盲趣ⅳ郡筏蛞姢皮い俊¥丹婴筏ど瓮|aって首を振る。心を痛めているようす。 あたしは眼を女にもどす。 井戸に身をかがめて、嗚咽《おえつ》している女。 女は泣いて、泣いて、一声叫ぶと井戸の中に身を投げた。 深い虚《うつ》ろな水音……。
……そこであたしは眼が覚《さ》めた。 今のはなに? 夢なのはわかってる。どうしてあんな夢を見たんだろう。 ハッと気がついて身を起こすと、全身が痛んだ。 ここは……あの穴の底だ。 思った瞬間、上から声が降ってくる。 「麻衣! だいじょうぶ!?」 穴の縁《ふち》に手をかけて、綾子《あやこ》がのぞきこんでいる。心配の色のにじんだ声。 ふいにあたしは夢の中で聞いた、女の声を思い出す。 「だいじょうぶだけど、登れないよ!」 「いま、リンが足場になるものを探しに行ってるわ! だいじょうぶ?」 「うんっ」 答えるのと同時に、走ってくる足音が聞こえた。すぐにリンさんが顔を出す。彼は、穴の縁に手をかけると、身軽に下へ降りてきた。 「けがは」 「ないよ」 ニコリともせずにうなずいて、彼は綾子を仰《あお》ぐ。 「イスを」 綾子が上からイスをおろした。 それを見ながらあたしはボーッと考える。 ……埋《う》められた井戸。 あたしは突然わかってしまった。 この井戸は、女が身を投げた井戸だ。 女の子供はいなくなった。女はそれを悲しんで身を投げた。 女は亡霊となって、今も自分の子供を探している……。 リンさんがイスの上から手を伸ばす。 あたしは、その手に助けられて、穴の底から脱出した。 「今……何時?」 あたしは穴からはいでて、綾子に聞く。今度から、調査のときはスカートはやめよう、とつくづく思いながら。 「十時。まだまだこれからよ」 ……すると穴の中には、大した時間はいなかったんだ……。あの夢も、一瞬の間にみたんだな。
「ひとさらい~?」 綾子があたしの足のすり傷に薬をぬりたくりながら言う。 「うん。だと思うんだ。 それでね、富子ちゃんがいなくなって、そのお母さんが井戸に身を投げるの。 けっこう意味ありげな夢でしょ?」 「バカなんじゃないの?」 綾子がアザ笑う。 「霊能者でもないあんたの夢が、なんか意味があると思うの?」 こいつ、さっきまでオロオロしてたくせに。 リンさんは考えこむ風情《ふぜい》。 「……真偽のほどはわかりませんが……案外的《まと》を得ているかもしれませんね」 「あ、やっぱし、そう思います?」 リンさんは、さらに考えこむ。 「ねぇ、どうしたらいいと思う? アタシにはあいつを祈祷《きとう》で祓《はら》うなんてムリだわ」 「…………」 リンさんの答えはない。 「ねぇ!」 「……力技はムリだと思いますね」 彼はやっと口を開く。 「わたしの意見を言わせていただくなら、ナルがもどるまで祈祷はとりあえず待つべきです。 祈祷というのは、いわば力で相手を抑《おさ》えこむワザですから抵抗も大きい」 「……だって他にどうするのよ。 第一、ナルを待つって、あいつ、いつ帰ってくるの?」 「ナルだって、こちらの状況はわかっています。時間を無駄に使うはずがありません。すぐにもどって来ます」 「……ずいぶんボスには甘いのね」 リンさんは、冷ややかな視線を綾子に向ける。 「ナルがまわりの期待を裏切ったことは、一度だってありませんから」 そっけなく言って、あたしを振りかえる。 「少しここで休んだほうがいいでしょう。頭を打っていると、いけないので」 「うん」 じつはさっきからあちこちが痛い。体がギシギシ悲鳴をあげている。あたしはおとなしくカウチに横になった。
2
ふうっとした浮上感。 浮上感のままにあたしは眼を覚《さ》ます。 暗い部屋、勝手に作業を続けている機械の山。みなれたベース。 機械の前には、リンさんではなくナルがすわっている。 ナルのはずがない。ナルはまだもどってきてない。あたし、また寝ぼけてるんだ……。 そう思ったけど、ムリに眼を覚ます気にはなれなかった。 ナルと眼があう。ナルが微笑《ほほえ》む。 うん。その笑顔って好きだなぁ。現実のナルはぜったいにしない顔。 「ナル?」 あたしは声をかける。横になったままで。 ナルが首をかしげた。どうした? と言っている。 「礼美《あやみ》ちゃん、助けてあげられる?」 このままあたしたちが負けてしまったら、礼美ちゃんはあの女に連《つ》れて行かれてしまう。たくさんの、この家で死んでいった子供たちのように。 「だいじょうぶ」 ナルがわらう。 「……真砂子《まさこ》とデートしたでしょ」 ……ああ、あたしは何を言ってるんだ。こんなときに。 ナルはクスリとわらう。 「誤解だよ」 優しい笑顔。あたしは満足する。 ……だったら、いいんだ……。
