à搿 「それだったらなんとかここからケーブルを降ろせるでしょう。あとは機材を運《はこ》び込む労力さえ惜《お》しまなければ」 ううう。たいへんそう……。 ――そういうわけであたしたちはそこから過酷《かこく》な重労働をした。潮《しお》が引いているうちにというわけで大急ぎで機材を運んで。岩場は担《かつ》いで渡れないから岩を迂回《うかい》しつつ、じゃぼじゃぼ水の中を歩いて。水に濡《ぬ》らしたらおおごとなんで冷や汗タラタラ。台車も使えないしさー。 彰文さんが入り江に飛び込んで、ベースの窓から降ろしたケーブルを受けとめて洞窟まで引っ張ってくれて。彰文さんがいなかったら、コネクターを濡らさずにケーブルを受け渡すのはけっこうたいへんな作業だったろう。機材が濡れないようビニールで巻いて簡単なテントを作って。……くらくら。そうしてやっとセッティングが終わったときには潮が満ちていて、あたしたちは腰《こし》まで水につかって戻らなければならなかったのだった。
「ねぇ、ぼーさん、『えびす』ってなに?」 セッティングを終えてからシャワーを浴《あ》びて、ベースに戻って。そこであたしは聞いてみた。 「えびす?」 セッティングに参加しなかった綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》は、ジョンを連《つ》れて葉月《はづき》ちゃんのようすを見にいっている。 「さっきぼーさんが言ってたんだよ。『えびす』って」 「あー、そうか。『えびす』ってのはな、要は漂着物のことだ」 「漂着物……」 「海岸に流れ着いてきた珍《めずら》しいもの。海中の石や死体、鮫《さめ》や鯨《くじら》。とにかく、めったに見られないものが海岸にやってくると、これを豊漁のきざしだといって喜ぶ風習が漁村にはあったんだな。そういう漂着物をそもそも『えびす』と言うらしい。特に珍しい形の石、ありがたい形の流木、そういうものはよいことの前触れだとか言って後生大事に祀《まつ》ったりした。『おこぶさま』とかいうあの流木もそうだろう。実際に神社のご神体が漂着物だったりすることもあるしな」 「へぇぇ」 「反対に『えびす』が悪いことの前触れだったりすることもある。たとえば台風とか津波とかな。だからまー最初は『えびす』ってのは、『海からくるもの』を神格化したものだったんだろうな。もともとは『夷』という字を書くんだが。それがのちに商売繁盛の神様になって、文字もおめでたい『恵比寿』という字を書くようになった、と」 ……海からくるもの……。 「もともと日本にゃ『常世《とこよ》』という信仰があってな。『常世』っつーのは平たく言や不老不死の国だ。それが海の彼方《かなた》にあると信じられてた。『海からくるもの』ってのは『常世』からくるもんだと思われてたんだな」 ほぇぇ。日本人って不思議《ふしぎ》だなー。 「えびす、おこぶさま、紛失した塚……」 つぶやいてぼーさんは立ち上がった。 「ちょっと電話、借りてくらぁ」 「どうしたの?」 「俺《おれ》たちだけじゃ心許《こころもと》ねぇ。援軍を呼ぶんだ」 ふに?
ぼーさんがいなくなってリンさんとふたりっきりになると会話もいまひとつ弾《はず》まないし、それであたしは少しの間外に出てぶらぶらすることにした。海岸に下りる階段までいって腰を下ろす。さっきよりもずいぶんと狭《せま》くなった海岸を見ていた。 ……海からくるもの。 流れ着いた『おこぶさま』と吹き寄せてくる霊。洞窟と霊場。神社と塚。伝説のあるふたつの岩。海へ身を投げたふたり。 ――あの霊場のせいなんだろうか。 あたしはそう考える。 ――それとも、あの伝説に何か関係があるんだろうか。 あたしはさっき彰文さんに聞くまで、あの伝説を知らなかった。それがあんな夢を見たということは、きっと何か意味があるはずだ。ましてやナルが「夢の方向を示した」と言っていたんだから。あれはナルがあたしに知らせたかったことなんだろう。だとしたら伝説がこの事件に関係ないはずがない。 それとも関係があるのはあの夢の別の部分なんだろうか。あの、逃げて逃げきれずに包囲される夢。どうして海に飛び込まなかったんだろう。伝説では海に身投げしたことになっているのに。あたしも夢の中で思った。どうして海じゃないんだろう、って。そして、あの一言。 ――末世《まつせ》まで呪《のろ》ってやる。 「あんた、何を知らせたかったわけ?」 それからふと思う。 ――ひょっとして今まで見た夢も、全部ナルが「方向を示して」くれたんだろうか? いくら考えてもよくわからなくて、頭がぐしゃぐしゃしたまま店に戻ると、玄関を入ったところにある帳場でぼーさんが電話をしていた。 「よう。豪勢なところにいるじゃねぇか」 ……誰《だれ》を呼ぶつもりなのやら。 「お楽しみのところ悪いんだが、ちょっと難儀なことになってな。手を貸してもらいたいんだ。来れるか?」 ぼーさんは少しの間のあと、 「来てくれ。どうしても人手が必要なんだ。――明日? 今日の便がまだあるだろう。荷物なんかいらねぇから、何がなんでも今日の飛行機に乗れ」 飛行機ぃ? 「直通がなきゃ乗り継いで来い。ともかく一刻も早く着いてほしいんだ」 なんちゅー横着《おうちゃく》な呼び方だ。いったい誰に電話してるんだろう。これは親しい人間だとみたね。――ん? ひょっとして……かな? ニンマリ笑ってベースに戻ろうとしたとき、バタバタとあわてたような足音が聞こえた。振り返ると彰文さんだった。顔色が真っ青になっている。 彼は帳場に飛び込み、そうして悲鳴に似た声をあげた。 「滝川《たきがわ》さん、兄が――」
四章 凶事
1
「兄」というのは次男の靖高《やすたか》さんのことだった。 本来はとても明るいのに、このところ何故《なぜ》だか暗かった、という人。 あたしたちが駆《か》けつけたとき、靖高さんの部屋は血糊《ちのり》で斑《まだら》に染まっていた。六畳ふた間の部屋の一方に布団《ふとん》が敷いてあって、靖高さんはそこで寝ている。その布団の周《まわ》りを家族が取りまいていた。布団の上には投げ出された両手と、その両手首についた無残なほど深い傷と。血糊を吸った布団。胸元に放り出されたカッターナイフ。 目眩《めまい》がした。血の臭《にお》いで吐き気がする。 ぼーさんが部屋に飛びこむ。泣いている裕恵《ひろえ》おばさんを押し退《の》けて靖高さんの枕元に屈《かが》みこむと、すぐに立ち上がってタンスを開けた。 「若旦那《わかだんな》、救急車は」 「呼びました」 タンスの中からネクタイを引っ張り出して、それで靖高さんの腕の付け根をきつく縛《しば》る。 まだだいじょうぶなんだ。まだ……息があるんだ。止血をするくらいなんだもの、きっと死んだりはしないんだ。 いつの間にかきつく指を組んでた。呆然《ぼうぜん》としたまま身動きできないあたしを、誰《だれ》かがつついた。和歌子《わかこ》ちゃんと克己《かつき》くんだった。 「靖おじちゃん、しんだ?」 和歌子ちゃんが無邪気な顔をして聞いてきた。 「ねぇ、しんだ?」 楽しいニュースをねだるみたいな顔だった。あたしにはなんて答えていいのかわからない。和歌子ちゃんはあたしを驚いたように見て、それから克己くんと顔を見合わせた。 「まだいきてるんだ」 「なぁんだ」 本当に無邪気につまらなそうな顔をするふたりが怖《こわ》かった。あなたたちは、叔父《おじ》さんが死んでしまったほうがいいの? 聞こうとしたけど、聞くのが怖い。声を出すことができないあたしを残して、ふたりはこそこそと耳打ちをしながら廊下を駆けていく。救急車のサイレンの音が響《ひび》いてきた。
靖高さんは近くの病院に運《はこ》ばれた。そこで彼は意識を取り戻し、俺《おれ》は気が狂《くる》ってるんだ、とそう言った。靖高さんに付き添って病院に行った彰文《あきふみ》さんは戻ってきてからあたしたちにそう話した。 「ひとりでいると声が聞こえるんだそうです。家族を殺せ、と命じるんだと」 彰文さんの表情には悲嘆の色が深い。 「眠ると夢を見るのだそうです。家族を殺す夢です。あまり続くので人を刺《さ》す手ごたえを覚えてしまったと言っていました。内容が内容なので兄は人に言えなかったんです。それでこのままではいつか本当に僕《ぼく》らを殺してしまうんじゃないか、と……」 難しい顔をして話を聞いていたぼーさんは頭を下げる。 「発見が遅《おく》れたら一人目の犠牲者になるところだった。俺たちの力が及ばずにもうしわけありません」 「……いえ、そちらも僕らのせいで渋谷《しぶや》さんがたいへんなのですから」 ぼーさんは軽く首を振ってから、立ちあがって、隣の襖《ふすま》を開いた。 部屋のようすに変化はない。ぽつんとしかれた布団と眠っているナル。ぼーさんは部屋の中を見渡してからリンさんを振り返った。 「ナル坊のまわりに式を残してあるな?」 「ええ」 「ナルの近くに霊が近寄ったらあんたにわかるか?」 「わかります」 「じゃあ、反対は? ナルから霊が出ていったらわかるか」 リンさんは軽く目を見開くようにする」 「もちろんわかります。だいいち禁呪《きんじゅ》をかけてある以上、霊が出ていくことはありえません」 「と、言うことは、だ」 ぼーさんはあたしたちを見渡した。 「この家に憑《つ》いている霊はひとつじゃない。そういうことだ」 「ちょっと待ってよ」 綾子《あやこ》が声をあげた。 「じゃ、靖高さんは憑依《ひょうい》されてるっていうわけ?」 「ほかに考えられんだろうが」 ……確かに。 「ほかの家族にも注意が必要だ。霊が一体じゃない以上、三体やそれ以上である可能性もあるからな。――ジョン」 「ハイ」 「葉月《はづき》ちゃんのようすはどうだった」 「ボクにはわからへんかったのですけど、原《はら》さんがこれは悪質な憑《つ》き物の可能性があると言わはって。いちおう簡単な除霊をして部屋を封じておきました」 「手ごたえは」 「わかりませんです」 「真砂子《まさこ》。――その霊はどういう奴《やつ》だかわかるか?」 真砂子は首を振る。 「わかりませんわ。ただ、ナルに憑《つ》いているあの霊と同じ感じがしましたわ。強《し》いて言うなら空洞ですかしら」 「空洞?」 「ええ。恨《うら》みもなければ怨念《おんねん》も感じられませんの。もしも霊が憑いているとすれば、とても空虚な霊ですわ」 「麻衣《まい》は?」 いきなり声をかけられて、あたしはあせった。 「あ、あたし?」 「何か感じないか。なんでもいい。昨日の夢に出てきたことでひっかかることでも」 あたしは少しだけ迷《まよ》い、そうして言ってみる。 「真砂子の意見と対立しちゃうんだけど、恨みを呑《の》んで死んだ人がいると思うの」 ……必ず末世《まつせ》まで呪《のろ》ってやる……。 「ひどい裏切られ方をした人なんだと思うんだけど。敵に包囲されて殺されてしまうの」 心中したふたりは岬《みさき》から海に身を投げた。だとしたら……。 「たぶん、このあたりで死んだ人だと思うんだけど。少なくとも土地に関係があるんじゃないかな」 真砂子がしかめっつらをする。 「まさか。そんな霊でしたらあたくしにもわかるはずですわ」 「まー、単なる夢かもしんないんだけどさ」 「夢ですわ」 ええい、やかましいっ。 ぼーさんは彰文さんを振り返る。 「どうです。なんか心あたりは?」 「……すいませんが……。そういう話を聞いたことはありません。もっとも僕《ぼく》が知らないだけなのかもしれませんけど」 「ふうん。吉見《よしみ》家がここに移って来たのはいつごろだかわかりましたか」 「もうしわけありません。祖母にもあれ以上のことはわからないそうです」 ぼーさんは少し考えこむ。それから、 「ジョン。病院に行って靖高さんの除霊をしてみてくれ。ついでに商売っけを出して少し話をしてくるんだな。二度と馬鹿《ばか》なマネをしないように」 「ハイ。やってみます」 「綾子は護符だ。家族と俺《おれ》たちの人数分」 「はいはい」 「俺はちょっと出てくる。彰文さん、悪いが菩提寺《ぼだいじ》に案内してもらえますか」
2
綾子《あやこ》に護符を書かせて、あたしと真砂子《まさこ》で手伝ってそれを吉見《よしみ》家の人たちに配《くば》って歩いた。決して身体《からだ》から離さないでください、とお願いしたのだけど。もらってすぐに気のないそぶりで放り出してしまったのは陽子《ようこ》さんだった。長男の和泰《かずやす》さんのお嫁さんで、克己《かつき》くんと葉月《はづき》ちゃんのお母さんであるひと。 「あの、身体から話さないでください。お守り袋かなにかの中に入れておくとか、どうにかして……」 あたしが言うと陽子さんはおっとりと微笑《わら》った。 「これをつけておくと何か効果があるんですの?」 「ええ、悪い霊を寄せつけない護符なんです。身体から離したら効果がないので……」 「でも、お風呂《ふろ》に入るときはどうしますの?」 え? 「お風呂には持って入れませんよね。紙ですもの。お風呂に入っている間に悪い霊が寄ってきたらどうしようもないじゃありません?」 「それはそうですけど……。でも危険ですから。ちょっとでも危険でなくするためにつけておいてください」 あたしが言うと陽子さんは微笑う。 「わかりましたわ。そうします」 そう言いながら護符を振り返りもしない。あたしはなんとなく釈然としないまま陽子さんの部屋を出た。 渡そうとすると逃げだしたのは克己くんと和歌子《わかこ》ちゃんだった。 「そんなの、いらない」 「ちょっと、待って。これは大事なものなの。お願いだから」 「いや」 「いらない」 逃げるふたりを追いかけながら、あたしは妙な気分になっていた。どうして逃げるんだろう? どうして嫌《いや》がるんだろう? 母屋《おもや》を抜けて店に出る。ふたりは玄関から外へ飛び降りてしまった。 「ねぇ、和歌子ちゃん!」 あたしは前庭を駆け出したふたりに呼びかける。 「叔父《おじ》さんが死んだの知ってる?」 大嘘《おおうそ》をついてみると、ぴた、とふたりの足が止まった。きょとんとした眼が振り返る。すぐにうれしそうな笑顔を浮かべた。 「ほんと?」 「びょういんにいったんでしょ? きゅうきゅうしゃにのって」 「そうよ。でも間《ま》に合わなかったの。叔父さんは病院で死んじゃったんだって」 克己くんが小さくつぶやいた。 「やった」 ……この子たちは……まさか……。 あたしは意識的に小さな声で言ってみた。 