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悪霊シリーズ第5巻 悪霊になりたくない
作者:    出处:    发表时间:2007-09-20    浏览次数:     

胜盲俊I丹螭悉饯谓}を見てあっさりと、
「あら、それが鉦幸氏よ」
そう言った。

「鉦幸のペンネームが浦戸だったのか」
 ぼーんさは、森さんが残していった写真のコピーをしげしげとながめた。
『美山製糸工場』と書かれた看板を門柱にかかげた、工場の前に立つ人物の写真だった。どこからどう見ても、自画像のモデルは鉦幸氏に間違いない。
「慈善家だったけど、変人だったんだな、このおっさんは」
「だよねぇ」
 ナルはちょっと厳しい顔をする。
「変人ですまされるかな。『ここに来た者はみな死んでいる』か。ここ、というのは当然この山荘なんだろう。ここでなにがあったのか……。『浦戸・・さ・た・・聞く』――これらの意味がわかればな」
 なんだかその声の調子が、妙に不安な気分にさせた。
「ひとつだけわかることがありますわ」
 真砂子《まさこ》が言った。
「なに……?」
 あたしが聞くと、
「あら、もうお忘れになりましたのは? 降霊会で霊が言った言葉ですわ」
 ……あ。
「『助けて』『死にたくない』――きっとあれはここに来て死んだ人たちの霊なんですわ」
 真砂子の言葉はさらにあたしを不安な気分にさせた。
 不安を抱いたまま、その夜は部屋に引き上げて。
 ――そしてあたしは夢を見た。

     9

 自分でもなんで眼が覚めたのかわからなかった。
 夜中にふと眼を覚《さ》まして、おや、と思うといきなり手足が硬直して動かない。ナルに言わせるとある種の金縛《かなしば》りは心霊現象ではなく生理的な現象なんだって。頭は起きてるけど身体《からだ》が起きてない。身体の神経と脳の神経がうまくつながってない、そういう状態。身体がうんと疲れててそのくせ精神が興奮してるような、そういう時に起こる。
 それであたしは金縛りだぁ、と思ってもひどく落ち着いていた。さりげなくあたりを見まわして、綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》が寝てるのを確認する。確認して、これはヤバい、と思った。あたまが動く。寝ぼけて起こった金縛りは、まるで身体が動かないのがふつうだから。
 急速に背中が冷えた。綾子と真砂子を呼ぼうとした。むろん、声は出ない。せめてかすれた悲鳴だけでも、そう思ったけど息でさえうまくできない。どっと冷や汗が出て、頭がグラグラする。心の中で落ち着け、落ち着けと言い聞かせて、あたしは真言《しんごん》を唱《とな》えた。
 ナウマクサンマンダバザラダンカン、ナウマクサンマンダバザラダンカン……。
 突然ふっと身体が軽くなって。やれやれと力を抜いたとたんに、微《かす》かな音をたててドアが開いた。
 
 まだ身体は思うように動かない。頭だけを動かしてドアのほうを見ると、黒い人影が部屋に入ってくるのが見えた。
 とっさにちょっとホッとした。それはまちがいなく人間のシルエットに見えたから。人影はふたつ。そのふたりは静かにあたしのほうへ近づいてくる。
 だれ。そう言おうとして、あたしは寝る前ドアに鍵《かぎ》をかけたのを思い出した。ナルが用心しろとくどいほど言うので、しっかり鍵をかけたはず。
 ……どうしてドアが開いたの?
 人影があたしの両脇に立った。暗がりの中、微《かす》かに顔が見える。男。ふたりとも全く知らない人間に見えた。とっさに浮かんだのは強盗か痴漢《ちかん》だろうかという思考で。必死で綾子と真砂子を心の中で呼んでるうちに、その男があたしの腕を取った。
「なにすんのよっ!」
 心の中で悲鳴をあげたけど、声はでない。両手を引っ張られてあたしは起き上がった。身体が動く。まったくあたしの思いどおりにはならないけれど。抵抗したのに、できない。指の一本でさえ思うように動かない。なのに自分の身体が相手のなすがままに動く。
 あたしは手を引っ張られるまま立ち上がった。男たちに両腕を抱えられて歩く。内心パニックをおこしながら、部屋から引き出されていった。
 部屋の外は真っ暗だった。廊下《ろうか》には明かりがついていたはずなのに。その、真っ暗で右も左もわからない廊下を連《つ》れて行かれる。えんえんと歩いて、男の人がドアを開けた。
 どこの部屋だかはわからない。それはけっこう広い部屋で、光源は何なのか、わりに明るかった。まるで満月の下のような奇妙な明るさ。部屋の中には家具がきちんとそろっている。いかにも高そうな家具で、たしかにそこに人が住んでる気配があった。正面には暖炉《だんろ》。そこには火が入っている。暖炉の前の小さなテーブルには背の高いグラスが載《の》っている。それでも部屋の中に人影はなかった。
 男たちはあたしを引きずって部屋の中を歩く。黙《だま》って右にあるクローゼットに連れて行った。そのクローゼットを開けると、そこは廊下だった。細い暗い廊下がずっと向こうまで続いている。その細さが暗さがなんだかとても気味悪くて、あたしは必死で腕を解《と》こうとしたけど、もちろん、声さえ出ない。
 腕を使えまられて歩いて行くと、その廊下はいつの間にか両側を生《い》け垣《がき》にはさまれた細い砂利《じゃり》道に変わっていた。
 ざかざか砂利を踏《ふ》みながら、あたしは両側の男を見上げる。明るいのに顔は見えない。いや、確かに顔は見えているんだけど、どんな顔をしているのか理解できない。
 ……夢なんだ、これ。
 そう、夢でなきゃ、こんなこと起こるはずがない。
 あたしは両側の生け垣を見上げた。ずいぶん高い生け垣が、あたしの頭上のはるか上を延々と続いている。
 これが夢ならちゃんと情報収集しなきゃ。そんなふうに決心するのって、なんだか妙な気がしたけど。
 生け垣を曲《ま》がりくねって歩いていくと、道はいつの間にか細い廊下に戻っていた。微かに血の臭いがした。それだけじゃない。なにかが腐《くさ》った臭いもする。
 廊下の突き当たりにはドアがあった。あたしは心の中でしりごみする。そこに入りたくない。なんだか嫌《いや》な臭いがする。そのドアの向こうから漂《ただ》ってくる気がする。
 男たちがドアを開けた。そこにも広い部屋があった。
 その部屋はホールになっているようだった。ガランとした室内に階段がひとつとドアがいくつか。ムッとするほど強い血の臭いがする。あたしは階段を上らされて、さらに三つほどのドアの前を行き過ぎ、いちばん奥の部屋に連れて行かれた。
 その部屋はお風呂か何かのように見えた。白い陶器製のタイルを張った小さな部屋。その板張りの床の上で腕を解かれて、いきなり服を脱《ぬ》がされ始めた。
(やめてよ!)
 心の中で叫んで、あたしは自分が着ているものが、いつの間にか着物になっているのに気づいた。紺色の着物。そうか、夢なんだ、これ。
 そう思っても、他人に着ているものを脱がされるのはいい気分とは決して言えない。裸《はだか》にされてさらに奥の部屋に連れて行かれた。
 その奥は十二畳はあろうかという部屋だった。白いタイル張りなのは小部屋と同じ。部屋の中央、壁よりに同じく白いバスタブがおいてあった。外国映画に出てくるような、床の上に置いたアンティークなバスタブ。
 そして、その床の上に流れた赤いもの。
 猛烈な血の臭いと激しい腐臭《ふしゅう》で、あたしは胸が詰まった。吐《は》きそうになるのをこらえる。足が生暖《なまあたた》かい流れを踏む。べたべたと粘度《ねんど》が強くて踏むたびに背筋がゾワゾワした。その広い部屋は一面が赤く染まっていた。かろうじてまだ白いタイルの上を踏むと、そこには赤い足跡が残った。よく見ると血溜《ちだ》りの中に白っぽいブヨブヨしたものが散っている。それはごく小さな肉片のように見えた。
(……いやだ)
 夢だと思っても、気味が悪くて吐きそうだった。バスタブをのそぎこむと、そこには赤いものが少しだけ溜《た》まっている。赤い滴《しずく》が流れ落ちたあとが、白いすべすべした陶器の表面に縞模様《しまもよう》を描いていた。
(こんな夢、やだ)
 男たちはあたしを部屋の置くへ連れて行く。そこには小さなベッドがあった。病院にでもありそうな、白いパイプのベッド。マットがあるはずの部分には白いタイルが張ってあって、パイプもタイルも真っ赤なものでドロドロになっていた。
「……いや」
 声が出た。あたしは腕を引っ張られたまましりごみをした。
 あんなところには寝たくない。ベッドの真下にある大きなタライは何なの。ベッドの足もとにある深いバケツのような桶《おけ》はなに? どうしてタイルが張ってあるの。どうしてベッドの枠《わく》に紐《ひも》がついてるの。どうしてあんなに汚れてるの!?
 男たちが激しい力であたしをベッドの上に引きずり上げようとした。あたしはそれに悲鳴を上げて抵抗する。つかんだ腕を引っかいてかみついて、それでも猛烈な力でタイルの上にひっぱり上げられた。タイルの上に引きずり上げられたとたん、背中にずるっとした官職。生暖かい血の気味悪いなめらかさと、なにかやわらかなかけらを――まるで肉片のようななにかを――押しつぶしたおぞけのするような感覚。
「いやっ!」
 逃げようとして身動きをすると、身体じゅうに血がからみつく。全身が血で濡《ぬ》れて、息がつまるほどの悪臭がまとわりついた。
 ベッドの向きとは逆に、足もとの方に頭を向けて寝かされた。骨も関節もギシギシいうほどの力で押さえこまれる。
「いやっ! はなしてっ!!」
(夢だ……)
 腕を抜けるほど引っ張られて、手首がパイプにくくりつけられる。
(こんなの、夢なんだから)
 足がくくりつけられる。
「いや! 助けて!!」
 胸の上に太い紐《ひも》が渡されて、上半身を押さえこまれた。がくっと喉《のど》が仰《の》け反《ぞ》ってベッドの外に首を垂《た》らした格好になる。
 やだ。こんな姿勢は怖《こわ》い。必死で身動きしても身体が動かない。男たちが離れて行った。ベッドにくくりつけられて、頭を仰け反らせた格好のままあたしはその場に放置される。身体じゅうにからみついた血が、重力にしたがってすべり落ちていくのがわかった。
 落ち着いて。これは夢なんだから。これは、絶対に夢なんだから。だって、こんなことあるはずがない。もうじき目が覚める。きっと目が覚めて、ああ夢だったんだ、って思う。
 そうは思っても歯の根が合わないほど震《ふる》えた。ぎゅっと閉じてた眼を開けて、あたしはポカンとした。
 ――白い光。
 その、大きな包丁のようなものはなに?
 それでなにをするの? あたしをどうしようって言うの?
(助けて)
 男のひとりがあたしの脇に立ち、もうひとりが顔の脇に立った。顔の側に立った男があたしの髪をつかんだ。グッと下に引っ張ってあたしは首筋が痙攣《けいれん》するほど喉を反らせる。
(いや)
 もう声が出ない。あたしは自分に言い聞かせる。これは夢だ。だから、だいじょうぶ。これ以上怖いことは起こらない。きっとだいじょうぶ。
 眼を閉じることも身動きすることもできなかった。ただガタガタ震《ふる》えながら、ただボンヤリと眼に映るものを見ていた。
(助けて)
 白いタイル。赤いものが天井の近くまで飛んでいる。そのシミの形。
 ふいに男があたしの髪を放した。男がちょっと身体を引く。
 ほら、だいじょうぶ。やっぱり、怖いことなんて起こらないじゃない。だって、これは夢なんだから。
 男が屈《かが》みこんで桶の位置を調整する気配がした。手に持った刃物がキラキラと視野を横切る。
 あたし、もう目を覚ましたい。こんなところにこれ以上いるのは嫌《いや》だ。
 男が見を起こした。
 だいじょうぶ、これ以上怖いことは起こらない。こいつは離れて行ってしまう。きっと。
 男の腕が伸びて、あたしの髪をつかんだ。首が折れるほどの力で大きく喉を反らす格好にされる。――もう一度。
(いや)
 視界を白い光が横切った。
(死にたくない)
 男が身を乗り出した。
(助けて)
 反らした喉に冷たい指が当たる。
(あたし、死にたくない)
 男の腕が上がって、凍《こお》るほど冷たいものが喉に当たった。細い鋭利なもの。
 きっとこのまま男は動かない。このまま離れて行く。そうでなければ時間が止まるはず。助けが来るはず。目が覚めるはず。きっと。
 怖い。見ていたくない。眼を閉じたいのにそれができない。あたしは硬直したまま壁のタイルを見ていた。
 男の腕が動いた。
 どうして目が覚めないの!! お願い、起きて!!
 細い冷たい感触が喉をすべった。引っかいたほどのチリチリする痛みが走る。
 どっと暖かいものが喉から溢《あふ》れて首を伝った。視野が真っ赤に染まる。やっと首を切り落とされたような激痛が来て、あたしは全身全霊で悲鳴をあげた。
 助けて! あたし、殺されたくない!!


四章 手の鳴るほうへ


     1

「麻衣《まい》っ!!」
 激しい声がして、頬《ほお》をぶたれた。
「麻衣っ!?」
 綾子《あやこ》の声だ。パッと眼を開けた。涙で潤《うる》んだ視野に綾子の顔が飛びこんできた。
 そのとたん、あたしは悲鳴をあげていた。身体《からだ》の奥から悲鳴をあげる。喉《のど》でしゃがれてうまく声にならなかったけど、とにかく叫んだ。自分の内側に溜《た》まった怖《こわ》いのが全部外に出てしまうまで。
「麻衣! しっかりしてっ! 麻衣っ!!」
 身体が痙攣《けいれん》したみたいに震《ふる》えた。必死で綾子にしがみついた。綾子のあったかい手があたしの背中を一生懸命撫《な》でる。
「しっかりして。夢だから、だいじょうぶだからね」
 ほら、と、うながされて顔を上げると、目の前にコップがさしだされていた。
「お水……飲めます?」
 真砂子《まさこ》のひどく心配そうな顔。あたしはやっと落ち着いて、そのコップを受け取った。手がひどく震《ふる》えて、コップの中身をほとんどこぼしてしまいそうだった。
「……うん。ごめん」
 声が震えていた。涙がぱたぱた落ちた。
 
「どうしたの、いったい」
「怖い夢、見たの」
 本当に、怖かった……。
「夢って……」
 綾子が聞いてきたとき、激しい勢いでドアがノックされた。

「いま、悲鳴をあげなかったか!?」
 まっさきに部屋の中にとびこんで来たのは、ぼーさんたちだった。
「……ごめん。あたしがうなされたの」
「……うなされたって……お前……」
 青い顔をしたぼーさんがベッドの脇に膝《ひざ》をついた。安原《やすはら》さんもジョンも大きく息を吐《いき》く。
 パフッとぼーさんが布団《ふとん》に顔を突っこむ。
「……かんべんしてくれよ」
「ごめん」
 安原《やすはら》さんが、引きつった顔で笑った。
「だれかになにか起こったのかと……よかった」
 ジョンもホッとしたように笑う。
「本当によかったです」
 ぼーさんがいきなり顔を上げた。
「うなされたって、まさか例の夢か?」
「うん。だと思う」
「どんな?」
 思い出したくない。思い出そうとするだけで、血の臭いが漂《ただよ》ってくる気がする。
「第六感のオンナだろ?」
「――あたしが殺される夢」
 みんながまじまじとあたしの顔を見た。
「殺されるって……」
 そばに座ったままの綾子があたしの顔をのぞきこむ。
「男の人がふたり来てね、あたしを変なタイル張りの部屋に引っ張って行ったの。手術台みたいなベッドがあって、部屋じゅう血だらけだった。そこで喉《のど》を裂《さ》かれたの」
 あたし、血が噴《ふ》き出したときの感じをハッキリ覚えてる。
「もっと他の人もあそこで死んだんだと思う。処刑場だよ、あれ」
 言ってるうちに、涙が出てきた。
 本当に死ぬんだと思った。すごく、怖かった。
 綾子が背中を叩く。次から次へ涙が出てきて止まらなかった。
 馬鹿《ばか》みたいにひとしきり泣いて、顔を上げると開いたままのドアのところにリンさんが立ってた。ナルの姿はない。
 どうして、いないんだろう。
 どうして、いなかったんだろう。
 いつだって夢の中にナルがいて、いろんなことを教えてくれたり助けてくれたりしたのに。いつだって微笑《わら》ってくれて。なのに、どうして。
 ……冷たいんだから。本当に冷たいんだから。
 なんだか思考がメチャクチャで、意味もなくもう一度涙が出てきた。あわててうつむいて、必死で顔をこす。泣いてる場合じゃない。みんなに心配かけてる。
 ポンと誰かに頭を叩かれて(そういうことをするのはぼーさんだと思う)、あたしはとにかくうなずいた。だいじょうぶ。もう落ち着く。
 ふいに紅茶の匂《にお》いがした。小さく食器がなる音がして、あたしは顔を上げた。目の前にティー・カップがさしだされて、あたしはキョトンとしてしまった。
「だいじょうぶ?」
 抑揚《よくよう》のない静かな声。顔を上げると、ナルがカップをさしだしていた。薄めのグレイのパジャマを着てる。それがなんだかめずらしくて、あたしは思わず落ち着いてしまった。
「……ありがと。だいじょうぶ」
 そっとカップを受け取る。うん、だいじょうぶ。手の震えがおさまったみたい。
「みんなも、ごめんね。ありがと」
 カップを支えたまま軽く頭を下げる。そっと背中を綾子にぶたれた。
 ナルは脇に立ったまま、軽く息をひとつ。それから、
「なにがあった?」
 そう聞いた。

