順番に出てくる料理の何番目かで、あたしはふと隣《となり》に座っているリンさんの器に目を留《と》めた。やや、リンさんだけ料理が違《ちが》うぞー。そう思ってテーブルを見渡すと、ナルも違う。どーやらナルとリンさんだけ別のお料理が出てるみたい。 「どしてリンさんはお料理が違うの?」 小声で聞くと、ちょうど器を下げにきた裕恵おばさんが、 「渋谷さんと林《りん》さんは肉類を召し上がらないとお聞きしたので、献立《こんだて》を変えさせていただいたのですけど……違いましたか?」 「えー? リンさんお肉は食べないの?」 これはびっくり。そういえばいつもいろんなものを残すから、リンさんもナルも偏食するなーとは思ってたんだけど。 「菜食主義ってやつ? ぜんぜん食べないの?」 リンさんは無表情にうなずく。 「ダメだよ、食べないと、だからリンさん、痩《や》せてるんだよ」 裕恵おばさんはやんわりと微笑《わら》って、 「何か少しお持ちしましょうか? せっかく海の側《そば》にいらしたんですから」 リンさんは軽く頭を下げる。 「調査の時には、精進潔斎《しょうじんけっさい》しておくことにしていますので」 げげ、すごい。ナルやリンさんが、そんな深い思慮あって食べ物を残していたとは。性格が性格だから単にわがままなだけだと思ってたのになー。 ほんと、世の中って奥が深いよな。 「霊能者の方もたいへんなんですね」 泰造おじさんが感心したように言ったとき、ぼーさんと綾子が気まずそうにお皿をにらんだのをあたしは見逃さなかった。……はっはっは。
男性陣と女性陣にいろいろと聞きこみをしたけど、何も収穫がないままあたしたちはベースに引き上げた。ベースではあちこちの機材から送られてくるデータが寂《さび》しくモニターに映《うつ》っている。 「異常は」 機材の前に座ったリンさんにナルが聞く。 「現在はありません。これまでの記録をチェックします」 モニターの画面に映っているのは母屋《おもや》の廊下《ろうか》、葉月ちゃんの部屋、店の廊下、入り江側の空《あ》き部屋、海岸側の空き部屋の五箇所。どの映像にも異常はない。 「今夜から動きがあると思う?」 あたしが聞くと、ナルは画面を見たまま、 「さてな。いったい何が起こるのか手がかりがなさすぎる。明日にでも地元の図書館へ行ってみるんだな。――ぼーさん」 「ほいよ」 「夜の間は葉月ちゃんの周囲に結界《けっかい》を――」 言いかけたところに彰文さんがお茶の道具を持ってきた。 「お疲れさまです」 電気ポットだの急須だのを揃《そろ》えておいてくれる。ついでにお茶をいれてくれて、 「谷山さん、残念でしたね」 ほにゃ? 「十三人。少人数でがっかりなさったでしょう?」 あはは、そのことか。 「そうでもないですけど。でも、もっとにぎやかなもんだとは思ってました」 「いつもは兄たちだけでも、もっとにぎやかなんですけど……。どうも最近は暗くて」 「やっぱり、心配ごとがあるとどうしても暗くなりますよね」 あたしが言うと、彰文さんはなんだか複雑な微笑《わら》いをする。 「お婿《むこ》さんでしたっけ、栄次郎さん? なんだか機嫌《きげん》悪そうでしたもんね」 なんだかイライラしてる感じで、ちょっとこわかったんだよなぁ。 「そうですね。どうしたんでしょうか、急に」 「急に?」 彰文さんはうなずいた。 「なんでもないことなのかもしれませんけど。和兄さんも栄次郎義兄《にい》さんも店を手伝ってるので、もともと人あたりはいいんです。客商売は人あたりが肝心ですから。栄次郎義兄さんのあんな不機嫌な顔、初めて見ました」 ナルが眉《まゆ》をひそめる。 「つまり、栄次郎さんはもともと、人前で不機嫌な顔をするような人ではないわけですね?」 「ええ。今までは怒ってても顔に出なかっただけなのかもしれませんけど、少なくとも栄次郎義兄さんがあんな顔をするのは初めて見ました」 「和泰さんもですか?」 「はい。和兄さんもこのニ、三日ピリピリしていて。靖兄さんもそうです。靖兄さんがいちばんひどいかな。人前に出れば少しはひかえますけど、もともとすごく明るい人間なんです。明るすぎて父母からたしなめられるくらいで」 ……へぇぇ。 「靖高さんのようすが変わったのは、いつからですか?」 「祖父の葬儀の日からだと思います。理由を聞いても言わないし」 「ほかにようすの変わった人がいますか?」 彰文さんは少し考えこんだ。 「陽子義姉《ねえ》さんですね」 んーと、どっちの女の人だっけ? 「気の強そうな人?」 「いえ、それは光可《てるか》です。光可姉さんはもともとうちでいちばん気が強くて」「じゃああの、おっとりした感じの?」 「ええ。いえ、もともとおっとりした人なんですけど……」 「けど?」 ナルに聞かれたけど、彰文さんは、 「うちでいちばんようすが変わったといったら、なんといっても子供たちです。葉月のほかにあとふたりいるんですけど。和兄さんの子供が克己《かつき》と葉月。光可姉さんの子が和歌子《わかこ》。この克己と和歌子が妙なんです。最近ふたりでコソコソしているんですよね」 あたしが首をかしげると、彰文さんは困ったように微笑《わら》う。 「なんと言ったらいいのか……。もともとそうでもなかったのに、最近ベッタリくっついて離れないんです。おまけにふたりで始終コソコソ内緒話して。何を話してるのか聞くとふたりで目配《めくば》せして逃げていくし……」 ふぅん……。 「これも祖父の葬儀の前後からなんです。葬式でバタバタしてて、子供をかまってるヒマがなくって。一段落したら、もうそうなってたんです。それで、陽子義姉さんはすごく心配してたんです。この間まで。それがここニ、三日、急に気にしているようすがなくって」 「なるほど……」 ナルは考えこむ。 変化した家族。……この家で何が起こってるんだろう……。 そのすぐあと、海岸側の部屋においたカメラの角度をなおすように言われて、あたしはベースを出た。廊下《ろうか》に出ると、廊下は真っ暗だった。遠くに非常灯の灯《あか》りが見えるくらいで、全部の電気が消えてしまっている。 「あれ?」 電気代節約のために消されてしまったんだろうか。斜向《はすむ》かいの部屋まで行くだけだし、あたしは深く考えずに歩きだした。とりあえず歩けないほど暗いわけじゃないし。 半分歩いたときだった。暗くて長い廊下のどこかで微《かす》かな声がした。あたしは驚いて足を止める。ごく小さな息づかいほどの声だった気がした。周囲を見渡すけれど、、暗くてよくわからない。気のせいかなと思ったところでもう一度、今度はごく小さく囁《ささや》くくらいの声がした。 心臓が鳴った。あたしはもう一度、注意深くあたりを見回す。そうして母屋《おもや》のほうへ少し行ったところの廊下にコブがあるのに気がついた。廊下の壁。あたしの腰くらいの高さにサッカーボールくらいの大きさのコブ。 「……さん」 密《ひそ》かな、密かな声が耳に届いた。 「誰《だれ》かいるの……?」 コブの脇から細いものが伸びて、それがちょいちょいと手招《てまね》きをした。 「……おねえさん」 子供? 子供だろうか? そんな感じの声だった。よく目をこらすとコブは子供の頭のように見える。ちょうど角から顔を出した子供みたいに。でも、この廊下はまっすぐで、あんなところに曲がり角なんてない。 「……おねえさん……」 囁《ささや》く声に怖《お》じ気《け》づいてベースに戻ろうとしたところで、あたしは壁に格子戸《こうしど》が並んでいるのを思い出した。格子戸の中から顔を出しているんだろう。 あたしはホッと息をついた。それからその子のほうへ歩きだした。 「誰?」 その子は手招きをする。すぐに廊下に出てきた。ひとり――ふたり。 近づいてみると、まちがいなく子供だった。夏物のパジャマを着た男の子と女の子。