「それと、彰文《あきふみ》さんもね……」 「彰にいさんも? どうかしたの?」 ふたりはそろって声を上げる。ニ、三歩こちらに戻ってきた。 「どうしよう。教えようかな」 「おしえて、おしえて」 「んー、でも。やっぱ内緒にしておこうかな」 ぐずぐずと口の中で言うと、ふたりが近づいてくる。 「ねぇ、おねえさん、おしえて」 「おしえてよー。彰にいさんもしんだの?」 「んーとねぇ……」 「しんだの? くるまにのった?」 「車……」 ふたりはあたしのスカートを引っ張る。あたしはすかさずふたりの手を捕《つか》まえた。 「車ってどういうこと?」 「はなしてっ」 「はなせよー」 「放さない。ねぇ、車ってどういうとなの!?」 ふたりは暴れる。あたしは必死でその手をつかんだ。 「麻衣《まい》? 何やってんの?」 綾子と真砂子、それから光可《てるか》さんが走ってきた。克己くんが手の中から逃げるるあたしは一緒に逃げだそうとする和歌子ちゃんを捕まえ直した。 克己くんは少しだけ離れたところで振り返る。 「和歌ちゃん、はなせよ」 「いや。車ってなんのことだか教えて」 「はなせってば」 あたしは側でおろおろしている綾子を振り返る。 「綾子、和歌子ちゃんに護符を持たせて」 「そんなことするなっ!」 あたしは克己くんをにらみつける。 「だったら車のこと、教えて。そうじゃなきゃ、和歌子ちゃんに護符を張り付けてとれないようにしてやるから」 「そんなことしたら、ぼく、うみにとびこむからなっ」 「……克己くん、何言ってるかわかってんの?」 前庭の海岸に下りる階段までは五メートルもない。 「わかってるよ。ぼくがしんだら、みーんなこまるんだから」 「死ぬの、苦しいと思うよ」 「しってるよ。くるしかったら、ざまぁみろだもん」 「誰《だれ》にざまぁみろなの?」 「みんな」 あたしは綾子に暴れている和歌子ちゃんを押しつけた。 「綾子、捕まえてて。――克己くん、君、本当は誰なの?」 あたしは玄関から外に出る。克己くんはあたしをにらんだまま一歩さがった。 「克己くんじゃないんでしょ? 本当の克己くんはそんなこと言わないもの。護符を怖がったりしないもんね」 「こわくないよ」 「うそよ。怖いんでしょ? だから護符を持つのもいやなんだよね」 克己くんは笑った。それはとても子供の笑顔には見えなかった。 「ころしてやる」 「誰を?」 「おまえも、おまえらも。この家の連中も」 あたしはそっと手を構える。(――人に向けてはいけない) 「この子供も」 克己くんは――彼の中にいる者はそう言って笑う。 「どうしてなの」 手が震える。(でもあたし、タカにやったことがある。あれは冗談だったのだけど) 「海に飛びこむくらいは慈悲《じひ》のうちだよ。楽なもんだ。首を切られるのに比べたら」 「首を……切られた?」 今度がだいじょうぶだという保証は?(――二度とするな。麻衣ていどだから何も起こらなかったんだぞ) 「同朋の裏切りに比べれば」 「この家の人たちが、あなたに何をしたの」 「さてな」 「……その子から離れなさい」 「子供が死ねば用はない。そうなったら離れてやる」 克己くんは笑って身を翻《ひるがえ》す。その場を駆け出した。たった五メートルの距離。 「ナウマクサンマンダバザラダンカン」 お願い、克己くんを止めてっ! 「臨兵闘者皆陳烈在前《りんぴょうとうしゃかいぢんれつざいぜん》っ!」 剣印を振り降ろすと克己くんが転《ころ》ぶ。階段までわずかに一メートルもない。それと同時に何かが風を巻いて、あたしの顔のわきをすさまじい勢いで背後へ向かって駆け抜けていった。 「……なに」 周囲を見渡しても何もない。突然和歌子ちゃんが火がついたように泣きだした。あたしはあわてて克己くんのところに駆けよる。転んだままの克己くんを抱き上げると、克己くんは悲鳴に似た声で泣き始めた。 「ごめんね。ごめんね……」
3
克己《かつき》くんと――不思議《ふしぎ》なことに和歌子《わかこ》ちゃんも、泣きやまないので調べてみると背中にひどい火傷《やけど》ができていた。ちょうどあたしが九字《くじ》を切った、そのとおりに格子縞《こうしじま》の水ぶくれができている。決して大きいものではなかったけれど、これは痛くてたまらないだろう。 茶の間で手当てをしてようやく落ち着いたふたりは、なにごともなかったかのようにきょとんとしていた。護符を持たせてもめずらしそうにいじるだけ。真砂子《まさこ》がハンカチで縫《ぬ》ったお守り袋の中にたたんで入れて、それを首にかけてやるとなんだかうれしそうにしていた。 ふたりにケガをさせてしまったあたしはもう平あやまり。薬箱を持ってきてくれた裕恵《ひろえ》おばさんに平身低頭であやまって。 「本当にもうしわけありませんでしたっ」 ちょうど現場を見ていた光可《てるか》さんがとりなしてくれて。 「おかげで克己も和歌子も無事だったんですから。どうぞ気にしないでください」 いえ、これを無事と言っていいのかどうか……。冷や汗をかいていると小さな手があたしの腕に触《さわ》る。 「おねえさん、しかられてるの?」 和歌子ちゃんだった。 「うん。そうなの」 「そういうときには、すなおにあやまらなきゃだめだよ」 「はは……。ごめんなさい」 頭を下げると、和歌子ちゃんはブラウスの下からお守り袋を引っ張り出す。 「えらいねー。ごほうびにおねえさんにも、これをかしてあげようか?」 うるうる。かわいいなぁ。 「ありがと。でもそれは和歌子ちゃんのだから。それはぜったいに外《はず》しち ゃだめよ」 「きがえるときも?」 「着替えるときも」 うん、と大真面目《おおまじめ》にうなずいて、和歌子ちゃんは宝物でも隠《かく》すような手つきでお守りを服の中にしまいこむ。満足そうに笑ったところに泰造《たいぞう》おじさんが戻ってきた。 「車の……ブレーキオイルがもれていました」 車という言葉《ことば》が気になって、車を全部調べてもらったのだ。 「私用に使っている車でして……。気づかずに乗っていたら事故になるところでした」 あたしは大きく息をつく。……よかったぁ。 ――ところがぜんぜんよくなかったのよね。暗くなってから戻ってきたぼーさんにガミガミしぼられて。 「あれほど人に向けるなと言っておいたのに、お前ってやつは」 「だってしかたなかったんだもん」 「問答無用っ!」 えーん、えーん。ぼーさんがいじめるー。 ぼーさんは溜《た》め息《いき》をついてから静かな声を出した。 「退魔法というのはな、誰《だれ》がやっても効果があるもんじゃない」 ……はぁ。 「お前は才能があるよ、拝《おが》み屋のな。……だから、二度とするな。二度と九字《くじ》を人に向かって切らなきゃならないような状況を作るな」 「うん……ごめん」 ぽんとあたしの頭を叩《たた》いて、ぼーさんは綾子《あやこ》と真砂子のほうを見る。 「ほかは? 受け取りを拒否した人間がいるか?」 「奈央《なお》さんね」 奈央さんというと……彰文《あきふみ》さんのすぐ上のお姉さんだ。 「と言っても、奈央さんがいなかったからなんだけど。それと若旦那《わかだんな》よね。理由は同じく。――そういうわけで若旦那、護符をどうぞ」 綾子が差し出す護符を彰文さんは微笑《わら》って受け取る。よしよし、ちゃんと受け取ってくれたな。 「奈央姉さんはどこに行ったんだろうな?」 「さぁ。誰も行く先を聞いてないんで捜《さが》してるみたいだったけど」 ……おやぁ? 「麻衣《まい》は、どうだった? 受け取らなかったのはチビさんたちだけか?」 聞かれてあたしは、陽子《ようこ》さんも妙な感じだった、と言いかけた。最後まで言えなかったのは当の陽子さんがその時部屋の中に入ってきたからだった。 「――?」 陽子さんは声もかけずにずかずかベースに入ってきて、あたしたちを見渡した。 「子供に怪我《けが》をさせたのは誰」 あ。……苦情かぁ……。ううう。 「克己にあんなことをしたのは誰《だれ》なの。おまけに変なものを持たせて」 変なもの――って。 「やくたいもない護符のことよ。さっさと外《はず》してちょうだい」 「あのう……でも」 「妙なことを吹きこんだでしょう。あの子は外せと言っても外さないのよ。外してちょうだい!」 陽子さんは怒鳴《どな》る。 「葉月《はづき》にも何かしたでしょう。和歌子にも靖高《やすたか》にも栄次郎《えいじろう》にも」 あたしたちはまくしたてる陽子さんをまじまじと見つめた。……この人は……。 「何から何までよけいなことを!」 ぼーさんが護符を取って立ち上がる。 「これは身を守るために必要なもんなんです。陽子さん、持ってますか」 陽子さんは笑った。 「そんなもの、役になんかたたないわ」 ぼーさんは護符をさしだす。 「そんなことはないですよ。……どうぞ」 陽子さんは黙《だま》ってそれを受け取り――そうしてそれが突然燃え上がった。護符が勝手に火を噴《ふ》いたように、陽子さんの手の上で燃えてしまう。 「……役になんかたたないわ」 陽子さんは笑う。不適な色の笑い方。 「こんなもの。ぜんぜんなんでもないじゃないの」 あたしたちはじりじりと動いて陽子さんを取り囲むようにして身構えている。 「綾子、七縛《しちばく》」 「おーらい」 陽子さんは眉《まゆ》をひそめる。 「なに?」 「なんでもありませんって。俺《おれ》たちはちょいと陽子さんに用があるだけでして」 綾子は指を結ぶ。五横四縦の九字《くじ》を切る。小さく口の中で何かを唱《とな》える。 「なんなの……?」 「まぁまぁ。……ジョン」 呼ばれてジョンが聖水をまいた。顔をしかめてニ、三歩さがる陽子さんをリンさんが背後から捕まえる。 「放しなさいよっ」 ジョンは軽く十時を切る。 「我は汝《なんじ》、呪《のろ》われた不純きわまる霊、悪意の元凶、犯罪の本質、罪の源、欺瞞《ぎまん》と神聖冒涜《ぼうとく》と姦淫《かんいん》と殺人にふける汝に、言葉をかける者なり」 眼を見開いた陽子さんへジョンは手をのばす。指で陽子さんの胸元に十字をしるす。 「我はキリストの御名《みな》において汝に厳命いたす」 額《ひたい》に十字を描く。 「身体《からだ》のいかなる個所に身を潜《ひそ》めていようとその姿をあらわし、汝が占有する身体より逃げ去るべし」 右の耳に。 「離れるべし、いずこに潜みおろうと離れ、神に捧げられたる身体をもはや求めるなかれ」 左の耳に。 「父と子と聖霊の御名により、聖なる身体は汝に永遠に禁じられたものとなすべし」 口に。そうして指でそっと眼に触《ふ》れるようにして手をかざす。 「イン・プリンシビオ」 がくっと陽子さんの膝《ひざ》がくだけた。リンさんに支えられたままずるずるとその場に座りこむ。堅《かた》く眼閉じた眼が開いたときには陽子さんは驚いた表情をしていた。 「……え? なに?」 狼狽《ろうばい》する陽子さんにジョンは微笑《わら》いかけた。手に持っていた十字架に軽くキスしてそれを陽子さんの首にかける。 「もうだいじょうぶです。これを身につけて離さんといてください」
4
陽子《ようこ》さんはそもそも、あたしたちがこの家に来たところから何も覚えていなかったので、彰文《あきふみ》さんが一から事情を説明しなければならなかった。 「ねーねー、綾子《あやこ》。七縛《しちばく》ってなに?」 交代でとっている夕飯の時に聞くと、 「不動金縛《かなしば》りってやつね」 「リンさんがナルにかけてるやつ?」 聞くと綾子は顔をしかめた。 「まさか。他人を眠らせておくような、そんなたいそうなもんじゃないわよ。ちょっと人を無気力にして、身動きしにくくするくらいかな」 ほぉー。それでも綾子にしちゃ、ちゃんと役にたっててすごいな。 「七縛のとき、九字《くじ》を切ってたでしょ? 陽子さんに向いてたけど、よかったの?」 ああ、と綾子は微笑《わら》う。 「九字《くじ》というのは、そもそも護身九字っていって、身を守るもんなのよね」 「あ、そうなんだ」 「あんたに教えたのは早九字《はやくじ》。本当はもっとのんびりやるもんなのよね。あたしが祈祷《きとう》のときにやってるけど。あれってつまり、祈祷とか修行とかそういうのをやるときに、悪霊なんかに邪魔されないようにするもんなの。だから、そもそもは護身法なのよね。それを最後に刀印で中央を払って気合をかけるじゃない? そうすると一種の攻撃にも使える、というわけ。気合をかけてるときに気力を発射してるのよね」「なるほろ……。じゃ、除霊とかああいうのって、とどのつまりは気力を操《あやつ》って何かしてることになるわけだ」 「そ。呪文《じゅもん》を唱《とな》えるとか道具をつかうとかは、結局のところ気力を効率よく集めるための単なる儀式よね」 「じゃ意味がないわけ?」 綾子は頬杖《ほおづえ》をつく。 「んー、意味がないっていうか。なきゃできないってもんでもない、ってことよね。たとえば真言《しんごん》をまちがえて覚えている人がいても、まちがえてるからどうこうって問題じゃない。……と、アタシなんかは思ってるけど」 「へぇぇ」 「中国に気功法ってのがあってね、これなんかは気力を操る功夫《クンフー》なのよ。病気を治《なお》したりものを動かしたり、はては離れたところにいる人を手も触《ふ》れずに倒したり、儀式をとっぱらった気力かしら、と思ってるんだけど」 「それって、PKなんじゃないの?」 綾子はあたしを振り返る。 「あ、そうか。そうよねぇ。病気を治すなんてのはPK-LTだし、遠くの人をやっつけるのはPK-STか。じゃやっぱりPKって気力なんだ」 「よくわかってないわけ?」 「わかってることのほうが少ないの。あたしも気功法に詳《くわ》しくないしな。達人っていわれる人は本当にすごいらしいんだけど、見たことないしねぇ。触《さわ》りもしないで岩は砕《くだ》くし、鉄は曲《ま》げるし、ガンは治すし、人間を操ったりもできるらしいし。気功で除霊をする人もいるらしいしなぁ」 「ふぅん……」 「案外リンなんか、できたりして」 「あ、言えてる」 ふたりして笑ってから、あたしたちは顔を見合わせた。 「ナル!」 ナルが気功法の達人だって可能性はないだろうか? 「気功だったら縛《しば》っても意味ないよね」 「閉じこめたって意味がない。そりゃ、危険だわ」 「確かに眠らせとくしかないわけで」 「そうかぁ。そうだったのかぁ」 にゃるほど。疑問がひとつ解《と》けたぞー。 綾子は盛んにうなずいている。 「そうよねぇ。でなきゃ、ナルまで精進潔斎《しょうじんけっさい》する必要なんかないわけだしー」 「あ!」 あたしは手を叩《たた》いた。 「なによ」 「あたしー長らく疑問だったことがあるんだけどー」 「ふむふむ」 「ずーっと以前にタカの学校調査に行ったときに、あたしナルと穴《あな》の中に落ちたことがあったじゃない」 「あった、あった」 「マンホールがあってさー、穴の中は落ちこんだガレキでいっぱいだったわけ。それがさ、たまたま落ちたのがコンクリートの大きなかたまりとかないところで、そんでたいしたケガもなかったわけだど、それって変だなーと思ってたのよ」 「どうして」 「だって、マンホールからあたしたちは落ちたわけでしょ? ガレキだってマンホールから落ちたんだよね。そしたら、あたしたちもガレキも落ちる場所は似たりよったりなのが当然なんじゃないの?」 「そっか。麻衣《まい》たちが落ちるところってのは、ガレキなんかがゴロゴロしてるのが当然なわけだ」 「でしょ? それが、ガレキがなかったということはー」 「誰《だれ》かが砕《くだ》くか、のけるかしなきゃねー」 「だよねー」 「ふっふっふー」 ついに尻尾《しっぽ》をつかんだぜ。あたしと綾子はしばらくヘラヘラ笑い続けていた。 「ん? しかしちょっと待てよ」 綾子が唐突に首をひねった。 「でも、気功法が使えるなら、あの狐《きつね》みたいなのが飛びかかってきたときなんで撃退できなかったの?」 「んんん? それは確かに……」 そういえばリンさんが何か言ったんだ。「止《や》めろ」とかなんとか……。 「気功法を使っちゃいけない理由でもあるのかなぁ……」 結局頭を抱えてしまったあたしと綾子だった。
