氦浃埂筏丹螭 なんと言えばいいんだろう。 「ベースを襲ったの。リンさんと乱闘になって……庭に逃げて行った。ぼーさんに来てって」 「――ジョン、来い!」 「はいですっ」 駆け出していくぼーさんたち。彰文《あきふみ》さんがそれに続く。その後を追おうとした綾子《あやこ》をあたしは止めた。 「ベースにいて! また襲われないように」 「麻衣《まい》は」 「あたし、追いかける」 もう足は走り出してる。 「ちょ……! 止《や》めなさいよっ! あんたなんかが行ったって!」 「あたし非力だから、あたしにしかできないことがあるのっ!」
あたしは庭に飛び出す。周囲を見渡す。リンさんと和泰さんはどこへ行ったの!? 少し先でぼーさんたちもあたりを見回している。ふいに岬《みさき》のほうで指笛の音がした。 「ぼーさん、あっち!」 あたしたちは走る。広い庭を駆け抜けて、茶室を回りこむとリンさんの姿が見えた。 「リンさんっ」 ちら、と視線をこちらに向けたリンさんは傷が増えている。襖の植え込みに身を潜《ひそ》めた和泰さんが見える。 「滝川《たきがわ》さん、気をつけて。彼はカマタイチを使います」 「……あいよ」 和泰さんは追いつめられた獣《けもの》みたいに喉《のど》の奥でうなり声をあげているるリンさんとぼーさんがそれをじりじり包囲する。息が切れて、目眩《めまい》がして、あたしは垣根に手をついた。緊張と疲労で、吐《は》き気《け》がする――。 「麻衣《まい》さん、ダイジョウブ……」 ジョンの声は最後まで聞こえなかった。 突然ぐらりと景色が揺《ゆ》れる。ひずんで、ねじれて、垣根にすがったときに、背中を強く突き飛ばされた。 ――落ちる! 身体《からだ》が硬直する。景色が揺れて、崖《がけ》の下の水面がいきなり視野に飛びこんできた。波に現れている岩場と真っ白に泡《あわ》だった波と……。墜落《ついらく》する。あれにたたきつけられたら生きていられない。 とっさに視線を動かした。足元に崖の縁が見えて、そしてそこで時間が止まった。あたしは宙に投げ出されている。あたしが離れてしまった崖の縁には垣根が見える。そして、そこに人影。垣根の縁をつかんで、あたしが落ちていくのを見ている無感動な顔……。 「麻衣さんっ!?」 ジョンに呼びれたあたしは我にかえった。 あたし、落ちてない。ちゃんと手は垣根をつかんでいる。足はちゃんと……膝《ひざ》が砕《くだ》けてその場に座りこんだ。 「谷山《たにやま》さん」 ぽろぽろ涙がこぼれた。 「……和泰さんがやったんだね」 植えこみの中から和泰さんが顔を出す。あたしのほうを見た。 「奈央《なお》さんをここで突き落としたんだね」 頭の中に浮かび上がる映像。夕暮れの部屋。そこには鳥篭《とりかご》があって和泰さんは籠の中に手を突っこんでいる。鳥のかんだかい悲鳴のような鳴き声がして……。 「鳥を殺したのも、犬を殺したのも和泰さんなんだね」 庭。車庫から出てくる彼。それを見ている克己《かつき》くんと和歌子《わかこ》ちゃん……。 「車に細工《さいく》をしたのも。……みんなあなたなんでしょ?」 涙が出て止まらなかった。それは和泰さんのしたことであって、したことじゃない。 すっとぼーさんが刀印を構えた。 「……お前さんは何者だ?」 植えこみからはうなり声だけが聞こえる。 「なんの恨《うら》みがあってこんなことをする」 バッと霧を吹いたように血煙があがった。ぼーさんの腕に赤い傷ができる。 「何者だ、言ってみろ!」 植えこみから低い笑い声が響《ひび》いた。 「ナルを解放してどうする」 返答はない。ただ含み笑うような声が植えこみから響いてくるだけ。 「何が目的だ」 やっと低い声がこたえた。 「死が」 突然身を潜めた植え込みから躍《おど》り出ると、身を低くして庭を駆け抜ける。眼で追うよりもずっと速かった。和泰さんの駆け抜けた方向に視線が追いついたときには和泰さんの姿はどこにもなかった。 突き倒された垣根と、いっぱいに光を含んだ空が広がっていただけだ。 あたしが入り江側の垣根にたどり着いたときには、入り江の水面に広がった真っ白な泡《あわ》の中に人影が浮かんでいた。我にかえったように駆け出そうとしたぼーさんを彰文さんが止めた。 「もう……間に合いませんから」 「しかし……!」 言ってからぼーさんも息を吐《は》いてうつむく。 泡の中にうつ伏せで浮かんだその人の、首はとても妙な角度に曲《ま》がってしまっていた。誰《だれ》が見ても、もう間に合うはずのないことがわかる。 「こんなの……」 前の事件でだって人が死んだ。でも、それはあたしの眼の前でじゃない」 「こんなの、ないっ!」 どんどん涙があふれてきて、眼を開けていることができなかった。 「あたしたち、なんのために来たの!? ぜんぜん何もできないでっ!!」 胸の中に辛《つら》い悲しいものがぎっしり詰まっていて、呑《の》みこむことも吐き出すこともできなかった。この苦いものが喉《のど》に詰まって、きっと窒息してしまうんだと思った。誰かが背中をなでてくれた。暖かい腕が肩にまわる。 「……誰のせいでもないですから」 彰文さんの声がした。 「谷山さんのせいでも、滝川さんのせいでも、誰のせいでもないんです」 返事ができない。眼を開けることもできない。あたしはうつむいて、彰文さんの肩口に額をこすりつけていた。 「できるかぎりのことをしてくださったと知っています」 それでも、人を死なせてしまっては意味がない。 「これでよかったんだと思います」 「……そんな……!」 顔をあげると、彰文さんが涙をこぼしていた。 「少なくとも兄は……自分のしたことを知らずにすんだのですから」 ……自分のしたこと。妹を突き落として死なせてしまったこと……。 あたしはうなずいた。それでも涙が止まらなかった。
4
夜に戻ってきた安原《やすはら》さんは、和泰《かずやす》さんの話を聞いてひとつだけ溜《た》め息《いき》をついた。 「元気、出しましょう。まだ終わったわけじゃないんですから」 ……うん。 「こんな犠牲《ぎせい》出して、負けて帰ったらそれこそなんのために来たんですか」 言って安原さんはとほうもない量のコピーをテーブルの上に投げ出す。 「さ、宿題をかたづけちゃいましょう」 「宿題?」 「そ。まず、これが滝川《たきがわ》さんのご要望の新聞です」 安原さんはとじたコピーをひとつずつ示す。 「これが先代のとき、先々代のときです」 「お疲れさん」 安原さんはぼーさんにコピーを渡して、 「要約するとこういうことです。先代――つまり彰文《あきふみ》さんのお祖父《じい》さんから家を譲《ゆず》られたとき、八人の人間が死んでいます。詳《くわ》しい内訳は新聞を見てもらうとわかりますが、四人は心中。残り四人のうち、ひとりが自殺、ひとりが事故、ほかのふたりが原因不明の急死です」 「心中……か」 「ええ。次男が妻と二人の子供を殺して死にました。無理心中というやつですね。客がふたり死んでますが、これは原因がはっきりしません。海岸に死体が上がったので一応事故ということになってますが、怪《あや》しいと僕《ぼく》なんかは思いますね。死んだ霊能者が三人、ふたりは自分たちで焚《た》いた護摩《ごま》の火が衣に燃え移って死んでます。のこりひとりは原因不明の急死。計十三人です」 「十三、ねぇ」 「その前、ひい祖父さんの時には新聞に載《の》っているだけで家族が六人です。ただ、戦前のことですので、本当に六人だったか怪《あや》しいと思いますね。死んだ六人というのは、井戸に入っていた毒物のせいで死んだんです。これは金沢《かなざわ》のお店を閉めてこちらへ移ってきてすぐのことです」 「じゃ、何か? 曽々祖父《ひいひいじい》さんが死んだのは、こっちに移ってきてからか」 「そのようですね。享年七十八歳ですから、ずいぶん高齢ですよね。もう息子に店を譲ってたんじゃないでしょうか。――それから、これが過去帳」 「ああ、コピーさせてもらえたか」 「ええ。朝一番にお寺へ行ってコピーさせてもらって。それから市立図書館に寄ってすぐに金沢に行ってきたんですが……」 「金沢まで行ったのか!?」 「行きましたとも。もー、走った走った。その電車の中でですね、コピーの束《たば》を見ていて、僕《ぼく》は妙なことに気がついたんですよね」 「妙なこと?」 「はい。お祖母《ばあ》さんは『代替わりのときに必ず変事が起こる』と言ったそうですが、実際にこの吉見《よしみ》家で代替わりの時に大量の死人が出ているのは、先代と先々代、このときだけなんです」 「見せてくれ」 ぼーさんは過去帳のコピーをひったくる。 「その前の代のときには、別に異常なほど死者が出たわけじゃないんですよね」 「確かにそうだ……」 「これは妙なんじゃないかと思いまして、帰りにもういちどお寺へ寄って、本家分家、全部の過去帳を見せてもらいました。そのコピーがこれです」 安原さんはコピーを突きつける。 「結論を言いますと、問題は吉見家にあるんじゃなくて、この場所にあるんですよ」 「……なに?」 「彰文さんたちの一族――金沢の分家と呼びます――は、ここに越してきてから変事にみまわれるようになりました。その前には本家筋の一家がここに住んでいたんですが、金沢の分家が戻ってくる五年ほど前に一家が絶《た》えてしまっているんです」 「ふう……ん」 「しかもですね。本家がここにやってきて、最初の死者が出たのが安政三年。それ以前は吉見家というのはこの土地にはいなかったようなんです。じゃ、その前にはここは誰《だれ》の所有だったかといいますと、藤迫《ふじさこ》家というおうちのものだったんですね。この藤迫家が、安政元年に途絶しています」 そう言って、安原さんは得意そうに別のコピーを引っ張り出す。 「これが、住職を拝《おが》み倒してコピーさせてもらった。藤迫家の過去帳です」 「えらい」 「でしょ? 藤迫家のぶんは二代しかないんですが、それ以前のものは過去帳が残ってなかったんです。つまりですね、ここでまとめますが」 言って安原さんは軽く咳払《せきばら》いをする。 「この場所はもともと藤迫家のものでした。それが変事のせいで絶えたあとに入ってきたのが吉見家。この吉見家はここに四代住んでいたんですが、四代目でこれも絶えたわけです。その後に入ってきたのが、その分家すじのこの一族、ということになるわけです」 ぼーさんは髪をかき回す。 「じゃあ、問題は家系じゃなくて、場所なのか……」 「そのようですね。それでですね、僕《ぼく》はこのあたりの歴史とか伝説を調べてみたわけです。その結果が、これ」 安原さんが積み上げたコピーの束《たば》は、ゆうに本二冊ぶんはある。 「これだけのもんを一日で調べたのか……? 金沢まで往復しつつ?」 呆《あき》れたようなぼーさんの声に安原さんはニッコリ笑う。 「ふっふっふ。僕《ぼく》は要領がいいですからね」 「要領がいいって……お前」 「お寺に行って過去帳をコピーしてもらったあと、市立図書館に行ってですね、新聞を閲覧《えつらん》するより先にしたことがあります。それはなんでしょう?」 「……なんだ?」 「ヒマそうな学生風の女の子をつかまえて、バイト持ちかけたことでーす」 頬杖《ほおづえ》をついていたぼーさんは、カクンと顎《あご》を落とした。 「バイトを雇《やと》ったのか」 「そうですとも。急ごうと思ったら人海戦術《じんかいせんじゅつ》しかないでしょう?」 ……そら、そーだ。 「金沢でもコピー要員をひとり確保しまして。こっちに残した子と電話で連絡をとりつつ、これだけの資料を集めたわけです」 ……す、すごい。 ニンマリ笑って胸を張った安原さんはリンさんを見る。 「そういうわけで、そのバイト代は『渋谷サイキック・リサーチ』から出ますよね」 リンさんがさすがに苦笑する。 「出しましょう」 「あー、よかった」 胸をなで下ろしたのが、妙におかしかった。
5
