イトの光を向ける。 あたしはジョンの持った明かりを頼りに平面図を見た。 「そこ、きのう変だって言ってた壁のあたりじゃないかな。ちょうど、あの真上くらいの位置だよ」 「変な壁……あの、厚み三メートルの壁か?」 「うん」 ぼーさんはじっと穴を見つめる。 「隠《かく》し部屋ってわけか。こんなんがあるんじゃ、平面図が合わないわけだぜ」 「まさか……ここに鈴木さんが」 「それはねぇだろ。だったらもっと足跡がつくとか、ホコリが動いてるはずだ」 「……そうだね」 ぼーさんはちょっと緊張した顔でうなずく。 「よし、降りてみるか。少年、ライト頼む」 ハンド・ライトを渡して、ぼーさんが身軽に梯子《はしご》を下りていった。勇気あるなぁ。 「どう? 誰かいる?」 「いや、人はいない。小さな部屋って感じだな」 上からのぞきこむと、細長い三畳くらいの部屋になっているようだった。ライトの光で、床に散乱するぶよぶよしたものが見える。 「……ぼーさん、なに、それ」 こんもり山になったものを示すと、ぼーさんが机の先でそれをつついた。 「……わからんが、布団みてぇだな」 布団? こんな部屋に? 「ひでぇ、湿気。この床もやべぇや。ブワブワしてらぁ」 そう言って、ぼーさんは梯子を上ってくる。上の部屋に戻ってきたとき、片手に布きれのようなものを持っていた」 「なに、それ?」 「わからん」 言いながらホコリを落とす。狭《せま》い部屋にムッとするほど濃《こ》いカビの臭いが広がった。 「コートだな」 厚い布地に丈長の服。たしかにコートのように見える。ひっくりかえして改めていたぼーさんがふと手を止めた。 「名札が縫《ぬ》い止めてある」 安原さんが光を当てた。 えり裏のすっかり変色した白い布に、なにか文字が書いてあるのが見てとれた。ライトの明かりでは文字は読めない。 「ここじゃだめだ。どっか明るいところに持っていってみよう」
建物の外側の、外に面した部屋にそれを持っていった。近くの部屋の洗面台で軽く名札の部分を洗う。変色した布に墨で書いたらしい文字がかろうじて読み取れた。 『美山慈善病院 付属保護施設』 「先々代が建《た》てたっつー、病院のことかな」 「だろうね」 先々代さんは慈善事業にも手をつくした偉《えら》い人だったんだ。 「なんでこんなもんが、あんなところにあるんだ?」 「解答一、あの部屋は不要のものを捨てるゴミ箱だった」 おっと、ぼーさんのけーべつの視線。 「却下。他には?」 「保護施設の患者さんが隠れ住んでいた」 ……布団があったみたいだもんな。 「なんでこんなとこに隠れ住むんだよ」 「あたしに聞かないでくれる? あ、あの部屋が病室だかなんだかの可能性」 「あのな」 そうして考えこんだけど、むろんあたしたちにわかるはずもなかった。 しかし隠し部屋があることを見つけたのは、大手柄といえるだろう。
3
あたしたちはベースに戻って、コトのてんまつをナルに報告した。ナルはひどく嫌《いや》な顔をした。 「……隠《かく》し部屋か……やっかいだな」 ま、そうだとは思うけど。 「問題のコートは?」 「これ。汚れるよ」 ナルはかまわず、真っ白な手でコートを受け取る。えりもとを探って名札をみる。ついでポケットなんかをあらため始めた。何度もひっくり返してから、 「ここになにかある」 コートの内ポケットだった。なにか薄いものをひっぱり出した。 それは折りたたんだ紙片に見えた。ナルがそっとボロボロになったそれを開く。 「おい、これ……」 ぼーさんが身を乗り出した。 それはひどく黒すんでしまっていたけど、紙幣《しへい》だとわかった。ナルが窓に向けて陽に透《す》かす。 「文字が書いてある」 そう言って紙幣をぼーさんにわたした。ぼーさんはそれを受け取り、同じように陽に透かしてみる。あたしもわきからのぞきこんだ。いくつかの文字が読み取れる。もとは二行の文章だったようだけど、切れ切れの文字しか拾えなかった。左右へ順に拾っていくと、「よ、げ、く、聞、た、さ、に、浦、る、居、死、皆、は、来、処……」 「意味不明」 あたしとぼーさんは思わず顔を見合わせた。 ナルはひどく暗い眼をしていた。 「……なんのためにこんなことを……?」 誰が、なんのために? ふたつの文字が印象に残った。――『死』と『皆』。
残り時間、あわてて測量の続きをして、日暮れまでになんとか一階部分を終えた。そのデータをリンさんに任せて、あたしたちは食堂に向かう。大急ぎでご飯をかきこんでいると、五十嵐《いがらし》先生に声をかけられた。 先生は一日たつ間に、また鈴木さんのことが心配になってきたらしい。東京の自宅に電話しても彼女は帰ってなかったと言って、とても心配そうにしていた。警察に失踪届を出したほうがいいだろうか、と安原さんに聞く。安原さんなんて、五十嵐先生にしたら息子ほども若い相手なのに、その若い相手を頼りにしているようすが、先生の狼狽《ろうばい》を表しているようで、なんだか痛ましかった。 見ているのが辛《つら》くて、そっと食堂を抜け出した。ひとりでベースに戻る。ベースではリンさんが黙々と作業を続けていた。 「リンさん、あたしご飯終わったから交代しようか?」 そう声をかけたわけだが、 「けっこうです」 と、ニベもない返事。まったく……。 だからと言って、ふたりでいるのにしゃべらないのも気詰まりで、あたしは五十嵐先生の話をした。対するリンさんの返答はそっけない。おつきあいみたいにうなずくだけで、ホウでもハァでもない。 「……ときに、リンさんって中国の人だったのね」 苦しまぎれにそう言うと、リンさんはあたしをマジマジと見た。 「……それが?」 それが……って言われても困るんですけど。 「なんか、すごいな、と思って。もっと早く言ってくれればよかったのにー」 リンさんはあたしをひどく冷たい眼で見た。 「なぜですか?」 「なぜって……そんな深い意味があって言ったわけでは」 ないのよ。ちょっと言ってみただけで。 「……ホントに無愛想《ぶあいそ》なんだからなぁ……」 「私は日本人は嫌《きら》いです」 いきなりキッパリ言われて、あたしはビックリしてしまった。キョトンとリンさんを見てしまう。 「……なんで?」 どーしてそんな、ひとくくりに嫌いなんて言ってしまうわけ? 「日本人が昔、中国で何をしたか知らないのですか?」 うう。そりゃ、昔、日本人はいろいろとひどいことをしたんだけどさ。でもって大人《おとな》はいまだにあやまりもせず、そらっとぼけようとしてるけどさ。 リンさんは無表情のまま。 「私は日本人が嫌いだし、日本人に囲まれて生活するのも不愉快《ふゆかい》です」 ……そこまで言う? 「リンさんの言い分はわかるし、もっともだと思うけど、でも、昔のことでしょ?」 「そういう言われ方はいっそう不愉快ですね」 ううう。確かに日本が悪いのよ。いわば、勝手に人の家に入りこんで、住んでる人に無体なことをしたんだから。たとえるなら、居直り強盗みたいなもんで。――それでも。 「でも、中国だって元寇《げんこう》とかやったでしょ? ヨーロッパだって、侵略したとかされたとか、そんな歴史ばっかなわけだし」 「だから日本のしたことが許されるんですか?」 「そんなこと言ってないっ! 悪いことは悪いのよっ。日本が中国に侵略したのはいけないことなのっ。でも、そうやって昔の恨《うら》みを覚えてるなら、日本にだって恨む権利はあるし、世界じゅう恨みだらけで、全部の国が永遠に憎《にく》み合っていかなきゃならないでしょ?」 リンさんは無言だ。 「そういうのって、不毛だと思うわけ。事実は事実でいいの。日本は悪いことをした、って事実があって、それを覚えているのは必要なことだと思うよ。でも、だから嫌いだとか恨むとか、そういうふうに言ってたら永遠に仲よくなれないでしょ? ずっと憎み合っていかないといけないじゃない」 ああっ、ちっともうまく言えない。 「リンさんがあたしを嫌いで、だから嫌いって言うのは仕方ないよ。でも、日本人だから嫌いって言い方は納得《なっとく》できない。リンさんのお父さんかお母さんが殺されたの? そうじゃないでしょ? そのくらい昔のことだと思うの。そんな昔のことにこだわって、たくさんの人間をひとくくりに嫌いなんて言うのは、馬鹿馬鹿《ばかばか》しいことだよ。日本人のあたしがこういうこと言うの、すごくはきちがえてるってわかってる。それでも、あたしとリンさんの個人同士の問題として、あたしを嫌うなら、あたし自身の問題で嫌ってほしいよ。日本人だとか、女だとか、孤児だとか、そういう、あたしにもどうしようもなかったことで嫌ってほしくないのっ」 うう、こういうのって悲しいよぉ。でもあたしには、どーして戦争なんかしたんだ、ご先祖さんの馬鹿ーっ、としか言いようがないんだもん。 突然、リンさんが声をあげて笑った。 ……へっっ!? 「……あのぉ……」 「同じことを言うんですね」 「はぁ?」 「昔、同じことを私に言った人がいるんです。それを思い出しました」 わぁ、リンさんの笑った顔って見たの、初めてだなぁ。 「それって、ナル?」 「まさか。ナルに言ったら、一言でしたよ。『けっこう馬鹿だな』って」 ナルなら、さもありなん。 「まどかに言ったら、泣かれて困りました」 ……ああ、なんとなくわかるなぁ。 「――そうですね、私はあなたが嫌いではありません。べつに、日本人の全部が嫌いなわけでもありません。ただ、生理的な反発というものは、なかなか消えないものです」 「……うん」 「国同士の問題を個人の間に持ちこむのは、馬鹿げたことだと私も思います。おとなげないもの言いをしたとも思います。それでもどうにもならない問題があるのだということを、あなたは学ぶべきです」 「……よく考えてみる」 リンさんは軽く微笑《わら》った。 「無礼な発言をしました。申しわけありません」 「……ううん。こっちこそ、ごめんね」 なんに謝《あやま》ってるのか、自分でもよくわかんないけど。 世の中には難しい問題がいっぱいある。そういうことだなぁ。
4
全員が食事を済ませたあと、あたしたちはベースでミーティングをした。リンさんが今日計測したデータをまとめて平面図を出す。建物の外周はほぼ合った。だけど。 「まだ空白があるな」 ナルは画面の青い空白を指さす。大・小あわせて十八か所。小さいものは畳一枚ていど、大きいものは数部屋ぶん。 「小さいものはともかく、この大きいやつが気になるな」 その大きな空白は家の中心部にあった。凹凸したL字形で、はっきりした大きさはわからないけど、まわりの部屋と対比すると明らかに数部屋ぶんはあるように見える。 ナルは二階部分の平面図を手に取って見比べる。 「二階は正確な測量がまだだから、なんとも言えないが……どうやら二階にもこの部分があるようだな」 あたしは今日測量に使った平面図をひっぱり出した。たしかに、二階にも同じくらいの位置に大きな空白がある。一階の部分に比べると、半分ていどの大きさだったけど。ふと思いついて三階の平面図と見比べてみる。三階は建物の一部にしかない。ちょうど空白の上にあたる部分にかかっていて、空白は三階にまでとどいていないことがわかった。 「……隠し部屋じゃねぇのか? じゃないと大きすぎるぜ」 ぼーさんが言う。 たしかに、その空白は増築のつごうでできてしまったと考えるには、あまりに大きすぎた。問題はどこから入るのか……。 「三階があやしかないか? 二階にも入り口があったことだし、上から入る可能性はあると思うぜ」 安原《やすはら》さんは、 「でも、この空白のまわりって妙に変な部屋が多くて、他の場所以上に入り組んでませんか? むしろまわりのほうが怪《あや》しいと思うけどな」 そんなことを言いながら、ああでもないこうでもないと図面を見比べている時だった。 コツン。 思わずメンバーの大多数が腰を浮かせた。あわてて音の出所を探すと、庭に面した窓だった。窓ガラスに人の顔が映っていて、思わずビビってしまう。窓の外に人がいて、その人がガラスを叩いているんだとわかるまでは、けっこう怖《こわ》かった。 ナルが立ち上がる。 「まどか」 げげ。森さんかぁ。 窓を開けると、そこから森さんが部屋に入ってくる。けっこう元気な人だなぁ。 「どうしたんだ?」 「うん。調査結果を知らせようと思って。寒かった……」 「どうやって来たんだ?」 「近くまでレンタカーで。そっから歩いて来たの。外寒いわよ」 だろうな。標高高いから。 ナルの差し出した上着を着こんで、森さんはイスに座る。寒そうに手をこすり合わせるのが、リスかなんかみたいでかわいらしい。 「……そんな危険なことを。なにかあったらどうするんだ?」 「あら、ナルが助けに来てくれるでしょ?」 うーむ。あいかわらず、この人は強いな。 「……で?」 苦々《にがにが》しい表情のナル。森さんはセーターの下から大きなノートを取り出した。 「ええと、まず今朝《けさ》電話があった鈴木さんのことね」 ほう、連絡していたのか。 「この下の道路ってバスが時々通るだけなのね。それで、バス会社とタクシー会社に問い合わせてみたわけ。この家を出たんだったら、どっちかを使ったと思うのね。ヒッチ・ハイクって手もないではないけど」 そう言いながらノートを開く。 「問い合わせた結果、そういう人物を乗せたり、見かけた運転手はいないみたい。やっぱり、この家から出てないんじゃないかな」 ……ふむふむ。 「この件についてわかるのはそこまでね。 それから、この家で消えたふたりの人間についてだけど」 ……ほぉぉ。調べてもらっていたのか。 「最初に消えたのが松沼英樹《まつぬまひでき》、十八歳、無職。二月十三日のことね。彼は友人七名、計八名と夜ここに来て消息を絶《た》ったの。彼らはよくここに来ていたんだけど、夜に来たのはこの日が始めて。肝試《きもだめ》しのつもりで家を探検して、部屋のひとつで宴会をしていると、まるでトイレにでも行くような感じで部屋を出ていって、それきり戻らなかったんですって」 森さんはノートをめくっていく。 「失踪届が出されたのがその一週間後ね。事情を聞いた警察が付近の若い者を集めてここへ捜索に来たの。手分けをして家の周囲と中を捜したんだけど、松沼君は見つからず、それどころか、帰ろうとして人数を数えるとひとり足《た》りない。消えたのは吉川雅也《よしかわまさや》、二十一歳、農業。