5
奈央《なお》さんが帰ってこない。それが問題になったのは十二時が近くなってきてからだった。 「無断でこんな時間まで帰ってこないなんてありえない」 裕恵《ひろえ》おばさんたちが騒ぎ出して、調べてみると誰《だれ》も奈央さんが出かけたのを見ていない。部屋を調べてみても財布やなんかが残っていたり、どう考えても出かけているとは考えられない、ということになった。ぼーさんとジョンが手伝って近所を捜したのだけど、奈央さんの姿は見つからなかった。ぼーさんとジョンがベースに戻って来たのは一時過ぎ。雲の厚い夜空には月も見えない。 「どうだった?」 あたしが聞くぼーさんとジョンは首を横に振る。 「明日、戻ってこなかったら捜索願を出すってさ」 ひどく重苦しい気分になった。 あたしがうなずいたところで、突然機材を見守っていたリンさんが声を上げた。 「滝川《たきがわ》さん。――これを」 そう言ってモニターを示す。洞窟《どうくつ》においたカメラの映像だった。画面の左に洞窟の入り口が見える。……別に異常はないみたいだけど。何かな? ぼーさんは画面に見入り、それからあわてたように立ち上がった。 「リン、懐中電灯があるか」 「車に乗せてあります」 「ジョン、来い」 「どうしたの?」 「麻衣《まい》たちはここにいろ。若旦那《わかだんな》、この場を頼む」 血相を変えて出ていく三人を見送って、あたしは綾子《あやこ》と顔を見合わせる。 洞窟の映像に何か問題があるんだろうか? あたしはあらためて画面に見入ったけれど、洞窟の中には何の以上も見えない。ガランとした空間が高感度カメラ独特の妙《みょう》に白々としたトーンで映《うつ》っているだけだ。 「なんなのかしら」 綾子のセリフにあたしは首をひねる。 「……なんにもないよねぇ。変なものが映ってるわけでも、変なことが起こってるわけでもないし……」 言いかけて、あたしは洞窟の入り口に眼を留めた。入り口の外は岩場で、突き出した岩に白い波が打ち寄せている。そこに波に洗われるようにして引っかかっている何か。 「あれ、なんだろ」 眼を凝《こ》らしてみても、なんだかわからない。岩にぶつかって離れてを繰り返す。 必死で眼を凝らしているうちに、ぼーさんたちが駆けつけたのが映った。ぼーさんたちはまっすぐ岩場に引っかかったモノのほうへ向かう。やっぱりあれが……。 彰文《あきふみ》さんが腰を浮かせた。 あたしがスピーカーを切り替えた。ぼーさんたちはだまりこくっている。波の音よりほかにスピーカーから流れてくる音は聞こえない。 ぼーさんたちは波をかぶりながらそれを引き上げた。リンさんとふたりがかりで抱《かか》え上げる。 綾子が悲鳴をあげた。彰文さんが部屋を飛び出す。 映像は粗《あら》くてよくは見えない。それでもそれが人だということはわかった。あたしたちが眺《なが》めている間、無抵抗に波に洗われていた人の身体《からだ》。生きている人だとは思えない。 (――潮《しお》の関係で死体が流れてくるんです) 奈央さんは戻ってこない。出かけているとは考えられない。 あたしは眼を閉じた。どうか別人でありますように。ぜんぜん関係のない誰《だれ》かでありますように。 ――それでも、そんな偶然があるはずのないことがあたしにもわかっていた。
それはまちがいなく奈央さんだった。彼女は潮に乗って、あの洞窟《どうくつ》までたどりついたのだった。警察が呼ばれて、奈央さんは運《はこ》ばれていった。検死解剖にふされるのだと聞いた。 「女の人なのに……解剖なんかされるの、嫌《いや》だろうな……」 ベースであたしは膝《ひざ》を抱えている。綾子が背中を慰《なぐさ》めるみたいに叩《たた》いてきた。 スピーカーからは相変わらず波の音が流れてきていた。波の音がじつは寂《さび》しい音だということにあたしは初めて気がついた。 着替えをすませたぼーさんたちが、暗い顔をして戻ってきたのはずいぶんと経《た》ってからだった。 「お疲れさま。……コーヒーいれるね」 「すまねぇな」 それっきり誰も何もしゃべらない。 コーヒーを配《くば》り終わって、みんなが口をつけたころに、やっとぼーさんが口を開いた。 「真砂子《まさこ》ちゃんや」 「はい?」 「奈央さんを降ろせるかい」 真砂子がハッとしたようにぼーさんを見返した。 「……できると思いますけれど」 「リンは日が悪いって言うんでな。悪いがお前さんがやってくれるか」 「やってみてもよろしゅうございますわ」 「麻衣、母屋《おもや》に行って、これだけのことを聞いてこい」 言ってぼーさんはメモを作り始める。奈央さんの生年月日、血液型、趣味、好きなアーティスト、財布の中の所持金、最近旅行に行った場所、などなど。 「……こんなこと聞いてどうするの」 「いいから行ってこい。降霊会のことは言うなよ。わからないことはわからないでいいから。――真砂子、何か準備するものはあるか?」
6
言われたとおりにえんえんと質問をして、あたしがベースに戻るともうちゃんと部屋の中は準備が整っていた。と、言ってもろうそくとお線香《せんこう》、あとは録画用の機材、それだけだったけど。 「聞いてきたか?」 「うん。でも半分くらいしか埋《う》まってないよ」 「それでいい」 あたしはぼーさんにメモを渡しながら、 「でもこんなこと聞いて本当にどうすんの?」 「降りてきたのが奈央《なお》さんかどうか、まちがいのないところを判定する必要があるんだ」 あ、なるほど。 「だったら彰文《あきふみ》さんに来てもらったら? 彰文さんに確かめてもらえば早いじゃない?」 「それは困る」 「どうして? きっと彰文さんだって会いたいと思うよ。ねぇ、せめて声をかけたら?」「だめだ」 あたしはちょっとムッとしてしまった。 「どうしてよ。奈央さん、急にこんなことになって、これがわかってたらこれだけは言っておきたかったのに、ってことがきっとあると思うの。あたしもそうだったもん。……ね、呼んであげようよ」 ぼーさんはあたしを見る。とても真摯《しんし》な顔だった。 「奈央さんが事故で死んだとはかぎらない」 「……どういうこと?」 「平たく言ってやろう。この家の誰《だれ》かに殺された可能性がある」 「ぼーさんっ!」 「お前らで護符を配ったとき、すでに奈央さんはないかった。あの時点で、憑依《ひょうい》されていたと思われる人間が三人はいる。陽子《ようこ》さんと子供二人だ。事故や自殺とはかぎらない。もしも陽子さんが殺したんだとして、若旦那《わかだんな》がそれを聞きたいと思うか?」 「……そんな」 ぼーさんは溜《た》め息《いき》をついた。 「そうでなきゃいいと、俺《おれ》だって思うさ。だから、それを確かめるために真砂子《まさこ》に彼女を呼んでもらうんだ。家族は参加させない。了解?」 「……了解」
あたしたちは全員で座卓を囲んだ。ろうそくとお線香に火をつけて電灯を消す。座イスに深く座った真砂子は手を合わせて眼を閉じた。そうして口の中でお経《きょう》らしきものを唱《とな》え始める。 「観自……菩薩密多時……五……空」 すぐに真砂子の姿勢が崩れる。いつもきちんと背筋を伸ばしているのが、少し猫背になったかと思うと、座イスの背に深く背中を預《あず》けるようになって、言葉がますます不明瞭《ふめいりょう》になっていく。やがてそれも途切れて、しばらくのあいだ部屋の中にはなんの物音もしなくなった。聞こえるのは微《かす》かな波の音と、機材の動く低いモーター音だけ。 「奈央さん」 ぼーさんが低く呼びかける。 「奈央さん、そこにいますか」 真砂子は眼を閉じたまま、赤い唇《くちびる》を動かした。 「はい……」 ほっと誰かが息をつく。 「吉見《よしみ》、奈央さんですね?」 「はい。……これはなんですか」 「少し質問に答えてほしいんですが」 言ってぼーさんは細々とした質問を始める。真砂子はその質問にとまどいとまどいしながら答えていく。どれもあたしが母屋《おもや》で聞いてきた答えによく合った。真砂子はすっかり眠っているように見えるので、口だけを動かして話を続けるそのようすはかなりのところ異常な感じがした。真砂子――真砂子の口を借りた奈央さんは何度も「これはなんですか」と聞いていた。それがひどく印象に残った。 「あなたは亡《な》くなりました。……わかりますか」 ぼーさんの言葉に少しの間があった。 「……はい」 「何故《なぜ》亡くなったのか……わかりますか?」 これにも少しの間があく。 「海に……落ちました」 言ったとたん、真砂子の閉じた目元に光るものが浮かんだ。 「庭にいて……海を見ていて」 涙が頬《ほお》を伝う。 「それは庭のどこですか?」 「茶室の……むこうです……。考えごとをしたくて……」 「足をすべらせたわけですか?」 今度は長い間があった。 「……突き落とされました」 やっぱり。やはりそうだったのか。 「あなたを突き落としたのは誰《だれ》です?」 「わかりません。……誰かが背中を突き飛ばしたんです……」 言って彼女は長い息をついた。 「とても……こわかった……」 ……聞いているのが辛《つら》い。あたしは顔を伏《ふ》せる。どんなに怖《こわ》かったろう。どんなに悲しいだろう。 「どんなことでもいい、あなたを突き落とした人のことを思い出せませんか?」 「……覚えてません。……でも、知らないですんでよかった」 「何故《なぜ》です」 「あそこへは家族しか行きません。わたしを突き飛ばしたのが家族なら……知りたくありません……」 そう言って彼女はもう一度深い溜《た》め息《いき》を落とした。 「わたしはもう……生きることができないんですね……」 ひどい。奈央さんが何をしたっていうんだろう。誰がなんの恨《うら》みがあって、こんなひどいことをしたんだろう。……させたんだろう。 「どうぞ安らかにお休みください」 ぼーさんが言うと、彼女は急に小さな声を上げた。 「どうしました」 「誰かが……引っ張るんです」 「引っ張る?」 「これは……なに? 誰なんですか? 怖い、わたし、行きたくない。引っ張るのをやめてください。そっちは怖くてわたしはいや……」 「奈央さん?」 「こんなの……いや。お願いだから、引っ張らないで。怖い、そっちには行きたくない。どうぞ、やめて……!」 悲鳴じみた声に全員が腰を動かす。 「いや……! 化け物……!」 「奈央さん!?」 「助けて!」 悲鳴といっしょに、真砂子の合掌《がっしょう》した手が離れて膝《ひざ》の上に落ちた。すぐに真砂子の眼が開く。真砂子は背筋を伸ばし、そうしてまぶしそうに瞬《まばた》きをする。 「あたくし……呼べたようですわね」 「やっぱり殺されたんだ……」 綾子《あやこ》の声に、身体《からだ》が震《ふる》えた。 「問題は、誰《だれ》が犯人なのかということだわね」 ジョンがうなずく。 「少なくとも靖高《やすたか》さんは違《ちが》いますです。病院に運《はこ》ばれたとき、奈央さんもいてましたから。おばあさんも出歩いたりはでけへんようですし」 「子供も違うでしょ」 綾子の声にぼーさんは苦《にが》い顔をした。 「そうとはかぎらねぇな」 「どうして? だって子供じゃムリよ」 「弾《はず》みをつければできんことじゃねぇぜ」 「それは、そうだけど……。でも、どっちかというと怪《あや》しいのはほかの人たちでしょ? まだ家の中に憑依《ひょうい》されてる人がいるんだわ」 「何故《なぜ》?」 「何故、って……」 言い淀《よど》む綾子にぼーさんは言い捨てる。 「すでに除霊はすんでるのかもしれん。自分がやったことを忘れている可能性がある。もしも陽子さんだったとしたら……」 こわいことだ。陽子さんには憑依されている間の記憶がない。その間にもしも奈央さんを突き落としたのだとしたら。陽子さんは自分の知らないうちに大罪を犯したことになる。それを知ったらどんなにショックを受けるか……。 十三人の家族。彰文さんとそのおばあさん、お父さん、お母さん、兄姉が四人、義理の兄姉がふたり、甥姪《おいめい》が三人、計十三人。奈央さんを除く十二人の中に、奈央さんを殺した犯人はいるはず。 おばあさんは動けない。靖高さんは入院したので犯人ではありえない。綾子の言葉を信じるなら、すでに除霊された子供三人と、義理の兄姉ふたりは犯人じゃない。印象だけで言うなら、彰文さんとお父さんお母さん、以前襲われた光可《てるか》さんも犯人とは思えない。残るのは……長男の和泰《かずやす》さん? 知りたくない、と言った奈央さんの気持ちがわかる。あたしだって知りたくない。もしも犯人の名前がわかって、それからあたしたちはどうすればいいんだろう。除霊して、正気にもどった相手に何をどう伝えればいい? そして……と、あたしは窓のほうを見た。 いったい奈央さんの霊に何が起こったのだろうか?