小学校の一年生かそれ以下か。するとこの子たちが克己くんと和歌子ちゃんなんだろう。和歌子ちゃんのほうが少しだけ大きかった。 「どうしたの? 克己くんと和歌子ちゃんでしょ?」 前に立ち止まってあたしが聞くと、ふたりは顔を見合わせた。何かをコソコソと耳打ちしあう。それから和歌子ちゃんが、 「……おねえさんたち、ぜんぶでなんにんいるの」 そう聞いてきた。 「え?」 和歌子ちゃんは噛《か》んでふくめるようにくりかえす。 「なんにん、いるの?」 「五人だよ」 こんな時間に起きてていいの、と聞こうとしたら、ふたりはまた耳打ちをする。 「……ごにん……」 「おおい……」 「……たいへん……」 ごく微《かす》かにそんな単語が聞き取れた。何かをひそひそと話しあう。それから、そろってくるりと背中を向けた。母屋《おもや》のほうに向かって歩きだす。 「ちょっと待って。どうしたの?」 和歌子ちゃんが振り返った。 「ごにん、なんでしょ」 「そうだよ。ねぇ、どうしたの?」 「おねえさんは、きにしなくていいの」 そう密《ひそ》かな声で笑って、ふたりは小走りに走っていく。 あたしは少しの間、ぽかんとしてふたりが消えた方向を見守っていた。 ……なんだろう。嫌《いや》な感じ。別にどこがどう変だというわけじゃないんだけど……。あたしは彰文さんが言いにくそうにしていた理由がわかる気がした。この感じを他人に伝えるのはむずかしい。でも、何かがすごく妙で……。 ひとつ息を吐《は》いてカメラの角度を直しに行こうとした時だった。 ……背後の廊下から悲鳴が聞こえた。
二章 不測の事態
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声は母屋《おもや》のほうから聞こえた。ナルたちもベースから飛び出してきて、全員で母屋へ向かって走る間にどんどん騒ぎが大きくなる。何かを怒鳴《どな》る声、激《はげ》しい物音。そして駆《か》けつけたあたしたちが目にしたのは、包丁《ほうちょう》を握って暴《あば》れている栄次郎《えいじろう》さんの姿だった。 茶の間みたいな部屋だった。泰造《たいぞう》おじさんと和泰《かずやす》さんが栄次郎さんを背中から羽交《はが》い絞《じ》めにしている。部屋の隅《すみ》には真っ青な顔をした裕恵《ひろえ》おばさんと光可《てるか》さんが、抱き合うようにしてうずくまっていた。 栄次郎さんの顔は血で真っ赤だった。額《ひたい》に深い傷があってそこから流れ落ちた血が顔の半分を汚していたけれど、栄次郎はん気にしているようすがない。握った包丁は先が折れていて、折れた先がTVのフレームに刺さっていた。口角に泡《あわ》をためて何かを怒鳴っていたけど、ロレツが回らなくて何を言っているのかは聞き取れない。静止を振り切ろうとして全身でもがく。泰造おじさんも和泰さんも、太った重そうな人なのに、ともすればしがみついているふたりを振り切りそうな勢いだった。 「リン」 ナルが小声で言うと、リンさんが無言で栄次郎さんに歩み寄った。別に気負ったようすも緊張したようすもないごく自然な動き。栄次郎さんがリンさんをにらむ。歯をむきだしにして威嚇《いかく》するような声を上げた。包丁を持った右腕を振り上げる。右肩にしがみついた泰造おじさんが、つんのめって転《ころ》んだ。 「リンさんっ」 思わず声を上げたあたしだったけど、実のところは声を上げた意味なんかぜんぜんなかった。突き出してきた右手をぽんと払って身体を入れ替える。勢いあまって前のめりになった栄次郎さんの首に腕をまきつけてそれでおしまい。気をつけて、と言いたかったのだけど、声にするより先に栄次郎さんは首をリンさんに抱きかかえられた格好でずるずると尻餅《しりもち》をついてしまった。 とっさのことに反応できないあたしたちを、リンさんは無表情に振り返る。 「何かで縛《しば》っておいたほうがいいと思いますが」 彰文《あきふみ》さんが飛び上がるように動いて、駆け出した。 「いったい何があったんですか?」 平然とした声を上げたのはナルだった。ようやく息を吐《は》いて裕恵おばさんと光可《てるか》おばさんが座り直す。光可さんは震える声で、 「何があったのかこっちこそ知りたいわ。いきなりなんですからね」 ナルを責《せ》めるような口調だった。 「いきなり暴れだした?」 「ええ。ここで話をしてたらふいと立ち上がって、……それはちょっとは言い争いをしましたけど」 「内容をお聞きしてもいいですか?」 光可さんは小さな切り傷だらけの腕を上げて髪をかきあげた。 「今日食事のときに不機嫌《ふきげん》だったので、理由を聞いただけです。なんでもないって言い張るんでこっちもカッとなって、なんでもないんだったらあんな顔をしないで、って言ったらいきなり立ち上がって部屋を出ていってしまったんです。すぐに戻ってきたと思ったら包丁を持ってて……。気が変になったとしか思えないわ」 栄次郎さんはのびたままだ。リンさんがネクタイを外《はず》して腕を後ろ手に括《くく》った。 「栄次郎さんが不機嫌だったことの原因に心当たりはありますか」 「わかりません。食事の前までは普通だったんです。板場でも……」 「板場?」 「調理場です。主人は調理人ですから。父とふたりで料理の用意をしているときも普通だったんです。一通り用意を終わって、ちょっと外の空気を吸ってくると言って出ていって、戻ったときにはああだったんです」 彰文さんが救急箱と荷紐《にひも》を持って戻ってきた。手当てをするのを見ながらぼーさんが、 「憑依霊《ひょういれい》かね」 ナルはうなずく。 「だろうな。ジョンを呼んだほうがよさそうだな。それとも――」 言ってナルは綾子《あやこ》を振り返る。 「松崎《まつざき》さん、落とせますか」 「できなくはないけど……あんまり得意じゃないのよね」 ほう。あんたに得意なことなんかあったのか? 「ぼーさんは?」 「やってもいいけどな。人間誰《だれ》しも初体験ということはあるしよ」 ちっ。頼りにならんやつ。 「成功の自信は?」 「失敗があって初めて人は上達するもんだ」 綾子が露骨にあざ笑った。 「ということは、今まで憑依霊を落としたことがないんだ。とんだ霊能者だこと」 「なんだったらお前に向かって九字を切ってやろうか? 何があっても俺《おれ》は責任とらねぇけど」 『九字』というのは退魔法の一種だ。九つの文字を唱《とな》えながら九回空《くう》を切るので『九字』という。あたしはぼーさんの腕をついた。 「どうゆうこと?」 「法力てぇのは、直接人に向けてはならない。危険なんだ」 「どういうふうに?」 「知らん。やった者がいない」 はぁ? 「だから俺も人間に憑依した霊を落としたことはない。壷《つぼ》に憑依した霊を落としたことはあるが」 言ってぼーさんは頭をかく。 「霊も落ちたが壷も粉々になったからな。やっぱ人間を粉々にしちゃ、寝覚めが悪いだろーが」 寝覚め以前の問題だってば。 「あ、でもあたしタカに向けて九字を切ったことがあるよ。やってみせてくれって言うんで」 ぼーさんが軽くあたしを小突《こづ》いた。 「二度とするな。麻衣《まい》程度だから何も起こらずにすんだんだぞ」 「あい」 うーん、いったいどうゆうメカニズムになってるんだろうなー? ナルは綾子に視線を向ける。 「一応、やってみますか?」 「いいけど。とりあえず落とすだけならできると思うから。でも、また憑《つ》いたって知らないからね」 「このまま栄次郎さんに憑いてるよりましでしょう。ずいぶんと凶暴な霊のようだから」 ……確かに、下手《へた》したら裕恵おばさんも光可《てるか》おばさんも殺されてたわけで。 内心うなずいて、それからあたしはふと考えた。過去に事故で死んだという人たち。その全員が本当に単なる事故で死んだのだろうか?