あわてて、家の中を捜索したんだけど見つからなくて、おまけに家の廊下《ろうか》を人魂《ひとだま》が通るのを数人が見たと騒ぎ出したんで、捜索を諦《あきら》めて帰ったの」 そう言って、森さんはポケットからマイクロ・カセットをいくつか出して、テーブルの上にパラパラ落とした。 「これが証言の録音ね。もっとも、ほとんど手がかりにはならないみたい」 「……なるほど」 「それから――」 と、森さんは両肘《ひじ》をついてノートを見つめる。 「持ち主について。この家を建《た》てたのは美山鉦幸《みやまかねゆき》。美山家は代々諏訪《すわ》の富豪ね。鉦幸は長男、十六で家をついで美山家の当主になったの。その頃の収入はほとんどは小作料。ここはもともと美山家の山荘があった場所らしいわ。十八の時ヨーロッパに外遊に行って、戻ってきたのが二十のとき。帰ってきてすぐ、ここにあった山荘に洋風のコテージを建てたようなの。一八七七年のことね」 森さんはページをめくる。 「それ以来、一九一〇年に腎臓《じんぞう》を患《わずら》って亡くなるまで、ここに住んでいたようよ。どちらかというと人づきあいは苦手《にがて》で、何度か外遊に出た他はここにこもりきりだったとか。市内の邸宅には妻子を住ませて自分はほとんど戻らなかったし、慈善事業には手を尽くしていたけど、だからと言って社交家ではなかったみたい」 これはけっこう意外なことだった。あたしはなんとなく鉦幸氏というのは、人あたりのいい好人物だと思っていたん。うんとシャイな人だったのかしらん? 「女史」 一息ついた森さんに、ぼーさんが声をかけた。 「女史はやめてよぉ。わたし、そんなに堅《かた》くありません」 「ではお嬢さん」 「はぁい(ハート)」 「美山氏は『美山慈善病院』ってのを持ってなかったか?」 森さんはノートをめくってメモを探す。 「あるわ。美山慈善病院。市街地のはずれにあった、けっこう大きな病院ね」 「そこに、付属の保護施設は?」 森さんはちょっと眼を丸くした。 「あります。よくご存じね。患者の家族や入院するほどでない療養者、病気は完治《かんち》したものの日常生活に不自由がある者、そういう人たちを収容したかなり大きな施設よ」 そう言って、ちょっと難しい顔をした。 「相当数の介助者がいてね。すごくサービスのいいところだったみたい。施設に入るのは無料でね。食費も無料。収入がない人には生活必需品の支給まであったらしいの。その施設にいれば、衣食住の心配はいらないってわけね」 おお、なんと親切な。 「働ける人は病院の掃除や、敷地内の整備なんかを手伝ってたらしいわ。美山氏が財産の大半をなくしたのは恐慌のせいなんだけど、それ以前にも、これで相当の額の財産を食いつぶしていたみたいね」 あのコートはそこにいた人のものだったんだ。おそらく、支給されたコート。だけど、そのコートがなんであんなところに? そして、文字が書かれた紙幣。支給されたコートを着ていたくらいなんだもの、けっして豊かな人ではなかったはず。なのにお札に文字を書いていたのはなぜなんだろう? 「他にも養老院や孤児院、結核《けっかく》療養患者のサナトリウムなんかがあったようよ。結局、明治四十一年あたりから次々に事業を手放して、鉦幸が死ぬ頃には農地と山林以外はほとんど残らなかったんですって」 ふうむ、あるとすれば慈善貧乏《びんぼう》というやつだろうな。なんと奇特な。 「この鉦幸氏の長男が宏幸《ひろゆき》。宏幸のほうは奇妙な改築をのぞけば、わりに普通の経歴の持ち主ね。詳《くわ》しい経歴がわかったんで、鉦幸の経歴と一緒にここにおいとく」 森さんはノートの間にはさんだメモをナルにさしだした。 「明日はこの親子のひととなりについて、もう少し掘り下げてみたいと思います」 そう学校の先生みたいな口調で言うと、ナルが明らかに不快そうな顔をした。 「まどか、ここは危険だ。電話でいいから、近づくんじゃない」 森さんは首をかしげる。 「だって、直接会ったほうがいいじゃない?」 「とにかく、ここには来るんじゃない」 厳しい口調で言われて、森さんはうなずいた。 「はい、はい」 なんだか子供をあやすみたいな口調だった。
かえる森さんをリンが車で送っていった。奇妙な慈善家について話をしているうちにリンさんが窓から帰ってきて、あたしたちはさらに細かい打ち合わせをした。ミーティングが終わって部屋に引き上げたのは十一時。――そしてその夜、厚木秀雄《あつぎひでお》さんが消えた。
5
突然叩き起こされて、時計を見るとまだ夜中の三時半だった。 「厚木君を知りませんか」 聖《ひじり》さんの顔は強《こわ》ばっていた。 「……厚木さんって」 誰だったろう。 「うちの助手です。霊媒の」 あたしは首を傾《かし》げながら綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》を振り返った。ふたりはベッドの上に身を起こしたまま首を傾げる。 「除霊をしていて、ちょっと眼を離したスキにいなくなったんです。見かけていませんか。姿が見えなくなってもう二時間になるんです」 二時間も。 「ちょっと待ってください」 あたしはパジャマの上にカーディガンを羽織《はお》って、部屋を飛び出した。 「ベースに行きましょう」
聖さんを連《つ》れてペースへ行く。ベースにはナルとリンさんがすでに起きて集まっていた。 「ナル……厚木さんが」 「聞いてた。今、ビデオを再生してる」 この時間ならまだ暗視カメラは動いている。カメラのどれかが厚木さんの姿を捕らえてるかもしれない。 「ナル。ありました」 モニターは四号カメラのものだった。あたしはテーブルの上に山積みになったメモの中から、平面図の写しを引っ張り出す。四号カメラの位置を確認した。 「場所は?」 「屋敷の西、中央の方」 「位置なら言われなくても知ってるが」 うるさいわねっ。この非常時にっ。 「近くに空白もないし、変な部屋が連続してるわけでもないよ。図面で見るかぎり、怪《あや》しげな場所じゃないみたい」 四号のモニターに、廊下《ろうか》を遠ざかる厚木さんの姿が映っていた。カメラの置かれた廊下を東へ。そして突き当たりの廊下を北へ。 「あの廊下は行き止まりだよ。枝道はないから」 「よし、行ってみよう。リン、来い。麻衣《まい》はここに残れ。じきにぼーさんたちが来る」 「あいあいさー」
ほとんどナルと入れ違いに、ぼーさんとジョン、安原《やすはら》が起きてきた。 「ナル坊は」 「厚木さんを捜しに行った」 「よし。俺たちも行こう、ジョン」 ジョンに声をかけてぼーさんも出ていく。 「少年、麻衣を頼む」 「鋭意努力します」 「努力だけか?」 「谷山《たにやま》さんが暴走しはじめたら止められる人、いませんからね」 ……なんだと? まったくだ、と笑ってぼーさんは出ていく。それに軽く笑い返した安原所長代理の顔をあたしはねめつけた。 「だれが、暴走するって? だーれが王蟲《オーム》だって?」 「おや、だれかそんなこと言いました?」 「ほう。だれが言ったか、教えてあげようか?」 あたしは思わず拳《こぶし》を振り上げちゃったね。 「いやー、谷山さんって思慮《しりょ》深くておとなしくて、優しくて好きだなー」 「イヤミか。イヤミだな」 「だから、ね? 嘘《うそ》を言われるのっていやでしょう?」 「うん、まあね……ちがーうっ!」 思わず本気で殴《なぐ》ってやろかと思ったとき、綾子と真砂子が起きてきて、四人でじりじりしていると七時前、ナルたちが戻ってきた。厚木さんは見つからなかったと言う。あの廊下は袋小路なのに。 朝食の後ミーティングをして、今度は全員で袋小路を中心に隠《かく》し通路の捜索にあたる。どこかに抜け道があるはずだ。そうでなければ厚木さんが消えた理由がわからない。壁を叩いて、家具がある部屋は全部押しのけて。それでも抜け道は見つからなかった。 昼には申し合わせたように霊能者の全員が食堂に集まった。二十マイナス二名。全員がひどく疲れた顔をしていた。 「まったく、どうなってるんだ、この家は」 井村さんが吐《は》き捨てるように言う。 五十嵐《いがらし》先生は南さんのほうを見やった。 「デイビス博士になんとかしていただくわけにはまいりませんの?」 聖さんがハッと顔を上げる。 「そうだ……博士なら」 南さんは露骨に不快そうな顔をした。 「博士の透視は範囲がかぎられるんです。さっき聞いてみたかぎりでは何も感じないとのことでしてな」 「では、他の方を呼んでください」 五十嵐先生が強く言った。 「他にもお友達がいらっしゃるんでしょう? 誰か助けになる方を呼んでくださればいいじゃないですか」 「そういうことを急に言われましてもね。みんな外国に住んでいるんですから」 「緊急事態ですよ。あなただったらなんとかできるのではございませんの? それとも最初の日に、ゲラーやタウナスの協力を仰《あお》げると言ったのは口からでまかせですか?」 先生の追及は手厳しい。南さんはムッとしたようだ。 「よろしい。とりあえずアポだけは取ってみましょう。でも、全員忙しい方ばかりですからな、あてにしていただいても困りますよ」 「逃げ口上《こうじょう》か?」 言ったのは井村さんだ。 「なんですと?」 「そう言って逃げるつもりなんだろう。呼んだなんて言っても来やしないんだ。呼べるはずがないからな。そもそも知り合いなんかじゃないんだろう?」 「侮辱《ぶじょく》ですな」 じゃあ、と言って聖《ひじり》さんが立ち上がった。 「アポを取ってくださいよ、南さん。電話番号を教えてくだされば、私が電話をしてもいいですよ?」 そう言ってからニッと笑う。 「それがいい。私が電話します。電話番号を教えてください。失踪したのはうちの霊媒ですからな、私からお願いするのが礼儀ってものでしょう」 「他人に電話番号ほ教えるわけにはまいりません」 「では、あなたが電話をかけて、私に代わってください。私から一言お願いをするのがスジですから」 南さんはすごい形相《ぎょうそう》で立ち上がった。 「侮辱《ぶじょく》ですな。極めて侮辱です。お疑いになるのなら、けっこう。私としても忙しい友人たちをわずらわせる気にはなれませんし。私自身は、この事件は独力で解決できると思っておりますのでね」 横で困ったように周囲を見まわしていた博士を促《うなが》す。 「行きましょう。私だけならともかく、博士まで侮辱なさるとは。まったく、不愉快極まりない」 そう捨てぜりふを残して、南さんは食堂を出ていった。その後を助手の三人と博士がついていく。 あとには疑惑が残った。南さんに対する強い疑惑。 あの人を信用していいものだろうか?
6
気まずい食事のあと、霊能者たちは厚木《あつぎ》さんの捜索をしつつ除霊をするのだと言って邸内に散っていった。あたしたちはベースに引き上げて。 ぼーさんは頭をかかえた。 「袋小路に入ったのはこっちだよ。どこをどう捜せばいいんだ?」 万策尽きたとはこのことだ。家の中にいるはずなのに、捜す場所がない。 全員で肩を落として考えこんだとき、リンさんが声をかけた。 「ナル」 リンさんは計測したデータを元に、コンピュータで建物の立面図を作っていた。 「どうした?」 「これを見てください」 建物の西側の立面図がモニターに描かれていた。壁の石は白く、窓枠《まどわく》や窓ガラス、よろい戸なんかは青い線で描かれている。リンさんはモニターの脇に一枚のポラロイド写真を並べてかかげた。同じ角度に建物が映っている。細部はともかく、まったく同じものに見えた。 「この部分です」 リンさんは北側に見えてるわずかに張り出した棟を示す。 「あ!」 ぼーさんが声をあげて駆け寄った。 「……高いな」 ナルが静かに言う。 たしかに、写真と立面図は同じものに見えた。――ただし、北側に飛び出した棟の屋根の高さをのぞいては。 写真ではその部分の屋根は、周りの屋根より少しだけ高くなってる。なのに、コンピュータが描いた図面では、屋根の高さはむしろ低い。 「計測ミスか……それとも」 ナルに続けてぼーさんが、 「隠《かく》し部屋!」 「ありうる」 だけど、と安原《やすはら》さんが口をはさんだ。 「そこの部分、確かに屋根裏部屋まで調べましたよ。ホラ、屋根裏部屋の窓の外に狭《せま》いバルコニーがついてるでしょう? 平面図を作ったとき、このバルコニーに足をかけて屋根の上が見えないか、試してみたじゃないですか」 「そういえば、あったな、そんなことが」 そうそう。でもって、その不幸な役を仰《おお》せつかったジョンが、おっこちかけたのよね。 「では、下だ」 ナルがつぶやく。リンさんに平面図を出すように命じた。 モニターの画面が切り替わって、一階の平面図が現れる。問題の部分を拡大した。ナルはそれをじっとながめて、 「北棟のあたりは大きな袋小路になっている。ここと、ここ……合計八か所階段があるな。行き止まりにたどりつくまでに上がりが四か所、下りが四か所。この階段に化《ば》かされたんだ。よく数えてみろ。上がりの階段のほうが段数が多い」 よくよく図面を見ると、確かに上がりの階段のほうが段数が多い。 「おそらくこの部分は三階建てではなく、四階建てなんだ。一階を歩いているつもりで、いつの間にか二階を歩かされている。一階のさらに下に部屋があるんだ」 ひええ。 あたしたちは大あわてで北棟に駆けつけ、そこにある階段の段数と段の高さを正確にはかりなおしてみた。 その結果は。 上がり二十六段、下り十八段。しかも普通の階段に較べ、上がりの階段は一段あたり二センチ高く、下りの階段は二センチ低かった。 つまり、北棟に向かう途中通る八つの階段を上がり下りする間に、あたしたちは約四・五メートルを上がり、二メートルちょっとを下りていたわけ。その差、約二メートルとちょっと。建物じたいが地面から位置メールほど上がったところにあるから、地面から約三メートル程度の空白が北棟の下にあることになるわけ。 「いったい、どうなってるんだ、この家は」 ぼーさんが頭を抱えたのも、無理からぬことと言えよう。