五章 ユダ
1
あたしは洞窟《どうくつ》の中に立っていた。ボンヤリと入り口の岩場に波が打ち寄せるのを見ている。波と一緒に小さな光の玉も打ち寄せる。まるで雪みたいだ。 ……ああ、また夢を見てるのか……。 波の間に人影が見えた。女の人だった。彼女は粛々《しゅくしゅく》と歩いてくる。うなだれて、肩を落として。 「奈央《なお》さん……」 洞窟にたどりついた奈央さんは、あたしになんか気がつかないようにしずしずと歩いて、入り江のほうに抜けていく。 「待って、奈央さん」 入り江に出ると、奈央さんは風にのって空へ向かって吹き上げられていった。 あたしはひとつ溜《た》め息《いき》をついて、背後を振り返るる小さな祠《ほこら》が見えた。祠はやはり歪《ゆが》んで見える。とても嫌《いや》な気配がする。近づいてみようかと思ったけれど、どうしてもそんな気にはなれなかった。 しばらくボンヤリ祠を見ている。そうして視線を海に戻すと、そこから再び奈央さんが入ってくるのが眼に入った。 「……奈央さん?」 彼女の返答はない。駆け寄るとゆるい風に押されたようにフラリと逃げてしまう。視線さえ動かさないまま彼女は入り江に出ていって、そうしてまた空へ向かって吹き上げられていく。しばらく待っていると、また海から現れる。それを何度も繰り返した。 「……なに?」 あれはいったいなんなんだろう。 「あれはなに? 教えて。――ナル! いないの!?」 「再生の儀式」 背後で突然声がした。振り返るとナルが微笑《わら》っている。 ……なんだ、呼べば会えたのか……。そんなことを思った。 「再生の儀式?」 「たぶん、そうなんだと思う。暗い穴の中を通り抜けるのは、もう一度生まれ直すことを意味している。彼女は何度もああしてこの洞窟を通り抜けながら、別の何かに生まれ変わろうとしてるんだと思う」 ……別の何か……。 「この洞窟は魂《たましい》を呼び寄せる。呼び寄せられた魂はああして、儀式を繰り返す。……そこまではわかるんだけど……」 「……あたし、今、魂なんじゃないの?」 げげげ、あたしもあの儀式に参加しなゃきいけないわけ? 「そう。だからここへはあまり近寄らないほうがいい。……行こう」 ナルは手を差し出す。あたしはちょっとドギマギしながらその手をとった。残念なことになんの手ごたえもしなかった。あたしは今身体《からだ》がないんだから当然なんだけど。手を引かれてフイと風に乗ると、水の中を浮上するみたいに入り江の上に舞い上がる。そしてそこから夜の庭に降り立った。 「ね、ナル?」 ん? と問いかけるような優《やさ》しい視線があたしに向く。 「夢の方向を示した、って前に言ったでしょ? 今までもずっとそうだったの?」 これには返答がない。ただやんわりと微笑《ほほえ》んだだけだった。 入り江からは細かな光が次々に吹き上げてくる。 「麻衣《まい》……」 「なに?」 呼ばれて振り返ると誰《だれ》の姿もなかった。 「ナル?」 「――麻衣」 どこ。どこから声がしてるの? 「麻衣っ!」
は、ははははいっ! あたしはいきなり目を覚ました。目の前に呆《あき》れたような真砂子《まさこ》の顔。 「あ……」 あわててあたりを見回すと、ここはベース。あたしは壁《かべ》にもたれてウトウトしていたらしい。真砂子のほかに姿は見えない。窓からは朝の光が射《さ》しこんでいる。「ご、ごめん。呼んだ?」 真砂子は冷たい目つきをする。 「呼ばなかったほうがよかったみたいですわね」 「べつに……」 「誰《だれ》かさんとデート中だったんでしょう?」 ななな……なにをいきなりっ!? 真砂子は意地悪かいじわる》っぽく笑って、 「あたくしのことを誰かとまちがえたみたいでしたわねぇ。……とかなんとか」 げっ! 「ち、ちがうっ! それは誤解でちがうの、本当はそうじゃなくて、誤解されるようなことじゃなく、あのっ……」 冷や汗がだーらだら。 真砂子はちょっとふくれっつらをして、それからあたしの顔をのぞきこむ。 「何か手がかりがありまして?」 あたしは夢を思い出し、すとんと気分が下降してしまった。 「……奈央さんが洞窟を何度も通ってた」 真砂子は怪訝《けげん》そうな顔をする。 「洞窟を?」 「うん。何度も海から入り江に通っていくの。再生の儀式……かな」 「ああ、暗い穴を通り抜けるわけですものね。胎内《たいない》めぐり」 「胎内めぐり?」 「神社やお寺にそういう場所がよくありますわ。暗いトンネルがあって、それをお母さんのお腹《なか》に見立てるんですの。トンネルを抜けて外に出ると、もう一度生まれたことになるんです」 へぇぇ。 「ですけど、どうして奈央さんがそんなことを。……転生の手続きですかしら」 「転生って、生まれ変わりのこと?」 「ええ。……よくわかりませんわね」 ……うん。 「みんなは?」 「玄関に……。――戻ってきましたわ」 真砂子が部屋の入り口を示すと、廊下のほうからにぎやかな人声が近づいてきた。格子戸《こうしど》を開けて、みんなが戻ってくる。その人数がひとり多いのにあたしは気づいた。 「……安原《やすはら》さん!」 あたしが声をあげると、みんなに囲まれていた安原さん(安原修。もと依頼者)が笑顔を向ける。気ぬけするくらい明るい笑顔。安原さんの性格がそのまま表情になって表れたみたいな。 「あ、谷山さん、どうも!」 あたしはなんだかほっとしてしまった。こんな辛《つら》い気分のときに、明るい笑顔を見るのはうれしい。 「やっぱぼーさんが呼んだのって、安原さんだったんだー」 「そう、僕《ぼく》だったんです」 「今着いたとこ? たいへんだったでしょ?」 安原さんはコックリうなずく。 「本当、たいへんでしたよ。我ながら自分の手際《てぎわ》のよさにうっとりしちゃいましたね」 「どこから来たの?」 「沖縄《おきなわ》でして」 ひえぇぇ。 「よく着いたねぇ」 昨日の今日で。しかもこんな朝はやく。 「でしょう? 電話切手、すぐに荷物まめとて空港に行って、友人が危篤《きとく》だってことにして」 「友人が危篤?」 「はぁ。単に遊んでたわけじゃなくて、僕バイト中だったんです。リゾート・ホテルのボーイでして。友人の滝川《たきがわ》ってのが事故って危篤だって。そう言って抜けてきたんですよね」 ぼーさんが苦笑する。 「誰《だれ》が危篤だ、誰が」 「まぁまぁ。そんで、福岡《ふくおか》までの便をなんとか捕まえて。最終の新幹線に乗って大阪まで行って。そこからさらに夜行に飛び乗って。で、朝一番に着いたというわけです」 「えらい」 拍手《はくしゅ》しちゃうわ、あたし。 「でしょう?」 笑って安原さんはぼーさんを見た。 「それで? 僕は何をすればいいんですか?」 「俺《おれ》たちはここから動けない。少年は外で情報を集めてもらいたいんだ」 「はぁ、なるほど。探偵《たんてい》をやればいいんですね。でも、どういう性質の情報を?」 「詳《くわ》しいことは今から説明するが……」 言ってぼーさんは安原さんに聞く。 「そう言や、少年。安政年間ってのは何年ぐらいだ?」 「安政の大獄《たいごく》が一八五八年ですよね。そのくらいじゃないでしょうか」 えらい。さすがだ。 「ま、そういう種類の情報だ」 「了解しました」
2
安原《やすはら》さんはお茶を飲む暇《ひま》もなく出ていって、残されたあたしたちは昨夜のデータをチェックする。再生し始めてすぐに、あたしたちは全員顔をしかめざるをえなかった。 「なんだ……? この音は」 どのカメラにも入っている低い音。まるで海鳴りみたいな。ゆるやかに大きくなったり小さくなったりを繰り返して、何か巨大な獣《けもの》の息づかいのように聞こえる。 「恐竜の寝息みたいや……」 変な形容をしたのはジョンだった。 「言えてる……」 あたしたちはしばらくその気味の悪い音に聞き入っていた。
その日の午後も遅《おそ》くなってからだった。ベースでダラダラしていたあたしたちは、けたたまましいベルの音で立ち上がった。 「……なに!?」 「火災報知気じゃねぇのか」 廊下《ろうか》に出てみると、母屋《おもや》のほうに微《かす》かに煙《けむり》が流れている。走って行ってみると、母屋の奥のほうで煙が上がっているのが窓越しに見えた。 「……あれ、おばあさんの部屋じゃない!?」 「近そうだな」 走っていくと、おばあさんのいる座敷に通じた奥の廊下で火の手が上がっていた。 「滝川《たきがわ》さん!」 毛布で火を消していた彰文《あきふみ》さんが声を上げる。灯油か何かの臭《にお》いがした。 「だいじょうぶか!? おばあさんは」 「今、窓のほうから父たちが行ってます」 「チビさんたちは」 「もう外に出しました」 裕恵《ひろえ》おばさんが消火器を抱《かか》えて駆けつけてきた。あたしはそれを受け取る。 「もっとあります!?」 「あります。いま集めてきます」 言って裕恵おばさんは走り去っていく。ジョンが手を出すので消火器を渡して、あたしも裕恵おばさんの後をついていこうとした。その時だった。リンさんがふいに背後を振り返った。 「……ナル」 「え!?」 リンさんが身を翻《ひるがえ》して駆け出す。 「この場をお願いします!」 お願いって……。反射的にあたしも駆け出していた。 「麻衣《まい》!?」 「綾子《あやこ》、真砂子《まさこ》と消火器を集めて!」 ぽかんとした綾子に怒鳴《どな》って、あたしはリンさんの後を追う。 ……みんな、ごめんっ。
リンさんはベースに駆けこむ。あたしもその後を追ってベースの中に飛びこんだ。 「あ……!?」 ベースの中にはリンさんと、そしてもうひとり――和泰《かずやす》さんがいた。 和泰さんはリンさのほうをうかがいながら、握った包丁《ほうちょう》で隣《となり》の部屋に通じる襖《ふすま》を引き裂いている。片手をかけて襖をゆすり、開かないのにじれて刃先を紙に突き刺す。ぴったりと閉められた襖はそのせいでズタズタだった。 「和泰さん……」 「まだ憑依《ひょうい》された者がいたというわけですね」 言ってリンさんは和泰さんを見る。 「やめなさい。それを開ければあなたが死ぬことになります」 和泰さんは吼《ほ》える。刺した包丁を大きく引く。襖に深い傷ができた。 「谷山《たにやま》さん、九字《くじ》を撃《う》ってみますか」 「そんな……!」 やっちゃいけないって、言われたもんっ。 「私だと大ケガをさせてしまいます」 「でも!」 「あの結界はそんなにはもちません。ナルを起こされたら終わりですよ」 でも……。とっさに目の前に浮かんだのは、克己《かつき》くんと和歌子《わかこ》ちゃんの背中にできた火傷《やけど》だった。人にケガをさせることは怖い。人を傷つけることは自分が傷つくことよりも怖い。 和泰さんがもう一度包丁を突き立てた。襖に長い穴が開く。裂け目から横たわったナルの白い横顔が見えた。弾《はじ》かれたように手をあげたけど、その手が動かない。あたし、やっぱり迷《まよ》ってる……。 リンさんが指笛を吹いた。和泰さんが襖《ふすま》にできた穴にさらに刃先を突き立てる。穴が広がって――。 その時に見てしまったモノはあたしを硬直させた。穴から外へ出てきた――赤い腕。なんだかねじれたように子供ほどの長さの腕。肌《はだ》はなめした革《かわ》のようで、しかも血に濡《ぬ》れたように赤い。コブのように節のたった指と、指ほども長い爪《つめ》と……。 それは空気をかき切る速度で動いて穴の中に消えた。一拍送れて血糊《ちのり》が飛んで襖の表面に散る。和泰さんが包丁を取り落とした。その腕に刻《きざ》まれたえぐったように深い四筋の傷――。 呆然《ぼうぜん》としてしまったあたしをよそに、リンさんがするりと動く。あっという間に流れ出した血で真っ赤に染まった腕を抱いてうずくまった和泰さんに近づいた。もう一度血糊が飛んだ。飛沫《しぶき》が襖に斑《まだら》を描く。今度血を流したのはリンさんのほうだった。 「リンさんっ!」 ざっくり切れた腕を和泰さんに突き出す。それよりも速く和泰さんがさがる。猫のように飛びさがった。その動きは人間のものとは思えない。 「臨《りん》……」 「あたしは手をあげる。 「兵《ぴょう》……闘《とう》、者《しゃ》」 こんな……おそろしい戦いはさせられないっ! 「皆陳烈在前《かいぢんれつざいぜん》っ!」 和泰さんが吼《ほ》えた。転《ころ》がるように畳の上に倒《たお》れこむと、すぐさま起き上がってこちらへ向かって突進してくる。真正面から体当たりされてあたしは思わず悲鳴をあげた。弾《はじ》き飛ばされて背中をしたた柱にぶつける。瞬間、息が止まったけれど、すぐに大きく頭を振った。 ……和泰さんは!? 部屋の中にはいない。ベースを飛び出していくリンさんの姿が見えた。足をもつれさせながら、その後を追う。廊下《ろうか》に出ると、和泰さんが廊下の突き当たりにある窓を突き破って外にとびだすところだった。 「谷山さん、滝川さんを呼んでください! ベースに誰《だれ》か人を!」 「はいっ!」
3
母屋《おもや》に向かって走ったところで、すぐに戻ってくるぼーさんたちに会った。「どうした」 「和泰《かずやす》さんが……」 なんと言えばいいんだろう。 「ベースを襲ったの。リンさんと乱闘になって……庭に逃げて行った。ぼーさんに来てって」 「――ジョン、来い!」 「はいですっ」 駆け出していくぼーさんたち。彰文《あきふみ》さんがそれに続く。その後を追おうとした綾子《あやこ》をあたしは止めた。 「ベースにいて! また襲われないように」 「麻衣《まい》は」 「あたし、追いかける」 もう足は走り出してる。 「ちょ……! 止《や》めなさいよっ! あんたなんかが行ったって!」 「あたし非力だから、あたしにしかできないことがあるのっ!」
あたしは庭に飛び出す。周囲を見渡す。リンさんと和泰さんはどこへ行ったの!? 少し先でぼーさんたちもあたりを見回している。ふいに岬《みさき》のほうで指笛の音がした。 「ぼーさん、あっち!」 あたしたちは走る。広い庭を駆け抜けて、茶室を回りこむとリンさんの姿が見えた。 「リンさんっ」 ちら、と視線をこちらに向けたリンさんは傷が増えている。襖の植え込みに身を潜《ひそ》めた和泰さんが見える。 「滝川《たきがわ》さん、気をつけて。彼はカマタイチを使います」 「……あいよ」 和泰さんは追いつめられた獣《けもの》みたいに喉《のど》の奥でうなり声をあげているるリンさんとぼーさんがそれをじりじり包囲する。息が切れて、目眩《めまい》がして、あたしは垣根に手をついた。緊張と疲労で、吐《は》き気《け》がする――。 「麻衣《まい》さん、ダイジョウブ……」 ジョンの声は最後まで聞こえなかった。 突然ぐらりと景色が揺《ゆ》れる。ひずんで、ねじれて、垣根にすがったときに、背中を強く突き飛ばされた。 ――落ちる! 身体《からだ》が硬直する。景色が揺れて、崖《がけ》の下の水面がいきなり視野に飛びこんできた。波に現れている岩場と真っ白に泡《あわ》だった波と……。墜落《ついらく》する。あれにたたきつけられたら生きていられない。 とっさに視線を動かした。足元に崖の縁が見えて、そしてそこで時間が止まった。あたしは宙に投げ出されている。あたしが離れてしまった崖の縁には垣根が見える。そして、そこに人影。垣根の縁をつかんで、あたしが落ちていくのを見ている無感動な顔……。 「麻衣さんっ!?」 ジョンに呼びれたあたしは我にかえった。 あたし、落ちてない。ちゃんと手は垣根をつかんでいる。足はちゃんと……膝《ひざ》が砕《くだ》けてその場に座りこんだ。 「谷山《たにやま》さん」 ぽろぽろ涙がこぼれた。 「……和泰さんがやったんだね」 植えこみの中から和泰さんが顔を出す。あたしのほうを見た。 「奈央《なお》さんをここで突き落としたんだね」 頭の中に浮かび上がる映像。夕暮れの部屋。そこには鳥篭《とりかご》があって和泰さんは籠の中に手を突っこんでいる。鳥のかんだかい悲鳴のような鳴き声がして……。 「鳥を殺したのも、犬を殺したのも和泰さんなんだね」 庭。車庫から出てくる彼。それを見ている克己《かつき》くんと和歌子《わかこ》ちゃん……。 「車に細工《さいく》をしたのも。……みんなあなたなんでしょ?」 涙が出て止まらなかった。それは和泰さんのしたことであって、したことじゃない。 