2
また暴《あば》れてもだいじょうぶなように、気を失った栄次郎さんを茶の間のすぐ近くにある納戸《なんど》に運《はこ》んだ。ナルがジョンに連絡を取っている間に綾子《あやこ》がお祓《はら》いの準備をする。実際に祈祷《きとう》が始まったのは十一時過ぎだった。 「ジョン、来れるって?」 ナルに聞くと、 「ああ。原《はら》さんと明日一番の飛行機で向こうを発《た》つと言ってた」 ほお。真砂子《まさこ》とねぇ。 ジョン(ジョン・ブラウン、エクソシスト)はともかくとして、真砂子(原真砂子、霊媒《れいばい》)まで呼び出すとは。 「真砂子も呼んだんだー」 「後手にまわりたくない。やっかいなことにならないように」 ……ふうん。どうだか。 「つつしんでかんじょうたてまつる……」 綾子の祝詞《のりと》が始まった。 「みやしろなきこのところにこうりんちんざしたまいてしんぐのはらいかずかずかずかずたいらけくやすらけくきこしめしてねがうところをかんのうのじゅなさしめたまえ」 もっともらしい声を出しているが、本当に効果があるのかははなはだ疑問。何しろ今日まで誰《だれ》も綾子が役に立ったところを見た者がいない。 あたしたちは無言で綾子と栄次郎さんを見守っていた。部屋の隅には機材が置いてあって、ビデオ・カメラの無表情な目がじっと栄次郎さんを見つめている。 やがて綾子が指を弾《はじ》いたところで、それまでぐったりと横になっていた栄次郎さんが眼を開けた。弾かれたように起き上がろうとしたけど、残念ながら彼の身体《からだ》は荷紐《にひも》でぐるぐる巻きにされている。栄次郎さんは歯ぎしりし、芋虫《いもむし》みたいに転《ころ》がったままうなり声を上げ始めた。犬が敵を威嚇《いかく》するときに出す、喉《のど》の奥でゴロゴロいうような声。 「……だいじょうぶなの」 小声でナルに聞くと、無表情にさあな、と答える。 「やっぱ綾子じゃムリなんじゃないの」 「かもしれない。どうせ明日になればジョンが着く」 「リンさんはダメなわけ?」 リンさんは中国呪術《じゅじゅつ》の導士らしい。いろんなことがいっぱいできるのに。 「相手の正体がわからないからな」 ……ふうん。 そう思ったとき、ナルが眼を見開いた。 「……麻衣《まい》。下がってろ」 あわてて栄次郎さんのほうを見ると、彼の姿にダブって何かの影が薄く見えた。何か――獣《けもの》のようなものの姿。 「なに、あれ」 ナルの返答はない。ふいに天井《てんじょう》を見上げた。あたしもつられて天井を見る。綾子の祝詞《のりと》に重なるようにしてキシキシ家鳴りがするのが聞こえた。 ナルは納戸の入り口から中をのぞいている彰文《あきふみ》んたちのほうへ眼をやる。「リン、麻衣を連れていけ。ギャラリーを頼む」 「はい」 うなずいてリンさんはあたしを促《うなが》す。彰文さんたちが驚いたように立ちすくんでいるところに、そろそろと歩いていった。栄次郎さんが突然笑い出した。あたしは驚いて振り返る。栄次郎さんは身もだえするようにして大笑いしていた。品性も何も感じられない嫌《いや》な声音の哄笑《こうしょう》。 そうしている間にもきしみは続いている。栄次郎さんの身体《からだ》にダブって見える獣の姿はじょじょに濃《こ》くなっていった。それは尾の長い獣に見えた。狐《きつね》に似ているけれど、人の背丈ほどもあるからすごく大きい。身を屈《かが》めてこちらをじっと見ている一対《いっつい》の眼――。 綾子は音をたてて手を合わせる。 「なむほんぞんかいまりしてん、らいりんえこうきこうしゅごしたまえ」 強く言って指を組む。それと同時に獣が跳《は》ねた。背後で声にならない悲鳴があがった。 そこからはスローモーションみたいだった。獣は高く跳躍して綾子の頭上を越える。綾子が驚いたようにそれを眼で追う。それはまっすぐこちらへ向かっていた。思わず眼を閉じようとしたときにリンさんとぼーさんが前へ出る。ふたりが何をするよりも早く獣は到着して方向を変えた。変えたその延長線上にはナルがいる。すっとナルが身構えるように見を低くした。その時だった。 「ナル! 止《や》めなさい」 ほっとナルが一瞬だけリンさんを見た。上げようとした両手が、ふと止まった。ナルが視線を戻すのと獣がナルに衝突するのがほとんど同時だった。 「ナルっ!」 誰《だれ》の声かはわからない。少なくともあたしは声なんか出なかった。ナルの身体《からだ》が吹き飛ぶ。すぐ背後の壁にたたきつけられ、そうして獣の姿は消えていった。まるでナルの身体ごと壁を通りぬけてしまったように。獣の頭がナルの胸にもぐりこみ、すり抜けるように尾の先までが消えていくのがコマ落としのように見えた。 「だいじょうぶか?」 ぼーさんたちが駆《か》け寄る。ナルは壁にもたれたまま膝《ひざ》をついた。咳《せ》きこむようにして手をつく。 「ケガは」 「……だいじょうぶだ」 あたしはなんだか金縛《かなしば》りにあったみたいに動けずにいた。背後から誰かが肩に手をおく。 「谷山《たにやま》さん?」 彰文さんが顔をのぞきこんできた。 「だいじょうぶですか?」 「あ……ええ……ちょっとびっくりして……」 ナルは軽くホコリを払って立ち上がる。 「栄次郎さんは」 言われて綾子があわてたように駆け寄った。いつの間にか栄次郎さんは首だけを上げてキョトンとしている。 「だいじょうぶですか」 綾子に聞かれて栄次郎さんはきょときょととあたりを見回して、 「いったいこれは、どうしたことです?」
3
栄次郎《えいじろう》さんは夕方に外へ出てからそれ以後のことを、まったく覚えていなかった。祈祷《きとう》中のビデオを再生してみても、問題の狐《きつね》らしき動物の姿が見えたあたりから、映像が途切れてしまっている。 「映ってないよ」 リンさんはうなずく。 「霊障でしょうね。テープは動いているようですから。ほかの計器類は全部針が振り切れています」 いつもはよくわかんない数字がいっぱい並んでいる画面は、「ERROR《エラー》」という文字で埋《う》まっている。サーモグラフィーも映像がとんでしまっているし。これはどう考えてもただごとじゃない。 ぼーさんが低い声で、 「単なる狐に見えたが、そんな生やさしい相手じゃないかもしれんな……」 うん。あたしがうなずいたとき、リンさんが怪訝《けげん》そうに振り返った。 「ナル?」 ナルはテーブルの上に肘《ひじ》をついて、顔を伏せている。 「どうしたの!?」 「……いや、少し背中が痛むだけだ」 ああ、とんでもないぶつけ方をしたから。 「だいじょうぶ?」 「たいしたことはない。――リン、悪いが少し寝てくる」 リンさんはちょっとだけ眉《まゆ》をひそめてうなずいた。とくに顔色は悪いように見えない。ナルが立ち上がると綾子《あやこ》も立ち上がった。 「本当にだいじょうぶなの? 背中以外に痛いところは?」 