆらいで、広げた腕が煙のように伸びる。薄れそうな指が富子ちゃんの体にかかったとたん、そこが白い光を放った。
「…………!」
 なに? この光は?
 女の手が富子ちゃんを抱きよせる。そこから白い光がにじんで広がる。
 板を胸にかかえこむ。表情は見えない。でも女の肩の線、首の線……安堵《あんど》の気配。
 白い光がにじむように広がって女の全身を包みこむ。女の影が光の中に溶《と》け落ちた。
 光はそのまま部屋の中に満ちてゆく。
 暖かい静かな光だった。まぶしくない。ただ暖かく白い。
 その光は、部屋いっぱいに満ちて、それから徐々に薄れていく。
 煙のような姿の子供たちが、ほんの一瞬、はっきりした姿を現して光の中に溶け入り流れて薄れていく。
 あたしは確かに見た。光の中に溶け入っていく寸前、子供たちが安らぐように薄くわらうのを。
 ゆっくりと光が消えると、後には薄藍《あい》色の闇《やみ》が残った。
 真砂子が腰を浮かす。
「……消えましたわ……。浄化《じょうか》した……!」

     4

 ……そして夜明けがやってきた。
 あたしたちは居間に集まる。床に開いた穴を見つめる。
「真砂子《まさこ》、どう?」
 綾子《あやこ》の声に真砂子が笑みをつくる。
「……もう誰《だれ》もいませんわ。この家には、もう霊はいない……」
 ひとり、ふたり、床に腰をおろす。しばらくは全員でおし黙っていた。疲れきって口をひらく気にもなれない。そのまま、ボーッとすわっている。
「……なんで浄化したの?」
 ポツンと綾子が聞くと、ナルは、
「望みが、かなったから」
「望みぃ?」
「子供を手に入れた」
 ……わかんない。
 あたしはナルをつつく。
「ねぇ、さっきの板は、なに?」
「見たとおりだ。人形」
 ぼーさんが口をはさむ。
「ヒトガタ。
 別名、偶人《ぐうじん》。木人《もくじん》。桐人《とうじん》……か」
 綾子《あやこ》も、
「人の形に切った桐の木を、呪《のろ》う相手に見たてるんでしょ。
 あれは人を呪う方法だと思ってたわ。呪いのワラ人形の原型だもん」
 ナルはウンザリしたふぜいだ。
 へへん、わからないのは素人《しろうと》だけじゃないじゃないか。
「呪術《じゅじゅつ》には必ず、白と黒がある。
 白は人を助け、黒は人を害する。同じ呪法が白と黒を兼ねることは多い」
「それはそうだな。密教の怨敵《おんてき》退散も、両方の意味に使うもんな」
 ぼーさんがしみじみと言う。
 ……ふうん。
「でも、人形《ひとがた》がどうして浄霊《じょうれい》の役にたつの?」
 あたしがナルに聞くと、
「ヒトガタというのは、魂《たましい》の依代《よりしろ》なんだ。依代、わかるか?」「いまいち」
「魂が入る器。
 あのヒトガタを麻衣《まい》に見立てれば、あれは麻衣のかわりになる。
 麻衣に見立てた人形に、わざと病気や災厄《さいやく》を呼び寄せて、これを封じて川に流して清める。これが流し雛《びな》。今のひな祭りの原型」
「へー」
「あのヒトガタは、富子に見立てた。
 女はあれを自分の子供だと思ったんだ。子供を手にいれたと思った。だから浄化した」「ということは、だましたわけ?」
「こら」
「だって、しょせんはニセモノでしょ?」
「ニセモノとは少しちがう。
 
