> あたしがそう言うと、タカと千秋センパイがキョトンとあたしを見た。 「? なに?」 「前の子?」 「うん。ナルがあたしをバイトに誘《さそ》ったとき言ってた。『前の子がやめたんで』って」 「でも、まどかさんが言ってたじゃない。『あのふたりが人を雇うだけでも意外』って」 あれ? そういえば、そういうことを言っていたような……。 綾子は首をかしげる。 「その『前の子』って本当にいたの? ふつーやめないわよ、こんな楽でおいしいバイト。いくらふたりの性格が悪くたって、それぞれ所長室と資料室に閉じこもってほとんど出てこないじゃない」 「それは……そうだよね」 ぼーさんは腕を組んだ。 「そのうえ、この金の使い方。依頼人だってそんなに多いわけじゃないし、そのほとんども断《ことわ》っちまう。こんな一等地にこーんな豪勢なオフィスを構えるような仕事ぶりか? おまけにろくに仕事もないのにバイトが二名。それもバイト料はいいときてる」「でも、ナルは安くてこきつかってるつもりなんでしょ? やっぱおうちがよっぽどのお金持ちなんだよ。それで金銭感覚があたしたちとは違《ちが》うんじゃない?」 「大学教授というのは金持ちもいるが、それでも『よっぽど』がつくほど実入りのいい商売じゃない」 「じゃ、もともとおうちが財産家なんだ。きっとお坊ちゃん育ちだから、性格があんなに傲慢《ごうまん》なんだよ。うんうん」 「本当の金持ちってのはおっとりしてるもんだぞ」 「そこはホレ、人それぞれというやつで……」 てなことを言ってるとドアが開いてリンさんが帰ってきた。無口、無表情がトレードマークの彼は限りなく縦《たて》に長い。ドアをくぐるときにも必ず少しだけ頭を下げたりする。 リンさんはオフィスの中を見渡して、ぼーさんと綾子にごく軽く会釈《えしゃく》するふうをする。 「お邪魔《じゃま》してるわよ」 綾子はそう言うと身を乗り出す。 「ねぇ、リンさん。麻衣の前にバイトっていたの?」 「いませんが」 リンさんはそう言って、腕に抱《かか》えた郵便物の中から雑誌でも入ってそうな封筒をふたつ抜き出してタカに渡した。雑誌の目次を抜き出してカードにまとめるのはタカの仕事だ。 ……しかし、いない、だぁ? 「いない?」 「ええ」 無表情に言ってリンさんは資料室に向かう。途中、千秋センパイに目配《めくば》せをした。センパイはこれからリンさんとPKのトレーニング。長いこと通っているかいあって、最近ではスプーン曲《ま》げも復活のきざしが見える。 ぼーさんが小声で呟《つぶや》いた。 「何を考えてんだ、ナル坊は」 んだんだ。 タカが自信なげに言う。 「ひょっとしてアレかな。悪ぶってるけど根はいい奴《やつ》という……」 「ま、まさか」 いや、実はそう思わないこともないんだけどさー。 いずれにしても、と渋《しぶ》い声を出したのは綾子だった。 「麻衣ぃ。あんたって実は結構親切《しんせつ》にされてるんじゃない?」 ちろりん、と冷たい視線。 「まさかー……」 ……まさかなー。 うーむ。事態は混迷《こんめい》を深めるばかりでございます……。
一章 入り江の家
1
その混迷の中心であるナルが戻ってきたのは、それから一時間くらいしてからだった。顔だけはやたらいい彼は相変わらずの黒ずくめ。夏に黒は暑苦《あつくる》しいもんだが、ナルが着てると涼《すず》しげに見えるから不思議《ふしぎ》だ。 目的不明の旅行から帰ってきたときはいつもそうなんだけど、ナルはめっきり不機嫌《ふきげん》そうだった。オフィスの中でふたりの部外者が手を振っているのを見て、露骨《ころつ》に顔をしかめる。 「今日はどんなご用件ですか?」 どこまでも邪険《じゃけん》な声だったのに、ぼーさんも綾子《あやこ》もこたえたようすがない。 