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悪霊シリーズ第4巻 悪霊はひとりぼっち
作者:    出处:    发表时间:2007-09-20    浏览次数:     

ゃべります。ギリシア人ならギリシア語です。こうゆうのはめずらしいんです。霊が憑依《ひょうい》したんやなかったら、ありえへんことですから。
 けど、霊媒の中には、どこの国の人間を呼んだかて、日本語でしゃべる人もいます」
 ……たしかに。
「前に、あたし、TVでイタコが霊を呼ぶのを見たんだよね。あのとき、イタコが呼んだのがマリリン・モンローで、モンローを呼ぼうってことじたいお笑いなんだけど、そのモンローが、日本語でしゃべるんだよね。なんか変で笑えた」
「でしょう?
 せやけど一方で、ユージン・デイビスのような霊媒《れいばい》とか、ローズマリー・ブラウンやフレデリック・トンプソンみたいな霊媒もいます」
「……は?」
 ぼーさんが助けてくれる。
「ブラウン夫人は霊からメッセージを受け取って、作曲をするんだな。
 本人は音楽的な素養は大してないらしいんだが、霊が降りてくると作曲をしてしまう。 その降りてくる霊というのが、ベートーベンだのショパンだのリストだのでさ、作曲した曲の中には、フル・オーケストラの曲まであるらしい。できあがった曲は、完全に各作曲家のスタイルで、音楽的にもかなり優《すぐ》れたものであるという話だ。
 トンプソンのほうは絵を描く。ロバート・スウェイン・ギフォード画伯の霊が降りてきて、彼に絵を描かせるらしいんだ。
 それは風景画で、生前ギフォード画伯がよく行った場所、しかも友人などにも描きたいと言っていた場所らしい。ところがトンプソンはそこへ行ったことも、写真を見たこともないというんだ。むろん、画風は完全にギフォード風」
「へぇ……」
「こういうのはたしかに、霊が降りてきたんだと考えなければ、説明がつかないわな。
 こういう霊媒は普通、霊を呼び出して当てものをしたり予言をしたりすることはできない。口寄せをする霊媒とは全然タイプがちがう。……言われてみれば確かにそうだ」
 ジョンがうなずく。
「せやけど、霊媒の中にはものを当てたり、予言をしたりするのが得意な人かています。 デイビス博士は、そうゆうのは霊媒ゆうよりも、ESPである可能性が高いんやないか、そう言うてはるんです。本人が霊に教えられていると信じてるだけなんやないかと」
「ふむふむ」
 なるほど、とぼーさんがつぶやく。
「真砂子は後者のタイプの霊媒だな。当てものも予言も得意だ。
 つまり、真砂子は霊媒というよりもサイコメトリストかもしれないというわけか。
 たしかに本人も、因縁《いんねん》の強い霊なら得意だと言ってたな」
 安原さんは関心したように溜《た》め息《いき》をついた。
「複雑なんですね」
 あたしはなんだか釈然《しゃくぜん》としない。
「……それはわかるけど……。すると、どうなるわけ?
 真砂子には霊をる能力がないってことになっちゃうの?」
「まったくなくはないだろうな。でも、真砂子は霊を見ているというよりも、『学校』というものを通してサイコメトリーしているのかもしれんなぁ……。
 ――よくわからんけどさ」
 ふにゃー。
「だから、真砂子に必ず霊が見えるとはかぎらない。
 げんに今、真砂子には感じられない霊がウヨウヨしてるのかもしれんな」
 ……うーむ。
「麻衣、わかったか?」
「あ、……あたし、頭痛くなっちゃったー」
 ぼーさんは溜め息をつく。
「俺《おれ》もだ。……考えなれねーことを考えるもんじゃねぇな」
「んだね」
「そういうわけで麻衣」
 ぼーさんはあたしをのぞきこむ。
「お前、なんか感じないか」
 ……あたし?
 あたしが答えるより先に、安原さんが言ってしまった。
「あ、谷山《たにやま》さん、言ってたじゃないですか。火事が起こるのは放送室じゃないか、とか」
 ジョンとぼーさんがあたしを振り返った。
 ……う。待ってよ。あれは単なる夢かも。
「麻衣?」
 ぼーさんにうながされて、あたしはしぶしぶ話をする。
「居眠りしてて、見た夢なんだよねー」
「それで?」
「だからー……」
 あたしは事情をオソルオソル話してみる。もちろん、ナルが出てきた話はぬいて。
 ぼーさんは、真剣な顔で身を乗り出した。
「麻衣。寝ろ。寝てくれ」
「はぁー?」
「お前の夢には意味がある。情報収集だ。寝ろ、いい子だから」
「そーです。麻衣さん。寝てください」
 そんな、ジョンまで。
「単なる夢かもしんないじゃん」
「そんなわけ、ないです。更衣室の除霊は、ホンマに原《はら》さんと松崎《まつざき》さんが行ったんです」
 ……え?
「で……でもー、偶然かもしれないしー」
「いいか? これはチャールズ・タートなんかがさかんに研究してるんだが、夢とESPというのは実は関係が深いんだ」
 ……はー?
「夢というのは一晩じゅう見るんじゃない。REM《レム》睡眠という特殊な睡眠状態の時に見るんだ」
「はぁ……」
「特に、寝入りばなのREM睡眠は、ESPが発現しやすい変性意識《アルタード・ステーツ》と呼ばれる状態なんだよ」
「さいです。正確には、d-ASC、分離性変性意識と言いますです」
 ……ちょっと。
「霊媒《れいばい》に霊が降りてくるとき、ESPがサイ能力を発揮《はっき》するとき、この変性意識状態のときが最も多い。ナルも言ったように、お前は潜在的にサイキックだ。げんに綾子《あやこ》が除霊したのも当てた。意味があるに決まってる。寝ろ」
 そんなぁ……。なにもそんな、難しい言葉を並べて、たたみかけるように言わなくてもいいじゃんかっ! 第一、寝ろって言われたって、そうそう簡単に寝られるもんかーっっ!
「まぁまぁ」
 
 間に入ってくれたのは安原さんだ。
「谷山さんだって、そんなふうにつめよられても困りますよ」
 そうそう。
「自分で、自分の能力を信じきれてないみたいだし」
 うんうん。
「真砂子がアテにならないんだ。ワラをもつかむってやつだぜ、麻衣。はずれてるかもしれんのは真砂子の霊視《れいし》も同じことだ」
「さいです。情報は多いほうがええのんに、きまってますです」
 ……だってぇ。
「今夜、わかります」
 安原さんがきっぱり言う。
「今夜、正確には明日の早朝、火事が起これば谷山さんの夢がどの程度アテになるのか、わかります。火事が放送室で起こったら、谷山さんだって自分の力を信じられるでしょ?」
 ……まぁ、そうかも……。
「そうしたら、全面的に協力すると言うことで」
「少年、お前さんは、いつから麻衣のマネージャーになったんだ?」
「今からです」
 ……もー、好きにして……。

 夕方いったん集まったみんなに、ぼーさんとジョンが事情の説明をした。
 想像はできたことだけど、綾子と真砂子の冷たい視線。ナルとリンさんの無表情をくらった。
 綾子がキビシイ顔つきで口を開くより先に、ナルが手をあげて黙《だま》らせてしまう。
「安原さんの言うとおりです。火事が起こってみればわかる。――リン」
 背後霊のごとく、後ろにひかえているリンさんを振り向いた。
「放送室に機材を置く」
 ……ほんとにぃ? いいのぉ、あたしの夢なんか信じちゃってー。あたし、責任とらないよー。
 あたしの不安をヨソに、機材が放送室に運《はこ》ばれる。怪《あや》しいのはどのあたりだ、などとナルに聞かれて、あそこ、とか答えたりして、いっぱいの霊能者みたい。 我ながら半信半疑のまま、それでもなんかうれしくて。でも、これで火事が起こんなかったら、笑い者だよなー、とか、もとのミソッカスに逆もどりだよねーとか不安になったりして。
 受験の結果を待つみたいにして、ドキドキ夜明けを待ったその日。明け方、正確には午前四時三十二分二十四秒、火の気のない壁《かべ》が突然火の手をあげた。
 放送室だった。

     8

 ちょうどその時、あたしたちは放送室のそばにいた。
 火事の起こる時間がだいたい決まっていたので、中のようすを機材を通して見ていたのだ。むろん、放送室だけじゃない。更衣室のほうはリンさんとジョンがつめて、中のようすを見守っていた。
 そして、火事を起こしたのは放送室のほうだけだった。
 あたしとナル、ぼーさんと安原《やすはら》さんは、壁が火を噴《ふ》くシーンをモニター(TVのことだよ)を通して目《ま》の当たりに見た。本当に突然、奥の壁が一面に火を噴いたのだ。
 ウワサに聞いていたより、火の勢いは強かった。あっという間に天井《てんじょう》を焦《こ》がし、部屋じゅうに燃え広がる。
 ぼーさんと安原さんが、消火器を持って中に跳びこんだ。
「おみごと」
 ぼーさんに拍手《はくしゅ》してもらって、あたしはおおいに困惑《こんわく》してしまった。
 当たってしまった。どしよう。……そういう感じなんだよなぁ、実際。これ以後、あたしのカンはあてになるかも、って期待されるわけでしょ? 今後もあたりつづけるかもしれないし、これっきりかもしれない。あたらなかったら、どうしたらいいのよぉ。
 困りきってるあたし心中をヨソに、ナルは極《きわ》めて無表情に聞いてくる。
「他に鬼火《おにび》を見たという場所はどこだ?」
「……印刷室と……LL教室と……」
 夢で暗い鬼火を見た部屋を思い出しながら、だんだん声が小さくなってしまう。
 ……たいへんなことだ、これは。
 いっきに肩にかかってきた、「責任」という文字。あたしがウソ八百を並べると、それだけみんなに迷惑をかける。自分でもウソなのかホントなのか、わからない。どーすりゃ、いいんだょぉ!
「麻衣《まい》?」
 黙《だま》りこんでしまったあたしを、ナルがうながす。
「保健室のやつが大きかった気がする……。
 でも、これはタマタマで、あとは全部スカかもしれないし……」
 おそるおそる言ってみるあたしに、ナルのそっけない言葉。
「たいしてアテにはしてない」
 ……むかっ!
 いや、ちがう。いーんだ、これで。アテにされたらおおごとだから。……と言いつつ、ちょっとは寂《さび》しかったりして。ああ、人間ってフクザツ。
 複雑と言えば、駆《か》けつけてきた真砂子《まさこ》と綾子《あやこ》は、ひじょうに複雑な顔であたしを見ている。意味もなく自信に満ちあふれた綾子はともかく、真砂子の気持ちはわかってしまうのよねぇ。
 こんな気の重い責任を、あんたはずっとしょってきたんだね。あたしだって、自分のカンが百回当たれば、ちょっとは自信をもてると思う。で、自信の出たころにいきなりはずれて、綾子なんかが当てちゃったら、やっぱショックだと思うわけ。
 ここはイヤミの百や二百、耐《た》えてみせましょう。うん。
 考えこんでいたら、ぼーさんに頭をぶたれた。
「あんまし、考えるな。いつもどおりでいいんだ。考えすぎるとかえってはずす」
「……うん……」
 あたしは視線をそらす。放送室の中にポツンと立ってるカメラが眼に入った。
 幸《さいわ》い火はすぐに消えたけど、置かれた機材は見るも無残なありさまだった。「かわいそ……」
 消火器で真っ白になったカメラをなでてやる。
「ね、ナル。このカメラ、だいじょうぶなの?」
 ナルはちょっと肩をすくめる。
「だめだろうな。少なくとも調整に出さないと」
「うわー、もったいない……」
 ……このカメラくんはすごく効果なんだ。前に聞いて知ってるぞ。
 ナルがサラッと言う。
「保険がかかってるから」
 あ、そうなのか。それはよかっ……た……ん?
「――ナル。いま、なんて言った?」
「ん?」
「保険がかかってる、と言わなかったか、あんた」
 あたしとナルの出会いを演出してくれたのは、このとほーもなく高価なカメラくんだった。不慮《ふりょ》の事故でカメラを壊《こわ》したあたしに、弁償《べんしょう》するか、さもなくば手伝え、とナルは言ったのだ。それが、何だって? 保険がかかってる、だぁ?
「……じゃ、あたしが弁償する必要なんか、なかったんじゃない」
 ナルはしらんぷりを決めこむ。
「単に人手がほしくて、だましたな、てめー」
 ジョンがあわてて声をあげる。
「まぁ……ともかく、なにごとものうて、よろしおしたどす。せっ……せやけど、渋谷《しぶや》はん、残念どしたな。せっかくの自動発火やのに、録画のチャンスでしたんどすけど、このありさまやったら貴重なテープも……」
 だいなしになったんだから、痛み分けということで。そうジョンは言いたかったんだろう(あいかわらず、あせると言葉が乱れるね、ジョン)。
 しかし、そのジョンの視線も、あたしの視線も、その他の視線もナルの手にくぎづけになる。黒い、四角い――ビデオ・テープ。
 ぼーさんの冷たい声。
「俺《おれ》たちがお焦《こ》げになりながら献身的な消火活動をしている間に、お前はビデオ・テープの救出をやっていたわけな……」
 ナルはすましたもんだ。
「テープ一個の重みが、人間の命よりも思いこともある、という実例だ」
 ……て、てめー。
 ナルはリンさんを振り返る。
「リン、この機材のセッティングをしなおす」
 このっ……マッド・サイエンティストがーっっ!
 心の中で叫《さけ》んだのは、あたしだけではなかったはずだ。


三章 碧《あお》い影


     1

 翌日、変化のしない教室の機材をかき集めてLL教室に追加し、残りを印刷室と保健室に置いた。
 授業の続く校内を、あたしたちは走りまわる。データの回収、データのチェック。打ち合わせと、除霊。
 あたしはビデオ・テープの回収を命じられて会議室を飛び出した。
 ちょっくら怒《おこ》ってるあたしは、ナルの命令なんか聞きたくない気分だったけど、ま、いいか。雑用は気が楽だもんな。
 