なんて聞きながらナルのあとを追いかけていく。しょせん綾子って世話好きだからなぁ。ここは邪魔しないのが綾子に対する正しい対処法だろう。 「どうなのかねぇ……」 ぼーさんが呟《つぶや》く。 「何が」 「綾子さ。あいつは何者なんだろうと思ってさ」 ふにゃ? 「さっきの除霊も完全に失敗だろう。綾子が役にたったのを見たことがあるか?」 それはそーだけども。 「だいたい、『巫女《みこ》』ってことじたいがうさんくさい。ちゃんとした神社に所属する巫女さんが、ふらふら勝手に除霊をしてまわったりするもんか」 「え、そうなの?」 「そう。綾子の『巫女』ってぇ肩書きはあくまでも自称、ってことだろう。巫女のナリした霊能者はたしかに多いが、それかってぇとそれとも違う。そういう連中は宗教活動の一環として除霊をやってるもんだからさ。綾子にゃまったく宗教色がねぇし、だからといって神道についてシロウトってわけでもねぇようだ。一応両部神道にのっとってやってるからな。どっかでちゃんと修行《しゅぎょう》をしたのはまちがいねぇんだろうが……」 「ふうん」 「それに第一、本当に無能ならナル坊が連れてくるかよ」 「それは、言える」 こう考えるとけっこう綾子もナゾの女だなぁ。 てなことを考えながらモニターを見るともなく眺《なが》めていて、あたしは一瞬のうちに硬直した。 げっ、なんだありゃあ。 店の廊下《ろうか》の映像だった。画面の中央に遠く人影が見える。もちろんあれはナルと綾子だ。それはべつに不思議《ふしぎ》でもなんでもないんだけどさ、そのナルの両手が綾子の肩に置かれているように見えるのはどういうわけだぁ!? 「どうした?」 ぼーさんに声をかけられたけど、返事なんてできるかい。ナルが綾子を引き寄せる。あ、綾子の手がナルの身体《からだ》にまわった。こーれはどう見てもラブ・シーンでないの!? ぼーさんもその映像を見つけたのか、 「げ」 と、短く一言。それから感心した(呆《あき》れた?)ように何やら言って、そうして突然立ち上がった。 邪魔すっと恨《にく》まれるぞ。……ええい、こんな伏兵がいたとは。真砂子《まさこ》だけを警戒していたというのにぃっ! 「リン! 来い!」 ぼーさんのせっぱつまった声。振り返ると血相《けっそう》を変えてベースを駆け出していく。リンさんまでが弾《はじ》かれたように立ち上がった。あたしは唖然《あぜん》とし――そうして画面に視線をもどして、血の気が引いた。 ――ラブ・シーン? ……とんでもないっ! あれは、ナルが綾子の首を絞《し》めているんだ。
あたしがあわてふためいて廊下《ろうか》に飛び出した時には、ナルは廊下に倒《たお》れていた。そのわきでは綾子が座りこんで激しく咳《せ》きこんでいる。綾子が無事でよかった。綾子のためにもナルのためにも。 「ぼーさん、ナルは」 「リンが手刀で一発」 そう言って掌《てのひら》の横で自分の首筋を叩《たた》くまねをする。 「いったい、どうしたの……!?」 ぜいぜいいっている綾子の背中をさする。綾子は何か言おうとして盛大に咳こんでしまった。 「どーしたもこーしたもねぇだろ。いくらナルの性格が悪くても他人の首を絞めるもんか」 ……それはそうだけど。 「さっきの奴《やつ》だ。奴は壁を抜けたんじゃない。ナルの中に入りこんだんだ」 ……あ。 「憑依《ひょうい》されてる。ナルに憑依するような根性のある霊がいたとはな」 言ってぼーさんは苦々《にがにが》しげな顔をする。 「こいつはやっかいなことになりやがった」
4
なんてこったい。こんなことが起こりうるとは。 とりあえずナルをベースの隣《となり》にある部屋に運《はこ》んで寝せて。あたしたちは呆然《ぼうぜん》と意識のないナルを見てたりする。 「なんなのよ、あれは」 綾子《あやこ》の声はかすれてしまっている。 「うるさい、って。いきなりアレよぉひどいんだからっ!」 「まぁまぁ。ナルが自分の意志でやったことじゃないんだし」 「それ、自分が襲われても言える? ナルの眼が据《す》わったらどんだけ怖《こわ》いと思うのよっ!」 ……それはたしかに、怖かったろーな。 「ぜったい許さないからっ!」 はいはい。おざなりに綾子の背中をたたいて、あたしはぼーさんにこわごわと進言してみる。 「やっぱ栄次郎《えいじろう》さんみたいに縛《しば》っといたほうがいいんじゃないの?」 ぼーさんは顔をしかめた。 「ナル坊をか?」 いや、その気持ちはわかりますが。正気に戻ったとき何を言われるかわかったもんじゃねぇからな。んでもやはりこのまま寝かせとくのは危険では。 「無駄《むだ》だと思いますが」 冷静な声で言ったのはリンさんだった。 「なんで」 ぼーさんの問いに、リンさんはあくまでも無表情のまま。 「縛ったくらいでナルを止めることはできないということです」 ぼーさんは首をかしげる。 「……どういうことだ?」 「言葉どおりの意味です。松崎《まつざき》さんは運がよかったのだと思いますね」 言ってリンさんは綾子を見る。 「おそらくはナルに憑依《ひょうい》した者も、まだナルの使い方がよくわかっていないのだと思います。そうでなければ松崎さんはとっくに死んでいますよ」 「そりゃ、どういう意味だ?」 「ですから、言葉どおりの意味です。奴《やつ》が本格的にナルを使うことを覚えたら、我々に対抗手段はありません。縛り上げようと監禁しようと無駄です。我々も――ナル自身も生き残ることはできないでしょう」 あたしたちは思わず眠っているナルに視線を向ける。 ?? どういう意味? 「どういうことなのか、聞いたら教えてもらえるかね」 「もうしわけありませんが、私の一存では」 ぼーさんはがっくり肩を落として溜《た》め息《いき》をひとつ。 「あのなぁ」 「ご不満はわかりますが、私にはもうしあげられません。ここは信じていただくしかないんです。ナルはあなた方が想像している以上に危険な人間だということを」 あたしと綾子は顔を見合わせる。さっぱり意味がわからん。 「ひとつ聞く。お前さん、喧嘩《けんか》は強いか?」 ぼーさんが聞くとリンさんはあっさり答える。 「おそらく」 「ナルとどっちが?」 リンさんは無表情に言ってのけた。 「殺し合いなら、ナルの圧勝でしょうね」 ――なんだって? ぼーさんはリンさんをまじまじと見て、それから深い深い溜め息をついた。 「……了解。つまり、すまきにして物置に放りこんでも無駄《むだ》なんだな? ナルは危険人物だ、と。となりゃあ、ジョンを待ってる余裕はない。今のうちに除霊してみるしかねぇわけだ」 リンさんはぼーさんを見る。 「たとえブラウンさんでも無理だと思いますが」 「どうして」 「ナルのようなタイプの人間は憑依《ひょうい》されにくいかわりに、いったん憑依されると手がつけられないものです」 「ナルのようなタイプ……」 「極めて意志が強く、自制心に優《すぐ》れているタイプ。