「いや、近くまで来たもんだからさ」 「そうなのー。ちょっと買い物にねー」 ナルの冷たい一瞥《いちべつ》。 「毎度同じ言《い》い訳《わけ》をして、よく飽《あ》きませんね」 「あはははー」 ……あやや。今日はとみに低気圧。 あたしとタカは、触《さわ》らぬ神に崇《たた》りなし、とばかりにすでに敵前逃亡を決めこもうとしていたけど、綾子は相変わらず強いのだった。 「ちょっと、ナル。楽しい話を聞いたんだけど」 「僕《ぼく》に聞いてほしいわけですか?」 ソファーに身を沈《しず》めるナルに、綾子は顔を突き出す。 「そう。『前の子』なんていないんですって?」 ナルは怪訝《けげん》そうに綾子を見た。 「麻衣には『前の子がやめたんで』なんて言っておきながら、実は『前の子』なんていなかった、というのはどういうわけ? ずいぶん麻衣には親切なのねぇ?」 ナルは澄《す》ました顔だ。冷たい視線を向けたまま、さらりと一言。 「嫉妬《しっと》ですか?」 とたんに綾子が顔を真っ赤にした。 「ちょ……っ! 誰《だれ》がっ!」 だーかーらー。綾子じゃナルにはかなわないってば。 「僕は根が親切なもので」 「誰がよっ」 「おや、そう見えませんか? いつも松崎《まつざき》さんのくだらない話に、親切にもつきあってさしあげてるじゃないですか」 綾子はひきつった笑顔を浮かべる。 「あんた実は麻衣に気があるんじゃないの」 ……あのー。 対するナルはニッコリ笑ってみせる。花のような、と言いたいところだが、眼が笑ってないので不穏《ふおん》なだけ。 「否定してさしあげますね。ショックのあまり松崎さんが病気にでもなるとかわいそうですから。親切でしょう?」 こ、このナルシストっ。 さすがに開いた口がふさがらない綾子を見やって、それからナルは、 「麻衣」 「は、……はいっ!」 「お客さまのようだ。お迎《むか》えしなさい」 あわてて振り返ると、ドアの向こうから中をのぞきこんでいる人影が見えた。あたしは内心冷や汗をかきつつ小走りにドアに向かった。
入り口に立ったのは二十歳《はたち》前くらいの男の人と、幼稚園児《ようちえんじ》くらいの女の子だった。 「はい?」 あたしは営業用の笑顔にきりかえてドアを開ける。 「あの、なんと言ったらいいのかよくわからないんですけど……こちらは一種の、霊能者さんですよね」 女の子の手を引いてオフィスに入ってきた彼は、とても静かな声をしていた。 「霊能者とは少し違《ちが》うんですけど。ご依頼ですか?」 彼はうなずいてから、女の子を見おろした。 「この子を診《み》ていただきたいんです」 女の子はセーラーカラーの服を着て、首には包帯《ほうたい》を巻いていた。 「はぁ……」 あたしはナルを振り返った。霊能者の中には病気の治療をする人もいるけど、『渋谷サイキック・リサーチ』の場合、そういうのは専門外。しかもうちの場合、いわゆる霊能者とはずいぶん違うんだよねぇ。 てなことを思っていると、ナルがあっさり、 「病気の治療なら病院に行くべきだと思いますが」 そう言われて男の人は少しだけ驚《おどろ》いたように眼を見開く。それから、おっとりした笑みを浮かべた。 「そうですね。……でも、ただの病気だとは思えないので」 ナルは立ち上がる。 「もう病院には?」 「いえ」 「まず医師に診せるべきですね」 ナルの声は露骨にうっとおしそうだった。女の子はその声に弾《はじ》かれたように男の人を見上げる。 「びょういん、きらい」 彼は微笑《わら》った。 「だいじょうぶ。病院には行かないからね」 「ここ、びょういん?」 「違うよ、葉月《はづき》。お薬の臭《にお》いがしないでしょう?」 女の子はうなずいたけど、それでも不安そうだった。しっかりと彼の腕にしがみついてオフィスを見回す。 「ナルちゃんよぉ」 口をはさんだのはぼーさんだった。 「診《み》るぐらい診てやればどーだ? 別にたいした手間じゃねぇんだし、そう邪険《じゃけん》にすることもねぇだろ?」 ナルはぼーさんをチラリと診てから軽く息をつく。ふたりにソファーを勧《すす》めた。 「どうぞ。――高橋《たかはし》さん、お茶をお出ししなさい」