突然、人声がして、ベースのドアが開いた。 あたしはそれで、本当に眼が覚めた。 あわてて身を起こす。入って来たのはナルだった。 ……あれ? あたし、まだ寝ぼけてるのかな? ナルはあたしに視線を向けるる 「眼が覚めたか?」 優しさのかけもない声。 げっ。本物のほうだ。 「もどって来たの!?」 「だからここにいるんだろうが」 ……悪かったな、つまんねーこと聞いて。 ナルは後ろを振りかえる。 「リン、今までのぶんを再生してくれ」 「はい」 あとに続いて入って来たリンさんが、機械の前にすわる。誰《だれ》もいないイスの上に。 リンさんのあとに続いて、ぼーさんたちが入ってくる。礼美《あやみ》ちゃんについて、ホテルにいるはずなのに。ジョンも、真砂子もいる。 「礼美ちゃんは?」 あたしが聞くと、ぼーさんは肩をすくめる。 「典子《のりこ》さんとふたりで、残してきた。 ナルがそうしろとよ」 ……え!? 「ナル! だいじょぅぶなの?」 「だいじょうぶだろう」 あっさり答える。 「だろう……って、そんな、無責任な」 「今夜中に決着をつける」 ナルが闇《やみ》色の瞳《ひとみ》をあげる。不安も躊躇《ちゅうちょ》もない眼。 「できるの!?」 「何のために、ひとがかけずりまわったと思ってるんだ?」 軽蔑《けいべつ》するように言ってから、 「まったく、これだけの人間がいて、このザマとはね」 ……あんた、たいがいの性格してんなー。 綾子がヒステリックな声をあげる。 「勝算はあるんでしょうね!? ナルは見てないらか知らないだろうけど、あいつ、ハンパじゃないわよ」 ナルの軽蔑の眼。 「やつがケタはずれの力を持ってることなんか、最初からわかってる。ポルターガイストのようすを見ていれば一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ。」 言葉につまる綾子のわきから、ぼーさんが身を乗り出す。 「で? その勝算とやらを聞かせてもらおうか?」 ナルはTVから眼をはなして、腕を組む。 「原因ははっきりしている。あの女は子供を探しているんだ。取りもどしたいと思っている」 綾子が突っかかる。 「そんなことは、わかってるわよ。 問題は、どうやってその執着を解くかということなんでしょ?」 「子供を連《つ》れて来ればいい」 「え!?」 「その子がいれば、あの女は満足するはずなんだ」 「その子……って、今どこにいるの? いくつになってると思うの? もう死んでる可能性だってあるのよ」 「僕《ぼく》が、その程度のことも考えないとでも? もちろん、富子《とみこ》自身を連れて来るのは不可能だし、無意味だ。 年をとった富子を見ても、あの女は納得しないだろう」 「……だったら……!」 ナルは綾子を無視する。 「原さん、家の中のようすは?」 真砂子が、何かに聞き入るように首をかしげる。 「居間に……たぶん居間にいますわ。 まだ、ホテルのほうには行ってない……」 綾子が割って入った。 「ねぇ、あたしたち、自分の身の安全を考えるべきじゃない!?」 ナルは冷たい視線を向ける。 「おや、プロの言葉とも思えませんね」 「いくら、プロだって力の限界ってもんがあるわ! 冗談じゃないわよ、この家、異常よ。 あたしもたくさん幽霊《ゆうれい》屋敷は見て来たけどね、こんなムチャクチャなのは初めてだわ」 ……そんな、礼美《あやみ》ちゃんをどうするの? 見捨てるの、このまま!? あたしはぼーさんを振りかえる。 ぼーさんも、のんびりとうなずいた。 「下手《へた》をすると、こっちまで地縛霊《じばくれい》にされそうだなー」 「……ちょっと!」 ぼーさんを怒鳴《どな》りつけようと思ったら、反対に綾子に怒鳴られた。 「ものには、引きぎわってもんがあるの!」 「あのねっ!」 あたしが怒鳴ったとたん、 「麻衣《まい》」 ナルが静かな声をはさんだ。 「帰りたい人間は帰ればいい。その程度の霊能者なら、必要ない」 ぐっ、と綾子がつまる。 ぼーさんがナルの顔をしみじみと見つめる。 「本当に勝算はあるのか?」 「信じる信じないは、御勝手に」 そっけなく言われて、ぼーさんと巫女《みこ》さんは顔を見交わす。 「よし……」 ぼーさんが立ち上がる。 「そいじゃあ、ナルちゃんを信じて、もう少し己《おのれ》を酷使《こくし》してみるか。 もう一度、除霊《じょれい》の努力をしてみよう」 「しょうがないわね……」 綾子もシブシブ立ち上がる。 「できるかぎりふんばってみる。 なんかあってブッ倒れたら、そこまでだ」 「骨ぐらいは拾ってあげるわよ」 綾子の声に、 「神道《しんとう》で葬式を出されちゃ、死ぬに死ねねぇよ」 ……口の減らないやつ。でもよかった。アリガトウ。
3
「で、どうすりゃいいんだ?」 ぼーさんの声にナルが指示を始める。 「とにかく手下の数が多すぎる。問題はあの女だ。 女を引きずり出さなければ意味がない」 「どうやってぇ?」 綾子のやゆするような声に、 「子供たちを散らす」 鋭利な声で言ってから、 「巫女《みこ》さん、霊を通さない護符《ごふ》があるな?」 「あるわよ。ホテルに貼《は》ったやつが。たいして役にはたたなかったけど」 「それを大量に作って貼ってくれ」 「すぐに突破されるわよ」 「いいんだ。ジョンも手伝ってくれ」 「はい、そやけど……」 言いかけるジョンを手で制して、 「結界《けっかい》をはる。内側に向けて」 「なにぃ!?」 「霊が礼美《あやみ》ちゃんのそばに侵入できないようにするのではなく、この家から出られないようにする」 ぼーさんは眼をぱちくりさせたあと、 「できるかねぇ」 「効果はたいしてなくていいんだ。 家全体に結界をきずいて、鬼門《きもん》だけを解放する」 「鬼門って?」 あたしがついうっかり声をあげると、 「うるさいぞ、麻衣」 「だって」 「北東の方角。