 廊下《ろうか》を小走りに走って、渡り廊下にさしかかった時だ。
「どうだ、除霊とやらはすんだか」
 ふいにぞんざいな声で話しかけられた。振り向くと後ろに松山《まつやま》。
 げ。イヤなヤツに会っちゃったぜ。
「……鋭意《えいい》努力中です」
 松山は口元を歪《ゆが》めて笑う。
「今朝《けさ》、火事があったな」
「……はぁ……」
「除霊なんか、できないんじゃないのか?」
 ……たしかに、あれは失敗だったけどさ。
 返す言葉のないあたしに、松山はたたみかける。
「霊能者だかなんだか知らんが、その程度なんだろう。大勢の人間を集めて、右往左往しているようだが、エセ霊能者なんかにどうにかできるわけがないんだ」
 ……エセ、だと?
 松山はあたしをにらみつける。
「幽霊《ゆうれい》なんかいないんだ。いいかげん、わかったろう。
 全部、生徒の気の迷いなんだ。さっさと帰れ」
「……論旨《ろんし》が矛盾《むじゅん》してますが、先生」
「なんだと?」
 てめーは、幽霊を信じてるのか、信じてないのか? はっきりしろよな。
 そう思ったけど、『豚《ぶた》に説教しても意味がない』のだ。あたしは軽く頭を下げる。
「何でもありません。――失礼します」
 足早に立ち去ろうとしたら、松山の怒鳴《どな》り声。
「幽霊だなんだと、くだらないことにかぶれたあげく、学校をさぼって!
 馬鹿《ばか》な迷信に振りまわされるやつが、どういう末路をたどるか教えてやろうか?」
 あたしは振り返る。松山は何を言おうとしてるんだ。まさか。
「どういう末路をたどるんですか……?」
 松山は笑った。
「ウチの学校にもいたんだよ。オカルトにかぶれて悲惨《ひさん》な末路をたどったやつが」
「……それは、坂内《さかうち》くんのことでしょうか?」
 死んでしまった一年生。将来の志望に、『ゴースト・ハンター』と書いた男の子。
 松山は口元を歪《ゆが》めて笑う。
「自分もああならないように、気をつけるんだな。坂内もあの世で後悔《こうかい》してるだろうよ」
「つまり、先生は坂内君が死んだのが残念ではないんですね」
「……なに?」
「つまらないことにかぶれたから、自業自得《じごうじとく》だとおっしゃりたいんですね?」
「誰《だれ》がそんなことを言った」
 ……あんただよ。
「そうとしか聞こえなかったものですから」
 ザマーミロとしか聞こえない。これでも教師か、こいつっ。
「なんだ、お前は。その反抗的な態度は」
 ……むか。
「……仕事があるので失礼します」
 あたしはもう一度会釈《えしゃく》をして、松山に背を向けた。
 つきあってられるか。
「おい、待てっ」
 怒《おこ》ったふうの松山が手を伸ばす。
 あたしにさわったら、ひっぱたいてやるっ!
 そのとき。
 間近の教室から激しい物音と、大勢の人間があげる悲鳴《ひめい》が聞こえた。

 渡り廊下《ろうか》を渡ってすぐの美術室。
 あたしは教室にかけこむ。松山もそのあとを追ってきた。
「どうしました!?」
 ドアを開いてあたしは驚く。
 総立ちになった学生。何人かはその場でうずくまっている。教室じゅうに散乱したガラスの破片《はへん》。微《かす》かにカーブのある乳白色の。
 あたしは天井《てんじょう》を見上げた。
 三列、四本ずつ並んだ蛍光灯。その蛍光管が一本もない。
「どうしたんだ!」
 松山は生徒に聞き、教団に座りこんだ教師に聞く。
 どうした? そんなもの、見ればわかる。
 蛍光灯が落ちたんだ。教室じゅうのすべての蛍光管が。
 あたしはふと思い出す。――この美術室の真下には、地学教室があることを。

     2

 生徒が引き揚《あ》げた美術室。
 からっぽの教室。乱暴に列を乱した机。倒れたイス。床となく机となく散乱した破片と、点々と落ちた血。
 生徒の大多数は多少なりとも怪我《けが》をして、今自分たちの教室で手当てをうけている。
「ボクのせいです」
 教室を呆然《ぼうぜん》と見渡していたジョンがつぶやいた。
 地学教室の除霊をしたのはジョンだった。
「しょうがないよ、まさか上の教室に逃げたなんて思わないもん」
 あたしは精いっぱいなぐさめる。ジョンが黙《だま》って首を振った。
 ナルは机に散らばった破片のひとつを手に取る。
「いきなり全部の蛍光管が落ちたのか」
 破片をじっとながめる。
「……強くなっているんじゃないか?」
 ――たしかに。
 地学教室では落ちる蛍光灯は常にひとつ。同時にふたつ以上の電灯が落ちたことはない。
 あたしの頭の中に、ひとつのイメージがよみがえる。
 玉串《たまぐし》を振る綾子《あやこ》。逃げる鬼火《おにび》。逃げた鬼火は別の場所に行って、そこにいた小さな鬼火にまとわりつく。争うようにもつれあう鬼火。そうして小さいほうは、逃げてきた鬼火に吸収されてしまう。
「今朝《けさ》のボヤも、話に聞いていたよりも強かった。すぐそばに人がいたからよかったようなものの……そうでなければボヤぐらいではすまなかったろう」
 ナルの声を聞きながら、あたしは思わずつぶやいていた。
「美術室って……なにか怪談《かいだん》あったっけ」
 あたしの声に、ぼーさんが答えてくれる。
「ここはたしか……『向きが変わる石膏像』ってのがあったはずだ。
 石膏像の向きがいつの間にか変わるんだと。勝手に後ろを向いてしまうらしい」
「それ、もう起こらないと思う」
「麻衣《まい》?」
 みんなが怪訝そうにあたしのほうを見た。
「ここにいた霊《れい》は、地学教室から逃げてきた霊に吸収されちゃった気がする。だから、強くなったんだよ、きっと」
 ナルがあたしに暗い眼を向けた。
「麻衣のカンか?」
「うん」
 真砂子《まさこ》と綾子が、複雑な眼つきであたしを見た。
 うるさいやい。だって、そんな気がするんだもん。
 ぼーさんがあたしの頭をポンと叩いてから、
「どうする、ナルちゃん」
「……除霊は少し、待ったほうがいいかもしれない」
「そうだな。また逃げられちゃあ、かなわないからな」
 ぼーさんがうなずくのに、
 
「アタシはやるわよ」
 綾子が声高に宣言した。
「おいおい、よしな」
「霊が逃げられないように、結界をひいて除霊するわ。それなら問題ないでしょ?」
「そう簡単にいくかな」
 ナルが静かな声をあげる。
「やってみせるわよ」
「では、もう少し無害な霊をどうぞ。ここの霊にまた逃げられては、あとがたいへんだ」 ムッとする綾子。しかしナルは構わない。
「麻衣の言い分が正しいなら……
 今度逃げられると、次はこんなものではすまないだろう」
 あたしは背中がゾクリとした。
 もしも……霊同士が食《く》い合って、成長していく、これがずっと続いたら……いったい何が起こるんだろう?
 最後に残るのが、たったひとつの霊だとしたら――。
 その時だった。真砂子が悲鳴《ひめい》をあげたのは。

「なに!?」
「どうした!?」
 顔をおおい、うずくまった真砂子。駆《か》け寄るみんな。
 あたしも真砂子に向かって走り――突然、それが起こった。
 いきなり視野が反転する。光が消えて、闇《やみ》が降りる。透《す》ける床、透ける壁。パァッと視野が広がって、あたしの眼の前に学校の全景。わかる。全部。どこで何が起こっているか。
 そして悲鳴。真砂子の悲鳴じゃない。誰《だれ》か……他の。
 南棟の二階だ。あれはニ-四の教室。暗くうずくまったあの鬼火《おにび》。
 床に黒く穴をあけた、その中に白い人魂《ひとだま》が吸い込まれていく。
 ……なに!? どうしたの!?
 ふいに白い人魂が人間の形をつくった。暗い穴の中にのみこまれながら、悲鳴をあげる人間の姿。
 ……あれは……。坂内《さかうち》くん!?
 坂内くんだ。両手をあげ、空気に爪《つめ》を立てるようにして鬼火の中にのみこまれる。暗い炎《ほのお》がまとわりついて、火の海に沈んでいくよう。
 ……やめて。
 眼を閉じる。耳をふさぐ。
 それでも、見える。聞こえる。
 ……お願い、あれを誰《だれ》か止めて!
 お願い!!

 始まったときと同じように、突然視界が正常に戻った。
 床に座りこんで顔をおおったあたしと真砂子。それを呆然《ぼうぜん》と見おろしているみんな。
「ど……どうしたんだ、いったい!?」
 ぼーさんがあせった表情で問う。
 あたしが答えるより先に、真砂子が答えた。
「坂内さんが……消えました」
 パタパタとお人形のような頬《ほお》に涙がこぼれる。
「麻衣さんの言うとおりです。ここでは霊が共食《ともぐ》いをしています。
 坂内さんは……吸収されました」
 真砂子が涙を落としながらあたしを見る。震《ふる》える手であたしの腕をつかんだ。「……あなたも見たわね、麻衣?」
「うん……」
 ガクガク震える手で真砂子の手をつかんだ。
「怖《こわ》かった……」
「ええ」
「坂内くんはどうなったの?」
 真砂子は答えない。ただ涙をこぼす。
 ……食《く》われてしまったんだ。
 浄化されることもなく。安らがないまま、あの化《ば》け物に食われてしまったんだ……。

     3

「異常事態だ」
 ナルが宣言した。
 ちょうどあたしたちがあの残酷《ざんこく》な幻《まぼろし》を見たそのすぐあと、授業中だったあの教室に、巨大な黒い犬が姿を現した。
 その犬はどこからともなく現れ、机をなぎ倒し、逃げる生徒と先生をその爪《つめ》と牙《きば》にかけて風のように消えた。軽傷者六名、重傷者一名。
「こんな凶悪《きょうあく》な霊なんてありかよ!」
 ぼーさんはイライラと会議室を歩きまわる。
「霊だぁ!? 冗談じゃねぇ、ああいうのは怪物《かいぶつ》って言うんだ!」
 あたしも、こんな例は初めて聞いた。霊が人を襲う。その結果、不可解な病気や事故が起こることはあるけれど。霊が実体化し、実際に危害を加えるなんて。
 血のあとも生々《なまなま》しい教室に、ナルが機材を持ちこんだけど、すべての機材は教室に入ったとたん動きを止めてしまった。
「こんなはずはないんだ……」
 ナルは眉《まゆ》をひそめる。
「第一、霊が食い合うなんて、そんな話は聞いたことがない」
「妖怪《ようかい》だわね……」
 綾子《あやこ》が溜《た》め息《いき》をついた。ぼーさんがぱっと振り返る。
「妖怪なら、巫女《みこ》の管轄《かんかつ》じゃないのか?」
「冗談でしょ。坊主《ぼうず》の受け持ちなんじゃない?」
 ……そんな言い合いをしてる場合?
 ナルはメモを見つめる。
 学校じゅうを再調査したメモだ。
「三-一の反応も消えてる。あんなに反応が強かったのに」
 今朝《けさ》までは確かにあった異常な反応が、きれいさっぱり消えてしまった。もちろん、あの嫌《いや》な臭《にお》いもしない。完全に消えてしまっていた。
「あそこの霊も食われたのか……」
 それきり口をつぐんで考えこんでしまう。
 誰《だれ》もがしんと黙《だま》り込んだとき、安原《やすはら》さんが顔を出した。
 安原さんはあたしたちの異様なムードに気がついたのだろう。
「――ちょっと、いいですか?」
 誰にともなく聞いた。
「あの……たいへんでしたね」
「安原少年、耳が早いな」
 ぼーさんの声に、安原さんは苦笑を返した。
「もう学校じゅうの人間が知ってます。救急車来てたし。
 ――それより、ちょっと気になることを聞いたんですけど」
「なんですか?」
 ナルの声はうっとうしそうだ。安原さんは申し訳なさそうな顔をする。
「……関係ないことかもしれないので、取り込み中ならあとでも……」
「いえ。お聞きします」
 気をとりなおすように言って、ナルはイスをすすめる。
「すみません……」
 意味もなく安原さんは長い身体《からだ》を小さくする。
「あの……実は僕《ぼく》、コックリさんの発生ルートをたどってみたんです」
 ……え?
「きのう、谷山《たにやま》さんと話してて、彼女があんまり変わってるって言うから。 コックリさんをやってた連中に、あのやり方を誰から習ったのか聞いて、順番にたどっていったんですけど……」
 ……ひえー、本当に調べたの?
 ナルの眼の色が深くなる。
「それで、わかりましたか?」
「はっきりわかったわけじゃ、ありません。ただ、ヲリキリさまがはやり始めたのは、二学期以降みたいなんです。そして、ルートはふたつあるようです。一年生から聞いた、というのと、美術部のやつから聞いた、というのと」
 そう言って、安原さんちょっと顔を曇《くも》らせた。
 
「それで、気になって、一年で美術部、っていうのが、その……」
 ちょっと口ごもる。
「意味ないのかもしれませんけど、死んだ坂内が、美術部だったんです」
 みんなが少しはっとした。
 ナルは深く考え込んでしまう。
「……わからないな……。意味があるのか、ないのか……」
 低くつぶやく。軽く指先で机を叩いた。
「ともかく、あれは二学期以降、一年生か美術部の間からはやり始めたわけだ……。それが学校じゅうに広がって無数の降霊術が行われた。それで呼ばれた霊が……」
 言いかけて軽く首を振る。
「やはり、おかしい。そもそもそんなに霊を呼び出せたところが。何の訓練もない素人《しろうと》が、一万や二万の降霊術を行ったところで、食い合うほども霊を呼べるもんか」「あの……」
 オズオズと安原さんが口をはさんだ。
「アレと関係はないんでしょうか」
「アレ?」
 ナルに聞き返されて、安原さんは、
「お聞きじゃないんですか? この学校って、お墓の上に建《た》ってるんですよ」
 身を乗り出していたみんなは、ガックリしたようすだ。ぼーさんが、
「ま、ありがちだわな」
 溜《た》め息《いき》をついて、首をのけぞらせた。
「あ、馬鹿《ばか》にしたでしょ。ちがうんですよ。本当なんです。ここは緑陵《りょくりょう》遺跡《いせき》って言って、奈良時代、墓地があったところなんです。グラウンドを掘ると、墓誌《ぼし》とかお骨とか遺物がでてくるんですから」
 あたしたちは顔を見合わせる。
「……ホントなの、安原さん」
「ホント、ホント。それって何か関係あるのかな」
 ナルはさらに深く考え込んでしまった。
「……なるほど、古い墓地というのは、霊がさまよい出てたたりをおこなわないように、結界をひいた場所だ」
 遺跡に埋葬《まいそう》された霊が、退去してさまよい出てきた……などということはないだろうが、降霊術で呼び出されて学校に入ってきた浮遊霊《ふゆうれい》が、結界のせいで出られなくなってしまった……という可能性はある。
 それで、こんなにたくさんの霊がさまよっているのか。たしかに……学校で霊を拾った人間が、それを家まで連《つ》れて帰った……という話はまだ聞いてないな」
「そうだね」
 あたしはメモをくる。たしかに、霊が起こす怪奇現象の舞台は学校に限られていて、学校の外まで霊がついてきたという話は出てない。
 ナルは指先で机を叩く。
「それで事情の半分は納得《なっとく》がいった。
 しかし、あと半分……。どうしてここの学生は、こんなに簡単に霊を呼び集められたのか?」
 ぼーさんが声をあげた。
「その遺跡の中に、なにか霊を呼び集めるものがあるってことはないかね」
「うん……。だいたい、呪術《じゅじゅつ》に使う道具というのは、それ自体に霊に作用を及ぼす習性をもっているが……。でも、ここはどうだろう。霊を閉じこめる場所だから」
「呼び集める……とは、すこし性格がちがうよな」
「そうだな。霊を墓に閉じこめ、墓地に閉じこめる、そういう呪術を施《ほどこ》した場所ではあるだろうが、集めるというのとは、ちがうと思うんだが。……どうもわからないな、この学校は」
 ナルはつぶやき、眉《まゆ》をひそめて考えこんでしまった。