 あたしが丁寧《ていねい》に話を終えると、安原さんが低い声で言った。
「鈴木さんか厚木《あつぎ》さん……もう死んでるのかもしれないな」
「おいおい、少年。気安く言うなよ」
 ぼーさんは目を丸くしてる。
「だって、谷山《たにやま》さんが見たの、どちらかのことかもしれないでしょ」
 え?
「それはつまり……麻衣が誰かとシンクロして、いわばテレパシーを受けたってことか?」
「専門的なことはよくわかりませんけどね。実際に殺されたのは鈴木さんか厚木さんで、谷山さんは厚木さんの経験を、あたかも自分の経験のように感じ取ったんじゃないかって、そんな可能性もあるんじゃないかな。そういうことって、あるのかどうか僕にはわからないですけど」
 ぼーさんが意見を求めるように綾子のベッドに座ったナルを見た。ナルはうっとおしそうな声で、
「そういうテレパシー夢の例がないわけじゃないが、麻衣にそこまでの能力があるかな」 ……む。なんだよー、その言い方はー。
「それより、その部屋のほうが気になるな」
 言いながら闇色の眼で宙を見つめる。
「その処刑室に該当《がいとう》するような部屋はなかったと思う。暖炉《だんろ》のある部屋でクローゼットのある部屋、というのも見覚えがない。生け垣というのも正体不明だ。もしそんな部屋が実在するなら、あの大きな空洞部分しかないわけだが……」
「しかし、麻衣が見たのは過去だという可能性もある。その場合、処刑室はすでに改築されてないこともありうるしな」
 そういえば、着物着てたな、あたし……。
「いずれにしても、平面図の空白部分が気になる」
「もう、壁をブチ抜くしかないんじゃないの?」
 思わずあたしがそう言うと、ぼーさんが盛大なため息をついた。
「何を考えてんだ、この嬢ちゃんは。ぶち抜くって、だれがブチ抜くんだよ」
 ……そりゃやっぱ、リンさんとぼーさんとジョンと安原さんと……。
 ま、嫌《いや》がるわな、ふつー。
 大橋さんが許可するかどうかはおいといても、人手が足りない。ここで作業員なんか雇《やと》ってさらに人が消えたら目もあてられないし。
 そう思ってたわけだけど。
「その発想は悪くないな」
 アッサリしたナルの一言。
「おいー、冗談じゃねぇよ。あの壁全部ブチ抜くのかぁ?」
 ぼーさんの悲鳴にナルは不穏な笑いを浮かべた。
「隠《かく》し通路が見つからないなら、しかたない。いずれにしても夜が明けてからだ」
「失踪人捜しは」
「彼らは僕らの目に見える範囲内にいない。だとしたら目に見えないところにいるんだ。隠し部屋を発見できれば、おのずから解決する可能性がある」
 それはそーなんですが。
 ぼーさんが恨《うら》めしそうにあたしを見た。
 ごめんよ。でもま、ボランティアですから。がんばってね。

 あたしが悲鳴をあげた時間というのは夜中の二時で。それから軽く仮眠をとって、夜明けと同時に起床した。身づくろいをして朝ごはんを食べる。と、言ってもさすがのあたしも今朝《けさ》はものが喉を通らなかったんだな、これが。それからベースに集合した。 リンさんは機材のチェックを済ませている。それによると、昨夜も機材にはなんの動きもなかったそうな。
 取りあえず、昨日やり残した二階以上の正確な調査を続けることになって。
「それでダメなら壁に穴をあける方向でいこう」
 ナルの悲惨な言葉であたしたちは作業を開始した。

     2

「なー、麻衣《まい》」
「ん?」
 床に水準測定器を置きながら、あたしはぼーさんを振り返った。
「お前が夢で見た、その男たちって、どういう人物なのかわからないのか?」
「うん。それがさー、一生懸命《いっしょうけんめい》あいつらの顔を見たんだけど、全然顔つきが印象に残らないんだよね。なんか、見たはしから忘れていく感じで、見てるのはわかってたんだけど、どいう顔だかわからなかったの」
 床にしゃがみこんだあたしのそばにぼーさんがしゃがみこんだ。
「なー、ここだけの話だが」
「うん」
 
 声をひそめたもんで、ジョンや安原《やすはら》さんも寄ってくる。
「それって……ここの職員の中に思い当たる人物はいなかったか?」
「ええー!?」
 しっ、とぼーさんが指を唇《くちびる》に当てる。
「まさかとは思うけどなぁ、ここの連中がなんかしてんじゃねぇだろうなぁ」
 ええぇー……。
 同じくしゃがみこんだ安原さんが身を乗り出す。
「あ、そういうのって映画なんかじゃありそうですよね」
「だろ?」
「隠《かく》し部屋のことも隠し通路も知ってるのに黙《だま》ってる、そういう可能性もありますよね」
「そうなんだよ。あいつらが失踪したふたりを隠しててさ、でもって……」
 ぼーさんは首に手をあてる。
 安原さんはウンウンうなずいて、
「すると僕たちは生《い》け贄《にえ》ってわけですね。マスコミに知られると困るなんて言ってここに閉じこめて、ひとりずつ消していく。最後には誰も残らない……」
「実は大橋ってのが殺人狂とかさ」
「ひょっとしたらここが、悪魔崇拝《すうはい》の秘密教会かもしれませんよ」
 同じくしゃがみこんだジョンは頭を抱えた。
「あいつら、変なことを目撃したりしてねぇって言ってたじゃねぇか。長いことここにいて準備をしてたんだろう? なんにもねぇってありうるか?」
「そうですよね。職員から失踪者は出てないし。考えてみれば、この家に直接的に関係のある人間は消えてませんよね。霊能者、忍びこんだ不良少年、捜索に来た消防団員……」「だろ?」
 あたしは思わずふたりの顔を見比べてしまった。
「ね、それ本気で言ってるの?」
「え?」
「いや……その」
「そーゆうくだらないことを言ってサボってても、問題は解決しないと思うけど」
 ぼーさんと安原さんはそっぽを向いた。
「そんなの、ナルが納得《なっとく》するわけないもん。どーせ全部の床に水準測定器を置かなきゃならないわけだしー。いずれ壁を壊《こわ》さなきゃならないわけでしょ?」「麻衣」
「なぁに?」
「お前は、本っ当にかわいくないな」
「よけいなおせわ」
 ふーんだ。
 そのときだった。
「ちょっと待ってください」
 ジョンが深刻な顔で軽く手を上げた。
「どーしたの」
「さっきの、安原さんの話です。この家の関係者は消えてない、ゆう話」
「ちょっと、ジョン。あんなのギャグなんだから、マに受けちゃダメ」
 ジョンの青い眼があたしをのぞきこむ。
「けど、それって事実と違いますか?」
「事実って……」
「ここに住んではった鉦幸《かねゆき》氏は無事でした。ときおり滞在した宏幸《ひろゆき》氏も無事でした。職員の皆さんかて、今日まで無事に過ごしてはります」
「おいおい、ジョン」
 ぼーさんが呆《あき》れたように声をかける。対するジョンはまったく真面目《まじめ》なようすだった。
「消えたのは外部の人間ばかりです。これには本当に意味がないんですやろか」
「お前……まさか本気でここの連中が犯人だと……」
 ジョンは首を横に振った。
「そんなんと違います。けど、関係はあるんやないかと思うんです」
 関係って……。
「厚木さんは奇妙な消え方をしました。ほんまやったら消えるはずがないんです。これって、やっぱり霊の仕業《しわざ》なんとちがうんでしょうか」
「……かもしれんが」
「やったら、ここの霊は犠牲者に選《え》り好みをしてることになりませんか? ここの霊は美山《みやま》家に関係のある人間は犠牲にせぇへん、とか」
 ぼーさんは考えこんだ。
「しかし、職員はたかが使用人だろ? 血筋ってわけでもねぇし」
「やったら、ここの霊は若いお人が好きなのかもしれません」
 ……え?
「職員の皆さんは全員年配の方ばかりですやろ。反対に消えたのは二十代以下の若い人ばかりなんと違いますか?」
「……言えてる」
 ぼーさんがうなずいた。
 あたしは立ち上がった。
「あたし、ナルに話してくる」
「待った」
 ぼーさんが呼び止める。
「俺たちは全員三十前だろーが。ジョンの意見が正しかったら、全員が危険なんだぜ」
 ……そっか。
「ナルちゃんの言うとおりだ。絶対にひとりにならないほうがいい」

     3

 四人でベースに戻ると、ナルとリンさん、綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》が戻っていて、何やら緊張した顔をしていた。
「……どうしたの?」
 声をかけると綾子が深刻な顔で振り向く。
「よかったわ。帰ってきて。――また人が消えたのよ」
 消えた? また!?
「誰だ?」
 ぼーさんが聞くと、
「福田《ふくだ》さん、ですって」
「いくつだ?」
 ぼーさんの質問の意図は、邸内探検隊にしかわからなかったろう。
 綾子もちょっとポカンとした。
「年なんか知らないわよ。二十五か、そのくらいじゃないの?」
「南心霊調査会の女だろ? あの若いねぇちゃんか?」
「そうだけど……」
やっぱり……。
 ナルが怪訝《けげん》そうにした。
「それが?」

 ぼーさんがジョンの話を披露して、ナルはひどく考えこんでしまった。
「なるほどな……」
 つぶやいて顔を上げ、あたしと安原《やすはら》さんに向かう。
「ふたりとも絶対にひとりになるんじゃない」
 ……うん。
 それから綾子を振り向いて、
「松崎《まつざき》さん、どのていど信用してもいいですか?」
「なによ、それ」
「言葉の遊戯をやっている場合じゃない。麻衣《まい》も安原さんも必要なんです。しかし、ここは危険だ。あなたをどの程度アテにしてもいいんですか?」
 綾子は不満そうに言う。
「退魔法ていどなら……アテにしてくれてもいいわ」
「わかりました」
 ナルはあたしたちを見渡す。
「松崎さんと原さんは絶対に離れないように。お互いにフォローできますね?」
「できると思う……」
 綾子がうなずくと真砂子が言い放つ。
 
「松崎さんでは不安ですわ」
「なによ、それっ!」
 綾子に向かってナルは軽く手をあげる。真砂子を深い色の眼で見た。
「原《はら》さん。僕は基本的にこのメンバー以外を信用できない。アテにできる人間は少ないんです。あなたも霊能者のはしくれなら自分の身ぐらい守れますね」
「……ええ」
「安原さんは全く自分の防御ができない。彼の護衛には十分に信頼できる人間が必要なんです」
「はい……」
 うなずく真砂子を見やってからナルは、
「ぼーさんとジョンは安原さんから離れるな。絶対に眼を離すんじゃない」
 十分に信頼できる人間というのは、ふたりのことか……。
「待ってください」
 リンさんが強い声をあげた。
「それは谷山《たにやま》さんを私が護衛するということですか?」
「そうだが」
「では、あなたは誰が護衛するんです」
「必要ない」
「はっきりと言わせていただきますが。あなたは退魔法は使えないはずです、ちがいますか?」
 ……そらそーだ。ナルは単なる超心理学研究者だもんな。
「もはやあなたの立場は安原さんと同じです。あなたには護衛が必要です」
「リン、なんとかなる」
「冗談じゃありません。なんとかされては困ります。ナルの護衛は私がします」
 きっぱり言って、リンさんはあたしたちを見る。
「滝川《たきがわ》さんは安原さんを。ブラウンさんは谷山さんをお願いします」
「ぼーさんひとりではきつい」
「おいおい、ナルちゃん」
「見損《みそこ》なって言ってるんじゃない。ここはそれだけ危険である可能性があると言ってるんだ」
「では、誰かひとりを返してください。ナルをひとりにすることだけはできません。あなたに万が一のことがあったら、私は教授になんと言っておわびをすればいいのですか?」 教授?
「すこしはご両親の気持ちも考えてあげなさい」
「リン」
「あなたは、自分が十七の子供だということを忘れてはいませんか」
 ナルが厳しい眼でリンさんを見た。
「僕に不満があるんだったら、帰ってもらってもいいんだが」
「なにかカン違いしていませんか。むろん、私は帰ってもいいのですよ」
 リンさんの顔つきはさらに厳しい。
「忘れていただいては困ります。私はあなたのつきそいではありません。あなたを監視するためにいるのですからね」
 ……か、監視ぃ?
 突然、安原さんが立ち上がった。
「僕が、外《はず》れます」
「おい、少年」
 安原さんはぼーさんにうなずく。
「僕が外れれば、問題はないはずです。僕はいちおう『渋谷サイキック・リサーチ』の所長なんですから、後を調査員に任せたといってリタイアしても支障ないはずです」
 ……それはそうだけど。
「僕は、諏訪《すわ》市内に戻って森さんをアシストします。個人的に気になることがいくつかありますし」
 深く考えてナルがうなずいた。

 安原代理所長は、雑用をしに市内へ行く職員の車に乗って家を出て行った。他の霊能者からは聞こえよがしに逃げ出したと言われたけれど。
 出会う人に皮肉を言われながら福田さんの捜索をした。手をつくして捜したにもかかわらず、やはり福田さんの姿も見つからなかった。
 彼女は少し歩いてくると言いおいて、南さんのグループが使っているベースを出、そしてそのまま帰って来なかった。ちょうどその時玄関では職員が掃除をしていたので、少なくとも玄関から出て行ったということはありえない。ただ消えたと、そうとしか言いようがなかった。
 南さんはひどく狼狽《ろうばい》していた。他の霊能者の人たちは、助けを呼ばないのかとさんざん揶揄《やゆ》した。ほかならぬ自分のところのメンバーがいなくなったのだから、博士の活躍も見られるだろう、他の協力者もやってくれるだろう、と言って。
 あたしたちはその騒ぎを見るに耐《た》えなくて、結局、作業に戻った。残った測量を丁寧《ていねい》にやって。夕方に計測を終えて、そしてあたしたちは意外な事実を知った。
「この家は中央が高い構造になってますね」
 リンさんがモニターに家の断面図を出しながら言う。
 一階の床は家の中央に向かってごくわずか傾斜していて、中央付近は外辺部に比べて二メートル以上高くなっていることがわかった。
 ぼーさんは首をかしげる。
「いったい、なんでこんな家を作ったんだ?」
 だよなぁ。
「増改築をくりかえしたって、それだけでX階とかそんなもんができるか?」
 ナルはそっけなく問い返す。
「……と言うと?」
「俺は、意図的にやられたもんなんじゃねぇかって気がするんだよ。なんか目的があって作ったに決まってるさ。こんな家」
「目的……ね」
 ジョンも首をかしげた。
「この家、そもそもはどういう形をしてましたのやろな」
 ナルはうなずいてプリント・アウトを手に取った。
「窓の配置から考えて、中央部の小さな建物に部屋をつけていって、外側に向けて大きくしていったらしい、というところまではわかるんだが……」
 ぼーさんは盛大にため息をつく。
「じゃ、やっぱり中央部のあのデカイ空白が怪《あや》しいんだよな。だいたい、中庭でもねぇのに、二階まで吹き抜けってのは怪しすぎるぜ。問題はどこに抜け道があるかってことなんだが……」
 ナルは紙を弾《はじ》いた。
「抜け道なんてなかったとしたら?」
 え?
「抜け道がない……って、おい」
「あの空白は隠《かく》し部屋ではなく、閉ざされた部屋なのだとしたら?」
 あ……!
 そうか、恐怖映画によくあるパターン。壁を崩《くず》すとその向こうに閉ざされた部屋があって、そこになんかあるってやつ。空白が大きすぎて隠し部屋の可能性ばっか考えてきたけど、そもそもあの空白には人が出入りできないことだってありうるんだ……。
「抜け道は捜しつくした。これだけ古い汚れた家だ。そんなものがあって、失踪した連中が使ったのなら形跡がわかって当然だと思う。ホコリの乱れ、足跡、そんなもので。――ところがどう捜してみても、そんなものがあるとは思えない。建物が中から外へ向けて建てられていることといい、中にあるなにかを隠そうとして増築をしていったとしか思えないんだが」
「……言えてる」
 ぼーさんは言って天井を睨《にら》んだ。
「しかし、隠すって、なにを? まさか、……処刑室」
「どうだろうな。そんなものがあるかどうか。明日壁の向こうを調べてみればわかる」
「本当にやんのか? 壁を崩《くず》して?」
「むろん。もう大橋さんの了解はとってある」
 ぼーさんがゲンナリした顔をした。
 そのときだった。例によって窓がノックされたのは。