悪霊《あくりょう》が出入りする方向。 もともと通りやすい方角だ。しかも、鬼門以外は護符で守られていて通りにくいとなれば、連中は家を出てホテルに向かうのに必ず鬼門を使うだろう。 ――そこで、鬼門の外で巫女《みこ》さんとぼーさんが構える」 「出てきた霊を散らすわけか?」 「そう。散らすだけでいい」 「それじゃ、問題の解決にならないわよ。散らしたところで、すぐにまたもどって来ちゃう」 綾子の抗議に、 「いいんだ。そうやって女のまわりに群がる霊を少しでも減らせれば。一時的にでも。ジョンは居間に来てくれ。いちおう、居間でも霊を散らせるかどうかやってみる」 「はい」 うなずいてナルが立ち上がる。それをぼーさんが制す。 「おい、子供らをおっぱらうてはずはわかったが、肝心《かんじん》の女の除霊は誰《だれ》がやるんだ?」 ……そうか。ぼーさんと綾子が家の外。ジョンが中でも、ジョンひとりの手には負えないだろう。ましてやナルは、霊を散らすだけでいいと言う。 「まさか、ナル、おまえさんか?」 ナルの不敵なわらい。そうして軽く手をたたく。 「始めよう」
午前四時。 家の壁《かべ》は護符《ごふ》だらけになった。やつらが居間から外に出られないよう、ジョンが居間の壁に聖水で十字を書く。いつだか礼美《あやみ》ちゃんにほどこしてあげた、オマジナイ。やつらはしばらくの間礼美ちゃんを見つけられずに、家中をあばれまわった。結局突破されたけど。 そうしてその外。ぼーさんと綾子とで作った護符の山。壁一面に。礼美ちゃんが泊《と》まっているホテルと同じように。あれだって結局は突破されたけど。 護符の山は家の一角だけにない。鬼門《きもん》の方角はやつらに解放されている。 ぼーさんと綾子がそこに構える。 ジョンとナルは居間へ。リンさんが機械を守る。 あたしと真砂子はベースにいるようナルに言われたのだけど、肝心《かんじん》の真砂子が一緒に居間に行くと言ってきかない。 「麻衣、少し危険になるが、原さんのそばについててくれ。 万が一、いつかのように憑依《ひょうい》されて妨害されるとめんどうだ」 ナルに言われて、あたしも居間へ。真砂子のわきにしっかりひかえる。 もはや夜明けが近い。空にはまだ、光の色はないけれども。 ナルはどうするつもりなのだろう。女は子供を――富子を探している。富子がいなくなって、それが心に残って橋の向こうに行けないでいる。富子が見つかれば、女はよろこんでこの世を離れるだろう。――でも、どうやって? 富子はこの場にいない。この世のどこにもいないかもしれない。
「ジョン」 ナルにうながされて、ジョンがうなずく。 見なれた手順で静かに祈祷《きとう》を開始する。 間もなく、家自体が身震いするように、ギシッと家鳴《やな》りがした。 始まった……。 あたしは眼をさまよわす。何の影もない。何も見えない。ただ、ギッと床がゆがむ音。カタカタと床の上を震えが走る。壁をたたくノックの音。どこかで者をぶつけるような音。真砂子は青い顔をしている。こわいんだったら、ベースにいればいいのに。 「だいじょうぶ? ベースにもどらなくていい?」 あたしは小声で話しかける。真砂子は首を振る。 「いいえ……。ここにいますわ」 そんなにナルのそばにいたいわけ? あたしは思わず、イヤミのひとつも言いたくなる。あたしだってこわいんだからね。井戸にひきずり落とされるような悲惨な経験は、一度でじゅうぶん。 「除霊《じょれい》にはふたつありますの……」 真砂子は、おびえた眼を周囲にやりながら口を開く。 「浄霊《じょうれい》と除霊。浄霊は霊に語りかけて、こだわりを解いてやるのですわ。橋のあちらに行けない原因を取り除いてあげますの。……でもこれは、霊媒《れいばい》にしかできない……。 ナルは霊媒じゃないのですもの、除霊をするつもりなのですわ」 「除霊って?」 「力で霊を吹き飛ばすの……。 悪い人間が……いたとしますでしょ? 説得して会心させるのが浄霊。ウムをいわさず殺してしまうのが除霊ですの。 除霊はしてほしくありませんわ。すくなくともあたしの前では――」 真砂子はこの世の外を見ている。霊媒である彼女には霊も人間も、同じような存在なんだ。人が死ぬのはいや。霊が滅《ほろ》びるのもいや。それは真砂子にとって同じこと。 ……よくはわからないけど、そんなものかもしれない。 あたしと真砂子が小声で話し合っている間にも、部屋に満ちた騒音は大きくなる。 床がきしむ。そして足音。大勢の子供が走りまわる音。 冷気が床をはって、白いものがただよい始めた。煙のようなもの。部屋をおおう白いもや。かすかに人間の輪郭《りんかく》。 聞こえるはずのない悲鳴が、聞こえる気がする。苦しげな叫び。耳を打つ悲しみ。 ジョンの祈祷《きとう》に、逃げまどうように揺《ゆ》れて流れる。 「……!」 誰《だれ》かがあたしの肩をたたいた。振りかえっても誰《だれ》もいない。髪を引っ張る手。 ジョンも、何かに驚いたよう身じろぎをする。その度《たび》、聖水のびんを振って、しずくを降らす。近寄った霊を散らしているんだ。 ドンッと部屋が抵抗する。 床がしなって、体が揺れる。稲妻のように壁《かべ》に亀裂が走った。 