男の人は吉見彰文《よしみあきふみ》さんといった。女の子は吉見葉月ちゃん。姪《めい》なんです、と自己紹介してから彼は葉月ちゃんの首に巻かれた包帯をほどき始めた。喉《のど》に当てたガーゼの下から現れたのは赤い湿疹《しっしん》のようなものだった。ちょうど喉の真ん中を真一文字に横切って赤い線になっている。肌《はだ》がただれてうっすらと血がにじんでいた。 「皮膚《ひふ》病のように見えますが」 ナルが言うと彰文さんは葉月ちゃんに横を向かせる。 「首全体にあるんです」 言葉のとおり、その線は首を一周していた。一センチほどの幅《はば》をした帯状の湿疹が、くるりと首を一周している。なんだか気味が悪かった。それは傷のように見えた。まるで首を真横に切断したような。 「少しも痛くないらしいんです。痒《かゆ》くもないようだし」 「何かにかぶれたのではないんですか?」 いえ、と彰文さんは首を振る。 「これだけなら病院に連れていったんですけど。背中にもあるんです」 そう言って彰文さんは葉月ちゃんの顔をのぞきこむ。 「葉月、ちょっとごめんね」 声をかけてから葉月ちゃんの服の前を開けて肩から落とした。白い小さな背中を見てあたしは思わず声を上げてしまった。 「なに、これ」 首にあるのと同じような湿疹が背中で線を描いていた。こんなの、皮膚病なんかじゃありえない。それは文字にしか見えなかった。筆で書いたような字で、『喘月院落獄童女《ぜんげついんらくごどうにょ》』と。 「……ひでぇ」 低い声を落としたのはぼーさんだった。 「なに?」 「こりゃあ、戒名《かいみょう》じゃねぇか」 「戒名って、死んだ人につけるアレ?」 ぼーさんはいつになく深刻な顔をした。 「ああ。……こいつは悪質だ」 「悪質って」 「『喘月』てぇのは何かを恐れるのがバカなくらい度を超していることだ。『落獄』は、地獄に落ちるって意味だろうな。――吉見さん、嬢ちゃんに服を着せてください」 地獄に落ちる? そういう戒名《かいみょう》って、あり? 「『童女』は女の子につける。誰《だれ》かが悪意でもって作った戒名だよ。――このバカな子供は地獄に落ちるだろう、ってさ」 ……このバカな子供……。 「『喘月』の『月』は『葉月』から取ったんだろう。こりゃあ、この子の戒名だ」
2
あたしたちが能登《のと》にある吉見《よしみ》家に着いたのは、翌日の夕方だった。 結局綾子《あやこ》とぼーさんが同行することになって、例によって二台の車でとろとろと日本列島を横断したわけ。もー、吐《は》き気《け》がするような長道中。 吉見家は日本海を臨《のぞ》む岬《みさき》の上にあった。海岸沿いの道路から細いわき道が林の中を海岸の方へのびていて、道を入ってすぐに立派《りっぱ》な日本建築が見えた。それが吉見家、彰文《あきふみ》さんちがやっている料亭の建物だった。 前日の飛行機で戻ってきていた彰文さんが迎《むか》えてくれて、あたしたちはまず家族が住んでいる母屋《おもや》に案内された。料亭の建物とは渡り廊下《ろうか》でつながっている母屋の、いちばん奥にある座敷へと向かう。 そこでは布団《ふとん》の上に身を起こしておばあさんが待っていた。 「お祖母《ばあ》さん、お着きになりました」 そう言って彰文さんはあたしたちを座敷の中へ招《まね》く。 「祖母《そぼ》です」 小さなお地蔵さまのようなおばあさんだった。おばあさんはきちんと両手を布団の上において深々と頭を下げる。 