にゃ? 「さっきの除霊も完全に失敗だろう。綾子が役にたったのを見たことがあるか?」 それはそーだけども。 「だいたい、『巫女《みこ》』ってことじたいがうさんくさい。ちゃんとした神社に所属する巫女さんが、ふらふら勝手に除霊をしてまわったりするもんか」 「え、そうなの?」 「そう。綾子の『巫女』ってぇ肩書きはあくまでも自称、ってことだろう。巫女のナリした霊能者はたしかに多いが、それかってぇとそれとも違う。そういう連中は宗教活動の一環として除霊をやってるもんだからさ。綾子にゃまったく宗教色がねぇし、だからといって神道についてシロウトってわけでもねぇようだ。一応両部神道にのっとってやってるからな。どっかでちゃんと修行《しゅぎょう》をしたのはまちがいねぇんだろうが……」 「ふうん」 「それに第一、本当に無能ならナル坊が連れてくるかよ」 「それは、言える」 こう考えるとけっこう綾子もナゾの女だなぁ。 てなことを考えながらモニターを見るともなく眺《なが》めていて、あたしは一瞬のうちに硬直した。 げっ、なんだありゃあ。 店の廊下《ろうか》の映像だった。画面の中央に遠く人影が見える。もちろんあれはナルと綾子だ。それはべつに不思議《ふしぎ》でもなんでもないんだけどさ、そのナルの両手が綾子の肩に置かれているように見えるのはどういうわけだぁ!? 「どうした?」 ぼーさんに声をかけられたけど、返事なんてできるかい。ナルが綾子を引き寄せる。あ、綾子の手がナルの身体《からだ》にまわった。こーれはどう見てもラブ・シーンでないの!? ぼーさんもその映像を見つけたのか、 「げ」 と、短く一言。それから感心した(呆《あき》れた?)ように何やら言って、そうして突然立ち上がった。 邪魔すっと恨《にく》まれるぞ。……ええい、こんな伏兵がいたとは。真砂子《まさこ》だけを警戒していたというのにぃっ! 「リン! 来い!」 ぼーさんのせっぱつまった声。振り返ると血相《けっそう》を変えてベースを駆け出していく。リンさんまでが弾《はじ》かれたように立ち上がった。あたしは唖然《あぜん》とし――そうして画面に視線をもどして、血の気が引いた。 ――ラブ・シーン? ……とんでもないっ! あれは、ナルが綾子の首を絞《し》めているんだ。
あたしがあわてふためいて廊下《ろうか》に飛び出した時には、ナルは廊下に倒《たお》れていた。そのわきでは綾子が座りこんで激しく咳《せ》きこんでいる。綾子が無事でよかった。綾子のためにもナルのためにも。 「ぼーさん、ナルは」 「リンが手刀で一発」 そう言って掌《てのひら》の横で自分の首筋を叩《たた》くまねをする。 「いったい、どうしたの……!?」 ぜいぜいいっている綾子の背中をさする。綾子は何か言おうとして盛大に咳こんでしまった。 「どーしたもこーしたもねぇだろ。いくらナルの性格が悪くても他人の首を絞めるもんか」 ……それはそうだけど。 「さっきの奴《やつ》だ。奴は壁を抜けたんじゃない。ナルの中に入りこんだんだ」 ……あ。 「憑依《ひょうい》されてる。ナルに憑依するような根性のある霊がいたとはな」 言ってぼーさんは苦々《にがにが》しげな顔をする。 「こいつはやっかいなことになりやがった」
4
なんてこったい。こんなことが起こりうるとは。 とりあえずナルをベースの隣《となり》にある部屋に運《はこ》んで寝せて。あたしたちは呆然《ぼうぜん》と意識のないナルを見てたりする。 「なんなのよ、あれは」 綾子《あやこ》の声はかすれてしまっている。 「うるさい、って。いきなりアレよぉひどいんだからっ!」 「まぁまぁ。ナルが自分の意志でやったことじゃないんだし」 「それ、自分が襲われても言える? ナルの眼が据《す》わったらどんだけ怖《こわ》いと思うのよっ!」 ……それはたしかに、怖かったろーな。 「ぜったい許さないからっ!」 はいはい。おざなりに綾子の背中をたたいて、あたしはぼーさんにこわごわと進言してみる。 