そして激しい縦揺れ。 ……大きい! 宙に投げ出されて、あたしは思わず声をあげる。ジョンたちまでもが放り出されて姿勢を崩《くず》す。 誰《だれ》かがあたしの腕をつかむ。あたしはそれにあらがう。有無を言わさず引き寄せる力。あたしは床に引き倒される。 「麻衣さん!」 ジョンが振りかえって、あたしのほうに向かって聖水をまく。体を押さえこんでいた強い力が途切れる。 部屋にたちこめた、煙とももやともつかないもの。 ジョンは祈祷《きとう》をゆるめない。しかし、煙のようなものが、切れてちぎれるだけ。 「原さん! どうです!?」 ナルが真砂子を振りかえる。 「逃げまどっていますわ。ずいぶん数が減りました……。居間の外へ逃げて行きます」 そのあと、泣きながら、という声はあたしにしか聞こえなかったろう。 部屋にうごめく子供たち。みんなこの家に捕らわれて。どこにも行けず、なつかしい自分の家に帰ることもできず、さびしくて悲しくて、耐えかねて仲間を呼んで。そのうえ祈祷に苦しめられる。 ……真砂子の気持ちが少しだけわかる。子供たちがかわいそうだ。さびしいまま、悲しいままナルに吹き飛ばされてしまうんだろうか。 あの女だってそうだ。娘をなくして、悲しくて。いなくなった富子ちゃんを探して、探して、ここに悲しい檻《おり》を作った。 だからと言って、このままにはしておけない。生きている礼美《あやみ》ちゃんを渡すわけには、絶対にいかない。こんな悲しい子供たちの仲間にするわけには。 居間に満ちた煙が少し薄れた。子供たちが減っている証拠。ジョンとぼーさんと綾子。三人がかりで家からはじきとばされて。 「子供たちを浄霊《じょうれい》できないの?」 あたしの声に真砂子は首を振る。 「ムリですわ……あの女がいるかぎりは。子供たちをとらえてる女を浄霊しないことには……」 ハッと息を飲んで、真砂子は急に口をつぐんだ。おびえたように見開いた眼を、床に口を開けた穴に向ける。 「……出てくる……」 声と同時に、ふと音がやんだ。 薄い薄い煙《けむり》が無言でたゆたう。 あたしたちの息づかい。 突然、澄んだ音が聞こえた。 深い空洞の中に水滴が落ちる音だ。高い高い、澄んだ音。 穴の中から――
穴の中がかすかに光った。青い暗い光。 人の影がせり上がってくる。 あたしたちの眼は、それにくぎづけになる。うっすらと女の姿。髪を結《ゆ》った女。着物。細かいようすはわからない。いまにも消えそうなほど薄い影。 「富子さんはいません!」 真砂子が叫ぶ。 「地上を探しても、どこにもいませんのよ!」 青ざめた女の姿。首をたれて、深くうつむいたまま。 「どうぞ、わかって! 富子さんはどこにもいないのです!」 真砂子が悲痛な声をあげる。 「その子たちは富子さんではありません! どうぞもう自由にしてあげて! みんなほんとうのお母さんのもとに帰りたいのですわ!」 女をなんとか説得しようとして声をはりあげた真砂子の喉《のど》が、突然ヒッと鳴った。 女の姿は、今や腰のあたりまで穴の上に現れている。その穴の縁《ふち》に白いものがうごめく。虫のような白いもの。白い、小さな子供の……指。 子供の指が穴の縁にかかる。指で床を引っかいて手を差し出す。 のぼってこようとしている。 そのとなりにも子供の手。ひとつふえ、ふたつふえ……。やがていくつもの子供の手が、穴の上ににじりのぼろうとして、うごめきはじめる。床に爪《つめ》をたて、体を引き上げようとのたうつ。 「いや! こないで!」 真砂子の悲鳴。あたしはもう、声なんか出ない。 ジョンが、あたしたちの前に立ちふさがる。 聖水のびんを構えたとたん、部屋が揺《ゆ》れる。ジョンの体が何かに突き倒されて床にたたきつけられる。 「ジョン!」 そのとき、うつむいていた女がスゥと顔をあげた。 うらみをこめた眼。女は真砂子の声など聞く気がないのだ。富子ちゃんが恋しくて恋しくて。この世を離れる気にもなれない。 女は陰鬱《いんうつ》な目を部屋の中にさまよわす。その眼がふと止まった。ドアのところにある黒い影に。 闇《やみ》に溶け入るほど黒い影。ほのかに白い顔。 ナルが女を見据《みす》える。闇色の眼には自信の色。 ナルは白い右手をかざした。 「ナル、やめてください! 少し待って!」 真砂子の悲鳴。ナルは真砂子を振りかえりもしない。白い手をあげて、手の中にあるものを女に向かって突《つ》きつける。女の眼がナルの右手にくぎづけになる。 「おまえの子供はここにいる」 ナルの静かな声。かざしたのは板を人の形に切って、そこに札を貼《は》ったものだった。 女の眼が人形《ひとがた》の板を射抜《いぬ》く。 「集めた子供ともども……連《つ》れて行くがいい」 ナルが板を投げた。 女がなにか叫び声をあげた。 闇《やみ》の中にほの白く軌跡《きせき》を描いて、ゆっくりと回転しながら板が飛んでいく。まわるうちに輪郭《りんかく》が溶《と》けて、花が開くように広がるとやわらかな形を作った。――小さな子供の姿を――。 あたし知っている。あの子が富子ちゃんだ。 女は身をかがめて腕を伸ばした。白い白い富子ちゃんのほうへ。富子ちゃんは宙を駆《か》けて女のほうにすべり寄った。 部屋の空気が渦《うず》巻く。逆巻《さかま》く。 