「えーとですね、それでこの場所に関することなんですが、調べていくうちにちょっと面白《おもしろ》い話を聞きこみまして」 「面白い話?」 「ええ。それが、よくある異人《いじん》殺しの民話なんですけどね」 「偉人? ……殺しぃ?」 なんだ、それはぁ? あたしが声をあげると安原《やすはら》さんは笑う。 「言っときますが、偉《えら》い人の偉人じゃないですよ。『赤い靴』のほう。『異人さんに連れられて行っちゃった』って、知りませんか?」 「ああ、外国人のこと」 つまりはジョンだな。 「ええ。ただ『異人殺し』の『異人』は少し違《ちが》うんですけどね。どちらかというと『よそ者』みたいな意味でしょうね」 ふに? 「昔は村というのは閉鎖社会だったわけです。誰《だれ》も出ていかないし、誰も入ってこない。村人は地縁的にも血縁的にも深く結ばれてて――つまり、ご近所さんで親戚《しんせき》だったわけです」 「ふむふむ」 「ところがそこに諸国を歩きま回っている行商人がやってきたとするでしょう? 彼は村人とは地縁的にも血縁的にもなんの関係もない。村人とはまったく異なった人、すなわち『異人』です」 「あー、なるほど。広い意味でいうと、外人さんも『異人』なわけね」 「そうです。でもって、村に入ってきた『異人』を殺した、という昔話が各地に残ってるわけですが、これを『異人殺し』と分類するんです」 「ほほう」 「しかも『異人殺し』と呼ばれる昔話の場合はもっと『異人』の範囲が狭《せま》いんですよ。薬売りだとか行商人だとかいろいろといる中で、いわゆる『マレビト』が殺されるのが常なんです」 あたしは恨《うら》みがましく安原さんを見てしまう。 「またそうやって、あたしの知らない言葉を使って混乱させるぅ」 「これは失礼。つまり折口信夫《おりぐちしのぶ》という人が『マレビト』と言ってて、これはどういうものかというと『来訪神』と、神を背負って村から村へ渡り歩く人のことをいうんですね」 ……あー、……わからん。 「来訪神というのは来訪する神ですね。どこからか村へやってきて村人を祝福したり訓戒《くんかい》を垂《た》れたりする。これが拡大されて、どこからか村へやってきて村人を祝福したり訓戒を垂れたりする神の代理人も『マレビト』と呼ぼうと」 「何がなんだか」 「神様や仏様や精霊や、そういう普通の人にはかかわり合いになることのできない超自然的な力とうまく付き合うことのできる人がですね、村へやってきて普通の人にはできないことをしていく。予言をしたり、雨を降らせたり、豊作を祈願したり、あるいは狐《きつね》を落としたり妖怪《ようかい》を退治したり怨霊《おんりょう》を除霊したりするわけです」 ……んー。ということは。 「んじゃ、あたしたちも『マレビト』になるわけ? 東京から来たよそ者で、超自然的な力を使って悪霊《あくりょう》退治をするわけでしょ?」 安原さんは手を叩《たた》く。 「そう。そうなんですよ。『マレビト』というのはですね、あっちこっちを渡り歩く巫女《みこ》とか坊主とか、そういう人たちを言ったんですよね」 「だったら最初からそう言ってよぉ」 「まぁまぁ。そういう『マレビト』を殺す、という昔話のパターンが日本にはあるわけです。それを『異人殺し』の民話と呼ぶわけですね」 「ふむふむ」 「だいたい村へやってきた『マレビト』が、やな奴《やつ》だとかお金を持ってたとかいう理由で殺されて、その結果崇《たた》りが起こる、とそういう話です。『マレビト』というのは軽蔑《けいべつ》の対象であり、同時に畏怖《いふ》の対象だったんですよ。だから彼らの生命は軽視されてささいな理由で殺されてしまうわけですが、同時に畏怖される存在でもあったので殺したのちに崇りが起こったりするんです。本当に崇りがあったかはともかく、『マレビト』を殺してただですむわけがない、という恐れの表れがそういう伝説になって残ったんでしょうね」 「それはわかるなぁ。あたしたちだってバカにされたり、意味もなくありがたがられたりするもんね」 安原さんはうなずく。 「でしょう? ――それで、ここに残る『異人殺し』ですが」 そう言ってノートを開く。 「これにはふたつパターンがあります。どっちが本当にあったことなのか、それともどちらもあったことなのか、はたまたどちらもなかったことなのか、それはよくわかりまんせけどね。――まずタイプA」 安原さんはノートを読み上げた。 「昔、村に三人の修験者《しゅげんじゃ》がやってきた。彼らは『おこぶさま』を見て、これは崇りをなすものだから除霊をしようと言う。除霊をしてみると、『おこぶさま』はいつの間にか金の仏像に変わっていた。ありがたい仏像が波に洗われてこんな姿になったために祟るのであろう、と言って行者はその仏像を都へ持ち帰りお堂を建てて祀《まつ》ることにした。ところが村の長者がこれを見て、金の仏像欲しさに行者を海岸に連れていって殺してしまったが、行者を殺すと同時に金の仏像はもとの木の棒になってしまった。ほどなく長者の家は不幸が続いて絶えてしまったので行者の祟りといわれる。――これがタイプAです」 なるほど、なるほど。 「もうひとつ。昔、村に三人の座頭がやってきた。彼らは『おこぶさま』を見て、ありがたい神様であるから社《やしろ》を立てて祀るべきだ、と言う。しかし村人はこの年の凶作で年貢《ねんぐ》の払いにも困っており、そんな余裕がなかった。しかも村人のひとりが座頭たちが大金を持っているのを見てそれを伝える。村人は集まって座頭を殺してしまおうと相談をまとめ、座頭たちを長者の家に呼ぶ。食事に毒をまぜて座頭を殺し、お金を奪って死体を海に捨てた。それ以来嵐や高波が続いたので、村人は後悔して『おこぶさま』を祀《まつ》る社《やしろ》を建て座頭の塚を建てた。それで災害がやんで以来豊作に恵まれたという。――これがタイプBです」 「ひどい話……」 「まぁ、『異人殺し』というのはそういうものですから」 そう言って安原さんは身を乗り出した。 「これって単なる伝説とは思えないんですよ。『マレビト』が三人とか、『おこぶさま』とか共通する事項が多いでしょう? このふたつをまとめるとですね、こういうことになります。村に三人の『マレビト』がやってきて『おこぶさま』について何かを言ったと。しかし結局この『マレビト』は欲ボケした村の人間によって殺されてしまった。犯行には『長者』が関係していて、死んだ場所あるいは死体を捨てた場所は海です。この結果、村に悪いことが起こった、と。ふたつとも話の大筋は結局のところ同じなんですよ」 ぼーさんがパチクリする。 「すると、何か? 過去に実際、そういう事件があったんじゃねぇかという?」 「だと思うんです。実際にモデルになる事件があって、それが語り継《つ》がれていくうちにふたつのタイプに分裂してしまったんじゃないか、って」 「ふぅむ……」 「それでですね、実際に郷土史を調べてみると、出てきました。『御小仏様《おこぶつさま》のこと』という伝説が」 「御小仏さま? おこぶさまじゃなくて?」 「ええ。ですけどね、タイプAとよく似た話なんですよ。どこかこのへんの海岸に木の棒が打ち上げられて、これをお坊さんに見せたところ、ありがたい仏さまじゃ、って言われるんです。実際そのお坊さんがお経《きょう》を唱《とな》えると、木の棒がたちまち金の仏像に変わった。一夜明けるともとの木の棒に変わっていたけれど、以来それを『御小仏様』と呼んで祀ることにした、って話なんです」 「なるほど、たしかに似てるな。するとタイプAのほうが実話か」 「そう即断するのは危険だと思いますけどね。やっぱりもとになる実話があったんだと思うんですよ」 ぼーさんはうなずいて少し考えこんだ。 「三人の行者……もしくは座頭……」 「どうしました?」 「神社にあった塚だよ」 「ああ、『十八《とはち》塚』?」 「なんでそういう名前なのか、わかったか?」 「いえ。それについては手がかりなしです。また明日、調べに行きますが……」 「塚が三つあっただろう? 別名を『三六《さんろく》塚』。『三つの六塚』じゃねぇのか」 「――ああ、なるほど。ありえますね。でも『六塚』って?」 「六部塚」ってのは?」 「 安原さんが手を叩《たた》いて大きくうなずいた。 「あ、そうか! 『三つの六塚』、これが省略されて『三六塚』か。そうるすと、タイプBの最後の部分とぴったりあてはまるんだ。『社《やしろ》を建てて塚を建てた』っていう」 あたしはぼーさんに聞いてみる。 「ろくぶってなに?」 「全国六十六箇所の霊場をまわる行脚僧《あんぎゃそう》のことだ。写経した法華経《ほけきょう》ってえ経典を一部ずつ納めることから、『六十六部』とか略して『六部』とか言う。諸国をうろつく行脚僧のこともそう呼ぶようになった。つまりは『マレビト』だ」「へぇぇ」 あたしが声を上げるのと同時に、安原さんが猛然とコピーの束をひっくり返し始めた。「……どしたの?」 「『六部塚』ですよ。どっかに……これだ!」 安原さんは綴《と》じたコピーを引っ張り出す。 「このあたりにあったという『六部塚』についての伝承なんですけどね、『六部塚』がないんで見過ごしてました。ええと……」 コピーをめくって読み上げる。 「いつのことだかは書いてありませんが、昔このあたりりに飢饉《ききん》が起こって、困った村人が一揆《いっき》を起こすんですね。けれどこれは結局鎮圧《ちんあつ》されてしまうんです。その時に首謀者を差し出せば村人の命は助けてやる、って言われて、村人は首謀者を引き渡してしまうんです。首謀者は逃げ出すんですけど、『六部塚』まで逃げたところで追っ手に捕まって、その場で首を切られてしまう。それ以来、村に疫病《えきびょう》がはやったり変な地鳴りがしたりおかしなことが続いたので、これはその首謀者の祟《たた》りだってことになって、『六物塚』の隣《となり》にお墓を建てるんですけど少しもやまない。結局そこに寺を建て、手厚く墓を祀《まつ》るとようやく怪異が静まった、とあります」 ふいに、頭の中で声が響いた。 (――この……裏切り) 「『六部塚』の隣ぃ? それって、ここのことじゃないの」 綾子が言う。ぼーさんもうなずいて、 「社の左は海だし、道路を挟《はさ》んだ向かいに山があるが、向かいを隣たぁ言わねぇだろう」 「まだあります。――昔このあたりに一揆が起こったことがあって、その首謀者は『六部塚』の近くで首をはねられた。近くに墓を建てて手厚く葬《ほうむ》ったが、その墓に悪戯《いたずら》すると首に妙なできものができ、やがてそこから腐《くさ》って首が落ちるという」 綾子《あやこ》とジョンが声をそろえた。 「首に妙なできもの」 安原さんは猛烈《もうれつ》ない勢いでコピーの束をめくる。 「郷土史によると――。このあたりで一揆《いっき》が起こったのは一度だけですね。こういう記事があります。文久二年、つまり一八六二年にこのあたりで一揆が起こり、その首謀者五人が斬首された、と」 (首謀者……五人!?) (誰《だれ》がいた? あたしとナルとぼーさんと綾子とリンさんと……五人) 「ちょっと待ってよ。『六部塚』に関係する一揆と、文久二年の一揆は、たぶん同じものよね? その一揆の首謀者が五人でしょ。でもってそのお墓を神社の隣に建てて――?」 綾子が言って、ジョンとぼーさんが顔を見合わせた。 「庭の石!」 (――必ず末世《まつせ》まで呪《のろ》ってやる) あれは……このことだったんだ……。