「やっぱ栄次郎《えいじろう》さんみたいに縛《しば》っといたほうがいいんじゃないの?」 ぼーさんは顔をしかめた。 「ナル坊をか?」 いや、その気持ちはわかりますが。正気に戻ったとき何を言われるかわかったもんじゃねぇからな。んでもやはりこのまま寝かせとくのは危険では。 「無駄《むだ》だと思いますが」 冷静な声で言ったのはリンさんだった。 「なんで」 ぼーさんの問いに、リンさんはあくまでも無表情のまま。 「縛ったくらいでナルを止めることはできないということです」 ぼーさんは首をかしげる。 「……どういうことだ?」 「言葉どおりの意味です。松崎《まつざき》さんは運がよかったのだと思いますね」 言ってリンさんは綾子を見る。 「おそらくはナルに憑依《ひょうい》した者も、まだナルの使い方がよくわかっていないのだと思います。そうでなければ松崎さんはとっくに死んでいますよ」 「そりゃ、どういう意味だ?」 「ですから、言葉どおりの意味です。奴《やつ》が本格的にナルを使うことを覚えたら、我々に対抗手段はありません。縛り上げようと監禁しようと無駄です。我々も――ナル自身も生き残ることはできないでしょう」 あたしたちは思わず眠っているナルに視線を向ける。 ?? どういう意味? 「どういうことなのか、聞いたら教えてもらえるかね」 「もうしわけありませんが、私の一存では」 ぼーさんはがっくり肩を落として溜《た》め息《いき》をひとつ。 「あのなぁ」 「ご不満はわかりますが、私にはもうしあげられません。ここは信じていただくしかないんです。ナルはあなた方が想像している以上に危険な人間だということを」 あたしと綾子は顔を見合わせる。さっぱり意味がわからん。 「ひとつ聞く。お前さん、喧嘩《けんか》は強いか?」 ぼーさんが聞くとリンさんはあっさり答える。 「おそらく」 「ナルとどっちが?」 リンさんは無表情に言ってのけた。 「殺し合いなら、ナルの圧勝でしょうね」 ――なんだって? ぼーさんはリンさんをまじまじと見て、それから深い深い溜め息をついた。 「……了解。つまり、すまきにして物置に放りこんでも無駄《むだ》なんだな? ナルは危険人物だ、と。となりゃあ、ジョンを待ってる余裕はない。今のうちに除霊してみるしかねぇわけだ」 リンさんはぼーさんを見る。 「たとえブラウンさんでも無理だと思いますが」 「どうして」 「ナルのようなタイプの人間は憑依《ひょうい》されにくいかわりに、いったん憑依されると手がつけられないものです」 「ナルのようなタイプ……」 「極めて意志が強く、自制心に優《すぐ》れているタイプ。言葉を返せば我が強い。そういうタイプの人間に憑依した霊を落とすのは容易ではないし、下手《へた》に手出しをして暴走させるとたいへんに危険です。――特にナルは」 「――じゃ、どうすりゃいいんだ?」 「わかりません」 ……わかりません、って、そんな! 「憑依した霊の正体がつかめれば、有効な除霊方法が見つかるかもしれません。あるいは私にも落とせるかも」 ぼーさんは髪をかきあげる。 「やれやれ……」 「ねぇ、ぼーさん」 あたしはコワゴワ聞いてみた。 「憑依霊《ひょういれい》を落とすのってそんなにたいへんなものなの?」 TVとか見るかぎりじゃ霊能者の代表的なお仕事じゃん。なのに、リンさんと綾子とぼーさんと、三人も霊能者がいて誰《だれ》も除霊できないとは。 「ひとくちに憑依霊つってもいろいろあるからなー。――よく言うだろ。悪い霊でも憑《つ》いてるんじゃないか、って。どうもこのところ体調が優《すぐ》れない、不運続きで何をやってもうまくいかない」 「うん」 「そういうのは憑くと言っても横にくっついてるだけだ。霊は人の気力を喰《く》うから、体調も悪くなるし何をやってもうまくいかない」 「そーなの?」 「まぁな。そういうのはたいして落とすのに苦労がない。チンケなやつ《やつ》になると霊能者が近づいただけで逃げたりもする」 「へぇぇ」 「もうちょっと手ごたえのある奴になると、がっちりしがみついてる状態になるな。