女の影がゆらいで、広げた腕が煙のように伸びる。薄れそうな指が富子ちゃんの体にかかったとたん、そこが白い光を放った。 「…………!」 なに? この光は? 女の手が富子ちゃんを抱きよせる。そこから白い光がにじんで広がる。 板を胸にかかえこむ。表情は見えない。でも女の肩の線、首の線……安堵《あんど》の気配。 白い光がにじむように広がって女の全身を包みこむ。女の影が光の中に溶《と》け落ちた。 光はそのまま部屋の中に満ちてゆく。 暖かい静かな光だった。まぶしくない。ただ暖かく白い。 その光は、部屋いっぱいに満ちて、それから徐々に薄れていく。 煙のような姿の子供たちが、ほんの一瞬、はっきりした姿を現して光の中に溶け入り流れて薄れていく。 あたしは確かに見た。光の中に溶け入っていく寸前、子供たちが安らぐように薄くわらうのを。 ゆっくりと光が消えると、後には薄藍《あい》色の闇《やみ》が残った。 真砂子が腰を浮かす。 「……消えましたわ……。浄化《じょうか》した……!」
4
……そして夜明けがやってきた。 あたしたちは居間に集まる。床に開いた穴を見つめる。 「真砂子《まさこ》、どう?」 綾子《あやこ》の声に真砂子が笑みをつくる。 「……もう誰《だれ》もいませんわ。この家には、もう霊はいない……」 ひとり、ふたり、床に腰をおろす。しばらくは全員でおし黙っていた。疲れきって口をひらく気にもなれない。そのまま、ボーッとすわっている。 「……なんで浄化したの?」 ポツンと綾子が聞くと、ナルは、 「望みが、かなったから」 「望みぃ?」 「子供を手に入れた」 ……わかんない。 あたしはナルをつつく。 「ねぇ、さっきの板は、なに?」 「見たとおりだ。人形」 ぼーさんが口をはさむ。 「ヒトガタ。 別名、偶人《ぐうじん》。木人《もくじん》。桐人《とうじん》……か」 綾子《あやこ》も、 「人の形に切った桐の木を、呪《のろ》う相手に見たてるんでしょ。 あれは人を呪う方法だと思ってたわ。呪いのワラ人形の原型だもん」 ナルはウンザリしたふぜいだ。 へへん、わからないのは素人《しろうと》だけじゃないじゃないか。 「呪術《じゅじゅつ》には必ず、白と黒がある。 白は人を助け、黒は人を害する。同じ呪法が白と黒を兼ねることは多い」 「それはそうだな。密教の怨敵《おんてき》退散も、両方の意味に使うもんな」 ぼーさんがしみじみと言う。 ……ふうん。 「でも、人形《ひとがた》がどうして浄霊《じょうれい》の役にたつの?」 あたしがナルに聞くと、 「ヒトガタというのは、魂《たましい》の依代《よりしろ》なんだ。依代、わかるか?」「いまいち」 「魂が入る器。 あのヒトガタを麻衣《まい》に見立てれば、あれは麻衣のかわりになる。 麻衣に見立てた人形に、わざと病気や災厄《さいやく》を呼び寄せて、これを封じて川に流して清める。これが流し雛《びな》。今のひな祭りの原型」 「へー」 「あのヒトガタは、富子に見立てた。 女はあれを自分の子供だと思ったんだ。子供を手にいれたと思った。だから浄化した」「ということは、だましたわけ?」 「こら」 「だって、しょせんはニセモノでしょ?」 「ニセモノとは少しちがう。 麻衣のヒトガタに釘を打てば、麻衣が死ぬ。そのていどには本物だよ。 それでいいんだ。一旦《いったん》浄化されれば、もどってこない。あの世界は、そういう場所なんだから。――わかったか?」 「うん……わかるような、わからないような……」 ぼーさんが、 「よくヒトガタが作れたな。そのために出て行ったのか?」 「そう。あの女の素性《すじょう》を調べに」 「ヒトガタができた、ということは、調べがついたんだな」 「もちろん。てこずったけどね。 古い街だからできたことだな。もっと中央のほうだったらアウトだった」 「……で?」 「女は大島ひろ。女の家が取り壊されて、建ったのかこの家なんだ。 富子は女のひとり娘。この子は、ある日消えてその半年後、池に死体が浮かんだ」 「……さらわれたのでしょうか」 言って、リンさんはあたしを見る。 ナルは軽く肩をすくめて、 「さぁ。そうかも。女は……」 「井戸に身を投げて自殺した」 綾子がわらう。 ナルがキョトンとする。 「……それはどうだか知らないけど。 女は、娘が消えて半年後に死んだ。 要は富子の生没年が、わかればよかったんだ。ヒトガタを作るのに必要だったから」 「ふうん……」 あたしがつぶやくと同時に、ナルが立ち上がった。黙って居間を出て行く。そのあとをリンさんが追う。ふたりの後ろ姿を見送って、 「ナルが陰陽師《おんみょうじ》だったとはねぇ」 ぼーさんが、ため息をもらした。 「おんみょうじ、って?」 「陰陽道の使い手。……わからんだろうな、これじゃ」 「わかるもんか」 ぼーさんが苦笑をひとつ。 「なんとゆーか、まぁ、中国から呪術。日本じゃ古くからあってな、平安時代には陰陽寮という役所まであった。 ヒトガタを使う呪術の本家は陰陽道。神道《しんとう》でも使うけどな。まぁ、ヒトガタを富子に見立てて、浄霊《じょうれい》するなんて高度なワザは、陰陽師《おんみょうじ》にしかできんだろ」 ……へぇぇ。 「すごいじゃない。陰陽師なんて」 綾子のつぶやき。あたしは綾子を振りかえる。 「すごいの?」 