     5

「まどか……安原《やすはら》さん!」
 ナルは呆《あき》れきった表情をした。
 よいしょ、と窓を乗り越えてくるふたりを冷たい眼で眺《なが》める。
「こんばんはー」
「まいどー」
 なんてノホホンとしたふたり。
「まったく……なにを考えているんだ」
 ナルの視線は安原さんに向かう。
 そらま、そーだ。この家が危険だから出て行ったのに、帰ってきたらなんにもならない。
 安原さんはしかし、いっこうに気にしてないようすで、
「いえ、今日一日で調べたことを報告に」
 森さんはニコニコして安原さんの顔を見た。
「安原くん、大活躍だったのよね、今日」
「そーです。僕、有能ですから」
 ほくそえむ安原さん。
 
「えーとですね、まず、この家から市内に戻るとき、僕、煙突《えんとつ》の数を数えてみたんです」
 ……へ?
「なんか変な気がしたんですけど遠目でよくわからなかったんで、森さんに合ってから彼女にもう一度ここに来てもらったんですよね」
 森さんはうなずく。
「そう。わたしが近くの山まで車で来て、そこからレンタルの双眼鏡でちゃんと数えたの。その結果は十二本」
 リンさんがコンピュータに向かって暖炉《だんろ》の数を調べる。
「僕が調べた時の感じだと、十一か十本程度だと思うんですけど」
 安原さんの言葉にリンさんはうなずいた。
「十一ですね」
 ……一本多い……。
「それで、よくよく見ると、家の中央にある煙突がどうも変なのよね。形も丸くて他のより太いのよ」
 貴重《きちょう》な手がかり。やはりあの空白には確実になにかあるんだ。少なくとも煙突が。屋根に突き出る煙突が隠《かく》されている場所なんて限られてる。三階にはそんな空白はない。二階から突き出ていれば三階の窓から見えてしまう。ただ、一方向だけ窓のない面がある。煙突があるとしたらその方向しかありえない。
 ナルがすばやく平面図をチェックした。あの大きな空洞の北にあるわりに大きな空洞。二階から突き抜けになった。煙突のある場所はそこだとわかった。
 森さんはちょっと得意そうだった。
「賢《かしこ》いわたしは、ちゃんと証拠写真を撮《と》ってあります。今ラボに出してるから、明日にはできてくるわ。ちゃんと望遠の一眼レフを借りてたのよ、偉《えら》いでしょ?」
 そう言ってナルの顔をのぞきこむ。ナルは冷たい視線を向けるだけ。
「なによぉ」
 かわりにほーさんが、
「えらい、えらい。それで?」
 森さんはニッコリして、
「わたしがそういうことをしてる間に、安原くんは市内の聞きこみをしてくれたのよね。彼、探偵の素質あるわ」
 ほー。
 安原さんは胸を張った。
「なんでもソツなくこなします、天才ヤスハラですから」
 そう言って笑ってから、
「まず、僕は美山《みやま》家の本邸に言ってみたんですよね。でもって、周囲の家を訪ねまして、できるだけお年寄りを探しました。そしたら、三軒先に齢《よわい》八十二のおばあちゃんがいまして。まだボケもせず、しっかりした人でね。まずその人に話を聞いてきたわけなんです」
 ふむふむ。
「美山鉦幸《かねゆき》氏が死んだのとほぼ入れ違いに生まれた人ですからね。まぁ、鉦幸氏を知ってるはずはないんですが、なにか知らないかというわけで。するとですね、彼女が言うには鉦幸氏と言うのは語り草になるくらいの変人だった、と言うんですね。とにかく人嫌《ぎら》いで。けっこう気分に落差があって、優しいときは他人にものをバラまいたりけっこう親切なんですが、機嫌《きげん》の悪いときってのは人を追いかけまわして殴《なぐ》るような、そんな人だったらしいです」
 ……ふぅん……。
「前に潔癖《けっぺき》という話がでてましたが、おばあちゃんもそう言ってました。とても潔癖な人だったって。それで美山家の隣の家の人は、今でも柿《かき》ひとつ、美山家のものは勝手に取ったりしないそうです。昔ひどい目にあったことがあるとかで」
「……なるほど」
「彼女から聞けた話というのは、そのくらいなんですが。で、彼女に市内の老人ホームとお達者クラブを紹介してもらいまして。それでそこに行ってみたんです。でまぁ、いろいろな話を聞いたわけですが、鉦幸氏と言うのは評判が悪いんですよね」
「……慈善事業に手をつくした人物なんだろう?」
「それはそうなんですが、どうもあの慈善事業というのは、裏でなにか悪いことをやってる、そのカモフラージュじゃないかと。そういうふうに思われていたようです」
 意外……。
「それと、宏幸《ひろゆき》氏の知人だったって人を見つけました。おばあちゃんなんですが、彼女の旦那《だんな》さんが晩年の宏幸氏の友人だったとか。彼女によると宏幸氏は父親を嫌っていたようですね。父親の話はほとんどしなかったし、だれかが話題にするとひどく怒《おこ》ったそうです」
 ……ふぅん。
「わずかに聞いた話によると、鉦幸氏は小さい頃から身体《からだ》が弱かったらしいんです」
「身体が弱かった?」
「ええ。病弱な人で、子供の頃は寝ていることのほうが多かったとか。何度かの外遊も、単なる外遊と言うより、その当時どこか具合が悪かったのを外国の医者にみせに行ったというのが正確らしいです」
 ……へぇ。
「小さい頃はあまり長生きしないだろうと言われていたわけですが、実際五十で死んだんですよね。ただ、宏幸氏に言わせると、もっと早く子供の頃に死んでればよかったんだ、とそういうことらしいです」
 あたしは聞いた。
「鉦幸が子供の頃に死んでたら、宏幸氏は生まれてなかったわけでしょ?」
「そうですよ。すごいセリフでしょ?」
「……うん」
 宏幸氏は本当に父親が嫌いだったんだ。
「それから、こういうのがあるんです。鉦幸氏は、下男ふたりとすんでいたって」
 ……胸がドキドキする。なんだろう、嫌《いや》な感じ。
「それでですね、その老人ホームにもうひとり、祖父が出入りの植木屋だったって人がいたんです。けっこう若いおじいちゃんですが。で、そのお祖父さんって人が山荘に行くのは気味悪くて嫌だったって、そう言ってたと言うんです」
「植木屋?」
「ええ、なんでもその当時、ここには生《い》け垣《がき》でできた迷路があったらしいんですよね」
 ……生け垣。生け垣の迷路。
「母屋《おもや》があって、離れがあって、その間を迷路がつないでいたって言ってたそうなんです」
 ああ、なんか嫌だ。あたし、この話を聞きたくない。
「植木らしいのはその迷路だけだったようなんですが。それで、お祖父さんがいつも言っていたのは、この家は変だって。手入れしながら離れのほうに行くと、いつも墓場みたいな嫌な臭いがしてたって。おまけに行く度《たび》に女中の顔が変わってたって、そう言ってたと」
「女中の顔が変わってた……?」
 目眩《めまい》がした。背中を冷たいものがなでていった感じがする。
「ええ。それで――? ……谷山《たにやま》さん?」
 安原さんがあたしの顔をのぞきこむ。あたし、背筋がゾクゾクして寒くて寒くて言葉が出ない。ぼーさんが動きかけるのを真砂子《まさこ》が止めた。あたしのほうに近づいてくる。そっと腕を伸ばして、あたしの肩に手をおいた。
「この人はいけませんわ。あなたを救ったりはできないんですの。ここにいる誰も、あなたを助けてあげることはできません。だってあなたはもう死んでるんですもの」
 そう言いながら、真砂子があたしの背中をたたく。
「さ、降りて。恐れないで光のほうへ行ってごらんなさいな。そこへ行けば、楽になれますから」
 そう言ったとたん、急に寒気がやんだ。
「原《はら》さん」
 ナルの問いかけに、真砂子は微笑《ほほえ》む。
「この家に住む霊に憑《つ》かれていたようですわ。だいじょうぶ。もう消えました。浄化《じょうか》したのかどうかはわかりませんけれど。……もうだいじょうぶでしょう?」
「うん。ありがと……」
 なんだったの、今のは。
 真砂子は言った。
「きっと、話をしていたので寄ってきたのですわ。それとも、最初からいたのかしら。今話をしていたお女中さんの霊のようです」
 その言葉を聞いたとたん、ムッと血の臭いがした。喉《のど》を裂《さ》いた刃物の感じ。顔にかかった血糊《ちのり》の暖《あたた》かさ。白いタイル、赤いシミ。
「……その人だ……」
 あたしは言っていた。みんなが怪訝《けげん》そうな顔をする。
「その人なの。ゆうべ……」
 母屋から連《つ》れていかれた。男がふたりで引っ張って、離れに連れて行って。離れのある部屋で手術台の上に引きずり上げられて、喉を裂かれた。
「ゆうべ夢の中で殺されたの、その人なの」
 涙が出た。霊の記憶を見てしまったんだ。あの人、殺されてしまったんだ、あんなふうに。あたし、怖《こわ》かった。痛かった。あたしのあれは夢だったけど、あの人にとっては現実だった。あんな怖い思いをして、痛い思いして、殺されてしまったんだ……!

 思わず顔をおおってしまったあたしの背中を、みんなが叩いてくれた。
「……そういうことか」
 ナルの低い声。
「そうやって殺された霊がこの家をさまってるわけか」
 助けて、死にたくない、霊はそう言った。みんな自分が死んだことがわからなくて、怖い痛い思いを抱えたまま、この家をさまよってる。
 酷《ひど》い。誰があんな。……ううん、犯人なんかわかってる。あの男たちはふたりの下男。だとしたらあれを命じた犯人がいるはず。その犯人なんて鉦幸《かねゆき》氏でしかありえない。
 許せない。慈善家の顔をして、あんな酷《ひど》い、あんな残酷な、悲惨なことを。
 そのときだった。
 いきなり部屋の電灯が消えた。
「……なに!?」
 モニターからゆっくり光が消えて、部屋が真っ暗になる。パシ、という乾いた音をかわきりに、あたりがたちまちラップ音でいっぱいになった。この部屋ではないどこからか、激しい音がする。そして、遠くで人の叫び声。
「動くな!」
 鋭《するど》い声でナルが命じたとき、ふいに明かりがついた。ちょっとした停電が終わったように。それと同時にラップ音が止む。
 今のはなんだったんだと言う間もなかった。部屋が明るくなって、あたしたちの眼に赤いものが飛びこんできた。
『助けて』
『助けて』
『死にたくない』
『痛い』
『痛い』
『怖い』
 壁に書かれた無数の血文字だった。

 
     5

 あたしたちは唖然《あぜん》として部屋の中を眺《なが》めた。
 大きさもまちまち、筆跡もさまざまの血文字。たったあれだけの間に、壁を埋《う》めつくすほどの数。
『痛い』
『助けて』
『死にたくない』
『怖い』
『痛い』
『浦戸』
 ……『浦戸』?
 文字を眼で追っていって、あたしは硬直した。
「ね、ナル。これ……」
 ナルはその文字に視線をやり、それからもう一度部屋を見渡す。
『浦戸』
『うらど』
 その文字は他にも無数あった。
 呆然《ぼうぜん》としているうちに、家のどこかであわただしい足音がする。森さんがすばやく安原《やすはら》さんをうながした。
「ナル。また、明日」
「まどか、危険だと言ってるだろう」
 鋭《するど》い声のわきでぼーさんがのほほんと手を振った。
「お嬢さん、またな」
「うんっ(ハート)」
「気をつけてな」
「はーい」
 明るい返事を残して、ふたりは窓から消えていった。
 ほとんどそれを追いかけるようにして、大橋さんがドアを開けた。
「……ご無事ですか?」
「なにがあったんです?」
 ナルの声に、
「あちこちに変な文字が。まるで血で書いたような……」
 あわてて部屋を飛び出すと、廊下の壁にも血文字でいっぱいだった。
 助けて、助けて、助けて、助けて、……。
 怖い怖い怖い怖い……。
 浦戸うらど浦戸うらど浦戸……。
「この家の霊って、いったいどれくらいいるのよ!?」
 綾子《あやこ》が叫んだ。
 ものすごい数。こんなにたくさんの……。
「浦戸、ってのは俺たちが思っている以上に意味のある言葉らしいな」
 ぼーさんが壁の文字をにらんだ。
「単なるペンネームだとか、とてもそうは思えねぇ」
「……うん」
「あの文字の意味さえわかればな……」
 あの文字。『浦戸に・さ・た・・聞く」。
 なるが低い声を出した。
「原さん」
「はい?」
「ここで降霊術をやれる自信がありますか」
 パッとみんなの眼が真砂子《まさこ》に集中した。
 真砂子はお人形のように整った顔をすこしかたむける。
「……ありますわ」
 この悲鳴をあげた霊を呼び出すことができれば。真砂子に憑依《ひょうい》させることができれば、そうすれば霊の口から直接、『浦戸』の意味を聞くことができる。これでなにがあったのか、全部聞くことができるはず。
 ――そこまで考えてあたしは硬直した。霊、この家の。殺された霊たち。あれを憑依《ひょうい》させるということは、あたしと同じ経験を真砂子がするということになりはしない?
「……だめ」
「麻衣《まい》?」
「真砂子……やっちゃだめだよ。霊を憑依させちゃだめ」
「どうさなったんですの、急に」
「あたしと同じ夢を見ることになるかもしれない。そんなの、だめだよ」
 ナルが軽くため息をついた。
「麻衣……原さんはプロだ」
「プロだろうと、なんだろうと、あんな経験させられない!」
「いいかげんにしろ」
 ナルの冷たい視線。あたしそれをまっすぐに見返す。
「自分が殺される気持ち、わかる? 自分が死んでいく瞬間の気分が想像できる? どんなに怖いか、ナルにわかる? あたし、ぜったいに真砂子に降霊術なんてさせないからね」
 ふいにナルの眼の色が深くなった気がした。
 あたしが眉《まゆ》をひそめると、ナルは軽く瞬《まばた》きする。もうあの不思議《ふしぎ》な色はなかった。
「……しかたない。多少不確実な方法になるが……リン」
「はい」
「呼べるか?」
 リンさんは軽くうなずいた。
「やってみましょう」
「リンさん!」
 あたしは、思わず止めてしまった。
「ダメだよ、そんなことしちゃ。あんな……」
 あんな怖い、あんな辛《つら》い、そんな経験、誰にもしてほしくない。
 リンさんは無表情に、
「ご心配なく。べつに霊を憑依させるわけではありません」
「……でも」
「霊をよんでみるだけです。私は霊媒ではありませんので、霊を憑依させることはできませんから」
「そうなの?」
「はい」
 ……なら、いいんだけど……。
「ただ、ナル」
 リンさんはなるに表情のない顔を向ける。
「私にはここで過去に殺された霊を呼ぶことはできません。今呼べるのは」
 リンさんの声はどこにも表情なんか感じさせない。
「死んでいると仮定して、ここで消えた三人の人間、それだけです」
「かまわない。やってみよう」

     6

 降霊会の場所には、いつだったか五十嵐《いがらし》先生の降霊会が開かれた部屋が選ばれた。リンさんとナルは準備のためにいなくなって、残ったあたしたちで機材をセッティングする。いつかの夜のように二台のカメラをセットしながら、あたしはぼーさんに聞いてみた。
「どうやって霊を呼ぶんだと思う?」
 ぼーさんは、ちょっと考えるようすを見せた。
「霊を呼ぶには霊を憑依《ひょうい》させる『口よせ』と、霊そのものを呼ぶ『魂《たま》よばい』があるんだ。真砂子《まさこ》は『口よせ』のほうだな」
 ……へぇぇ。
「霊を憑依させるんじゃねぇって言うんだから、やっぱ『魂よばい』のほうじゃねぇのか?」
「そんなこと、できるの?」
 ぼーさんは肩をすくめる。
「ふつーはまぁ、できねぇわな。『魂よばい』は『招魂《しょうこん》』と言って、もとも中国の巫蟲《ふこ》道にあった方法だ。――リンは中国人だって言ってたからなぁ」
「……あ」
 