よからぬことを囁《ささや》いたり、とんでもない欲望を吹きこんだりする。こういうのに憑かれると人は『魔がさした』状態になるわけさ。……だがこれもあまり苦労じゃねぇな。憑かれた人間のほうで意志を強くもってりゃ、霊能者なんて呼ばなくても落ちるからよ」 ふむふむ。 「いちばんおおごとなのは、ナル坊のようなやつさ。普通人間は自分のやりたくないことはしない生き物だ。たとえば強烈な催眠術《さいみんじゅつ》をかけたところで、望んでもいない人間に自殺や殺人をやらせることはできねぇ。心理的な抵抗が強すぎて覚醒《かくせい》しちまう」 「でも、ナルは」 「おおさ。だからたいへんなんだよ。本人の意志に反することをやらせるってことは、本人の意志なんかじゃ対抗できない状態になってるってことだ。いわば頭の奥に寄生しちまってる状態。こういうのを落とすのは並大抵《なみたいてい》のことじゃねーんだ」 「ふうん……」 「だいたい、憑依霊というやつは本人の意志の力……気力が弱まっていると憑いてくる。心配ごとがある、気分が滅入《めい》っている、体力が落ちてる、そういう状態の時だな。精神状態が前向きで気力が充実してるときには、そもそも霊が寄ってはこないもんさ。ナル坊なんてのはいちばん霊が嫌《きら》う相手だろう」 「我《が》は強いし、頑固《がんこ》だし、自分に絶対の自信があっておよそ落ちこむということを知らないタイプだもんね」 「そういうことだ。たぶん一種の虚《きょ》をついて力ずくで寄生したんだろうが、相手が相手だから生半可《なまはんか》な霊にできることじゃねぇ。……確かにジョンでも厳《きび》しいだろうな」 「でもナルはいわば人並みはずれて気力が充実しているわけで……」 「だからいっそうやっかいなんだ。憑依《ひょうい》した奴《やつ》はうまくナルの意識に食いこんで支配している。こうなると本当なら霊を退けるはずの気力が、悪用されて霊を守るために使われたりする。除霊だのなんだのってのはしょせんは気力のぶつけ合いだからよ、当然のことながら気力のあるほうが勝つ。ナルとジョンとどっちが強いと思う」「……ナル」 「だろ? つまり除霊は難しい、と。調査を続行するしかねぇわけだ。しかし、その間ナル坊やをどうする」 縛っても監禁しても無駄《むだ》な相手を? 「私が禁じておきます。金縛《かなしば》りをかけて、このまま眠らせておくのが最善でしょう。意識があると危険ですので」 「ナル坊に危険はないのか」 ぼーさんは渋《しぶ》い顔だった。 「いわば、まったく無防備になるということじゃねぇのか」 「式を残しておきます」 式というのはリンさんの命令に従う使役霊《しえきれい》のことだ。 「アテになるのか?」 「全部を残せば」 「全部?」 ぼーさんが聞くと、 「私の持つ式は五つ。それぞれに得手《えて》があります。五つで互いに補い合うようになっているのです。全部を残せば完全に安全ですが、その代わり私にできることはいくらも残りません」 「つまり、お前さんがパワー・ダウンしちまうわけだ」 「そういうことになります」 ぼーさんは指を弾《はじ》いた。 「ナル坊にうろつかれちゃ、身動きがとれん。お前さんの言うとおりにナルが危険人物だというならなおさらだ。それでいこう」 「さて、どーする。綾子、麻衣《まい》」 意味がわからずに顔を見合わせるあたしと綾子に、ぼーさんは笑ってみせる。 「つまり俺《おれ》たちはナル抜きでやらなきゃならねぇ、ってことさ」 一瞬だけ間《ま》が空《あ》いた。 「あいつはまったく役にたたん。この状態では連れて逃げ出すわけにもいかんだろう。つまり俺《おれ》たちに選択の余地はあまりない。ナルを見捨てて逃げるか、それともやれるかぎりのことをやってみるか」 あたしは思わず叫んでいた。 「見捨てるなんて、できるわけないじゃない!」 ぼーさんがニンマリする。 「じゃ、麻衣は残るんだな。綾子は?」 あたしは背後を振り返る。短い沈黙が降りた綾子を見つめた。 