「吉見やえともうします。なにとぞ、よろしくお願いいたします」 このおばあさんが本当の依頼者――彰文さんと葉月《はづき》ちゃんを『渋谷サイキック・リサーチ』のオフィスに来させた人だった。 「本当ならわたくしがお願いにあがらねばならないところ、ご覧のとおりいささか身体《からだ》を不自由にしておりまして、孫《まご》を代理にやりました。失礼もあったことと思いますけれど、どうがご勘弁《かんべん》くださいまし」 彰文さんがあたしたちをおばあさんに紹介していると、落ち着いた感じのおじさんとお茶を持った和服のおばさんがやってきた。このおじさんが彰文さんのお父さんで吉見泰造《たいぞう》さん、おばさんがお母さんの吉見裕恵《ひろえ》さんだった。 丁寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》をするふたりに、ナルは軽く会釈《えしゃく》を返して、 「――ご依頼の内容をもう一度おばあさんからうかがいたいのですが」 おばあさんはうなずいて、口をすぼめる。 「何からお話したらいいのか……」 軽く首をかしげるようにして話を始めた。 「馬鹿《ばか》な、とお思いでしょうが、この家は呪《のろ》われているんでございます。先日、わたくしの連れあいが亡《な》くなりまして……」 「それはお悔《く》やみをもうしあげます」 「いいえ。もう寿命《じゅみょう》でございましたから。……それはともかく、吉見の家には気味の悪い言い伝えがあるんでございます。代替わりのときに必ず変事が起こるという……」 おばあさんはそう言って眉《まゆ》をひそめた。 「先代――わたくしの父が亡くなって、連れ合いが家を継《つ》いだ時もそうでした。先代の死後にばたばたと家族から死人が出まして、大きな家に親戚《しんせき》が集まってにぎやかに暮らしておりましたのが、あっという間に人が減《へ》ってガランとしてしまったのでございます」 「今度もまたそういうことが起こるのではないかと……?」 ナルが聞くとおばあさんはうなずいた。 「ええ。先代が先々代から家を譲《ゆず》られた時にも同じことがございました。その時のことはわたくしも小さくて、もう覚えておりませんが。ただ、六人おりました兄弟の仲でわたくしひとりが生き残ったのでございます。それもございまして、わたくしには不安でなりまんせでした。げんに連れ合いが死んですぐ葉月にあの湿疹《しっしん》ができ始めて、一週間もしないうちにあんなふうになってしまっのたでございます。どう考えてもただ事とは思えません。首の痣《あざ》といい背中の戒名《かいみょう》といい、まるで葉月の首を切ってやると誰《だれ》かが言っているようで」 そう言っておばあさんはナルをひたと見る。 「これはもうその道の方におすがりするしかないと、そう思っておりましたところに、大橋《おおはし》さまとおっしゃるお客さまにそちらさまをご紹介いただいたのでございます」 大橋さんというのは前回の事件を依頼に来た人だ。 ナルはメモを取りながら、 「先代さんが亡《な》くなったときの話をうかがいたいのですが、いつ頃のことですか?」 「今から三十二年前でございます」 「何人かの方が亡くなられたようですが、数と死因を覚えておいでですか?」 おばあさんはうなずく。 「家からは八人でございました。七人おりました子供のうち下の五人、いちばん上の孫とわたくしの従兄弟《いとこ》と叔父《おじ》と。半分ぐらいが事故で、残りが原因のよくわからない病気でございます」 あたしは陰《かげ》り始めた座敷の中を見渡した。おばあさんの枕元には大きな仏壇がある。家族の中から、八人。八人という数字の重さ。 「家から――ということは、家族以外にも亡くなった方があるんですね?」 