言葉を返せば我が強い。そういうタイプの人間に憑依した霊を落とすのは容易ではないし、下手《へた》に手出しをして暴走させるとたいへんに危険です。――特にナルは」 「――じゃ、どうすりゃいいんだ?」 「わかりません」 ……わかりません、って、そんな! 「憑依した霊の正体がつかめれば、有効な除霊方法が見つかるかもしれません。あるいは私にも落とせるかも」 ぼーさんは髪をかきあげる。 「やれやれ……」 「ねぇ、ぼーさん」 あたしはコワゴワ聞いてみた。 「憑依霊《ひょういれい》を落とすのってそんなにたいへんなものなの?」 TVとか見るかぎりじゃ霊能者の代表的なお仕事じゃん。なのに、リンさんと綾子とぼーさんと、三人も霊能者がいて誰《だれ》も除霊できないとは。 「ひとくちに憑依霊つってもいろいろあるからなー。――よく言うだろ。悪い霊でも憑《つ》いてるんじゃないか、って。どうもこのところ体調が優《すぐ》れない、不運続きで何をやってもうまくいかない」 「うん」 「そういうのは憑くと言っても横にくっついてるだけだ。霊は人の気力を喰《く》うから、体調も悪くなるし何をやってもうまくいかない」 「そーなの?」 「まぁな。そういうのはたいして落とすのに苦労がない。チンケなやつ《やつ》になると霊能者が近づいただけで逃げたりもする」 「へぇぇ」 「もうちょっと手ごたえのある奴になると、がっちりしがみついてる状態になるな。よからぬことを囁《ささや》いたり、とんでもない欲望を吹きこんだりする。こういうのに憑かれると人は『魔がさした』状態になるわけさ。……だがこれもあまり苦労じゃねぇな。憑かれた人間のほうで意志を強くもってりゃ、霊能者なんて呼ばなくても落ちるからよ」 ふむふむ。 「いちばんおおごとなのは、ナル坊のようなやつさ。普通人間は自分のやりたくないことはしない生き物だ。たとえば強烈な催眠術《さいみんじゅつ》をかけたところで、望んでもいない人間に自殺や殺人をやらせることはできねぇ。心理的な抵抗が強すぎて覚醒《かくせい》しちまう」 「でも、ナルは」 「おおさ。だからたいへんなんだよ。本人の意志に反することをやらせるってことは、本人の意志なんかじゃ対抗できない状態になってるってことだ。いわば頭の奥に寄生しちまってる状態。こういうのを落とすのは並大抵《なみたいてい》のことじゃねーんだ」 「ふうん……」 「だいたい、憑依霊というやつは本人の意志の力……気力が弱まっていると憑いてくる。心配ごとがある、気分が滅入《めい》っている、体力が落ちてる、そういう状態の時だな。精神状態が前向きで気力が充実してるときには、そもそも霊が寄ってはこないもんさ。ナル坊なんてのはいちばん霊が嫌《きら》う相手だろう」 「我《が》は強いし、頑固《がんこ》だし、自分に絶対の自信があっておよそ落ちこむということを知らないタイプだもんね」 「そういうことだ。たぶん一種の虚《きょ》をついて力ずくで寄生したんだろうが、相手が相手だから生半可《なまはんか》な霊にできることじゃねぇ。……確かにジョンでも厳《きび》しいだろうな」 「でもナルはいわば人並みはずれて気力が充実しているわけで……」 「だからいっそうやっかいなんだ。憑依《ひょうい》した奴《やつ》はうまくナルの意識に食いこんで支配している。こうなると本当なら霊を退けるはずの気力が、悪用されて霊を守るために使われたりする。除霊だのなんだのってのはしょせんは気力のぶつけ合いだからよ、当然のことながら気力のあるほうが勝つ。ナルとジョンとどっちが強いと思う」「……ナル」 「だろ? つまり除霊は難しい、と。調査を続行するしかねぇわけだ。しかし、その間ナル坊やをどうする」 縛っても監禁しても無駄《むだ》な相手を? 「私が禁じておきます。金縛《かなしば》りをかけて、このまま眠らせておくのが最善でしょう。意識があると危険ですので」 「ナル坊に危険はないのか」 ぼーさんは渋《しぶ》い顔だった。 「いわば、まったく無防備になるということじゃねぇのか」 「式を残しておきます」 式というのはリンさんの命令に従う使役霊《しえきれい》のことだ。 「アテになるのか?」 「全部を残せば」 「全部?」 ぼーさんが聞くと、 「私の持つ式は五つ。それぞれに得手《えて》があります。五つで互いに補い合うようになっているのです。全部を残せば完全に安全ですが、その代わり私にできることはいくらも残りません」 「つまり、お前さんがパワー・ダウンしちまうわけだ」 「そういうことになります」 ぼーさんは指を弾《はじ》いた。 「ナル坊にうろつかれちゃ、身動きがとれん。お前さんの言うとおりにナルが危険人物だというならなおさらだ。それでいこう」 「さて、どーする。綾子、麻衣《まい》」 意味がわからずに顔を見合わせるあたしと綾子に、ぼーさんは笑ってみせる。 「つまり俺《おれ》たちはナル抜きでやらなきゃならねぇ、ってことさ」 一瞬だけ間《ま》が空《あ》いた。 「あいつはまったく役にたたん。この状態では連れて逃げ出すわけにもいかんだろう。つまり俺《おれ》たちに選択の余地はあまりない。ナルを見捨てて逃げるか、それともやれるかぎりのことをやってみるか」 あたしは思わず叫んでいた。 「見捨てるなんて、できるわけないじゃない!」 ぼーさんがニンマリする。 「じゃ、麻衣は残るんだな。綾子は?」 あたしは背後を振り返る。短い沈黙が降りた綾子を見つめた。 「自信がなけりゃ引っこんでろ」 綾子が髪をかきあげる。 「あんたは自信があるようねぇ?」 「まぁ、なんとかなるんじゃねぇの」 「あんまりアテになりそうにないわね」 ぼーさんは頭をかく。 「ナル坊が使えんのは痛いわな。でも俺たちにはナルにねぇもんがあるからな」 「あぁら、それは初耳ね。なんなのか聞かせてもらってもいいかしら?」 ぼーさんは軽く片目をつぶった。 「謙虚《けんきょ》な姿勢と親切な性格」 ……ぶ。 一拍おいて、綾子がふきだした。 「言えてるぅ」 まぁ、ナルに比《くら》べるとねぇ……。 綾子は大げさな溜《た》め息《いき》をつく。 「助けてやるか。ナルを見捨てるようじゃ人間おしまいだもんね」 「あたしらってば親切な人間だからー」 「そういうことだ」 よぉし、ここはあたしらがふんばって、ナルに貸しを作ってやろうじゃない。
5