     4

 学校に夜の闇《やみ》が落ちる。学校というのは、夜にむかない場所だとつくづく思う。ガランとした大きな空間が闇をはらむと、危険なほど寂《さび》しい。
 ポツンと会議室に取り残されてたあたしは、ナルに命じられてLL教室までビデオテープの回収に行った。
 人気《ひとけ》のない学校。長い廊下《ろうか》。無機的に並ぶ窓。暗い明かり。
 建物を下りて東棟の一階へ。長い廊下を、懐中電灯の明かりを頼《たよ》りに進む。東棟のいちばん奥、南棟に曲がる手前の教室。
 ドアを開けてすぐのところに暗視カメラとサーモグラフィー。チョンと立って、孤独《こどく》な作業を続けている。あたしは、カメラに接続したビデオ・デッキにかがみこんで、ビデオ・カセットを抜いた。いや、抜こうとした。
 その途端《とたん》、すうっと吸いこまれるように懐中電灯の明かりが消えた。
「え!?」
 真っ暗な部屋。あたしはビビってしまって、急いでビデオを回収しようとする。イジェクトボタンを押すけど、ウンともスンともいわない。電源が切れたんだ。
「停電?」
 言いかけて、そんなはずはないことに気づく。懐中電灯は停電になんの関係もない。
 ……まずい。
 あたしはあわてて身を起こした。ここを出よう。立ち上がったとたん、ゾッと背中を流れ落ちるもの。冷たい濡《ぬ》れた空気が背筋《せすじ》をはい降りて、あたしは身震《みぶる》いする。
 遠くに見える碧《あお》いライト。あれが非常口のライトだ。あそこに北棟に戻る渡り廊下がある。
 あたしはライトに向かって長い廊下を駆《か》け抜ける。足音は空虚《くうきょ》な余韻《よいん》をひいて、校舎の中にこだました。
 一息に駆け抜けて、力任せにとびを開けて、渡り廊下に転がり出た。
 短い廊下だけの空間。窓から見える。外灯に照らされたグラウンド。ガランと音がしそうなほど、広い虚《うつ》ろな空間。それでも明かりがないよりはあったほうがマシなわけで。
 あたしは意味もなくおびえてしまった自分が照れくさくて、閉めたドアにもたれて肩で息をしながらひとり笑いした。
 あたしの正面には北棟の入り口が見える。真っ暗な校舎。そこに閉じたガラスのドア。ドアの上には非常灯があるのだろう。緑の光が降っている。
 ふとあたしは眼を引きつけられ、そのまま凍《こお》りついてしまう。
 そこに小さな人影があった。誰か――子供がガラスに両手をついてこちらを見ている。 子供なんかいるわけがない。
 こんな深夜の高校に。
 じゃあ、あれはなに? はっきりとした黒いシルエット。両手をついて、額《ひたい》をつけてこちらをのぞきこようにして。
 声にならない悲鳴《ひめい》をあげて、あたしはもと来た東棟に飛びこむ。ドアを閉めるとき、反対側にある北棟のドアが開くのがはっきり見えた。
 ……来る!
 ドアのすぐ脇《わき》には階段がある。あたしはそれを駆け上がった。
 戻りたい。会議室に戻りたい。
 二階を上がりきり、三階へ。踊り場で身をひるがえしてさらに上に向かう。早く、会議室へ戻ろう。そう思って階段の手すりをつかむ。ふとあげた目線の先、黒い階段の上に三階の壁。そこにも非常灯があるのか緑色に輝いて見える。そうして、そこに小さな人影。 ドキンと鼓動《こどう》が大きく鳴る。
 階段の上にしゃがみこんで、あたしを見おろしている小さな影。
 逆光になってどんな人物なのかわからない。だけど、子供だ。それだけはわかる。
 子供が階段の上にしゃがみこんでる。あたしを黙《だま》って見おろしている。背後の光で頬《ほお》のあたりがわずかに見える。笑っているような、頬の線。
 あたしは子供とにらみあったまま、そろそろと下がる。パッと振り返ると一目散《いちもくさん》に階段を駆け下りた。
 一段ぬかしで駆け下りて、二階の渡り廊下《ろうか》のドアに飛びつく。階段を振り返りながら開けようとして、ハッと転《ころ》がるように飛び退《すさ》った。
 ドアの外は明るい。そこに真っ黒な影。
 あたしのお腹《なか》のあたりまでしかない。細い腕、細い足。明らかに子供のシルエット。でも、子供って、あんなに頭が大きいものだった!?
 あたしはじりじりと後ろ下がる。子供の影はじっとしている。
 二歩、三歩と後ろへ下がる。影が動いた。
 細い手が上がって、ドアの引き手にかかる。
 あたしは転ぶようにまわれ右して、暗い廊下を駆け出した。走るあたしの背後で、ドアが開く重い音がした。
 ……追いかけてくる。
 息がきれる。足がもつれる。
 みんなはどこ。
 誰《だれ》かいないの。
 廊下側の窓から、ななめに薄い光が差しこむ廊下。両側に同じように並んだ窓。窓。窓。
 あたし、すこしも前に進んでない気がする。
 たまらず後ろを振り向いた。とたんに膝《ひざ》がくだけそうになる。
 いる。
 ドアのほうからゆっくり歩いてくる子供の影。
 あたしは走った。すぐに反対側のつきあたりにある非常灯が見えてきた。
 ドキンと心臓が鳴る。
 非常灯の緑の光。その真下に誰かがいる。
 誰か? もちろん、子供だ。膝をかかえてうずくまっている。緑の光にさらされて、なのに闇のようにただ黒い。
 あたしは振り返る。
 そこにも……子供の影。
 ゆっくりと歩いてくる。微《かす》かに耳の奥で、子供の笑い声が聞こえた気がした。 ……どうしよう!
 ちょうどあたしは教室のドアの前にいた。ドアに飛びつき、教室の中に駆けこむ。飛びこむとき、ドアに貼《は》られた、『生物準備室』という文字が見て取れた。
 中はカーテンをひいてあるのか、それともそもそも窓かないのか、それさえわからないほど真っ暗だった。
 ドアを閉めてその場に座《すわ》りこむ。震《ふる》える手で探《さぐ》ると、内側には鍵《かぎ》がついていた。折れ曲がった鍵を伸ばして差しこむだけの簡単なやつ。そんなものでもないよりいい。ガタガタ震える手で鍵を閉めて、あたしはやっと力を抜く。
 ……だいじょうぶ。
 もう、だいじょうぶなはず。
 息があがってわき腹が痛い。スキップする自分の鼓動《こどう》で、耳なりがする。喉《のど》が切れるかと思うほど荒く息をする。しばらくそうして、ガタガタ震える自分の膝を抱いていた。
 ……どうしよう、閉じこめられた。誰か近くにいないだろうか。
 
 胡弓が静かになってから、あたしは耳を澄《す》ました。誰かの声が聞こえないか、気配《けはい》が感じられないか。
 ふいにコトッと音がする。
 あたしは飛び上がった。ドアにぶつかって、ドアが激しい音がする。
 カタン、……コト。
 なにか堅《かた》いものが動く音。近く。たぶん、この部屋の中で!
 どこ? もう足が動かない。金縛《かなしば》りにあったように、自分の手足が思うようにならない。
 カタ……コト。
 近くだ。どこか、この部屋の……どこか上のほう。あたしとは正反対の奥のほう。
 あたしは闇に眼をこらす。微《かす》かに見える棚《たな》の姿。棚があるんだ。部屋の両側に。その棚の上で音がしている。
 カタ。
 小さな音に続いて、なにかが砕《くだ》ける激しい音がした。
 ……なに!?
 ガラスの砕けるような音。それと同時にただよってきた甘い刺激臭。
 ……これは……。
 あたしはドアに飛びつく。
 ホルマリンの臭《にお》いだ!
 鍵を抜いてドアを揺する。びくともしない。
 背後で、またガラスの砕ける音がした。小さな液体の飛沫《ひまつ》が、あたしの足に飛んでくる。ホルマリンのにおいが強くなった。
「ナル! ナル!! 誰《だれ》かーっっ!!」
 いないの!? 誰か、誰でもいい、ここから出して!
 ガシャンとまた、ガラスの砕ける音。
 さらに強くなる甘い香り。あたまがクラクラする……。
 誰かいないの!? 助けてよぉっ!
 ホルマリン! 生物準備室にあって、ホルマリンのガラスびんの中に入ってるもの!
 やだ、やだーっっ!
 立て続けに後ろでガラスの砕ける音がした。ホルマリンの臭いで息がつまる。耳なりがする。めまいと、吐《は》き気《け》。
 ぐらっと地面が揺《ゆ》れて、床があたしにぶつかってきた。
 ……いや、ちがう。
 あたしが……床に……。
 あたし……。
 …………


四章 さなぎ

     1

 風がふいてる。
 夜の風だ。そのすこし湿《しめ》った風邪にふかれている気がする。やんわり流されている感じがする。
 ……確かな感覚じゃ、ないけれど。
 眼を開ける。
 あたりは夜で……風が流れてて、そうしてあたしはその大気の中に、あぶくみたいに丸くなって浮かんでいる。そんな気がする。
はるか下に白い光。微《かす》かな、眼に優しい光が見える。感じる。
 意識を光に向けると、すっと視覚がもどってきた。眼下に学校。
 ……なんてこった。あたし、宙に浮いてる。
 学校は夜の中に透《す》き通って見える。その学校にいくつかの鬼火《おにび》が、暗い炎《ほのお》を灯していた。
 あたしは驚いてしまった。数が少ない。あんなに浮遊《ふゆう》していた白い人魂《ひとだま》が、うんと減《へ》ってしまっている。いつか見た暗い鬼火でさえこんなに少ない。恐《おそ》ろしくなるくらい大きなやつが四つ。それよりも小さなやつがいくつか……。
 場所を見きわめようと眼をこらすその目の前で、小さな人魂は食《く》われ続ける。
 あの鬼火のようなやつでさえ、フラと動き漂《ただよ》い出すと、大きな鬼火に引き寄せられるように近づいてのみこまれていく。
 こうして見ている間にも、目に見えて減っていく。
 眼の底に、坂内《さかうち》くんがのみこまれていった。あのようすがよみがえる。
 ……怖《こわ》い。気味が悪い。
 見たくなくて視線をそらすと、東棟の二階に人影が見えた。

 ……あたしがいる。二階の教室。小さな部屋の中。あたしがいるのが見える。
 床に横たわったあたしと、それをとりまいている人たち。綾子《あやこ》と、ぼーさんと、真砂子《まさこ》と、ジョンでしょ、リンさんでしょ、安原《やすはら》さんでしょ、それから、ナル……。
 綾子があたしを揺《ゆ》すっている。ぼーさんがそれをとめる。生物準備室。床にひろがった液体。その中に散乱したグロテスクなもの。キラキラ光っているのは、ガラスの破片《はへん》だ。
 こんなに遠いのによく見える……。
 ナルとリンさんがなにか話す。そうしてリンさんはあたしの身体《からだ》の下に手をいれて、抱えあげる。
 ……ちぇ。あたし、ナルのほうがいいなぁ。
 思ったけど、ナルの細腕にあたしの体重四十とンキロはきついよねぇ。
 ……あたしの身体は運《はこ》ばれていく。粛々《しゅくしゅく》と。一階の端にある保健室に。
 …………。
 ちょっと、待ってよ、おいっ!
 これってヤバくない!?
 自分が空に浮いてて、自分の身体が他人に運ばれているのを見る。
 ――たんまーっっ! あたし、まさか、もしかして、死んだのっ!?
 そんな馬鹿《ばか》な、馬鹿な、馬鹿な。
 やだよぉ、あたし、まだ死にたくないっ。
 思い残すことが、いっぱ――――いあるんだからっっ。
 保健室のベッドに横たえられたあたしの身体。ナルがあたし(身体のほうね)の顔をのぞきこんで頬《ほお》に触《ふ》れる。あっ、あっ、ぁっ、あんなに顔が近いーっ。……ちがうって。
 なにか言ってる。
 なに? 聞こえないよぉ。
 なに!?