「まーね。ちょっとカッコイイわよ、陰陽師って」 ……ほえー。すごーい。 虚脱感《きょだつかん》。あたしたちは、長いこと黙ってボンヤリしていた。 やがてポツポツと立ち上がる。 「げにおそろしきは女の執念、というやつだな」 ぼーさんがため息まじりに言う。 「あら、それを言うなら、げに深きものは母の愛、よ」 「どうかね。……まあ、いいさ。 あー、疲れた! もうごめんだ、こんなしんどい事件は」 「言えてるわね」 そう言って、ひとりふたりとゆっくりと居間を出ていった。 あたしが玄関ホールに入ると、ナルが電話をしているところだった。 「……いつもどって来られても結構です。終了しました」 電話を切って、振りかえったナルと眼があった。夜よりも深い眼。 「これで終わったと思う?」 あたしはナルに聞いた。 ナルは眼を和《なご》ませる。 「もうだいじょうぶなんじゃない?」 「ふぅん」 ホールで電話のようすを見まもっていた、ぼーさんが背伸びをして、 「さて、ナルちゃん、引き揚《あ》げる準備をしようか」 「ああ」 「そうだ、ナル?」 ナルに声をかけたのは綾子だ。 「あんた、真砂子とつきあってるんだって?」 ナルが一瞬、眉《まゆ》をあげる。 「つきあう?」 「デートしてるんでしょ? 映画を見たり、コンサートに行ったり。 若いひとはいいわねぇ」 思いっきり皮肉な口調。 ……やめなよ、綾子。そういう追及は墓穴《ぼけつ》を掘るだけだぞ。 ナルが冷たい眼で綾子をにらむ。 「なるほど、僕《ぼく》がいない間に、そういうくだらない話をしていたわけか。 除霊《じょれい》できなかったわけだ」 ……ほらね。 「おんなたらし」 「おや、僕が原さんと出かけるのがそんなにショック?」 ナルは涼《すず》しい顔。 ……あーあ、こいつはもー、綾子もやめなよ。口じゃナルにはかなわねーって。 「うぬぼれたこと言わないでよね。アタシは子供に興味ないの」 綾子の精いっぱいの反撃。 「それはよかった。僕もおばさんには興味ないから」 ニッコリ笑うナル。 綾子がツンとそっぽを向いて、二階へあがって行った。 玄関ホールにはいつのまにか、あたしとナルだけになった。 「ナルってば、隠してたんだー」 あたしはわらって言ってやる。できるだけ、冗談みたいに。 ……あー、ダメだ。こういうことを言ったって、足元をすくわれるだけなのに。 でも、ナルはちょっと困《こま》った顔をして視線をそらした。 へぇぇ、ナルでも困った顔なんて、することあるのかぁ。これはびっくり。 「真砂子が何を言ったか知らないが」 ナルはそっぽをむいたまま言う。 「そんなのじゃない。――誤解だ」 そうして、ベースにしていた部屋のほうに歩き始めた。 ……誤解だ。 その言葉が、夢の中のナルと重なって、あたしはなんだかおかしかった。 ……誤解かぁ。 思わず顔がわらってしまう。 こういうのってうれしいね。深い意味はないんだろうけどさ。綾子が聞いたときには言い訳なんてしなかったのに、あたしが聞いたら言い訳してくれた。 うん。しばらくそういうことにしておこう。ナルは、綾子に誤解されるのはかまわないと思った。でも、あたしには誤解されたくなかった、と。 うーん、ないよなー、そんなこと。でも、いいや。とりあえず、そう思ってうぬぼれておこうっと。人間、明るくなれる材料は大切にしなきゃ。ねー? あたしはしばらく、ひとりでクスクスわらっていた。
あたしたちが機材の整理をしていると、典子《のりこ》さんと礼美《あやみ》ちゃんがホテルから帰ってきた。 ナルが典子さんに事情を説明する。 「本当に、もうだいじょうぶなんでしょうか」 不安そうな典子さんに、 「心配ないでしょう。気になるのでしたら、家をかわってもかまいませんよ。 そのほうが安心できるかもしれませんね」 ナルの言葉に、典子さんが安心したように礼美ちゃんを抱き寄せる。 礼美ちゃんは、あたしと眼があうとニッコリわらった。 小さい子独特の、ぴかぴかした笑顔。 ああ、よかったなぁ……。 「よかったね」 なんとなく呼びかけた。礼美ちゃんの小さな胸の中で、この事件がどんなふうに整理されるのかはわからないけれど。 礼美ちゃんがあたしに駆《か》け寄ってきた。いつのまにか顔色が沈みこんでいる。 ……どうしたの? 礼美ちゃんが、あたしの手にしがみつく。 「麻衣ちゃん、かえっちゃうの?」 「ん? うん」 「もっと、とまっていけばいいのに」 礼美ちゃんの子供らしい不満そうな表情。 ……だいじょうぶだね。もうこんなに元気なんだもん。すぐにこんな事件なんて忘れてしまって、もとの礼美ちゃんにもどるよね。 「いつ、かえるの?」 聞かれてあたしは、ナルの顔を見る。 「明日《あす》」 「明日、だって」 「こんばんは、とまるの?」 「うん」 「じゃあね、麻衣ちゃん、礼美のおへやにとめてあげるね。 きにいったら、もっといてもいいのよ」 典子さんが、耐えかねたようにクスクス笑いだした。あたしもこらえきれずに、笑いだす。 礼美《あやみ》ちゃんはキョトンとしていた。
その夜、もう一晩、あたしたちはようすを見るために森下邸に泊《と》まった。あたしは礼美ちゃんのリクエストどおり、礼美ちゃんと典子さんの部屋で眠った。 ノックも騒音も、何もない、とても静かな夜だった。