――あたしは夜の道を走っていた。 結構切羽《せっぱ》つまって、必死で走っていたりする。心の中で、なんてことだ、と呟《つぶや》いている。(なんてことだ?)走っていくうちにどんどんせつない気分になってくる。こんなことになってしまって、と思う。(こんなこと?)いったいこれからどうすればいいんだろう。 林の中の道だった。走って走って林を抜けると、ぽんと小さな広場に出た。ごくわずか、木立の切れたそこは一面に夏草が生《お》い茂っている。そこには人影が見える。立っている誰《だれ》かと、横たわった誰か、あたしは縫《ぬ》い留められたように立ち止まり、なんてことだ、ともう一度思った。 立っているのはナル。月光をあびて顔色がこの世のものでないように白い。手には包丁《ほうちょう》を握っている。その刃物は真っ赤に濡《ぬ》れて、刃先から今もしずくを滴《したた》らせていた。 「殺してしまった」 ナルは言う。横たわっているのは彰文《あきふみ》さんだ。堅《かた》く眼を閉じて(なんてこったい)もう息をしているようすがない。あたしは顔をおおった。これでもう、おしまいだ(おしまい?) 「しかたなかったんだ」 言ってナルは包丁を捨てる。白いままの左手をさしだした。 「……どうして」 あたしはその手を取れないでいる。 「ここへ来たら、こいつがいて。麻衣《まい》が裏切ったんだと思った」 「あたしがそんなこと、するわけないでしょ」 「だけどこいつのほうが金持ちだし、地位もあるし」(はぁ?) 「そんなの、ぜんぜん関係なかったのに」 あたしはもう一度顔をおおう。 「麻衣が裏切ったんだと思った。やっぱりこいつのほうを選んだんだと」 「そんなはずないのに」(こ、これはいわゆる『三角関係の清算』では) 「……こんなことして、一緒に逃げよ、って言ったのに。どうして信じてくれなかったの」 「ここを知ってるのはお前だけのはずなのに」 「手紙をすり替えられたの。あたし、ぜんぜん別のところで待ってて……」 あたしはナルの手をとる。ナルがあたしを引き寄せた。(きゃーっきゃーっ)。 「……どうするの、これから」 「人を殺して逃げるわけにいかない」(そら、そーだ) 「……死ぬの」(へ?) 「うん。自首してもどうせ殺される」 「……一緒に、行く」 あたしが言うと、ナルは微笑《わら》った。黙《だま》ってあたしの手を引く。手を引かれるままあたしは走りだした。 ――ちょっと、待て。 こりゃ、当然夢でないかい? あたし、なんつーあつかましい夢を見てるだ。ナルと逃げようつって、それを誰《だれ》かが邪魔《じゃま》して彰文《あきふみ》さんと三角関係ってか? ……お、おいしいかも。いや、そうではなくて。でもってこれからナルと心中ってかぁ? 東京に戻ったらタカとセンパイに話して笑いをとってやろうっと。――ではなくて!(どうしてこの状況でギャグってしまうの、あたしってば) あたしはナルと走る。振り返ると追っ手が見える。走って、走って、あたしたちは神社までたどりついた。 唐突《とうとつ》に思ったのは、どうして海じゃないの、ってこと。どうしてだかわからないけどあたしは海へ行くつもりだったのに。 神社までたどりついて、足がなえた。ナルは引っ張るけどもう走れない。どこから現れたのか、横にぼーさんが立ってた。 「これ以上は無理だ。包囲されてる」(包囲?) ナルは周囲を見渡した。 「ここまでか」 「アタシたち、どうなるわけ?」 そう言ったのは綾子《あやこ》。横にはリンさんがいる。 「覚悟《かくご》をすることですね」(覚悟?) どういう意味、と聞こうとしたときに周囲の林からどっと人が出てきた。数はわからない。全員が刀を持ってるのに、あたしたちに逃げ道はない。あたしはそいつらが駆け寄ってくるのを絶望的な気分で見ていた。 ――この……裏切り。(裏切り?) 「必ず」 と、誰かが言った。あたしはうなずく。拳《こぶし》を握りしめる。 「必ず末世《まつせ》まで呪《のろ》ってやる……!」(末世? 呪う? それ、どういう意味!?) 刀を振り上げた栄次郎《えいじろう》さんが近づいてきた。その自刃がきらめいて降り降ろされるのをあたしはただにらみつけていた。
――あたしは突然、目を覚ました。 暗い部屋の中だった。広い八畳に布団がふたつ。眠っている綾子が見える。どういうわけか閉めておいたはずの障子《しょうじ》が開いてて、縁側の窓越しに冴《さ》えざえとした月光が入りこんでいた。 ……なんちゅー夢だ。 考えこんだとき、コンと高い音が窓のほうからした。あたしは顔を上げる。窓ガラスがもう一度鳴る。誰かが小石を投げている。 あたしは立ち上がって窓を開けにいった。窓の下ははるか下に入り江の水面。真っ黒な水が鏡のように広がっている。その水面から雪の降る速度で舞い上がってくる無数の白い光。人魂《ひとだま》のようなそれは頼りない光を灯して、すうっと空へ消えていく。 ……ああ、あたし目を覚ましてなかったのか。 水面に人の姿が見えた。……ナルだ。彼は顔を上げてあたしを振り仰《あお》ぎ、そして「おいで」と呼んだ。あたしは引かれたように窓枠《まどわく》を乗り越えて飛び下りる。どうということもない。これは夢なんだから。 ふんわりと下降してあたしは水面に降り立った。素足にガラスを踏んだような感触がした。いくつもの光が空へ舞い上がっていく。ナルが微笑《わら》った。暖かい、少しだけ困ったような笑顔だ。 「たいへんなことになっちゃったね」 あたしがいうとナルはうなずく。それから、 「……夢、見れた?」 そう聞いてきた。 「夢? ひょっとしてナルとあたしが心中するやつ?」 ナルは安心したように微笑《わら》ってうなずいた。それからちょっと首を傾ける。 「……怖《こわ》かった?」 「ううん。そうでもない」 「だったら、よかった」 ナルは微笑《わら》う。眼が和《なご》んでとびきりステキな表情になる。 「ひょっとしてあの夢、ナルが見せたの?」 「少し違《ちが》う。僕は夢に入る方向を示しただけ」 「方向を示す?」 聞き返したけど、ナルはうなずいただけだった。 入り江は完全に断崖《だんがい》に囲まれていた。細いV字形の亀裂《きれつ》のように、一方の断崖が切れていてそこから海へつながっている。その細い小路にはせめぎあうように岩が突き出ていて、水面を動かす波はほとんどない。背後を見上げると、清水寺《きよみずでら》の舞台みたいに木材を組み上げた上に張りだした建物が見えた。ちょっと圧巻な眺《なが》めだ。そこを横切ってふわふわと白い光が無数に昇っていく。亀裂の右に大きな黒い穴が見えた。あれが彰文さんが言っていた洞窟《どうくつ》なんだな。切り立った断崖《だんがい》はいかにも硬そうな岩でできている。その岩肌に洞窟の入り口からえぐったような窪《くほ》みが続いていた。自然にできたものじゃない。誰《だれ》かが通路としてけずったものだろう。人がかろうじて歩けるほどの幅があって、目線でたどっていくとやがて石段になってそれが断崖の上まで続いている。 周囲を眺《なが》めているあたしの目の前を小さな光が横切っていく。 本当に雪のようだ。 「これみんな、霊?」 「そう。吹きよせられた霊のようだね」 ナルはそう言って洞窟のほうへ歩き出す。入り口まで行ってあたしを呼んだ。 洞窟はそんなに大きくなかった。体育館の半分以下の大きさ。