「麻衣《まい》!」
 ……ぱちくり。
「麻衣!?」
 軽く頬を叩く手。目の前、至近距離にとっても長いまつげの眼。
 その綺麗《きれい》に澄《す》んだ眼がふっと遠ざかって、ペチッとオデコをぶたれた。
「気がついたか?」
 あたしは見まわす。ドギマギするくらい近くにナルの顔。そして、その背後からのぞきこんでる、ぼーさんと綾子と、真砂子とジョン、安原さんとリンさん。
「…………」
「気分は?」
 ナルがベッドに軽く腰をおろす。
「麻衣?」
 ペチ、ともういちどオデコをぶたれる。
「……あたし、生きてるんじゃない」
 かすれた声を出したら、いきなりみんなが息を吐《は》いた。
「あたりまえだ」
 ナルがあたしを軽くにらむ。
「ホルマリンを吸って、倒れただけだ。……気分は?」
 ……気分?
「……吐《は》きそう……」
 胸がムカつく。最悪の車酔いみたい。あたまがグラグラするよぉ。
「いったい、なんだってあんなところにいたんだ。僕はLL教室に行けと言ったんだぞ」 だって、教室で停電で、怖《こわ》くて逃げたら子供に追っかけられて、んでもって、あそこしか行くとこなくて……。
「あたしのせいじゃ、なーいっ」
 言ったとたん、ペタンと詰めたいものが額《ひたい》に。綾子が濡《ぬ》れたタオルをのっけてくれたんだ。
どう?」
「……気持ちいい」
「本当にもー、ビックリしたわよぉ。なんだって、ひとりで学校をフラフラしてたのっ」「……だって、ビデオが……」
 
「ナルもナルよっ」
 綾子がナルをにらみつける。
「麻衣をひとりで、あんなとこに行かせるなんてっ
 ナルが肩をすくめた。
 綾子はそれをチラと冷たい眼で見やってから、あたしのほうにかがみこむ。
「なにがあったの、言ってごらん」
「あのね」
 あたしはLL教室で停電にあって、生物準備室に逃げこむまでを微《び》にいり細《さい》にいり話してやった。――べつにみんなを怖がらせようとか、同情してもらおうとか思ったわけではないのよ。ベラベラ話してないと、吐きそうなんだいっ。
 話を聞き終わると、綾子が真砂子を振り返った。
「真砂子、まだそれ、いる?」
 真砂子は首を振る。
「いいえ、いないと思いますわ。もうだいじょうぶ」
 ……ほっ。
 ぼーさんが腕をのばして、あたしの頭をポンと叩いた。
「びっくりしたぞ。ホルマリン標本の散乱する中に倒れてるんだから。俺は一瞬スプラッタなことが起こったのかと思ったぜ」
 ……うー。想像したくもない。やめてよぉ。
「まったく、なんのために退魔法を覚《おぼ》えたんだか。やってみなかったのか?」「……あ。忘れてた」
「馬鹿《ばか》なやつだなぁ」
「そのとおりで……」
 あたしとぼーさんの会話を聞きながら、ナルが立ち上がる。
「まぁ、ケガがないのなら問題はないな。松崎《まつざき》さん、ついててください」
 綾子を振り返ってから、全員を見渡す。
「作業に戻ろう」
 ……置いてっちゃうの?
 あたしはたぶん、すごくナサケナイ顔をしたんだろう。綾子があたしをにらみつけた。「……あら、アタシじゃ不満?」
「……とんでもない」
 ひとりにしないでクダサイ。
 綾子はこれみよがしに溜《た》め息《いき》をひとつ。
「いいわよ、行って。麻衣にはアタシがついてる」
 ナルがうなずいて、そうして全員が部屋を出て行った。綾子はそれを見送ってから、
「どう? まだ気分悪い?」
「……ムカムカする」
「ちょっと、寝なさい。治《なお》るから」
 言ってタオルを取り替えてくれる。ひやっこくて気持ちいいよー。
「……ありがと」
「あら、素直じゃない」
「たまにはね」
 ペシッと頭をはたかれた。
 ……綾子、ありがと。
 あたしは笑って、それから眼を閉じた。

     2

 霧《きり》が出ている。細かな水滴が流れる。ミルク色の霧。
 霧の間に見えかくれするのは、深い樹影。
 ……どこだろう、ここ。
 あたしはあたりを見まわした。大きな木、ねっとりとたちこめた霧。――暗い。
 ふむ。と、あたしは納得《なっとく》する。
 もはや慣《な》れたぞ。こりゃ、あたし寝とぼけてるんだ。
 ……さて、それはいいとして。(よくないか? ま、いいや)ここはどこなんだろう。 見まわしていると、霧がゆらっと流れた。微《かす》かに薄くなって、すぐ眼の前に鳥居《とりい》があるのが見える。
 神社だ。
 あたしは鳥居をくぐる。中には石の参道。右手に小さな赤い鳥居。陶器製のキツネが二匹向かい合った奥に、小さな祠《ほこら》がある。
 お稲荷《いなり》さんかな?
 ゆらっともう一度霧が流れて、正面に大きな建物があるのに気づく。
 あ、これが本殿なんだ。
 暗いお社《やしろ》。……その前に立っているのは……。
「ナル?」
 霧の中。とけこむようなナルの姿。
 ナルの表情は硬《かた》い。あたしの夢の中でしか見られない、ふんわりした笑顔が見えない。
「そこは危険だ」
 ナルが口を開く。
 そこって?
「わかってるね? 危険な場所だ。起きて、出るんだ。そこにいちゃ、いけない」
「……わかんないよ、これはなに?」
 これはなんなの、この神社は?
「危険なんだ。退魔法を覚えてるね」
「……うん」
 ナルがふいに顔をあげた。空を見上げる。あたしもつられて振り返った。深い木立。木製の鳥居。正面の家並みの向こうに学校。
「……わかる?」
 ナルが聞く。
 同時に鳥居が家並みが、学校が透《す》けて見える。学校の一階。真正面に黒く脈打つもの。ほとんど何かの胎児《たいじ》のような姿をした、みょうに生々《なまなま》しいあの暗い鬼火《おにび》。
「……生まれる……?」
 あたしはつぶやく。
「そう。今までは眠っていた。じきに孵化《ふか》する。そうしたら、もう誰《だれ》にも手出しできない」
 誰にも手出しできない……。
 あたしは眼をこらす。あれは印刷室だ。それだけじゃない。あたしにはわかる。あれと同じものがLL教室にも。ニ-四の教室にも。そして、保健室にも。ああ、他にいた霊があんなに少ない。ほとんどもう、その四つしかいないと言っていいほど。たったこれだけの、わずかな時間に。
 あたしは悟《さと》ってしまう。全校の生徒数の約九割。およそ六百の生徒が、四か月――約百二十日間に渡って呼びつづけた霊。何千という霊の。それがわずかの間に、こんなに減ってしまったんだ。呼んだ霊は片っ端から食《く》い合い、ここまで減った。より強い霊が成長を続け……そしてとうとうこんなになるまで。
 ふいにすっと視界が澄んで、あたしは印刷室の風景を間近に見た。やってくる。ジョンと安原《やすはら》さん。そこは危険なのに。
「あたし、もどる」
と言うと、ナルがうなずいた。
「……気をつけて」
 霧がふと深くなる。
「そこは……」
 ナルの姿がのみこまれる。声だけが霧の中から。
「……あれと同じくらい危険……だから……」
 あたしはポンと眼を覚《さ》ました。同時にいきなり身を起こす。そばに座《すわ》っていた綾子《あやこ》が振り返った。
「どうしのた?」
「起きる」
「ちょっと、いいの? まだいくらも寝てないわよ」
「うん。いいの。起きる」
 あたしはベッドを降りる。床に足をつこうとしたら、グラッと眼がまわった。とたんにまた吐《は》きそうになる。
「だから、ムリよ、まだ。おとなしく寝てなさい」
 ダメだ。、これは。あたし、立てない。
「綾子」
 鬼火《おにび》。孵化《ふか》する。そしたら誰《だれ》も手出しできない。
「印刷室に行って」
「……ちょっと」
 綾子は怪訝《けげん》そうだ。あたしはうなずいてみせる。寝とぼけてるわけでも、うわごとを言ってるんでもない。
「ジョンと安原さんが行ったの。あそこは危険なのに。だから、行ってふたりを止めて」「ちょっと、麻衣《まい》……」
 綾子は言ってから、気おされたようにうなずいた。
「わかった。行くわ」
 
 うなずいてから、綾子は不安そうな顔をする。
「ひとりになっても、だいじょうぶ? 退魔法を使えるんだったね?」
「――うん」
「なに? 九字? 不動明王呪《ふどうみょうおうじゅ》?」
「不動明王の印を結ぶやつ」
「じゃ、これを覚えて」
 綾子が片手で剣印をつくる。
「こう。いい? 臨《りん》、兵《ぴょう》、闘《とう》、者《しゃ》、皆《かい》、陳《ちん》、烈《れつ》、在《ざい》、前《ぜん》」
 綾子は手を横、縦と交互に動かす。空中に格子縞《こうしじま》を描くように。その真ん中をポンと剣印で祓《はら》って、
「……九字よ。覚えた?」
「うん。横が先ね? 覚えた」
「不動明王呪を唱《とな》えたあとにやりなさい」
「うん」
 あたしはこわばる顔で笑ってやった。綾子は心配そうにあたしを見てから、保健室を駆《か》け出していった。

     3

 あたしはグッタリとなって、ベッドに身を沈《しず》める。頭が痛い。めまいがする。吐《は》き気《け》と……。
 ……さて。
 クラクラする頭をこらえて、あたしは部屋に気配を探る。
 ここは印刷室と同じくらい危険。
 息を整えていると、ふいに保健室の明かりが消えた。
 ……来た。
「なにをして……遊んでくれるのかなぁ」
 この部屋はたしか……。あたしは首をまわして奥のほうにならんだベッドを見る。窓から街灯の明かり。白く布団《ふとん》が光をはじく。
 ドキンと心臓がなった。奥から二番目の……あたしのベッドから三つ奥の……ベッドに誰《だれ》かが寝ていた。布団が人の形に盛り上がっている。
「でたな、化《ば》け物」
 すごい。あたし居直ってる。ホルマリンで頭のどっかが壊《こわ》れたのかもしれない。
 あたしはゆるゆると身を起こす。
 奥のそいつも、ゆるゆると身を起こした。
 空気が歪《ゆが》むのがわかった。空気、気配。そんなもの。それが歪んでねじれる。 ぼんやりと白い布団の下に何か黒いもの。
 あたしが身を起こす速度で、そいつも身を起こす。
 あたしはベッドの上に起きあがった。そいつはベッドの上にうずくまる。
 あたしは手を組む。今度は忘れない。
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン」
 布団の下の黒い身体《からだ》が盛り上がる。ドォーンと地の底から、低い深い音がした。
 やつの身体はベッドほども大きくなってる。ふたたび、地の底から地響《じひび》きのような音。それはふたたびゆっくりと身を起こし始めた。生臭《なまぐさ》い臭気が部屋に満ちる。黒い。ただ黒い影のようなもの。輪郭《りんかく》はない。ただ大きいのだけがわかる。
 三度真言《しんごん》をくりかえし、あたしは指を組み返る。剣印を結ぶ。そいつに突《つ》きつける。
「臨」
 横に空を切る。
「兵」
 縦に。
「闘」
 手を動かしたとき、ドンッとベッドが揺《ゆ》れた。あたしはベッドから放り出される。床に叩きつけられてしたたか腰を打った。
 足元から冷気がはいあがってくる。ねっとりとした、氷のような空気。やつはベッドを降りる。大きな背中にまとわりついてた布団が落ちた。身体を沈《しず》めると、もう闇《やみ》にとけて見えなくなる。
 ……どこ?
 あたりを見まわしながら、あたしは床に座《すわ》ったまま戸口のほうへにじりよる。 ……どこ……?
 部屋に広がった薄闇。もう何の姿も見えない。手を後ろ手に、ドアを探る。ドアの堅い手触《てざわ》りを頼《たよ》りに、そろそろと立ち上がる。ドアを開けようとしたとたん、ふたたび部屋が大きく揺《ゆ》れた。床を踏《ふ》みしめそこなって、その場に転ぶ。
同時に、ドォンという身体を震《ふる》わすような衝撃音がした。身体がふっと宙に浮く。えっ、と思う間もなく、落下して床に叩きつけられる。
 あたしはうめきながら身を起こす。周囲に眼を配《くば》りながら、できるだけ素早くもう一度ドアに手を伸ばす。
 ガリッと堅《かた》いものが手に触れた。ささくれだったコンクリートのカンジ。ドアの手触《てざわ》りはない。
 え!?
 思わず振り返る。
「あ……」
 ドアはある。あたしの頭の高さに。部屋を振り返る。なんてこと。部屋一面の床が、床下まで落ちていた!
 カリ……とささやかな音が部屋の角でした。
 あたしは再び指を組み直す。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン」
 口早に。
 カリ……。カリ……。小さな音があちらこちらでもする。小さな生き物が床でもひっかいているような音。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン」
 姿は見えない。小さななにか。近づいてくる。数が増える。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
 サワサワと微《かす》かな音。近づいてくる。もうほんの近くまで。
 あたしは指を解《と》くなり剣印を結んで横になぐ。
「臨、兵、闘、者、皆、陳、烈、在、前」
 横に立てに横に縦に横に――。
 剣印を見えない何かに振り下ろす。
「消えろーっっ!」
 ドンッと部屋が身震《みぶる》いして、はたと音が途絶《とだ》えた。気配が消える。いまだ!
 あたしは飛び上がってギザギザした壁に足をかける。力任せにドアを開けると、柱に手をかけて壁をけった。そのとたん、なにかに足をつかまれて再び床に叩きつけられる。
 ……いたいっ!
 だめだ! あたしなんかじゃ。自分が逃げるスキも作ることさえできない。
 そこに誰かの足音が届いた。
「助けて!」
「麻衣《まい》!?」
 ナルの声!
 ちぎれた床の断面に背をつけて、あたしは叫《さけ》ぶ。
「ナル!」
「どうした!?」
「気をつけて!」
 あたしの頭上でドアがあいた。人影が飛びこんできそうになって踏《ふ》みとどまる。「ナルっ!」
 あたしは見上げる。ナルは驚いたように部屋を見まわして、すぐにあたしのほうに手を伸ばした。
「来い!」
 その手に向かって手を伸ばす。と、同時に何かに足をすくわれた。ナルの白い手に届かずにあたしは横転する。ナルが部屋に飛び降りてきた。あたしを引き起こし、壁におしつけ楯《たて》になってくれる。
「綾子《あやこ》は!?」
「印刷室」
 あたしがナルの背中に答えたとたん、バタバタと足音がして、ぼーさんたちの声がした。
「なんだ!? 今の音は!?」
 その声と同時に、再び部屋が揺れた。ナルともども床に投げ出される。床に転がったとたん、メキっと上で音がした。
 パンッと何かが弾《はじ》ける音。そうして振り仰《あお》いだあたしは見た。
 天井《てんじょう》が落ちてくる……!
「きゃぁぁっ!!」
 眼を閉じる。思わず両手をあげた。鈍《にぶ》い激しい衝撃音。
 そして、ふっと意識が途切れた。

     4

 頬《ほお》の下に冷たい床の感触。ぱらっと何かが額《ひたい》をかすめて落ちる。
 あたしは眼を開けた。真っ暗で何も見えない。背中に重み。暖《あたた》かい。手にも足にも力が入らない。がんばって腕に力をこめるより先に、背中にかかった重みが消えた。
 同時に降ってくる声。
 
「麻衣《まい》っ!」
 綾子《あやこ》の悲鳴《ひめい》。
「……だいじょうぶだ」
 あたしの顔のすぐ上でナルの声。顔をあげるとナルが身を起こすところだった。ドアから身を乗り出す影。
「ナル!? 何があったんですか!?」
 リンさんの声。
「天井《てんじょう》が落ちた。床も落ちてるけど」
 まるでなんでもないことのように答える。
「だいじょうぶなんですか!?」
「ああ」
 答えながらナルがあたしを引き起こす。抱えるようにして上に押し上げる。あたしの腕をリンさんがつかんだ。そのまま引き揚《あ》げられて、廊下《ろうか》の床に降ろされる。身動きするたびにパラパラ何かの破片《はへん》が落ちた。
 うまく状況を把握《はあく》できないで、ボーッとしているあたしの背中を安原《やすはら》さんが叩《たた》く。
「……ケガは?」
「……わかんない。ないと思う」
 ほっと安原さんは息を吐《は》いた。
 ボンヤリ振り返ると、さしのべたリンさんの腕をつかんで、ナルが出てくるところだった。
「ケガはありませんか?」
「ああ。そんなたいしたことじゃない」
 本当になんでもないことのように言う。ぼーさんが、
「そんなたいしたことじゃないって、天井が落ちたんだろーが」
「こういう建物の天井なんて、やわな板がはってあるだけだ。たいしたことない。――麻衣、ケガは?」
「だいじょうぶ」
 綾子がナルを振《ふ》り仰《あお》いだ。
「なんだって、こんなことまでできるのよ……」
 震《ふる》える声。
 ナルは答えず、頭からかぶったほこりをたたく。ぼーさんがハンドライトで保健室の中を照らした。
 きれいに壁の形どおりに落ちた床。そこをおおうように散乱している。天井に張ってあったボード。
「冗談《じょうだん》じゃねぇぜ……」
 ぼーさんがつぶやく。
「孵化《ふか》したんだ」
 綾子の手を借りて立ち上がりながら、あたしは思わずつぶやいていた。
「孵化《ふかすぁ?」
 みんなが振り返る。
「うん。今までは眠っていたの。それが力を蓄《たくわ》え終わって孵化したんだ。
 もうどうにもできないんだよ」
「麻衣、あんた、頭うってない?」
 綾子があたしをかるく揺《ゆ》する。
「…………」
 あたしは答えなかった。答える必要はないと思った。だって、あたしは知ってる。それが事実なんだから……。
 歩き出しながら、ナルが溜《た》め息《いき》をついた。
「いくらなんでも手に負《お》えない。――学校を閉鎖したほうがいい」
 ぼーさんがつぶやく。
「うんと言うかね、学校側が」
「この床を見れば、言わざるをえないさ。多少の分別があればね」