 麻衣のヒトガタに釘を打てば、麻衣が死ぬ。そのていどには本物だよ。
 それでいいんだ。一旦《いったん》浄化されれば、もどってこない。あの世界は、そういう場所なんだから。――わかったか?」
「うん……わかるような、わからないような……」
 ぼーさんが、
「よくヒトガタが作れたな。そのために出て行ったのか?」
「そう。あの女の素性《すじょう》を調べに」
「ヒトガタができた、ということは、調べがついたんだな」
「もちろん。てこずったけどね。
 古い街だからできたことだな。もっと中央のほうだったらアウトだった」
「……で?」
「女は大島ひろ。女の家が取り壊されて、建ったのかこの家なんだ。
 富子は女のひとり娘。この子は、ある日消えてその半年後、池に死体が浮かんだ」
「……さらわれたのでしょうか」
 言って、リンさんはあたしを見る。
 ナルは軽く肩をすくめて、
「さぁ。そうかも。女は……」
「井戸に身を投げて自殺した」
 綾子がわらう。
 ナルがキョトンとする。
「……それはどうだか知らないけど。
 女は、娘が消えて半年後に死んだ。
 要は富子の生没年が、わかればよかったんだ。ヒトガタを作るのに必要だったから」
「ふうん……」
 あたしがつぶやくと同時に、ナルが立ち上がった。黙って居間を出て行く。そのあとをリンさんが追う。ふたりの後ろ姿を見送って、
「ナルが陰陽師《おんみょうじ》だったとはねぇ」
 ぼーさんが、ため息をもらした。
「おんみょうじ、って?」
「陰陽道の使い手。……わからんだろうな、これじゃ」
「わかるもんか」
 ぼーさんが苦笑をひとつ。
「なんとゆーか、まぁ、中国から呪術。日本じゃ古くからあってな、平安時代には陰陽寮という役所まであった。
 ヒトガタを使う呪術の本家は陰陽道。神道《しんとう》でも使うけどな。まぁ、ヒトガタを富子に見立てて、浄霊《じょうれい》するなんて高度なワザは、陰陽師《おんみょうじ》にしかできんだろ」
 ……へぇぇ。
「すごいじゃない。陰陽師なんて」
 綾子のつぶやき。あたしは綾子を振りかえる。
「すごいの?」
「まーね。ちょっとカッコイイわよ、陰陽師って」
 ……ほえー。すごーい。
 虚脱感《きょだつかん》。あたしたちは、長いこと黙ってボンヤリしていた。
 やがてポツポツと立ち上がる。
「げにおそろしきは女の執念、というやつだな」
 ぼーさんがため息まじりに言う。
「あら、それを言うなら、げに深きものは母の愛、よ」
「どうかね。……まあ、いいさ。
 あー、疲れた! もうごめんだ、こんなしんどい事件は」
「言えてるわね」
 そう言って、ひとりふたりとゆっくりと居間を出ていった。
 あたしが玄関ホールに入ると、ナルが電話をしているところだった。
「……いつもどって来られても結構です。終了しました」
 電話を切って、振りかえったナルと眼があった。夜よりも深い眼。
「これで終わったと思う?」
 あたしはナルに聞いた。
 ナルは眼を和《なご》ませる。
「もうだいじょうぶなんじゃない?」
「ふぅん」
 ホールで電話のようすを見まもっていた、ぼーさんが背伸びをして、
「さて、ナルちゃん、引き揚《あ》げる準備をしようか」
「ああ」
「そうだ、ナル?」
 ナルに声をかけたのは綾子だ。
「あんた、真砂子とつきあってるんだって?」
 ナルが一瞬、眉《まゆ》をあげる。
「つきあう?」
「デートしてるんでしょ? 映画を見たり、コンサートに行ったり。
 若いひとはいいわねぇ」
 思いっきり皮肉な口調。
 ……やめなよ、綾子。そういう追及は墓穴《ぼけつ》を掘るだけだぞ。
 ナルが冷たい眼で綾子をにらむ。
「なるほど、僕《ぼく》がいない間に、そういうくだらない話をしていたわけか。
 除霊《じょれい》できなかったわけだ」
 ……ほらね。
「おんなたらし」
「おや、僕が原さんと出かけるのがそんなにショック?」
 ナルは涼《すず》しい顔。
 ……あーあ、こいつはもー、綾子もやめなよ。口じゃナルにはかなわねーって。
「うぬぼれたこと言わないでよね。アタシは子供に興味ないの」
 綾子の精いっぱいの反撃。
「それはよかった。僕もおばさんには興味ないから」
 ニッコリ笑うナル。
 綾子がツンとそっぽを向いて、二階へあがって行った。
 玄関ホールにはいつのまにか、あたしとナルだけになった。
「ナルってば、隠してたんだー」
 あたしはわらって言ってやる。できるだけ、冗談みたいに。
 ……あー、ダメだ。こういうことを言ったって、足元をすくわれるだけなのに。
 でも、ナルはちょっと困《こま》った顔をして視線をそらした。
 へぇぇ、ナルでも困った顔なんて、することあるのかぁ。これはびっくり。
「真砂子が何を言ったか知らないが」
 ナルはそっぽをむいたまま言う。
「そんなのじゃない。――誤解だ」
 そうして、ベースにしていた部屋のほうに歩き始めた。
 ……誤解だ。
 その言葉が、夢の中のナルと重なって、あたしはなんだかおかしかった。
 ……誤解かぁ。
 思わず顔がわらってしまう。
 こういうのってうれしいね。深い意味はないんだろうけどさ。綾子が聞いたときには言い訳なんてしなかったのに、あたしが聞いたら言い訳してくれた。
 うん。しばらくそういうことにしておこう。ナルは、綾子に誤解されるのはかまわないと思った。でも、あたしには誤解されたくなかった、と。
 うーん、ないよなー、そんなこと。でも、いいや。とりあえず、そう思ってうぬぼれておこうっと。人間、明るくなれる材料は大切にしなきゃ。ねー?
 あたしはしばらく、ひとりでクスクスわらっていた。