結局、建物全体の階段を計測しなおし、とあいなった。 ウンザリしながらあちこちをはかりなおす。一段ごとに高さが違っている可能性もあるので全部の段をはかったりして。ああ、嫌《いや》になっちゃうぜ。 しかも、はかってみると本当に途中で一段あたりの高さが変わってる階段があったりするからハタ迷惑。 ナルたちは今頃、空白のX階に入る方法を探しているはず。空白のX階、隠し部屋。そして、この家出三人の人間が消えた。なんらかの方法で彼らはそこに閉じこめられているのだとしたら、外に連絡する方法もなくて、ただ助けを待っているのだとしたら。 あたしは眼の前の壁をにらみつけた。 この壁を有無を言わさず破壊していったほうが早いのでは。いまは人の命がかかっているかもしれないんだから。 「麻衣《まい》」 ……ん。 「麻衣っ」 ……なぁに。――はっ! 「はいっ! はいはいっ!」 ぼーさんの呆《あき》れた顔。 「なにをぼーっとしてるんだ。十六・五二センチ」 「ああ、はいはい」 あたしはあわててボードに数値を書きこもうとした。あせるとありがちなことだけど、そのとたんボールペンがすべって手を飛び出してしまった。 「おっと」 ころころころころ。転《ころ》がったボールペンを追いかけてあたしは思わぬジョギングをするはめになった。 「つーかーまーえーたー」 ぜいぜい。やっと拾《ひろ》ったボールペンにガンつけちゃう。 「なにをして遊んでるんだ」 廊下の端からぼーさんが呼ぶ。 「ボールペンに遊ばれたのっ」 あわてて廊下を駆け寄って。 「えーと、何センチだっけ?」 「十六・五二」 「はいはい」 それをボードに書きこもうとして、ふいに安原さんが、 「谷山《たにやま》さん、今、ボールペンを追いかけて行かなかった?」 「そだよ。疲れちゃったよ、もー」 「廊下の端まで?」 「……ご覧になったとおり」 安原さんは廊下をながめ渡した。 「ということは、ひょっとしてこの廊下の床、傾斜してるんじゃない?」 「あ」 ぼーさんとジョンと、仲よく三人でハモっちゃった。 あたしは廊下を振り返る。廊下の長さ、約二〇メートル。この廊下が歩いても感じない程度の坂になっていたとしたら。 「水準測定器があったよな」 と、ぼーさん。 「あった、思います」 と、ジョン。 ベースに駆け戻って、居残りのリンさんに事情を話して水準測定器をもらって。夕暮れせまる家の中を問題の廊下に駆けつけた。 そして計測。 あたしのボールペンを転がした廊下は、なんと五度近い傾斜の坂道になっていた。安原さんの弁によれば、五度の傾斜が二〇メートル続いていれば、それで二メートル程度の高さをかせげると言う。 建物の廊下が全部傾斜していたら? そんな建物を想像することは不可能だったけど、これだけは想像できる。あたしたちは明日、建物じゅうの床に水準測定器を置いてみるわけだ。
7
とりあえず、日没ギリギリまで階段の計測を行った。一段一段丁寧《ていねい》にはかって、ちゃんと表に結果を書きこんで。そしてその過程で、ジョンがそれを見つけたのだった。 それは建物の中央部に近い場所にある、短い階段の途中だった。グネグネと廊下《ろうか》が続いた後にある十段ほどの階段。その階段を昇った正面には部屋がひとつ。そこから廊下はちょっと細くなって左右に分かれている、そんな場所。廊下の幅はわりに広くて、両側の壁《かべ》は白い漆喰《しっくい》。あたしの足の付け根のあたりから胸のあたりまで、十センチ程度のでっぱりが続いていて、そこに綺麗《きれい》な唐草《からくさ》模様のレリーフが施《ほどこ》してあった。その飾りの下。 「ドアがあります」 階段の高さをはかるためにうずくまったジョンが言った。見ると、ジョンがしゃがみこんでいるそのすぐ脇の壁、レリーフの下にドアが半分のぞいていた。 ドアの色は漆喰と同じ白で、レリーフのでっぱりが邪魔になって今まで気づかずにいたんだ。 ドアは階段で半分隠《かく》されていた。それでも、高い位置に小さなドアノブが見える。ジョンがそれをつかんで廻《まわ》した。ドアは内側に向かって難なく開いた。 ハンド・ライトの明かりが、暗い部屋に差しこむ。 そこは三畳程度のごく狭い部屋だった。床にはホコリが堆積《たいせき》し、家具らしいものはなにもない。窓がひとつあったけど光は見えないので、塞《ふさ》がれているのは明らかだった。 ジョンが仲に飛び降りる。ホコリが舞い上がって、軽くセキこんだ。 「なんかあるか……?」 ぼーさんが声をかけたけど、最初にライトで照らしてざっと見たとおり、そこにはホコリより他に何もなかった。いや、 「壁に額がかかってます」 ジョンが示した大きな額をのぞいては。 「それ以外ないか?」 「おまへんです」 ジョンが額をはずして部屋の外に差し出した。あたしそのホコリだらけの額を受け取る。次いでぼーさんと安原《やすはら》さんとで、ジョンを部屋から引っ張り上げた。 あたしはその場で額のホコリを払った。どうやら人物画らしかった。 さらに丁寧にホコリを落とすと、筆使いが凹凸になって残った油絵が現れた。ひとりの男性が描かれていた。痩《や》せた鋭利な顔の、四十くらいの男の人。きちんと髪をなでつけて、黒い着物に同じく黒い羽織を着ている。 「サインがあるな」 ぼーさんが画面の右下角を示す。そこには黄色くのたくった線が書いてあった。線というより線でできた模様だった。なんと書いてあるのかは、読めない。 「……こりゃ、花押だぞ」 「花押?」 「ああ、日本式のサイン。漢字なんかをデザイン的に崩《くず》したやつなんだが……。さすがに読めねぇな、こりゃ」 ぼーさんは額をはずしにかかった。裏返してみる。 「なんか描いてある」 カンバスの縦の枠木に黒くなにかの文字が書いてあった。 『明治参拾弐年 参月 自書像 浦戸《うらど》』 きちょうめんな楷書《かいしょ》の毛筆で、そうあった。 「明治三十二年 三月、自画像、浦戸、か」 ぼーさんは表のサインをしげしげ見る。 「なるほどこいつぁ、『浦』と書いてあるらしいな」 その花押は「浦」の文字をデザインしているのだ、と言う。 安原さんが首をひねった。 「変わってますね。普通サインっていうと、名前のほうじゃありません? 『俊樹』とか。これ、名字でしょ?」 「そうだな……」 浦戸さんの自画像かぁ。しかし、浦戸さんって誰なんだろう? 同じことを安原さんも考えたのか、 「自画像を飾るくらいなんだから、この浦戸って人、美山《みやま》氏と親しかったんでしょうね」 「それか、よほど有名な画家だったか」 んー、でも浦戸なんて聞いたことないなぁ。 「これは大橋市に聞いたほうがよさそうだな」 そう言って、ぼーさんは絵を額に戻す。それからジョンの肩を叩いた。 「さ、ジョン。この部屋の計測しようか」 ……お疲れさん。 ふたりは狭《せま》い部屋にメジャーを抱えてもぐりこんで、床の大きさと方向。そして傾斜、階段から床がどれらい下がっているのかを計測しはじめた。 あたしはその間、もう一度絵をながめた。「浦戸」氏はなんだか冷たい人物のように見えた。そげた頬《ほお》、落ちくぼんだ眼、真一文字に結ばれた口、細い鼻筋、そんなものがそう思わせるのかもしれない。 ベースに戻ると、すでに陽は落ちてて、ナルにえらくどやされた。日暮れまでに戻れと言っただろう、と言って。なんだよー、あたしたちは一生懸命《いっしょうけんめい》働いていたのにー。本当にやかましいんだから。 こっそり綾子《あやこ》に聞いたら、X階への入り口は見つからなかったらしい。さてはそれで機嫌《きげん》が悪いな。まったくもー、わがままなんだから。 それでもまたまたジョンが見つけてしまった隠し部屋の話をして、問題の額を見せるとナルの態度がいささか変化する。 「明治三十二年、三月、自画像、浦戸」 口の中でくりかえす。 「サイン……浦」 ハッとナルは顔をあげた。テーブルの上を探って、封筒をひっぱり出す。中から紙幣を取り出した。 「どしたの?」 「『浦』だ」 ナルは紙幣を電灯に透《す》かした。 ……あ。たしか紙幣に書かれた文字の中に『浦』という文字があったような。 ナルはあたしに紙幣をさしだした。あたしはそれを電灯に透かしてみる。ぼーさんが頭を寄せてきた。 シミ同士が重なった間にペンかなにかで書いた文字。真ん中のあたりに『浦』という字が見える。その隣によくよく見ると……。 「『戸』じゃねぇのか、横」 「ホントだ。これ、『戸』だよ」 ……浦戸。 なるほど、とぼーさんはテーブルの上から封筒を取り上げた。そこには昨日読めた文字が書いてある。 『よ げ く 聞 た さ に 浦 る 居 死 皆 は 来 処』 ぼーさんが、その文字の『浦』のとなりに『戸』と書きこんだ。 『よ げ く 聞 た さ に 浦 る 居 死 皆 は 来 処』 「なんて書いてあるんだろうな……。『聞 た さ に』……これは『聞たさに』か? 『浦戸』『死』『皆 は 来 処』……『皆は来た処』……?」 「なにがなにやら」 「だな」 あたしとぼーさんはため息をついた。 「なんか手がかりが見つかると思ったんだけどなぁ」 そのとき、安原さんが、 「ちょっと、待ってください。これ、ちがいますよ。『戸』は左です」 「へ?」 安原さんは封筒を引き寄せ、ぼーさんの文字を消して、 『よ げ く 聞 た さ に 戸浦 る 居 死 皆 は 来 処』 そう書き直した。 「戸浦ぁ?」 だれもが首をかしげている。 「わかった!」 安原さんは指を鳴らした。 「これは、右から左に読むんですよ」 ……え? ぼーさんも、 「そうか。書かれた時代から考えて、そのほうが自然なんだ」 安原さんがメモ用紙に、文字を書き直す。 『処 来 は 皆 死 居 る 浦戸 に さ た 聞 く げ よ』 何度も紙幣を透かして見ながら、 「これとこれはつながってる……この間には一文字ある……」 つぶやきながら、さらにその下にもう一度清書を始めた。 『・処・来・・は皆死・・居る 浦戸に・さ・た・・聞く ・げよ』 「どうです?」 安原さんがさしだした紙が全員の間にまわった。 うう、これでもなにがなにやらわからないよぉ。 「最初の一文は読めそうなんだけどなぁ」 安原さんがぼやくと、ぼーさんがかたい声を出した。 「読めると思う」 え? 「『此処に来た ……は皆死んで居る』じゃないのか?」 「あ!」 「ここに来た者は、かもしれん。ここの間が二文字か三文字か、よくわからねぇけどさ」 ここに来た者はみな死んでいる……。 「じゃ、最後の一文は簡単よね」 綾子が苦々《にがにが》しげに言った。 「これはだれかにあてたメッセージなんだわ。『ここに来た者はみな死んでいる。……逃げよ』……」
8
警告。メッセージ。だれがだれにあてた? 少なくともあのコートの持ち主が、だれかにあてたものにはちがいない。反対に、受け取ったものかもしれないけれど。 全員が考えこんだとき、小さな音で窓が叩かれた。 誰もがハッと窓を振り返ると、そこに森さんが立っていた。 「まどか! ……あれほど、危険だから近づくなと」 窓を開けながら、ナルの声は冷たい。 森さんが手をあげた。 「ストップ。とりあえず、中に入れて?」 ナルはめいっぱい不快そうな顔で森さんを引き上げる。トン、と中に入って来た森さんは、こんばんは、なんか言って笑った。 「まどか。来るなと言ったはずだ」 「あら、もちろん危険はないから来たのよ。わたし、ナルほどお馬鹿《ばか》じゃありません」 ……お馬鹿。ナルに向かって。勇気あるなぁ。 イスに座った森さんは、コンビニの袋の中から缶コーヒーを引っ張り出して、あたしたちに配《くば》ってくれた。 「……それで?」 ナルが冷えきった眼で見おろすと、コーヒーのリンク・プルをカリカリやってた森さんは、缶をナルに突きつけた。 「開けて(ハート)」 苦虫《にがむし》をかみつぶしたような顔でナルが缶を開ける。それを森さんに突き返して、 「どうして危険がないんだ?」 森さんは全然悪びれたとろこがない。 「ここ、子供の遊び場なのよ」 「……なんだって?」 「だから、この家の前庭って芝《しば》が生《は》えてて広いでしょ? 子供が遊びに来るらしいのよね」 と、ニッコリ。 「近くの子供が野球やサッカーの練習にちょうどいいって、よく使っていたらしいの。さすがに二月、失踪事件があってからはやめてるみたいだけどね。もちろん、行方不明になった子なんていないの。だから、庭まではそんなに危険じゃないのよ」 そう言ってから森さんは肩をすくめる。 「もっとも子供たちは、家の中には入らないことにしてたみたいだけど。幽霊屋敷だって有名だから。中には面白《おもしろ》がった子たちがちょっと潜《もぐ》りこむなんてことがあったらしいけど、全員家の奥までは行ってないの。せいぜい窓ぎわの部屋を歩きまわって、それで終わりだったみたい」 どうだ、というふうに森さんはナルの顔をのぞきこんだ。 「だから、危険なのはこの家なの。家の外はだいじょうぶなのよ」 「それは昼間の話だろう?」 「あら、ゴースト・ハントに多少の危険はつきものよ。いわくつきの家に泊《と》まりこむほど危険なことはしてないもん」 ……そのとおりです。 「……それで?」 「それで?」 「まさか、僕らの顔を見に来たわけじゃないんだろう?」 「あ、そうそう」 森さんは手を叩いた。セーターの下からノートを引っ張り出して、 「ええと、厚木《あつぎ》さんも、このあたりでは目撃されてないわね。バスもタクシーも使ってない、と」 言いながらページをめくる。 「でもって、美山《みやま》親子のことなんだけど。まず、鉦幸《かねゆき》氏ね」 ナルの冷たい視線なんか、気にしてるようすもない。 「彼はすごく潔癖《けっぺき》な人だったみたいよ。と言うのが、昔製糸工場で不正事件があったらしいのね。職員の誰かが工員の給料をごまかしたとかなんとか。でね、その工員は有無を言わさずクビ。その長男がこれまた工場にいて、これもクビ。三男だかが病院の職員で、これもクビ。おまけに彼らが住んでた家というのが鉦幸氏の持ち家でね、家からも叩き出したって。――そのうえ」 「まだあるのか?」 ぼーさんがアングリした。森さんはコックリうなずいた。 「あるの。娘がお嫁《よめ》にいってて、その夫婦が住んでた家も鉦幸氏の貸家だったのね。この夫婦も追い出して。犯人の親がこれまた鉦幸氏の持ってる土地の小作人で。この親たちも追い出された、と」 「ひでぇ……」 「でしょ? 語り草になってるみたいよ」 そう言って、森さんはさらにページをめくる。 「それから、鉦幸氏は本当に人づきあいが悪かったらしいのね。まったくこの山荘に人を近寄らせなかったらしいの。急用なんかあっても連絡ができなかったらしいのね。鉦幸氏のほうから連絡してくるまで、まったくどうしようもなかったようなの」 おや、どっかの所長みたい。 「でね、この山荘っていうのは、当時から猟師《りょうし》でさえ避《さ》けて通るのが決まりだったんですって。それで、近づく人がいなかったそうなのよ」 ……へぇ? 「女中なんかもいたらしいんだけど、これは諏訪《すわ》ではなく別の地方から雇《やと》って来ていたらしいって。ただ、人を寄せつけないことから、この山荘ではなにか怪《あや》しいことが行われていたんじゃないかと、そう言われていたそうよ」 「怪しいこと?」 ナルに聞かれて森さんはうなずく。 「どういうことかはよくわからないんだけど。――まぁ、鉦幸氏を覚えてる人はほとんどいないんで、そんなものかな。息子の宏幸《ひろゆき》氏もけっこう変わり者で有名だったんですって。なにしろ住みもしない家を延々改築した人ですもんね。その改築について、宏幸氏は気になることを言ってるのよね」 「気になること?」 「うん。彼は人に改築の理由を聞かれて、幽霊が出るから出ないようにするんだ、ってそう言ってたらしいの」 ……幽霊が出るから出ないようにする……。 「わかったことは以上」 パタンとノートを閉じて、森さんは困ったように首を傾ける。 「なにしろ昔の話なんで、覚えてる人のほうが少ないのよ。年代のわりにはこれでもよく調べられたほうじゃないかと、我ながら思うわよ」 ナルは無言。お疲れさん、くらい言ってあげればいいのに。 ぼーさんが口をはさんだ。 「お嬢さん、鉦幸氏の交友関係はわかるかな?」 「ちょっとそこまでは……。ほとんど友人というのはいなかったと聞いたけど」 「おそらく、浦戸という人間がいるはずなんだ」 ぼーさんは部屋の隅に立てかけておいた額を持ち上げた。 「この絵の人物。裏にある制作年かん考えて、鉦幸氏の知人だと……」 言葉は最後までいえなかった。森さんはその絵を見てあっさりと、 「あら、それが鉦幸氏よ」 そう言った。