     5

 あたしたちは事務室に向かった。ナルはそこから、校長に電話をかける。
 もう一回寝ろと言って、あたしは宿直室に連《つ》れていかれてしまった。ジョンと綾子《あやこ》、安原《やすはら》さんの護衛つきでむりやり布団《ふとん》の中に押しこめられてしまう。
 しょうがないので、あたしは眠った。眠ってすぐに短い夢を見た。

 そこは誰《だれ》かの部屋だった。
 六畳くらいの洋間で、机とベッドと、オーディオなんかがのっかった棚《たな》と、そしてぎっしり本が詰め込まれた本棚。
 ひかれるように本の背文字を眼でひろった。『オカルト』『サイキック』『高等魔術の教理と祭儀』『神秘学概論』『憑霊信仰論』……。
 オフィスの書棚みたいだ。難しい本がいっぱい……。
 いったい、誰の部屋なんだろう。
 部屋はきちんと整理されてた。まるで人が住んでないかのように。
 あたしは机に近づく。学習机の上には学生鞄《かばん》が置いてある。その脇《わき》にはこまごましたもの。フデバコやお財布《さいふ》。パス・ケース。
 あたしはパス・ケースを手に取ってみる。開いてみると、中には十月で期限の切れた定期が入ったままになっていた。名前が読める。
 ――坂内智明《さかうちともあき》……。

 翌日眼を覚《さ》ましたのは、お昼を過ぎてからだった。眼を開けると、狭《せま》い宿直室に七人の人間が額《ひたい》を集めて難しい顔をしていた。ナル、リンさん、ぼーさん、ジョン、綾子、真砂子《まさこ》、安原さん。そこで初めて、あたしはその後の事情を聞いたのだった。
 校長は、数人の教師を従えて学校に駆《か》けつけた。彼らは床の落ちた保健室を見てさすがに顔色をかえたけど、それでも学校の閉鎖には頑《がん》として首を縦《たて》に振らなかったらしい。一緒に来ていた松山《まつやま》は、まるであたしたちが故意にやったんだと言わんばかりだったそうだ。
 そのうえ、ナルたちを会議室に待たせると、教師たちを集めて緊急職員会議というものを始めてしまったのだった。
 けっきょく朝まで会議をやって、出た結論が、「調査を打ち切ってお引き取りください」。
 ナルが何度、学校は危険な状態であること、調査を続けなければさらに危険になることを言ってもダメだった。
「どうやら、教師どもは俺《おれ》たちがなにかしたと思ってるらしいんだな」
 ぼーさんが溜《た》め息《いき》をついた。
「なにかって……まさか」
「いや、床を壊《こわ》したんだろうとは言わなかったぜ、校長は。松山は近いことを言ってたけどよ。
 校長自身はどうやら、学校で霊的に変なことが起こってるとわかっているらしい。ただ、俺たちが下手《へた》手出しをしたから、かえって悪くなったんじゃねぇかって。どうやらしばらくは、ようすをみるつもりらしいぜ」
 だってあんなに危険なのに。
「……そんな、馬鹿《ばか》な……」
 答える人はいない。誰《だれ》が黙《だま》りこんでしまった。
 じゃあ、どうなるの? 調査は終わり? 確かに学校で成長している、あの霊たちはどうなるの?
「ま、進展きわまれり、とはこのことだ。
 依頼を打ち切られてしまえば、俺たちは学校には入れん。どうしようもない」
 ぼーさんの声にナルは唇《くちびる》をかむ。
「あれは、危険だ……あれを放っておくのか」
 あたしはなんなくと口を開いた。
「それに……、このままいくとどうなるわけ?
 やっぱ最後にいちばん強い霊が残るわけでしょ?」
「――なんて言った?」
 ナルに見返されてあたしは意味もなく身構《みがま》えてしまう。
「……だから」
「だから?」
「このまま霊が減って……というか、食《く》い合っていったらどうなるのかしら、って。
 最後に残った霊は協力すぎて、もうあたしたちじゃ、逆立ちしてもかなわないかもしれないでしょ?」
「食い合って、最後に残った霊……?」
 ナルが愕然《がくぜん》とした表情を作る。
「――どうしたの?」
 険《けわ》しい眼。
「……なんてことだ……。もしかしたらこれは……霊を使った蟲毒《こどく》だ……」
「こどく?」
 その言葉を聞いたとたん、リンさんまでがハッとした表情を作る。
 キョトンとするあたしたち。
「つかぬことをうかがいますが……」
「無知」
「申し訳ありません」
「蟲毒というのは、呪詛《ずそ》の一種だ」
 あたしは思わず腰を浮かす。
 
「呪詛ぉ!?」
「そう。呪詛には人形を使ったもの、呪符《じゅふ》を使ったもの、いろんなタイプの方法があるが、その中に生き物を使う蟲毒という方法がある」
 ナルは指先で畳を叩く。
「伝承はたくさん残っているが、実際のところは知らない。たぶん、ほとんど現存しないのだろう。中国に伝わる古い呪法だ。
 蟲毒に使うのは普通昆虫。金蚕《きんさん》という虫が代表的だが、これが実際に何という昆虫なのかは確かじゃない。他にもヘビやガマ、ムカデなんかを使う。
 これらの虫をつかまえてつぼの中に入れ、土の中に埋《う》める。何か月かして掘り起こすと、虫は共食《ともぐ》いをして一匹だけが残っている。その残った虫を使う呪法だ」
「残酷《ざんこく》……」
「――うん。
 一説にはその虫を殺して魂《たましい》を使うとも、その虫から毒を取るともいう。その虫は呪法を使った者の家にとりついて、その家に莫大《ばくだい》な財産をもたらしてくれる。
 そのかわり……その虫に、定期的にひとりの人間を殺して与えなければならないんだ。それを怠《おこた》ると、虫は主人を食い殺す」
 げ……。
「虫を養うことができなければ、その虫がもたらしてくれた財産に利子《りし》をつけて金製銀製の品物に代え、道に捨てる。これを嫁金蚕《かきんさん》と言うんだが。
 金銀に眼がくらんでそれを拾《ひろ》った者は、その虫を養わねばならない。
 えてして拾った者はその意味をわからずに拾うから、けっきょくは虫に食い殺されてしまう。
 それでこれを呪札にも使った。蟲法《こほう》をおこなって、その虫を多少の金銀とともに憎《にく》い相手に送りつける。相手は意味がわからず、虫を養うことを怠って食い殺されてしまう。
 そもそもの形は、こうだったはずだ。これが後に、猫鬼《びょうき》――猫を殺し、その魂を使って人を呪《のろ》う呪法――と融合《ゆうごう》して、生き残った虫を殺し、その魂で憎い相手を殺す邪法《じゃほう》になった」
「ちょ……、ちょっと待ってよ」
 つぼの中にいれて共食いをさせる……んでしょ? それって、今学校で起こってることと同じじゃない!」
「だから、蟲毒《こどく》だと言っている。
 緑陵《りょくりょう》高校のある場所は、もともと古い墓地だった。最近の墓地はともかく、古代の墓地は死者の霊がさまよい出てこないよう、いわば結界がはられていた神聖な場所だ。
 そこに霊が呼びこまれて出られなくなった。つまりは学校に閉じこめられているわけだ。そこで霊は食い合いをしている。蟲毒とまったく同じ」
 ……背筋が寒い。これは恐《おそ》ろしいことだ。
「……じゃ、このままいくとどうなるの?」
「最強の霊が残る」
「それで?」
 ナルは闇色の視線を中にさまよわす。
「……わからない。
 もしこれが、だれかが意図的《いとてき》にやっていることだしたら、最後に残った霊は呪詛《ずそ》の道具として使われる。呪われた誰《だれ》かがむごたらしい方法で死ぬだけだ。ただ……」
「ただ?」
「もしも、これが偶然に起こったことだとしたら、――たまたま学校が霊的に閉ざされた場所だったために起こったことだとしたら、何が起こるかわからない」
 ぼーさんが低い声をあげる。
「蟲毒《こどく》で使う虫は、食わせてやらなきゃならないんだろう?」
「おそらく」
「だったら、最強の霊が残ったら、それがとりついた学校は、やはり食わせてやらなきゃならないんじゃないかの? ……定期的に人間ひとりを」
「ちょっと! やめてよっ!」
 綾子が悲鳴《ひめい》をあげる。
「それができなきゃ、主人が食われる。この場合、主人は誰だ?」
 霊を集めたのは学校じゅうの生徒たちだ。まさか……。
 ナルが静かに答える。
「霊を呼んだ学生全部だろうね」
 そんな!
 あたしはナルをのぞきこむ。
「ねぇ、何とかする方法はないの!?」
「できるだろ?」
 ぼーさんも、ナルを期待をこめた眼で見る。
「僕《ぼく》にはできない。でも……リン?」
 ナルはリンさんを振り返る。
 みんながその視線を追うように、いっせいにリンさんを振り返った。
「リン、できるか?」
 この状況をなんとかできるか。
 リンさんは少し首をかたむける。
「蟲毒というのは、すでに失われたとされている呪法《じゅほう》です。わたしも今まで、蟲毒には出会ったことがありません。
 この蟲毒が呪詛《ずそ》として行われているのなら、それは単なる呪詛と同じです。打ち破るのは簡単ですが、偶然に起こった蟲毒だということになると、わたしでは役にたたないと思います」
 淡々《たんたん》と何の感情もない声で、リンさんは言ってのける。
「リン……」
 さすがにナルも困った表情だ。リンさんは首を振る。
「蟲毒の害をまぬがれる方法はありません。唯一《ゆいいつ》の方法が」
「嫁金蚕《かきんさん》」
「はい」
「つまり……他人に転嫁《てんか》するしかないわけか」
「だと思います。誰《だれ》かに転嫁してもよいのですか?」
 だれかに霊を押しつける。それしか方法がない。……そんな。
 ナルはリンさんを見上げる。
「まだ共食《ともぐ》いが終わったわけじゃない。勝者は決定していない。つまり蟲毒《こどく》は完成していないんだ。今ならなんとかできないか?」
 リンさんは無表情に首を振った。
「どうにもなりません。作用しはじめた呪法《じゅほう》を、途中で止めることはできません。
 呪詛《ずそ》というのは、最初からやらないか、最後までやってしまうか、どちらかしかないのです。絶対に引き返すことはできません」
 ナルが長い溜《た》め息《いき》をつく。
「申し訳ありませんが、ナル。もしこれが蟲毒を利用した呪詛ではなく、偶然の産物だとしたら、とる方法はふたつです」
「誰かに転嫁するか、それともあきらめて霊を養《やしな》うか」
「はい」
 霊を養うって……そんなこと、できるわけないじゃない! 定期的にひとりの人間を殺すって!? 冗談《じょうだん》じゃないっ!
 だからと言って、転嫁もできない。だれかに押しつけるなんて。
 あたしたちは絶望的な気分で押し黙った。
 ナルがやがてキッパリと顔をあげる。
「まだ蟲毒だと決まったわけじゃない。
 誰かが呪詛をおこなっている場合が残っている。これが呪詛なら、リンが始末をつけられる。……ギリギリまで調べてみよう」
 ナルはあたしたちを見渡す。あたしたちは、力をこめてうなずいた。


五章 それを見ていた


     1

 ナルは、もう一度校長を説得するためにひとりで部屋を出て行った。せめて時間をかせがなければ。調査を打ち切られ、学校が閉め出されてしまったら、あたしたちにできることはなくなってしまう。
 その間にあたしたちは額《ひたい》を寄せ合う。何か、解決の糸口を見つけないと。
「調べるはいいが、問題はどうやって、なにを調べるかってことだよなー」
 ぼーさんが、ぼやく。
「学校に入れなくなったら、お手上げだよなぁ」
「言えてる」
 綾子《あやこ》も溜《た》め息《いき》をつく。
「どーすりゃ、いいんだ?」
「ボヤいてないで、自分の頭を使いなさいよ」
「そういうお前こそ……ワリィ、綾子にゃ使える脳ミソはなかったな」
「ちょっと、それ、どういうことよ」
 ……あんたら、状況がわかってんのか? 仲よくケンカしてる場合じゃないでしょーが。
 ぼーさんは、軽くうなるようにして考えこんでいたけど、
「もう一度、事情を整理してみよう」
 言って、腕を深く組み直す。
「夏休みが終わったころから、学校でコックリさんがはやった。――これが始まりだ」
 