すっとぼーさんが刀印を構えた。 「……お前さんは何者だ?」 植えこみからはうなり声だけが聞こえる。 「なんの恨《うら》みがあってこんなことをする」 バッと霧を吹いたように血煙があがった。ぼーさんの腕に赤い傷ができる。 「何者だ、言ってみろ!」 植えこみから低い笑い声が響《ひび》いた。 「ナルを解放してどうする」 返答はない。ただ含み笑うような声が植えこみから響いてくるだけ。 「何が目的だ」 やっと低い声がこたえた。 「死が」 突然身を潜めた植え込みから躍《おど》り出ると、身を低くして庭を駆け抜ける。眼で追うよりもずっと速かった。和泰さんの駆け抜けた方向に視線が追いついたときには和泰さんの姿はどこにもなかった。 突き倒された垣根と、いっぱいに光を含んだ空が広がっていただけだ。 あたしが入り江側の垣根にたどり着いたときには、入り江の水面に広がった真っ白な泡《あわ》の中に人影が浮かんでいた。我にかえったように駆け出そうとしたぼーさんを彰文さんが止めた。 「もう……間に合いませんから」 「しかし……!」 言ってからぼーさんも息を吐《は》いてうつむく。 泡の中にうつ伏せで浮かんだその人の、首はとても妙な角度に曲《ま》がってしまっていた。誰《だれ》が見ても、もう間に合うはずのないことがわかる。 「こんなの……」 前の事件でだって人が死んだ。でも、それはあたしの眼の前でじゃない」 「こんなの、ないっ!」 どんどん涙があふれてきて、眼を開けていることができなかった。 「あたしたち、なんのために来たの!? ぜんぜん何もできないでっ!!」 胸の中に辛《つら》い悲しいものがぎっしり詰まっていて、呑《の》みこむことも吐き出すこともできなかった。この苦いものが喉《のど》に詰まって、きっと窒息してしまうんだと思った。誰かが背中をなでてくれた。暖かい腕が肩にまわる。 「……誰のせいでもないですから」 彰文さんの声がした。 「谷山さんのせいでも、滝川さんのせいでも、誰のせいでもないんです」 返事ができない。眼を開けることもできない。あたしはうつむいて、彰文さんの肩口に額をこすりつけていた。 「できるかぎりのことをしてくださったと知っています」 それでも、人を死なせてしまっては意味がない。 「これでよかったんだと思います」 「……そんな……!」 顔をあげると、彰文さんが涙をこぼしていた。 「少なくとも兄は……自分のしたことを知らずにすんだのですから」 ……自分のしたこと。妹を突き落として死なせてしまったこと……。 あたしはうなずいた。それでも涙が止まらなかった。
4
夜に戻ってきた安原《やすはら》さんは、和泰《かずやす》さんの話を聞いてひとつだけ溜《た》め息《いき》をついた。 「元気、出しましょう。まだ終わったわけじゃないんですから」 ……うん。 「こんな犠牲《ぎせい》出して、負けて帰ったらそれこそなんのために来たんですか」 言って安原さんはとほうもない量のコピーをテーブルの上に投げ出す。 「さ、宿題をかたづけちゃいましょう」 「宿題?」 「そ。まず、これが滝川《たきがわ》さんのご要望の新聞です」 安原さんはとじたコピーをひとつずつ示す。 「これが先代のとき、先々代のときです」 「お疲れさん」 安原さんはぼーさんにコピーを渡して、 「要約するとこういうことです。先代――つまり彰文《あきふみ》さんのお祖父《じい》さんから家を譲《ゆず》られたとき、八人の人間が死んでいます。詳《くわ》しい内訳は新聞を見てもらうとわかりますが、四人は心中。残り四人のうち、ひとりが自殺、ひとりが事故、ほかのふたりが原因不明の急死です」 「心中……か」 「ええ。次男が妻と二人の子供を殺して死にました。無理心中というやつですね。客がふたり死んでますが、これは原因がはっきりしません。海岸に死体が上がったので一応事故ということになってますが、怪《あや》しいと僕《ぼく》なんかは思いますね。死んだ霊能者が三人、ふたりは自分たちで焚《た》いた護摩《ごま》の火が衣に燃え移って死んでます。のこりひとりは原因不明の急死。計十三人です」 「十三、ねぇ」 「その前、ひい祖父さんの時には新聞に載《の》っているだけで家族が六人です。ただ、戦前のことですので、本当に六人だったか怪《あや》しいと思いますね。死んだ六人というのは、井戸に入っていた毒物のせいで死んだんです。これは金沢《かなざわ》のお店を閉めてこちらへ移ってきてすぐのことです」 「じゃ、何か? 曽々祖父《ひいひいじい》さんが死んだのは、こっちに移ってきてからか」 「そのようですね。享年七十八歳ですから、ずいぶん高齢ですよね。もう息子に店を譲ってたんじゃないでしょうか。――それから、これが過去帳」 「ああ、コピーさせてもらえたか」 「ええ。朝一番にお寺へ行ってコピーさせてもらって。それから市立図書館に寄ってすぐに金沢に行ってきたんですが……」 「金沢まで行ったのか!?」 「行きましたとも。もー、走った走った。その電車の中でですね、コピーの束《たば》を見ていて、僕《ぼく》は妙なことに気がついたんですよね」 「妙なこと?」 「はい。お祖母《ばあ》さんは『代替わりのときに必ず変事が起こる』と言ったそうですが、実際にこの吉見《よしみ》家で代替わりの時に大量の死人が出ているのは、先代と先々代、このときだけなんです」 「見せてくれ」 ぼーさんは過去帳のコピーをひったくる。 「その前の代のときには、別に異常なほど死者が出たわけじゃないんですよね」 「確かにそうだ……」 「これは妙なんじゃないかと思いまして、帰りにもういちどお寺へ寄って、本家分家、全部の過去帳を見せてもらいました。そのコピーがこれです」 安原さんはコピーを突きつける。 「結論を言いますと、問題は吉見家にあるんじゃなくて、この場所にあるんですよ」 「……なに?」 「彰文さんたちの一族――金沢の分家と呼びます――は、ここに越してきてから変事にみまわれるようになりました。その前には本家筋の一家がここに住んでいたんですが、金沢の分家が戻ってくる五年ほど前に一家が絶《た》えてしまっているんです」 「ふう……ん」 「しかもですね。本家がここにやってきて、最初の死者が出たのが安政三年。それ以前は吉見家というのはこの土地にはいなかったようなんです。じゃ、その前にはここは誰《だれ》の所有だったかといいますと、藤迫《ふじさこ》家というおうちのものだったんですね。この藤迫家が、安政元年に途絶しています」 そう言って、安原さんは得意そうに別のコピーを引っ張り出す。 「これが、住職を拝《おが》み倒してコピーさせてもらった。藤迫家の過去帳です」 「えらい」 「でしょ? 藤迫家のぶんは二代しかないんですが、それ以前のものは過去帳が残ってなかったんです。つまりですね、ここでまとめますが」 言って安原さんは軽く咳払《せきばら》いをする。 「この場所はもともと藤迫家のものでした。それが変事のせいで絶えたあとに入ってきたのが吉見家。この吉見家はここに四代住んでいたんですが、四代目でこれも絶えたわけです。その後に入ってきたのが、その分家すじのこの一族、ということになるわけです」 ぼーさんは髪をかき回す。 「じゃあ、問題は家系じゃなくて、場所なのか……」 「そのようですね。それでですね、僕《ぼく》はこのあたりの歴史とか伝説を調べてみたわけです。その結果が、これ」 安原さんが積み上げたコピーの束《たば》は、ゆうに本二冊ぶんはある。 「これだけのもんを一日で調べたのか……? 金沢まで往復しつつ?」 呆《あき》れたようなぼーさんの声に安原さんはニッコリ笑う。 「ふっふっふ。僕《ぼく》は要領がいいですからね」 「要領がいいって……お前」 「お寺に行って過去帳をコピーしてもらったあと、市立図書館に行ってですね、新聞を閲覧《えつらん》するより先にしたことがあります。それはなんでしょう?」 「……なんだ?」 「ヒマそうな学生風の女の子をつかまえて、バイト持ちかけたことでーす」 頬杖《ほおづえ》をついていたぼーさんは、カクンと顎《あご》を落とした。 「バイトを雇《やと》ったのか」 「そうですとも。急ごうと思ったら人海戦術《じんかいせんじゅつ》しかないでしょう?」 ……そら、そーだ。 「金沢でもコピー要員をひとり確保しまして。こっちに残した子と電話で連絡をとりつつ、これだけの資料を集めたわけです」 ……す、すごい。 ニンマリ笑って胸を張った安原さんはリンさんを見る。 「そういうわけで、そのバイト代は『渋谷サイキック・リサーチ』から出ますよね」 リンさんがさすがに苦笑する。 「出しましょう」 「あー、よかった」 胸をなで下ろしたのが、妙におかしかった。
5
「えーとですね、それでこの場所に関することなんですが、調べていくうちにちょっと面白《おもしろ》い話を聞きこみまして」 「面白い話?」 「ええ。それが、よくある異人《いじん》殺しの民話なんですけどね」 「偉人? ……殺しぃ?」 なんだ、それはぁ? あたしが声をあげると安原《やすはら》さんは笑う。 「言っときますが、偉《えら》い人の偉人じゃないですよ。『赤い靴』のほう。『異人さんに連れられて行っちゃった』って、知りませんか?」 「ああ、外国人のこと」 つまりはジョンだな。 「ええ。ただ『異人殺し』の『異人』は少し違《ちが》うんですけどね。どちらかというと『よそ者』みたいな意味でしょうね」 ふに? 「昔は村というのは閉鎖社会だったわけです。誰《だれ》も出ていかないし、誰も入ってこない。村人は地縁的にも血縁的にも深く結ばれてて――つまり、ご近所さんで親戚《しんせき》だったわけです」 「ふむふむ」 「ところがそこに諸国を歩きま回っている行商人がやってきたとするでしょう? 彼は村人とは地縁的にも血縁的にもなんの関係もない。村人とはまったく異なった人、すなわち『異人』です」 「あー、なるほど。広い意味でいうと、外人さんも『異人』なわけね」 「そうです。でもって、村に入ってきた『異人』を殺した、という昔話が各地に残ってるわけですが、これを『異人殺し』と分類するんです」 「ほほう」 「しかも『異人殺し』と呼ばれる昔話の場合はもっと『異人』の範囲が狭《せま》いんですよ。薬売りだとか行商人だとかいろいろといる中で、いわゆる『マレビト』が殺されるのが常なんです」 あたしは恨《うら》みがましく安原さんを見てしまう。 「またそうやって、あたしの知らない言葉を使って混乱させるぅ」 「これは失礼。つまり折口信夫《おりぐちしのぶ》という人が『マレビト』と言ってて、これはどういうものかというと『来訪神』と、神を背負って村から村へ渡り歩く人のことをいうんですね」 ……あー、……わからん。 「来訪神というのは来訪する神ですね。どこからか村へやってきて村人を祝福したり訓戒《くんかい》を垂《た》れたりする。これが拡大されて、どこからか村へやってきて村人を祝福したり訓戒を垂れたりする神の代理人も『マレビト』と呼ぼうと」 「何がなんだか」 「神様や仏様や精霊や、そういう普通の人にはかかわり合いになることのできない超自然的な力とうまく付き合うことのできる人がですね、村へやってきて普通の人にはできないことをしていく。予言をしたり、雨を降らせたり、豊作を祈願したり、あるいは狐《きつね》を落としたり妖怪《ようかい》を退治したり怨霊《おんりょう》を除霊したりするわけです」 ……んー。ということは。 「んじゃ、あたしたちも『マレビト』になるわけ? 東京から来たよそ者で、超自然的な力を使って悪霊《あくりょう》退治をするわけでしょ?」 安原さんは手を叩《たた》く。 「そう。そうなんですよ。『マレビト』というのはですね、あっちこっちを渡り歩く巫女《みこ》とか坊主とか、そういう人たちを言ったんですよね」 「だったら最初からそう言ってよぉ」 「まぁまぁ。そういう『マレビト』を殺す、という昔話のパターンが日本にはあるわけです。それを『異人殺し』の民話と呼ぶわけですね」 「ふむふむ」 「だいたい村へやってきた『マレビト』が、やな奴《やつ》だとかお金を持ってたとかいう理由で殺されて、その結果崇《たた》りが起こる、とそういう話です。『マレビト』というのは軽蔑《けいべつ》の対象であり、同時に畏怖《いふ》の対象だったんですよ。だから彼らの生命は軽視されてささいな理由で殺されてしまうわけですが、同時に畏怖される存在でもあったので殺したのちに崇りが起こったりするんです。本当に崇りがあったかはともかく、『マレビト』を殺してただですむわけがない、という恐れの表れがそういう伝説になって残ったんでしょうね」 「それはわかるなぁ。あたしたちだってバカにされたり、意味もなくありがたがられたりするもんね」 安原さんはうなずく。 「でしょう? ――それで、ここに残る『異人殺し』ですが」 そう言ってノートを開く。 「これにはふたつパターンがあります。どっちが本当にあったことなのか、それともどちらもあったことなのか、はたまたどちらもなかったことなのか、それはよくわかりまんせけどね。――まずタイプA」 安原さんはノートを読み上げた。 「昔、村に三人の修験者《しゅげんじゃ》がやってきた。彼らは『おこぶさま』を見て、これは崇りをなすものだから除霊をしようと言う。除霊をしてみると、『おこぶさま』はいつの間にか金の仏像に変わっていた。ありがたい仏像が波に洗われてこんな姿になったために祟るのであろう、と言って行者はその仏像を都へ持ち帰りお堂を建てて祀《まつ》ることにした。ところが村の長者がこれを見て、金の仏像欲しさに行者を海岸に連れていって殺してしまったが、行者を殺すと同時に金の仏像はもとの木の棒になってしまった。ほどなく長者の家は不幸が続いて絶えてしまったので行者の祟りといわれる。――これがタイプAです」 なるほど、なるほど。 「もうひとつ。昔、村に三人の座頭がやってきた。彼らは『おこぶさま』を見て、ありがたい神様であるから社《やしろ》を立てて祀るべきだ、と言う。しかし村人はこの年の凶作で年貢《ねんぐ》の払いにも困っており、そんな余裕がなかった。しかも村人のひとりが座頭たちが大金を持っているのを見てそれを伝える。村人は集まって座頭を殺してしまおうと相談をまとめ、座頭たちを長者の家に呼ぶ。食事に毒をまぜて座頭を殺し、お金を奪って死体を海に捨てた。それ以来嵐や高波が続いたので、村人は後悔して『おこぶさま』を祀《まつ》る社《やしろ》を建て座頭の塚を建てた。それで災害がやんで以来豊作に恵まれたという。――これがタイプBです」 「ひどい話……」 「まぁ、『異人殺し』というのはそういうものですから」 そう言って安原さんは身を乗り出した。 「これって単なる伝説とは思えないんですよ。『マレビト』が三人とか、『おこぶさま』とか共通する事項が多いでしょう? このふたつをまとめるとですね、こういうことになります。村に三人の『マレビト』がやってきて『おこぶさま』について何かを言ったと。しかし結局この『マレビト』は欲ボケした村の人間によって殺されてしまった。犯行には『長者』が関係していて、死んだ場所あるいは死体を捨てた場所は海です。この結果、村に悪いことが起こった、と。ふたつとも話の大筋は結局のところ同じなんですよ」 ぼーさんがパチクリする。 「すると、何か? 過去に実際、そういう事件があったんじゃねぇかという?」 「だと思うんです。実際にモデルになる事件があって、それが語り継《つ》がれていくうちにふたつのタイプに分裂してしまったんじゃないか、って」 「ふぅむ……」 「それでですね、実際に郷土史を調べてみると、出てきました。『御小仏様《おこぶつさま》のこと』という伝説が」 「御小仏さま? おこぶさまじゃなくて?」 「ええ。ですけどね、タイプAとよく似た話なんですよ。どこかこのへんの海岸に木の棒が打ち上げられて、これをお坊さんに見せたところ、ありがたい仏さまじゃ、って言われるんです。実際そのお坊さんがお経《きょう》を唱《とな》えると、木の棒がたちまち金の仏像に変わった。一夜明けるともとの木の棒に変わっていたけれど、以来それを『御小仏様』と呼んで祀ることにした、って話なんです」 「なるほど、たしかに似てるな。