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「さあーて、ほんじゃ行ってみるか」 「ぼーさん?」 「一揆の五人と三人の六部。どっちがこの事件の犯人だと思う?」 ぼーさんがあたしたちを見渡す。あたしたちは困惑《こんわく》して顔を見合わせた。 安原《やすはら》さんが、 「どちらかを限定するには、手がかりが少なすぎますよ」 そう言うと、ぼーさんは軽く息をつく。 「となりゃ、――ジョン。五人と三人と手分けしよーぜ」 「ハイ」 「リンさんや、あんたはどーする」 聞かれてリンさんは、 「私はいけません。今日の騒《さわ》ぎで式をひとつ飛ばされたので、ここを離れられません」 「飛ばされた?」 あたしが聞くと、 「ええ。消えた気配はないのでしばらくすれば戻ってくるでしょうが、それまではここにいないと。ナルが無防備になりますから。――ひとつもうしあげてよろしいですか?」 「なんだえ?」 「力を分散しないほうがいいと思います。猛烈な抵抗があると思いますよ」 ぼーさんは眉《まゆ》をあげる。自分の腕に巻かれた包帯を嫌《いや》そうに見た。 「……ったく。――どちらにしようかな、と」 ぼーさんは指をあげる。岬《みさき》のほうを示して、 「数の多いほうから片づけるか。一揆の五人からだ。除霊してみる」 そう言ったときだった。突然横殴りにされたような衝撃が家の中を駆け抜けたのは。
「なんだ!?」 声をあげるまもなく、廊下《ろうか》を駆け抜ける激しい足音が聞こえた。 「滝川《たきがわ》さん、温度が下がります」 リンさんの声に振り返ると、六機あるサーモグラフィーの映像が染めていくみたいに青くなっていく。数字のデータだけが映っている画面の、その数字がどんどん変化していく。見ている間に「ERROR《エラー》」の文字があちこちに増えて、あっという間に画面善意が「ERROR」の文字で埋《う》めつくされた。 「三号機、止まりました」 三号カメラの映像が途切れた。それを皮切りに次々にモニターの画面が消えていく。 「こいつは……」 ぼーさんの声に安原さんが、 「先手を打たれる、というやつですね」 「訪《たず》ねていこうと思ったのに、むこうから出向かれちまったよ」 「それって、もうけじゃないですか」 「美人が相手ならな」 「そうか、見苦しい女性が相手だと迷惑なだけか」 「そういうのにかぎってしつこいんだ」 「なるほど、経験者の言葉は重みがあるなぁ」 ……ぼーさんと安原さんが組むと、緊張感も何もねぇな。 廊下では激しい足音が続いている。それにかぶって、低い音が聞こえ始めた。ジョンのいう「恐竜の足音」。地を這《は》うように低い音がじょじょに強くなって、それが人の声だとわかった。低い低い、人のうたうような声。 「へぇ、お経《きょう》の声ですね」 「相手が六部なら、さもありなん、ってとこだな。三人のほうが犯人か」 「押しかけてきたのはお坊さんかぁ。あまり有り難くないですね」 「せめて、尼《あま》さんならなぁ」 ……いつまで不心得なマンザイをしてんだ。 「少年はここに残れ。リン、頼むぞ」 「はい」 「麻衣《まい》、綾子《あやこ》、真砂子《まさこ》。俺《おれ》たちがようすを見てくる。それまでここに残ってろ」 「あら、行くわよ」 綾子の強い声に、 「うかつに出るとカマイタチをくらって、とっても痛い」 「危険は承知のうえよ」 「その性格で傷モノになると、嫁《よめ》のもらい手がなくなるぜ。――と、いうわけでジョン。仲よく貧乏クジを引こうや」 「はいです」 ぼーさんとジョンがベースを飛び出していく。その後を追おうとした綾子をあたしは止める。 「待ってろって言われたでしょ」 「だからって、おとなしくしてられないじゃない」 「あたしらが行っても邪魔になるだけだよ。せめてようすを見よう?」 「あんたといっしょにしないでくれる? アタシはこれでもプロなんだからね」 怒鳴《どな》られてあたしはムッとしてしまった。 「そのわりには役にたったこと、ないじゃない」 「しかたないでしょ。こっちにだって都合《つごう》があるんだからっ。ここならできる」 ……ここなら、できる? 問い返そうとしたとき、いきなり明かりが消えた。 「なに?」 「送電線が切れるか、ブレーカーが落ちるかしたようですね」 リンさんの冷静な声がする。窓から入る月明かりのせいで、すぐに闇《やみ》に目が慣《な》れた。 「とにかく、アタシは行くわ」 「ちょっと、綾子!」 そのとき、突然真砂子が声をあげた。 「……あれ!」 真砂子が指さしたのは、窓だった。窓の上の軒《のき》から、細長いものがぶらさがっている。それは人間の腕に見えた。腕が一本だけ、ぶらさがっている。 見ているうちに、その手が宙をかいた。もがくようにうごめいて、もう一本の腕がぶらさがってくる。二本の腕で軒をつかむ。そうして軒の端から逆さまに人の顔がのぞいた。 男の顔だった。男は部屋の中をのぞきこむようにして、それからそろそろと身を乗り出す。逆さになったまま両手を窓に伸ばして、ガラスに手をついた。そのまま男は墜落《ついらく》もせずに軒を這《は》いだしてくる。まるでヤモリか何かのように、ガラスを這って全身を現した。 男は窓の中央まで這い出してくる。すぐに次の手が軒から現れた。次に現れたのは女だった。窓の横にも下にもガラスに吸いつく手が見える。 無意識のうちに、反対側の壁《かべ》までさがっていた。男と女と子供と……。あっという間に窓は屋根から逆さまに這いだしてきてガラスにへばりついた人間で埋《う》まってしまう。その全員が無表情に中をのぞきこんでいる。 とん、とひとりがガラスを叩《たた》いた。ほかのひとりがそれをマネする。やがて全員がガラスを叩き始める。その無表情で機械的な動作。 「安原さん、こちらへ」 真砂子が安原さんをうながした。壁ぎわに彼を座らせて、自分もその脇へ座って手を合わせる。目を閉じて口だけを動かして何かを唱《とな》え始めた。 ガラスを叩くリズムが揃《そろ》い始めた。じょじょにガラスが震えるようになる。ひとつ拳《こぶし》がそろうごとに、ガラスが目に見えて波うつ。……割れる。もうじき割れてしまう。 リンさんが指笛を吹いた。同時に綾子が九字《くじ》を切る。間髪いれず、ガラスが内側に向かって砕《くだ》けちった。窓の外にこぼれ落ちていく人影と、中に飛びこんでくる人影と。 「麻衣っ、あれは死霊だから遠慮《えんりょ》はいらないからね!」 「うんっ」 答えて両手を構えて、――そしてあたしは悲鳴をあげた。 ガラスの割れた窓枠から、女が中に這いこんでこようとしていた。傷だらけの身体《からだ》と、半分が砕けて陥没した顔と。 それでも奈央《なお》さんにちがいなかった。
――どうして。どうして奈央さんが……。 「麻衣っ! ぼさっとしてんじゃないのっ!」 うなずいて手を構えても、気が殺《そ》がれる。だって、あれ、奈央さんだよ……? 小さな女の子が隣の部屋のほうへ這い寄った。 「臨兵闘者皆陳烈在前行《りんぴょうとうしゃかいぢんれつざいぜんぎょう》」 いっぷう変わった九字《くじ》はリンさんだった。弾《はじ》かれたように子供が窓の外に転《ころ》がり落ちる。無表情な顔が一瞬だけ苦痛をあらわにして、それであたしはますます身動きできなくなる。 窓から次々に入ってくる連中狙《ねら》いはあたしたちではなく、隣の部屋だった。そこにいるナルを解放したいのか、それともナルに憑依《ひょうい》した何者かを解放したいのか……。窓の外に弾き飛ばしてもまた這い上がってくる。その執拗《しつよう》で飽《あ》くことのない不毛さ。 勇気を総動員して手をあげたとき、手首に鋭利《えいり》な痛みが走った。驚いて見ると、細い傷ができている。あとからにじむように血の色が浮かんだ。 綾子が悲鳴をあげた。白いシャツの肩口に赤い色が広がる。リンさんも細かな傷だらけになっている。 こんなの……あたしたちで対抗できるわけがない……。 ふっと顔の脇を何かがかすめた。鈍《にぶ》い音がして窓際の床に突きたつ。そばにいた死人がさと場所を空《あ》けた。 「オンキリキリバザラバジリホラマンダマンダウンハッタ!」 あたしは部屋の中に飛び込んできた人影と、床に立った法具を一瞬の間だけ見比べる。「オンサラサラバザラハラキャラウンハッタ、オンアミリトドハンバウンハッタ」 どっと死人の群れが窓の外に転がり落ちた。 「オンビソホラダラキシャバザラハンジャラウンハッタ、オンアサンマギニウンハッタ、オンシャウギャレイマカサンマエンソワカ!」 独鈷杵《とっこしょ》に駆け寄って、あらためてそれをつき立てなおすぼーさんも傷だらけだった。 「これで入れるもんなら入ってみやがれ、ってんだ」 窓の下から男が顔を出す。部屋に入ろうと手を伸ばして、何かに弾《はじ》かれたように窓の下に消える。次々に窓に近づいてるけれど、そこに何か強い痛みをもたらすものがあるようで、中に入ってくることができない。 あたしはペタンと座りこんだ。緊張がとけて、どっと冷や汗が出る。 「ブラウンさんは」 リンさんに聞かれてぼーさんは、 「若旦那《わかだんな》たちを先導してる。じきに来るぜ」 「あっちに何か出たの?」 綾子が聞くと、 「出たなんてもんかよ。土左衛門《どざえもん》のデモ隊に囲まれたぜ。ゾンビ映画かっつーの」 ぼーさんが苦い表情で言ったとき、廊下《ろうか》のほうから悲鳴が聞こえた。 廊下に飛び出すと、悲鳴は母屋《おもや》の方角から聞こえた。駆け出すぼーさんの後について綾子も駆け出す。あたしは迷って部屋の中と真っ暗な廊下を見比べた。真砂子がうなずく。 「いってらっしゃいませ」 うなずきかえして、あたしも綾子のあとを追った。
悲鳴がしているのは玄関を通り過ぎて少し行ったところの廊下だった。廊下に彰文《あきふみ》さんたちがうずくまっているのが見える。克己《かつき》くんか和歌子《わかこ》ちゃんか、誰《だれ》か子供の泣き声がしていた。そうしてそのまわりにまとわりつくように飛ぶ何かほのかに白いもの。そばに立ったジョンが聖水をまいてそれを追いはらっていた。 ジョンが叫ぶ。 「これに触《さわ》らんといてください! えらいめにあいます」 ……えらいめ? 見返したところに白いものが角度を変えて飛んできた。 「ウンハッタ」 ぼーさんの声に溶《と》けるように消える。 「ジョン! こっちへ走れ! ベースまで行けば安全だから!」 うなずいてジョンがまわりの人に声をかける。克己くんを抱いた彰文さんが立ち上がったのを最初に、みんなが立ち上がってこちらへ向かって駆け出してくる。 触るな、なんて言ったわりにジョンはそれをよけるようすがない。ぶつかるのをかまわずによろけながらこちらへ向かって走ってくる。それを迎《むか》えようと、ついマネをして深く考えずに走りだしたあたしのお腹に、白いものがあたった。 感じたのは衝撃、だった。何か堅《かた》いものでお腹《なか》を刺し貫かれた衝撃。あたしはその場に膝《ひざ》をつく。激痛がお腹から頭へ足の先へ駆け抜けて息をすることもできない。悲鳴をあげることもできなかった。とっさにかばってお腹にまわした手にドッと温《あたた》かいものが流れ落ちてくる。血の臭いが鼻をついた。 ……刺されたんだ……あたし……。 痛みに麻痺《まひ》した頭で呆然《ぼうぜん》とそう思った。おそるおそる確かめるとそこにはなんの傷跡もない。Tシャツの表面にはシミひとつなかった。 「麻衣っ! だいじょうぶ!?」 「なに……これ」 最初の衝撃が去るといつのまにか痛みもない。きょとんとしているあたしの肩口にまた白いものが飛んできた。今度はよけようとしたけれど、間に合わなかった。声にならない悲鳴が出る。焼けつくようないたみ。ばっと血糊《ちのり》がしぶいて顔にあたる感触。二の腕が付け根からねじれて外《はず》れる……そんな感じ。 ……純然たる痛み。ただそれだけ。もちろん傷跡なんかどこにもない。 「麻衣っ!?」 「その白いものに触っちゃだめ!」 あたしに気をとられたのか、ぼーさんが白いのに襲われてがくっとよろけた。 「……てて」 「だいじょうぶ」 「ぜんぜんだいじょうぶじゃねぇ。……くそぉ」 ぼーさんは指を組む。 「キャタハンジャサハダヤソワカ!」 どっと赤い色が頭の中にあふれていった。紅い……透明な光。眼で見たのじゃなく、感覚が捕らえた光だ。光が消えたあとにはあの白いものはひとつも残っていなかった。 「今のうちだ……行け。チビさんたちを守ってやれ」 「うんっ」 あたしは走り、和歌子ちゃんの手を引いている光可《てるか》さんの側に駆け寄る。 「だいじょうぶですか」 「ええ……」 強《こわ》ばった顔で答えた光可さんも細かな傷だらけだ。和歌子ちゃんは放心したような顔をしていた。和歌子ちゃんを抱き上げてあたしは走る。暗い廊下を無我夢中でベースに向かって書け戻った。