 綾子があとを次ぐ。
「呼び出された霊が校内にまんえん」
「学校がたまたま霊的に閉ざされた空間だったために……」
 安原《やすはら》さんのあとをジョンが次ぐ。
「霊同士が食《く》い合って、蟲毒《こどく》の状態になってしもたんですね」
 ……伝言ゲームか、これは。
「やっぱなー」
 ぼーさんが頭をかきむしる。
「なぁんか、おかしいんだよなー。そんなに霊を呼び出せたことじたいがさ。
 そんなはずはねぇんだよ。霊能者でもない人間が一万や二万の降霊術をおこなったからって、食い合うほども霊を呼べるもんか。
 絶対そこにはなにかあるはずなんだ。簡単に霊を呼べたわけが。……ってこれはナルが言ってたんだっけか」
 緊張感の持続しないヤツ。
「ねぇ」
 あたしはちょっくら聞いてみる。
「ヲリキリさまって、すごく変わってない? あたし、ああいうコックリさんは始めて聞いたよ」
 ぼーさんはうなずく。
「ああ、俺も初めてだな」
「キューピットさん、とか権現さま、っていうのはよく聞くんだけどねぇ」
 綾子も首をかしげる。
「でもまぁ、呼び方なんて……」
「ちがうっ、やり方も変わってるでしょ。
 ……あ、そうか、綾子は実際には見てないんだ、あの紙」
「紙ぃ!?」
「うん。ヲリキリさまの紙。
 五十音があって、数字あって、『はい』と『いいえ』があるとこまでは普通なの。
 ホラ、コックリさんだと真ん中に鳥居《とりい》を書くでしょ? ヲリキリさまはそのかわりに、変わったマークが書いてあるんだ」
「へぇー。どんな?」
「んー。よく覚えてないなぁ。複雑な模様。文字をねぇ、丸く書いて……『鬼』っていう字で、ちょっと気味《きみ》が悪かったな」
「ふぅん、変わってる」
 綾子がつぶやいたとき、じっとあたしたちの会話を聞いていたリンさんが、いきなりあたしの腕をつかんだ。
「『鬼』ですって!?」
 ちょっと問いつめるように聞いてから、あわててあたしの腕を放す。
「なんだ、どうした?」
 ぼーさんが怪訝《けげん》そうな顔をした。
「どんな模様でしたか? できるかぎり詳《くわ》しく思い出してください」
「……覚えてないよぉ。――そだ、安原さんはどうです? やったことあるんでしょ?」 安原さんも考えこむ。
「僕《ぼく》も一度やっただけだからなぁ……」
 言いながらも、そのへんに散らばっていたメモ用紙を手に取る。
「ええと、『鬼』っていう字を丸く書くんです。でもってその中に格子縞《こうしじま》がふたつ……」
 安原さんは考え考え絵を描く。
『鬼』という字を円形に並べて、その中に四角い升目《ますめ》をふたつ。真ん中に人の形。
「中に字が書いてあったんだけど……よくわからないな」
 あたしに見せる。
「うん……確か、そんな形だったよね」
 リンさんはすこし眼を見開くようにして、やがて低い声を出した。
「……この紙が手に入りませんか」
「そのへんの学生をつかまえておどせば、言うことを聞くヤツもいると思いますけど。――どうしたんですか?」
 リンさんは答えず、安原さんが放り出したマジックをつかむと、きちょうめんな手つきで文字を書きつけ始めた。
「安原さん、それはこういう形ではありませんか?」
 ……これだ。
「そうです。ここと、ここに……」
 安原さんは人形の両脇の空白を指さす。
「文字が書いてあったけど」
 それはなに?
「ヲリキリさま……と言っていましたね。
 それは呪文《じゅもん》からきているのではありませんか?
『をん、をりきりてい、めいりてい、めいわやしまいれ、そわか』……」
「あ、それです!」
「そして、使い終わったらどこかへ埋《う》めるとか」
「そう。たしかそんなこと言ってたな。一回しか使えないんだって。終わったらちゃんと神社に持ってかなきゃいけないとか」
「神社……」
 リンさんは小さくつぶやくように復唱したあと、安原さんを見据《みす》える。
「その神社がどこだかわかりませんか?」
「詳《くわ》しくは……でも、近くに神社はひとつしかないから」
 あたしはふと窓の外に眼をやる。あの樹が生《お》い茂《しげ》った場所は神社だ。夢で見た。濃《こ》い霧《きり》の……。たぶん。
「連《つ》れていってください、早く」
 ……ちょっと、リンさん!
「おい、リン」
 ぼーさんの静止の声にも構わない。
 リンさんは安原さんをひきずる勢いで、宿直室を飛び出した。

     2

 けっきょく全員でついていって、小さな神社にたどりついた。
 あたしは驚く。
 ……夢で見たのと同じだ……。
 黒ずんだ木の鳥居《とりい》。しおれた旗をあげたお稲荷《いなり》さん。ゆがんだ瓦《かわら》屋根の小さな本殿。ただ……あの深い霧はないけれど……。
 リンさんはまっすぐお稲荷さんに近づく。小さな小さな祠《ほこら》のまわりをまわるようにして、何かを調べる。
 石を組んで台座を作り、その上に木で作った小さな祠をのせてある。その前に置いたお賽銭箱《さいせんばこ》まで小さくてかわいらしい。
 リンさんは、ぐるりと見てまわったあと、
「こっちではない」
 つぶやいてから、今度は本殿のほうに向かう。一段高くなったお社《やしろ》の床下をのぞきこんで、
「ブラウンさん」
 ジョンを呼ぶ。
「すみませんが、わたしでは入れない。この床下に入ってみてください」
 床下は犬か猫でも入らないように、一面金網でおおってあった。正面の階段の陰の部分に小さな穴。一メートル九十近いリンさんでは、まず潜《もぐ》りこめない小さな穴。
 ジョンはうなずいて中に潜りこむ。きっとドロだらけになるね、かわいそ。
「何かありませんか?」
 リンさんの声にジョンが答える。
「紙がありますです。……ぎょおさん」
「一枚でいい、持ってきてください」
 すぐにジョンがはい出てくる。ケホケホ軽く咳《せき》をして、握《にぎ》った紙をリンさんに差し出す。
「これです」
 リンさんはくしゃくしゃになった紙を開く。そして、
「やはり……」
 低い声でつぶやいてから、リンさんは紙をあたしたちに差し出す。汚れた紙。真ん中にマーク。五十音。
「……これ!」
「これがヲリキリさまの紙ですか?」
 あたしとぼーさんはうなずく。安原《やすはら》さんも、
「まちがいありません。……あの、これが……?」
 なんでこんなとこに埋《う》めてあるんだろう?
 
 リンさんの無表情な横顔。
「狂わすには四つ辻《つじ》……」
「え!?」
「殺すには宮の下」
 ……なに!?
 リンさんはまっすぐな眼を向ける。
「これは呪符《じゅふ》です。神社の下に埋めてあるからには、人を呪《のろ》い殺すためのもの」
 …………。
 耳鳴りがした。
 なんだって? 呪い殺す?
 大急ぎで学校に戻り、ナルを探す。会議室に戻ってくるところをつかまえた。校長はうんと言わなかったらしいけど、今はそんなこと、問題じゃない。問題は、あの紙。
「呪符?」
 ナルの声にリンさんがうなずく。
「はい。これを十字路に埋めれば人を狂わせ、神社の下に埋めれば殺すことができます」 ナルは考えこんだように、指先で机を叩いている。リンさんはその横顔に向かって言葉をつなぐ。
「誰《だれ》かが……この呪符をコックリさんの道具だといつわって広めた……。何も知らない学生たちは、すすんで呪殺に手を貸していたんです」
 ナルの低い、どこか鋭《するど》い声。
「確かか」
「はい。作ったのも呪法をおこなったのも素人《しろうと》だからよかった。わたしなら、これ一枚で殺してみせますよ」
 ……ぞっ……。
「すると……」
 ナルはあたしの手から紙を取りあげる。
「何も知らない生徒たちは、それとは知らず、毎日のように呪符《じゅふ》を作って呪殺《じゅさつ》の儀式をおこなった。……。たまたまこれが降霊術の道具として使われたために、霊が集まり……その結果、霊同士食《く》い合って、蟲毒《こどく》の様相を呈《てい》してしまった……」
「はい。そういうことだと思います」
「蟲毒が完成したらどうなる」
「この人物は死にます」
 ……誰《だれ》だろう? その呪殺の対象となった人物は?
「死ぬのは誰かな」
「マツヤマ・ヒデハル氏です」
 ……まつやま?
「松山ぁ!?」
 あたしたちはいっせいに声をあげた。
 まさに、ちょうどその時だった。あたしたちの声に答えるように、松山が会議室に姿を現したのは。

     3

 松山《まつやま》は驚いたように立ち止まり、それからあたしたちを見渡す。
「なんだ、その無礼な呼び方は」
 全員が松山を見る。もはや怒《おこ》っている場合じゃない。
 松山もう一度あたしたちを見渡し、それからナルに向かって、
「帰る準備はすんだか?」
 そう楽しそうに聞いた。
 ナルは表情を変えない。
「申し訳ありませんが、席をはずしていただけませんか?」
「なんでだ? またよからぬ相談か?」
 ……こいつっ! そんなことを言ってる場合じゃないっつーのにっ!
「先生はお聞きにならないほうがいいと思います」
「ほう。なぜだ?」
 ナルが静かに、紙をあげる。松山にそれを示した。
「……なんだ、それは」
「呪符《じゅふ》です」
「呪符だぁ!?」
「先生は学内で、コックリさんが流行していたことをご存知ですか?」
 松山は口を曲《ま》げる。
「もちろんだ。馬鹿《ばか》な生徒を何人かつかまえたことがある」
「これはそのコックリさんに使われていた紙です」
「呪符じゃないのか」
「呪符だと申しあげました。誰《だれ》かがこの呪符を、新式のコックリさんだといつわって広めました」
 松山は不服そうに鼻をならす。
「それで?」
「これは呪符の中゛ても、呪殺《じゅさつ》に用いられるものです。人を呪《のろ》い殺すためのもの。そして、呪殺の対象は……松山先生だと思われます」
 松山の顔が一瞬でこわばった。ナルはリンさんを振り返る。
「……そうだな、リン?」
「はい」
「その理由は?」
 ナルに聞かれて、リンさんはヲリキリさまの紙を広げた。ぼーさんに向かって、
「滝川《たきがわ》さん、梵字《ぼんじ》は読めますか」
「……あ、ああ、たぶん」
 リンさんは中央のマークを示す。人形の右脇に書いてある。ミミズののたくったような字を指で示す。
「ここには呪う相手の名前を書きます」
「……なるほど……松山秀晴《まつやまひではる》としか読めねぇや」
 松山は何かを口の中で叫《さけ》んだ。顔色が悪い。リンさんはそれを完璧《かんぺき》に無視した。
「べつにこれは梵字である必要はないのです。げんにこちら」
と、人形の左を示して、
「こちらには年齢を書きます、ご覧のとおり」
 そこには「當歳《とうさい》伍拾参」と書かれている。
「ナル、読めますか」
「僕《ぼく》は漢字は苦手《にがて》なんだが」
「今年五十三歳、という意味です」
「……確かに、そのくらいのお年のようだ」
 そう言って松山を見る。いかがですか、と聞かれて、松山は首を縦に振った。
 リンさんは続ける。
「このようにして漢字で書いてもよかったのです。むしろ、そのほうが正式ですし。しかし」
「松山、と明記してあれば、誰《だれ》もが怪《あや》しむ」
「はい」
「それでわざわざ梵字《ぼんじ》を使ったわけか」
「だと思います」
 ナルは暗い視線を自分の手元に落とす。もはや松山のことは眼中にないようだった。
「相手が松山……犯人は誰だ?」
 ……聞くまでもない。誰もがそう思ったはずだ。
「ヲリキリさまは美術部と一年生の間からはやり始めた。そしてこれは、誰もが簡単に知ることができるような呪法《じゅほう》じゃない。よほどこういうことに興味のある人物でないと」
 ナルのつぶやく声に、松山が突然大声をあげた。
「坂内《さかうち》か!? 坂内なんだな!」
 ……坂内くん。ゴースト・ハンターになりたかった男の子。そして死んだ……。
 ナルはうなずく。
「だろうと思います。これが始まったのが、九月。二学期になってからです。はっきり流行し始めたのが九月の半《なか》ば。その頃、坂内君が死にました。彼はおそらく……自分で火種《ひだね》をまいて、それに火が着くのを見届けて死んだのだと思います」
 夢を見た。屋上に坂内くんがいた。彼は楽しそうに言った。「見てる……」。
 あれは……こういうことだったんだ……。でも、その坂内くんも、けっきょく……。
 松山が悲鳴《ひめい》じみた叫び声をあげた。
「なんだってあの馬鹿《ばか》は、こんなことをしたんだ! どうして俺《おれ》に……」
 安原《やすはら》さんが松山をにらむ。
「わかりませんか?」
 
「……何を……」
「本当に先生には、自分が選ばれた理由がわからないのですか?」
 松山が黙《だま》りこんだ。
「坂内君は遺書を残しました。『ぼくは犬ではない』それが前文です。僕らは、学校が僕らを犬のように飼《か》い慣《な》らそうとしていると、知っていました。その代表は誰だと聞かれたとき、僕でも松山先生をあげます。あなたは学校の象徴《しょうちょう》だったんです」
 安原さんに言われて、松山は顔を真っ赤にする。怒《いか》りの形相《ぎょうそう》をあらわにした。
 何かを怒鳴《どな》ろうとした松山を、ナルは無表情に押しとどめる。
「犯人がわかったところで、意味はありません。――そうなんだろう、リン?」
 ナルの視線を追って、松山の青い顔がリンさんを見る。
「はい。もう呪法《じゅほう》は動き出しています。呪者だろうと止められない。霊が食《く》い合って蟲毒《こどく》が完成する。それを待つだけです」
「どうにもならんのか!?」
 松山が悲鳴をあげる。
 さすがの松山も、そんなくだらない、とは射えなかったようだ。あたしたちは複雑な思いでうろたえきった松山を見た。
「解決策は?」
 ナルがそっけなくリンさんに聞く。
「ありません」
「呪詛《ずそ》を返すことができるだろう」
 ……呪詛を返す?
「それは、できます。返していいのですか?」
 ナルは考えこむ。
 長い沈黙《ちんもく》。
「……やむを得ない」
 ナルは松山を見る。冷たい暗い視線。
「死んだからと言って心が痛む相手じゃないが、死ぬとわかって見殺しにはできない。
 ――呪詛《ずそ》を返す」
「……それを、お望みなら」
 ナルは一瞬、暗い眼をする。
「そうだ」
 松山が明らかにホッとした表情をした。
「ちょ……ちょっと待ってよ! 話が見えないっ!」
 あたしは思わず叫《さけ》んでしまった。
「どういうこと? ねぇ!?」
「麻衣《まい》」
 ナルの低い声。
「『呪詛を返す』とは、呪詛を呪《のろ》った本人に送り返すことを言う」
 ……うん。
「学校に残った霊は、どうやら四つ。あの中から勝者が決まる。
 どれももう、僕たちの手には負《お》えないし、僕も命をかける気にはなれない。
 松山を見殺しにするか? 蟲毒《こどく》が完成すれば、松山を待っているのは死だけだ。それもおそらく残虐《ざんぎゃく》な死」
 ……食《く》い合う霊。そのうちもっとも邪悪《じゃあく》な霊が残る。それが松山に向かって……。
「だめ。……そんなの、よくない」
「だったら、黙《だま》ってろ。他に異議のある者は?」
 誰《だれ》も答えない。誰だって死んでしまえと言えるわけがない。ましてや本人を目の前にして。
「そういうことだ」
 ナルがリンさんを見上げる。
「はい」
 松山が低い笑いをもらす。安心しきった笑い。自分がサギ師よばわりした人間に頼《たよ》って、救われた笑い。カンに触《さわ》るけど怒《おこ》るようなことじゃない。
 ナルはそんな松山を振り返る。
「そもそもの原因はあなたです。覚えておいてください」
 ナルが厳しい眼をすると、松山は笑いひっこめて視線をそらせた。
 ぼーさんが低い声できく。
「でもな、ナルちゃん。坂内は死んでんだぜ。死人に呪詛を返すなんてできんのか」
「死人に呪詛は返せないし、そもそも坂内くんは関係ない」
 ナルは堅《かた》い声で言う。
「呪詛《ずそ》をおこなったのは、彼ではない」
 その場がしんと凍《こお》りついた。
「呪詛を返せば、呪詛は呪者《じゅしゃ》自身に返る。
 それとは知らなかったとは言え、呪詛をおこなったのは学生たちだ」
 ――――。
 なに? なんだって?
 学生が呪者? 呪詛が呪者に返る?
 呪殺《じゅさつ》の法が学生に返るの!?
 部屋にいた誰《だれ》もが叫び声をあげた。