「鉦幸のペンネームが浦戸だったのか」 ぼーんさは、森さんが残していった写真のコピーをしげしげとながめた。 『美山製糸工場』と書かれた看板を門柱にかかげた、工場の前に立つ人物の写真だった。どこからどう見ても、自画像のモデルは鉦幸氏に間違いない。 「慈善家だったけど、変人だったんだな、このおっさんは」 「だよねぇ」 ナルはちょっと厳しい顔をする。 「変人ですまされるかな。『ここに来た者はみな死んでいる』か。ここ、というのは当然この山荘なんだろう。ここでなにがあったのか……。『浦戸・・さ・た・・聞く』――これらの意味がわかればな」 なんだかその声の調子が、妙に不安な気分にさせた。 「ひとつだけわかることがありますわ」 真砂子《まさこ》が言った。 「なに……?」 あたしが聞くと、 「あら、もうお忘れになりましたのは? 降霊会で霊が言った言葉ですわ」 ……あ。 「『助けて』『死にたくない』――きっとあれはここに来て死んだ人たちの霊なんですわ」 真砂子の言葉はさらにあたしを不安な気分にさせた。 不安を抱いたまま、その夜は部屋に引き上げて。 ――そしてあたしは夢を見た。
9
自分でもなんで眼が覚めたのかわからなかった。 夜中にふと眼を覚《さ》まして、おや、と思うといきなり手足が硬直して動かない。ナルに言わせるとある種の金縛《かなしば》りは心霊現象ではなく生理的な現象なんだって。頭は起きてるけど身体《からだ》が起きてない。身体の神経と脳の神経がうまくつながってない、そういう状態。身体がうんと疲れててそのくせ精神が興奮してるような、そういう時に起こる。 それであたしは金縛りだぁ、と思ってもひどく落ち着いていた。さりげなくあたりを見まわして、綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》が寝てるのを確認する。確認して、これはヤバい、と思った。あたまが動く。寝ぼけて起こった金縛りは、まるで身体が動かないのがふつうだから。 急速に背中が冷えた。綾子と真砂子を呼ぼうとした。むろん、声は出ない。せめてかすれた悲鳴だけでも、そう思ったけど息でさえうまくできない。どっと冷や汗が出て、頭がグラグラする。心の中で落ち着け、落ち着けと言い聞かせて、あたしは真言《しんごん》を唱《とな》えた。 ナウマクサンマンダバザラダンカン、ナウマクサンマンダバザラダンカン……。 突然ふっと身体が軽くなって。やれやれと力を抜いたとたんに、微《かす》かな音をたててドアが開いた。 まだ身体は思うように動かない。頭だけを動かしてドアのほうを見ると、黒い人影が部屋に入ってくるのが見えた。 とっさにちょっとホッとした。それはまちがいなく人間のシルエットに見えたから。人影はふたつ。そのふたりは静かにあたしのほうへ近づいてくる。 だれ。そう言おうとして、あたしは寝る前ドアに鍵《かぎ》をかけたのを思い出した。ナルが用心しろとくどいほど言うので、しっかり鍵をかけたはず。 ……どうしてドアが開いたの? 人影があたしの両脇に立った。暗がりの中、微《かす》かに顔が見える。男。ふたりとも全く知らない人間に見えた。とっさに浮かんだのは強盗か痴漢《ちかん》だろうかという思考で。必死で綾子と真砂子を心の中で呼んでるうちに、その男があたしの腕を取った。 「なにすんのよっ!」 心の中で悲鳴をあげたけど、声はでない。両手を引っ張られてあたしは起き上がった。身体が動く。まったくあたしの思いどおりにはならないけれど。抵抗したのに、できない。指の一本でさえ思うように動かない。なのに自分の身体が相手のなすがままに動く。 あたしは手を引っ張られるまま立ち上がった。男たちに両腕を抱えられて歩く。内心パニックをおこしながら、部屋から引き出されていった。 部屋の外は真っ暗だった。廊下《ろうか》には明かりがついていたはずなのに。その、真っ暗で右も左もわからない廊下を連《つ》れて行かれる。えんえんと歩いて、男の人がドアを開けた。 どこの部屋だかはわからない。それはけっこう広い部屋で、光源は何なのか、わりに明るかった。まるで満月の下のような奇妙な明るさ。部屋の中には家具がきちんとそろっている。いかにも高そうな家具で、たしかにそこに人が住んでる気配があった。正面には暖炉《だんろ》。そこには火が入っている。暖炉の前の小さなテーブルには背の高いグラスが載《の》っている。それでも部屋の中に人影はなかった。 男たちはあたしを引きずって部屋の中を歩く。黙《だま》って右にあるクローゼットに連れて行った。そのクローゼットを開けると、そこは廊下だった。細い暗い廊下がずっと向こうまで続いている。その細さが暗さがなんだかとても気味悪くて、あたしは必死で腕を解《と》こうとしたけど、もちろん、声さえ出ない。 腕を使えまられて歩いて行くと、その廊下はいつの間にか両側を生《い》け垣《がき》にはさまれた細い砂利《じゃり》道に変わっていた。 ざかざか砂利を踏《ふ》みながら、あたしは両側の男を見上げる。明るいのに顔は見えない。いや、確かに顔は見えているんだけど、どんな顔をしているのか理解できない。 ……夢なんだ、これ。 そう、夢でなきゃ、こんなこと起こるはずがない。 あたしは両側の生け垣を見上げた。ずいぶん高い生け垣が、あたしの頭上のはるか上を延々と続いている。 これが夢ならちゃんと情報収集しなきゃ。そんなふうに決心するのって、なんだか妙な気がしたけど。 生け垣を曲《ま》がりくねって歩いていくと、道はいつの間にか細い廊下に戻っていた。微かに血の臭いがした。それだけじゃない。なにかが腐《くさ》った臭いもする。 廊下の突き当たりにはドアがあった。あたしは心の中でしりごみする。そこに入りたくない。なんだか嫌《いや》な臭いがする。そのドアの向こうから漂《ただ》ってくる気がする。 男たちがドアを開けた。そこにも広い部屋があった。 その部屋はホールになっているようだった。ガランとした室内に階段がひとつとドアがいくつか。ムッとするほど強い血の臭いがする。あたしは階段を上らされて、さらに三つほどのドアの前を行き過ぎ、いちばん奥の部屋に連れて行かれた。 その部屋はお風呂か何かのように見えた。白い陶器製のタイルを張った小さな部屋。その板張りの床の上で腕を解かれて、いきなり服を脱《ぬ》がされ始めた。 (やめてよ!) 心の中で叫んで、あたしは自分が着ているものが、いつの間にか着物になっているのに気づいた。紺色の着物。そうか、夢なんだ、これ。 そう思っても、他人に着ているものを脱がされるのはいい気分とは決して言えない。裸《はだか》にされてさらに奥の部屋に連れて行かれた。 その奥は十二畳はあろうかという部屋だった。白いタイル張りなのは小部屋と同じ。部屋の中央、壁よりに同じく白いバスタブがおいてあった。外国映画に出てくるような、床の上に置いたアンティークなバスタブ。 そして、その床の上に流れた赤いもの。 猛烈な血の臭いと激しい腐臭《ふしゅう》で、あたしは胸が詰まった。吐《は》きそうになるのをこらえる。足が生暖《なまあたた》かい流れを踏む。べたべたと粘度《ねんど》が強くて踏むたびに背筋がゾワゾワした。その広い部屋は一面が赤く染まっていた。かろうじてまだ白いタイルの上を踏むと、そこには赤い足跡が残った。よく見ると血溜《ちだ》りの中に白っぽいブヨブヨしたものが散っている。それはごく小さな肉片のように見えた。 (……いやだ) 夢だと思っても、気味が悪くて吐きそうだった。バスタブをのそぎこむと、そこには赤いものが少しだけ溜《た》まっている。赤い滴《しずく》が流れ落ちたあとが、白いすべすべした陶器の表面に縞模様《しまもよう》を描いていた。 (こんな夢、やだ) 男たちはあたしを部屋の置くへ連れて行く。そこには小さなベッドがあった。病院にでもありそうな、白いパイプのベッド。マットがあるはずの部分には白いタイルが張ってあって、パイプもタイルも真っ赤なものでドロドロになっていた。 「……いや」 声が出た。あたしは腕を引っ張られたまましりごみをした。 あんなところには寝たくない。ベッドの真下にある大きなタライは何なの。ベッドの足もとにある深いバケツのような桶《おけ》はなに? どうしてタイルが張ってあるの。どうしてベッドの枠《わく》に紐《ひも》がついてるの。どうしてあんなに汚れてるの!? 男たちが激しい力であたしをベッドの上に引きずり上げようとした。あたしはそれに悲鳴を上げて抵抗する。つかんだ腕を引っかいてかみついて、それでも猛烈な力でタイルの上にひっぱり上げられた。タイルの上に引きずり上げられたとたん、背中にずるっとした官職。生暖かい血の気味悪いなめらかさと、なにかやわらかなかけらを――まるで肉片のようななにかを――押しつぶしたおぞけのするような感覚。 「いやっ!」 逃げようとして身動きをすると、身体じゅうに血がからみつく。全身が血で濡《ぬ》れて、息がつまるほどの悪臭がまとわりついた。 ベッドの向きとは逆に、足もとの方に頭を向けて寝かされた。骨も関節もギシギシいうほどの力で押さえこまれる。 「いやっ! はなしてっ!!」 (夢だ……) 腕を抜けるほど引っ張られて、手首がパイプにくくりつけられる。 (こんなの、夢なんだから) 足がくくりつけられる。 「いや! 助けて!!」 胸の上に太い紐《ひも》が渡されて、上半身を押さえこまれた。がくっと喉《のど》が仰《の》け反《ぞ》ってベッドの外に首を垂《た》らした格好になる。 やだ。こんな姿勢は怖《こわ》い。必死で身動きしても身体が動かない。男たちが離れて行った。ベッドにくくりつけられて、頭を仰け反らせた格好のままあたしはその場に放置される。身体じゅうにからみついた血が、重力にしたがってすべり落ちていくのがわかった。 落ち着いて。これは夢なんだから。これは、絶対に夢なんだから。だって、こんなことあるはずがない。もうじき目が覚める。きっと目が覚めて、ああ夢だったんだ、って思う。 そうは思っても歯の根が合わないほど震《ふる》えた。ぎゅっと閉じてた眼を開けて、あたしはポカンとした。 ――白い光。 その、大きな包丁のようなものはなに? それでなにをするの? あたしをどうしようって言うの? (助けて) 男のひとりがあたしの脇に立ち、もうひとりが顔の脇に立った。顔の側に立った男があたしの髪をつかんだ。グッと下に引っ張ってあたしは首筋が痙攣《けいれん》するほど喉を反らせる。 (いや) もう声が出ない。あたしは自分に言い聞かせる。これは夢だ。だから、だいじょうぶ。これ以上怖いことは起こらない。きっとだいじょうぶ。 眼を閉じることも身動きすることもできなかった。ただガタガタ震《ふる》えながら、ただボンヤリと眼に映るものを見ていた。 (助けて) 白いタイル。赤いものが天井の近くまで飛んでいる。そのシミの形。 ふいに男があたしの髪を放した。男がちょっと身体を引く。 ほら、だいじょうぶ。やっぱり、怖いことなんて起こらないじゃない。だって、これは夢なんだから。 男が屈《かが》みこんで桶の位置を調整する気配がした。手に持った刃物がキラキラと視野を横切る。 あたし、もう目を覚ましたい。こんなところにこれ以上いるのは嫌《いや》だ。 男が見を起こした。 だいじょうぶ、これ以上怖いことは起こらない。こいつは離れて行ってしまう。きっと。 男の腕が伸びて、あたしの髪をつかんだ。首が折れるほどの力で大きく喉を反らす格好にされる。――もう一度。 (いや) 視界を白い光が横切った。 (死にたくない) 男が身を乗り出した。 (助けて) 反らした喉に冷たい指が当たる。 (あたし、死にたくない) 男の腕が上がって、凍《こお》るほど冷たいものが喉に当たった。細い鋭利なもの。 きっとこのまま男は動かない。このまま離れて行く。そうでなければ時間が止まるはず。助けが来るはず。目が覚めるはず。きっと。 怖い。見ていたくない。眼を閉じたいのにそれができない。あたしは硬直したまま壁のタイルを見ていた。 男の腕が動いた。 どうして目が覚めないの!! お願い、起きて!! 細い冷たい感触が喉をすべった。引っかいたほどのチリチリする痛みが走る。 どっと暖かいものが喉から溢《あふ》れて首を伝った。視野が真っ赤に染まる。やっと首を切り落とされたような激痛が来て、あたしは全身全霊で悲鳴をあげた。 助けて! あたし、殺されたくない!!