7
ベースに戻って中に入るとき、産毛《うぶげ》をなでるような奇妙な感触がした。特に不快な感じじゃない。中に入るなり、和歌子《わかこ》ちゃんを降ろしてあたしは座りこんだ。息がきれて、もう身動きできない。手も足もガクガク震えていた。 すぐにぼーさんもかけこんできて、部屋に入ったところでばったり畳の上に転《ころ》がってしまう。 「だい……じょうぶ……?」 「死にそー」 声だけはノンキそうだったけど、ひどく苦しそうに息をしている。 「だいじょうぶですの?」 真砂子《まさこ》が小走りに寄ってきて、助け起こそうとする。ぼーさんは手の先だけを振ってそれを断《ことわ》った。 「ここで眠らせてもらえたら……一億円払ってもいい」 何を言ってるんだか。 あたしは戸口に眼をやる。暗い入り口の格子戸《こうしど》も襖《ふすま》も開いている。廊下《ろうか》から白いものがまた飛んできていたけど。入り口のところで弾《はじ》き返されているようだった。あたしは震える足をひきずって、襖を閉める。見ているのは心臓に悪い。 「少しお休みになったら。もうだいじょうぶのようですわよ」 「俺《おれ》がお休みになったら結界も解《と》けるでしょーが」 ……あ、そうなのか。 いつのまにか縁側の窓にはぴったりカーテンが引かれて、そこに座卓が立てかけてある。簡易バリケードという感じだ。ろうそくが何本か灯《とも》してある。あんなか細い光をこれほど暖《あたた》かいと思ったこともない。 「ねぇ……これからどうなるの?」 「朝まで待つことだな。夜明けになればおさまるだろ」 あたしは思わず腕時計を見た。もう一時が近い。夏の夜明けは早いから、なんとかねばり通せるだろう。 「ナルは? だいじょうぶなの?」 あたしが聞くと、リンさんはうなずく。 「だいじょうぶです。起こされずにすみました」 綾子《あやこ》と真砂子と安原《やすはら》さんの三人はみんなの傷の手当てをしていた。 「谷山《たにやま》さんも。ケガは?」 真砂子に言われてあたしは切れた傷を見る。どれももう血が固まっている。そんなに深い傷じゃなかったようだ。 「あたしはたいしたことない。だいじょうぶ」 「じゃあ、消毒だけ」 ……しみるからやだなぁ。そう思ったけど、あたしはおとなしく手当てをしてもらった。安原さんがぼーさんの脇に膝《ひざ》をつく。 「滝川《たきがわ》さん、ケガは?」 「いっぱい」 「ちょっと動かないでください」 ぼーさんのTシャツは血だらけになっている。安原さんがシャツを引き上げようとすると、 「えっち」 「頭からオキシフル、かけてあげましょうか?」 「ヘビメタになるからいや」 安原さんは笑って有無《うむ》を言わさずシャツをめくりあげる。背中は大小の傷だらけだった。特に深いのが肩甲骨《けんこうこつ》の下に見える。これじゃ血だらけになるはずだ。安原さんは一瞬だけ眉《まゆ》をひそめたけど、すぐになんでもなさそうな声を出す。 「しみますよ」 そう言って脱脂綿《だっしめん》を当てるとぼーさんが情けない声をあげた。 「いたーいたいたい」 「男の子でしょ。我慢するっ」 「俺、今日から女の子になることにする」 「気持ち悪いらか止《や》めときなさい」 なんのかんのと言いながら消毒して、シーツを裂《さ》いて包帯して。しばらくしたころ、リンさんがふとしたように顔を上げた。 「どうしたの?」 「戻ってきました」 「え?」 「式です。これで五つそろいました。滝川さん、眠ってもだいじょうぶですよ」 真砂子が眉をひそめる。 「それが式ですの?」 「ですが。気配をご覧になれますか」 真砂子はうなずく。 「わかりましたわ。この家にいた霊がとても空虚だったわけ」 なに? 「葉月《はづき》ちゃんやナルに憑《つ》いていたのも、家をさまよっていたものも、どの霊もあんなに空虚な感じがしたのは、あれが何者かの使役霊《しえきれい》だからですわ」 握り合わせた真砂子の手は震えている。 「あの霊は自分の意志で動いてません。誰《だれ》かが彼らを利用して式として使役しているのです。彼らの恨《うら》みを……成仏《じょうぶつ》できないほど深い苦しみを利用して」 ……洞窟《どうくつ》をくぐる奈央《なお》さん。再生の儀式だとしたら、なんのための再生? どうして奈央さんが襲撃に参加していたの? ……あんな、……かわいそうな姿のままで。 まだ終わってない。……まだ何ひとつ終わってない。 あたしたちはこの怪異の根元を断《た》ち、捕らわれた霊を解放しなければならないんだ。
六章 寄り来る神
1
それから夜明けまで、部屋の外では低い読経《どきょう》の声と、何かを引っかくような音、叩《たた》くような音が続いていた。それがようやく静まって、カーテンの間から外を見ると、空がうっすらと明るくなっていた。 「さぁて、ちょっくらもうひと働きするか」 ぼーさんの声がして、あたしは驚く。 「まだ寝てたら?」 結局ぼーさんは結界を解《と》かず、結界としてほとんど寝なかったのを知ってる。やっとさっきうとうとしてたところだったのに。 「そういうわけにもいかんだろ。急がにゃな」 「どうして? 昼になってからでもいいでしょ?」 「そうも言ってられん。昼だから安全とはかぎらんし、早くカタをつけてしまわねぇと何が起こるかわからんだろ。今夜もう一度ゆうべみたいな襲撃を受けたら、こっちも持ちそうにないしな」 ……うん。 「リンさんや。お前さんは残ってくれ。気力を殺《そ》ぐんで結界を解《と》いていく」「わかりました」 「ほんじゃま、行くか」 「でも、行くってどこに?」 あたしが聞くと、ぼーさんは笑う。 「『三六《さんろく》塚』に決まってるだろーが。読経の声が聞こえてただろ?」 ……あ。 「犯人は三人の六部だろう」 ぼーさんの声にジョンがうなずく。 「そして三人が、このあたりに吹き寄せられた霊を使役霊《しえきれい》として使《つこ》うていたわけですね」 「吹き寄せられた霊だけじゃない。おそらく一揆《いっき》で首を切られた五人も、伝説にいう姫とその恋人とやらも、およそこのあたりで死んだものの霊は、全部が式として使役されてていると考えていい」 「えらい数です」 ぼーさんは、うんざりしたように肩をすくめる。 「まあな」 「あんたは寝てれば」 いきなり強気なことを言ったのは綾子《あやこ》だった。 「そんでジョンひとりにまかせろってか? ジョンだって疲れてんだぞ」 「アタシがやる」 ぼーさんは溜《た》め息《いき》をついた。 「言いたかねぇけど、お前じゃ無理だ」 「あら、できるわよ」 「そういうことはもっと役に立ってから言え」 そら、そーだ。でも、ゆうべ何か言ってたな。都合《つごう》があるとかなんとか……。 「今までは事情があったのっ。今度はできる。あたしに任せて、あんたもジョンも寝てなさい。フラフラしてんだから」 「はいそうですか、と寝れると思うか?」 さらに何か言いかけたぼーさんをジョンが制した。 「お言葉に甘えて松崎《まつざき》さんに任《まか》せたらどうですやろ」 「ジョン、あのなぁ」 ジョンは笑って綾子を見る。 「けど、何が起こるかわかりませんし、用心のためについて行ってもよろしいですやろか。しんどいんで見るだけにさせてもらいますけど」 「信用できない、ってわけ?」 「信用することと、無責任に放り出すことはちがうんやないかと思いますです」 綾子はちょっと顔をしかめてから息をつく。 「親切で言ってあげてるのに……」 「すんません」 「謝《あやま》ってもらうようなことじゃないわよ。あー、バカバカし」 ……なんだ? いきなりのこの自信は??
外には朝靄《あさもや》が流れていた。いちおう用心しながら出たのだけど、特に襲撃してくる気配はない。店の建物はひどいありさまだった。廊下《ろうか》の壁《かべ》はほとんどはげ落ちて、柱にも床にも天井にも斧《おの》でつけたような傷が残っている。 あたしたちはそれでも用心しながら、神社に向かった。神社の狭い境内《けいだい》にも霧が流れてる。遠くで鳥が鳴いているのが平和すぎて不思議《ふしぎ》な気がした。 『三六塚』も霧の中に沈んでいる。綾子が持っているのはお酒を一本と、鈴をつけた榊《さかき》の枝だけ。歩くたびにちりちりと棲んだ音がする。 「綾子、本当にできるの?」 あたしが聞くと綾子は自信ありげに笑う。 「任せときなさいって。こんないい場所はないわよ」 「場所?」 「……そ」 綾子は境内を見渡した。 「小さいけれどちゃんと信仰が残ってる。樹《き》も生きてるし」 「樹ぃ?」 綾子はうなずく。お酒を境内の樹の根元にまいていく。 「アタシの実家の前に大きな楠《くすのき》の樹があってね」 ……ほう。 「注連縄《しめなわ》がかけてあるような、りっぱなやつよ。それが、小さい頃からいろんなことを教えてくれた」 言って綾子はちょっと顔をしかめる。 「病院に来る患者さんの死期まで教えてくれるんで、小さい頃は親に言うたびにしかられてたけどね」 「……へぇぇ」 「本当を言うと、アタシにはたいした力はないんだと思う。でもね、アタシは巫女《みこ》だから」 綾子は塚の前に榊を立てる。ちりり、と澄んだ音がした。 「始めます」 手を合わせる。 「謹《つつし》んで勧請《かんじょう》たてまつる……」 それはいつも綾子がやってる祈祷《きとう》には違《ちが》いないのに、いつもよりずっと簡略化されているのに、ぜんぜん違う重厚なものに見えた。たぶん綾子自身の雰囲気《ふんいき》が違うんだと思う。祝詞《のりと》を言うごとにどんどんあたりの空気が澄んでいく気がする。 綾子はなめらかに儀式を進めていって、合掌《がっしょう》し、 「なむらいりん、えこうきこうしゅごしたまえ」 唱《とな》えてから指を組んだ。早九字《はやくじ》でない。本式の九字の切り方だ。「臨《りん》……」 応えるように、どこかでちりん、と澄んだ音がした。あたしは周囲を見渡す。靄《もや》の濃い境内にはなんの人影もない。 「兵《ぴょう》……」 ちりん、とまた音がした。すぐ間近で何かが揺れた。綾子がひとつずつ九字を切っていくたびに澄んだ音が応える。 「あれ……」 ジョンが指さしたほうを見ると、大きな樹の幹から人影がすべり出てくるところだった。あたしはぽかんとそれを見守る。あちこちの樹から人影がすべり出てくる。薄い影だったけど、それが人であることはわかる。長いヒゲをたくわえたおじいさんが多かった。 しずしずと集まったその人たちは、静かに榊《さかき》へ向かってゆく。榊の側にたどりつくと、かき消すように見えなくなる。そのたびに榊の鈴が揺れて音をたてた。 最後のひとりが消えるのを見守ってから、綾子はていねいに刀印を結ぶ。五横四横に空を切り始める。 それを奇妙に感動しながら見ていたあたしは、遠くにまだ人影があるのに気がついた。「綾……」 声をかけようとすると、ぼーさんに止められる。 「でも……」 「しっ……」 だってまだ、いるのに。そう思って人影に眼をこらすと、それが樹のおじいさんなんかではないことがわかった。朝靄《あさもや》をかき分けて静かに歩み寄ってくる。その姿が揺れるたびに、ひたひたと濡《ぬ》れた音がした。気がつくとあたしたちの周囲全部でその音が続いている。 近づいてくるのが誰だか、あたしにはすぐにわかった。折れて曲がった首……。和泰《かずやす》さんに違いない。 綾子は深く頭を下げて榊《さかき》を手に取った。 「さあ、あなたたちも眠れるときがきました」 突然、物陰から人の姿が突進してきた。ぷんと潮《しお》の臭いが鼻をつく。とっさにぼーさんが印を構えるより速く、綾子が榊を振った。りん、と鈴が鳴って、突進してきた人影が靄の中に消える。 そこからあたしたちは、ただあんぐりと口を開けて見ているしかなかった。吸い寄せられるように死霊が綾子に近づいていって――あたしたちのことなんか眼中にないみいだった――榊が鳴るだけで消えてしまう。 和泰さんに向かっても榊を振る。消える一瞬、和泰さんの姿がもとに戻って、そうして靄に溶《と》けていった。 「確かに……俺《おれ》たちは必要ない……」 呆然《ぼうぜん》とぼーさんが言った。あたしはうなずく。見守るうちに気がついた。死霊は綾子を襲おうとして集まってきているんじゃない。彼らは……綾子に救われるために集まってきているんだ……。 危険なことなんてなにひとつなかった。最後に塚から黒い影がゆらめき出たけれど、それも榊が鳴るだけでうなだれるようにして消えていった。 近づいてくる人影が絶《た》えてから、綾子は最後の仕上げとばかりに塚に向かって榊を振る。りん、と音がすると同時に三つの塚が音をたてて割れた。 綾子はその前に榊をたてた。音をたてて手を合わすと鈴が勝手にほどけて落ちる。――それでまったく全部が終わりだった。