エピローグ
東京、渋谷《しぶや》、道玄坂《どうげんざか》。 あたしは「渋谷サイキック・リサーチ」のオフィスで、ビデオテープの整理をしている。 『The Case of Morishita』――すなわち、『森下事件』と書いたラベルを、テープに貼《は》って、リンさんがつけたメモを清書していく。 これは何かなぁ。『Corridor of Ground Floor』……わかんねぇなー。いいや、このまんま写しちゃえ。 まったくもー。こいつらはどーして横文字を使いたがるのかねー。あたしはだいたい、何かというと横文字をつかいたがる、昨今《さっこん》の風潮には怒りをおぼえるぞ。横文字で書きゃ、かっこいいかと思って。 ふん。どーせ、あたしは英語が苦手《にがて》だよぉ。 せっせとビデオの整理をしていたら、ドアが開いた。 おっと客だ。あわてて笑顔をこさえて、立ち上がる。 ……なんだ、あんたか。 「よっ」 ぼーさんが、のんきそうな顔で手をあげる。 このところ、ひんぱんにやって来るな、こいつ。 「暑いねぇ。麻衣《まい》ちゃん、俺《おれ》、アイスコーヒーがいいなー」 「なんでお客でもない人間に、お茶を出すわけ? それともぼーさん、事件の依頼?」 ぼーさんが情けなさそうな表情をする。 「どーしてここの人間は、そうも冷たいわけなんだ?」 「営業方針」 「なんだ、そりゃ。 なー、たのむよ。コーヒー。今度、映画でもおごってやるから」 ごめんこうむり。 あたしはしかたなく立ち上がった。が。 「麻衣、アタシはアイスティーにして」 げ。綾子《あやこ》っ。 「なによ、ぼーさん。こんなとこでアブラ売ってていいの?」 「その言葉、そっくりかえしてやるよ」 あのなー。あんたら、ここを喫茶店がわりにするなよな。 「ナルは?」 綾子の問いに、あたしは丁寧《ていねい》に答えてやる。 「所長でしたら、所長室で、瞑想《めいそう》中でございますわ」 「あー?」 「なによ、それ」 「知らない、そう本人が言ってるもん。 なんだか知らないけど、地図を広げてじーっと考えこんでんの。あたしは、旅行の計画を練《ね》ってるだけだと見たね」 「へー」 「でも、あれやってるときにジャマすると大目玉をくらう。 だから、ナルはあきらめて、お茶飲んで帰れば?」 綾子はちょっと唇《くちびる》をとがらす。 「なーんだ。 あたし、アールグレイにしてよね」 ……へいへい。 なんちゅー勝手な客だ。おっと、客じゃなかったか。 キッチンに入ろうとすると、再びドアの開く音。 ……今度こそお客……なんてこったい。 「あ、こんにちは、です」 「あれー、ジョンじゃない」 「よぉ」 ま、いいけどね、ジョンなら。 でも、あたしはいちおう聞いたりする。 「どうしたの、ジョン?」 「近くまで来たんで、よらせてもろたんです」 ……あー、さよーで。 「お茶いれるけど、何がいい?」 「……すんません。お手間のかからへんもんでかまいませんです」 ……うんうん。いいねぇ。このひかえめな言い方。見習えよ、ぼーさんに綾子。 あたしはヤカンをかけて、お茶の準備をする。ポットの用意をしながら、いやーな予感。 ぼーさんが来て、綾子が来て、おまけにジョンが来た。と。すると、まさか……。 そこに、所長室のドアが開いて当のナルが出てきた。 「麻衣、お茶……」 いいかけて、オフィスを見て眼を見開く。 「……何のご用ですか?」 「いやー」 「ちょっとー」 各々《おのおの》が言い訳を口にするのを冷たくながめる。 「……麻衣、なんなんだ、この騒ぎは」 「存じません。ファンクラブなんじゃないの? ――お茶、何にする?」 「なんでもいい」 言って一同を見渡す。 「ここは喫茶店じゃないんだけど?」 「まぁまぁ」 ぼーさんがにこやかに手を振る。 「堅《かた》いことは言いなさんなって。――旅行に行くんだって?」 「誰《だれ》が?」 「地図をながめているんだろ? まさか、本当に瞑想《めいそう》してたわけじゃないよなぁ?」 「そのつもりだったけど、これじゃ不可能だな」 ため息まじりに言いながらも、ジョンの隣に腰をおろす。 すぐに、最近出た本がどうとか、論文がどうとか、どこそこの霊能者がどうだとか、プロ同士の会話になってしまった。 やれやれ。 あたしは頭をひとつ振って、お茶をいれる。 まぁいいけど。これでまた仕事をサボれる。あいつらが来てるあいだは、仕事にならないからなぁ。 トレイにグラスを並べてキッチンを出たとたん、はかったようなタイミングで、再び(正確には四たび)ドアの開く音がした。 ……まさか。 全員の視線がドアに集まる。 ドアをあけて、涼《すず》しげな着物姿の女のコが姿を現した。 ……ウンザリ。 「なによ、真砂子《まさこ》、何の用?」 「あら、そういう松崎《まつざき》さんこそ」 「アタシは、ちょっと近くまで来たからー」 「あたくしもですわ。こんにちは」 真砂子がナルにわらいかける。 とたんにナルがそそくさと立ち上がった。 「……麻衣、僕《ぼく》はちょっと、出てくる」 ……は? 「あら、お出かけですの?」 「ああ……。ちょっと」 「おともしますわ」 「いや、結構。ごゆっくり」 ……ひょっとして、ナル、あんた真砂子を避けてない? そう言えば……礼美《あやみ》ちゃんの事件でも、綾子が真砂子を呼ぼうと言うのに、ずいぶん反対していたな。 「あら、出るんだったら、アタシもご一緒するわよ」 「いや……」 ナルは真砂子と綾子を見くらべる。真沙子がちゃっかりナルの腕に手をかけた。 「あたくし、おともしたいわ」 ねっとりした口調。 ……こいつはー……。ふん、ナルが他人の言うことなんか聞くもんか。ノーと言ったら絶対にノーの人間なのよ。 ……が、しかし。 「…………」 声にならないつぶやきをもらして、ナルはそのまま歩きだした。真沙子の手を振りほどかずに。 ……がーん。 真沙子が得意そうな眼であたしたちを振りかえる。 「ごめんあそばせ」