ナルが聞くと、おばあさんはうなずく。 「店のお客さまがふたり、事故で……」 ナルが考え込むようにノートに視線を落としたとき、黙《だま》って布団《ふとん》の脇に座っていた彰文さんのお母さん――裕恵おばさんが口をはさんだ。 「お母さん、きちんとお話したほうがいいのじゃないでしょうか」 おばあさんはうつむく。ナルは裕恵さんを見返した。 「母は皆さんが帰ってしまわれるのじゃないかと……不安なんです」 「と、おっしゃいますと?」 「霊能者の方が三人亡くなりました」 なるほど、とぼーさんが小声で呟《つぶや》いた。 「お呼びしたふたり連れの霊能者の方が、祈祷《きとう》を始めてすぐに事故で亡くなられて……。そのあとさらにお呼びした方もやはり事故で」 裕恵おばんがそう言うと、おばあさんはうつむいたままうなずいた。 「助けていただきたいのやまやまですが、危険を承知でご無理は……」 ぼーさんが裕恵おばさんをさえぎった。 「危険なようなら引きとめられても帰りますよ。俺《おれ》たちは分てぇのを知ってますんでね。だからと言って相手を見ないうちに帰るほど臆病《おくびょう》じゃない」 「……ありがとうございます」 そろって頭を下げる裕恵おばさんたちにぼーさんは笑って、 「しかしナルちゃんや、客も危ないとなるとやっかいだ」 ナルはうなずいた。裕恵おばさんに、 「今、店に客は?」 「いらっしゃいません。父が亡《な》くなってから閉めてございます。母が……」 裕恵おばさんはおばあさんを見つめた。 「どうしてもと言い張って、従業員も葬儀の片付けが終わってから休みを取ってもらっています。いまこの建物にいるのは家族だけです」 「賢明《けんめい》な処置だと思います」 ナルは軽くうなずく。それから、 「何か異変のようなものを感じた、あるいは妙なものを見たというようなことは?」 これには彰文さんが答えた。 「祖父の葬儀の日に祖母が飼《か》っていた九官鳥が死んだのを始まりに、三日ほどの間に飼っていた鳥や犬が全部死んでいます。姪《めい》が飼っていたカナリアが二羽、犬が三匹です。鳥は鳥かごの中で死んでいましたが、犬はどれも岸に打ち上げられているのが見つかりました」 うわー……。 「ほかには?」 彰文さんはお母さんを見る。裕恵おばさんが、 「店のほうで幽霊《ゆうれい》を見た、と言う従業員が何人か。窓から部屋の中をのぞいていたとか」 「それは場所が決まっていますか?」 「いえ。たぶん入り江側の部屋だと思いますが……」 「入り江側の部屋?」 裕恵おばさんはうなずく。 「あとでご案内すればおわかりいただけると思うんですが……。外から人がのぞいて、それが不思議《ふしぎ》な場所というと入り江側しかございませんから……」 わかりました、と呟《つぶや》いてナルはノートを閉じる。 「取りあえず機材をおいてようすを見ます。部屋はご用意いただけたでしょうか」 彰文さんが立ち上がった。 「どうぞ。ご案内します」
3
あたしたちは彰文《あきふみ》さんの後について長い廊下《ろうか》をぞろぞろと歩いた。 お店の廊下を歩いて角をひとつ曲《ま》がるとまっすぐな廊下に出た。両側は白い壁《かべ》、ところどころに格子戸《こうしど》が並んでいる。 「こちらです」 彰文さんは立ち止まって格子戸を開ける。格子戸の奥は普通の玄関みたいになっていた。 「あいにく、洋間はないものですから」 彰文さんは玄関の襖《ふすま》を開けた。その部屋は三間続きになっている。入ってすぐが四畳の小さな部屋。その奥が八畳の部屋、さらにその左にもうひとつ八畳の部屋があるのが開け放した襖のせいでわかる。 「ひろーい」 綾子《あやこ》が歓声を上げた。ふたつ並んだ八畳の部屋の正面はどちらも障子《しょうじ》。