四章 手の鳴るほうへ
1
「麻衣《まい》っ!!」 激しい声がして、頬《ほお》をぶたれた。 「麻衣っ!?」 綾子《あやこ》の声だ。パッと眼を開けた。涙で潤《うる》んだ視野に綾子の顔が飛びこんできた。 そのとたん、あたしは悲鳴をあげていた。身体《からだ》の奥から悲鳴をあげる。喉《のど》でしゃがれてうまく声にならなかったけど、とにかく叫んだ。自分の内側に溜《た》まった怖《こわ》いのが全部外に出てしまうまで。 「麻衣! しっかりしてっ! 麻衣っ!!」 身体が痙攣《けいれん》したみたいに震《ふる》えた。必死で綾子にしがみついた。綾子のあったかい手があたしの背中を一生懸命撫《な》でる。 「しっかりして。夢だから、だいじょうぶだからね」 ほら、と、うながされて顔を上げると、目の前にコップがさしだされていた。 「お水……飲めます?」 真砂子《まさこ》のひどく心配そうな顔。あたしはやっと落ち着いて、そのコップを受け取った。手がひどく震《ふる》えて、コップの中身をほとんどこぼしてしまいそうだった。 「……うん。ごめん」 声が震えていた。涙がぱたぱた落ちた。 「どうしたの、いったい」 「怖い夢、見たの」 本当に、怖かった……。 「夢って……」 綾子が聞いてきたとき、激しい勢いでドアがノックされた。
「いま、悲鳴をあげなかったか!?」 まっさきに部屋の中にとびこんで来たのは、ぼーさんたちだった。 「……ごめん。あたしがうなされたの」 「……うなされたって……お前……」 青い顔をしたぼーさんがベッドの脇に膝《ひざ》をついた。安原《やすはら》さんもジョンも大きく息を吐《いき》く。 パフッとぼーさんが布団《ふとん》に顔を突っこむ。 「……かんべんしてくれよ」 「ごめん」 安原《やすはら》さんが、引きつった顔で笑った。 「だれかになにか起こったのかと……よかった」 ジョンもホッとしたように笑う。 「本当によかったです」 ぼーさんがいきなり顔を上げた。 「うなされたって、まさか例の夢か?」 「うん。だと思う」 「どんな?」 思い出したくない。思い出そうとするだけで、血の臭いが漂《ただよ》ってくる気がする。 「第六感のオンナだろ?」 「――あたしが殺される夢」 みんながまじまじとあたしの顔を見た。 「殺されるって……」 そばに座ったままの綾子があたしの顔をのぞきこむ。 「男の人がふたり来てね、あたしを変なタイル張りの部屋に引っ張って行ったの。手術台みたいなベッドがあって、部屋じゅう血だらけだった。そこで喉《のど》を裂《さ》かれたの」 あたし、血が噴《ふ》き出したときの感じをハッキリ覚えてる。 「もっと他の人もあそこで死んだんだと思う。処刑場だよ、あれ」 言ってるうちに、涙が出てきた。 本当に死ぬんだと思った。すごく、怖かった。 綾子が背中を叩く。次から次へ涙が出てきて止まらなかった。 馬鹿《ばか》みたいにひとしきり泣いて、顔を上げると開いたままのドアのところにリンさんが立ってた。ナルの姿はない。 どうして、いないんだろう。 どうして、いなかったんだろう。 いつだって夢の中にナルがいて、いろんなことを教えてくれたり助けてくれたりしたのに。いつだって微笑《わら》ってくれて。なのに、どうして。 ……冷たいんだから。本当に冷たいんだから。 なんだか思考がメチャクチャで、意味もなくもう一度涙が出てきた。あわててうつむいて、必死で顔をこす。泣いてる場合じゃない。みんなに心配かけてる。 ポンと誰かに頭を叩かれて(そういうことをするのはぼーさんだと思う)、あたしはとにかくうなずいた。だいじょうぶ。もう落ち着く。 ふいに紅茶の匂《にお》いがした。小さく食器がなる音がして、あたしは顔を上げた。目の前にティー・カップがさしだされて、あたしはキョトンとしてしまった。 「だいじょうぶ?」 抑揚《よくよう》のない静かな声。顔を上げると、ナルがカップをさしだしていた。薄めのグレイのパジャマを着てる。それがなんだかめずらしくて、あたしは思わず落ち着いてしまった。 「……ありがと。だいじょうぶ」 そっとカップを受け取る。うん、だいじょうぶ。手の震えがおさまったみたい。 「みんなも、ごめんね。ありがと」 カップを支えたまま軽く頭を下げる。そっと背中を綾子にぶたれた。 ナルは脇に立ったまま、軽く息をひとつ。それから、 「なにがあった?」 そう聞いた。
あたしが丁寧《ていねい》に話を終えると、安原さんが低い声で言った。 「鈴木さんか厚木《あつぎ》さん……もう死んでるのかもしれないな」 「おいおい、少年。気安く言うなよ」 ぼーさんは目を丸くしてる。 「だって、谷山《たにやま》さんが見たの、どちらかのことかもしれないでしょ」 え? 「それはつまり……麻衣が誰かとシンクロして、いわばテレパシーを受けたってことか?」 「専門的なことはよくわかりませんけどね。実際に殺されたのは鈴木さんか厚木さんで、谷山さんは厚木さんの経験を、あたかも自分の経験のように感じ取ったんじゃないかって、そんな可能性もあるんじゃないかな。そういうことって、あるのかどうか僕にはわからないですけど」 ぼーさんが意見を求めるように綾子のベッドに座ったナルを見た。ナルはうっとおしそうな声で、 「そういうテレパシー夢の例がないわけじゃないが、麻衣にそこまでの能力があるかな」 ……む。なんだよー、その言い方はー。 「それより、その部屋のほうが気になるな」 言いながら闇色の眼で宙を見つめる。 「その処刑室に該当《がいとう》するような部屋はなかったと思う。暖炉《だんろ》のある部屋でクローゼットのある部屋、というのも見覚えがない。生け垣というのも正体不明だ。もしそんな部屋が実在するなら、あの大きな空洞部分しかないわけだが……」 「しかし、麻衣が見たのは過去だという可能性もある。その場合、処刑室はすでに改築されてないこともありうるしな」 そういえば、着物着てたな、あたし……。 「いずれにしても、平面図の空白部分が気になる」 「もう、壁をブチ抜くしかないんじゃないの?」 思わずあたしがそう言うと、ぼーさんが盛大なため息をついた。 「何を考えてんだ、この嬢ちゃんは。ぶち抜くって、だれがブチ抜くんだよ」 ……そりゃやっぱ、リンさんとぼーさんとジョンと安原さんと……。 ま、嫌《いや》がるわな、ふつー。 大橋さんが許可するかどうかはおいといても、人手が足りない。ここで作業員なんか雇《やと》ってさらに人が消えたら目もあてられないし。 そう思ってたわけだけど。 「その発想は悪くないな」 アッサリしたナルの一言。 「おいー、冗談じゃねぇよ。あの壁全部ブチ抜くのかぁ?」 ぼーさんの悲鳴にナルは不穏な笑いを浮かべた。 「隠《かく》し通路が見つからないなら、しかたない。いずれにしても夜が明けてからだ」 「失踪人捜しは」 「彼らは僕らの目に見える範囲内にいない。だとしたら目に見えないところにいるんだ。隠し部屋を発見できれば、おのずから解決する可能性がある」 それはそーなんですが。 ぼーさんが恨《うら》めしそうにあたしを見た。 ごめんよ。でもま、ボランティアですから。がんばってね。
あたしが悲鳴をあげた時間というのは夜中の二時で。それから軽く仮眠をとって、夜明けと同時に起床した。身づくろいをして朝ごはんを食べる。と、言ってもさすがのあたしも今朝《けさ》はものが喉を通らなかったんだな、これが。それからベースに集合した。 リンさんは機材のチェックを済ませている。それによると、昨夜も機材にはなんの動きもなかったそうな。 取りあえず、昨日やり残した二階以上の正確な調査を続けることになって。 「それでダメなら壁に穴をあける方向でいこう」 ナルの悲惨な言葉であたしたちは作業を開始した。
2
「なー、麻衣《まい》」 「ん?」 床に水準測定器を置きながら、あたしはぼーさんを振り返った。 「お前が夢で見た、その男たちって、どういう人物なのかわからないのか?」 「うん。それがさー、一生懸命《いっしょうけんめい》あいつらの顔を見たんだけど、全然顔つきが印象に残らないんだよね。なんか、見たはしから忘れていく感じで、見てるのはわかってたんだけど、どいう顔だかわからなかったの」 床にしゃがみこんだあたしのそばにぼーさんがしゃがみこんだ。 「なー、ここだけの話だが」 「うん」 声をひそめたもんで、ジョンや安原《やすはら》さんも寄ってくる。 「それって……ここの職員の中に思い当たる人物はいなかったか?」 「ええー!?」 しっ、とぼーさんが指を唇《くちびる》に当てる。 「まさかとは思うけどなぁ、ここの連中がなんかしてんじゃねぇだろうなぁ」 ええぇー……。 同じくしゃがみこんだ安原さんが身を乗り出す。 「あ、そういうのって映画なんかじゃありそうですよね」 「だろ?」 「隠《かく》し部屋のことも隠し通路も知ってるのに黙《だま》ってる、そういう可能性もありますよね」 「そうなんだよ。あいつらが失踪したふたりを隠しててさ、でもって……」 ぼーさんは首に手をあてる。 安原さんはウンウンうなずいて、 「すると僕たちは生《い》け贄《にえ》ってわけですね。マスコミに知られると困るなんて言ってここに閉じこめて、ひとりずつ消していく。最後には誰も残らない……」 「実は大橋ってのが殺人狂とかさ」 「ひょっとしたらここが、悪魔崇拝《すうはい》の秘密教会かもしれませんよ」 同じくしゃがみこんだジョンは頭を抱えた。 「あいつら、変なことを目撃したりしてねぇって言ってたじゃねぇか。長いことここにいて準備をしてたんだろう? なんにもねぇってありうるか?」 「そうですよね。職員から失踪者は出てないし。考えてみれば、この家に直接的に関係のある人間は消えてませんよね。霊能者、忍びこんだ不良少年、捜索に来た消防団員……」「だろ?」 あたしは思わずふたりの顔を見比べてしまった。 「ね、それ本気で言ってるの?」 「え?」 「いや……その」 「そーゆうくだらないことを言ってサボってても、問題は解決しないと思うけど」 ぼーさんと安原さんはそっぽを向いた。 「そんなの、ナルが納得《なっとく》するわけないもん。どーせ全部の床に水準測定器を置かなきゃならないわけだしー。いずれ壁を壊《こわ》さなきゃならないわけでしょ?」「麻衣」 「なぁに?」 「お前は、本っ当にかわいくないな」 「よけいなおせわ」 ふーんだ。 そのときだった。 「ちょっと待ってください」 ジョンが深刻な顔で軽く手を上げた。 「どーしたの」 「さっきの、安原さんの話です。この家の関係者は消えてない、ゆう話」 「ちょっと、ジョン。あんなのギャグなんだから、マに受けちゃダメ」 ジョンの青い眼があたしをのぞきこむ。 「けど、それって事実と違いますか?」 「事実って……」 「ここに住んではった鉦幸《かねゆき》氏は無事でした。ときおり滞在した宏幸《ひろゆき》氏も無事でした。職員の皆さんかて、今日まで無事に過ごしてはります」 「おいおい、ジョン」 ぼーさんが呆《あき》れたように声をかける。対するジョンはまったく真面目《まじめ》なようすだった。 「消えたのは外部の人間ばかりです。これには本当に意味がないんですやろか」 「お前……まさか本気でここの連中が犯人だと……」 ジョンは首を横に振った。 「そんなんと違います。けど、関係はあるんやないかと思うんです」 関係って……。 「厚木さんは奇妙な消え方をしました。ほんまやったら消えるはずがないんです。これって、やっぱり霊の仕業《しわざ》なんとちがうんでしょうか」 「……かもしれんが」 「やったら、ここの霊は犠牲者に選《え》り好みをしてることになりませんか? ここの霊は美山《みやま》家に関係のある人間は犠牲にせぇへん、とか」 ぼーさんは考えこんだ。 「しかし、職員はたかが使用人だろ? 血筋ってわけでもねぇし」 「やったら、ここの霊は若いお人が好きなのかもしれません」 ……え? 「職員の皆さんは全員年配の方ばかりですやろ。反対に消えたのは二十代以下の若い人ばかりなんと違いますか?」 「……言えてる」 ぼーさんがうなずいた。 あたしは立ち上がった。 「あたし、ナルに話してくる」 「待った」 ぼーさんが呼び止める。 「俺たちは全員三十前だろーが。ジョンの意見が正しかったら、全員が危険なんだぜ」 ……そっか。 「ナルちゃんの言うとおりだ。絶対にひとりにならないほうがいい」
3
四人でベースに戻ると、ナルとリンさん、綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》が戻っていて、何やら緊張した顔をしていた。 「……どうしたの?」 声をかけると綾子が深刻な顔で振り向く。 「よかったわ。帰ってきて。――また人が消えたのよ」 消えた? また!? 「誰だ?」 ぼーさんが聞くと、 「福田《ふくだ》さん、ですって」 「いくつだ?」 ぼーさんの質問の意図は、邸内探検隊にしかわからなかったろう。 綾子もちょっとポカンとした。 「年なんか知らないわよ。二十五か、そのくらいじゃないの?」 「南心霊調査会の女だろ? あの若いねぇちゃんか?」 「そうだけど……」 やっぱり……。 ナルが怪訝《けげん》そうにした。 「それが?」
ぼーさんがジョンの話を披露して、ナルはひどく考えこんでしまった。 「なるほどな……」 つぶやいて顔を上げ、あたしと安原《やすはら》さんに向かう。 「ふたりとも絶対にひとりになるんじゃない」 ……うん。 それから綾子を振り向いて、 「松崎《まつざき》さん、どのていど信用してもいいですか?」 「なによ、それ」 「言葉の遊戯をやっている場合じゃない。麻衣《まい》も安原さんも必要なんです。しかし、ここは危険だ。あなたをどの程度アテにしてもいいんですか?」 綾子は不満そうに言う。 「退魔法ていどなら……アテにしてくれてもいいわ」 「わかりました」 ナルはあたしたちを見渡す。 「松崎さんと原さんは絶対に離れないように。お互いにフォローできますね?」 「できると思う……」 綾子がうなずくと真砂子が言い放つ。 「松崎さんでは不安ですわ」 「なによ、それっ!」 綾子に向かってナルは軽く手をあげる。真砂子を深い色の眼で見た。 「原《はら》さん。僕は基本的にこのメンバー以外を信用できない。アテにできる人間は少ないんです。あなたも霊能者のはしくれなら自分の身ぐらい守れますね」 「……ええ」 「安原さんは全く自分の防御ができない。彼の護衛には十分に信頼できる人間が必要なんです」 「はい……」 うなずく真砂子を見やってからナルは、 「ぼーさんとジョンは安原さんから離れるな。絶対に眼を離すんじゃない」 十分に信頼できる人間というのは、ふたりのことか……。 「待ってください」 リンさんが強い声をあげた。 「それは谷山《たにやま》さんを私が護衛するということですか?」 「そうだが」 「では、あなたは誰が護衛するんです」 「必要ない」 「はっきりと言わせていただきますが。あなたは退魔法は使えないはずです、ちがいますか?」 ……そらそーだ。ナルは単なる超心理学研究者だもんな。 「もはやあなたの立場は安原さんと同じです。あなたには護衛が必要です」 「リン、なんとかなる」 「冗談じゃありません。なんとかされては困ります。ナルの護衛は私がします」 きっぱり言って、リンさんはあたしたちを見る。 「滝川《たきがわ》さんは安原さんを。ブラウンさんは谷山さんをお願いします」 「ぼーさんひとりではきつい」 「おいおい、ナルちゃん」 「見損《みそこ》なって言ってるんじゃない。ここはそれだけ危険である可能性があると言ってるんだ」 「では、誰かひとりを返してください。ナルをひとりにすることだけはできません。あなたに万が一のことがあったら、私は教授になんと言っておわびをすればいいのですか?」 教授? 「すこしはご両親の気持ちも考えてあげなさい」 「リン」 「あなたは、自分が十七の子供だということを忘れてはいませんか」 ナルが厳しい眼でリンさんを見た。 「僕に不満があるんだったら、帰ってもらってもいいんだが」 「なにかカン違いしていませんか。むろん、私は帰ってもいいのですよ」 リンさんの顔つきはさらに厳しい。 「忘れていただいては困ります。私はあなたのつきそいではありません。あなたを監視するためにいるのですからね」 ……か、監視ぃ? 突然、安原さんが立ち上がった。 「僕が、外《はず》れます」 「おい、少年」 安原さんはぼーさんにうなずく。 「僕が外れれば、問題はないはずです。僕はいちおう『渋谷サイキック・リサーチ』の所長なんですから、後を調査員に任せたといってリタイアしても支障ないはずです」 ……それはそうだけど。 「僕は、諏訪《すわ》市内に戻って森さんをアシストします。個人的に気になることがいくつかありますし」 深く考えてナルがうなずいた。