「ナル……ちょっと……待って」
 声がかすれる。
「そんな……それじゃ、みんなは……」
 あたしの視線は自然、安原さんに向かう。青い顔をしたその人に。
「あの四つの悪霊が……ヲリキリさまをした人のところに返るの?」
 ナルが振り返る。闇より深い視線に射抜《いぬ》かれて、あたしは身動きできなくなる。
「そう言ったはずだ」
「やめて! ナルっ!」
「なにを?」
 有無《うむ》を言わさぬ冷たい眼。
「呪詛を返すのを? 松山を殺せって?」
 ……そうは言ってない……。
「お前まで馬鹿《ばか》になるなよ。
 知らぬとはいえ、生徒は呪詛をおこなった。法では罰《ばっ》せられなくとも、これは殺人の手助けに他ならない。呪詛は彼らに返る。原因となったこの人はそれを後悔する。これでフェアと言うものだろう」
 ……そんなの、ちがう。なにか、とても歪《ゆが》んでいる。
「安原さん……わかりますか」
 一度だけヲリキリさまに参加した安原さん。この人のもとにも呪詛は返る。
「……わかります」
 うなずく顔は血の気がない。
「呪詛が返ったら、僕《ぼく》らはどうなるんでしょうか」
「呪者《じゅしゃ》の数があまりに多い。力は分散され、効力は弱まるはずです。……理屈《りくつ》では。そうなるよう祈ってください」
 ……ちょっと待ってよ、そんな残酷《ざんこく》な。
 安原さんはうなずく。
「解決をお願いしたのは僕《ぼく》らです。それしか方法がないのでしたら」
「ありません」
「では、よろしくお願いします」
 安原さんは青い顔にちょっと笑みを浮かべた。
 そんな潔《いさぎよ》い。潔すぎる。
「松山は!?」
 あたしは叫《さけ》ぶ。松山がビクッと身体《からだ》を震《ふる》わせた。
「松山だけ守られて、他のみんなは守ってもらえないの!?
 この人だけ安全圏にいて何の罰《ばつ》もなし!? そんなのズルいっ!」
「馬鹿《ばか》か、お前は」
 冷たい、冷たい声。
「誰《だれ》だろうと、どんな人間だろうと、他人から殺されていい理由なんかない」
 ナルの言い分は正しい。混乱したあたしの頭でもわかる。でも……。
「そうだよ。みんなだって殺されていい理由なんかない。安原さんだって! 一回しかしてないのに! 呪《のろ》うつもりなんかなかったのにっ!!」
「誰でも、自分のしたことの責任は負《お》わなければならないんだ」
 
「みんな知らなかったんじゃない!」
「無知は言い訳にはならない」
 冷酷な声。吐《は》き気《け》がするほど綺麗《きれい》な無表情。
「あたし……ナルなんて大っ嫌《きら》いだからね」
「馬鹿に嫌われるとは……光栄だね」
 ゆるぎもしない冷酷な眼。
 あたし、嫌いだ、ナルなんか。理は通っても情がない。嫌い、嫌い、嫌いっ!
 ナルは影のようにひかえていたリンさんを振り返る。
「リン、準備を始める」
「はい」

     4

 ナルはリンさんを連《つ》れて会議室を出て行った。
 残されたのはあたしたち。
 いつの間にか夕闇が降りて、電灯をつけ忘れた部屋はたがいの表情が見えないほど暗い。
 誰《だれ》もが口をきかない。あたしだって何も言えない。
 コソコソと松山《まつやま》が部屋を出ていったけど、何を言おうという気も起こらなかった。

 ……ナルは正しい。理屈《りくつ》としては極《きわ》めて正しい。あたしたちに選べる道はいくつもない。その中から最善の……少なくともナルにとっては最善の道を彼はとったのだし、たぶんそれはまちがいではない。それがどんなに冷酷でも。
 頭が納得《なっとく》しても心は納得できない。
 みんな知らなかったんだ。誰ひとり、松山を殺したいほど憎んでたわけじゃなかった。 ……なのに。
 あたしはイヤだ。こんなのは認めない。認めることなんて、決してできない。
 ナルを止めなければ。やめさせなければ。
 あたしはこわばった足を動かして立ち上がった。
「麻衣《まい》」
 綾子《あやこ》があわててあたしの腕をつかむ。
「あきらめな。しょうがないよ、もう」
「やだ」
「……やだって、あんたねっ!」
 あたしは力任せに綾子の腕をほどく。そうして勢いあまったように駆《か》け出した。 他に方法がないなんて言わせないっ!
 絶対になんとかなるはずだ!!
「麻衣っ!」
「麻衣さんっ!」
 声をのこして会議室を飛び出した。

「……いない……」
 あたしは受話器を戻《もど》した。学校の近くの電話ボックス。
 あたりをさんざん探しまわったけど、ナルの姿は見えなかった。駐車場に車がないのに気がついて、オフィスに戻ったのかと思ったのだけど。
 オフィスに電話をしても何の返答もなかった。基本的に、あたしやタカは電話をとらないことになってる。何度もタカの家に電話をし、オフィスから戻ったタカをつかまえた。『どうしたの? 調査、進んでる? たいへんだよ、事務所の前まで新聞記者とか来て。所長の言いつけどおり、ノーコメントで通してるけど』
 何も知らないタカの無邪気《むじゃき》な声。
「タカ……タカ!」
 ああ、そんなことは重要じゃないの!
『……どしたの、麻衣?』
 タカの声が不安そうになる。
「ナルは? オフィスに戻らなかった?」
『ううん。戻《もど》ってないよ。そっちにいないの?』
「いない。探してるの。ナルを止めなきゃ……」
 言葉が途切れる。……どうしよう。
『わかった。所長がいないのね?』
 タカがキッパリした声をあげた。事情なんて、何も説明してないのに。
『つかまえたいのね? あたし、今からオフィスに行く』
 ……タカ。
『この際だ。あたし電話とるから。着いた頃に電話して。今夜は一晩じゅう、詰《つ》めてるから』
「……ありがとう」
 もう一度あたりを探しまわって、時間を見計《みはか》らって電話をした。ナルはオフィスに戻っていない。タカがいない間に戻ったようもないと言う。
 こんなときに、せめて自宅の連絡先を知っていれば。
 絶望的な気分で受話器を置く。見上げる目線の先に真っ暗な校舎。会議室に灯りはない。みんなはどこに行ったんだろう。
 あたしは夜の学校を見上げる。外灯に照らされた巨大なコンクリートの箱。点々とあいた暗い穴。所々に見える血のように赤い光は火災報知機のランプ。
「ナルを見つけなきゃ」
 見つけて、止めなくては。
 松山を見捨てろと言うんじゃない。誰《だれ》だって死んでいいわけがない。
 でも、他に方法があるはずだ。なきゃ、いけない。
 あたしは電話ボックスを出て、校門に近寄った。冷たく光をはじく。鋼鉄の門扉《もんぴ》。
「……残った四つの霊を」
 門に手を触れる。
「除霊してしまえばいいんだ」
 あいつらを消してしまえば。そうすれば。
 あたしは腕に力をこめた。渾身《こんしん》の力で門をよじのぼる。上までのぼると一気に飛び下り、地面に足がつくやいなや、グラウンドを駆《か》け出した。

     5

 表玄関が開いていた。あたしはそこから校舎に入る。
 あたし、何も持ってない。あたしにできるのは、チャチな退魔法だけ。なにもできるはずがない。
「……でも、やってみなきゃ、わからない」
 そうだ、やってみなきゃ、わからない。
 あたしは真っ暗な廊下《ろうか》をヒタヒタと歩く。自分の足音が廊下にこだまして、誰《だれ》かがつけてきている気分。
 そんなの無視して、まっすぐ印刷室に向かった。ここに、まずひとつ……。
 勇気を奮《ふる》い起こしてドアを開く。
 開いたとたん、めまいがした。
 置いてあったはずの機材はない。そして、床一面にたまった水。暗い光をゆらめかす。 空気が歪《ゆが》んでいる。いきなり吐《は》き気《け》がする。
 あたしは一歩、中に踏《ふ》みこんだ。ズッと足が沈《しず》む。水を含んだスポンジでも踏んだみたいに。
 印を結んで手を構えた。ド素人《しろうと》のあたしが、付け焼き刃《ば》の退魔法。
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン」
 とたんに、ザワッと部屋の中で人の気配がした。
 真っ暗な部屋。廊下から入る微《かす》かな光でかろうじて見える。天井《てんじょう》からしたたる水滴。部屋の向こう側の壁に、ほのかに浮かんだあたしの影。
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン」
 ゴボッ。陰を含んだ音が足元からした。床の上、部屋いっぱいに広がった水たまり。おそらく水深五ミリもないそこに、白い泡《あわ》がたつ。まるで水の底にいる誰かが息を吐いたように。天井からしたたった水滴が、あたしの頬《ほお》にあたった。
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン!」
 不動明王印を放って剣印を結ぶ。
 臨《りん》。――横に。
 再び水滴。頬に額《ひたい》に。
 兵《ぴょう》――縦に。
 ゴフッとすぐ足元で気泡があがった。水面が揺《ゆ》れる。部屋ごと揺すられているみたいに。
 闘《とう》――横。
 水滴が降る。雨のように。頬を髪を濡《ぬ》らしてすべり落ちる。足元が泡立つ。足が沈む。
 者《しゃ》。――縦。
 雨が降りかかる。肌をすべる水滴が生暖《なまあたた》かい。ふわっと臭《にお》い。ねばっこい。
 皆《かい》。――横
 正面の壁《かべ》に映ったあたしの影が、ふくれあがって動いた。あれはもう、あたしの影じゃない。微《かす》かな光を横切る水滴。間断なく降り注ぐ。
 陳《じん》。――縦。
 
 額《ひたい》に落ちた水滴がタラタラすべって、まぶたへ。ツッとまぶたをすべった瞬間、右目の視野が真っ赤に染まった。
 烈《れつ》。――横。
 一文字に動かした手が夜目《よめ》にも紅い。これは全部、この、糸をひくように降るものは全部、血だ! あたしは全身、血に濡れている。
 在《ざい》。――縦。
 壁に映った影があたしを振り向く。低く身をかがめて身構える。ゴボッともう一度音がして、足元に白いものが浮上する。白い人間の顔。鼻先だけを水面に出して。
「前《ぜん》!」
 剣印を振り下ろす。
「消えろーっっ!」
 ザフッと床一面があわ立った。足元から臘《ろう》のように白い人間が身を起こす。同時に壁に張りついていた影が壁から飛び立った。
 あたしは足をとられながら飛び退《すさ》る。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
 もう一度。できるまで、何度でも!
 あたしの肩先を、真っ黒なものが空を切る勢いで飛び過ぎる。目の前の視野いっぱいに、のっぺりした臘のような人影が立ちふさがる。部屋からあふれた血が、廊下《ろうか》へ流れ出ていく。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
 ヌゥと目の前の人間が両手をあげた。おもわずまた一歩、後ろに下がる。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
 逃《のが》れようとまた一歩下がったあたしの背後から突き出る手。後ろ!? 思う間もなく臘人形がのしかかってくる。
「臨!」
 横一文字に空を切る。臘人形の胸が真一文字に切り裂《さ》かれてドウと落ちた。同時に後ろから伸びた手が、あたしの首をすくって引き倒す。
 ――ああ、だめだ! やっぱり、あたしなんかじゃ!!
 倒れる自分の視野が、血で真っ赤だ。
 激しい勢いで引き倒されて、あたしは廊下《ろうか》側の壁に叩きつけられた。息が止まる。
「オン、キリキリ、バザラ、バシリ、ホラ、マンダ、マンダ、ウン、ハッタ!」
 ガリッと堅《かた》いものをひっかく音。金色の光が廊下の床に一本の線を引く。
「ぼーさんっ!?」
 金色の法具で床に線を描いたぼーさんが、あたしを振り返った。
 印刷室からあふれでてくる血。ぼーさんがひいた線。その細い傷の中に吸いこまれるように消えていく。崖《がけ》を流れ落ちていくように。
 有無を言わさず、ぼーさんがあたしの腕をつかんだ。そのまま抱えあげるように引き立てて印刷室の前を離れる。廊下の先には非常灯の碧《あおい》光。その下になつかしい顔。
 ジョン、綾子《あやこ》、真砂子《まさこ》。
 あたし、怖《こわ》かったよ。
 放り出されるようにみんなのほうに突き飛ばされて、あたしは広げた綾子の腕の中に飛びこむ。綾子があたしを抱えたまま、床に転《ころ》がった。
「この……馬鹿《ばか》っ!!」
 肩で息をしているぼーさん。あたしの前に仁王《におう》立ちになって。
「おまえ程度の退魔法で、太刀打《たちう》ちできる相手かっ! そんなに死にたいのか、大馬鹿者が!!」
 ぼーさんに怒鳴《どな》られて、あたしは縮《ちぢ》みあがる。小さくなったあたしの背中を綾子がギュッと抱いた。
「……もういいよ。よかった、間にあって」
 綾子の声があんまり優しいので、あたしは涙が出てくる。
「行きましょう。早く学校を出たほうがいいです」
 ジョンがあたしと綾子を立たせる。真砂子があたしの腕の下に肩を入れた。きれいな山吹色の着物に赤いものがベットリとつく。
 涙が止まらない。あたしは泣きじゃくりながら、みんなに抱きかかえられて暗い学校を出た。