彰文さんがそれを開けると、その向こうは広い縁側になっていた。旅館なんかでちょっとしたイスとテーブルがおいてあるところだけど、ここのはその三倍は広い。ちょっとした板の間の部屋という感じ。 「障子や襖ははずしていただいてけっこうです。お客様に泊《と》まっていただく部屋なんですが、ここでお役にたつでしょうか」 彰文さんに言われて、ナルは部屋を見渡した。機材をおくにはちょっともったいないような立派《りっぱ》な座卓が壁ぎわにいくつもおいてある。 「充分《じゅうぶん》すぎるほどですね」 「奥に小さいですけれど浴室なんかがついています。この部屋と、ほかに両隣の部屋を用意しましたのでお休みになるのはそちらをお使いください」 「ありがとうございます」 軽く頭を下げるナルを横目で見ながら、あたしは縁側の窓に近づいてみる。こう広くて何もないと、無目的にうろうろしたくなっちゃうのよねぇ。でもって、窓から外をのぞいてあたしは声をあげた。これは、絶景。 「すごーい!」 窓の下は小さな丸い入り江だった。窓の正面には対岸の断崖《だんがい》が間近に見える。真下にある入り江はすごく深そうだった。海への入り口が狭《せま》くて波もない。とろりとした深い色の水が丸くたたえられている。 「なるほど、これが入り江側の部屋かぁ」 あたしは納得《なっとく》した。確かにこの窓の外から人がのぞいていたら異常だわ。この部屋は入り江に面した断崖に張り出すように建《た》っているんだ。窓の下は入り江の水面までなーんにもない。その距離、およそ四階ぶんほど。 「おわかりになったでしょう?」 いつのまにか隣《となり》に彰文さんがいた。彰文さんだけでなく、全員が窓から外を眺《なが》めている。 「はぁ、わかりました。外からのぞけるはずないですもんねぇ」 「そうなんです」 「この入り江、泳げます?」 「泳ぎが得意でしたら。すごく深いですよ」 「あ、やっぱり?」 「泳ぐのでしたら、反対側の海岸で泳げます」 彰文さんは背後を示した。 反対側……。うーん、いまいちよく把握《はあく》できない。 前回行った幽霊屋敷は本当にでかい家で、いつ迷子《まいご》になるかと怯《おび》えていた。この家はそれほどでもないにしろ、やっぱり迷子になりそうなほど広い。料亭だけあって部屋はいっぱいあるし、廊下はカクカク折れ曲がっているし、かろうじて自分が母屋《おもや》ではなく料亭の建物のほうにいるということは理解できているんだけど。まーた平面図を作ったりするのは嫌《いや》だなぁ……。 同じようなことを思ったのか、ナルが、 「吉見《よしみ》さん、建物の平面図はありますか?」 「あると思います。あとでお持ちしますね」 ぼーさんが苦笑する。 「そいつは助かるな」 彰文さんは微笑《わら》った。 「そんなに複雑な建物ではありませんから。すぐに慣《な》れてしまわれると思います」「だといいけどねぇ。ついでに建物の周囲の地図なんかもあるとうれしいんだが」 ぼーさんが言うと、彰文さんは微笑って右手をあげる。 「右手の親指と人差し指で輪を作ってください」 「OKマーク?」 「そうです。その輪が入り江ですね。親指と人差し指の合わせ目が入り江の入口。人差し指の付け根あたりに店があります。親指が今向かいに見えてる対岸。あちらまで庭で、茶室があります」 ふむふむ。あたしは自分の手をじっと見る。 「手首のあたりが道路ですね。道路から人差し指のほうに入ったところが母屋、親指のほうに入ると神社があります」 「神社なんてあるんですか?」 「ええ、すぐ隣に。中指が海岸です。ずっと先のほうに小さな漁港があります」 あ、なるほど。簡単じゃない」 「そして人差し指の爪《つめ》の部分に小さな洞窟《どうくつ》があります」 「洞窟?」 「ええ。海触洞《かいしょくどう》というやつで |