安原代理所長は、雑用をしに市内へ行く職員の車に乗って家を出て行った。他の霊能者からは聞こえよがしに逃げ出したと言われたけれど。 出会う人に皮肉を言われながら福田さんの捜索をした。手をつくして捜したにもかかわらず、やはり福田さんの姿も見つからなかった。 彼女は少し歩いてくると言いおいて、南さんのグループが使っているベースを出、そしてそのまま帰って来なかった。ちょうどその時玄関では職員が掃除をしていたので、少なくとも玄関から出て行ったということはありえない。ただ消えたと、そうとしか言いようがなかった。 南さんはひどく狼狽《ろうばい》していた。他の霊能者の人たちは、助けを呼ばないのかとさんざん揶揄《やゆ》した。ほかならぬ自分のところのメンバーがいなくなったのだから、博士の活躍も見られるだろう、他の協力者もやってくれるだろう、と言って。 あたしたちはその騒ぎを見るに耐《た》えなくて、結局、作業に戻った。残った測量を丁寧《ていねい》にやって。夕方に計測を終えて、そしてあたしたちは意外な事実を知った。 「この家は中央が高い構造になってますね」 リンさんがモニターに家の断面図を出しながら言う。 一階の床は家の中央に向かってごくわずか傾斜していて、中央付近は外辺部に比べて二メートル以上高くなっていることがわかった。 ぼーさんは首をかしげる。 「いったい、なんでこんな家を作ったんだ?」 だよなぁ。 「増改築をくりかえしたって、それだけでX階とかそんなもんができるか?」 ナルはそっけなく問い返す。 「……と言うと?」 「俺は、意図的にやられたもんなんじゃねぇかって気がするんだよ。なんか目的があって作ったに決まってるさ。こんな家」 「目的……ね」 ジョンも首をかしげた。 「この家、そもそもはどういう形をしてましたのやろな」 ナルはうなずいてプリント・アウトを手に取った。 「窓の配置から考えて、中央部の小さな建物に部屋をつけていって、外側に向けて大きくしていったらしい、というところまではわかるんだが……」 ぼーさんは盛大にため息をつく。 「じゃ、やっぱり中央部のあのデカイ空白が怪《あや》しいんだよな。だいたい、中庭でもねぇのに、二階まで吹き抜けってのは怪しすぎるぜ。問題はどこに抜け道があるかってことなんだが……」 ナルは紙を弾《はじ》いた。 「抜け道なんてなかったとしたら?」 え? 「抜け道がない……って、おい」 「あの空白は隠《かく》し部屋ではなく、閉ざされた部屋なのだとしたら?」 あ……! そうか、恐怖映画によくあるパターン。壁を崩《くず》すとその向こうに閉ざされた部屋があって、そこになんかあるってやつ。空白が大きすぎて隠し部屋の可能性ばっか考えてきたけど、そもそもあの空白には人が出入りできないことだってありうるんだ……。 「抜け道は捜しつくした。これだけ古い汚れた家だ。そんなものがあって、失踪した連中が使ったのなら形跡がわかって当然だと思う。ホコリの乱れ、足跡、そんなもので。――ところがどう捜してみても、そんなものがあるとは思えない。建物が中から外へ向けて建てられていることといい、中にあるなにかを隠そうとして増築をしていったとしか思えないんだが」 「……言えてる」 ぼーさんは言って天井を睨《にら》んだ。 「しかし、隠すって、なにを? まさか、……処刑室」 「どうだろうな。そんなものがあるかどうか。明日壁の向こうを調べてみればわかる」 「本当にやんのか? 壁を崩《くず》して?」 「むろん。もう大橋さんの了解はとってある」 ぼーさんがゲンナリした顔をした。 そのときだった。例によって窓がノックされたのは。
5
「まどか……安原《やすはら》さん!」 ナルは呆《あき》れきった表情をした。 よいしょ、と窓を乗り越えてくるふたりを冷たい眼で眺《なが》める。 「こんばんはー」 「まいどー」 なんてノホホンとしたふたり。 「まったく……なにを考えているんだ」 ナルの視線は安原さんに向かう。 そらま、そーだ。この家が危険だから出て行ったのに、帰ってきたらなんにもならない。 安原さんはしかし、いっこうに気にしてないようすで、 「いえ、今日一日で調べたことを報告に」 森さんはニコニコして安原さんの顔を見た。 「安原くん、大活躍だったのよね、今日」 「そーです。僕、有能ですから」 ほくそえむ安原さん。 「えーとですね、まず、この家から市内に戻るとき、僕、煙突《えんとつ》の数を数えてみたんです」 ……へ? 「なんか変な気がしたんですけど遠目でよくわからなかったんで、森さんに合ってから彼女にもう一度ここに来てもらったんですよね」 森さんはうなずく。 「そう。わたしが近くの山まで車で来て、そこからレンタルの双眼鏡でちゃんと数えたの。その結果は十二本」 リンさんがコンピュータに向かって暖炉《だんろ》の数を調べる。 「僕が調べた時の感じだと、十一か十本程度だと思うんですけど」 安原さんの言葉にリンさんはうなずいた。 「十一ですね」 ……一本多い……。 「それで、よくよく見ると、家の中央にある煙突がどうも変なのよね。形も丸くて他のより太いのよ」 貴重《きちょう》な手がかり。やはりあの空白には確実になにかあるんだ。少なくとも煙突が。屋根に突き出る煙突が隠《かく》されている場所なんて限られてる。三階にはそんな空白はない。二階から突き出ていれば三階の窓から見えてしまう。ただ、一方向だけ窓のない面がある。煙突があるとしたらその方向しかありえない。 ナルがすばやく平面図をチェックした。あの大きな空洞の北にあるわりに大きな空洞。二階から突き抜けになった。煙突のある場所はそこだとわかった。 森さんはちょっと得意そうだった。 「賢《かしこ》いわたしは、ちゃんと証拠写真を撮《と》ってあります。今ラボに出してるから、明日にはできてくるわ。ちゃんと望遠の一眼レフを借りてたのよ、偉《えら》いでしょ?」 そう言ってナルの顔をのぞきこむ。ナルは冷たい視線を向けるだけ。 「なによぉ」 かわりにほーさんが、 「えらい、えらい。それで?」 森さんはニッコリして、 「わたしがそういうことをしてる間に、安原くんは市内の聞きこみをしてくれたのよね。彼、探偵の素質あるわ」 ほー。 安原さんは胸を張った。 「なんでもソツなくこなします、天才ヤスハラですから」 そう言って笑ってから、 「まず、僕は美山《みやま》家の本邸に言ってみたんですよね。でもって、周囲の家を訪ねまして、できるだけお年寄りを探しました。そしたら、三軒先に齢《よわい》八十二のおばあちゃんがいまして。まだボケもせず、しっかりした人でね。まずその人に話を聞いてきたわけなんです」 ふむふむ。 「美山鉦幸《かねゆき》氏が死んだのとほぼ入れ違いに生まれた人ですからね。まぁ、鉦幸氏を知ってるはずはないんですが、なにか知らないかというわけで。するとですね、彼女が言うには鉦幸氏と言うのは語り草になるくらいの変人だった、と言うんですね。とにかく人嫌《ぎら》いで。けっこう気分に落差があって、優しいときは他人にものをバラまいたりけっこう親切なんですが、機嫌《きげん》の悪いときってのは人を追いかけまわして殴《なぐ》るような、そんな人だったらしいです」 ……ふぅん……。 「前に潔癖《けっぺき》という話がでてましたが、おばあちゃんもそう言ってました。とても潔癖な人だったって。それで美山家の隣の家の人は、今でも柿《かき》ひとつ、美山家のものは勝手に取ったりしないそうです。昔ひどい目にあったことがあるとかで」 「……なるほど」 「彼女から聞けた話というのは、そのくらいなんですが。で、彼女に市内の老人ホームとお達者クラブを紹介してもらいまして。それでそこに行ってみたんです。でまぁ、いろいろな話を聞いたわけですが、鉦幸氏と言うのは評判が悪いんですよね」 「……慈善事業に手をつくした人物なんだろう?」 「それはそうなんですが、どうもあの慈善事業というのは、裏でなにか悪いことをやってる、そのカモフラージュじゃないかと。そういうふうに思われていたようです」 意外……。 「それと、宏幸《ひろゆき》氏の知人だったって人を見つけました。おばあちゃんなんですが、彼女の旦那《だんな》さんが晩年の宏幸氏の友人だったとか。彼女によると宏幸氏は父親を嫌っていたようですね。父親の話はほとんどしなかったし、だれかが話題にするとひどく怒《おこ》ったそうです」 ……ふぅん。 「わずかに聞いた話によると、鉦幸氏は小さい頃から身体《からだ》が弱かったらしいんです」 「身体が弱かった?」 「ええ。病弱な人で、子供の頃は寝ていることのほうが多かったとか。何度かの外遊も、単なる外遊と言うより、その当時どこか具合が悪かったのを外国の医者にみせに行ったというのが正確らしいです」 ……へぇ。 「小さい頃はあまり長生きしないだろうと言われていたわけですが、実際五十で死んだんですよね。ただ、宏幸氏に言わせると、もっと早く子供の頃に死んでればよかったんだ、とそういうことらしいです」 あたしは聞いた。 「鉦幸が子供の頃に死んでたら、宏幸氏は生まれてなかったわけでしょ?」 「そうですよ。すごいセリフでしょ?」 「……うん」 宏幸氏は本当に父親が嫌いだったんだ。 「それから、こういうのがあるんです。鉦幸氏は、下男ふたりとすんでいたって」 ……胸がドキドキする。なんだろう、嫌《いや》な感じ。 「それでですね、その老人ホームにもうひとり、祖父が出入りの植木屋だったって人がいたんです。けっこう若いおじいちゃんですが。で、そのお祖父さんって人が山荘に行くのは気味悪くて嫌だったって、そう言ってたと言うんです」 「植木屋?」 「ええ、なんでもその当時、ここには生《い》け垣《がき》でできた迷路があったらしいんですよね」 ……生け垣。生け垣の迷路。 「母屋《おもや》があって、離れがあって、その間を迷路がつないでいたって言ってたそうなんです」 ああ、なんか嫌だ。あたし、この話を聞きたくない。 「植木らしいのはその迷路だけだったようなんですが。それで、お祖父さんがいつも言っていたのは、この家は変だって。手入れしながら離れのほうに行くと、いつも墓場みたいな嫌な臭いがしてたって。おまけに行く度《たび》に女中の顔が変わってたって、そう言ってたと」 「女中の顔が変わってた……?」 目眩《めまい》がした。背中を冷たいものがなでていった感じがする。 「ええ。それで――? ……谷山《たにやま》さん?」 安原さんがあたしの顔をのぞきこむ。あたし、背筋がゾクゾクして寒くて寒くて言葉が出ない。ぼーさんが動きかけるのを真砂子《まさこ》が止めた。あたしのほうに近づいてくる。そっと腕を伸ばして、あたしの肩に手をおいた。 「この人はいけませんわ。あなたを救ったりはできないんですの。ここにいる誰も、あなたを助けてあげることはできません。だってあなたはもう死んでるんですもの」 そう言いながら、真砂子があたしの背中をたたく。 「さ、降りて。恐れないで光のほうへ行ってごらんなさいな。そこへ行けば、楽になれますから」 そう言ったとたん、急に寒気がやんだ。 「原《はら》さん」 ナルの問いかけに、真砂子は微笑《ほほえ》む。 「この家に住む霊に憑《つ》かれていたようですわ。だいじょうぶ。もう消えました。浄化《じょうか》したのかどうかはわかりませんけれど。……もうだいじょうぶでしょう?」 「うん。ありがと……」 なんだったの、今のは。 真砂子は言った。 「きっと、話をしていたので寄ってきたのですわ。それとも、最初からいたのかしら。今話をしていたお女中さんの霊のようです」 その言葉を聞いたとたん、ムッと血の臭いがした。喉《のど》を裂《さ》いた刃物の感じ。顔にかかった血糊《ちのり》の暖《あたた》かさ。白いタイル、赤いシミ。 「……その人だ……」 あたしは言っていた。みんなが怪訝《けげん》そうな顔をする。 「その人なの。ゆうべ……」 母屋から連《つ》れていかれた。男がふたりで引っ張って、離れに連れて行って。離れのある部屋で手術台の上に引きずり上げられて、喉を裂かれた。 「ゆうべ夢の中で殺されたの、その人なの」 涙が出た。霊の記憶を見てしまったんだ。あの人、殺されてしまったんだ、あんなふうに。あたし、怖《こわ》かった。痛かった。あたしのあれは夢だったけど、あの人にとっては現実だった。あんな怖い思いをして、痛い思いして、殺されてしまったんだ……!
思わず顔をおおってしまったあたしの背中を、みんなが叩いてくれた。 「……そういうことか」 ナルの低い声。 「そうやって殺された霊がこの家をさまってるわけか」 助けて、死にたくない、霊はそう言った。みんな自分が死んだことがわからなくて、怖い痛い思いを抱えたまま、この家をさまよってる。 酷《ひど》い。誰があんな。……ううん、犯人なんかわかってる。あの男たちはふたりの下男。だとしたらあれを命じた犯人がいるはず。その犯人なんて鉦幸《かねゆき》氏でしかありえない。 許せない。慈善家の顔をして、あんな酷《ひど》い、あんな残酷な、悲惨なことを。 そのときだった。 いきなり部屋の電灯が消えた。 「……なに!?」 モニターからゆっくり光が消えて、部屋が真っ暗になる。パシ、という乾いた音をかわきりに、あたりがたちまちラップ音でいっぱいになった。この部屋ではないどこからか、激しい音がする。そして、遠くで人の叫び声。 「動くな!」 鋭《するど》い声でナルが命じたとき、ふいに明かりがついた。ちょっとした停電が終わったように。それと同時にラップ音が止む。 今のはなんだったんだと言う間もなかった。部屋が明るくなって、あたしたちの眼に赤いものが飛びこんできた。 『助けて』 『助けて』 『死にたくない』 『痛い』 『痛い』 『怖い』 壁に書かれた無数の血文字だった。
5
あたしたちは唖然《あぜん》として部屋の中を眺《なが》めた。 大きさもまちまち、筆跡もさまざまの血文字。たったあれだけの間に、壁を埋《う》めつくすほどの数。 『痛い』 『助けて』 『死にたくない』 『怖い』 『痛い』 『浦戸』 ……『浦戸』? 文字を眼で追っていって、あたしは硬直した。 「ね、ナル。これ……」 ナルはその文字に視線をやり、それからもう一度部屋を見渡す。 『浦戸』 『うらど』 その文字は他にも無数あった。 呆然《ぼうぜん》としているうちに、家のどこかであわただしい足音がする。森さんがすばやく安原《やすはら》さんをうながした。 「ナル。また、明日」 「まどか、危険だと言ってるだろう」 鋭《するど》い声のわきでぼーさんがのほほんと手を振った。 「お嬢さん、またな」 「うんっ(ハート)」 「気をつけてな」 「はーい」 明るい返事を残して、ふたりは窓から消えていった。 ほとんどそれを追いかけるようにして、大橋さんがドアを開けた。 「……ご無事ですか?」 「なにがあったんです?」 ナルの声に、 「あちこちに変な文字が。まるで血で書いたような……」 あわてて部屋を飛び出すと、廊下の壁にも血文字でいっぱいだった。 助けて、助けて、助けて、助けて、……。 怖い怖い怖い怖い……。 浦戸うらど浦戸うらど浦戸……。 「この家の霊って、いったいどれくらいいるのよ!?」 綾子《あやこ》が叫んだ。 ものすごい数。こんなにたくさんの……。 「浦戸、ってのは俺たちが思っている以上に意味のある言葉らしいな」 ぼーさんが壁の文字をにらんだ。 「単なるペンネームだとか、とてもそうは思えねぇ」 「……うん」 「あの文字の意味さえわかればな……」 あの文字。『浦戸に・さ・た・・聞く」。 なるが低い声を出した。 「原さん」 「はい?」 「ここで降霊術をやれる自信がありますか」 パッとみんなの眼が真砂子《まさこ》に集中した。 真砂子はお人形のように整った顔をすこしかたむける。 「……ありますわ」 この悲鳴をあげた霊を呼び出すことができれば。真砂子に憑依《ひょうい》させることができれば、そうすれば霊の口から直接、『浦戸』の意味を聞くことができる。これでなにがあったのか、全部聞くことができるはず。 ――そこまで考えてあたしは硬直した。霊、この家の。殺された霊たち。あれを憑依《ひょうい》させるということは、あたしと同じ経験を真砂子がするということになりはしない? 「……だめ」 「麻衣《まい》?」 「真砂子……やっちゃだめだよ。霊を憑依させちゃだめ」 「どうさなったんですの、急に」 「あたしと同じ夢を見ることになるかもしれない。そんなの、だめだよ」 ナルが軽くため息をついた。 「麻衣……原さんはプロだ」 「プロだろうと、なんだろうと、あんな経験させられない!」 「いいかげんにしろ」 ナルの冷たい視線。あたしそれをまっすぐに見返す。 「自分が殺される気持ち、わかる? 自分が死んでいく瞬間の気分が想像できる? どんなに怖いか、ナルにわかる? あたし、ぜったいに真砂子に降霊術なんてさせないからね」 ふいにナルの眼の色が深くなった気がした。 あたしが眉《まゆ》をひそめると、ナルは軽く瞬《まばた》きする。もうあの不思議《ふしぎ》な色はなかった。 「……しかたない。多少不確実な方法になるが……リン」 「はい」 「呼べるか?」 リンさんは軽くうなずいた。 「やってみましょう」 「リンさん!」 あたしは、思わず止めてしまった。 「ダメだよ、そんなことしちゃ。あんな……」 あんな怖い、あんな辛《つら》い、そんな経験、誰にもしてほしくない。 リンさんは無表情に、 「ご心配なく。べつに霊を憑依させるわけではありません」 「……でも」 「霊をよんでみるだけです。私は霊媒ではありませんので、霊を憑依させることはできませんから」 「そうなの?」 「はい」 ……なら、いいんだけど……。 「ただ、ナル」 リンさんはなるに表情のない顔を向ける。 「私にはここで過去に殺された霊を呼ぶことはできません。今呼べるのは」 リンさんの声はどこにも表情なんか感じさせない。 「死んでいると仮定して、ここで消えた三人の人間、それだけです」 「かまわない。やってみよう」