「俺たちはずっとリンを陰陽師《おんみょうじ》だと思っていたが、こうなると事情はちがうわな。リンはおそらく陰陽師でなく、中国呪術の道士なんだと思うぜ。あっちじゃ招魂ってのはよくあることだからな」
 ……へぇぇ。
「『口よせ』を『摂魂《せっこん》』と言うんだが、ふつう『摂魂』よりも『招魂』のほうが難しいとされる。道士の格がぜんぜんちがうんだ」
 つまり、真砂子さんよりリンさんのが優秀だというわけ?
「……ということは、真砂子に頼らなくてもリンさんがいれば十分だったんじゃないの?」
 なんてこったい。あたしたちは真砂子しか霊の言葉を聞けないんだと思って、さんざん振り回されたっていうのに。
 ぼーさんは首をすくめる。
「ところが、そう話はうまくいかない。招魂つったって、だれでもかれでも呼べるわけじゃねぇんだ。リンも言ってたろ? 自分が呼べるのは三人の霊だけだってさ」
「……もしも、三人が死んでたとして、よ」
 生きてる可能性だってあるんだから。
「まぁ、なんでもいいが。たしか招魂には、呼び出す霊の名前とか生没年とか、そういう細かいデータが必要なはずだ。それで、今そんなデータがそろうのは三人のぶんだけだから、この三人の霊しか呼べないってわけさ」
 あ、ナルホド。

 しばらくしてリンさんが包みをかかえて戻ってきた。べつに服を着替えたりはしてない。
「掃除は?」
「すんでるよ」
 リンさんは部屋に戻る前、この部屋を掃除しておくように指示していった。機材をおく前に言われたとおり、塩をまいて掃《は》き清め、ま新しい布で床をテーブルも水を替えながら三度ふいておいた。
 リンさんはうなずき、包みを開く。薄い黄色の布をほどいて箱を取り出した。白木の箱を明けると、中にいくつもの箱が入っている。そのうちのいちばん大きな箱の中から金属製の平たい鉢《はち》を取り出し、そっとテーブルの上においた。そして、金色の太刀《たち》。金色の香炉《こうろ》をふたつ。燭台《しょくだい》をふたつ。ろうそくを二本。
 なんとなくしゃべってはいけないような気がして、あたしたちはだまってそれを見守る。リンさんは丁寧《ていねい》に封をしたした白木の箱を開けて、中からお茶のはっぱのような抹香《まっこう》をつまみ出し、それを香炉に入れて火をつけた。薄い煙《けむり》があがって、不思議《ふしぎ》な匂いが漂《ただよ》いだす。
 平たい箱を取り出し、蓋《ふた》を開いて鉢のわきにおく。中は硯箱《すずりばこ》になっていた。和紙らしい紙を取り出して広げ、テーブルの上をきちんとかたづけ、そしてあたしたちが用意しておいた水でゆっくりと墨《すみ》をすり始めた。
 お香の匂いが部屋に満ちて、リンさんが墨をおいたころに、やっとナルが戻ってきた。「誰を呼びましょう」
 リンさんに聞かれて、ナルはメモをテーブルにおく。
「鈴木直子さんを」
 ナルは手に彼女のものらしいブラウスを持っている。リンさんはそれを受け取ると、丁寧にたたんで鉢の中においた。それから紙にメモを見ながら文字を書きつける。名前を書き、生年月日を書き、そしてナルを見返した。
「没年はどうしましょう」
 ナルは少し考えこんで、
「失踪日の翌日……というところかな」
 リンさんはうなずいて、そのとおりに文字を書きつける。そうしてできたおふだを鉢の中にたたんでおいた服の上に乗せた。
「始めます」
 もうひとつの香炉に線香を立て、ろうそくに火を灯してナルにうなずく。ナルが部屋の電灯を消した。
 二本のろうそくの明かりに、ほの暗く室内が照らし出される。リンさんは姿勢を正した膝の上に太刀をのせ、軽く口を開いた。
 不思議な音が発された。
 ホーォと言っているようにも聞こえる。口の中で低い音が響《ひび》いて、それが呼吸と一緒に吐《は》き出される、そんな感じ。うなる、にしてはあまりに澄《す》んだキレイな音。口笛、にしてはあまりに柔《やわ》らかな低い音。
 リンさんはゆっくりと音を吐く。途中で何度も音程が変わって、まるで歌っているよう。高くなったり低くなったり、弱くなったり強くなったり。震《ふる》える、伸びる。そのくりかえし。喉《のど》が音を出す。たったそれだけの不思議でキレイな音楽。
 思わずぼうっと聞きほれてしまった。こんな不思議でキレイな音を他に知らない。すっかりなにかの演奏会にでも来ている気になってしまって。だから、ためいきが聞こえたとき、あたしは誰かが思わずもらしたんだと、この音に感動してため息をついたんだとそう思ってしまった。
 リンさんが音をやめた。
 もう一度、ためいきがした。ひどく悲しいためいきに聞こえた。
 はっとあたりを見まわすと、リンさんの正面の壁に影が見えた。ろうそくだけの明かりに深い影を落とした壁。その表面にうっすらと人の影が見える。だれの影でもない。影を落とすような位置に人はいない。
 眼を見張るうちに影が濃《こ》くなった。人の、女の人の横を向いた影なのだとわかる。
 ……だれ? まさか。
 黒い影から色がにじみ出るようにして、じょじょに人の姿が現れ始めた。だれもが息をのんでコソという音もない。
「ナル」
 リンさんは姿勢を正したまま振り向きもせずに呼ぶ。
「日がよくない。しゃべらせることはできないし、そんなに長くは呼んでもおけません」 ナルがうなずく。人影は、今やはっきりと若い女性の姿を現していた。暗くて、なんだか透《す》けるようで、けっして実体がそこにあるようには見えなかったけど、たしかにそれは人の姿で、しかもいなくなった鈴木さんなのだとわかった。彼女はうなだれ、横を向いて視線を足もとに落としていた。
「鈴木直子さんですね」
 ナルが呼びかけると、彼女は視線を落としたままうなずいた。
 ……死んでいたんだ……。
 ひどくやるせない気がした。やはり鈴木さんは、死んでいたんだ。
「この家にはあなたの他にも人がいますね」
 鈴木さんはうなずく。
「僕らと五十嵐先生、霊能者たちの他にも人がいますね?」
 これにも無言のうなずき。
「彼らもあなたも、すでに死んでいます。知っていますか?」
 ふいに鈴木さんは顔を上げた。不思議そうな表情でナルを見つめる。
 ああ、鈴木さんはわかってないんだ。自分が死んだこと、他の人たちが死んだこと。
「自分がなぜ死んだのかわかりますか?」
 彼女はナルを見つめたままただ首を横に振る。
「では、誰かがあなたにひどいことをしませんでしたか?」
 鈴木さんはうなずいた。表情が微《かす》かに歪《ゆが》む。
「それは誰です。僕ら以外の他の人たちですか?」
 鈴木さんはひどく辛《つら》そうな顔でうなずいた。
 ……やっぱり、この家の霊が犯人なんだ……。
「浦戸《うらど》という人物を知っていますか?」
 ふいに、彼女が大きく身体《からだ》を反《そ》らした。顔が歪む。なにかを言いたそうに口を開いた。声が出ないのか、もどかしそうに手をあげて喉《のど》をつかむ。片手をあげ、宙になにかを書こうとする。
「知っているんですね?」
 鈴木さんはうなずき、そして首を横に振る。身をよじって腕を泳がせて、子供がかんしゃくを起こしたように全身でなにかを訴えようとした。足を踏みしめ、身を折るようにして身もだえする。突然、部屋のどこかで乾いた高い音がした。
 思わず音の出所を探してあたりを見回した。続けざまに激しい音がする。ラップ音だ。「ナル。限界です」
 リンさんのひそやかな声をきっかけにしたように、少しずつ鈴木さんの姿が薄まりはじめた。彼女は大きく口を開いて、なにかを必死で叫んでいるるその声は聞こえない。とどかない声の代わりをするように、高い音でラップ音がした。
 ナルが次の質問を発する間もなかった。すうっと色を失って、鈴木さんの姿は影に戻った。影になっても彼女は身をよじり続けている。それでさえ、すぐに闇《やみ》に溶《と》けて見えなくなった。彼女の影が消えると同時に、ラップ音もやんでしまって、後には静寂《せいじゃく》だけが残された。

     7

 ナルが部屋の明かりをつけるまで、だれも声を出さなかった。
 まぶしいほどの明かりが降って、とたんにあたりは興奮した声でいっぱいになる。
 今のは本当にリンさんが呼んだのか、鈴木さんは本当に死んでいたのか、この家の悪霊が人をさらっていたのか、では他のふたりも死んでいるのか。そんな声が入り乱れるなか、ふいにナルの視線が壁に釘《くぎ》づけになった。全員の視線がそれを追って、興奮した声が鎮まってしまう。
 いつの間に書かれたのだろう。白い壁の表面に赤い文字が描かれていた。
『ヴラド』
 ヴラド? なんだろう、これは……? 鈴木さんの霊が残していったんだろうか?
 ぼーさんがいきなりテーブルをたたいた。
「……浦戸ってのは、ヴラドのことだったのか」
 あたしはパチクリした。
 たしかに浦戸とヴラドって、音が似てるけど……。
「ヴラドってなに?」
 ジョンがとても嫌《いや》そうな顔をした。
「ヴラドゆうのは……吸血鬼ドラキュラのことです」
 吸血鬼。
「ドラキュラーっ!?」
 あたしはナルを振り返った。
「どういうこと? 浦戸は鉦幸《かねゆき》氏のペンネームでしょ? 鉦幸は吸血鬼だったの? ここの霊は血を吸われて死んだ人たち?」
 ナルはウンザリしたように口を開いた。
「世間《せけん》でよく知られるドラキュラの物語は、『吸血鬼ドラキュラ』という小説がもとになっている。これは知っているか?」
「……知らない」
 ナルは露骨にため息をついた。
「一八九七年に出版された『吸血鬼ドラキュラ』はブラム・ストーカーという作家が書いた恐怖小説だ。ロンドンにドラキュラ伯爵《はくしゃく》と名乗る奇妙な男がやってくる。これが実は吸血鬼で、という物語。この小説が舞台や映画になり、そこから『吸血鬼もの』というジャンルが生まれた。ここまでは、いいか?」
「……うん」
「実は、このドラキュラ伯爵にはモデルがいる。本当にドラキュラと呼ばれた実在の人物がね。物語に出てくるドラキュラ伯爵はトランシルヴァニアの出身。トランシルヴァニアは長くハンガリーに属し、現在はルーマニアになっているところだ」
「……トランシルヴァニアって、実在の土地なの?」
 あたしはてっきり架空の地名だとばかり……。
「もちろん。ドラキュラは十五世紀、とトランシルヴァニアに近いワラキア地方を統治した王だった。名前をヴラド。通称ヴラド・ツェペシュと言って、一般には『ヴラド串刺し公』と訳すようだね」
「くしざしぃ?」
 ナルはうなずく。
 
「当時ヨーロッパは頻繁《ひんぱん》にオスマントルコの侵略を受けた。ワラキア地方はトルコに近いこともあってその前線地帯だったと言っていい。しかもワラキアの王座をめぐっても覇権《はけん》争いがつきなかった。ヴラドは潔癖《けっぺき》な王で怠惰《たいだ》と背任を嫌《きら》い、特に敵には容赦《ようしゃ》がなかったことで知られている。捕らえた敵の多くを串刺しにして処刑したことからそう呼ぶんだ」
 げげげ。
「このヴラドの父親がヴラド二世。通称を『ヴラド・ドラクル』と言う。『ドラクル』はルーマニア語で『悪魔』を意味するから、普通『ヴラド悪魔公』と呼ぶようだね」
 父が悪魔で、息子が串刺しかぁ?
「もっともこれは正確でない。『ドラクル』は悪魔を意味することばだが、同時に『龍』も意味するんだ。ヴラド二世は一四三一年、時のローマ皇帝ジギスムントによって『ドラクル』の称号を与えられた。称号なんだから、『悪魔』とは呼ばないだろう。たぶん、『ドラクド・ドラゴン公』と呼んだほうが正しいんだろうな」
 たしかに、悪魔とドラゴンじゃえらい違いだよなぁ……。
「『龍の子』あるいは『悪魔の子』をルーマニア語で『ドラキュラ』と言う。したがってドラクルの子供であったヴラドは別名を『ドラキュラ』と言った。つまり、『ドラゴン公の子』というような意味でね。ヴラドの血塗《ぬ》られた業績のせいで、普通は『悪魔の子』と呼ばれるが、実はそれはあまり正しくないんだ」
「……ふぅん」
「プラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』が出版されて、『ドラキュラ』とは吸血鬼の名前だということになった。一時期ヴラド・ツェペシュはその残虐性《ざんぎゃくせい》のためにヨーロッパじゅうで有名だったんだが、ストーカーが著書を発表するころにはほとんど忘れ去られていた。ブラム・ストーカーによって再びヴラドは脚光を浴びた。そしていまや全世界的に悪名がとどろいているというわけだ」
「なるほどねぇ」
 こんな歴史があったとは知らなかった。
「ワラキア地方には今も『ドラキュラ伝説』が残っている。それによれば、ヴラドはドイツとトルコからハンガリーを守った救世主ということになっている。敵には確かに残忍だったが、彼はハンガリーを守った英雄だというわけだ。一概《いちがい》に信じるのもどうかと思うが、当時のヨーロッパ情勢を考えるとまるきりウソでもないような気がするな」
 ……ふうん。
 ナルはちょっとシニカルな笑みを浮かべた。
「ヴラドに関しては有名な話がある。とある豪商が財産のすべてを馬車に乗せてワラキアの首都を通った。彼は首都に着くや、宮殿に行ってヴラドに自分の財産を守ってくれるよう頼んだんだ。これに対してヴラドは、その必要はない。どこだろうと置き去りにしておけ、と命じた。しかたなく承認は全財産をつんだ馬車を広場に置き去りにした」
 ううむ。ヴラド公の命令には逆らえないもんなぁ。
「ところが一夜明けてみると、彼の財産はまったく減《へ》っていなかった。ヴラドは潔癖な王で、自国の国民にも嘘《うそ》や泥棒《どろぼう》、怠惰《たいだ》を決して許さなかった。そういった者は例外なく串刺しにされたので、商人の荷物に手をつける者などいなかった、というわけだ」
「……ナルホド。けっこう偉《えら》い人だったんだ」
 ナルは肩をすくめる。
「それを偉いと言うかどうかは、人によるだろうな。……いずれにしても、たしかにヴラドは似てるよ。鉦幸にね」
 ぼーさんは首をかしげた。
「ヴラドはハンガリーの救世主だった、と。鉦幸も自分は救世主だとでも言うつもりだったのかねぇ」
「さて、それはどうだろう?」
 ナルの白い指先で森さんが持ってきたメモをめくる。
「鉦幸は一九〇〇年頃にもヨーロッパに外遊していた。その頃すでに『吸血鬼』は出版されていた。彼が『悪魔の子』の意味で『ヴラド』を名乗っている可能性のほうがむしろ高いと思う。――それに」
「それに?」
「麻衣《まい》が言っていたろう。浴室にバス・タブがあって、その中に血が溜《たすまっていたと」
 ……うん。
「ヴラドとよく混同される人物にバートリ・エルベジェットというのがいる。英語ふうに姓を後にするとエルベジェット・バートリかな。彼女は通称、『流血の伯爵夫人』と呼ばれる」
「お……女の人なの?」
「そうだ。エルベジェットは十七世紀ハンガリーに住んだ伯爵夫人だった。ヴラドとの関係ははっきりしないが、なんらかの血縁関係があったのではないかと想像されている」
「ふぅん……」
「彼女は自分の容色が衰《おとろ》えることを恐れて、若い女性を生《い》け贄《にえ》にした。若い女の生き血を浴びれば、自分の美貌は保たれると信じていたんだ。若い女を殺しては、しぼりとった血を浴槽に満たしてそれの中に身体《からだ》を浸《ひた》した。生け贄のひとりが脱走て犯罪がばれるまでのおよそ十年間の間だ」
「……そ、それって……」
 ナルはうなずく。
「麻衣の夢に似てるだろう。エルベジェットとヴラドは混同されて、ヴラドが処刑した敵の血を浴びていたごとくに言われることが多い。鉦幸がこの話を聞いていたとしたら?」 だれひとり答える者はいない。ナルはさらに微《かす》かに笑う。
「彼女は公式に罪を追及されなかったが、その代わり彼女は寝室に閉じこめられ、すべての扉と窓を外から塗りこめられてしまった。けっきょく彼女はその牢獄《ろうごく》の中で死んだわけだが――なかなか暗示的だとは思わないか?」
 塗りこめられた牢獄。塗りこめられた空間。
「でも……鉦幸は」
 病気で死んだと、森さんが。
「もちろん、あの空間が鉦幸を閉じこめるものだとは思わない。だったらあんなに広い空間である必要はないから。ただ、暗示的だと――ひどく暗示的だと思うだけだ」
 ……たしかに。
「『ヴラド』は『ブラド』の発音のほうが近い。鉦幸はなんらかの理由でヴラド公の名を筆名に使おうと考えたが、うまく漢字をあてられなかった。それで『浦戸』という文字を選んだ……これはおそらくそんなに事実をはずれていないと思う」
 ……うん。
 ぼーさんもうなずく。
「そして奴はそのとおり、ここで多くの使用人を殺した。殺された者の霊が、この家に今もさまよってるってわけだ。……ああ、そうか」
 ぼーさんは軽く指を鳴らした。
「わかった。例の『浦戸・・さ・た・・聞く』ってやつ」
「え?」
 聞き返すとぼーさんは苦《にが》い笑みを浮かべる。
「『浦戸に殺されたりと聞く』だよ。『ここに来た者はみな死んでいる。浦戸に殺されたりと聞く。逃げよ』だ。どうだい?」
 警告。あの隠《かく》し部屋に住んでいた人物は、次にこの家に来る者のためにメッセージを残した。逃げろ、と。
 あたしはふと首をかしげた。
「ねぇ、それはわかるけど……。あのコートはだれものなわけ?」
「誰って……」
「だって、女中だったらあんなところに住ませることないでしょ? それにあのコートは病院の付属施設の支給品だったじゃない。あのコートの持ち主はだれ? 本当に女中さんなの?」
 全員が顔を見合わせた。
「まさか……」
 ぼーさんがつぶやく。
「まさか、あいつ、施設の人間まで……?」
 施設の人間にめぼしをつける。その人物をここへ連《つ》れてきて、事情を知らない使用人にわからないよう隠し部屋に閉じこめておく。そして……。
 ひどい。そんなの、ひどすぎる。鉦幸は人間じゃない。本当に『悪魔の子』だったんだ。
 あたしはハッとした。もしかしたら宏幸《ひろゆき》氏は、父親がここでなにをしてたか知っていたんじゃないだろうか。
 あたしがそう言うと、ナルはうなずく。
「ありうるな。それでここを封印し、だれにも知られないように増築をくりかえして屋敷の奥深くに隠した……」
 宏幸氏は言っていたという。「幽霊が出るから出ないようにするんだ」と。
 ここでなにが行われていたか知っていたとすれば、この発言もうなずける気がする。宏幸氏はさぞ怖《こわ》かったろう。自分の父親が、父親の殺した人間の怨念《おんねん》が。
 ナルは深く考えこむ表情で、
「消えたのは若い人間ばかり……」
 ふにそうつぶやいた。
「鉦幸がなぜあんなことをしたのか、わかった」
 え?
「鉦幸は病弱だった。彼は自分の身体をうらめしく思っていただろう。血は人の精気の源だとされる。エルベジェットがその精気によって自分の美貌を保てると信じたように、鉦幸は若い人間の精気によって自分の健康を守ることができると信じた」
「……うん」
「実際彼は、決して長命といえるほど長生きしたわけじゃない。さぞ無念だったろう。人を殺してまで長らえたかった自分の命は、結局長持ちしなかったわけだから」
 ……たしかに。
「奴に殺された人間の霊は、おそらく失踪には関係がない。鈴木さんは死んでた。殺した者がこの家にすむ幽霊なら、その悪霊は浦戸でしかありえない」
 背筋が冷えた。
「浦戸はいるんだ……この家にまだ。この家で生け贄を求めている」