 あたしたちが機材の整理をしていると、典子《のりこ》さんと礼美《あやみ》ちゃんがホテルから帰ってきた。
 ナルが典子さんに事情を説明する。
 
「本当に、もうだいじょうぶなんでしょうか」
 不安そうな典子さんに、
「心配ないでしょう。気になるのでしたら、家をかわってもかまいませんよ。
 そのほうが安心できるかもしれませんね」
 ナルの言葉に、典子さんが安心したように礼美ちゃんを抱き寄せる。
 礼美ちゃんは、あたしと眼があうとニッコリわらった。
 小さい子独特の、ぴかぴかした笑顔。
 ああ、よかったなぁ……。
「よかったね」
 なんとなく呼びかけた。礼美ちゃんの小さな胸の中で、この事件がどんなふうに整理されるのかはわからないけれど。
 礼美ちゃんがあたしに駆《か》け寄ってきた。いつのまにか顔色が沈みこんでいる。
 ……どうしたの?
 礼美ちゃんが、あたしの手にしがみつく。
「麻衣ちゃん、かえっちゃうの?」
「ん? うん」
「もっと、とまっていけばいいのに」
 礼美ちゃんの子供らしい不満そうな表情。
 ……だいじょうぶだね。もうこんなに元気なんだもん。すぐにこんな事件なんて忘れてしまって、もとの礼美ちゃんにもどるよね。
「いつ、かえるの?」
 聞かれてあたしは、ナルの顔を見る。
「明日《あす》」
「明日、だって」
「こんばんは、とまるの?」
「うん」
「じゃあね、麻衣ちゃん、礼美のおへやにとめてあげるね。
 きにいったら、もっといてもいいのよ」
 典子さんが、耐えかねたようにクスクス笑いだした。あたしもこらえきれずに、笑いだす。
 礼美《あやみ》ちゃんはキョトンとしていた。