するとタイプAのほうが実話か」 「そう即断するのは危険だと思いますけどね。やっぱりもとになる実話があったんだと思うんですよ」 ぼーさんはうなずいて少し考えこんだ。 「三人の行者……もしくは座頭……」 「どうしました?」 「神社にあった塚だよ」 「ああ、『十八《とはち》塚』?」 「なんでそういう名前なのか、わかったか?」 「いえ。それについては手がかりなしです。また明日、調べに行きますが……」 「塚が三つあっただろう? 別名を『三六《さんろく》塚』。『三つの六塚』じゃねぇのか」 「――ああ、なるほど。ありえますね。でも『六塚』って?」 「六部塚」ってのは?」 「 安原さんが手を叩《たた》いて大きくうなずいた。 「あ、そうか! 『三つの六塚』、これが省略されて『三六塚』か。そうるすと、タイプBの最後の部分とぴったりあてはまるんだ。『社《やしろ》を建てて塚を建てた』っていう」 あたしはぼーさんに聞いてみる。 「ろくぶってなに?」 「全国六十六箇所の霊場をまわる行脚僧《あんぎゃそう》のことだ。写経した法華経《ほけきょう》ってえ経典を一部ずつ納めることから、『六十六部』とか略して『六部』とか言う。諸国をうろつく行脚僧のこともそう呼ぶようになった。つまりは『マレビト』だ」「へぇぇ」 あたしが声を上げるのと同時に、安原さんが猛然とコピーの束をひっくり返し始めた。「……どしたの?」 「『六部塚』ですよ。どっかに……これだ!」 安原さんは綴《と》じたコピーを引っ張り出す。 「このあたりにあったという『六部塚』についての伝承なんですけどね、『六部塚』がないんで見過ごしてました。ええと……」 コピーをめくって読み上げる。 「いつのことだかは書いてありませんが、昔このあたりりに飢饉《ききん》が起こって、困った村人が一揆《いっき》を起こすんですね。けれどこれは結局鎮圧《ちんあつ》されてしまうんです。その時に首謀者を差し出せば村人の命は助けてやる、って言われて、村人は首謀者を引き渡してしまうんです。首謀者は逃げ出すんですけど、『六部塚』まで逃げたところで追っ手に捕まって、その場で首を切られてしまう。それ以来、村に疫病《えきびょう》がはやったり変な地鳴りがしたりおかしなことが続いたので、これはその首謀者の祟《たた》りだってことになって、『六物塚』の隣《となり》にお墓を建てるんですけど少しもやまない。結局そこに寺を建て、手厚く墓を祀《まつ》るとようやく怪異が静まった、とあります」 ふいに、頭の中で声が響いた。 (――この……裏切り) 「『六部塚』の隣ぃ? それって、ここのことじゃないの」 綾子が言う。ぼーさんもうなずいて、 「社の左は海だし、道路を挟《はさ》んだ向かいに山があるが、向かいを隣たぁ言わねぇだろう」 「まだあります。――昔このあたりに一揆が起こったことがあって、その首謀者は『六部塚』の近くで首をはねられた。近くに墓を建てて手厚く葬《ほうむ》ったが、その墓に悪戯《いたずら》すると首に妙なできものができ、やがてそこから腐《くさ》って首が落ちるという」 綾子《あやこ》とジョンが声をそろえた。 「首に妙なできもの」 安原さんは猛烈《もうれつ》ない勢いでコピーの束をめくる。 「郷土史によると――。このあたりで一揆《いっき》が起こったのは一度だけですね。こういう記事があります。文久二年、つまり一八六二年にこのあたりで一揆が起こり、その首謀者五人が斬首された、と」 (首謀者……五人!?) (誰《だれ》がいた? あたしとナルとぼーさんと綾子とリンさんと……五人) 「ちょっと待ってよ。『六部塚』に関係する一揆と、文久二年の一揆は、たぶん同じものよね? その一揆の首謀者が五人でしょ。でもってそのお墓を神社の隣に建てて――?」 綾子が言って、ジョンとぼーさんが顔を見合わせた。 「庭の石!」 (――必ず末世《まつせ》まで呪《のろ》ってやる) あれは……このことだったんだ……。
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「さあーて、ほんじゃ行ってみるか」 「ぼーさん?」 「一揆の五人と三人の六部。どっちがこの事件の犯人だと思う?」 ぼーさんがあたしたちを見渡す。あたしたちは困惑《こんわく》して顔を見合わせた。 安原《やすはら》さんが、 「どちらかを限定するには、手がかりが少なすぎますよ」 そう言うと、ぼーさんは軽く息をつく。 「となりゃ、――ジョン。五人と三人と手分けしよーぜ」 「ハイ」 「リンさんや、あんたはどーする」 聞かれてリンさんは、 「私はいけません。今日の騒《さわ》ぎで式をひとつ飛ばされたので、ここを離れられません」 「飛ばされた?」 あたしが聞くと、 「ええ。消えた気配はないのでしばらくすれば戻ってくるでしょうが、それまではここにいないと。ナルが無防備になりますから。――ひとつもうしあげてよろしいですか?」 「なんだえ?」 「力を分散しないほうがいいと思います。猛烈な抵抗があると思いますよ」 ぼーさんは眉《まゆ》をあげる。自分の腕に巻かれた包帯を嫌《いや》そうに見た。 「……ったく。――どちらにしようかな、と」 ぼーさんは指をあげる。岬《みさき》のほうを示して、 「数の多いほうから片づけるか。一揆の五人からだ。除霊してみる」 そう言ったときだった。突然横殴りにされたような衝撃が家の中を駆け抜けたのは。
「なんだ!?」 声をあげるまもなく、廊下《ろうか》を駆け抜ける激しい足音が聞こえた。 「滝川《たきがわ》さん、温度が下がります」 リンさんの声に振り返ると、六機あるサーモグラフィーの映像が染めていくみたいに青くなっていく。数字のデータだけが映っている画面の、その数字がどんどん変化していく。見ている間に「ERROR《エラー》」の文字があちこちに増えて、あっという間に画面善意が「ERROR」の文字で埋《う》めつくされた。 「三号機、止まりました」 三号カメラの映像が途切れた。それを皮切りに次々にモニターの画面が消えていく。 「こいつは……」 ぼーさんの声に安原さんが、 「先手を打たれる、というやつですね」 「訪《たず》ねていこうと思ったのに、むこうから出向かれちまったよ」 「それって、もうけじゃないですか」 「美人が相手ならな」 「そうか、見苦しい女性が相手だと迷惑なだけか」 「そういうのにかぎってしつこいんだ」 「なるほど、経験者の言葉は重みがあるなぁ」 ……ぼーさんと安原さんが組むと、緊張感も何もねぇな。 廊下では激しい足音が続いている。それにかぶって、低い音が聞こえ始めた。ジョンのいう「恐竜の足音」。地を這《は》うように低い音がじょじょに強くなって、それが人の声だとわかった。低い低い、人のうたうような声。 「へぇ、お経《きょう》の声ですね」 「相手が六部なら、さもありなん、ってとこだな。三人のほうが犯人か」 「押しかけてきたのはお坊さんかぁ。あまり有り難くないですね」 「せめて、尼《あま》さんならなぁ」 ……いつまで不心得なマンザイをしてんだ。 「少年はここに残れ。リン、頼むぞ」 「はい」 「麻衣《まい》、綾子《あやこ》、真砂子《まさこ》。俺《おれ》たちがようすを見てくる。それまでここに残ってろ」 「あら、行くわよ」 綾子の強い声に、 「うかつに出るとカマイタチをくらって、とっても痛い」 「危険は承知のうえよ」 「その性格で傷モノになると、嫁《よめ》のもらい手がなくなるぜ。――と、いうわけでジョン。仲よく貧乏クジを引こうや」 「はいです」 ぼーさんとジョンがベースを飛び出していく。その後を追おうとした綾子をあたしは止める。 「待ってろって言われたでしょ」 「だからって、おとなしくしてられないじゃない」 「あたしらが行っても邪魔になるだけだよ。せめてようすを見よう?」 「あんたといっしょにしないでくれる? アタシはこれでもプロなんだからね」 怒鳴《どな》られてあたしはムッとしてしまった。 「そのわりには役にたったこと、ないじゃない」 「しかたないでしょ。こっちにだって都合《つごう》があるんだからっ。ここならできる」 ……ここなら、できる? 問い返そうとしたとき、いきなり明かりが消えた。 「なに?」 「送電線が切れるか、ブレーカーが落ちるかしたようですね」 リンさんの冷静な声がする。窓から入る月明かりのせいで、すぐに闇《やみ》に目が慣《な》れた。 「とにかく、アタシは行くわ」 「ちょっと、綾子!」 そのとき、突然真砂子が声をあげた。 「……あれ!」 真砂子が指さしたのは、窓だった。窓の上の軒《のき》から、細長いものがぶらさがっている。それは人間の腕に見えた。腕が一本だけ、ぶらさがっている。 見ているうちに、その手が宙をかいた。もがくようにうごめいて、もう一本の腕がぶらさがってくる。二本の腕で軒をつかむ。そうして軒の端から逆さまに人の顔がのぞいた。 男の顔だった。男は部屋の中をのぞきこむようにして、それからそろそろと身を乗り出す。逆さになったまま両手を窓に伸ばして、ガラスに手をついた。そのまま男は墜落《ついらく》もせずに軒を這《は》いだしてくる。まるでヤモリか何かのように、ガラスを這って全身を現した。 男は窓の中央まで這い出してくる。すぐに次の手が軒から現れた。次に現れたのは女だった。窓の横にも下にもガラスに吸いつく手が見える。 無意識のうちに、反対側の壁《かべ》までさがっていた。男と女と子供と……。あっという間に窓は屋根から逆さまに這いだしてきてガラスにへばりついた人間で埋《う》まってしまう。その全員が無表情に中をのぞきこんでいる。 とん、とひとりがガラスを叩《たた》いた。ほかのひとりがそれをマネする。やがて全員がガラスを叩き始める。その無表情で機械的な動作。 「安原さん、こちらへ」 真砂子が安原さんをうながした。壁ぎわに彼を座らせて、自分もその脇へ座って手を合わせる。目を閉じて口だけを動かして何かを唱《とな》え始めた。 ガラスを叩くリズムが揃《そろ》い始めた。じょじょにガラスが震えるようになる。ひとつ拳《こぶし》がそろうごとに、ガラスが目に見えて波うつ。……割れる。もうじき割れてしまう。 リンさんが指笛を吹いた。同時に綾子が九字《くじ》を切る。間髪いれず、ガラスが内側に向かって砕《くだ》けちった。窓の外にこぼれ落ちていく人影と、中に飛びこんでくる人影と。 「麻衣っ、あれは死霊だから遠慮《えんりょ》はいらないからね!」 「うんっ」 答えて両手を構えて、――そしてあたしは悲鳴をあげた。 ガラスの割れた窓枠から、女が中に這いこんでこようとしていた。傷だらけの身体《からだ》と、半分が砕けて陥没した顔と。 それでも奈央《なお》さんにちがいなかった。
――どうして。どうして奈央さんが……。 「麻衣っ! ぼさっとしてんじゃないのっ!」 うなずいて手を構えても、気が殺《そ》がれる。だって、あれ、奈央さんだよ……? 小さな女の子が隣の部屋のほうへ這い寄った。 「臨兵闘者皆陳烈在前行《りんぴょうとうしゃかいぢんれつざいぜんぎょう》」 いっぷう変わった九字《くじ》はリンさんだった。弾《はじ》かれたように子供が窓の外に転《ころ》がり落ちる。無表情な顔が一瞬だけ苦痛をあらわにして、それであたしはますます身動きできなくなる。 窓から次々に入ってくる連中狙《ねら》いはあたしたちではなく、隣の部屋だった。そこにいるナルを解放したいのか、それともナルに憑依《ひょうい》した何者かを解放したいのか……。窓の外に弾き飛ばしてもまた這い上がってくる。その執拗《しつよう》で飽《あ》くことのない不毛さ。 勇気を総動員して手をあげたとき、手首に鋭利《えいり》な痛みが走った。驚いて見ると、細い傷ができている。あとからにじむように血の色が浮かんだ。 綾子が悲鳴をあげた。白いシャツの肩口に赤い色が広がる。リンさんも細かな傷だらけになっている。 こんなの……あたしたちで対抗できるわけがない……。 ふっと顔の脇を何かがかすめた。鈍《にぶ》い音がして窓際の床に突きたつ。そばにいた死人がさと場所を空《あ》けた。 「オンキリキリバザラバジリホラマンダマンダウンハッタ!」 あたしは部屋の中に飛び込んできた人影と、床に立った法具を一瞬の間だけ見比べる。「オンサラサラバザラハラキャラウンハッタ、オンアミリトドハンバウンハッタ」 どっと死人の群れが窓の外に転がり落ちた。 「オンビソホラダラキシャバザラハンジャラウンハッタ、オンアサンマギニウンハッタ、オンシャウギャレイマカサンマエンソワカ!」 独鈷杵《とっこしょ》に駆け寄って、あらためてそれをつき立てなおすぼーさんも傷だらけだった。 「これで入れるもんなら入ってみやがれ、ってんだ」 窓の下から男が顔を出す。部屋に入ろうと手を伸ばして、何かに弾《はじ》かれたように窓の下に消える。次々に窓に近づいてるけれど、そこに何か強い痛みをもたらすものがあるようで、中に入ってくることができない。 あたしはペタンと座りこんだ。緊張がとけて、どっと冷や汗が出る。 「ブラウンさんは」 リンさんに聞かれてぼーさんは、 「若旦那《わかだんな》たちを先導してる。じきに来るぜ」 「あっちに何か出たの?」 綾子が聞くと、 「出たなんてもんかよ。土左衛門《どざえもん》のデモ隊に囲まれたぜ。ゾンビ映画かっつーの」 ぼーさんが苦い表情で言ったとき、廊下《ろうか》のほうから悲鳴が聞こえた。 廊下に飛び出すと、悲鳴は母屋《おもや》の方角から聞こえた。駆け出すぼーさんの後について綾子も駆け出す。あたしは迷って部屋の中と真っ暗な廊下を見比べた。真砂子がうなずく。 「いってらっしゃいませ」 うなずきかえして、あたしも綾子のあとを追った。
悲鳴がしているのは玄関を通り過ぎて少し行ったところの廊下だった。廊下に彰文《あきふみ》さんたちがうずくまっているのが見える。克己《かつき》くんか和歌子《わかこ》ちゃんか、誰《だれ》か子供の泣き声がしていた。そうしてそのまわりにまとわりつくように飛ぶ何かほのかに白いもの。そばに立ったジョンが聖水をまいてそれを追いはらっていた。 ジョンが叫ぶ。 「これに触《さわ》らんといてください! えらいめにあいます」 ……えらいめ? 見返したところに白いものが角度を変えて飛んできた。 「ウンハッタ」 ぼーさんの声に溶《と》けるように消える。 「ジョン! こっちへ走れ! ベースまで行けば安全だから!」 うなずいてジョンがまわりの人に声をかける。克己くんを抱いた彰文さんが立ち上がったのを最初に、みんなが立ち上がってこちらへ向かって駆け出してくる。 触るな、なんて言ったわりにジョンはそれをよけるようすがない。ぶつかるのをかまわずによろけながらこちらへ向かって走ってくる。それを迎《むか》えようと、ついマネをして深く考えずに走りだしたあたしのお腹に、白いものがあたった。 感じたのは衝撃、だった。何か堅《かた》いものでお腹《なか》を刺し貫かれた衝撃。あたしはその場に膝《ひざ》をつく。激痛がお腹から頭へ足の先へ駆け抜けて息をすることもできない。悲鳴をあげることもできなかった。とっさにかばってお腹にまわした手にドッと温《あたた》かいものが流れ落ちてくる。血の臭いが鼻をついた。 ……刺されたんだ……あたし……。 痛みに麻痺《まひ》した頭で呆然《ぼうぜん》とそう思った。おそるおそる確かめるとそこにはなんの傷跡もない。Tシャツの表面にはシミひとつなかった。 「麻衣っ! だいじょうぶ!?」 「なに……これ」 最初の衝撃が去るといつのまにか痛みもない。きょとんとしているあたしの肩口にまた白いものが飛んできた。今度はよけようとしたけれど、間に合わなかった。声にならない悲鳴が出る。焼けつくようないたみ。ばっと血糊《ちのり》がしぶいて顔にあたる感触。二の腕が付け根からねじれて外《はず》れる……そんな感じ。 ……純然たる痛み。ただそれだけ。もちろん傷跡なんかどこにもない。 「麻衣っ!?」 「その白いものに触っちゃだめ!」 あたしに気をとられたのか、ぼーさんが白いのに襲われてがくっとよろけた。 「……てて」 「だいじょうぶ」 「ぜんぜんだいじょうぶじゃねぇ。……くそぉ」 ぼーさんは指を組む。 「キャタハンジャサハダヤソワカ!」 どっと赤い色が頭の中にあふれていった。紅い……透明な光。眼で見たのじゃなく、感覚が捕らえた光だ。光が消えたあとにはあの白いものはひとつも残っていなかった。 「今のうちだ……行け。チビさんたちを守ってやれ」 「うんっ」 あたしは走り、和歌子ちゃんの手を引いている光可《てるか》さんの側に駆け寄る。 「だいじょうぶですか」 「ええ……」 強《こわ》ばった顔で答えた光可さんも細かな傷だらけだ。和歌子ちゃんは放心したような顔をしていた。和歌子ちゃんを抱き上げてあたしは走る。暗い廊下を無我夢中でベースに向かって書け戻った。