2
「あきれた……どうしてあんなすごい力があるのにに隠《かく》してたわけ?」 その帰り道、あたしが聞くと、 「別に隠してたわけじゃないわよ。だって今までは生きてる樹がなかったんだもん。いつも条件が悪いって言ってたでしょ」 「だって負けおしみと思うじゃない」 「事情を説明したって、負けおしみだと思ったでしょ?」 そら、そーだけども。 「生きてる樹があるきれいな場所でないとだめなのよ。べつに神社でなくてもいいんだけどね。それでも、都会の神社なんてカスみたいなもんだし、樹にいたってはどんな古い樹でもミイラみたいなもんだもんね。あれを見ると世も末だと思うわよぉ」 ぼーさんとジョンはまだ狐《きつね》につままれたような顔をしている。……その気持ちはわかるとも。 「今回はたまたま塚が境内《けいだい》にあったからいいけど、そうじゃなかったらどうするわけ?」 「近所にあればそこまで呼べる。一揆《いっき》で死んだ五人もいたでしょ?」 「いたの?」 「栄次郎《えいじろう》さんを除霊するとき、神社まで連れて行けばよかったのに」 「あれは人間にやっても意味がないの。単なる霊だったら浄霊《じょうれい》できない霊はないんだけどねぇ。それに、一度樹におすがりしたら、半年は休ませてあげないと。あの段階で樹に助けてもらったら、いざというときに役にたたないじゃない。ジョンがくれば落とせるのはわかってたんだし」 ……ふぅん。なんだかよーわからんけど、かっこいいなぁ。もう完全に見る眼が変わっちゃいますぜ。これからは綾子《あやこ》さまと呼ぼう。うんうん。 「じゃ、これで片がついたんだ」 「まだよ」 綾子さまにあっさり言われて、あたしも、ぼーさんもジョンも思わず立ち止まってしまった。 「なにぃ……?」 前言撤回。綾子だ、こいつなんか。 「霊なら、って言ったでしょ。霊じゃないものがいるわよ、ここは」 「なんだって?」 ぼーさんが顔をしかめる。 「浄霊をしてるとき、どうしても近づいてこない力があったのよ。霊なら浄化を求めて来るはずだから、あれは霊じゃない。なんだかは知らないけど、もっと大きな力だわね。それが連中を式として使役してたんだと思うわよ」 「六部の霊じゃなくて、か?」 「違うわね。六部の三人も単なる式だと思う。真砂子《まさこ》だって『霊場』だって言ってたじゃない。霊がうようよ集まるなんて、特別な力がそこにあるからに決まってるでしょ? 奈央《なお》さんの霊だって、『化け物』って言ってたし」 ……確かに。 「すると……その力ってえのはひとつしかない」 ぼーさんが言うと、ジョンもうなずく。 「さいですね」 えー? 何、それ? 「『おこぶさま』だよ。ほかにねぇだろうが」 「だって、『おこぶさま』って……」 「海から流れ着いた流木。形が仏像に似ているから祠《ほこら》を建ててこれを祀《まつ》る。――『えびす』だ。堂々たる『マレビト』だよ」 言ってぼーさんは苦《にが》い顔をする。 「綾子の忠告どおり寝てゃよかった。俺《おれ》たちは神サンを相手にしなきゃならんらしいぜ」
帰り道、念のために五人の塚のようすを見に行った。五つの塚も三六《さんろく》塚と同じように何かで切ったようにきれいに割れてしまっている。雄瘤《おこぶ》と雌瘤《めこぶ》の注連縄《しめなわ》も切れて、波間に漂《ただよ》っていた。 それからぞろぞろとベースに戻って、そうして最初に声をあげたのはぼーさんだった。「……よう。久しぶりだな」 ぐったりと眠っている彰文《あきふみ》さんたちの中で、安原《やすはら》さんがコピーの束《たば》と格闘している。ビデオを再生しているリンさんと、さらにそれを監督している――ナル。 ぼーさんのほうを見返した漆黒《しっこく》の眼を見てあたしは妙に感動してしまった。 ナルに憑依《ひょうい》していたのは使役《しえき》霊のどれかのはずで、その使役霊はすべて浄化したわけだから、考えてみればナルが起きているのはなんの不思議《ふしぎ》もないことなのだけど。 「ああ、渋谷《しぶや》さん、無事でよろしおました」 ジョンが笑う。 ぼーさんとジョンが手を振るのを、そっけなく見てナルは画面に顔を戻す。 ……感動の再会、――失敗。おやぁ? ひょっとして何も覚えてないのかな? 可能性としてはありうるけど、リンさんがなんの説明もしなかったとは思えないんだけど。おまけに綾子の首を絞《し》めた件については、証拠のビデオまであるもんな。 「感謝してほしいわねぇ。あたしが過去の恨《うら》みも忘れて助けてあげたんですからね」 思いっきしイヤミな綾子の口調に、ナルは視線さえ向けず、 「それはどうも」 まったく気のない返事をする。安原さんが気まずそうに目配せをした。あたしたちがそっと側によると、小声で、 「機嫌《きげん》が最低」 そうつぶやく。 ……なんちゅー勝手な奴《やつ》だ。これだからナルシストは困るのよ。 ゴホンとおぼーさんは咳払《せきばら》いをして、 「えーと、なんだ、どうも祟《たた》りの元凶は六部の霊じゃないみたいなんだな」 ぼーさんが言うと、ナルはそっけない声で、 「『おこぶさま』だろう」 あたしたちはポカンとナルを見る。 「……どーしてわかるのぉ?」 「お前たちとは頭のデキが違う」 ……むっ。なんだよ、その言い方はよー。自分はずっと寝てたくせにさー。 モンクのひとつも言ってやろうかと思ったときに、安原さんが声をあげた。 「ありました!」 ナルは安原さんにチラリと視線を向ける。 「内容は」 「えーと、『氏神祟りをなすこと』とあって、とある神社のご神体である『御小法師様《おこぼしさま》』が祀《まつ》りを怠《おこた》ると祟るという内容です。『御小法師様』は『えびす』神だとありますから、『おこぶさま』のことでしょうね。『御小法師様』を祀っていらい、暴風雨や高波が絶えた、とあります。それでたいそう崇拝されたが、村人や祝《いわい》がこれを祀ることを怠ると、たちまち災いをなす。特に祝一家はたたりによって多くの死人を出した、と」 「松坂《まつざき》さん、祝というのは何ですか?」 「いわい……? ああ、ハフリのことね。神主みたいなものだけど」 ナルはうなずく。ぼーさんがおそるおそる、という感じで、 「どーいう……?」 ナルは冷酷無比な眼であたしたちを見渡す。 「神社があって、その裏手に洞窟《どうくつ》がある。そこは死体の流れ着く場所だ。小さな祠《ほこら》があってそこには『おこぶさま』という『えびす』が祀られている。洞窟から神社の方角へは岸壁をけずった道があり、古い石段がある。――なんのためにそんなたいへんな工事をするんだ。むろん意味があったからに決まっている。ただ面白《おもしろ》くもない洞窟のためにそんなたいへんな工事をしたりするものか。もちろん、あの神社のご神体があるからだ。そのためにやむを得ずやった」 ……あ。 「しかもチャチな神ならそこまでしない。あの祠に祀られている者は、それをさせるほど大きな力を持った神だ」 「なるほど。それで今の伝説か?」 「そう。このあたりには、大きな力を持った神がいたという伝説があるはずだと思ったんだ。それで資料を見直してもらった。それがいま安原さんが読みあげたものだ」 言ってナルは、あたしたちを見渡す。 「『おこぶさま』は『えびす』神、しかも海の災害をよく鎮めた。しかし祀《まつ》りを怠《おこた》ると祟《たた》る凶悪な神でもあったわけだ。その『おこぶさま』を祀っていると思われる神社は今では祠《ほこら》と切り離されている。この家が切り離してしまっているんだ。おそらく、もともとここは神社の一部だった。境内が切り売りされてしまったと考えるのがスジだろう」 ……たしかに。 「神社にハフリがいたなら、きっと神社のそばに住んでいただろう。ひょっとしたらそれは、ここじゃないのか」 「ありうる」 「ハフリが住んでいた場所が、一揆《いっき》の首謀者五人の墓を建てる際に分割された。――それが妥当《だとう》な線だろう。さらにそこが民家として転売されてしまったんだ」 ――つまりここは昔、ハフリが住んでいた場所……? 「『おこぶさま』はここに住む者を自分を祀るべき祭祀だと信じている。祀るべき者が祀らないから祟る。今の伝承はその証拠だ。だからたたりの猛威をふるっていながら、除霊されたわけでもないのに一家は皆殺しになっていない。自分を祀らせるために、祭祀が必要だからあえて残した」 すごい、というよりあっけない。ナルにかかるとこんなに事態は明確になってしまうのか……。 ナルはあたしたちを見渡す。 「『おこぶさま』の除霊を行う」 口をはさんだのはぼーさんだった。 「ちょっと待て。除霊をする必要があるのか?」 「当然だろう」 「しかし、祀ってやればいいわけだろう?」 「祀りを怠ればまた同じことを繰り返す」 「それでも当面はだいじょうぶなんじゃねぇか。相手は『えびす』とはいえ神の一種だぞ。化け物よりもタチが悪い。化け物を狩る方法はないと言ったのはお前だろうが」 ナルは笑う。どこまでも不穏な壮絶な笑み。 「あいつを見過ごせって? 冗談じゃない」 「おい」 「これだけ愉快《ゆかい》な経験をさせてもらったんだ。きちんと返礼をするのが礼儀というものだろう」 ……怒ってる。これは怒髪《どはつ》天を衝《つ》く、というやつではなかろうか。 「それとも、リタイアしたいか?」 ナルの視線を受けて綾子があわてて手を振った。 「ア……アタシはダメだからね。あそこには樹はないんだから」 ナルの冷たい視線がジョンに向く。 「ボクも……憑依霊《ひょういれい》やったらともかく、『えびす』なんて何がなにやら」 「リン?」 リンさんは首を横に振る。 「私には太刀打《たちう》ちできるとは思えません。――ナル、やめたほうがいい。あれは我々の手には負えません」 ナルはキッパリ、リンさんを無視した。 「ぼーさん?」 ぼーさんはおおいに苦々《にがにが》しい顔だ。 「やるだけはやってみるが。ナルちゃんよぉ、ここはリンの言うとおりに……」 「力量のない者は必要ない」 そういわれて引き下がるようなかわいい性格の人間が、この中にいるもんか(ジョンはのぞく。ただしジョンはその親切な性格ゆえに引き下がれない)。 けっきょくうなずいてしまうあたしたちだった。
3