 その夜、もう一晩、あたしたちはようすを見るために森下邸に泊《と》まった。あたしは礼美ちゃんのリクエストどおり、礼美ちゃんと典子さんの部屋で眠った。
 ノックも騒音も、何もない、とても静かな夜だった。


エピローグ


 東京、渋谷《しぶや》、道玄坂《どうげんざか》。
 あたしは「渋谷サイキック・リサーチ」のオフィスで、ビデオテープの整理をしている。
『The Case of Morishita』――すなわち、『森下事件』と書いたラベルを、テープに貼《は》って、リンさんがつけたメモを清書していく。
 これは何かなぁ。『Corridor of Ground Floor』……わかんねぇなー。いいや、このまんま写しちゃえ。
 まったくもー。こいつらはどーして横文字を使いたがるのかねー。あたしはだいたい、何かというと横文字をつかいたがる、昨今《さっこん》の風潮には怒りをおぼえるぞ。横文字で書きゃ、かっこいいかと思って。
 ふん。どーせ、あたしは英語が苦手《にがて》だよぉ。
 せっせとビデオの整理をしていたら、ドアが開いた。
 おっと客だ。あわてて笑顔をこさえて、立ち上がる。
 ……なんだ、あんたか。
「よっ」
 ぼーさんが、のんきそうな顔で手をあげる。
 このところ、ひんぱんにやって来るな、こいつ。
「暑いねぇ。麻衣《まい》ちゃん、俺《おれ》、アイスコーヒーがいいなー」
「なんでお客でもない人間に、お茶を出すわけ?
 それともぼーさん、事件の依頼?」
 ぼーさんが情けなさそうな表情をする。
「どーしてここの人間は、そうも冷たいわけなんだ?」
「営業方針」
「なんだ、そりゃ。
 なー、たのむよ。コーヒー。今度、映画でもおごってやるから」
 ごめんこうむり。
 あたしはしかたなく立ち上がった。が。
「麻衣、アタシはアイスティーにして」
 げ。綾子《あやこ》っ。
「なによ、ぼーさん。こんなとこでアブラ売ってていいの?」
「その言葉、そっくりかえしてやるよ」
 あのなー。あんたら、ここを喫茶店がわりにするなよな。
「ナルは?」
 綾子の問いに、あたしは丁寧《ていねい》に答えてやる。
「所長でしたら、所長室で、瞑想《めいそう》中でございますわ」
「あー?」
「なによ、それ」
「知らない、そう本人が言ってるもん。
 なんだか知らないけど、地図を広げてじーっと考えこんでんの。あたしは、旅行の計画を練《ね》ってるだけだと見たね」
「へー」
「でも、あれやってるときにジャマすると大目玉をくらう。
 だから、ナルはあきらめて、お茶飲んで帰れば?」
 綾子はちょっと唇《くちびる》をとがらす。
「なーんだ。
 あたし、アールグレイにしてよね」
 ……へいへい。
 なんちゅー勝手な客だ。おっと、客じゃなかったか。
 キッチンに入ろうとすると、再びドアの開く音。
 ……今度こそお客……なんてこったい。
「あ、こんにちは、です」
「あれー、ジョンじゃない」
「よぉ」
 ま、いいけどね、ジョンなら。
 でも、あたしはいちおう聞いたりする。
「どうしたの、ジョン?」
「近くまで来たんで、よらせてもろたんです」
 ……あー、さよーで。
「お茶いれるけど、何がいい?」
「……すんません。お手間のかからへんもんでかまいませんです」
 ……うんうん。いいねぇ。このひかえめな言い方。見習えよ、ぼーさんに綾子。
 あたしはヤカンをかけて、お茶の準備をする。ポットの用意をしながら、いやーな予感。
 ぼーさんが来て、綾子が来て、おまけにジョンが来た。と。すると、まさか……。
 そこに、所長室のドアが開いて当のナルが出てきた。
「麻衣、お茶……」
 いいかけて、オフィスを見て眼を見開く。
「……何のご用ですか?」
「いやー」
「ちょっとー」
 各々《おのおの》が言い訳を口にするのを冷たくながめる。
「……麻衣、なんなんだ、この騒ぎは」
 