6
降霊会の場所には、いつだったか五十嵐《いがらし》先生の降霊会が開かれた部屋が選ばれた。リンさんとナルは準備のためにいなくなって、残ったあたしたちで機材をセッティングする。いつかの夜のように二台のカメラをセットしながら、あたしはぼーさんに聞いてみた。 「どうやって霊を呼ぶんだと思う?」 ぼーさんは、ちょっと考えるようすを見せた。 「霊を呼ぶには霊を憑依《ひょうい》させる『口よせ』と、霊そのものを呼ぶ『魂《たま》よばい』があるんだ。真砂子《まさこ》は『口よせ』のほうだな」 ……へぇぇ。 「霊を憑依させるんじゃねぇって言うんだから、やっぱ『魂よばい』のほうじゃねぇのか?」 「そんなこと、できるの?」 ぼーさんは肩をすくめる。 「ふつーはまぁ、できねぇわな。『魂よばい』は『招魂《しょうこん》』と言って、もとも中国の巫蟲《ふこ》道にあった方法だ。――リンは中国人だって言ってたからなぁ」 「……あ」 「俺たちはずっとリンを陰陽師《おんみょうじ》だと思っていたが、こうなると事情はちがうわな。リンはおそらく陰陽師でなく、中国呪術の道士なんだと思うぜ。あっちじゃ招魂ってのはよくあることだからな」 ……へぇぇ。 「『口よせ』を『摂魂《せっこん》』と言うんだが、ふつう『摂魂』よりも『招魂』のほうが難しいとされる。道士の格がぜんぜんちがうんだ」 つまり、真砂子さんよりリンさんのが優秀だというわけ? 「……ということは、真砂子に頼らなくてもリンさんがいれば十分だったんじゃないの?」 なんてこったい。あたしたちは真砂子しか霊の言葉を聞けないんだと思って、さんざん振り回されたっていうのに。 ぼーさんは首をすくめる。 「ところが、そう話はうまくいかない。招魂つったって、だれでもかれでも呼べるわけじゃねぇんだ。リンも言ってたろ? 自分が呼べるのは三人の霊だけだってさ」 「……もしも、三人が死んでたとして、よ」 生きてる可能性だってあるんだから。 「まぁ、なんでもいいが。たしか招魂には、呼び出す霊の名前とか生没年とか、そういう細かいデータが必要なはずだ。それで、今そんなデータがそろうのは三人のぶんだけだから、この三人の霊しか呼べないってわけさ」 あ、ナルホド。
しばらくしてリンさんが包みをかかえて戻ってきた。べつに服を着替えたりはしてない。 「掃除は?」 「すんでるよ」 リンさんは部屋に戻る前、この部屋を掃除しておくように指示していった。機材をおく前に言われたとおり、塩をまいて掃《は》き清め、ま新しい布で床をテーブルも水を替えながら三度ふいておいた。 リンさんはうなずき、包みを開く。薄い黄色の布をほどいて箱を取り出した。白木の箱を明けると、中にいくつもの箱が入っている。そのうちのいちばん大きな箱の中から金属製の平たい鉢《はち》を取り出し、そっとテーブルの上においた。そして、金色の太刀《たち》。金色の香炉《こうろ》をふたつ。燭台《しょくだい》をふたつ。ろうそくを二本。 なんとなくしゃべってはいけないような気がして、あたしたちはだまってそれを見守る。リンさんは丁寧《ていねい》に封をしたした白木の箱を開けて、中からお茶のはっぱのような抹香《まっこう》をつまみ出し、それを香炉に入れて火をつけた。薄い煙《けむり》があがって、不思議《ふしぎ》な匂いが漂《ただよ》いだす。 平たい箱を取り出し、蓋《ふた》を開いて鉢のわきにおく。中は硯箱《すずりばこ》になっていた。和紙らしい紙を取り出して広げ、テーブルの上をきちんとかたづけ、そしてあたしたちが用意しておいた水でゆっくりと墨《すみ》をすり始めた。 お香の匂いが部屋に満ちて、リンさんが墨をおいたころに、やっとナルが戻ってきた。「誰を呼びましょう」 リンさんに聞かれて、ナルはメモをテーブルにおく。 「鈴木直子さんを」 ナルは手に彼女のものらしいブラウスを持っている。リンさんはそれを受け取ると、丁寧にたたんで鉢の中においた。それから紙にメモを見ながら文字を書きつける。名前を書き、生年月日を書き、そしてナルを見返した。 「没年はどうしましょう」 ナルは少し考えこんで、 「失踪日の翌日……というところかな」 リンさんはうなずいて、そのとおりに文字を書きつける。そうしてできたおふだを鉢の中にたたんでおいた服の上に乗せた。 「始めます」 もうひとつの香炉に線香を立て、ろうそくに火を灯してナルにうなずく。ナルが部屋の電灯を消した。 二本のろうそくの明かりに、ほの暗く室内が照らし出される。リンさんは姿勢を正した膝の上に太刀をのせ、軽く口を開いた。 不思議な音が発された。 ホーォと言っているようにも聞こえる。口の中で低い音が響《ひび》いて、それが呼吸と一緒に吐《は》き出される、そんな感じ。うなる、にしてはあまりに澄《す》んだキレイな音。口笛、にしてはあまりに柔《やわ》らかな低い音。 リンさんはゆっくりと音を吐く。途中で何度も音程が変わって、まるで歌っているよう。高くなったり低くなったり、弱くなったり強くなったり。震《ふる》える、伸びる。そのくりかえし。喉《のど》が音を出す。たったそれだけの不思議でキレイな音楽。 思わずぼうっと聞きほれてしまった。こんな不思議でキレイな音を他に知らない。すっかりなにかの演奏会にでも来ている気になってしまって。だから、ためいきが聞こえたとき、あたしは誰かが思わずもらしたんだと、この音に感動してため息をついたんだとそう思ってしまった。 リンさんが音をやめた。 もう一度、ためいきがした。ひどく悲しいためいきに聞こえた。 はっとあたりを見まわすと、リンさんの正面の壁に影が見えた。ろうそくだけの明かりに深い影を落とした壁。その表面にうっすらと人の影が見える。だれの影でもない。影を落とすような位置に人はいない。 眼を見張るうちに影が濃《こ》くなった。人の、女の人の横を向いた影なのだとわかる。 ……だれ? まさか。 黒い影から色がにじみ出るようにして、じょじょに人の姿が現れ始めた。だれもが息をのんでコソという音もない。 「ナル」 リンさんは姿勢を正したまま振り向きもせずに呼ぶ。 「日がよくない。しゃべらせることはできないし、そんなに長くは呼んでもおけません」 ナルがうなずく。人影は、今やはっきりと若い女性の姿を現していた。暗くて、なんだか透《す》けるようで、けっして実体がそこにあるようには見えなかったけど、たしかにそれは人の姿で、しかもいなくなった鈴木さんなのだとわかった。彼女はうなだれ、横を向いて視線を足もとに落としていた。 「鈴木直子さんですね」 ナルが呼びかけると、彼女は視線を落としたままうなずいた。 ……死んでいたんだ……。 ひどくやるせない気がした。やはり鈴木さんは、死んでいたんだ。 「この家にはあなたの他にも人がいますね」 鈴木さんはうなずく。 「僕らと五十嵐先生、霊能者たちの他にも人がいますね?」 これにも無言のうなずき。 「彼らもあなたも、すでに死んでいます。知っていますか?」 ふいに鈴木さんは顔を上げた。不思議そうな表情でナルを見つめる。 ああ、鈴木さんはわかってないんだ。自分が死んだこと、他の人たちが死んだこと。 「自分がなぜ死んだのかわかりますか?」 彼女はナルを見つめたままただ首を横に振る。 「では、誰かがあなたにひどいことをしませんでしたか?」 鈴木さんはうなずいた。表情が微《かす》かに歪《ゆが》む。 「それは誰です。僕ら以外の他の人たちですか?」 鈴木さんはひどく辛《つら》そうな顔でうなずいた。 ……やっぱり、この家の霊が犯人なんだ……。 「浦戸《うらど》という人物を知っていますか?」 ふいに、彼女が大きく身体《からだ》を反《そ》らした。顔が歪む。なにかを言いたそうに口を開いた。声が出ないのか、もどかしそうに手をあげて喉《のど》をつかむ。片手をあげ、宙になにかを書こうとする。 「知っているんですね?」 鈴木さんはうなずき、そして首を横に振る。身をよじって腕を泳がせて、子供がかんしゃくを起こしたように全身でなにかを訴えようとした。足を踏みしめ、身を折るようにして身もだえする。突然、部屋のどこかで乾いた高い音がした。 思わず音の出所を探してあたりを見回した。続けざまに激しい音がする。ラップ音だ。「ナル。限界です」 リンさんのひそやかな声をきっかけにしたように、少しずつ鈴木さんの姿が薄まりはじめた。彼女は大きく口を開いて、なにかを必死で叫んでいるるその声は聞こえない。とどかない声の代わりをするように、高い音でラップ音がした。 ナルが次の質問を発する間もなかった。すうっと色を失って、鈴木さんの姿は影に戻った。影になっても彼女は身をよじり続けている。それでさえ、すぐに闇《やみ》に溶《と》けて見えなくなった。彼女の影が消えると同時に、ラップ音もやんでしまって、後には静寂《せいじゃく》だけが残された。
7
ナルが部屋の明かりをつけるまで、だれも声を出さなかった。 まぶしいほどの明かりが降って、とたんにあたりは興奮した声でいっぱいになる。 今のは本当にリンさんが呼んだのか、鈴木さんは本当に死んでいたのか、この家の悪霊が人をさらっていたのか、では他のふたりも死んでいるのか。そんな声が入り乱れるなか、ふいにナルの視線が壁に釘《くぎ》づけになった。全員の視線がそれを追って、興奮した声が鎮まってしまう。 いつの間に書かれたのだろう。白い壁の表面に赤い文字が描かれていた。 『ヴラド』 ヴラド? なんだろう、これは……? 鈴木さんの霊が残していったんだろうか? ぼーさんがいきなりテーブルをたたいた。 「……浦戸ってのは、ヴラドのことだったのか」 あたしはパチクリした。 たしかに浦戸とヴラドって、音が似てるけど……。 「ヴラドってなに?」 ジョンがとても嫌《いや》そうな顔をした。 「ヴラドゆうのは……吸血鬼ドラキュラのことです」 吸血鬼。 「ドラキュラーっ!?」 あたしはナルを振り返った。 「どういうこと? 浦戸は鉦幸《かねゆき》氏のペンネームでしょ? 鉦幸は吸血鬼だったの? ここの霊は血を吸われて死んだ人たち?」 ナルはウンザリしたように口を開いた。 「世間《せけん》でよく知られるドラキュラの物語は、『吸血鬼ドラキュラ』という小説がもとになっている。これは知っているか?」 「……知らない」 ナルは露骨にため息をついた。 「一八九七年に出版された『吸血鬼ドラキュラ』はブラム・ストーカーという作家が書いた恐怖小説だ。ロンドンにドラキュラ伯爵《はくしゃく》と名乗る奇妙な男がやってくる。これが実は吸血鬼で、という物語。この小説が舞台や映画になり、そこから『吸血鬼もの』というジャンルが生まれた。ここまでは、いいか?」 「……うん」 「実は、このドラキュラ伯爵にはモデルがいる。本当にドラキュラと呼ばれた実在の人物がね。物語に出てくるドラキュラ伯爵はトランシルヴァニアの出身。トランシルヴァニアは長くハンガリーに属し、現在はルーマニアになっているところだ」 「……トランシルヴァニアって、実在の土地なの?」 あたしはてっきり架空の地名だとばかり……。 「もちろん。ドラキュラは十五世紀、とトランシルヴァニアに近いワラキア地方を統治した王だった。名前をヴラド。通称ヴラド・ツェペシュと言って、一般には『ヴラド串刺し公』と訳すようだね」 「くしざしぃ?」 ナルはうなずく。 「当時ヨーロッパは頻繁《ひんぱん》にオスマントルコの侵略を受けた。ワラキア地方はトルコに近いこともあってその前線地帯だったと言っていい。しかもワラキアの王座をめぐっても覇権《はけん》争いがつきなかった。ヴラドは潔癖《けっぺき》な王で怠惰《たいだ》と背任を嫌《きら》い、特に敵には容赦《ようしゃ》がなかったことで知られている。捕らえた敵の多くを串刺しにして処刑したことからそう呼ぶんだ」 げげげ。 「このヴラドの父親がヴラド二世。通称を『ヴラド・ドラクル』と言う。『ドラクル』はルーマニア語で『悪魔』を意味するから、普通『ヴラド悪魔公』と呼ぶようだね」 父が悪魔で、息子が串刺しかぁ? 「もっともこれは正確でない。『ドラクル』は悪魔を意味することばだが、同時に『龍』も意味するんだ。ヴラド二世は一四三一年、時のローマ皇帝ジギスムントによって『ドラクル』の称号を与えられた。称号なんだから、『悪魔』とは呼ばないだろう。たぶん、『ドラクド・ドラゴン公』と呼んだほうが正しいんだろうな」 たしかに、悪魔とドラゴンじゃえらい違いだよなぁ……。 「『龍の子』あるいは『悪魔の子』をルーマニア語で『ドラキュラ』と言う。したがってドラクルの子供であったヴラドは別名を『ドラキュラ』と言った。つまり、『ドラゴン公の子』というような意味でね。ヴラドの血塗《ぬ》られた業績のせいで、普通は『悪魔の子』と呼ばれるが、実はそれはあまり正しくないんだ」 「……ふぅん」 「プラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』が出版されて、『ドラキュラ』とは吸血鬼の名前だということになった。一時期ヴラド・ツェペシュはその残虐性《ざんぎゃくせい》のためにヨーロッパじゅうで有名だったんだが、ストーカーが著書を発表するころにはほとんど忘れ去られていた。ブラム・ストーカーによって再びヴラドは脚光を浴びた。そしていまや全世界的に悪名がとどろいているというわけだ」 「なるほどねぇ」 こんな歴史があったとは知らなかった。 「ワラキア地方には今も『ドラキュラ伝説』が残っている。それによれば、ヴラドはドイツとトルコからハンガリーを守った救世主ということになっている。敵には確かに残忍だったが、彼はハンガリーを守った英雄だというわけだ。一概《いちがい》に信じるのもどうかと思うが、当時のヨーロッパ情勢を考えるとまるきりウソでもないような気がするな」 ……ふうん。 ナルはちょっとシニカルな笑みを浮かべた。 「ヴラドに関しては有名な話がある。とある豪商が財産のすべてを馬車に乗せてワラキアの首都を通った。彼は首都に着くや、宮殿に行ってヴラドに自分の財産を守ってくれるよう頼んだんだ。これに対してヴラドは、その必要はない。どこだろうと置き去りにしておけ、と命じた。しかたなく承認は全財産をつんだ馬車を広場に置き去りにした」 ううむ。ヴラド公の命令には逆らえないもんなぁ。 「ところが一夜明けてみると、彼の財産はまったく減《へ》っていなかった。ヴラドは潔癖な王で、自国の国民にも嘘《うそ》や泥棒《どろぼう》、怠惰《たいだ》を決して許さなかった。そういった者は例外なく串刺しにされたので、商人の荷物に手をつける者などいなかった、というわけだ」 「……ナルホド。けっこう偉《えら》い人だったんだ」 ナルは肩をすくめる。 「それを偉いと言うかどうかは、人によるだろうな。……いずれにしても、たしかにヴラドは似てるよ。鉦幸にね」 ぼーさんは首をかしげた。 「ヴラドはハンガリーの救世主だった、と。鉦幸も自分は救世主だとでも言うつもりだったのかねぇ」 「さて、それはどうだろう?」 ナルの白い指先で森さんが持ってきたメモをめくる。 「鉦幸は一九〇〇年頃にもヨーロッパに外遊していた。その頃すでに『吸血鬼』は出版されていた。彼が『悪魔の子』の意味で『ヴラド』を名乗っている可能性のほうがむしろ高いと思う。