「自信がなけりゃ引っこんでろ」 綾子が髪をかきあげる。 「あんたは自信があるようねぇ?」 「まぁ、なんとかなるんじゃねぇの」 「あんまりアテになりそうにないわね」 ぼーさんは頭をかく。 「ナル坊が使えんのは痛いわな。でも俺たちにはナルにねぇもんがあるからな」 「あぁら、それは初耳ね。なんなのか聞かせてもらってもいいかしら?」 ぼーさんは軽く片目をつぶった。 「謙虚《けんきょ》な姿勢と親切な性格」 ……ぶ。 一拍おいて、綾子がふきだした。 「言えてるぅ」 まぁ、ナルに比《くら》べるとねぇ……。 綾子は大げさな溜《た》め息《いき》をつく。 「助けてやるか。ナルを見捨てるようじゃ人間おしまいだもんね」 「あたしらってば親切な人間だからー」 「そういうことだ」 よぉし、ここはあたしらがふんばって、ナルに貸しを作ってやろうじゃない。
5
――あたしは夜の道を走っていた。 結構切羽《せっぱ》つまって、必死で走っていたりする。心の中で、なんてことだ、と呟《つぶや》いている。(なんてことだ?)走っていくうちにどんどんせつない気分になってくる。こんなことになってしまって、と思う。(こんなこと?)いったいこれからどうすればいいんだろう。 林の中の道だった。走って走って林を抜けると、ぽんと小さな広場に出た。ごくわずか、木立の切れたそこは一面に夏草が生《お》い茂っている。そこには人影が見える。立っている誰《だれ》かと、横たわった誰か、あたしは縫《ぬ》い留められたように立ち止まり、なんてことだ、ともう一度思った。 立っているのはナル。月光をあびて顔色がこの世のものでないように白い。手には包丁《ほうちょう》を握っている。その刃物は真っ赤に濡《ぬ》れて、刃先から今もしずくを滴《したた》らせていた。 「殺してしまった」 ナルは言う。横たわっているのは彰文《あきふみ》さんだ。堅《かた》く眼を閉じて(なんてこったい)もう息をしているようすがない。あたしは顔をおおった。これでもう、おしまいだ(おしまい?) 「しかたなかったんだ」 言ってナルは包丁を捨てる。白いままの左手をさしだした。 「……どうして」 あたしはその手を取れないでいる。 「ここへ来たら、こいつがいて。麻衣《まい》が裏切ったんだと思った」 「あたしがそんなこと、するわけないでしょ」 「だけどこいつのほうが金持ちだし、地位もあるし」(はぁ?) 「そんなの、ぜんぜん関係なかったのに」 あたしはもう一度顔をおおう。 「麻衣が裏切ったんだと思った。やっぱりこいつのほうを選んだんだと」 「そんなはずないのに」(こ、これはいわゆる『三角関係の清算』では) 「……こんなことして、一緒に逃げよ、って言ったのに。どうして信じてくれなかったの」 「ここを知ってるのはお前だけのはずなのに」 「手紙をすり替えられたの。あたし、ぜんぜん別のところで待ってて……」 あたしはナルの手をとる。ナルがあたしを引き寄せた。(きゃーっきゃーっ)。 「……どうするの、これから」 「人を殺して逃げるわけにいかない」(そら、そーだ) 「……死ぬの」(へ?) 「うん。自首してもどうせ殺される」 「……一緒に、行く」 あたしが言うと、ナルは微笑《わら》った。黙《だま》ってあたしの手を引く。手を引かれるままあたしは走りだした。 ――ちょっと、待て。 こりゃ、当然夢でないかい? あたし、なんつーあつかましい夢を見てるだ。ナルと逃げようつって、それを誰《だれ》かが邪魔《じゃま》して彰文《あきふみ》さんと三角関係ってか? ……お、おいしいかも。いや、そうではなくて。でもってこれからナルと心中ってかぁ? 東京に戻ったらタカとセンパイに話して笑いをとってやろうっと。――ではなくて!(どうしてこの状況でギャグってしまうの、あたしってば) あたしはナルと走る。振り返ると追っ手が見える。走って、走って、あたしたちは神社までたどりついた。 唐突《とうとつ》に思ったのは、どうして海じゃないの、ってこと。どうしてだかわからないけどあたしは海へ行くつもりだったのに。 