「存じません。ファンクラブなんじゃないの?
 ――お茶、何にする?」
「なんでもいい」
 言って一同を見渡す。
「ここは喫茶店じゃないんだけど?」
「まぁまぁ」
 ぼーさんがにこやかに手を振る。
「堅《かた》いことは言いなさんなって。――旅行に行くんだって?」
「誰《だれ》が?」
「地図をながめているんだろ?
 まさか、本当に瞑想《めいそう》してたわけじゃないよなぁ?」
「そのつもりだったけど、これじゃ不可能だな」
 ため息まじりに言いながらも、ジョンの隣に腰をおろす。
 すぐに、最近出た本がどうとか、論文がどうとか、どこそこの霊能者がどうだとか、プロ同士の会話になってしまった。
 やれやれ。
 あたしは頭をひとつ振って、お茶をいれる。
 まぁいいけど。これでまた仕事をサボれる。あいつらが来てるあいだは、仕事にならないからなぁ。
 トレイにグラスを並べてキッチンを出たとたん、はかったようなタイミングで、再び(正確には四たび)ドアの開く音がした。
 ……まさか。
 全員の視線がドアに集まる。
 ドアをあけて、涼《すず》しげな着物姿の女のコが姿を現した。
 ……ウンザリ。
「なによ、真砂子《まさこ》、何の用?」
「あら、そういう松崎《まつざき》さんこそ」
「アタシは、ちょっと近くまで来たからー」
「あたくしもですわ。こんにちは」
 真砂子がナルにわらいかける。
 とたんにナルがそそくさと立ち上がった。
「……麻衣、僕《ぼく》はちょっと、出てくる」
 ……は?
「あら、お出かけですの?」
「ああ……。ちょっと」
「おともしますわ」
「いや、結構。ごゆっくり」
 ……ひょっとして、ナル、あんた真砂子を避けてない?
 そう言えば……礼美《あやみ》ちゃんの事件でも、綾子が真砂子を呼ぼうと言うのに、ずいぶん反対していたな。
「あら、出るんだったら、アタシもご一緒するわよ」
「いや……」
 ナルは真砂子と綾子を見くらべる。真沙子がちゃっかりナルの腕に手をかけた。
「あたくし、おともしたいわ」
 ねっとりした口調。
 ……こいつはー……。ふん、ナルが他人の言うことなんか聞くもんか。ノーと言ったら絶対にノーの人間なのよ。
 ……が、しかし。
「…………」
 声にならないつぶやきをもらして、ナルはそのまま歩きだした。真沙子の手を振りほどかずに。
 ……がーん。
 真沙子が得意そうな眼であたしたちを振りかえる。
「ごめんあそばせ」