――それに」 「それに?」 「麻衣《まい》が言っていたろう。浴室にバス・タブがあって、その中に血が溜《たすまっていたと」 ……うん。 「ヴラドとよく混同される人物にバートリ・エルベジェットというのがいる。英語ふうに姓を後にするとエルベジェット・バートリかな。彼女は通称、『流血の伯爵夫人』と呼ばれる」 「お……女の人なの?」 「そうだ。エルベジェットは十七世紀ハンガリーに住んだ伯爵夫人だった。ヴラドとの関係ははっきりしないが、なんらかの血縁関係があったのではないかと想像されている」 「ふぅん……」 「彼女は自分の容色が衰《おとろ》えることを恐れて、若い女性を生《い》け贄《にえ》にした。若い女の生き血を浴びれば、自分の美貌は保たれると信じていたんだ。若い女を殺しては、しぼりとった血を浴槽に満たしてそれの中に身体《からだ》を浸《ひた》した。生け贄のひとりが脱走て犯罪がばれるまでのおよそ十年間の間だ」 「……そ、それって……」 ナルはうなずく。 「麻衣の夢に似てるだろう。エルベジェットとヴラドは混同されて、ヴラドが処刑した敵の血を浴びていたごとくに言われることが多い。鉦幸がこの話を聞いていたとしたら?」 だれひとり答える者はいない。ナルはさらに微《かす》かに笑う。 「彼女は公式に罪を追及されなかったが、その代わり彼女は寝室に閉じこめられ、すべての扉と窓を外から塗りこめられてしまった。けっきょく彼女はその牢獄《ろうごく》の中で死んだわけだが――なかなか暗示的だとは思わないか?」 塗りこめられた牢獄。塗りこめられた空間。 「でも……鉦幸は」 病気で死んだと、森さんが。 「もちろん、あの空間が鉦幸を閉じこめるものだとは思わない。だったらあんなに広い空間である必要はないから。ただ、暗示的だと――ひどく暗示的だと思うだけだ」 ……たしかに。 「『ヴラド』は『ブラド』の発音のほうが近い。鉦幸はなんらかの理由でヴラド公の名を筆名に使おうと考えたが、うまく漢字をあてられなかった。それで『浦戸』という文字を選んだ……これはおそらくそんなに事実をはずれていないと思う」 ……うん。 ぼーさんもうなずく。 「そして奴はそのとおり、ここで多くの使用人を殺した。殺された者の霊が、この家に今もさまよってるってわけだ。……ああ、そうか」 ぼーさんは軽く指を鳴らした。 「わかった。例の『浦戸・・さ・た・・聞く』ってやつ」 「え?」 聞き返すとぼーさんは苦《にが》い笑みを浮かべる。 「『浦戸に殺されたりと聞く』だよ。『ここに来た者はみな死んでいる。浦戸に殺されたりと聞く。逃げよ』だ。どうだい?」 警告。あの隠《かく》し部屋に住んでいた人物は、次にこの家に来る者のためにメッセージを残した。逃げろ、と。 あたしはふと首をかしげた。 「ねぇ、それはわかるけど……。あのコートはだれものなわけ?」 「誰って……」 「だって、女中だったらあんなところに住ませることないでしょ? それにあのコートは病院の付属施設の支給品だったじゃない。あのコートの持ち主はだれ? 本当に女中さんなの?」 全員が顔を見合わせた。 「まさか……」 ぼーさんがつぶやく。 「まさか、あいつ、施設の人間まで……?」 施設の人間にめぼしをつける。その人物をここへ連《つ》れてきて、事情を知らない使用人にわからないよう隠し部屋に閉じこめておく。そして……。 ひどい。そんなの、ひどすぎる。鉦幸は人間じゃない。本当に『悪魔の子』だったんだ。 あたしはハッとした。もしかしたら宏幸《ひろゆき》氏は、父親がここでなにをしてたか知っていたんじゃないだろうか。 あたしがそう言うと、ナルはうなずく。 「ありうるな。それでここを封印し、だれにも知られないように増築をくりかえして屋敷の奥深くに隠した……」 宏幸氏は言っていたという。「幽霊が出るから出ないようにするんだ」と。 ここでなにが行われていたか知っていたとすれば、この発言もうなずける気がする。宏幸氏はさぞ怖《こわ》かったろう。自分の父親が、父親の殺した人間の怨念《おんねん》が。 ナルは深く考えこむ表情で、 「消えたのは若い人間ばかり……」 ふにそうつぶやいた。 「鉦幸がなぜあんなことをしたのか、わかった」 え? 「鉦幸は病弱だった。彼は自分の身体をうらめしく思っていただろう。血は人の精気の源だとされる。エルベジェットがその精気によって自分の美貌を保てると信じたように、鉦幸は若い人間の精気によって自分の健康を守ることができると信じた」 「……うん」 「実際彼は、決して長命といえるほど長生きしたわけじゃない。さぞ無念だったろう。人を殺してまで長らえたかった自分の命は、結局長持ちしなかったわけだから」 ……たしかに。 「奴に殺された人間の霊は、おそらく失踪には関係がない。鈴木さんは死んでた。殺した者がこの家にすむ幽霊なら、その悪霊は浦戸でしかありえない」 背筋が冷えた。 「浦戸はいるんだ……この家にまだ。この家で生け贄を求めている」
8
ベースに戻ると朝の四時だった。そのまま夜明けまでミーティングをして、陽が昇ると同時にあたしたちは作業を始めた。 「まず、煙突があると推定される場所から始める」 ナルが宣言して、あたしたちは問題の場所に向かった。全員が重い機材を手分けしてかかえている。 リンさんが大切そうに抱えているのはレーダー。これは本来、ポルターガイスト事件の暗示実験に使う。関係のあるもの――たとえば花瓶――が動くと暗示を与えて、花瓶をおいた部屋を封鎖する。もしもその花瓶が動けば、ポルターガイストの正体は人間の不可思議《ふかしぎ》な力だということになる。完全に密閉された部屋を作るためにはケーブル類を部屋の外に引き出すことができない。それで壁越しにレーダーで花瓶の動きをチェックして、無線で室内のビデオ・カメラに作業させるわけ。そのレーダーを今回は特殊な目的に使ってみる。すなわち、壁の厚みを知るために。もっといいレーダーがあれば、壁の向こうのようすまでわかるらしいのだけど。 空白に面した壁を全部チェックする。 「この壁がいちばん屈折率が低いようです」 リンさんが平面図を示した。レーダーってのは電磁波を放射してその反射を拾うわけだけど、電磁波の屈折率が低いってことは、それだけくみしやすい壁だというわけ。薄いとか、厚くてもスカスカだとか。 現場に急行して、大橋さんに借りた工具で壁を壊《こわ》しにかかる。思った以上に簡単に穴が開いた。壁の向こうに明かりは見えない。中のようすが見えるほどの穴をあけるとなると大作業になるわけだけど、この穴は三〇センチていど。そこに赤外線カメラの鼻面を突っこむ。モニターにカメラの映像を出した。 人の眼には見えない赤外線の光を浴びて、中のようすがはっきりと映し出された。中は八畳くらいの雑然とした部屋になっていた。部屋の正面、向こう側に大きななにか。 「……あれ、なに?」 ナルは考えこむ。 「焼却炉《しょうきゃくろ》かカマドのように見えるな……」 たしかに、部屋のようすは学校の焼却炉のまわり、あの感じにいちばん似てた。 「入ってみよう」 ナルが宣言して、あらためて壁に穴を開けにかかる。今度は気合を入れて、人が通れるほどの穴を開けた。ホコリとカビの嫌《いや》な臭いが流れ出してくる。 ホコリが舞う中にハンドライトの明かりが交錯する。焼却炉の姿が浮かびあがった。資格い巨大な箱のような形に壁が作られていて、正面の中央には錆《さび》のういた鉄製の蓋《ふた》がふたつ、レンガでできているらしい太い煙突がまっすぐ天井に伸びている。 あたしと真砂子《まさこ》、綾子《あやこ》を外に残して、他の四人がその部屋に入っていった。 「だいじょうぶ?」 声をかけるとぼーさんが、 「……ああ。床は石だな。しっかりしたもんだ」 ……いや、そうではなくて。 「ひでぇ臭いがする」 たしかに、なにかひどい腐臭《ふしゅう》のような臭いがその部屋には充満していた。「ドアがある」 ナルがつぶやいて部屋の右手に向かう。見るとライトに照らされてかたむいたドアが見えた。半分開いたようになっているドアの向こうには、レンガが積み上げられているのがわかる。ナルがドアを引くと、ドア自体がはずれてしまう。その向こうは完全な壁になっていた。 壁には窓もあったようだけど、その向こうも完全な壁。レンガで封じこめられた密室。 ぼーさんは壁ぎわに並んだ木箱をのぞきこむ。かがみこんで中のものを拾い出した。 「……石炭だな」 さらに隣の木箱を、ぼーさんがのぞきこんだときだった。 「……わっ!」 ジョンが悲鳴みたいな声をあげた。 「どうした!?」 ジョンは焼却炉の蓋を開けたところだった。ナルとぼーさんが駆けつける。後じさって硬直したジョンのわきから中に光を当てた。 「ねぇ、どうしたの?」 あたしたちが呼びかけても返答はない。ぼーさんが立ち上がってナルを見た。 「……どうする?」 ナルはじっと中をのぞきこんだまま、 「警察に連絡したほうがいいだろうな」 そう言って立ち上がり、こちらに出てきた。 ……警察!? 「……ねぇってば。どうしたの!?」 穴から出てきたナルをつかまえて聞くと、ナルはひどく静かな声で言った。 「死体がある」
五章 人喰《ひとく》い
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食堂で大橋さんをつかまえて、それを報告すると大騒ぎになった。すでに起きていた数人の霊能者たちもすっかり狼狽《ろうばい》してしまう。 「……死体……ですか」 ナルは大橋さんに聞かれてうなずく。 「二月に消えたふたりのうちのどちらかだと思います。警察に連絡をしたほうがいいと思いますが」 「待ってください」 大橋さんは顔をひきつらせていた。 「それは困ります。私の一存ではそれはできません」 そんなことを言ってる場合? 「とにかく、先生に連絡を取ります。どうにか指示があるまで伏せておいてください」 そう言って転《ころ》がるように食堂を出ていく。 「それは、どこですか?」 五十嵐《いがらし》先生が聞いてきた。 「建物の西の方です。この位置ですが」 ナルは平面図を示した。 先生はそれを見て驚いたようにテーブルについた南さんとデイビス博士を振り返る。愕然《がくぜん》としたままのふたりに、感心したように言った。 「すばらしいわ。博士の予言どおりでしたわね」 ……え? 「なんですか? それは?」 ナルが聞くと五十嵐先生は満足そうに笑って、 「いえ、さっき博士が予言をなさったのです。失踪者の行方《ゆくえ》をお聞きしたら透視をしてくださったんです。すると、失踪者は西の方にいるとおっしゃって」 あたしたちは南さんとデイビス博士を振り返った。ふたりはなぜだかひどく困ったような顔をしている。反対に五十嵐先生はずいぶんと浮かれているように見えた。 「すばらしいことですわ。さすが博士でいらっしゃるわ」 ナルがひどく冷たい声を出した。 「先生、おわかりになっておられますか」 「……なにがです?」 「二月に失踪した人間が死んでいる以上、他の失踪者にもほとんど生存の望みはないと思われます」 とたんに先生の顔がこわばった。 「……鈴木さんは死んでいるとおっしゃるの?」 あたしたちはその答えを知ってる。でも、とても言えなかった。 「鈴木さんにかぎらず、厚木《あつぎ》さんも福田《ふくだ》さんもおそらくは」 「でも、二月の失踪はあれはずいぶん前のことでしたでしょう。きっと道に迷《まよ》って」 言いかけた先生をナルがさえぎった。 「あの部屋に迷いこむことはできません」 「……え?」 「あの部屋は外から完全に密閉されていました。僕らも壁に穴を開けて入ったんです。普通の人間が通常の方法で入ることはできません。迷いこんだりできるような場所ではないんです」 五十嵐先生は真っ青になった。 突然、三橋さんが立ち上がった。職員のおじさんを呼ぶ。 「君、私は帰るからな」 「あの……?」 困惑した表情のおじさんに言い捨てる。 「調査を打ち切って帰る、と言っているんだ。大橋くんにはリタイアしたと伝えてくれ」 目を丸くしたままのおじさんを残して、三橋さんはあわただしく食堂を出ていく。南さんが博士をうながして立ち上がり、その後に続いた。
急転直下のなりゆきだった。まず三橋さんが家を出ていった。その後に起きてきた井村《いむら》さんと聖《ひじり》さんも死体発見の報告に青ざめ、そして三橋さんがリタイアしたことを聞くと、井村さんもリタイアを宣言した。 大橋さんは困惑した表情だった。どうやら彼のご主人は警察を呼ぶとに反対したらしい。警察を呼び、解体業者を呼んで空白の部分を全部壊《こわ》してみるべきだと主張するナルを押しとどめながら、それでもどうしていいかわからないという顔をしていた。 二時間後、聖さんのところの霊媒だったおねーさんがいなくなっているのがわかった。失踪かと身構えたあたしたちだったけど、聖さんの車がなくなっているのが発見されて、彼女は逃げだしたのだとわかった。 そして職員のひとりは市内に雑用で出かけ、そのまま戻ってこなかった。 残されたあたしたちは食堂に集まっていた。聖さん、五十嵐先生、そして南さんの助手のおばさんがひとり。 白石《しらいし》さんというそのおばさんは、さかんに聖に帰らないのかと聞いていた。 聖さんは不快そうに言う。 「うちの厚木くんは消えたままなんですよ。たとえ死んでいるにしても、残して帰れるわけがないでしょう」 ……そのとおり。 五十嵐先生もうなずく。 「とにかく、早く捜してあげないと……。かわいそうに……」 そう言って目頭《めがしら》を押さえる。 ちょうどそこへ南さんが顔を出した。 「白石くん」 南さんは白石さんに片手で手招きをする。もう片方の手にはカバンを持っていた。 「……南さん」 五十嵐先生は立ち上がる。 「まさか、南さんもお帰りになるんですか?」 南さんは顔をしかめた。 「しかたないでしょう」 「だっておたくの福田さんは消えたままじゃないですか!」 南さんは視線をそらす。 「捜して無事な姿が見つかるものなら残って捜しますがね。こんな危険なところにいて、さらに被害が出ちゃあ話にならない。我々はリタイアします」 ……そんな、冷たい。 五十嵐先生は南さんのもとに駆《か》けつける。 「そんな」 南さんの手をとって、それから背後にいたデイビス博士を見やった。 「博士も帰るのですか!? あなたの力が必要になるかもしれないのに!?」 南さんも博士も答えない。 「お願いします。お帰りにならないでくださいまし。鈴木さんを捜してください」 五十嵐先生は博士の腕をつかむ。 「お願いします!」 博士はひどくうろたえた顔で手を振った。 「ワタシは違います」 先生もあたしたちも、博士の顔をまじまじと見てしまった。少しなまってはいるけど、ちゃんとした日本語だった。 「ワタシは、博士では、ないです」 「なんですって!?」 五十嵐先生は声をあげる。あたしは心の中で、やっぱり、と思ってた。 「ワタシ、名前をレイモンド・ウォール、いいます。デイビスでは、ないです」 「おい、きみ!」 南さんが制したけど、出てしまった言葉は取り消せない。 博士――いや、ウォールさんはひどく困った顔をしていた。 「あっち、言ったのも、うそです。そう言っただけです。ワタシはちがいます。南サンがデイビスと、言えと言っただけです」 南さんは怒ったように顔をそむける。ウォールさんは続けた。 「ワタシ、帰ります。もう、帰ります」 五十嵐先生は手を放した。彼はあわてたように背をそむけて廊下《ろうか》を去っていく。南さんがそれに続いた。もうだれも止める人はいなかった。
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「……あのペテン師が!」 そう聖《ひじり》さんがつぶやいたけど、だれもそれに答える気にはなれないようだった。 ナルが静かな声で言う。 「おふた方もお帰りになったほうがいいと思います」 五十嵐《いがらし》先生は悲壮な顔で振り返る。 「どうして……どうして、そんなことを」 「ここは危険です。諏訪《すわ》市内に戻るだけでもいい。この家を出たほうがいいと思います」 そしてナルは愕然《がくぜん》とするようなことを言ってのけた。 「僕らも引き上げます」 「ちょっ……ちょっと待ってよ!」 あたしは思わず叫んでしまった。 「引き上げるって……じゃあ、他の失踪した人は? このまま放って帰るつもり?」 ナルは静かな声で言う。 「全員死んでいる。捜しても望みはない」 「でも……」 「家の中は捜しつくした。失踪者は閉ざされた部屋の中にいるとしか思えないし、事実そうだった。しか |