あたしたちは打ち合わせをしながら干潮《かんちょう》を待った。 「あの……無理をなさらなくても、祟《たた》りの原因がわかったのなら、あとはうちで手厚く祀《まつ》ればすむことですから」 言ってくれたのは彰文《あきふみ》さんだった。ぼーさんは苦い顔で、 「ナル坊がぶっちぎれちまってる。とにかく行くだけ行ってみなきゃ、おさまらねぇ」 「でも……」 「まぁ、俺《おれ》としても奈央《なお》さんや和泰《かずやす》さんのこともある。一矢《いっし》を報《むく》いることができるんなら、やってやりたいって心境だからな」 彰文さんは深く頭を下げた。 そのあとでぼーさんが、 「少年と真砂子《まさこ》、綾子《あやこ》、麻衣《まい》は残れ。ジョンはどうする」 ナルのいないところでそう言ってきた。ジョンは、 「ボクでもお役にたつとも思えませんけど、とにかく行ってみます」 「あたしも、行く」 あたしが言うと、ぼーさんは軽くにらむ。 「邪魔《じゃま》だ、来るな。守ってやれるとは思えねぇ」 ……そうすっぱり言われると、反論のしようが……。 うつむいたとき、口を挟《はさ》んだのは安原《やすはら》さんだった。 「自分の身ぐらい自分で守りますよね、谷山《たにやま》さん」 「……へ?」 「ちなみに、僕《ぼく》も行きます」 ぼーさんは呆《あき》れたように口を開く。 「少年っ!」 「止めてもムダですよ。もう決めましたから。ご心配なく、自分の身ぐらい自分で守るし、ヤバいと思ったら滝川《たきがわ》さんより先に逃げてみせます」 ぼーさんはさんざん説得をしたけど、安原さんにうんと言わせることはできなかった。「俺《おれ》は知らんからな」 捨てゼリフを残して去っていくぼーさんの衣に手を振って、安原さんはあたしたちを見る。 「みなさんも、できるだけ来てください」 あたしも綾子も、真砂子もアングリヤしてしまった。 「あのねぇボウヤ、これは……」 安原さんは真剣な顔をする。 「遊びじゃないのはわかってます。救助要員が必要なんです」 「救助……要員?」 あたしが聞くと安原さんはうなずく。 「ゆうべ傷を見たでしょう?」 「……あ」 「滝川さんの背中のアレ、まだ出血してると思いますよ。そうとう深かったですから。たぶん縫《ぬ》わなきゃダメじゃないかな。包帯で押さえたくらいでなんとかなる傷じゃないですよ。ブラウンさんもね、腕に深い傷があります。滝川さんほどじゃないけど、あれも縫わなきゃふさがらないと思うな」 あたしは遠くで話を始めたジョンとぼーさんを見る。 ぼーさんは墨染めの衣、ジョンも神父の制服姿。ともに黒で多少出血してもよくわからない。 「呼べば救急車が横づけできる神社ならともかく、あんな洞窟《どうくつ》で倒れたらどうやって岸まで戻るんです。渋谷《しぶや》さんとリンさんとで連れて戻れるはずがないでしょう。僕たちが行かないのだったら、あのふたりにも行かせない。……そういうことにしませんか」 綾子は空を仰《あお》いだ。 「……まったく、男どもときたら……。ナルもぼーさんも、ジョンも、本っ当にしかたないんだからっ」 「ですよね」 のほほんとうなずく安原さんに、 「あんたもよっ。九字《くじ》のひとつも切れないくせにっ」 「あはははー」 真砂子が溜《た》め息《いき》をついた。 「滝川さんもブラウンさんも、ナルが行く以上行くと言うでしょうね。ナルが留《とど》まるとは思えませんし……。起きてきたときの顔をお見せしたかったですわ」 「そんなにひどかった……?」 プライド、こなごなだろーしなー。 『松崎《まつざき》さんの気持ちがよくわかりましたわ。あたくし、まだ憑依《ひょうい》されているのかと思いましたもの」 ……そ、それはー。 「こうなったらしかたありませんわね。……麻衣」 ぎょっ「麻衣」? 「服を貸していただけます? こんなかっこうじゃ、いざというとき話になりませんわ」「……お安いご用……」 あー、びっくりした……。 着替えを取りに真砂子と戻りながら、あたしはなんとなくニマニマしてた。真砂子がそれを見とがめる。 「あたくしが洋服を着るのがそんなに変ですかしら」 「いやー、それもあるけどー」 「あるけど? いったいなんですの」 「んー」 「麻衣っ」 あたしはニンマリする。 「ほらー、呼びすてにしたー」 真砂子がはっと口元を押さえる。あたしをすねたように見て、 「……ご不満? あなただって呼びすてにしてますでしょ」 「うん。だからもっと呼んで(ハート)」 真砂子が嫌《いや》そうな顔をした。 「あたし、呼びすてにされるの、好きなの。それだけ親しいんだって気がするでしょ?」「……そうですかしら」 「真砂子はずーっとあたしを名字《みょうじ》で呼んでたでしょ? それを最近、時々呼びすてにするようになったじゃない? その気持ちの変化がうれしい」 真砂子はあたしを横目で見る 「なれ合ったわけじゃございませんわよ」 「はいはい」 「同病相憐《あいあわ》れむ、というやつですわ」 同病? 真砂子は溜《た》め息《いき》を落とした。 「おたがい、たいへんな人を選びましたわね」 「……そ、それは」 えーと、もしもし、そのですね……。 真砂子は狼狽《ろうばい》するあたしにはかまわず、 「あたくし、起きてきたナルを見て、どうしてこの人なんだろうって、自分がかわいそうになりましたの。どう考えても中身から言えば滝川さんや安原さんや、ブラウンさんのほうが上ですわよ」 「……言えてる」 あたしたちは仲よく溜め息をつく。 「ずっと話も簡単ですのに。……しかたない、と言うべきなんですかしら」 「ナントカは異なもの、って言うしー」 「本当にそうですわね」 「だよね」 もう一度そろって溜め息をついて、そうしてそれから仲よくクスクス笑い出した。 ――ヒョウタンからコマ、性格の悪いコイビトから友情ってかぁ?
4
干潮《かんちょう》を待って洞窟《どうくつ》へ渡った。『えびす』の寄り来る洞窟。祟《たた》る神のいる霊場。 ついて行くと言ったあたしたちを見て、ナルは思いっきり不愉快《ふゆかい》そうにした。本っ当、性格悪いっ。 洞窟はしんと静まりかえったままだった。潮《しお》のにおいと、空洞にこだまする波の音と。 「ね、綾子《あやこ》」 つい声をひそめてしまうのは、よく音が響《ひび》くからだ。 「……ん?」 「使役霊《使役霊》はみんな浄霊してしまったんでしょ?」 「そのはずだけど……」 不安そうな口ぶりにちょっとあたしはひるんでしまう。 「まさか、あれで失敗したなんて言わないでよね」 「失敗したつもりはないわよ。でも、暴風雨や高波を本当に鎮《しず》められるなら、浄化した霊を引き戻すのも簡単かもね」 「ちょ、ちょっと……」 「油断はできないわよ。いちおう『神様』なんだから」 真砂子《まさこ》がつぶやく。 「だいじょうぶ、少なくとも今はいませんわ。あいかわらず霊場の気配はしますけど……。とても空虚な霊場……」 あたしたちが黙《だ》り込むと、波の音だけがする。本当に空虚な場所だ……。 ナルの遠慮会釈《えんりょえしゃく》のない声が響いた。 「始めよう」 ぼーさんが息をひとつ吐《は》いて祠《ほこら》の前に立つ。奇妙な形をした流木の姿が目《ま》の当たりだった。祠の前には簡単な祭壇が用意されている。ぼーさんは印を組み、真言《しんごん》を唱《とな》えてここに見えないお堂を作っていく。結界をしきお堂を建て、そこに仏様を呼ぶ。これがいつもぼーさんがやっている祈祷《きとう》なんだと聞いた。見えないお堂は気力でできている。だからぼーさんの意識がとだえれば、それはたちまち消えてしまう。 「オンバザラギニハラチハタヤソカワ」 どこかで何かの音がした。低い短いその音は、耳をそばだてる間もなく消えてしまう。今何か聞こえなかった、と綾子に聞く前にまたそれが聞こえた。今度は少しだけはっきり聞こえる。低い音が短く鳴って、そうしてまた消えていく。三度目が鳴ったとき、綾子や真砂子も周囲を見回した。 「……なんの音?」 「わかるわけないでしょ」 ささやき合ううちに、また聞こえる。少しずつはっきりとしてくる。短い等間隔の低い低いこもった音。 「これ……」 「心臓の音……?」 それはたしかに鼓動《こどう》だった。収縮し拡大する臓器の音。 「あれ……!」 真砂子に呼ばれてあたしは指の示した方を見る。そうして洞窟の壁が微《かす》かに動いているのを見つけた。鼓動に合わせて、あるかなしかで脈打つ岩肌。岩とは思えないなめらかな光沢《こうたく》……。あたりはずいぶんと暗い。あたしはおそるおそる壁にちかづいてみる。そっと手をのばした。 「やめて、麻衣《まい》」 だって、触れてみればわかる。これは幻《まぼろし》なのか、それとももっと別のことなのか……。指先が触れた。触れた先は荒い硬質な感触がする。まぎれもなく岩にちがいないのにとても暖《あたた》かかった。 「こんな……」 鼓動の音はさらに大きくなる。一拍鳴るごとに周囲の壁が息づいていく。鼓動に混《ま》じって低く息づかいの音までが聞こえた。巨大な生き物のお腹《なか》の中に入った気がした。 「滝川《たきがわ》さん!」 突然声を上げたのは安原《やすはら》さんだった。ぼーさんが振り返る。 「入り口が閉まっていきます!」 あたしはあわてて海岸側と入り江側の出入り口を見比べた。それはあたしたちが来たときに比べ、明らかに狭《せま》くなっている。入り江側の入り口なんて、もう人がひとり通りぬけられるほどの幅《はば》しか残ってない。 「キャタハンジャサハダヤソワカ!」 さっと視野に赤い光が流れた。それが洞窟の中を駆け抜けていったけれど、閉じた入り口のようすは変わらない。それでも目に見える速度でふさがりつつあった動きがぴたりと止まった。 「大本を断《た》てば自然に開く。あんなものにかまうな」 ナルの冷静な声がする。 海岸側も入り江側も、人が身体《からだ》を横にしてかろうじて通れるほどの隙間《すきま》しか残っていない。あたしはしばらくそれを見つめる。動いてないが、これ以上ふさがってここに閉じこめられはしないか、確認せずにいられなかった。 鼓動の音は続いている。息づかいの音も続いている。そうしてそこに高い音が混じった。それはどこか遠くで誰《だれ》かが何かを叫《さけ》んでいる声に似ている。悲鳴のような色で声を限りに叫ぶ大勢の人間の声。あたりを見回してもなんの姿もない。声はどこか厚いものでも隔《へだ》てられた場所で響いている。たぶん、洞窟の壁の向こう。壁の中の奥深いところ。……そしてそれは近づいてくる。 あたしは強く目を閉じた。壁の向こうに暗い穴があって、その奥から大勢の死人が叫びながら近づいてくる――そんな幻影を追い払った。声は近づいてくる。もう壁までそんなに距離がない。さらに近づいた。もう、すぐそこまで来ている……。 「初めに言があった」 ジョンの声がした。指を組んで目を閉じたジョン。 「言は神と共にあった。言は神であった。この言は始めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何ひとつなかった……」 壁の向こう側まできていた声がぴた、とやんだ。 ほっと息をついたところにナルの厳しい声がする。 「ぼーさん、祈祷《きとう》は」 「……ああ」 言われてぼーさんは真言《しんごん》を続ける。それと同時に壁面に蒼白《あおじろ》い光がともりはじめた。ぼうっと輝く淡い光が壁面ににじみだして、それが蒼《あお》ざめた人の顔をつくる。あちこちに次々と浮かびあがって、無数のお面を並べているように見える。人の顔ははっきりとした形を現すなり口を開けて叫び始める。さらにそれぞれの顔のその下から二本の腕が前に向かって静かに出てきた。洞窟の中が悲鳴に似た声で満たされた。 「ナウマクサンマンダバサラダンカン」 ぼーさんの近くの壁に浮かびあがっていた顔が消えた。それを皮切りにリンさんが指笛を吹く。九字《くじ》を切るあたしと、綾子と……。 あたしの頭の中は「逃げたほうがいい」という思考でいっぱいだった。ペースを襲われたときのことを覚えている。九字を切ればとりあえず顔は消えるけれど、少しすればまた浮かびあがってくる。それの繰り返し。こんなことをしていてもキリがない。必ずこちらが疲れてしまう……。 どっとまた洞窟の中に赤い光が流れた。驚いて目を見開くあたしの視野いっぱいに透明な赤い色が広がって、それが消えたときには壁面いっぱいに現れていた蒼白い顔はひとつも見えなくなっていた。 今のは、ぼーさんだ。そう思って振り返ると、ぼーさんは独鈷杵《とっこしょ》を構えたところだった。それを祠《ほこら》に投げる。流木に突き立った。 「ツリツタボリツハラボリツタキメイタキメイカラサンタンウエンビソワカ」 言い終わるのと、何かの力でぼーさんが吹き飛ばれるのが同時だった。 「ぼーさんっ!」 「滝川さんっ!」 あたしたちは駆け寄る。壁の下に転がったぼーさんを助け起こす。 「だ……だいじょうぶ!?」 「いてー……」 うん、そうでしょうとも。 「ジョン。