     4

 ぼーさんの車で綾子《あやこ》のマンションまで連《つ》れていかれた。
 ジャングルみたいに緑だらけの部屋に着くなり、風呂場《ふろば》に放りこまれた。鏡を見ると、血の池で泳ぎでもしたように全身が真っ赤だった。
 頭からお湯をかぶって全身を泡《あわ》だらけにして。お風呂場の中も、名前のわからない鉢植《はちう》えだらけだった。綾子と観葉植物かぁ。なんだか似合ってない気がしておもしろい。
 綾子が出してくれた服に着替えて風呂場を出ると、綾子は真砂子《まさこ》の着物のシミぬきをしていた。
「落ちついた?」
「……うん。ごめん」
 綾子はシミぬきに使っていた布をジョンに渡すと、キッチンに立った。ホット・ミルクを作ってくれる。ちょっとお砂糖が入って、かすかにお酒の匂《にお》い。カップを渡してくれた綾子かも、床に座《すわ》って煙草《たばこ》をふかしているぼーさんも血だらけだ。
 綾子はバスタオルをとると、あたしの頭にかぶせてクシャクシャやる。
「寿命《じゅみょう》が縮んだわよ」
「こめん」
「……ったく。短気で無思慮なんだからっ」
 ……うん。
「アタシたちにできないものが、あんたにできるわけないでしょーがっ」
 ……はい。
「麻衣《まい》さんのキモチはわかりますけど、あれはもうどうにもなりませんです」
 ジョンが柔らかな声で言う。あたしは綾子にゴシゴシ髪をふかれながら、カップの中のミルクが揺《ゆ》れるのを見ていた。
「……とにかく、無事でよかったです」
 ひょいとぼーさんが立ち上がる。
「悪ぃ、風呂借りるぜ」
「いいけど、汚さないでよね」
「着替えがあるとうれしーんだがなー」
「男物の服なんてあるわけないでしょ。毛布でもかぶってれば?」
「へいへい」
 ヒラヒラ手を振るぼーさんは、頭からバケツで血をかぶったようなぐあい。
「ぼーさん」
 あたしはその、真っ赤になった背中を呼び止める。
「ありがと。……ごめんね」
 ぼーさんは笑う。すかさず綾子が、
「なにニヤケてんのよっ、ジェイソンみたいなナリで」
 クスッとジョンがふきだした。たしかに、返り血を浴《あ》びた殺人気みたいだ。
「こら、麻衣まで笑うんじゃねぇ」
 それでも、ぼーさんが風呂場に消えると、思わず大笑いしてしまったあたしたちだった。

 グダグダつまらないことを話し合って(それは本当に幽霊《ゆうれい》も怪現象も関係ない、くだらない会話だった)、そのままいつの間にか寝こけてしまったあたし。
 翌朝は綾子に起こされた。
「麻衣……行くわよ」
 声をかけられて眼が覚《さ》める。
「学校?」
 すでに身繕《みづくろ》いをすませた綾子がうなずく。ぼーさんもジョンも真砂子も、すでに出かける準備ができていた。みんな、そもそも寝たんだろうか。
「最後まできちんと見届けたいじゃない。蟲毒《こどく》が完成するまで、時間はあまりないと思う。だとしたらたぶんナルは、今日にでもやるはず」
「――うん」
 あたしは重い身体《からだ》を起こした。
 ナルは呪詛《ずそ》を返す。呪詛をおこなった学生たちに……。

     7

 朝の、シンと静まり返った学校。
 構内に入るなり、あたしたちは少し驚く。
「まったく、人の気配がない――」
 ぼーさんが校舎を見上げた。まるで休日のよう。
「ナルはどこかしら」
 綾子《あやこ》の声に、
「さてな。とにかく会議室に行ってみるか」
「教師に見つかったら、つまみ出されるんじゃない?」
「そんときゃ、そんときさ」
 あたしたちはそっと玄関に近づく。玄関の脇には事務室。そこにも人影はない。
「どういうことだ?」
 ぼーさんがあたりを見まわす。眼の前には体育館。ふいにそこに近づくと、下のほうにある明りとりの窓をのぞきこむ。
 
「……ここだ」
 ひそかな声。あたしも身をかがめて中をのぞきこんだ。体育館の中には学生たち。どうやら全校朝礼の最中らしい。窓が閉まっているせいか、中の物音は聞こえない。整然と並んだ学生の姿が見えるだけだ。
「行きましょ、今よ」
 綾子にうながされて、あたしたちは玄関にかけこんだ。
 玄関脇の階段を上がって三階へ。会議室の前まで来て中をうかがう。そっとドアを開けてのぞきこむと、ナルとリンさんの姿が見えた。
「よぉ」
 ぼーさんがドアを大きく開く。ナルは振り返って眉《まゆ》をひそめた。
「何をしにきたのかな?」
「どーゆー按配《あんばい》かと思ってさ」
「手伝ってもらうことはないんだが?」
「単なるギャラリーってやつだ」
「見せ物ではないんだがな」
 ナルは溜《た》め息《いき》をつく。リンさんは机に向かったまま、顔もあげない。机の上にはろうそくと金属でできた平らな鉢《はち》。その中には白い紙に漢字をかきつけたお札《ふだ》。香炉《こうろ》からは微《かす》かに不思議な香りのする煙《けむり》がたなびいていた。背筋を伸ばしてイスに座《すわ》ったままピクリとも動かない。その手にはまっすぐに金色の刀が握《にぎ》られている。
 リンさんは呪詛《ずそ》を……このあまりに大がかりな呪詛を、呪者《じゅしゃ》に返そうとしている。呪者。ヲリキリさまをやって霊を呼びだした全ての学生。……もちろん、安原《やすはら》さんも。
 ふっとリンさんが息をついた。
 あたしは意味もなく身体《からだ》を震わせた。それがなんだか作業がひとくぎりした。合図《あいず》に思えて。
「リンさん、やめて!」
 あたしは思わず叫《さけ》んでいた。
「お願い、ナル、やめさせて!」
 ナルのピシャリとした冷たい声。
「まだそんな、馬鹿《ばか》なことを言っているのか」
「馬鹿じゃない! 誰《だれ》も悪くない! みんな松山《まつやま》を呪い殺そうとしたりしてない!」
 ナルの冷たい眼があたしを見据える。
「出て行け。邪魔《じゃま》だ」
「やだっ!」
 あたしはリンさんの肩に手をかける。
「お願い! リンさん、やめて!!」
 リンさんは薄く眼を閉じたまま、身じろぎもしない。あたしの手をナルがつかんだ。
「出て行け」
「やっ! みんないるんだよ、体育館に。なんにも知らないんでしょ? 自分たちが何をしたか、自分たちに何が起こるか」
 ナルが有無をいわさずあたしの手を引っ張って、会議室から引きずり出す。
「ナル、ちょっと、やめさないよ、乱暴な」
 綾子が制す。その肩をも突いて、
「全員、外へ出ろ! リンの邪魔《じゃま》をするな!」
「ちょっと、ナル」
 ナルは、暗い闇の色の視線であたしたちをながめわたす。
「全員、外へ出ろと言っている」
 最初に真砂子《まさこ》が動いた。次いでぼーさんが。次にはジョンと綾子が。あたしはひとりでその場にふんばる。そのあたしの腕を抜けるほど引っ張って、ナルがあたしを会議室から引きずり出す。
「ナルっ! どうしてよっ! なんで松山は助けて、みんなは見殺しにするの!? みんな悪気なんてなかった、松山を呪《のろ》う気なんてなかったのにっ!!」
 あたしの言葉なんか、氷のような無表情で無視する。無理矢理《むりやり》外へ引きずって、部屋から放り出すとドアを閉めてその前に立ちはだかる。
「冷血漢」
 ナルは答えない。
「みんなは何も知らないで呪詛《ずそ》に手を貸したかもしれない。松山を殺そうとしたかもしれない。でも、そのみんなを殺そうとしてる、あんたはなによっ」
 無反応。
「人殺し。事件が解決できれば、あとはどうなってもいいんだね」
 吐《は》き気《け》がするくらい綺麗《きれい》な無表情。
「誰《だれ》が死のうと泣こうと、どうだっていいんだね」
「麻衣《まい》」
 なんの反応もないナルの代わりに、ぼーさんがあたしの肩を叩いた。
「もうよせ。しかたないんだ」
「しかたなくなんか、ないっ!」
 もしも呪詛が返ったら、みんなはどうなるの? 岡村《おかむら》さんは、その友達は、荒木《あらき》さんは、友達は、宮崎《みやざき》さん、友達、三-一の人たち。……安原さん……。
 そんなこと、しちゃだめなんだ!
「……麻衣」
「いやっ!」
 ナルはまったくなんの感情も浮かべない。平然とした声で、
「ぼーさん、麻衣を連《つ》れていってくれ」
「ああ。――さあ、麻衣」
「やだってば!」
 身をよじるあたしを抱えて、ぼーさんは会議室を離れる。
 いやだ、いやだ、いやだ!
 こんなことしちゃ、いけない。ぜったいにいけない!
 ぼーさんはあたしを階段まで連れていって無理矢理座《すわ》らせる。
「ぼーさん、止めて! やめさせてっ!」
 パンと軽く頬《ほお》をぶたれた。
「ナルを信じろ」
 ……ぼーさん。
「ナルが俺《おれ》たちの期待を裏切ったことがあるか?」
「……だって」
「あるか?」
「……ない……」
「だったら信じろ。だいじょうぶだ」
「でも」
「あの中には安原少年だっているんだ。俺が心配じゃないと思うのか」
 ぼーさんの真剣な眼。あたしをのぞきこむ悲しい色。
「……うん……」
「いい子だ」
 あたしは自分の膝《ひざ》に顔を埋《う》めた。パタパタ落ちた涙が、スカートに染《し》みて足を濡《ぬ》らした。あたしの頭をぼーさんがクシャクシャなでてくれた。

 どのくらい、そうしてたろう。
 ふいに背後でざわめきが起こった。人の気配。口々に話す声。思わず腰を浮かす。
 振り返ると、ナルたちが廊下《ろうか》を曲がってくるところだった。
「終わったの? 本当に?」
 綾子がナルに問い正す。
「ああ」
 ナルの返答を聞くやいなや、あたしは階段を駆《か》け下りた。
「麻衣!」
 ぼーさんの声。立ち止まっていられない。
 終わったの? じゃあ、みんなは? 体育館にいたみんなは!?
 飛び下りる勢いであたしは階段を駆け下りる。玄関に飛び出すと、体育館に走った。後ろから誰《だれ》かが追いかけて来る足音。呼び止める声。
 あたしは体育館にかけより、重い鉄製の扉《とびら》に手をかける。力任せに引き開けた。

 …………。
 …………。
 ……これは……なに!?
 あたしは呆然《ぼうぜん》と体育館の風景に見入る。
 体育館の床《ゆか》を埋《う》めつくして整然と散らばる……人形の群れ。
「……だって、さっきは」
 あたしはつぶやく。
 だって、さっきは人間がいた。たしかに学生が並んでいた。
 あたしは踏《ふ》みこむ。足元の人形を拾いあげようとする。人の形に板を切って、そこに札をはった人形。指でふれると、ボロリと腕の部分がもげて落ちた。
 
 落ちた破片《はへん》を、横から伸びた白い手が拾った。
「……ナル」
 ナルはその破片を見つめる。すぐに視線をそらして、あたりの人形を確認する。
 どの人形もどこかしら壊《こわ》れている。そのように見える。
「ナル……これは」
 ぼーさんがうわずった声を出した。
 ナルがぼーさんにうなずく。
「人形を確認してくれ。壊れていないやつを集めるんだ」
「……ああ」
 ぼんやりと、安心してもいいのかな、というように複雑な表情をするぼーさん。
「松崎《まつざき》さん、原《はら》さん、……麻衣」
「――はい」
「手分けして、壊れてない人形の名札を調べて電話してくれ。名札に名前が書いてある。名簿で調べて電話をして、安否をたずねる。事務室の電話を使ってくれ」
「……はい」
 それと同時にぼーさんとジョンが、猛然と人形の群れの中に突っこんだ。
 ……まさか、これは。
 いつかナルが使った人形。リンさんが作ったと言っていた。人に見立ててその身代わりとして使う。
 人形に恨みをこめて釘《くぎ》を打てば、相手を呪《のろ》い殺す道具として使える。そのかわり。
 病気の部分におしあてて病気を移し、水に流して清めれば、病気を治《なお》す道具として使える。
 身代わり……。
 これが返った呪詛《ずそ》を、学生たちの身代わりになって引き受けてくれたんだ。
 このおそらくは学生の人数分である、人形が。

     8

 事務室から電話をした結果、人形が無傷で残っていて、身体《からだ》に異常のあった学生はひとりもいなかった。
「なにか異常はありませんか? ……ないんですね?」
 あたしは、最後のひとりの学生の家に電話をかける。
「つかぬことをうかがいますが、学校ではやっていた、ヲリキリさまという遊びをしましたか? ――はい。ああ、やってないんですね。わかりました。ありがとう」
 電話を切る。
 真砂子《まさこ》と綾子《あやこ》があたしを見つめる。
「だいじょうぶだって」
 綾子が手を打った。
「やった!」
 ヲリキリさまを――呪詛をやった子に返るはずだった呪詛は、全部人形が引き受けてくれた。その結果人形はどこかしら壊《こわ》れ……壊れなかったのは、呪詛にかかわらなかった学生のものだけ。
 綾子があたしに抱きついてくる。
「よかった、よかったね、麻衣《まい》」
「うん……」
 あたしたちは、おたがいをパタパタ叩きあった。
「どうでしたか?」
 ジョンが事務室に顔を出す。
「だいじょうぶっ! 全員無事!!」
 パッとジョンが顔を輝かせた。
「だいじょうぶですて」
 やってきたぼーさんを振り返る。ぼーさんはうなずいて、事務室の中に入ってきた。胸になにか抱えている。
「麻衣……」
 立ち上がって迎えるあたしに、ぼーさんは腕の中のものを差し出す。
 どこかしら壊《こわ》れた人形。名札が読める。「荒木梢《あらきこずえ》」「岡村和美《おかむらかずみ》」「宮崎雅代《みやざきまさよ》」……「安原修《やすはらおさむ》」。
 ……みんなだいじょうぶだね。人形が引き受けてくれた。無事なんだね……。
 受け取った人形をそっと抱く。あたしの頭をぼーさんがかきまわした。

 あたしは事務室を飛び出す。
 ナルはどこだろう。
 体育館をのぞく、あたりを見まわす。
 ……いた。
 ひとりでグラウンドをながめている。
 あたしは駆《か》け寄る。
「ナル!」
 振り返るのは、いつもどおりの綺麗《きれい》な無表情。
「どうだった?」
「全員、無事。みんなヲリキリさまはしてないって」
「そう」
 口元に微《かす》かに満足そうな笑み。
「人形が……身代わりになったんだね?」
「よく、わかったな」
 ……むっ。わかるとも、それくらい。
「今日、学校は?」
「校長にたのんで、休校にしてもらった。全員家に待機《たいき》しているように言って」
 そっか。
「よく校長がウンと言ったね」
「松山《まつやま》がこっちの味方をしてくれたからな」
 ……ナルホド。
「ね、人形が身代わりになるんだったら、松山の人形を作るのじゃいけなかったの?」
 あたしはナルの脇に立つ。
「四つのものが一人に向かうのと、六百人に向かうのと、どっちが安

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责任编辑:Mashimaro

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