     8

 ベースに戻ると朝の四時だった。そのまま夜明けまでミーティングをして、陽が昇ると同時にあたしたちは作業を始めた。
「まず、煙突があると推定される場所から始める」
 ナルが宣言して、あたしたちは問題の場所に向かった。全員が重い機材を手分けしてかかえている。
 リンさんが大切そうに抱えているのはレーダー。これは本来、ポルターガイスト事件の暗示実験に使う。関係のあるもの――たとえば花瓶――が動くと暗示を与えて、花瓶をおいた部屋を封鎖する。もしもその花瓶が動けば、ポルターガイストの正体は人間の不可思議《ふかしぎ》な力だということになる。完全に密閉された部屋を作るためにはケーブル類を部屋の外に引き出すことができない。それで壁越しにレーダーで花瓶の動きをチェックして、無線で室内のビデオ・カメラに作業させるわけ。そのレーダーを今回は特殊な目的に使ってみる。すなわち、壁の厚みを知るために。もっといいレーダーがあれば、壁の向こうのようすまでわかるらしいのだけど。
 空白に面した壁を全部チェックする。
「この壁がいちばん屈折率が低いようです」
 リンさんが平面図を示した。レーダーってのは電磁波を放射してその反射を拾うわけだけど、電磁波の屈折率が低いってことは、それだけくみしやすい壁だというわけ。薄いとか、厚くてもスカスカだとか。
 現場に急行して、大橋さんに借りた工具で壁を壊《こわ》しにかかる。思った以上に簡単に穴が開いた。壁の向こうに明かりは見えない。中のようすが見えるほどの穴をあけるとなると大作業になるわけだけど、この穴は三〇センチていど。そこに赤外線カメラの鼻面を突っこむ。モニターにカメラの映像を出した。
 人の眼には見えない赤外線の光を浴びて、中のようすがはっきりと映し出された。中は八畳くらいの雑然とした部屋になっていた。部屋の正面、向こう側に大きななにか。
「……あれ、なに?」
 ナルは考えこむ。
「焼却炉《しょうきゃくろ》かカマドのように見えるな……」
 たしかに、部屋のようすは学校の焼却炉のまわり、あの感じにいちばん似てた。
「入ってみよう」
 ナルが宣言して、あらためて壁に穴を開けにかかる。今度は気合を入れて、人が通れるほどの穴を開けた。ホコリとカビの嫌《いや》な臭いが流れ出してくる。
 ホコリが舞う中にハンドライトの明かりが交錯する。焼却炉の姿が浮かびあがった。資格い巨大な箱のような形に壁が作られていて、正面の中央には錆《さび》のういた鉄製の蓋《ふた》がふたつ、レンガでできているらしい太い煙突がまっすぐ天井に伸びている。
 あたしと真砂子《まさこ》、綾子《あやこ》を外に残して、他の四人がその部屋に入っていった。
「だいじょうぶ?」
 声をかけるとぼーさんが、
 
「……ああ。床は石だな。しっかりしたもんだ」
 ……いや、そうではなくて。
「ひでぇ臭いがする」
 たしかに、なにかひどい腐臭《ふしゅう》のような臭いがその部屋には充満していた。「ドアがある」
 ナルがつぶやいて部屋の右手に向かう。見るとライトに照らされてかたむいたドアが見えた。半分開いたようになっているドアの向こうには、レンガが積み上げられているのがわかる。ナルがドアを引くと、ドア自体がはずれてしまう。その向こうは完全な壁になっていた。
 壁には窓もあったようだけど、その向こうも完全な壁。レンガで封じこめられた密室。 ぼーさんは壁ぎわに並んだ木箱をのぞきこむ。かがみこんで中のものを拾い出した。
「……石炭だな」
 さらに隣の木箱を、ぼーさんがのぞきこんだときだった。
「……わっ!」
 ジョンが悲鳴みたいな声をあげた。
「どうした!?」
 ジョンは焼却炉の蓋を開けたところだった。ナルとぼーさんが駆けつける。後じさって硬直したジョンのわきから中に光を当てた。
「ねぇ、どうしたの?」
 あたしたちが呼びかけても返答はない。ぼーさんが立ち上がってナルを見た。
「……どうする?」
 ナルはじっと中をのぞきこんだまま、
「警察に連絡したほうがいいだろうな」
 そう言って立ち上がり、こちらに出てきた。
 ……警察!?
「……ねぇってば。どうしたの!?」
 穴から出てきたナルをつかまえて聞くと、ナルはひどく静かな声で言った。
「死体がある」


五章 人喰《ひとく》い


     1

 食堂で大橋さんをつかまえて、それを報告すると大騒ぎになった。すでに起きていた数人の霊能者たちもすっかり狼狽《ろうばい》してしまう。
「……死体……ですか」
 ナルは大橋さんに聞かれてうなずく。
「二月に消えたふたりのうちのどちらかだと思います。警察に連絡をしたほうがいいと思いますが」
「待ってください」
 大橋さんは顔をひきつらせていた。
「それは困ります。私の一存ではそれはできません」
 そんなことを言ってる場合? 
「とにかく、先生に連絡を取ります。どうにか指示があるまで伏せておいてください」
 そう言って転《ころ》がるように食堂を出ていく。
「それは、どこですか?」
 五十嵐《いがらし》先生が聞いてきた。
「建物の西の方です。この位置ですが」
 ナルは平面図を示した。
 先生はそれを見て驚いたようにテーブルについた南さんとデイビス博士を振り返る。愕然《がくぜん》としたままのふたりに、感心したように言った。
「すばらしいわ。博士の予言どおりでしたわね」
 ……え?
「なんですか? それは?」
 ナルが聞くと五十嵐先生は満足そうに笑って、
「いえ、さっき博士が予言をなさったのです。失踪者の行方《ゆくえ》をお聞きしたら透視をしてくださったんです。すると、失踪者は西の方にいるとおっしゃって」
 あたしたちは南さんとデイビス博士を振り返った。ふたりはなぜだかひどく困ったような顔をしている。反対に五十嵐先生はずいぶんと浮かれているように見えた。
「すばらしいことですわ。さすが博士でいらっしゃるわ」
 ナルがひどく冷たい声を出した。
「先生、おわかりになっておられますか」
「……なにがです?」
「二月に失踪した人間が死んでいる以上、他の失踪者にもほとんど生存の望みはないと思われます」
 とたんに先生の顔がこわばった。
「……鈴木さんは死んでいるとおっしゃるの?」
 あたしたちはその答えを知ってる。でも、とても言えなかった。
「鈴木さんにかぎらず、厚木《あつぎ》さんも福田《ふくだ》さんもおそらくは」
「でも、二月の失踪はあれはずいぶん前のことでしたでしょう。きっと道に迷《まよ》って」
 言いかけた先生をナルがさえぎった。
「あの部屋に迷いこむことはできません」
「……え?」
「あの部屋は外から完全に密閉されていました。僕らも壁に穴を開けて入ったんです。普通の人間が通常の方法で入ることはできません。迷いこんだりできるような場所ではないんです」
 五十嵐先生は真っ青になった。
 突然、三橋さんが立ち上がった。職員のおじさんを呼ぶ。
「君、私は帰るからな」
「あの……?」
 困惑した表情のおじさんに言い捨てる。
「調査を打ち切って帰る、と言っているんだ。大橋くんにはリタイアしたと伝えてくれ」 目を丸くしたままのおじさんを残して、三橋さんはあわただしく食堂を出ていく。南さんが博士をうながして立ち上がり、その後に続いた。

 急転直下のなりゆきだった。まず三橋さんが家を出ていった。その後に起きてきた井村《いむら》さんと聖《ひじり》さんも死体発見の報告に青ざめ、そして三橋さんがリタイアしたことを聞くと、井村さんもリタイアを宣言した。
 大橋さんは困惑した表情だった。どうやら彼のご主人は警察を呼ぶとに反対したらしい。警察を呼び、解体業者を呼んで空白の部分を全部壊《こわ》してみるべきだと主張するナルを押しとどめながら、それでもどうしていいかわからないという顔をしていた。
 二時間後、聖さんのところの霊媒だったおねーさんがいなくなっているのがわかった。失踪かと身構えたあたしたちだったけど、聖さんの車がなくなっているのが発見されて、彼女は逃げだしたのだとわかった。
 そして職員のひとりは市内に雑用で出かけ、そのまま戻ってこなかった。
 残されたあたしたちは食堂に集まっていた。聖さん、五十嵐先生、そして南さんの助手のおばさんがひとり。
 白石《しらいし》さんというそのおばさんは、さかんに聖に帰らないのかと聞いていた。
 聖さんは不快そうに言う。
「うちの厚木くんは消えたままなんですよ。たとえ死んでいるにしても、残して帰れるわけがないでしょう」
 ……そのとおり。
 五十嵐先生もうなずく。
「とにかく、早く捜してあげないと……。かわいそうに……」
 そう言って目頭《めがしら》を押さえる。
 ちょうどそこへ南さんが顔を出した。
「白石くん」
 南さんは白石さんに片手で手招きをする。もう片方の手にはカバンを持っていた。
「……南さん」
 五十嵐先生は立ち上がる。
「まさか、南さんもお帰りになるんですか?」
 南さんは顔をしかめた。
「しかたないでしょう」
「だっておたくの福田さんは消えたままじゃないですか!」
 南さんは視線をそらす。
「捜して無事な姿が見つかるものなら残って捜しますがね。こんな危険なところにいて、さらに被害が出ちゃあ話にならない。我々はリタイアします」
 ……そんな、冷たい。
 五十嵐先生は南さんのもとに駆《か》けつける。
「そんな」
 南さんの手をとって、それから背後にいたデイビス博士を見やった。
「博士も帰るのですか!? あなたの力が必要になるかもしれないのに!?」
 南さんも博士も答えない。
「お願いします。お帰りにならないでくださいまし。鈴木さんを捜してください」
 
 五十嵐先生は博士の腕をつかむ。
「お願いします!」
 博士はひどくうろたえた顔で手を振った。
「ワタシは違います」
 先生もあたしたちも、博士の顔をまじまじと見てしまった。少しなまってはいるけど、ちゃんとした日本語だった。
「ワタシは、博士では、ないです」
「なんですって!?」
 五十嵐先生は声をあげる。あたしは心の中で、やっぱり、と思ってた。
「ワタシ、名前をレイモンド・ウォール、いいます。デイビスでは、ないです」
「おい、きみ!」
 南さんが制したけど、出てしまった言葉は取り消せない。
 博士――いや、ウォールさんはひどく困った顔をしていた。
「あっち、言ったのも、うそです。そう言っただけです。ワタシはちがいます。南サンがデイビスと、言えと言っただけです」
 南さんは怒ったように顔をそむける。ウォールさんは続けた。
「ワタシ、帰ります。もう、帰ります」
 五十嵐先生は手を放した。彼はあわてたように背をそむけて廊下《ろうか》を去っていく。南さんがそれに続いた。もうだれも止める人はいなかった。