海から入り江までつながっていると聞いたのできっと水が通ってるんだろうと思っていたのに、そうではなかった。洞窟の地面は水面よりも一メートル以上高い。ゴロゴロとした石が一面に転《ころ》がっていた。洞窟は「く」の字形にカーブしていて、反対側に海が見える。大小の岩が突き出した海面に穏《おだ》やかな波が打ち寄せている。海側の地面のほうが少し低い。波は洞窟の入り口まで達していた。曲がった洞窟のいちばん奥には小さな祠《ほこら》が建っている。そうして白い小さな光は海側の入り口から波に乗ったようにして吹きこんでくる。洞窟の中を通りぬけて入り江に出ると、上に向かってふきあげていく。 「これ、どういう霊なの?」 「たぶんこのあたりの海で死んだ命。ここは魂《たましい》が吹き寄せてくる場所らしいから」 あたしは手を伸ばしてみる。小さな光が指先に触《ふ》れた。指の先に何かが跳《は》ねる感触がして、それは魚だとなんとなくわかった。 「それで祠があるんだね」 あたしは言って、祠を振り返る。古い小さな祠だった。なんだか少しだけ歪《ゆが》んで見える。 「なんか……変」 ナルはうなずいた。 「僕《ぼく》にもわからない。悪い場所ではないけど、よい場所でもないみたい。……そうだな、霊場の気配がする」 「ふうん……」 うなずいて、あたしはナルに聞いてみる。 「ナル、だいじょうぶ?」 「うん。ごめん、心配をかけて」 「ん。……だいじょうぶだったらいいの」 そう言うと、ナルは微笑《わら》った。とてもきれいな笑顔だった。その笑顔を見ながら、やっぱりあたしはナルが好きなんだな、とそう思った。
――そうしてあたしは本当に目が覚めた。 覚めた? ……うん、覚めた。 目を開けた瞬間、とっても惜しい気がした。もっと話していたかったのにな。そう思って寝ころんだまま首を動かす。障子《しょうじ》はきちんと閉めてある。白い紙越しに夜明け前の蒼《あお》い光が差し込んでいた。
三章 海から来るもの
1
翌日は昼過ぎに到着したジョンと真砂子《まさこ》の反応たるや見物《みもの》だった。 「ナルは尋常《じんじょう》でない根性の霊に憑依《ひょうい》されて身動きがとれないの」 あたしがそう言ったときのふたりのあの顔。真砂子は泣きそうな顔をした。 「……いまどうしてるんですの?」 「寝てるよ。リンさんが禁呪《きんじゅ》とかいうのをかけて、目が覚めないようにしてあるの」 「会えます?」 真砂子はリンさんを見る。リンさんはうなずいた。 「顔を見るだけでしたら。決して部屋には入らないでください」 真砂子は大真面目《おおまじめ》な顔でうなずく。本当に泣きそうな顔だった。やっぱりこいつもナルが本当に好きなんだなぁ、とあたしは思った。 「こっち」 あたしは襖《ふすま》を開ける。ベースとして使っている部屋の、奥のほうの八畳にゆうべナルを移した。隣《となり》の部屋にひとりでおいておくのはなんとなく不安だということで意見が一致したからだ。 真砂子は中をのぞきこんで息を吐《は》いた。辛《つら》そうな声に聞こえた。 部屋には布団《ふとん》がひとつだけ。その四方には呪符《じゅふ》が木の枝で畳に射してる。ナルは身動きひとつしない。よほど気をつけて見なければ、息をしてないのかと思うほど。白い額《ひたい》に小さく文字が描かれている。あれもリンさんが書いたのだけど、インドの女の人がしてる赤いのみたいでなんだかよく似合っている。 「どういう霊が憑《つ》いているのか、わかる?」 あたしが聞くと、真砂子は力なく首を振った。 「よく――見えません。霊が憑いているのは感じるのですけど……。空虚《くうきょ》な霊と呼ぶべきですかしら」 リンさんが聞きとがめたように振り返った。 「どういうことですか?」 「無色透明で、なんの感情も放射していないんですの。なのにとても存在感が強い……。ひょっとしたら、霊の正体をつかめないように、何かが邪魔《じゃま》しているのかもしれませんわ」 リンさんは考えこむように、うつむく。 「閉めていい?」 あたしが聞くと真砂子はこっくりうなずく。あんまりそのようすが殊勝《しゅしょう》なんで、あたしはちょっとかわいそうになってしまった。 「さてと」 ぼーさんは真砂子とジョンにひととおりの事情の説明をする。話の途中で彰文《あきふみ》さんがコーヒーを持ってきてくれた。 「そ、それは松崎《まつざき》さん、タイヘンでしたですね」 ジョンに言われて綾子《あやこ》は高笑いする。 「いーの。これをネタに思いっきりゆすってやるわ。ほーほほ」 ……まーたこいつはそんなことを。 ぼーさんはリンさんに視線を向けて、 「ゆうべなんか動きはあったのか?」 「母屋《おもや》と、入り江側の部屋に。ご覧になりますか?」 「なるともー」 ……がっくり。どーも調子《ちょうし》が狂うんだよねぇ。やっぱリンさんが「ご覧になりますか?」と聞いたら、渋《しぶ》ーく「再生してくれ」とかなんとか言ってくんないと。ぶつぶつ。 モニターに映像が出る。奇妙な映像が撮影されていたのは葉月《はづき》ちゃんの部屋と母屋の廊下《ろうか》、それから入り江側の部屋だった。母屋の画面には両方とも妙な光が映りこんでいる。薄暗いぼんやりした光のようなもの。葉月ちゃんの部屋に現れた光は布団の周《まわ》りをゆらゆらと動いて消えてしまった。廊下に現れたほうはすっと画面を横切るだけ。 「音は」 「無音です。振動はありません。ほかの計器類も正常値の範囲内。ただし気温が五度ほど下がっています」 「入り江側の部屋は」 「モニターに出します」 入り江側の部屋においたカメラはまっすぐ窓のほうを向いている。その窓の向こうにときどき白い微《かす》かな光が見える。それは下から上へ動いていく。 ……下から上。 「霊姿なのか、あれは?」 「わかりません。ここも温度以外には変化は見られません」 「温度差は」 「やはり五度ていどですね」 あたしはこそこそと彰文さんに声をかける。 「……下の洞窟《どうくつ》なんですけど……」 「どうかしましたか?」 「ひょっとして洞窟の脇に道があったりします? 崖《がけ》をえぐった道みたいな……でもって、石段があってお店の脇に昇ってるんですけど……」 彰文さんはきょとんとした。 「……行ってご覧になったんですか?」 やっぱりあるのか。 「でもって洞窟は『く』の字形に曲《ま》がってて、奥に祠《ほこら》があったりします?」 「下へ降りたんですか? だめですよ、あの石段は危ないんです」 ぼーさんがあたしを見た。 「どうした、嬢ちゃん」 「あたし……また抜け出しちゃったみたい」 「抜け出した、って……また幽体離脱か?」 「……らしいんだけど……」 もごもご。あたしはナルぬきで夢の後半部の話をする。前半はとうてい人に話せる内容じゃないしなー。彰文さんがぽかんとあたしを見ていた。 「でね、洞窟に海から人魂《ひとだま》が吹き寄せてくるの。魚とか、そういうのの霊まで」 「魚の霊だぁ?」 ……いや、自分でも変だとは思うんですけど。でも、お魚だって生きてるんだし、化《ば》け猫がいるなら化け魚もいていいじゃない。 「あの洞窟はそうなんです」 真面目《まじめ》な口調で言ったのは彰文さんだった。 「潮《しお》の関係で死体が流れてくるんです」 ――え? 「この近辺の海で死ぬと、あの洞窟に流れつきます。特に人やなんかの大きいものは。それで祠《ほこら》があるんです。うちの犬が流れ着いたのもあそこでした」 ぼーさんは眉《まゆ》をひそめる。 「見てみたい。案内してもらえますか」 彰文さんはうなずいて時計を見る。 「干潮《かんちょう》までは少し時間があるな……。あそこは石段を使わないかぎり、潮が引くまでは行けないので」 「ついでにその石段も見てみたいところだな」 「だったら、少しこのあたりをご案内します。そのうちに潮が引くでしょう」