7
ベースに戻って中に入るとき、産毛《うぶげ》をなでるような奇妙な感触がした。特に不快な感じじゃない。中に入るなり、和歌子《わかこ》ちゃんを降ろしてあたしは座りこんだ。息がきれて、もう身動きできない。手も足もガクガク震えていた。 すぐにぼーさんもかけこんできて、部屋に入ったところでばったり畳の上に転《ころ》がってしまう。 「だい……じょうぶ……?」 「死にそー」 声だけはノンキそうだったけど、ひどく苦しそうに息をしている。 「だいじょうぶですの?」 真砂子《まさこ》が小走りに寄ってきて、助け起こそうとする。ぼーさんは手の先だけを振ってそれを断《ことわ》った。 「ここで眠らせてもらえたら……一億円払ってもいい」 何を言ってるんだか。 あたしは戸口に眼をやる。暗い入り口の格子戸《こうしど》も襖《ふすま》も開いている。廊下《ろうか》から白いものがまた飛んできていたけど。入り口のところで弾《はじ》き返されているようだった。あたしは震える足をひきずって、襖を閉める。見ているのは心臓に悪い。 「少しお休みになったら。もうだいじょうぶのようですわよ」 「俺《おれ》がお休みになったら結界も解《と》けるでしょーが」 ……あ、そうなのか。 いつのまにか縁側の窓にはぴったりカーテンが引かれて、そこに座卓が立てかけてある。簡易バリケードという感じだ。ろうそくが何本か灯《とも》してある。あんなか細い光をこれほど暖《あたた》かいと思ったこともない。 「ねぇ……これからどうなるの?」 「朝まで待つことだな。夜明けになればおさまるだろ」 あたしは思わず腕時計を見た。もう一時が近い。夏の夜明けは早いから、なんとかねばり通せるだろう。 「ナルは? だいじょうぶなの?」 あたしが聞くと、リンさんはうなずく。 「だいじょうぶです。起こされずにすみました」 綾子《あやこ》と真砂子と安原《やすはら》さんの三人はみんなの傷の手当てをしていた。 「谷山《たにやま》さんも。ケガは?」 真砂子に言われてあたしは切れた傷を見る。どれももう血が固まっている。そんなに深い傷じゃなかったようだ。 「あたしはたいしたことない。だいじょうぶ」 「じゃあ、消毒だけ」 ……しみるからやだなぁ。そう思ったけど、あたしはおとなしく手当てをしてもらった。安原さんがぼーさんの脇に膝《ひざ》をつく。 「滝川《たきがわ》さん、ケガは?」 「いっぱい」 「ちょっと動かないでください」 ぼーさんのTシャツは血だらけになっている。安原さんがシャツを引き上げようとすると、 「えっち」 「頭からオキシフル、かけてあげましょうか?」 「ヘビメタになるからいや」 安原さんは笑って有無《うむ》を言わさずシャツをめくりあげる。背中は大小の傷だらけだった。特に深いのが肩甲骨《けんこうこつ》の下に見える。これじゃ血だらけになるはずだ。安原さんは一瞬だけ眉《まゆ》をひそめたけど、すぐになんでもなさそうな声を出す。 「しみますよ」 そう言って脱脂綿《だっしめん》を当てるとぼーさんが情けない声をあげた。 「いたーいたいたい」 「男の子でしょ。我慢するっ」 「俺、今日から女の子になることにする」 「気持ち悪いらか止《や》めときなさい」 なんのかんのと言いながら消毒して、シーツを裂《さ》いて包帯して。しばらくしたころ、リンさんがふとしたように顔を上げた。 「どうしたの?」 「戻ってきました」 「え?」 「式です。これで五つそろいました。滝川さん、眠ってもだいじょうぶですよ」 真砂子が眉をひそめる。 「それが式ですの?」 「ですが。気配をご覧になれますか」 真砂子はうなずく。 「わかりましたわ。この家にいた霊がとても空虚だったわけ」 なに? 「葉月《はづき》ちゃんやナルに憑《つ》いていたのも、家をさまよっていたものも、どの霊もあんなに空虚な感じがしたのは、あれが何者かの使役霊《しえきれい》だからですわ」 握り合わせた真砂子の手は震えている。 「あの霊は自分の意志で動いてません。誰《だれ》かが彼らを利用して式として使役しているのです。彼らの恨《うら》みを……成仏《じょうぶつ》できないほど深い苦しみを利用して」 ……洞窟《どうくつ》をくぐる奈央《なお》さん。再生の儀式だとしたら、なんのための再生? どうして奈央さんが襲撃に参加していたの? ……あんな、……かわいそうな姿のままで。 まだ終わってない。……まだ何ひとつ終わってない。 あたしたちはこの怪異の根元を断《た》ち、捕らわれた霊を解放しなければならないんだ。
六章 寄り来る神
1
それから夜明けまで、部屋の外では低い読経《どきょう》の声と、何かを引っかくような音、叩《たた》くような音が続いていた。それがようやく静まって、カーテンの間から外を見ると、空がうっすらと明るくなっていた。 「さぁて、ちょっくらもうひと働きするか」 ぼーさんの声がして、あたしは驚く。 「まだ寝てたら?」 結局ぼーさんは結界を解《と》かず、結界としてほとんど寝なかったのを知ってる。やっとさっきうとうとしてたところだったのに。 「そういうわけにもいかんだろ。急がにゃな」 「どうして? 昼になってからでもいいでしょ?」 「そうも言ってられん。昼だから安全とはかぎらんし、早くカタをつけてしまわねぇと何が起こるかわからんだろ。今夜もう一度ゆうべみたいな襲撃を受けたら、こっちも持ちそうにないしな」 ……うん。 「リンさんや。お前さんは残ってくれ。気力を殺《そ》ぐんで結界を解《と》いていく」「わかりました」 「ほんじゃま、行くか」 「でも、行くってどこに?」 あたしが聞くと、ぼーさんは笑う。 「『三六《さんろく》塚』に決まってるだろーが。読経の声が聞こえてただろ?」 ……あ。 「犯人は三人の六部だろう」 ぼーさんの声にジョンがうなずく。 「そして三人が、このあたりに吹き寄せられた霊を使役霊《しえきれい》として使《つこ》うていたわけですね」 「吹き寄せられた霊だけじゃない。おそらく一揆《いっき》で首を切られた五人も、伝説にいう姫とその恋人とやらも、およそこのあたりで死んだものの霊は、全部が式として使役されてていると考えていい」 「えらい数です」 ぼーさんは、うんざりしたように肩をすくめる。 「まあな」 「あんたは寝てれば」 いきなり強気なことを言ったのは綾子《あやこ》だった。 「そんでジョンひとりにまかせろってか? ジョンだって疲れてんだぞ」 「アタシがやる」 ぼーさんは溜《た》め息《いき》をついた。 「言いたかねぇけど、お前じゃ無理だ」 「あら、できるわよ」 「そういうことはもっと役に立ってから言え」 そら、そーだ。でも、ゆうべ何か言ってたな。都合《つごう》があるとかなんとか……。 「今までは事情があったのっ。今度はできる。あたしに任せて、あんたもジョンも寝てなさい。フラフラしてんだから」 「はいそうですか、と寝れると思うか?」 さらに何か言いかけたぼーさんをジョンが制した。 「お言葉に甘えて松崎《まつざき》さんに任《まか》せたらどうですやろ」 「ジョン、あのなぁ」 ジョンは笑って綾子を見る。 「けど、何が起こるかわかりませんし、用心のためについて行ってもよろしいですやろか。しんどいんで見るだけにさせてもらいますけど」 「信用できない、ってわけ?」 「信用することと、無責任に放り出すことはちがうんやないかと思いますです」 綾子はちょっと顔をしかめてから息をつく。 「親切で言ってあげてるのに……」 「すんません」 「謝《あやま》ってもらうようなことじゃないわよ。あー、バカバカし」 ……なんだ? いきなりのこの自信は??
外には朝靄《あさもや》が流れていた。いちおう用心しながら出たのだけど、特に襲撃してくる気配はない。店の建物はひどいありさまだった。廊下《ろうか》の壁《かべ》はほとんどはげ落ちて、柱にも床にも天井にも斧《おの》でつけたような傷が残っている。 あたしたちはそれでも用心しながら、神社に向かった。神社の狭い境内《けいだい》にも霧が流れてる。遠くで鳥が鳴いているのが平和すぎて不思議《ふしぎ》な気がした。 『三六塚』も霧の中に沈んでいる。綾子が持っているのはお酒を一本と、鈴をつけた榊《さかき》の枝だけ。歩くたびにちりちりと棲んだ音がする。 「綾子、本当にできるの?」 あたしが聞くと綾子は自信ありげに笑う。 「任せときなさいって。こんないい場所はないわよ」 「場所?」 「……そ」 綾子は境内を見渡した。 「小さいけれどちゃんと信仰が残ってる。樹《き》も生きてるし」 「樹ぃ?」 綾子はうなずく。お酒を境内の樹の根元にまいていく。 「アタシの実家の前に大きな楠《くすのき》の樹があってね」 ……ほう。 「注連縄《しめなわ》がかけてあるような、りっぱなやつよ。それが、小さい頃からいろんなことを教えてくれた」 言って綾子はちょっと顔をしかめる。 「病院に来る患者さんの死期まで教えてくれるんで、小さい頃は親に言うたびにしかられてたけどね」 「……へぇぇ」 「本当を言うと、アタシにはたいした力はないんだと思う。でもね、アタシは巫女《みこ》だから」 綾子は塚の前に榊を立てる。ちりり、と澄んだ音がした。 「始めます」 手を合わせる。 「謹《つつし》んで勧請《かんじょう》たてまつる……」 それはいつも綾子がやってる祈祷《きとう》には違《ちが》いないのに、いつもよりずっと簡略化されているのに、ぜんぜん違う重厚なものに見えた。たぶん綾子自身の雰囲気《ふんいき》が違うんだと思う。祝詞《のりと》を言うごとにどんどんあたりの空気が澄んでいく気がする。 綾子はなめらかに儀式を進めていって、合掌《がっしょう》し、 「なむらいりん、えこうきこうしゅごしたまえ」 唱《とな》えてから指を組んだ。早九字《はやくじ》でない。本式の九字の切り方だ。「臨《りん》……」 応えるように、どこかでちりん、と澄んだ音がした。あたしは周囲を見渡す。靄《もや》の濃い境内にはなんの人影もない。 「兵《ぴょう》……」 ちりん、とまた音がした。すぐ間近で何かが揺れた。綾子がひとつずつ九字を切っていくたびに澄んだ音が応える。 「あれ……」 ジョンが指さしたほうを見ると、大きな樹の幹から人影がすべり出てくるところだった。あたしはぽかんとそれを見守る。あちこちの樹から人影がすべり出てくる。薄い影だったけど、それが人であることはわかる。長いヒゲをたくわえたおじいさんが多かった。 しずしずと集まったその人たちは、静かに榊《さかき》へ向かってゆく。榊の側にたどりつくと、かき消すように見えなくなる。そのたびに榊の鈴が揺れて音をたてた。 最後のひとりが消えるのを見守ってから、綾子はていねいに刀印を結ぶ。五横四横に空を切り始める。 それを奇妙に感動しながら見ていたあたしは、遠くにまだ人影があるのに気がついた。「綾……」 声をかけようとすると、ぼーさんに止められる。 「でも……」 「しっ……」 だってまだ、いるのに。そう思って人影に眼をこらすと、それが樹のおじいさんなんかではないことがわかった。朝靄《あさもや》をかき分けて静かに歩み寄ってくる。その姿が揺れるたびに、ひたひたと濡《ぬ》れた音がした。気がつくとあたしたちの周囲全部でその音が続いている。 近づいてくるのが誰だか、あたしにはすぐにわかった。折れて曲がった首……。和泰《かずやす》さんに違いない。 綾子は深く頭を下げて榊《さかき》を手に取った。 「さあ、あなたたちも眠れるときがきました」 突然、物陰から人の姿が突進してきた。ぷんと潮《しお》の臭いが鼻をつく。とっさにぼーさんが印を構えるより速く、綾子が榊を振った。りん、と鈴が鳴って、突進してきた人影が靄の中に消える。 そこからあたしたちは、ただあんぐりと口を開けて見ているしかなかった。吸い寄せられるように死霊が綾子に近づいていって――あたしたちのことなんか眼中にないみいだった――榊が鳴るだけで消えてしまう。 和泰さんに向かっても榊を振る。消える一瞬、和泰さんの姿がもとに戻って、そうして靄に溶《と》けていった。 「確かに……俺《おれ》たちは必要ない……」 呆然《ぼうぜん》とぼーさんが言った。あたしはうなずく。見守るうちに気がついた。死霊は綾子を襲おうとして集まってきているんじゃない。彼らは……綾子に救われるために集まってきているんだ……。 危険なことなんてなにひとつなかった。最後に塚から黒い影がゆらめき出たけれど、それも榊が鳴るだけでうなだれるようにして消えていった。 近づいてくる人影が絶《た》えてから、綾子は最後の仕上げとばかりに塚に向かって榊を振る。りん、と音がすると同時に三つの塚が音をたてて割れた。 綾子はその前に榊をたてた。音をたてて手を合わすと鈴が勝手にほどけて落ちる。――それでまったく全部が終わりだった。
2
「あきれた……どうしてあんなすごい力があるのにに隠《かく》してたわけ?」 その帰り道、あたしが聞くと、 「別に隠してたわけじゃないわよ。だって今までは生きてる樹がなかったんだもん。いつも条件が悪いって言ってたでしょ」 「だって負けおしみと思うじゃない」 「事情を説明したって、負けおしみだと思ったでしょ?」 そら、そーだけども。 「生きてる樹があるきれいな場所でないとだめなのよ。べつに神社でなくてもいいんだけどね。それでも、都会の神社なんてカスみたいなもんだし、樹にいたってはどんな古い樹でもミイラみたいなもんだもんね。あれを見ると世も末だと思うわよぉ」 ぼーさんとジョンはまだ狐《きつね》につままれたような顔をしている。……その気持ちはわかるとも。 「今回はたまたま塚が境内《けいだい》にあったからいいけど、そうじゃなかったらどうするわけ?」 「近所にあればそこまで呼べる。一揆《いっき》で死んだ五人もいたでしょ?」 「いたの?」 「栄次郎《えいじろう》さんを除霊するとき、神社まで連れて行けばよかったのに」 「あれは人間にやっても意味がないの。単なる霊だったら浄霊《じょうれい》できない霊はないんだけどねぇ。それに、一度樹におすがりしたら、半年は休ませてあげないと。あの段階で樹に助けてもらったら、いざというときに役にたたないじゃない。ジョンがくれば落とせるのはわかってたんだし」 ……ふぅん。なんだかよーわからんけど、かっこいいなぁ。もう完全に見る眼が変わっちゃいますぜ。これからは綾子《あやこ》さまと呼ぼう。うんうん。 「じゃ、これで片がついたんだ」 「まだよ」 綾子さまにあっさり言われて、あたしも、ぼーさんもジョンも思わず立ち止まってしまった。 「なにぃ……?」 前言撤回。綾子だ、こいつなんか。 「霊なら、って言ったでしょ。霊じゃないものがいるわよ、ここは」 「なんだって?」 ぼーさんが顔をしかめる。 「浄霊をしてるとき、どうしても近づいてこない力があったのよ。霊なら浄化を求めて来るはずだから、あれは霊じゃない。なんだかは知らないけど、もっと大きな力だわね。それが連中を式として使役してたんだと思うわよ」 「六部の霊じゃなくて、か?」 「違うわね。六部の三人も単なる式だと思う。真砂子《まさこ》だって『霊場』だって言ってたじゃない。霊がうようよ集まるなんて、特別な力がそこにあるからに決まってるでしょ? 奈央《なお》さんの霊だって、『化け物』って言ってたし」 ……確かに。 「すると……その力ってえのはひとつしかない」 ぼーさんが言うと、ジョンもうなずく。 「さいですね」 えー? 何、それ? 「『おこぶさま』だよ。ほかにねぇだろうが」 「だって、『おこぶさま』って……」 「海から流れ着いた流木。形が仏像に似ているから祠《ほこら》を建ててこれを祀《まつ》る。――『えびす』だ。堂々たる『マレビト』だよ」 言ってぼーさんは苦《にが》い顔をする。 「綾子の忠告どおり寝てゃよかった。俺《おれ》たちは神サンを相手にしなきゃならんらしいぜ」