     2

「……あのペテン師が!」
 そう聖《ひじり》さんがつぶやいたけど、だれもそれに答える気にはなれないようだった。
 ナルが静かな声で言う。
「おふた方もお帰りになったほうがいいと思います」
 五十嵐《いがらし》先生は悲壮な顔で振り返る。
「どうして……どうして、そんなことを」
「ここは危険です。諏訪《すわ》市内に戻るだけでもいい。この家を出たほうがいいと思います」
 そしてナルは愕然《がくぜん》とするようなことを言ってのけた。
「僕らも引き上げます」
「ちょっ……ちょっと待ってよ!」
 あたしは思わず叫んでしまった。
「引き上げるって……じゃあ、他の失踪した人は? このまま放って帰るつもり?」
 ナルは静かな声で言う。
「全員死んでいる。捜しても望みはない」
「でも……」
「家の中は捜しつくした。失踪者は閉ざされた部屋の中にいるとしか思えないし、事実そうだった。しかし、あそこには壁に穴でも開けないかぎり入れないんだ。浦戸《うらど》がどうやって犠牲者を壁のむこうに連《つ》れこんだのかはわからない。生身《なまみ》の人間は壁を通り抜けたりできないんだから、空間をねじ曲《ま》げるか時間をねじ曲げるかしたとしか思えない。それがどれだけの力を必要とすることかわかるか?」
 ……それは、なんとなく……。
「奴は恨《うら》みをはらしたくてさまよってるわけじゃない。この世に未練があるわけでも心残りがあるわけでもない。奴はただ単に生き延びたいだけなんだ。そのために獲物が必要だから狩っている。これはもう亡霊とは言わない。『鬼』でも『悪魔』でも『妖怪』でもいい。そういう化け物なんだ」
「……でも」
「僕は残念ながら幽霊を狩る方法は知っていても、化け物を狩る方法は知らない。除霊は不可能だ」
 そう言ってナルは全員を見渡した。
「この中に、奴を狩る方法を知っている者がいるか?」
 ぼーさんが口を開いた。
「正直《しょうじき》に言うが、俺にはできん。壁に人間を通すような力を持ってる奴を、ねじふせるほどの能力はない」
 綾子《あやこ》もうなずく。
「アタシにも無理だわ。条件が悪すぎるもの」
 ジョンも同じくうなずいた。
「神の栄光を恐れない者を、力で封じることはできないです」
 ナルはうなずき、そして指を組む。
「ただ、ひとつだけ奴には弱点がある」
 ……え?
「奴はこの家から出ることができないんだ」
「……そうか」
 ぼーさんが拳《こぶし》を握《にぎ》った。
「家の周囲は安全だとお嬢さんも言ってたな。浦戸は生前ここで殺戮《さつりく》をくりかえした。この家で、麻衣《まい》の言ってた処刑室で、それで奴は今もこの家にこだわってる。捕らわれてる言ってもいい。だから家の外まで人を狩りには行けねぇんだ」
「おそらくね」
 ナルはうなずいた。
「だったら俺にも除霊できらぁ」
「――そうなの!?」
 ぼーさんは笑う。
「もちろん。麻衣にだってできるぜ」
「……あたし?」
「燃やせばいいんだ。炎《ほのお》によって浄化できないものはねぇからな。奴が家にしばられてて逃げられないんなら、この家ごと燃やせばいいんだ」
「焼け跡に残ったりしないの?」
「しねぇだろうな。奴がこだわってるのはこの場所じゃなく、家そのものだからな」
 ……そう、そうなのか。
 ナルは軽く息をついた。
「大橋さんがこちらの忠告どおり、警察を呼んで家を解体してくれれば失踪者は発見できる。それは僕らの仕事じゃない」
 ぼーさんがニンマリする。
「そういうことで逃げて帰るわけか。ナルちゃんらしくもねぇけどな」
 そうだ。たしかにナルらしくない。
「逃げるんじゃない。僕らの仕事は終了したんだ」
 へっっ?
 だれもが眼を見開いてナルを凝視《ぎょうし》した。
「僕がここに来たのは、大橋さんの依頼を受けたからじゃない。依頼じたいは、さして興味を引かれなかったし、現在もさほどおもしろい事件だとも思えない」
「でも……だったらどうして」
「僕は大橋さんの依頼を受けたわけじゃない。まどかの依頼を受けたんだ」
「まどか……って森さん?」
「そう。彼女が、南心霊調査教会の連中が、デイビスのニセモノを連れて歩いているようなので調べてほしいと」
 開いた口が塞《ふさ》がらないとはこのことだ。
「僕らの仕事は今、終了した。ここに危険を冒《おか》して残る理由がない。残ったところでおもしろい現象が見られるとも思えないし。引き上げる」
「たばかったな……てめー」
 ナルは涼《すず》しい顔だ。
「戦略上の秘密というやつだ。この中には腹芸のできない人間がいるだろう」
 そう言ってあたしを見る。
「ええ、そうですとも。あたしはナルとちがって、嘘《うそ》ついて人をだますのが嫌《きら》いだからね」
 あたしはそう言って、キョトンとしている五十嵐先生と聖さんを振り返った。
「そういうわけで、ごめんなさい。あたし嘘をついてました」
「麻衣!」
 うるさい。いまさら止めたって遅いわっ。
「うちの所長もニセモノです。この偉《えら》そうな態度を見てもおわかりでしょうが、うちの所長はこいつなんです」
 しっかりナルを指さす。ナルが苦《にが》い顔をした。
「こいつが、渋谷一也《しぶやかずや》です。みなさん、ごめんなさい」
 五十嵐先生も聖さんも、ポカンとしている。
「麻衣!」
「なんだよ」
 モンクがあるなら聞こうじゃないか。
 ナルはあたしをいまいましげな表情で見て、それから軽くためいきをついた。
 よし。勝ったぜ。
「……撤収の準備をする。荷物をまとめろ」
「はい、所長」
 ザマァミロ。
 

     3

 あたしたちは大あわてで部屋に戻って、荷物をまとめ始めた。
 あたしは服をカバンにつっこみながら、首をかしげた。
「……いいのかなぁ。本当に帰って」
「ナルがいいって言うんだから、いいんでしょ?」
 綾子《あやこ》には悩みというものがなさそうだ。
「だって、浦戸《うらど》の霊は? 解体工事をしろって、工事の最中人が消えたらどうするの」
「まぁそうだけど」
 綾子は丁寧《ていねい》に服をたたんでいく。
「でも、チマチマ解体すれば危険だろうけど、こう……ブルドーザーとか鉄球なんかでドカンと解体すればだいじょうぶでしょ? いわば家を小さくしていくわけだから」
「それは……そうだけど」
 綾子は髪をかきあげた。
「ああ、気持ち悪い。ゆうべはお風呂に入れなかったし、今日もホコリだらけになったし」
 本当にノンキだな、こいつは。
「あたしシャワー使うから、麻衣《まい》、時間をかせいどいて」
「あのなぁ……」
 ナルにどやされるぞ。
「ナルをいなすのはお手のものでしょ。オネガイねぇ」
 ヒラヒラ手を振ってバスルームに行ってしまう。
 しょうがねぇなぁ、ったく……。
 あたしは黙々《もくもく》と荷物をまとめていた真砂子《まさこ》を振り返った。
「真砂子、すんだ?」
 真砂子はチラッとあたしを見て、すぐにそっぽを向く。
「真砂子?」
「あたくし、あなたなんかに呼びすてにしてほしくありませんわ」
 ……こいつ。
「また『なんか』をつけたな」
 真砂子はフンと顔をそらして、返事もしない。
「どーしてあたしをそこまで嫌《きら》うわけ?」
 真砂子はしらんぷり。
「理由ぐらい言ってくれてもいいんじゃない?」
「……あたくし?」
「そう。なんかナルの弱みを握《にぎ》ってるでしょ?」
 真砂子はちょっとひるんだ。
「どーいう弱みなのかなー。教えて……くれないよねぇ」
「あたりまえですわ」
 そう言った真砂子の顔がちょっと寂《さび》しそうに見えて、あたしは首を傾げてしまった。
「あなたに言ったりしたら、あたくし本当に嫌われてしまいますもの」
「……は?」
「だから……あたくし、ナルの弱みを知ってますわよ」
 おお。断言するとは。
「それでナルはあたくしを嫌ってますの」
 ちょっと待て。どうして話がそういう方向に行くんだ。
「ナルはプライドが高いんですもの。だれかが弱みを握ってるのをガマンできないんですわ」
「……それはわかる」
「だからあたくし嫌われてますの。それを話したら今以上に嫌われてしまいます」
 その理論はわかるような気がする。
 たしかになぁ。嫌うとはいかないまでも、けむたがってるようではあるもんなぁ。
 真砂子は立ち上がった。スタスタと部屋を出ようとする。
「真砂子ぉ」
 ひとりなるとナルにどやされるぞ。
 真砂子はドアを開けて、あたしを振り返る。
「麻衣……やっぱり、嫌いよ」
 あたしはタメイキをついた。
「さようで。――部屋から出ちゃダメだよ。ひとりになるなって言われてるでしょ」
「外の空気を吸いたいだけですわ。この部屋はだれかさんのせいで空気が悪いんですもの」
「わかったわかった。でも、ダメだよ。危ないでしょ」
「ちょっとひとりになりたい気分ですの」
 真砂子はドアのすき間からすべり出る。
「ちょっと! 真砂子っ!」
「廊下《ろうか》にいますわ。だから来ないで」
 ドアが軽い音をたてて閉まる。あたしは肩をすくめた。そうしてちょっと笑う。
 うん。あたしは真砂子、好きだな。女の子らしくてかわいーじゃん。

     4

 綾子《あやこ》がお風呂からあがってきて、あたしはドアに向かって声をかけた。
「真砂子《まさこ》、戻るよ」
 返答はない。
 ドアを開けても、真砂子はすぐ近くの曲《ま》がり角で、そこにある窓からうつむきかげんに外を見ていた。
「真砂子」
 声をかけるとハッと顔を上げ、あたしのほうを見てから窓を離れる。あわてたように袖《そで》で顔を押さえて、廊下を曲がって向こうへ行ってしまった。
「ちょっと、真砂子!」
 ……んもー、あのおんなっ。
 あわてて綾子とふたりで部屋を出た。真砂子の後を追いかける。角を曲がると長めの廊下で、さらにむこうの角を薄藍色《あいいろ》のたもとが曲がっていくのが見えた。
「真砂子! ひとになっちゃダメだって!」
 走ってそれを追いかける。曲がったところは階段で、その両わきに向かって廊下がのびている。階段の上まで来てあたしは左右を見渡した。どっちに行ったんだろう。
「手分けして捜したほうが早いんじゃない?」
 綾子に言われて首を振る。
「ダメだよ。ひとりになるなって言われたでしょ」
 そう答えたところに軽い足音がして、ぼーさんとジョンが階段を上がってきた。
「こらぁ、荷物をまとめるのにいつまでかかってんだ」
「ぼーさん、真砂子がどっかに行っちゃったの!」
 ジョンとぼーさんは顔を見合わせた。ダッと階段を駆《か》け上がってくる。
「……どっかに行ったって……」
「つい今さっき、こっちへ曲がるのが見えたんだけど」
「じゃ、階段を下りたんじゃねぇな。おいジョン、綾子と向こうを捜せ」
 ぼーさんは右を指さす。左に向かって駆け出しながら、
「麻衣《まい》、来い!」

 何度も名前を呼びながら捜したけど、真砂子の姿は見つからなかった。では廊下を右に行ったのだろうかと戻ってみると、綾子とジョンも見つからなかったと言う。さらにそのへんを捜したけど真砂子の姿はない。あわててベースに駆け降りると、ナルにそれを伝えた。
「原《はら》さんが……?」
「ほんのちょっと目を離したすきにいなくなったの! 捜して!」
 ナルがまとめていたケーブルを放り出して立ち上がる。全員で二階に戻って真砂子を捜した。名前を呼んでもなんの返答もない。全部のドアを開けて、廊下を端から端まで走りまわったけど真砂子の姿は見つからなかった。一時間が過ぎて二時間が過ぎた。
 真砂子は姿を消してしまった。

「どうしてひとりで行動させたんだ」
 ナルに思いっきり叱《しか》られて。
 ……とめればよかった。もっと強く。後悔がどっと胸に押し寄せる。
 
 ナルはベースで、平面図を広げる。
「いるとしたら、もうこの空白のどこかしかない」
 図面上にいくつか残った空白を示す。
「……どうする?」
 ぼーさんが聞く。
「壁を壊《こわ》して入ってみるしかないだろう」
 全員でうなずいたときだった。例によって窓がノックされた。夕暮れにはまだ間がある。窓の外は明るくて、安原《やすはら》さんと森さんが立っているのがわかった。
 ナルは手短に事情を説明する。手近の空白から手あたりしだいに壊すことにして、手順を決めた。全員で機材を持って行くよう命じて、ナルはリンさんを呼んだ。
「リン。来てくれ」
「ナル?」
「原さんの荷物を見てくる。先に行っててくれ」

 あたしたちは機材をかついで手近にあった空白に向かった。今朝《けさ》やったように機材を配置していると、ややあってナルが戻ってくる。
 こんなゆっくり調べてていいんだろうか。真砂子はどうしてるんだろうか。失踪した人たちはみんな死んでた。まさか、真砂子も……。
「ねぇ、いちいち調べてないで、手あたりしだいに壊したほうが早いんじゃないの?」
 あたしが聞くとナルは、
「最終的にはこっちのほうが早い」
 ……それはわかる。でも。
 あたしは機材の接続を手伝いながらジリジリしてしまう。こうしている間にも、真砂子が殺されようとしているかもしれない。あせったところで、壁を壊す早さが変わるはずもないのはたしかだけれど。
 朝と同じ手順で壁の厚さを調べ、もっとも条件のいい場所に穴を開けてカメラを突っこむ。最初の空白の中の単なる空洞で、なにもないとわかった。機材を次の空洞に持っていく。駆けまわりたいほどイライラしながら、そうやって空白をひとつずつ調べていった。
「なぜ来たんです」
 機材を運《はこ》びながらナルが安原さんに聞く。
「聞きこみから帰ったら、ホテルのフロントにメッセージが入ってたんです。撤収することになった、って。それで撤収を手伝えるかなと思って来たんですけど……」
 来てよかったな、と安原さんはつぶやいた。
「それで? なにかわかりましたか?」
「え?」
「聞きこみ。なにか新しい情報は入りましたか?」
 安原さんはうなずいた。
「また養老院めぐりをしたんですよ。今度は病院とか施設の関係者がいないかと思って。そうしたら、いました。生き証人が」
「生き証人って……」
 ナルは機材を床に降ろしながら問い返す。
「明治四十年、施設が閉鎖されたときそこで介助者をやってたって人が」
「……本当に?」
「ええ。その当時彼は十三歳で、現在九十六歳。半分ボケてるんですけどね、昔のことはよく覚えてましたよ。と、いっても病院や施設に関する記憶なんて、いくつもないんです。ただ、その施設ではよく人がいなくなった、って、それだけですけど」
 人が……いなくなった?
 安原さんは手早くケーブルをほどきながら、
「施設では衣食住が保証されてましたけど、まったくタダってわけでもなかったようです。施設を出た人間はいちおう、施設にいた間支給されたものに相当する額のお金を返済する義務があったらしいんです。それで、夜逃げ同然に逃げ出す人も多かった。でもね、職員の間では有名だったそうです。その逃げ出した人の中には山荘に連《つ》れていかれて、そのまま帰ってこなかった人間もいるってのは」
 ここに連れて来られた……。
「仕事をサボると、よく先輩に山荘に連れていかれるぞ、って脅《おど》されたらしいんです。それでおじいちゃんは、強く印象に残してたようなんですよね」
「……なるほど」
 彼らはここに連れてこられ、そして処刑室に連れていかれた。浦戸の歪《ゆが》んだ欲望のために生《い》け贄《にえ》として捧げられた。
 ……真砂子は。真砂子はどうしているんだろうか。生け贄にされようとしてるんじゃないだろうか。それともまだ、ぶじでいるんだろうか。
 お願いだからぶじでいて。どうぞだれか、真砂子を守って……。

 空白を四つ開いて、中を確認したけれど真砂子の姿はなかった。調査は北棟のX階に面した部分にまで来た。時計はすでに深夜を過ぎている。
 空白に面していると思われる十数の壁をいちいちレーダーを使って確認する。どの壁も厚くて、ヤワな工具なんかじゃ穴を開けられそうになかった。
 辛抱《しんぼう》強く同じ行為をくりかえしているみんなを見ながら、あたしはひどく自分が疲れているのに気がついた。壁に背中をあずけ、ずるずると座りこむ。徹夜のあとの重労働で、疲れていないはずがない。それは全員が同じだろう。それでも真砂子のことを思うと作業をやめられない。それどころか気ばかりがあせって、小さな口論やミスが続いた。
 ぼうっと座りこんでみんなを見る。綾子が隣に来て腰を降ろした。
「……疲れた?」
「うん……」
「少しウトウトすれば? アタシがついててあげる」
「でも」
「情報収集にもなるかもしれない。真砂子がぶじか、確かめてよ」
 あたしはちょっと笑った。そんなふうに自分の力が思いどおりになったらいいね。
 それでもあたしは膝《ひざ》を抱いて額《ひたい》を乗せた。眼を閉じてみた。眼を閉じるとそれだけでふうっと意識が遠くなりそうになる。あたし、すごく眠いんだ。こんなときなのに。こんな……ときなのに……。