2
リンさんだけを機材とナルの見張りに残し、あたしたちはぞろぞろと店を出て庭を入り江に添って歩いていった。入り江のちょうどいちばん奥に崩《くず》れかけた石段がある。段の途中は単なる急斜面になっていたりするので、人が使うことはほぼ不可能に近いだろう。 「なんだってこんなところに石段があるのかねぇ」 ぼーさんが聞くと彰文《あきふみ》さんは、 「よくわからないのですけどそうとう古いものらしいです。ここに店を建《た》てた時からあったそうですから。祖母なんかは小さい頃この石段を使って洞窟《どうくつ》に行ったようですよ。もっともその当時からすでに半分壊《こわ》れかけていたそうですが」 一応入り江にそっては手すりや低い塀《へい》が取りまいていて、石段の降り口にはちゃんと鉄柵《てっさく》の扉がついていた。扉から石段までは少し距離があって、柵のこちらからでは入り江の水面は見えない。 「ここに店ができたのはいつ頃なんです?」 「曽祖父《そうそふ》の代だと聞いています。もともと金沢《かなざわ》に店があったのを、ここへ移したらしいんです」 「じゃあそれまでは、ここに住んでいたわけじゃねぇんだ」 「ええ。でもここはもともとうちの本家があった場所らしいんです。曽祖父はそれでここへ何度か来ていて、ここに店を移すことにしたようですね」 「その本家がいつ頃この土地へ移ってきたのかわかりますか」 彰文さんは首をかしげた。 「さあ、それは――。菩提寺《ぼだいじ》の墓に入ってる人でいちばん古い人は安政《あんせい》年間の生まれですね。それ以前はちょっと僕では。なんでしたら祖母に聞いておきますけれど」 「頼みます。ときに安政年間というといつ頃でしたっけ?」 彰文さんは首をかしげる。 「江戸時代というのは確かですけど詳《くわ》しいことは。何しろ受験から遠ざかって長いもので……」 「現役高校生」 ぼーさんがいきなりあたしを振り返る。 「あたしの学校じゃまだ源氏と平家が戦ってんだい」 「真砂子《まさこ》は。いちおう学校に行ってんだろ?」 真砂子はつんとそっぽを向く。 「いちおう、はよけいですわ。うちではまだ源氏の君が活躍してますの」 「真砂子、高校行ってんの!?」 「勝手にひとを中卒にしないでいただけます? もちろん行ってますわよ」 ぼーさんがニンマリ笑った。 「芸能人で有名な某私立高校だよな」 はー、そうなのか。さすがにメジャー霊媒師《れいばいし》はたいへんだ。 「基本的に忙《いそが》しいんでしょ? よく来れたねぇ」 あたしが聞くと真砂子はちょっと赤くなった。 「忙しいんですの。まだ補習の途中でしたし。……言っておきますけれど出席日数を補うための補習ですわよ」 わーった、わーった。で、ナルに会えるってんで飛んできたわけだ。いじらしいのぉ。――ん? ちょっと待てよ。 「真砂子、学校には何着て行ってんの?」 あたしが聞くと真砂子は心底軽蔑《けいべつ》した顔をした。 「もちろん制服がございますわ。それともあたくしが着物で登校しているとでもお思いですの?」 そんなことは考えてないやいっ。まぁ、ハカマかな、ていどのことは考えたけどさ、むにゃむにゃ。 「あれが茶室です」 彰文さんが手をあげた。広い庭の歩道(というのだろーか)を歩いてきたあたしたちの目の前に小さな建物が見える。 「庭からはまったく入り江は見えないわけか?」 ぼーさんに聞かれて彰文さんは、 「茶室の向こうへ行くと雌鼻《めばな》――岬《みさき》の先まで行けます。そこからでしたら」 その言葉どおり、茶室をすぎてなおも歩いていくと、こぢんまりした庭に出て、そこからは入り江を見おろすことができた。低い垣根ごしに対岸の断崖《だんがい》と、その斜面に張りだした建物、建物を支える足組みが見える。そうしてその足組みの下に岩肌をえぐって細い道が通っていた。道の右は崩《くず》れかけた石段、左にはぽっかり口をあけた洞窟《どうくつ》。 「もう少し先まで行きますか」 彰文さんがそう言って、鍵を使って垣根にある小さな戸を開ける。そこから岬の突端までは低い松がまばらに生《は》えた草地になっている。 「ここから先は柵《さく》がないので気をつけてくださいね」 ちょっとだけおっかなびっくり歩いて、突端までは十五歩だった。突端と言っても切り立った断崖絶壁というわけではなくて、ゆるい斜面がいちおうあって、そこに潅木《かんぼく》が生えていたりする。斜面の先が断崖になっていてそこからが海だった。突端の右手に入り江の入り口になる亀裂《きれつ》が口を開けている。 「上から見るとそんなに崖《がけ》って感じでもないんだな」 ぼーさんが言うと彰文さんは微笑《わら》う。突然綾子《あやこ》が、 「ちょっと若旦那《わかだんな》」 「若旦那……って、僕《ぼく》は別に家を継《つ》ぐわけでは 「細かいことにはこだわらない。あれ、なんなの?」 綾子がさしたのは松の間に並んだ石だった。一抱《ひとかか》えくらいの石がきちんと横に五つ並んでいる。 「ああ、あれですか。あれは僕にもわかりません。祖母もなんだか知らないようです。墓石みたいなんで、いじらないでおくんだと言ってました」 「へぇぇ」 海には大小の岩が突き出している。波があたって白く砕《くだ》けていた。正面にはひときわ大きな岩がある。小山ほどの大きいのと少し小さいのと。そこにはそれぞれ注連縄《しめなわ》がかけてあった。ジョンが指をさす。 「吉見《よしみ》さん、あれはなんですか?」 「雄瘤《おこぶ》と雌瘤《めこぶ》です。大きいほうが雄瘤、小さいほうが雌瘤ですね」「オコブとメコブ……。注連縄がかけてありますけど?」 「ええ。でも別にご神事とは関係ないんだと思うんですけど。あの注連縄もお正月に近郊の漁師さんがかけ直しているみたいなので」 言ってから、彰文さんはあたしに、 「あれはね、ここから海に飛び込んだ男の人と女の人がああなったんだ、って言われてるんです」 |