 ……しばらく、全員でぼーぜんとドアをにらんでしまった。
「……なによ、あいつっ!」
 綾子のバ声は、どちらに向けられたものなのかわからない。
 ……なんでよぉ、誤解だって言ったじゃんよー。ナルのうそつきぃ!
 ぼーさんが身を乗りだした。
「なぁ、麻衣? ナルは真沙子になんか弱みでも握《にぎ》られてるのか?」
「弱み? ナルにそんなもん、あると思う?」
「……しかし、弱みを握られてるんじゃなきゃ、いまのは何なんだよ」
 ……そんなこと聞かれてもわかんないよぉ。
「たしかに……」
 ジョンまでが困《こま》ったように首をかしげる。
「麻衣。いつも聞こうと思ってたんだけどさ」
 ぼーさんが声をひそめる。
「ナルって、本当にここの所長なのか?」
「……いまさら、なにを。当然そうだよ」
「オーナーとかいないのか?」
「いないよ」
 ……たぶん。
「なんで?」
 あたしが聞くと、ぼーさんは、
「なんでって、おまえ……。この事務所の家賃、いくらすると思う?」
 綾子もふと、
「そういえば、そうよね、仮にも渋谷でしょ? まだビルは新しいし事務所は広いし……」
「だろ? おまけにあの機材だ。高感度カメラ一台の値段は?」
 ……高い。とほーもなく高い。それは前に聞いて知ってる。
 ジョンがサラッと言う。
「パトロンでもいるのとちがいますか?」
 ……おいっ、おいっ!
「ボク、なんぞ変なことでも言いましたか?」
「……パトロンって、おまえな……」
 ぼーさんの声に、
「けど、欧米やったら、ようあることです。超心理学ゆうのは、まだ理解されてない学問ですから、どこの研究所も後援者がいるのがふつうやと思いますけど。大きな財団が後援してるところかてありますし、博士号や教授職を作ってる財団かて」
「ジョン、……あのな」
「ハイ」
「日本語は気をつけて使え。日本でパトロンつったら、意味が少し違うんだぞ」
「……はぁ?」
 ……あー、びっくりした。
「しかしねそのセンは悪くない」
 ぼーさんが腕を組む。
「ひょっとして、後援者がいてさ、それが真沙子の父親とかな」
「あ、そやったら、原さんの誘《さそ》いは断れませんね」
「だろ?」
 綾子も身を乗り出す。
「こういう可能性もあるんじゃない? ……ナルはじつはおぼっちゃま」
 ……うーむ。
 しばし全員で考えこんだあと、ぼーさんがいきなり立ち上がった。
「ま、それはともかく。綾子はミゴトにふられたわけだ」
「……よけいなお世話よっ!」
「ハラいせにどう? 俺《おれ》とデートしない?」
 ……おちゃらけ坊主《ぼうず》。
「お断りっ。誰《だれ》があんたなんかと」
「オヤオヤ。んじゃ、麻衣? どう?」
 
 ……あたしーっ!?
「コーヒーのお礼に映画でも」
 ……コーヒーのお礼って、これは事務所のもんで、べつにあたしのものじゃ……。
 ん? というように、ぼーさんにうながされて、
「……ぼーさんのおごり?」
「モチロン。森下事件で依頼料が入ったばかりだし、俺《おれ》いま、金持ちだぜ?」
「行く」
 ……行くとも。行ってやるーぅ! ナルのばかー!
 あたしは十五の若いみそらで、青春したいさかりなんだからねっ。それをナルみたいなニブイやつ、待ってられるかぁー!
 おどろいたようにあたしを見上げているジョンと綾子。
「あんたが、ロリコンだったとは知らなかったわ」
と、綾子。
「おや、女の子は若いほうがいいに決まってるじゃねぇか。なー、麻衣ちゃん」
「ねー、ぼーさん」
「若いコのほうがいいんだったら、あんたが真沙子にアタックすれば?
 そしたらアタシが……」
 ……こいつっ。
「俺、見る眼あるから、真沙子より麻衣ちゃんのほうがいいー」
 ……え?
「真沙子より性格いいしー」
 ……うれしいこと言ってくれるじゃない。みどころのあるやつ。
「あー、あたしもぼーさん、けっこうハンサムかなーとか思ったのー」
「お、わかってるねー」
「うん(ハート)」
 綾子はジトッとあたしたちをながめたあと、
「よしっ! ジョン、デートしよ!」
「え??? ボク……ですかぁ?」
「そ。おねーさんがおごったげるっ! さっ!」
 ひきずるようにして綾子がジョンを立たせる。

 ……というわけで。
 本日、以後ご来訪のお客様。もうしわけありませんが、あたしはいません。リンさんに相手をしてもらってくださいませ。なーに、そんなにこわいひとじゃありません。たぶん。
 みょうに気があったりするかもしれません。
 そーゆうことで、……よろしくっ。

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责任编辑:Mashimaro

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