……しばらく、全員でぼーぜんとドアをにらんでしまった。 「……なによ、あいつっ!」 綾子のバ声は、どちらに向けられたものなのかわからない。 ……なんでよぉ、誤解だって言ったじゃんよー。ナルのうそつきぃ! ぼーさんが身を乗りだした。 「なぁ、麻衣? ナルは真沙子になんか弱みでも握《にぎ》られてるのか?」 「弱み? ナルにそんなもん、あると思う?」 「……しかし、弱みを握られてるんじゃなきゃ、いまのは何なんだよ」 ……そんなこと聞かれてもわかんないよぉ。 「たしかに……」 ジョンまでが困《こま》ったように首をかしげる。 「麻衣。いつも聞こうと思ってたんだけどさ」 ぼーさんが声をひそめる。 「ナルって、本当にここの所長なのか?」 「……いまさら、なにを。当然そうだよ」 「オーナーとかいないのか?」 「いないよ」 ……たぶん。 「なんで?」 あたしが聞くと、ぼーさんは、 「なんでって、おまえ……。この事務所の家賃、いくらすると思う?」 綾子もふと、 「そういえば、そうよね、仮にも渋谷でしょ? まだビルは新しいし事務所は広いし……」 「だろ? おまけにあの機材だ。高感度カメラ一台の値段は?」 ……高い。とほーもなく高い。それは前に聞いて知ってる。 ジョンがサラッと言う。 「パトロンでもいるのとちがいますか?」 ……おいっ、おいっ! 「ボク、なんぞ変なことでも言いましたか?」 「……パトロンって、おまえな……」 ぼーさんの声に、 「けど、欧米やったら、ようあることです。超心理学ゆうのは、まだ理解されてない学問ですから、どこの研究所も後援者がいるのがふつうやと思いますけど。大きな財団が後援してるところかてありますし、博士号や教授職を作ってる財団かて」 「ジョン、……あのな」 「ハイ」 「日本語は気をつけて使え。日本でパトロンつったら、意味が少し違うんだぞ」 「……はぁ?」 ……あー、びっくりした。 「しかしねそのセンは悪くない」 ぼーさんが腕を組む。 「ひょっとして、後援者がいてさ、それが真沙子の父親とかな」 「あ、そやったら、原さんの誘《さそ》いは断れませんね」 「だろ?」 綾子も身を乗り出す。 「こういう可能性もあるんじゃない? ……ナルはじつはおぼっちゃま」 ……うーむ。 しばし全員で考えこんだあと、ぼーさんがいきなり立ち上がった。 「ま、それはともかく。綾子はミゴトにふられたわけだ」 「……よけいなお世話よっ!」 「ハラいせにどう? 俺《おれ》とデートしない?」 ……おちゃらけ坊主《ぼうず》。 「お断りっ。誰《だれ》があんたなんかと」 「オヤオヤ。んじゃ、麻衣? どう?」 ……あたしーっ!? 「コーヒーのお礼に映画でも」 ……コーヒーのお礼って、これは事務所のもんで、べつにあたしのものじゃ……。 ん? というように、ぼーさんにうながされて、 「……ぼーさんのおごり?」 「モチロン。森下事件で依頼料が入ったばかりだし、俺《おれ》いま、金持ちだぜ?」 「行く」 ……行くとも。行ってやるーぅ! ナルのばかー! あたしは十五の若いみそらで、青春したいさかりなんだからねっ。それをナルみたいなニブイやつ、待ってられるかぁー! おどろいたようにあたしを見上げているジョンと綾子。 「あんたが、ロリコンだったとは知らなかったわ」 と、綾子。 「おや、女の子は若いほうがいいに決まってるじゃねぇか。なー、麻衣ちゃん」 「ねー、ぼーさん」 「若いコのほうがいいんだったら、あんたが真沙子にアタックすれば? そしたらアタシが……」 ……こいつっ。 「俺、見る眼あるから、真沙子より麻衣ちゃんのほうがいいー」 ……え? 「真沙子より性格いいしー」 ……うれしいこと言ってくれるじゃない。みどころのあるやつ。 「あー、あたしもぼーさん、けっこうハンサムかなーとか思ったのー」 「お、わかってるねー」 「うん(ハート)」 綾子はジトッとあたしたちをながめたあと、 「よしっ! ジョン、デートしよ!」 「え??? ボク……ですかぁ?」 「そ。おねーさんがおごったげるっ! さっ!」 ひきずるようにして綾子がジョンを立たせる。
……というわけで。 本日、以後ご来訪のお客様。もうしわけありませんが、あたしはいません。リンさんに相手をしてもらってくださいませ。なーに、そんなにこわいひとじゃありません。たぶん。 みょうに気があったりするかもしれません。 そーゆうことで、……よろしくっ。
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