帰り道、念のために五人の塚のようすを見に行った。五つの塚も三六《さんろく》塚と同じように何かで切ったようにきれいに割れてしまっている。雄瘤《おこぶ》と雌瘤《めこぶ》の注連縄《しめなわ》も切れて、波間に漂《ただよ》っていた。 それからぞろぞろとベースに戻って、そうして最初に声をあげたのはぼーさんだった。「……よう。久しぶりだな」 ぐったりと眠っている彰文《あきふみ》さんたちの中で、安原《やすはら》さんがコピーの束《たば》と格闘している。ビデオを再生しているリンさんと、さらにそれを監督している――ナル。 ぼーさんのほうを見返した漆黒《しっこく》の眼を見てあたしは妙に感動してしまった。 ナルに憑依《ひょうい》していたのは使役《しえき》霊のどれかのはずで、その使役霊はすべて浄化したわけだから、考えてみればナルが起きているのはなんの不思議《ふしぎ》もないことなのだけど。 「ああ、渋谷《しぶや》さん、無事でよろしおました」 ジョンが笑う。 ぼーさんとジョンが手を振るのを、そっけなく見てナルは画面に顔を戻す。 ……感動の再会、――失敗。おやぁ? ひょっとして何も覚えてないのかな? 可能性としてはありうるけど、リンさんがなんの説明もしなかったとは思えないんだけど。おまけに綾子の首を絞《し》めた件については、証拠のビデオまであるもんな。 「感謝してほしいわねぇ。あたしが過去の恨《うら》みも忘れて助けてあげたんですからね」 思いっきしイヤミな綾子の口調に、ナルは視線さえ向けず、 「それはどうも」 まったく気のない返事をする。安原さんが気まずそうに目配せをした。あたしたちがそっと側によると、小声で、 「機嫌《きげん》が最低」 そうつぶやく。 ……なんちゅー勝手な奴《やつ》だ。これだからナルシストは困るのよ。 ゴホンとおぼーさんは咳払《せきばら》いをして、 「えーと、なんだ、どうも祟《たた》りの元凶は六部の霊じゃないみたいなんだな」 ぼーさんが言うと、ナルはそっけない声で、 「『おこぶさま』だろう」 あたしたちはポカンとナルを見る。 「……どーしてわかるのぉ?」 「お前たちとは頭のデキが違う」 ……むっ。なんだよ、その言い方はよー。自分はずっと寝てたくせにさー。 モンクのひとつも言ってやろうかと思ったときに、安原さんが声をあげた。 「ありました!」 ナルは安原さんにチラリと視線を向ける。 「内容は」 「えーと、『氏神祟りをなすこと』とあって、とある神社のご神体である『御小法師様《おこぼしさま》』が祀《まつ》りを怠《おこた》ると祟るという内容です。『御小法師様』は『えびす』神だとありますから、『おこぶさま』のことでしょうね。『御小法師様』を祀っていらい、暴風雨や高波が絶えた、とあります。それでたいそう崇拝されたが、村人や祝《いわい》がこれを祀ることを怠ると、たちまち災いをなす。特に祝一家はたたりによって多くの死人を出した、と」 「松坂《まつざき》さん、祝というのは何ですか?」 「いわい……? ああ、ハフリのことね。神主みたいなものだけど」 ナルはうなずく。ぼーさんがおそるおそる、という感じで、 「どーいう……?」 ナルは冷酷無比な眼であたしたちを見渡す。 「神社があって、その裏手に洞窟《どうくつ》がある。そこは死体の流れ着く場所だ。小さな祠《ほこら》があってそこには『おこぶさま』という『えびす』が祀られている。洞窟から神社の方角へは岸壁をけずった道があり、古い石段がある。――なんのためにそんなたいへんな工事をするんだ。むろん意味があったからに決まっている。ただ面白《おもしろ》くもない洞窟のためにそんなたいへんな工事をしたりするものか。もちろん、あの神社のご神体があるからだ。そのためにやむを得ずやった」 ……あ。 「しかもチャチな神ならそこまでしない。あの祠に祀られている者は、それをさせるほど大きな力を持った神だ」 「なるほど。それで今の伝説か?」 「そう。このあたりには、大きな力を持った神がいたという伝説があるはずだと思ったんだ。それで資料を見直してもらった。それがいま安原さんが読みあげたものだ」 言ってナルは、あたしたちを見渡す。 「『おこぶさま』は『えびす』神、しかも海の災害をよく鎮めた。しかし祀《まつ》りを怠《おこた》ると祟《たた》る凶悪な神でもあったわけだ。その『おこぶさま』を祀っていると思われる神社は今では祠《ほこら》と切り離されている。この家が切り離してしまっているんだ。おそらく、もともとここは神社の一部だった。境内が切り売りされてしまったと考えるのがスジだろう」 ……たしかに。 「神社にハフリがいたなら、きっと神社のそばに住んでいただろう。ひょっとしたらそれは、ここじゃないのか」 「ありうる」 「ハフリが住んでいた場所が、一揆《いっき》の首謀者五人の墓を建てる際に分割された。――それが妥当《だとう》な線だろう。さらにそこが民家として転売されてしまったんだ」 ――つまりここは昔、ハフリが住んでいた場所……? 「『おこぶさま』はここに住む者を自分を祀るべき祭祀だと信じている。祀るべき者が祀らないから祟る。今の伝承はその証拠だ。だからたたりの猛威をふるっていながら、除霊されたわけでもないのに一家は皆殺しになっていない。自分を祀らせるために、祭祀が必要だからあえて残した」 すごい、というよりあっけない。ナルにかかるとこんなに事態は明確になってしまうのか……。 ナルはあたしたちを見渡す。 「『おこぶさま』の除霊を行う」 口をはさんだのはぼーさんだった。 「ちょっと待て。除霊をする必要があるのか?」 「当然だろう」 「しかし、祀ってやればいいわけだろう?」 「祀りを怠ればまた同じことを繰り返す」 「それでも当面はだいじょうぶなんじゃねぇか。相手は『えびす』とはいえ神の一種だぞ。化け物よりもタチが悪い。化け物を狩る方法はないと言ったのはお前だろうが」 ナルは笑う。どこまでも不穏な壮絶な笑み。 「あいつを見過ごせって? 冗談じゃない」 「おい」 「これだけ愉快《ゆかい》な経験をさせてもらったんだ。きちんと返礼をするのが礼儀というものだろう」 ……怒ってる。これは怒髪《どはつ》天を衝《つ》く、というやつではなかろうか。 「それとも、リタイアしたいか?」 ナルの視線を受けて綾子があわてて手を振った。 「ア……アタシはダメだからね。あそこには樹はないんだから」 ナルの冷たい視線がジョンに向く。 「ボクも……憑依霊《ひょういれい》やったらともかく、『えびす』なんて何がなにやら」 「リン?」 リンさんは首を横に振る。 「私には太刀打《たちう》ちできるとは思えません。――ナル、やめたほうがいい。あれは我々の手には負えません」 ナルはキッパリ、リンさんを無視した。 「ぼーさん?」 ぼーさんはおおいに苦々《にがにが》しい顔だ。 「やるだけはやってみるが。ナルちゃんよぉ、ここはリンの言うとおりに……」 「力量のない者は必要ない」 そういわれて引き下がるようなかわいい性格の人間が、この中にいるもんか(ジョンはのぞく。ただしジョンはその親切な性格ゆえに引き下がれない)。 けっきょくうなずいてしまうあたしたちだった。
3
あたしたちは打ち合わせをしながら干潮《かんちょう》を待った。 「あの……無理をなさらなくても、祟《たた》りの原因がわかったのなら、あとはうちで手厚く祀《まつ》ればすむことですから」 言ってくれたのは彰文《あきふみ》さんだった。ぼーさんは苦い顔で、 「ナル坊がぶっちぎれちまってる。とにかく行くだけ行ってみなきゃ、おさまらねぇ」 「でも……」 「まぁ、俺《おれ》としても奈央《なお》さんや和泰《かずやす》さんのこともある。一矢《いっし》を報《むく》いることができるんなら、やってやりたいって心境だからな」 彰文さんは深く頭を下げた。 そのあとでぼーさんが、 「少年と真砂子《まさこ》、綾子《あやこ》、麻衣《まい》は残れ。ジョンはどうする」 ナルのいないところでそう言ってきた。ジョンは、 「ボクでもお役にたつとも思えませんけど、とにかく行ってみます」 「あたしも、行く」 あたしが言うと、ぼーさんは軽くにらむ。 「邪魔《じゃま》だ、来るな。守ってやれるとは思えねぇ」 ……そうすっぱり言われると、反論のしようが……。 うつむいたとき、口を挟《はさ》んだのは安原《やすはら》さんだった。 「自分の身ぐらい自分で守りますよね、谷山《たにやま》さん」 「……へ?」 「ちなみに、僕《ぼく》も行きます」 ぼーさんは呆《あき》れたように口を開く。 「少年っ!」 「止めてもムダですよ。もう決めましたから。ご心配なく、自分の身ぐらい自分で守るし、ヤバいと思ったら滝川《たきがわ》さんより先に逃げてみせます」 ぼーさんはさんざん説得をしたけど、安原さんにうんと言わせることはできなかった。「俺《おれ》は知らんからな」 捨てゼリフを残して去っていくぼーさんの衣に手を振って、安原さんはあたしたちを見る。 「みなさんも、できるだけ来てください」 あたしも綾子も、真砂子もアングリヤしてしまった。 「あのねぇボウヤ、これは……」 安原さんは真剣な顔をする。 「遊びじゃないのはわかってます。救助要員が必要なんです」 「救助……要員?」 あたしが聞くと安原さんはうなずく。 「ゆうべ傷を見たでしょう?」 「……あ」 「滝川さんの背中のアレ、まだ出血してると思いますよ。そうとう深かったですから。たぶん縫《ぬ》わなきゃダメじゃないかな。包帯で押さえたくらいでなんとかなる傷じゃないですよ。ブラウンさんもね、腕に深い傷があります。滝川さんほどじゃないけど、あれも縫わなきゃふさがらないと思うな」 あたしは遠くで話を始めたジョンとぼーさんを見る。 ぼーさんは墨染めの衣、ジョンも神父の制服姿。ともに黒で多少出血してもよくわからない。 「呼べば救急車が横づけできる神社ならともかく、あんな洞窟《どうくつ》で倒れたらどうやって岸まで戻るんです。渋谷《しぶや》さんとリンさんとで連れて戻れるはずがないでしょう。僕たちが行かないのだったら、あのふたりにも行かせない。……そういうことにしませんか」 綾子は空を仰《あお》いだ。 「……まったく、男どもときたら……。ナルもぼーさんも、ジョンも、本っ当にしかたないんだからっ」 「ですよね」 のほほんとうなずく安原さんに、 「あんたもよっ。九字《くじ》のひとつも切れないくせにっ」 「あはははー」 真砂子が溜《た》め息《いき》をついた。 「滝川さんもブラウンさんも、ナルが行く以上行くと言うでしょうね。ナルが留《とど》まるとは思えませんし……。起きてきたときの顔をお見せしたかったですわ」 「そんなにひどかった……?」 プライド、こなごなだろーしなー。 『松崎《まつざき》さんの気持ちがよくわかりましたわ。あたくし、まだ憑依《ひょうい》されているのかと思いましたもの」 ……そ、それはー。 「こうなったらしかたありませんわね。……麻衣」 ぎょっ「麻衣」? 「服を貸していただけます? こんなかっこうじゃ、いざというとき話になりませんわ」「……お安いご用……」 あー、びっくりした……。 着替えを取りに真砂子と戻りながら、あたしはなんとなくニマニマしてた。真砂子がそれを見とがめる。 「あたくしが洋服を着るのがそんなに変ですかしら」 「いやー、それもあるけどー」 「あるけど? いったいなんですの」 「んー」 「麻衣っ」 あたしはニンマリする。 「ほらー、呼びすてにしたー」 真砂子がはっと口元を押さえる。あたしをすねたように見て、 「……ご不満? あなただって呼びすてにしてますでしょ」 「うん。だからもっと呼んで(ハート)」 真砂子が嫌《いや》そうな顔をした。 「あたし、呼びすてにされるの、好きなの。それだけ親しいんだって気がするでしょ?」「……そうですかしら」 「真砂子はずーっとあたしを名字《みょうじ》で呼んでたでしょ? それを最近、時々呼びすてにするようになったじゃない? その気持ちの変化がうれしい」 真砂子はあたしを横目で見る 「なれ合ったわけじゃございませんわよ」 「はいはい」 「同病相憐《あいあわ》れむ、というやつですわ」 同病? 真砂子は溜《た》め息《いき》を落とした。 「おたがい、たいへんな人を選びましたわね」 「……そ、それは」 えーと、もしもし、そのですね……。 真砂子は狼狽《ろうばい》するあたしにはかまわず、 「あたくし、起きてきたナルを見て、どうしてこの人なんだろうって、自分がかわいそうになりましたの。どう考えても中身から言えば滝川さんや安原さんや、ブラウンさんのほうが上ですわよ」 「……言えてる」 あたしたちは仲よく溜め息をつく。 「ずっと話も簡単ですのに。……しかたない、と言うべきなんですかしら」 「ナントカは異なもの、って言うしー」 「本当にそうですわね」 「だよね」 もう一度そろって溜め息をついて、そうしてそれから仲よくクスクス笑い出した。 ――ヒョウタンからコマ、性格の悪いコイビトから友情ってかぁ?
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干潮《かんちょう》を待って洞窟《どうくつ》へ渡った。『えびす』の寄り来る洞窟。祟《たた》る神のいる霊場。 ついて行くと言ったあたしたちを見て、ナルは思いっきり不愉快《ふゆかい》そうにした。本っ当、性格悪いっ。 洞窟はしんと静まりかえったままだった。潮《しお》のにおいと、空洞にこだまする波の音と。 「ね、綾子《あやこ》」 つい声をひそめてしまうのは、よく音が響《ひび》くからだ。 「……ん?」 「使役霊《使役霊》はみんな浄霊してしまったんでしょ?」 「そのはずだけど……」 不安そうな口ぶりにちょっとあたしはひるんでしまう。 「まさか、あれで失敗したなんて言わないでよね」 「失敗したつもりはないわよ。でも、暴風雨や高波を本当に鎮《しず》められるなら、浄化した霊を引き戻すのも簡単かもね」 「ちょ、ちょっと……」 「油断はできないわよ。いちおう『神様』なんだから」 真砂子《まさこ》がつぶやく。 「だいじょうぶ、少なくとも今はいませんわ。あいかわらず霊場の気配はしますけど……。とても空虚な霊場……」 あたしたちが黙《だ》り込むと、波の音だけがする。本当に空虚な場所だ……。 ナルの遠慮会釈《えんりょえしゃく》のない声が響いた。 「始めよう」 ぼーさんが息をひとつ吐《は》いて祠《ほこら》の前に立つ。奇妙な形をした流木の姿が目《ま》の当たりだった。祠の前には簡単な祭壇が用意されている。ぼーさんは印を組み、真言《しんごん》を唱《とな》えてここに見えないお堂を作っていく。結界をしきお堂を建て、そこに仏様を呼ぶ。これがいつもぼーさんがやっている祈祷《きとう》なんだと聞いた。見えないお堂は気力でできている。だからぼーさんの意識がとだえれば、それはたちまち消えてしまう。 「オンバザラギニハラチハタヤソカワ」 どこかで何かの音がした。低い短いその音は、耳をそばだてる間もなく消えてしまう。今何か聞こえなかった、と綾子に聞く前にまたそれが聞こえた。今度は少しだけはっきり聞こえる。低い音が短く鳴って、そうしてまた消えていく。三度目が鳴ったとき、綾子や真砂子も周囲を見回した。 「……なんの音?」 「わかるわけないでしょ」 ささやき合ううちに、また聞こえる。少しずつはっきりとしてくる。短い等間隔の低い低いこもった音。 「これ……」 「心臓の音……?」 それはたしかに鼓動《こどう》だった。収縮し拡大する臓器の音。 「あれ……!」 真砂子に呼ばれてあたしは指の示した方を見る。そうして洞窟の壁が微《かす》かに動いているのを見つけた。鼓動に合わせて、あるかなしかで脈打つ岩肌。岩とは思えないなめらかな光沢《こうたく》……。あたりはずいぶんと暗い。あたしはおそるおそる壁にちかづいてみる。そっと手をのばした。 「やめて、麻衣《まい》」 だって、触れてみればわかる。これは幻《まぼろし》なのか、それとももっと別のことなのか……。指先が触れた。触れた先は荒い硬質な感触がする。まぎれもなく岩にちがいないのにとても暖《あたた》かかった。 「こんな……」 鼓動の音はさらに大きくなる。一拍鳴るごとに周囲の壁が息づいて |