     5

 気がつくと、あたしはひとりで暗い廊下《ろうか》を歩いていた。
 その前の記憶がない。いつの間にこんなところに?
 首をかしげて立ち止まって、あたしはふと思いあたる。
 これ、夢なんだ……。
 きっとたぶん、いつもの夢。
 そう思ったとたん、静かに周囲の色が消えていった。すうっと吸いこまれるように光が消えて闇《やみ》が降りる。音もなくまわりの景色の光と影が反転する。それと同時に壁が床が、天井が透《す》けていった。
 ……やっぱりそうだ。あたし、ちゃんと夢を見ている。
 陰画になった家の中には、白く尾をひいてたくさんの鬼火《おにび》が飛んでいた。
 あれがぜんぶここで殺された人なんだ……。
 すうっと光が寄ってくる。白い丸い光が魚のように泳いできて、あたしの身体《からだ》のまわりをくるくるまわった。あたしは手を伸ばしてみる。指先に光が触れて奇妙に温《あたた》かい感触がした。手に触れた光が、漂《ただよ》うように離れていく。
 泳いで行くその先になるの姿が見えた。
「……ナル」
 廊下の向こう。白い顔と白い手。
「真砂子《まさこ》を知らない?」
 あたしが聞くとナルはちょっと微笑《わらっ》た。その笑顔を見てあたしはひどく安心する。温かい笑顔。きっと真砂子はぶじなんだ。
 白い手を動いて、右の方を指さした。
「……そっち?」
 聞くとうなずく。そしてもう一度微笑してから、闇《やみ》に溶《と》け入るようにしてその姿が見えなくなった。
 あたしはナルが示したほうへ歩く。影の廊下を小走りに歩いて真砂子の姿を捜した。
 歩くうちにじょじょに色が戻ってきた。壁が不透明になって暗い廊下がはっきりと現れる。あたしはあたりを見まわした。
 ……夢から覚める?
 だめ、まだ起きたくない。まだ真砂子を見つけていない。
 走るようにして廊下を駆《か》け抜ける。すぐに目の前にドアが現れた。行き止まりのドア。どっかで見たことがある、と思いながらドアを開いた。中は小さなホールになっていた。ガランとしたホール。二階へ上がる階段。
 ……ここは……。
 あたしはまっすぐ二階へ駆け上がった。記憶をたどって二階の廊下をまっすぐ奥へ向かう。廊下の突き当たりにあるドアに駆け寄った。
 そのドアを開けるのは少しだけ勇気がいった。扉《とびら》を開くと、中は白いタオルを張った小部屋だった。なにもかも同じだった。ずいぶんと暗く感じることをのぞいては。迷《まよ》わずさらに奥へ通じる扉を開く。広い浴室に出た。――あるいは処刑室に。 白いタイルの上に、白い浴槽と白いベッド。そしてその奥の壁ぎわに人影が見えた。
「真砂子!?」
 あたしは走る。人影は着物を着ている。床にうずくまって、胸に抱きこんだ膝の上に頭をのせてコソともしない。そばに駆け寄った。
「真砂子!」
 呼ぶと切り下げた髪が揺《ゆ》れた。
「真砂子?」
 真砂子が顔を上げた。
 ……よかった。生きてる。
「……麻衣《まい》?」
「だいじょうぶ? ケガは?」
 真砂子はゆるゆると首を振った。
「ないわ……。どうしたの、あなた、こんな所に……」
「夢なの、これ」
 こういうのも変な話だ。それでも真砂子は微笑《わらっ》た。
「そうでしたの……。あたくし、麻衣も死んだのかと思いましたわ」
「冗談やめて。あたしも、真砂子も死んだりしないよ」
 真砂子どこか疲れた表情で微笑う。
「……そうですわね」
 
「辛《つら》くない? 平気?」
「怖《こわ》い思念がたくさん残ってて……とても疲れますわ」
「あきらめちゃ、だめだよ。ぜったい助けに来るからね」
「……ありがとう」
 真砂子はそう言って軽く笑った。
「だいじょうぶですわ。さっきまでここにナルがいたんですのよ」
「ナルが?」
「おかしいでしょう? ここにいてくれて、はげましてくれたんですの。変なんですのよ。ナルがとっても素敵に微笑うんですの」
 あたしはなんとなく微笑《ほほえ》んだ。
「……そうか。よかったね」
 真砂子が微笑い返した。微笑ったまま、ふいに涙がこぼれ始める。
「真砂子?」
「これは夢なのね。麻衣の夢ではなくて、あたくしの夢なんでしょう?」
「ちがうよ。あたしの夢なの」
 とっても奇妙な会話だと思った。
「あたくし、ひょっとしたら死んでいるのかもしれませんわ。自分でわからないだけなのかも。あたくし、ちゃんと人の姿をしてます?」
「うん。いつもどおりだよ」
「……そうなのかしら」
 あたしはふと思いついてポケットに手を突っこんだ。右手にキーホルダーを握《にぎ》る。取り出して金具から一本の鍵《かぎ》を外した。
「これ……お守り」
「お守り?」
 首をかしげるようにして、真砂子は鍵を受け取る。
「あたしのお守りなの。昔、住んでた家の鍵なんだけど」
 お父さんとお母さんが住んでて、あたしが生まれた家。お父さんが死んだとき、お母さんがお守りをがわりに持って出て、そして結局あたしに残された。
「……あたくしに?」
「うん。なにか物があると、あたしたちのこと信じてられるでしょ? 自分のことも信じていられるでしょ? 真砂子、死んでないよ。夢を見てるでもない。ちゃんと鍵の感触がするでしょ?」
「……ええ」
 これはあたしの夢なのに、あたし馬鹿《ばか》みたいなことを力説してる。
「みんな、一生懸命《いっしょうけんめい》入り口を探してるの。きっとじきに見つかる。助けに来るから、信じて待ってて」
 真砂子はうなずいて、それからあたしの腕を握った。
「ここは……怖いの」
「うん」
「あの男が来るんですの」
「浦戸《うらど》?」
 真砂子はうなずいた。お人形のような顔が少しだむ歪《ゆが》んで、透明な涙がこぼれた。
「ほかにも男の霊がふたり。あたくしを殺しにくるの。必死で念じて来ないようにしてるの。でも、もうあたくし疲れてしまってて……」
「へこたれちゃ、ダメだよ。もう少しだからがんばって」
「幻《まぼろし》が見えるんですの……たくさん人が殺されて……とても怖い……」
「だいじょうぶ。ぜったい助けに来るから。だから、真砂子もがんばらなきゃだめだよ」 真砂子は子供みたいにうなずいた。
「待っていますわ。必ず、来るわね?」
「うん。必ず。できるだけ、早く。だから……」
 言葉は最後まで言えなかった。ふいに視界がぼやけて、暗くなる。真砂子が心細そうな表情をしたのを最後に見た。

     6

「麻衣《まい》、起きて」
 あたしはポカッと目を覚《さ》ました。
「起きた? 次の部屋に移動するよ」
 綾子があたしの顔をのぞきこんで立ち上がる。
「綾子……真砂子《まさこ》生きてた」
 パッと綾子が振り返った。
「……麻衣?」
「生きてたよ。処刑室にいたの。怖《こわ》いって、辛《つら》いって言ってた。でも、元気そうだった」
 なんだか涙がこぼれた。
 綾子はあたしの顔をじっと見つめる。みんなの視線が集まっているのがわかった。
「……本当に?」
「うん」
 だれもが対応に困った、という表情をしていた。あたしも、そう。よかった、と喜ぶほど自分の力を信じられないから。
 複雑そうな表情のみんなに向かってナルが声をかける。
「移動しよう」

 次の部屋で、リンさんが突破口を見つけた。
「壁の薄いところがあります」
 どっとみんながモニターに集まる白い壁の真ん中に大きな四角形の薄い影が見えた。レーダーの映像は、電磁波を強く反射するところが白く見える。あの薄い影は、そこだけ壁が薄いことを表している。
 ぼーさんは安原《やすはら》さんが腕まくりをして壁に取りついた。ツルハシやバールを振り上げる。かなり楽に小さな穴が開いた。ぼーさんがライトの光をあてて中をのぞきこむ。
「すぐそこにドアが見えるぜ」
 全員で寄ってたかって穴を広げた。
 壁の向こうは一メートル以上低くなっていた。石造りの階段があってポーチがあって。そして正面に両開きのドア。一目でここは玄関なのだとわかった。
 この上に建物があるんだと、一階や二階や三階があるんだと思うとひどく奇妙な気がした。家の奥深くに隠《かく》されたもうひとつの玄関。
 ぼーさんと安原さんが段差を飛び降りてドアに飛びつく。持っていた工具でドアをこじ開ける。錠というよりドアそのものを壊《こわ》して、扉《とびら》が内側に開いた。
 ドアを入ったところは玄関ホールになっていた。ホコリのつもった絨毯《じゅうたん》の上に、ちゃんと家具も置かれている。どれもこれも雪が降りつもったようにホコリをかぶって、なんだか奇妙な世界に迷《まよ》いこんでしまった気がした。ホールからまっすぐ奥に向かって廊下がのび、右手には二階へ上がる階段があった。ライトをあててのぞきこむと、二階に上がりきったところで塞《ふさ》がれてしまっているのが見えた。おそらく、あれが北棟の一階の床なんだ。
「麻衣、夢で見たホールってのこれか?」
 ぼーさんが聞いてくる。
「ちがうよ。こんなんじゃなかった」
 ナルがライトで周囲を照らしながら言う。
「ひょっとして……鉦幸《かねゆき》が住んでた母屋《おもや》じゃないのか?」
「ありうる」
「じゃ、どこかに暖炉《だんろ》のある部屋があるはずだよ。暖炉の右にクローゼットがあるの!」
 廊下を小走りにぬけながら両側のドアを開け放していった。
 その部屋はいちばん奥に見つかった。
「……この部屋!」
 奥の部屋は、夢で見たのとまったく同じ構造をしていた。暖炉。その前の低いテーブル。暖炉の右にクローゼット。
 ……本当にあったんだ。
 ナルがクローゼットの扉を開けた。そこには夢とちがって、一枚のカーテンがかけられていた。カーテンを開く。その奥にも扉。ナルはさらにそれを開いた。扉の向こうに細い廊下があった。
「やった!」
 綾子が手を叩く。
「えらい、麻衣!」
 ナルは表情のない声をかけた。
「いくぞ」

 廊下は十メートルくらいで途切れていた。そこにあったドアを開けると、三畳くらいの小さな部屋に出る。その部屋にあるもうひとつのドアを開けると、暗い空間に出た。
「え――?」
「あぁ!?」
 巨大な空洞。ハンド・ライトの光があたりをなぎ、あたしたちは仰天《ぎょうてん》した。するなと言うほうがムリだ。
 暗い、ポッカリと開いた空洞。巨大な虚《うつ》ろな空間。広さにして体育館ほど。天井まではすごく低い。上階の床が複雑に入り交じり凹凸をくりかえしているけれど、低い所であたしでも身をかがめるほど、高い所でもリンさんが手をあげれば指先がとどくほどの高さしかない。
 そしてその空間には、白い骨のように枯《か》れ果てたなにかの樹木の姿が並んでいた。
「迷路だ……」
 樹木は明らかに迷路の様相だった。しっかり葉がついていたころには、隣の通路は見えなかったのに違いない。今では枯れ落ちてしまったせいで白い枝を透《す》かしてずっとむこうまで見えるけれども。
 迷路を歩くのは簡単だった。強くおすと折れてしまう樹木のせいだ。周囲に光をあてながら枝を折って周囲の壁に沿って歩きつづけ、ドアを見つけた。
 磁石と平面図と見比べていたリンさんが、
「ナル、いちばん大きな空洞のあたりまできたようです」
 
 そう言った。
 北棟のX階。中央部の高すぎる床下。そして大きな二階まで吹き抜けの空洞。それらは全部つながっていたんだとわかった。

     7

 ドアを開けるとホールがった。がらんとした部屋に上に上がる殺風景《さっぷうけい》な階段。ホールに関してはドアが三つ。家具も絨毯《じゅうたん》もない。
 ホールを見まわしたとたん、あたしはハンド・ライトを握《にぎ》りなおして駆《か》け出していた。
 ……ここだ、まちがいない。
「――真砂子《まさこ》!」
「麻衣《まい》!」
 制止する声が聞こえたけど、足が止まらない。二階へ駆け上がり、廊下を駆け抜けて奥の部屋に走った。ドアを開ける。
「真砂子っ!」
 小部屋をぬけてドアを開ける。ライトの光にタイルが鈍《にぶ》く光った。まっすぐに浴室を駆けぬける。足もとがすべって転《ころ》びそうになりながら、あたしは奥の壁をめざした。ベッドにぶつかりそうになって手をつく。濡《ぬ》れたタイルの冷たい感触がした。ライトを壁に向ける。
「真砂子!!」
「……麻衣」
 弱い声が聞こえた。あたしは声のほうにライトを向ける。壁に身を寄せてうずくまっている真砂子の姿が見えた。
 ああ、よかった。本当によかった……!
 真砂子に駆け寄った。そばに膝《ひざ》をつく。
「よかった。だいじょうぶ?」
 真砂子がうなずいた。
「早かったのね」
 言ってから、ふと眉《まゆ》をひそめた。
「ケガをしましたの?」
「……え?」
 真砂子が手を伸ばした。あたしの頬《ほお》に指を触《ふ》れて離す。見るとその指先が赤黒い。
 ……なに?
 思わず自分でこすろうとして、あたしは手が真っ赤なのに気がついた。赤いコールタールのようなもの。
 ……どうして。
 そう思ったとき、あたしはさっき自分がベッドに手をついたのを思い出した。あたし、手をついた。濡《ぬ》れたタイルの感触がした……。
 思わずライトで闇をなぎ払う。背後のベッドに光を向けた。
 白いベッドの上が濡れたように光った。黒いほど赤いもので。
 真砂子が悲鳴を上げた。ベッドの上は血の海だった。赤いものがパイプを伝わって、床に流れ落ちて大きな血溜《だ》まりを作っていた。
 ……足、すべった、さっき。
 よく考えてみると、長いこと封印されていた二階のこの部屋に、水なんてあるはずがないのに。
 あたしは靴《くつ》の裏を見た。そこも赤いもので真っ赤になっていた。
 おそるおそるライトの光を床に向けた。床には斑《まだら》に染まって見えるほどの血溜《だ》まりができていた。
 ……どうして。どうして。こんなに血が。
 密閉された建物で、人が来るはずもない部屋で、なぜ!?
 答えなんかひとつしかない!
 叫び出しそうになったとき、ふいにタプンという微《かす》かな音がした。あたしは思わず飛び上がって、音のしたほうにライトを向ける。
 音の出どころは浴槽だった。白い浴槽は糸を引いた血で赤い縞模様《しまもよう》になっていた。浴槽のふちのふたりに赤い水面が見えた。
 ふいに吐《は》きそうになった。身体《からだ》がガクガク震《ふる》えた。
 ……あんなにたくさんの……血。
 真砂子の手があたしの腕をつかむ。あたしの手が真砂子の手を握る。
 タプンともう一度音がして、水面が揺《ゆ》れた。漣《さざなみ》がたって、水面がもり上がる。赤い流れにテラテラと光ながら、人の頭が水面に現れた。その人物はゆっくりと浮かび上がってきた。額《ひたい》が現れ、眼がのぞき、その眼がしばらくあたしたちを見る。そうしてゆっくり身体を起こした。
 静かに血に濡れた男の上半身が現れた。痩《や》せた男だった。彼は浴槽のふちに手をかけて身を起こす。あたしたちを見たまま薄笑いを浮かべた。顔も肩も腕も、真っ赤に染まっている。粘度の高い血糊《ちのり》に濡れて、恐ろしい色に塗られた銅像のように見えた。
「……浦戸《うらど》!」
 あたしは叫ぶ。男はさらに笑った。口の中まで血糊で汚れて、まるで血を吐いたよう。 あたしは真砂子の手を解いて両手を組んだ。指を絡ませ不動明王印《ふどうみょうおういん》を作る。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン、ナウマクサンマンダバザラダンカン」
 この血は……これは……。
 真言《しんごん》を唱《とな》えながら頭がグラグラした。失踪した人たち。その人たちの……。
 男は血糊の中に身を起こしたまま、薄笑いをうかべてあたしたちを見ている。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
 男がふいに不機嫌《ふきげん》そうな顔をした。ゆっくりと身体をかたむけて、立ち上がり始める。
 指をほどいて剣印を結ぶ。空気を切る。横に縦に。
「臨兵闘者皆陳烈在前!」
 身を起こしかけた男がふいに、ドッと後ろざまに倒れた。激しい音をたて、水面が砕《くだ》けるように泡立《あわだ》って、飛沫《しぶき》があたしのところにまで飛んできた。
 あたしは真砂子の腕を引っ張る。立ち上がって浴槽をうかがう。駆け出そうとしたとき、突然背後から腕をつかまれた。
 太い男の腕があたしの両腕を背後からつかんだ。背中に壁の感触があるのに。あたしの後ろに人なんていられるはずがないのに。ハンド・ライトが墜落して明かりが消える。その光が消える瞬間、真砂子の腕にも同じようにかかった生々しい男の手を見た。壁から生《は》えた二本の腕。
 ギリッと腕が折れるかと思うほど強く締め上げられる。あまりの苦痛に悲鳴が声にならない。身をよじってもその手意外に感じられるのは、タイル張りの冷たい感触だけ。
 もう一度タプンという音がした。眼を見開いても闇以外なにも見えない。人が浴槽の中で身を起こす水音がした。激しい血糊の音。
 あれが浦戸。流血のヴラド。――『悪魔の子』
 締め上げる力が強くなって息がつまった。ひた、とタイルを踏む音がした。ひた、ひた、と闇の中を近づいてくる。
 そのとき、浴室に光がなだれこんだ。

 ハンド・ライトの強い光が交錯した。あたしは眼の前に真っ赤な浦戸を見た。
「いやぁぁっ!!」
 来ないで! 来ないでっ!!
「助けて!」
 ぼーさんが金色の法具を構えた。それより先にリンさんが指笛を吹く。
 高い鋭利な音と同時に、なにか白いものが飛来してきた。白い、微《かす》かに光を放つもの。鋭利な弧《こ》を描いてそれが浦戸に激突する。その刹那《せつな》、浦戸が顔を歪《ゆが》めてかき消えた。するとあたしの腕をつかんでた手の感触が消える。
 あたしは真砂子の腕を引っ張って猛然とダッシュした。光のほうへ。みんなのいる所へ。