悪いがあの独鈷杵《とっこしょ》……」 ぼーさんに言われてジョンが祠を見る。 「あれで流木を壊《こわ》せ」 「ハイっ!」 一声言って、ジョンが祠《ほこら》に駆け寄る。独鈷杵《とっこしょ》を引き抜き、それを振り上げる。突き刺す間もなく今度はジョンが弾《はじ》き飛ばされて、ぼーさんの脇に墜落する。 「ジョン! ――安原さんっ!?」 代わりに駆け出したのは安原さんだった。ジョンが落とした独鈷杵《とっこしょ》を拾い上げて祠に駆け寄る。今度は安原さんが壁にたたきつけられる。 ……もうぜんぜんダメだ。あたしたちじゃ、どうしようもない。 「安原さん、だいじょうぶ?」 「……ててて。まぁ、なんとか……生きてます」 そこに響いたのが吐《は》き気のするような冷静な声だった。 「その程度か?」 ナルの視線はぼーさんに向いている。その冷静な眼。 ……あ……あったまきたーっっ! 「いいかげんにしなさいよっ!!」 ナルがあたしに視線を走らせる。 「なにムキになってんの!? ぼーさんもみんなもあんたを助けんのでとっくに限界がきてんのよっ! たかがあんたのプライドのために、どーしてみんながそこまでしなきゃなんないわけ!?」 ナルは眉《まゆ》をひそめただけだ。 「プライドだなんだって、くだらないっ。馬鹿《ばか》じゃないのっっ!? そんなに自分のプライドが大事なら、人に頼らず自分でやれば!? 他人に守ってもらって、そんなプライドがなんぼのもんよっっ!!」 ああ、はらがたつっ。こんな奴《やつ》っっ! ナルは無表情にあたしを見る。 「……正論だな」 ふんっ。勝ったぜ。 洞窟の中には鼓動の音と息づかいの音が今も響いている。そうして、遠くから聞こえる人の叫ぶ声。あたしは洞窟の入り口を見た。なんとか外に出られない幅じゃない。 「ぼーさん、だいじょうぶ?」 「あんまし、だいじょうぶじゃねぇみたい」 「帰ろ。もう……充分だから」 ぼーさんの手を引く。引かれるままぼーさんが身体《からだ》を起こした。 「ナルちゃん、悪いな。限界だ」 ナルの返答はない。リンさんがぼーさんを起こすのを手伝ってくれる。立ち上がったジョンがぼーさんの腕の下に肩を入れた。綾子と真砂子が安原さんを引き起こす。 「さ、帰るよ」 ぼーさんの腕をリンさんとジョンが支えて歩き出す。それには目もくれず、ナルは背中を向けた。視線を据《す》える。――祠《ほこら》のほうへ。 「ナル?」 呼んでも振り返らない。小走りに入り口へ向かい始めていたぼーさんたちが振り返った。 「ナル!?」 リンさんが怒鳴《どな》ってとっさに戻ろうとする。ジョンがバランスを崩してぼーさんを転《ころ》ばせそうになって、あわてたようにその場に踏みとどまる。 「ナル! やめなさい!!」 ナルは振り返らない。祠の方に踏み出した。ゆるい風にまかれたように髪がふわと舞い上がる。 ――なに? 思ったところで耳鳴りがした。耳の奥で羽虫でも飛んでいるように低い音がする。とっさに手を伸ばした。ナルを引きとめようと腕に触れたとたん、指先で何かが弾《はじ》けた。 「たっ……!」 強い静電気に似ている。真冬に乾燥したところで金属にふれると起きるやつ。打ちすえたような激しい音がして、指の先に何か固《かた》いものが弾けたような痛み。 これ、なんなの? ナルはまっすぐ祠に向かって立つ。 あれはなに? 空気が、歪《ゆが》んでいる。 ナルの身体《からだ》から陽炎《かげろう》でも昇ってるみたいに、身体の周りの空気が歪んでいるのがはっきり見える。それがどんどん濃くなる。歪みがみるみるうちに広がっていく。ナルはおろした右手を拳《こぶし》に握って左手でその手首を握っている。その姿は、まるで拳の先に何かをためようとしているように見える。そして、その拳の周りから目に見える速度で空気が歪んで折れ曲がっていく。 ふいに肌《はだ》に奇妙な感覚がした。さっと産毛《うぶげ》が逆立つのと同時に髪が浮き上がる。あれににてる。擦《こす》った下敷きを近づけた……静電気が起こったときのあの感じ。ゆるやかな風を感じる。風というより空気の流れ、みたいなもの。 もうあたしの周りの空気でさえ歪んでいた。水の中か、ひずんだガラスほ通したみたいに何もかもが歪んで揺らいで見える。 「これ、なに」 声を出すより先に、ナルが手を上げた。歪みきってにごったような空気の塊《かたまり》が拳の中から滴《したた》っている。そんなふうに見える。リンさんの声がしたけど、耳鳴りが激しくて何を言っているのかわからなかった。 突然なが腕を振り下ろした。拳の先で空気がくだけた。――そんなふうに見えた。歪んだガラスにひびが入るみたいに空気に亀裂《きれつ》ができて、そこで風景が完全に食い違った。腕を振り下ろした方向へ亀裂が伸びて広がっていく。ガラス詰めにされた風景が真一文字に切り裂かれて砕《くだ》ける瞬間。空気が砕けて、歪んだ影が歪んだ祠《ほこら》ごととひび割れた。 そろり、と奇妙な感触のする空気が足元から這《は》い上がってきて、背筋をなで上げて消えていった。 ナルが腕を構えてからそこまでに、実際には十秒程度の時間しかかからなかったんだと思う。長い長い十秒がすぎると、あとには前と同じ光景が残された。潮の匂《にお》いのする洞窟、暗い岩肌と硬直したように立ちすくんだあたしたち。立ったままのナル。鼓動は聞こえない。息づかいも、人の声もない。代わりに聞こえるのは波の音。 扉を開いたままの祠まで変わらなかった。ただ、中にあった流木が砕《くだ》けていることをのぞけば。祠の中と周囲にはその破片が散乱していた。 「何が起こったんだ」 ぼーさんの弱い声に、ナルは黙って振り返る。皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。 「気配が……」 真砂子は洞窟の中を見渡す。 「気配が消えました。ここはもう霊場ではありません」 ……え? 真砂子は洞窟の入り口を見る。 「吹き寄せられる霊も、もうない……」 入り口はすっかりもとのままで、大きく口をあけたそこからは岩場に打ち寄せる波と、彼方《かなた》に見える水平線と、その上に広がる白い空が見えていた。 「ここはもう単なる洞窟にすぎません」 「消えたの……あいつ?」 真砂子はうなずく。 「だと思いますわ。きっと……」 ぼーさんが息を吐いた。 「今ぼーさんは除霊できるんなら最初からやってほしかったな、という気持ちでいっぱいです」 ナルは何も言わない。視線をあたしたちに向けて歩き出した。 「戻るぞ」 あたしたちは顔を見合わせ、そうしてあわててあとに続いた。
5
へたりこみそうになるぼーさんと安原《やすはら》さんを励《はげ》まして、あたしたちは岩場を抜けて海岸に戻る。いつのまにか潮《しお》が上がっていて、石の小道はくるぶしまでの深さに沈んでしまっていた。よろよろしながら海岸に戻って、波の来ない乾《かわ》いた日陰に座り込む。海岸の小石は温《あたた》かくて、触れるとすごくほっとした。 「ぼーさん、だいじょうぶ?」 あたしはのびてしまったぼーさんをつつく。 「……死ぬ」 「しっかりしなさい」 「……寝る」 はいはい。安原さんもうずくまってしまっている。こちらのほうは顔が真っ青になっている。 「安原さんは? だいじょうぶなの?」 「はぁ。……なんか、ひどいぶつけ方をしたみたいで……」 「痛い?」 安原さんはあたしをまっすぐに見る。 「ものすごぉ――――く、痛いです」 げげ。冗談かマジか。どっちにしても、これは大至急手当てが必要。 てなことを思って立ち上がろうとしたとき、綾子《あやこ》が突然声を上げた。 「ナルっ!」 悲鳴にあたしが振り返ったときには、ナルは海岸の上に倒《たお》れていた。 全員が駆け寄る。真っ先に飛びついたのはリンさんだった。 ……ま、また貧血かぁ? 「ナル!?」 抱き起こそうとしてリンさんはハッと身体《からだ》をすくませる。すぐに顔をナルの胸の上に伏《ふ》せた。 ナルの蒼《あお》い顔。堅《かた》く閉じた瞼《まぶた》には薄く影が降りて見える。「ねぇ、だいじょうぶなの!?」 綾子の悲鳴じみた問いかけを無視して、リンさんは身を起こす。両手をナルの胸にあてて体重を乗せて力いっぱい押した。 そ、そんなことをしたらナルのほっそいからだなんて壊れちゃうよぉ。 リンさんはそうやってニ、三度胸を押し、じれたように手を離すといきなりナルの胸ぐらをつかみあげて片手を振り上げた。 ……ちょっ、ちょっとリンさんっ!! 止める間もなくパシッという激しい音がする。遠慮会釈《えんりょえしゃく》のない張り手。 「ナル! 息をしなさい!!」 ……今、なんて言った? ジョンが駆け出した。 「救急車を呼んできます!」
ナルは近くの救急病院に運《はこ》ばれ、あたしたちの背筋を寒からしめたことに、すぐさま集中治療室に運ばれた。 あたしたちは病室からも追い出されて、呆然《ぼうぜん》と廊下《ろうか》に立っていた。うずくまってしまった安原さんと、ジョンとぼーさんが手当てのために連れて行かれてしまう。しばらくしても病室のドアは開かない。みんなのようすを見てくる、と言って綾子がどこかへ行ってしまい、結局あたしと真砂子《まさこ》とリンさんでじいっとそこに立っていた。 黙《だま》っていると悪いことばかり考える。暗い思考にウンザリしたころ、やっとお医者さまが出てきた。 「どなたか代表の方は」 言われてリンさんが前に出た。 「ショック症状だと思われますが、脈拍も弱いし、いちじるしい不整脈が見られます。血圧も非常に低い。心筋梗塞《しんきんこうそく》に似ていますが、心電図を見るかぎり心筋梗塞ではなさそうですね。以前にも同じような発作を起こされたことがありますか?」「軽いものでしたら何度か。ここまで酷《ひど》いのは初めてです」 「何か病気をしておられて、熱があったというようなことは?」 「ありません」 「では過敏症ですかね。何か薬を飲んでおられましたか?」 「いえ」 「狭心症の発作は」 ありません。 ふうむ、とお医者さまはうなる。 「一応血圧上昇剤を投薬して、血圧のほうは徐々に戻りつつあります。ショック状態からは回復しつつあるとみてよいと思います。この後余病を併発《へいはつ》するおそれがありますので、とりあえずしばらくは入院していただいて経過を見守ることになります」 真砂子が顔をおおってその場にしゃがみこんだ。リンさんはそれを見やってからお医者さまに頭を下げる。 「……よろしくお願いします」 「あとのことは看護婦から説明がありますので」 会釈して離れていくお医者さまを見送って、あたしはリンさんの袖《そで》を引っ張る。 「ナルはどこか悪いの?」 「いえ。特に持病があるわけではありません」 「じゃ……ナルは気功《きこう》を使ったよね。それが原因?」 リンさんは驚いたように眼を見張るる 「前にも倒れたこと、あったよね。リンさんは貧血だって言ってたけど、あれも本当はそうだったんじゃないの?」 あたしのおかーさんは事故で死んでしまった。死因は出血からくるショック死だった。ショック症状って、本当にたいへんな状態なんだって、あたしは知ってる。 「こうなることがわかってたから、リンさんはナルをとめたの?」 リンさんは軽く息を吐《は》く。 「……そうです」 「気功ってそんなに危険な方法なの? 気功法で病気も治《なお》せるんでしょ? なのにナルはどうしてこういうことになっちゃうわけ?」 リンさんは落ち着け、と言うようにあたしの肩を叩《たた》く。 「人は誰《だれ》でも気を放出しています。気配というのがそれですね。それは普通ただ放出されるだけで、何かに使用することはできません。気功というのはそれをうまく増幅して、ある目的のために制御《せいぎょ》する方法です。スポーツと同じで誰でも修練を積めばある程度のことはできるようになります。ですが、ナルはそういうのとは桁《けた》が違うんです」 ……桁が違う。 「あれは天賦《てんぷ》の才能です。ナルは小さい頃ポルターガイストを起こす子供でした」 ……あ。 「本人の意識で制御できない気の放出を制御できるようにするために、私が気功法を教えました。ですから気功法にスタイルはよく似ています。けれども気功とは全然別のレベルのものなんです」 「そう……なの?」 「はい。ただナルの持つあの力は人間には大きすぎる。ですから、それを使うと身体《からだ》のほうがついてこれなくなる。そういうことです」 「……あたしのせいだ」 涙がこぼれた。ここでなくのは卑怯《ひきょう》なことだと思うけれど。 「あたしが、挑発《ちょうはつ》するようなことを言ったから」 「挑発に乗るほうが悪いんです」 「でも……」 リンさんは微《かすか》に笑う。 「ナルにだって何が起こるかわかっていたことなんですから。冷静だったらあんなに挑発に乗るような人ではないですし、そもそも度を失うような人でもありません。よほど自分の失態が腹《はら》に据《す》えかねたのでしょう。自尊心を傷つけられてタガが吹き飛んだんですね。彼のプライドは途方《とほう》もなく高いですから」 ……それはそうだけど。 「自尊心のために命をかけるのは愚《おろ》かなことです。目が覚めればそれに気づくでしょう。いい薬ですよ。――しばらくは機嫌《きげん》が悪いでしょうが」 「……そうかな」 「失態に逆上して抜いてはいけない剣を抜いたわけですから。いわば二重の失態ですからね、しばらくは荒れると思います。これで除霊にも失敗していたら、憤死しかねないことですが」 あたしはちょっと笑った。 「……そだね。――ちゃんと治る?」 リンさんもちょっとだけ微笑《わら》ってくれた。 「もちろんです」