     8

 みんなに迎えられて滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に背中や頭を叩かれて、少し痛いのがなんだかうれしい。
 その部屋は振り返ってみても血糊《ちのり》で一面が汚れていた。
「行きましょう。浦戸《うらと》は滅《ほろ》びていない。少し驚かせただけです」
 リンさんにうながされて廊下《ろうか》を駆《か》け戻る。階段を駆け降りて、ホールをぬける。迷路の間をぬけてあたしたちは走った。X階をぬけて外に転《ころ》がり出て。穴の周囲に置き去りにされた機材もそのままに、あたしたちは家の外に向けて急いだ。いちばん近い窓から外に飛び降りたときには、どうして心臓マヒを起こさなかったのか不思議《ふしぎ》な気がした。
 夜空はうっすらと明るんでた。伸びきった芝生《しばふ》の上に身体《からだ》を投げ出して、あたしたちはしばらく肩で息をした。
「まったく……ひとりで……行動するなと」
 ぼーさんが切れ切れに言う。
「うん……ごめん」
「おかげで見つけたけどな」
 え?
「二階にいたぜ、みんな」
 あたしは身を起こしてぼーさんを見た。ぼーさんは転がったまま空を見ている。
「失踪した連中。……喉《のど》が痛そうだった」
 みょうな言いまわしだけど意図は伝わった。やっぱりあの血糊はあの人たちの。
「浴室の隣の部屋に積み上げられてた。モノみたいにさ」
 ……ひどい。
「その手前の部屋には壁全体に棚があってな、そこに骨が積み上げてあった。見なくてよかったよ、お前。吐き気がしそうな数だった」
「……どうして、骨なんか……」
「知るか。けどあれは火葬にした骨だな。たぶん焼却炉で焼いて集めたんだろ。丁寧《ていねい》に並べてあったぜ。まるで陳列するみたいにさ」
 ……浦戸のしたことなんだろうか。いったい彼は、なにを考えてそれを並べていたんだろう。なんのために。あたしにはとても想像できない。
「宏幸《ひろゆき》氏はあれを隠《かく》したかったんだな。とてもひとりで処分できるような量じゃなかったからさ。もっともひとりでできたって、だれもやりたかねぇや」
 殺された人たち。たくさんの……犠牲者。
「かいわそう……」
「……ああ」
 そのまま黙《だま》って息をする。
 しばらくしたころ、ふいに背中をつつかれた。
 
「麻衣《まい》……」
 真砂子《まさこ》が声をかけてあたしの隣に座った。ひどく疲れた顔をしてたけど、それでも笑顔を浮かべていた。
「ありがとう」
 うんにゃ、礼にはおよばねぇだ。そう言おうと思ったら、ぼーさんが厳しい声を出す。「真砂子、礼なんか言うこたねぇぞ。そうやって甘やかすとつけあがる」
「……なんだよぉ」
「本当のことだろうが。ひとりで行動するなと言われたにもかかわらず、つっ走りやがって。多少痛い目みて当然だ、お前は。ぜんぜん懲《こ》りてねぇな」
 う……。ごもっともでございます。
「そうですわね」
 おいおい、真砂子まで同意するなよ。
「じゃあ、さっきのありがとうは、ゆうべの分だということにしておきますわ」
「ゆうべの分?」
 なんだ、それは?
 真砂子は微笑《わら》う。
「来てくれたでしょ?」
 ……おい、それはあたしの夢だぞ。
 真砂子はやんわり笑って右手の拳《こぶし》を開いた。そこには一本の鍵《かぎ》が握《にぎ》られていた。
「えぇぇぇーっ!?」
 あたしはあわててポケットを探った。キーホルダーをたしかめると、たしかにお守りの鍵だけがない。
「……うそ」
 ぼーさんが身を乗り出した。
「どーしたんだ?」
 真砂子が事情を語ると、全員が目を丸くした。
 ぼーさんが口笛を吹く。
「こいつは驚いた……。嬢ちゃん、けっこう優秀なんじゃねぇか?」
 ……はぁ。
「過去視に透視に、今度は幽体離脱かぁ?」
「幽体離脱!?」
 あ、あたしが?
「そうとしか思えんだろうが。いやぁ、どんどん芸が増えるね」
 ……芸はないだろ、芸は。
 ぼーさんにかいぐりかいぐりされて。んでもちっともうれしくないぞ。
 ナルがシビアな声を出して立ち上がる。
「麻衣の場合、意識的にその半分でもできれば、猫よりは役に立つんだがな」
 猫、の一言で真砂子が小さく吹きだした。
 おめーはなー。
 放っておくといつまでもクスクス笑っている。
「真砂子、あのねぇ……」
「ご……ごめんあそばせ」
 どーせあたしは犬猫クラス。ふん。
 ……しかし、幽体離脱。あの魂《たましい》だけが身体を抜け出してしまうという。
 あたしって、ひょっとしたらすごいんでないかい?

     9

 夜が明けるころ、あたしたちはポツポツと立ち上がった。誰ともなく家に向かって歩き始める。黙りこくったまま玄関にまわって、ドアが閉まっていたのでノックして開けてもらった。
 ドアを開けた大橋さんは目を丸くする。
「みなさん……どうして」
 つぶやいて、深い息を吐《は》く。
「……よかった。いつの間にかお姿が見えないので、てっきりみなさんまでいなくなったのかと……」
 言いかけて、安原《やすはら》さんと森さんに目を止めてキョトンとする。
 安原さんはあいまいに笑って頭を下げ、森さんはきまり悪そうに手を振った。
「渋谷《しぶや》さん、いつの間に……あの、これは……」
 あ、そっか大橋さんはまだ大嘘《おおうそ》を信じてるのか。
 ナルが安原さんの肩を叩いて耳打ちをする。安原さんはうなずいて姿勢を正した。
「残りの失踪者を見つけました」
「本当ですか!? どこに……」
「屋敷の奥です。残念ながら、みなさん亡《な》くなっておられました」
 安原さんの声に大橋さんは天井を仰《あお》ぐ。
「警察を呼ばれるよう要請します」
「……はい」
 大橋さんはうなずいて、それから安原さんに、
「いかがでしょう、除霊のほうは」
 安原さんは重々しく言う。
「除霊は不可能です」
「……では」
「後で報告書を提出しますが、厳重に封印して先代の遺言《ゆいごん》どおりこのまま朽《く》ちるにまかせるか、さもなくば炎《ほのお》による浄化しかないと思います」
「……わかりました」
 大橋さんが深く頭を下げた。

 明け方あたしたちは機材をまとめた。
「……そうだ、リンさん」
 あたしはビデオテープの類《たぐい》をまとめながら聞いてみた。
「降霊術をやったとき、不思議《ふしぎ》な声を出してたでしょ? あれ、なぁに?」
 リンさんはちょっとあたしを見てからごく無表情に、
「嘯《しょう》といいます」
 ぶっきらぼうな言い方だけど、答えてくれただけで大進歩。
「へぇぇ。すごく綺麗《きれい》な音だったね」
 リンさんの答えはない。ただ微《かす》かに笑いを浮かべてた。
「そういや、リンさんや」
 ぼーさんが機材を棚から降ろしながら聞く。毎度毎度手伝わされるので、すっかり手際をのみこんでしまっているようなのがおかしかった。
「最後のあれはなんだ?」
 ぼーさんが聞くと、リンさんは無表情に首を傾げる。
「最後の……?」
「麻衣《まい》と真砂子《まさこ》を助けるときに、なにか投げるかどうかしたろ?」
 ああ、とつぶやいて、リンさんは答える。
「私の式《しき》です」
 しき?
「式ってなぁに?」
 リンさんの答えはない。ぼーさんの服を引っ張ると、
「中国の道士には妖怪や霊を捕らえて自分の支配下におくことができる連中がいる。それを役鬼《えきき》または使鬼《しき》と言ってな、使役される霊を式と言う。――これで正しいか?」
 ぼーさんはリンさんを見た。リンさんは微《かす》かに口の端をあげて笑う。
「……まちがってはいないようです」
 へぇぇ……。
「リンさんってすごい」
 思わずつぶやくと、リンさんが軽く頭を下げるようすをした。
 そうかぁ、霊を支配するのかぁ。なんかカッコいいなぁ。
 そんなことを考えてひとりで感動していると、背中を軽く叩かれた。
 振り返ると森さんがニコニコしている。
「お疲れさま。谷山《たにやま》さんてすごいのね」
 あたしが……すごい? これはびっくり。
「そんな。とんでもない」
 
「そうそう」
 ぼーさんが顔を突き出す。
「お嬢さん、こいつを誉《ほ》めてはいけませんぜ。調子に乗ると果てしなく暴走しますから」
「その、暴走ってのやめてくれる?」
「事実だろうが。お前もいい加減に自覚しろ」
 あたしをにらみつけてから、森さんに笑いかける。
「こいつはね、もしもアトラスのごとき怪力があったとして、道ばたに草加《そうか》せんべいが割れなくて苦労しているばぁさんがいたりすると、それに同情して割ってやろうと勢いこんで、力あまって地球を割っちゃうようなやつなんです」
 ……どんなたとえだ、おい。
「言えてる」
 安原《やすはら》さんと綾子《あやこ》が声をそろえて笑い出した。
 ……むっ。
 モンクのひとつも言ってやろうと思ったそのときだった。カタンという高い音がしたのは。ナルの上着のポケットからなにかが転《ころ》がり落ちた音だった。
「……これ」
 真砂子がキョトンとしてそれを拾う。ツゲでできた櫛《くし》だった。
 ナルは明らかに狼狽《ろうばい》した。おっとこいつはめずらしい。
「これ、あたくしの櫛ですわ」
 なーにーっ!?
「手提《てさ》げに入れて、部屋においてあったはずですのに」
 ナルはそそくさとその場を離れようとする。
 あたしは思わず言ってしまった。
「どーしてあんたがそんなものを持ってるわけ?」
 背中を向けて機材をかたづけ始めたナルに呼びかけたけど、ウンでもスンでもない。
「おやすくないねぇ」
と、いかにも楽しそうなのはぼーさん。
「そんなに心配だったのねぇ」
と関心したようすだったのは森さん。
「いい話ですねぇ」
 なんて、うなずいたのは安原さん。
 あたしも一言、しらんぷり決めこんだナルに、なにか言ってやりたかったんだけど。
 ……なんかガックリきちゃった。そーか、そーか。よかったな、真砂子。
 ああ、人生ってむなしい。

 そうしてあたしたちは、諏訪《すわ》をあとにしたわけだけど。

 東京に戻って十日後、諏訪市に近い山間部で小さな山火事があったと新聞に載《の》っていた。ハイカーの火の不始末が原因らしいと。近くにあった雑木林と別荘一棟を全焼して、折からの雨で鎮火《ちんか》したとあった。


エピローグ


 東京、渋谷《しぶや》、道玄坂《どうげんざか》。
『渋谷サイキック・リサーチ』の調査員、谷山麻衣《たにやままい》はこのところ落ちこんでいる。
 そーだ、あたしは脱力してんだ。
「ああっ、あの櫛《くし》が憎《にく》いっ」
 力こぶしを作って言うと、タカが呆《あき》れたような声を出した。
「後ろ向き、せめて原《はら》さんを憎めば?」
「真砂子《まさこ》を憎んでもしょうがない。あの櫛さえなければ落ちこまずにすんだのにっ」
「櫛を恨むのはもっとしょーもないことだと思う」
 千秋《ちあき》センパイもうなずいた。
「だよね」
 いーの。ほっといて。あたしは今猛烈《もうれつ》に櫛を憎みたい気分なのっ。
 千秋センパイがパフパフ頭をなでた。
「ま、そう悲観しなさんなって。たいした意味はないのかもしれないんだし」
「たいした意味がなきゃ、そう言うぞ、ナルは」
「……そうかも」
 千秋センパイ、ぜんぜんフォローになってませんぜ。
 ガックリ落ちんこだとき、オフィスのドアが開いた。
「こんにちはー」
 森さんが顔を出した。
「あ、いらっしゃい」
「リンとナルは?」
「今、食事に出てます」
「あら」
 森さんはちょっと残念そうにする。
「なにかご用だったんですか?」
 あたしが聞くと首を振る。
「ううん。わたし今日帰るから、最後に食事をしたいなと思っただけ」
「お帰りですか? どちらへ」
 タカが紅茶を出しながら聞く。森さんは悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「ナイショ」
 あー、この人も『渋谷サイキック・リサーチ』の関係者だね。ホントになんて秘密主義。
 おっと、秘密主義で思い出したぜ。
 あたしは森さんの顔をまじまじと見た。
「? どうしのた?」
 この人はあたしたちの知らないことをいっぱい知っている人だ。そして今、ナルもリンさんもいない。はっきり言ってこれはチャンスだ。
「あのう……森さん」
「なぁに?」
「ナルの両親って、どんな人なんですか?」
 両親がいるとリンさんは言ってた。実を言うとあたしはちょっくら驚いたわけよ。いや、ナルも人間なんだから親がいて当然なんだが。
 森さんは首をかたむける。
「どんな人って……ふつうの人よ」
「ふつーの人は息子が、学校にも行かずにこんなことをしてたらとめません?」
 ああ、と森さんはニッコリ笑う。
「ナルのお父さんは超心理学の研究者なの」
 げっ。親子二代のパライサイコロジストかぁ?
「じゃ、教授かなんか……?」
「ええ。そう。――?」
 森さんはあたしの顔をのぞきこんだ。
「ひょっとして、身元調査?」
「あ、いや……そんなわけでは」
 あるんですが。
 森さんはあたしの顔をまじまじと見て、それからナルホドとつぶやいた。
「ナルは聞かれるまで自分のことを言わない子だけれど、べつに秘密主義というわけではないのよ。ちょっと今は事情があるだけ」
「……事情?」
 森さんは重々しくうなずいた。
「これは内緒《ないしょ》にしといてね」
「はい」
 もちろん、貝のよーに口を閉ざしていますとも。
 あたしたちは思わず身を乗り出した。
「――実は、ナルとリンさんはカケオチ中なの」
 どんがらがっしゃん。
 
「……な、なんですってぇ?」
 森さんは深刻そうにためいきをつく。
「道ならぬ恋に反対されて手に手を取って……ご両親に見つかったらどんな折檻《せっかん》が待っていることか……」
「あ、あのう……」
「きっと哀れに引き裂かれて……」
「もしもし?」
 森さんは顔を上げる。
「それ……マジですか?」
 あたしがおそるおそる聞いてみると、
「え? ちょとは信じたの?」
 驚いたように問い返されて。
 ……がっくり。傷心の人間で遊ばないでほしいのよね。
 タカがひきつった笑いをもらす。
「そ、そうですよね。ありえませんよね。だって、所長さんは原《はら》さんが……」
 言いかけて、あわててあたしのほうを見て口を押さえる。
 原さんがなんだよ、気にせず言ってみろよ。
 森さんはキョトンとした。
「そうなの?」
 タカは身を乗り出した。
「そうなんじゃないですか? だって、原さんの櫛を持ってたんでしょ?」
 そう言うと、森さんは一瞬目を見開いてそれからコロコロ笑った。
「ちがうわよぉ。誤解。それは完全な誤解」
「だって……森さんが、そんなに心配だったのね、って」
 そう言ったんじゃないかぁ。
 森さんは目を丸くする。
「わたし、そういう意味で言ったんじゃないわ。ナルだって仲間のことくらい心配するわよ。表に出すのへたな子だけど、べつにロボットじゃないんだから」
「……そ、そうなんですか」
 あの冷血鉄面皮の下に暖《あたた》かいココロがある、とおっしゃるわけで?
 森さんは心許《こころもと》なげに天井を見た。
「……そうだと……思うんだけど……ちがうかしら」
 だめだ、これは。
 タカと千秋センパイが頭をかかえた。
 んでも、ちょっと安心したかもな。少なくとも気分は浮上した気がするぞぉ。
 笑う角には福来る、待てばカイロのヒヨリあり、果報は寝て待て、棚からボタモチ、残り物には福がある。昔の人はよく言ったもんだ、うんうん。
 ようは、あきらめるにはまだ早いかもしれないってことさっ。
 森さんが立ち上がった。
「ナルとリンはいないことだし、思い切ってオフィスを閉めて、食事に行こう。おねーさんのオゴリで」
 おお、例のニッコリ・スマイル。なんて神々しいんだろう。
「なにが食べたい?」
「オゴリでしたら、なんでも受けてたちます」
「あら、言ったわね」
 ポンと背中をはたかれて。
 あたしたちは意気揚揚《いきようよう》とオフィスを出た。
 外には桜が咲いていた。

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责任编辑:Mashimaro

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