エピローグ
――今日もいい天気だ。 空を見上げてからみんなと車に乗り込もうとしたら、声をかけられた。 「お出かけですか」 声のほうを見ると、裕恵《ひろえ》おばさんが左官屋さんにお茶を出しているところだった。 「はい。お見舞いに」 「お気をつけて」 あちこちが壊《こわ》れてしまったお店には左官屋さんが入って、今壁の塗《ぬ》り替《か》えをしている。当分は営業もできないし宿として使ってください、という吉見《よしみ》家の申し出をあたしたちはありがたく受けた。 吉見家の人たちはあたしたちを責《せ》めない。あの人たちも辛《つら》いことがいっぱいあったのに。あたしたちのせいにして、やつあたりしてしまいたいだろうに。 「いい人たちだなぁ……」 誰《だれ》にともなく言うと、ぼーさんがああ、とうなずいた。
病院の入り口でちょうど出てくる彰文《あきふみ》さんに会った。彰文さんと靖高《やすたか》さんと、そして陽子《ようこ》さん。 「お見舞いですか?」 聞かれてあたしたちはうなずく。 「靖高さんは退院ですか?」 あたしが聞くと靖高さんは丁寧《ていねい》に頭を下げる。 「ええ。おかげさまで。たった今、渋谷《しぶや》さんと安原《やすはら》さんにもごあいさつをしてきたところなんです」 「あ、そうなんですか。おばあさんはいかがです?」 小火《ぼや》の時に煙を吸って入院してしまったおばあさん。 「もう、よさそうです。今週には家に帰れるんじゃないでしょうか」 「よかったですね」 「安原さんも今日退院とか。おふたりとも大事にならなくてよかったですね」 「ありがとうございます」 「じゃ、先に戻ってますので」 頭を下げて駐車場のほうへ歩いていく三人をあたしたちは見送った。 いい人たちなのに、何も悪いことなんかしてないのに。この間、和泰《かずやす》さんと奈央《なお》さんのお葬式があった。みんな、とても辛そうにしていた。奈央さんが事故、和泰さんが自殺ということになったのだけが幸いだろう。克己《かつき》くんと和歌子《わかこ》ちゃんは泣いていた。小さいなりに哀しいことがわかったのにちがいない。葉月《はづき》ちゃんはまだお葬式の意味がわかっていないようだった。綾子《あやこ》の浄化以来、奇妙なおできも治って無邪気《むじゃき》に笑っていた。それが少し哀しかった。 「麻衣《まい》、行くぞ」 ぼーさんに声をかけられて、あたしは歩きだした。ジョンもぼーさんも結局傷をざくざく縫《ぬ》われてしまった(ぼーさんの言による)ジョンは一昨日《おととい》、ぼーさんは昨日抜糸がすんだばかりだ。 「あたし、ぼーさんに弟子《でし》入りしようかなぁ……」 「ふーん?」 「弟子入りしてちゃんと修行したら、もちょっとちゃんとした拝《おが》み屋になれると思う?」 ぼーさんは何も言わずにあたしの頭をかき混ぜた。
「おっはよー」 あたしたちがドアを開けると、ベッドの上に身体《からだ》を起こして本を読んでいたナルが顔を上げた。 「いいの、起きて」 「そうそう寝ていると身体がなまる」 つっけんどんな物言い。リンさんの予言どおり、意識を取り戻して以来ナルの機嫌《きげん》は最低に悪い。何を言ってもけんもほろろ。 綾子は紙袋をロッカーの上に降ろす。 「メロン買ってきたわよ。食べる?」 「欲しくない」 「食べなさいっ。それでなくても体力ないんだから」 ナルはめいっぱい嫌《いや》そうな顔をしたけど、特に何も言わなかった。切り札を握った綾子は強い。ナルが皮肉を言おうとすると、ワザとらしく首に手をあてて咳《せき》をすんだよな、こいつってば。 綾子がかいがいしくお茶をいれたりメロンを冷蔵庫に入れたりしていると、安原さんの病室に行っていたぼーさんとジョンが、当の安原さんを連れてやってきた。 「退院おめでとー」 「いやいや、どうも」 安原さんは診察室に連れて行かれて、実は肋骨《ろっこつ》が折れていたことが発覚した。翌日から高熱を出して寝こんでいて、ようやく復調して退院の運びになったわけだけど、退院といっても本当に完治したわけではない。当分コルセットで固定しておいて、お風呂もスポーツも禁止。 「先に帰るの?」 あたしが聞くと、安原さんは首を振る。 「せっかく来たのに、それじゃつまんないでしょ。今から沖縄《おきなわ》に戻っても、働けないし、せっかくの夏休みに家にいるのもつまんないし」 「とんだ夏休みになっちゃったね」 あたしたちが呼んだせいで。 「いやー。スリリングな夏休みで。有意義このうえないですよ」 「有意義ですかぁ?」 「そりゃ、もう。リゾート・ホテルのバイトなんて一回コンパで自慢したらおわりてずからね。そのてん、悪霊払《あくりょうばら》いに参加して名誉の負傷なんて、じじいになっても自慢できる」 ま、それはそーですが。 「この武勲は末永く語り継《つ》がれることでしょう。うんうん」 ひとりでうなずいている安原さんをあたしたちは笑う。 「そういうわけで」 と安原さんは小さな本を引っ張り出した。 「なに?」 「観光マップ。ぜひ遊びに行きましょう」 「ムリは禁物だよ、安原さん」 肋骨折れてるんだからー。 「だいじょうぶですよ。疲れたら滝川《たきがわ》さんがおぶってくれますからね」 げっ、とぼーさんが声をあげる。 「こらこら。誰《だれ》がだ」 「いやー、沖縄から能登《のと》まで、たいへんだったなー」 「有意義だったんだろ?」 安原さんはよろり、とショックを受けたポーズ。 「ひどいっ。あたしノリオのために飛んできたのにっ」 「誰が、あたし、だっ」 「けなげな恋心をじゃけんにするなんてっ」 「お前はなー」 安原さんは両手を胸に当てる。 「恋だと思うの。ほら、こんなに胸が苦しい」 「こら」 「締めつけられるようで、しかもかゆくてたまんないの」 か、かゆい? 「おまけに汗くさくてー。……ってこれはコルセットのせいか」 コルセットのせいですっ。 バカ笑いしているあたしたちを、ナルは呆《あき》れた顔で見てたけど。 ……顔はいいんだけどなぁ。 あたしは内心溜《た》め息《いき》をつく。麦茶でも沸《わ》かしに行こうと廊下に出ると、真砂子《まさこ》があとを追ってきた。 「手伝いますわよ」 「あ、ありがと」 あたしと真砂子はすっかりなれ合ってしまってるんだな、実は。ふたりして給湯室に行って、共同のヤカンを火にかけて。 「安原さんも人がいいんだから……」 真砂子が言う。 「だよね」 「滝川さんも、ブラウンさんも、ナルのせいで迷惑《めいわく》したんだから、少しは怒ればよろしいのに、少しも責《せ》めないんですものねぇ」 「まったくねぇ」 誰《だれ》ひとり、目を覚ましたナルを責めなかった。少なくともぼーさんとジョンは責める資格があるんじゃないかと思ったんだけど、やっぱり一言も責めれる言葉は口にしなかった。 「本当にあたくし、あのお三方の誰かにすればよかったと思いますわよ」 「ほんとに」 「あんなわがまま勝手に情けのない振る舞いをしておいて、ナルも少しはもうしわけなさそうにすればよろしいのに」 「だよねぇ。……でもさー、ナル、謝《あやま》ったらしいよ」 真砂子はあたしを見る。 「本当?」 「ホント。昨日ぼーさんに聞いて、目を覚まして、いちばんに謝ったらしいよ」 真砂子は手でもてあそんでいた茶碗を思いっきり乱暴に置く。 「あたくし、ナルのそういうところが嫌《いや》ですのっ」 「まー、謝らないよりはいいからさー」 「それですわよ。あれで謝らなければ単に性格の悪いヤツですみますわよ。あたくしだって、こんな人、と思って見捨てることもできますのっ。それを妙なところで潔《いさぎよ》いすんですものっっ」 あたしはしみじみうなずいた。 「それは、言えてる。単に性格が悪いよりも、手におえないよな」 「でしょう? あの洞窟《どうくつ》でだって、ナルはさんざんなことをするから、あたくし密《ひそ》かに見捨ててやるって決心してましたのよ。それをナルってば、倒《たお》れたりするんですものっ。それで本気で腹《はら》をたてるなんてできるとお思い?」「……たしかに、あたしも、思った」 「卑怯《ひきょう》だと思いますの。好きでばっかりもいられないし、嫌《きら》いにもなれないし」 「うんうん。いい奴《やつ》か悪い奴か、はっきりしてほしいよな」 「ですわよ。好きになるのは馬鹿《ばか》みたいな気がしすまのに、嫌いになるのはもったいない気がしてしまうところが嫌《いや》ですのっ」 ……うーむ。言えてる。 しかし、こうしてお湯が沸くのを見ながらボソボソ人に聞かれたくない話をするあたり、まるでOLのようだねぇ。 ヤカンを見ながらあたしと真砂子は仲よく溜《た》め息《いき》をついた。 「……よりによって、ナルでなくてもよろしいのに」 「……まったく」 毎日こうやって真砂子とナルの悪口を言って、それで最後に出る結論がつねに同じってのがちょっくら情けないものがあるよな。 「そう思うのに諦《あきら》めることはできないんですのよね。どうしても、期待してしまうし……」 「アレじゃない? ホレた弱み……。ああ、ナルの奥さんになるなんて人がいたら顔を見てみたいよね」 きっと神々《こうごう》しいばかりに温和《おんわ》な人にちがいない。 「あたくしの顔でよければいくらでもどうぞ」 「ほう。キミはナルと結婚したいなどという野心を抱いておるのかね」 「あら、麻衣はそう思ってませんの?」 「あたしはそんな先のことは考えてない。とりあえず、デートできるといいなぁ、なんて」 「あたくし、デートならいたしましたし」 こ、こいつっ。 「それを言うならあたしは、休み中ナルとオフィスで一緒だしー」 「リンさんがいますでしょ」 「常にいるとはかぎらない」 真砂子があたしをにらみつける。 「麻衣。……抜け駆けはなしですわよ」 「んじゃ、ナルの弱みを教えてくれる?」 「教えません」 「じゃ、あたしもそんな協定には応じられないなっ。そもそもレンアイに卑怯《ひきょう》な手管《てくだ》はつきものさっ」 「どうぞ。そうやって麻衣が卑怯な手を使っている間に、あたくしはいいこにしてますの。いびってくださってもいいんですのよ」 「王子さまが選ぶのはシンデレラってか?」 「普遍の真理ですわ」 「王子の性格に対する認識が甘い」 真砂子はちょっとひるむ。 「……そうですわね」 「でしょ?」 結局バカみたいに笑いころげてしまったあたしたちだった。
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