神社までたどりついて、足がなえた。ナルは引っ張るけどもう走れない。どこから現れたのか、横にぼーさんが立ってた。 「これ以上は無理だ。包囲されてる」(包囲?) ナルは周囲を見渡した。 「ここまでか」 「アタシたち、どうなるわけ?」 そう言ったのは綾子《あやこ》。横にはリンさんがいる。 「覚悟《かくご》をすることですね」(覚悟?) どういう意味、と聞こうとしたときに周囲の林からどっと人が出てきた。数はわからない。全員が刀を持ってるのに、あたしたちに逃げ道はない。あたしはそいつらが駆け寄ってくるのを絶望的な気分で見ていた。 ――この……裏切り。(裏切り?) 「必ず」 と、誰かが言った。あたしはうなずく。拳《こぶし》を握りしめる。 「必ず末世《まつせ》まで呪《のろ》ってやる……!」(末世? 呪う? それ、どういう意味!?) 刀を振り上げた栄次郎《えいじろう》さんが近づいてきた。その自刃がきらめいて降り降ろされるのをあたしはただにらみつけていた。
――あたしは突然、目を覚ました。 暗い部屋の中だった。広い八畳に布団がふたつ。眠っている綾子が見える。どういうわけか閉めておいたはずの障子《しょうじ》が開いてて、縁側の窓越しに冴《さ》えざえとした月光が入りこんでいた。 ……なんちゅー夢だ。 考えこんだとき、コンと高い音が窓のほうからした。あたしは顔を上げる。窓ガラスがもう一度鳴る。誰かが小石を投げている。 あたしは立ち上がって窓を開けにいった。窓の下ははるか下に入り江の水面。真っ黒な水が鏡のように広がっている。その水面から雪の降る速度で舞い上がってくる無数の白い光。人魂《ひとだま》のようなそれは頼りない光を灯して、すうっと空へ消えていく。 ……ああ、あたし目を覚ましてなかったのか。 水面に人の姿が見えた。……ナルだ。彼は顔を上げてあたしを振り仰《あお》ぎ、そして「おいで」と呼んだ。あたしは引かれたように窓枠《まどわく》を乗り越えて飛び下りる。どうということもない。これは夢なんだから。 ふんわりと下降してあたしは水面に降り立った。素足にガラスを踏んだような感触がした。いくつもの光が空へ舞い上がっていく。ナルが微笑《わら》った。暖かい、少しだけ困ったような笑顔だ。 「たいへんなことになっちゃったね」 あたしがいうとナルはうなずく。それから、 「……夢、見れた?」 そう聞いてきた。 「夢? ひょっとしてナルとあたしが心中するやつ?」 ナルは安心したように微笑《わら》ってうなずいた。それからちょっと首を傾ける。 「……怖《こわ》かった?」 「ううん。そうでもない」 「だったら、よかった」 ナルは微笑《わら》う。眼が和《なご》んでとびきりステキな表情になる。 「ひょっとしてあの夢、ナルが見せたの?」 「少し違《ちが》う。僕は夢に入る方向を示しただけ」 「方向を示す?」 聞き返したけど、ナルはうなずいただけだった。 入り江は完全に断崖《だんがい》に囲まれていた。細いV字形の亀裂《きれつ》のように、一方の断崖が切れていてそこから海へつながっている。その細い小路にはせめぎあうように岩が突き出ていて、水面を動かす波はほとんどない。背後を見上げると、清水寺《きよみずでら》の舞台みたいに木材を組み上げた上に張りだした建物が見えた。ちょっと圧巻な眺《なが》めだ。そこを横切ってふわふわと白い光が無数に昇っていく。亀裂の右に大きな黒い穴が見えた。あれが彰文さんが言っていた洞窟《どうくつ》なんだな。切り立った断崖《だんがい》はいかにも硬そうな岩でできている。その岩肌に洞窟の入り口からえぐったような窪《くほ》みが続いていた。自然にできたものじゃない。誰《だれ》かが通路としてけずったものだろう。人がかろうじて歩けるほどの幅があって、目線でたどっていくとやがて石段になってそれが断崖の上まで続いている。 周囲を眺《なが》めているあたしの目の前を小さな光が横切っていく。 本当に雪のようだ。 「これみんな、霊?」 「そう。吹きよせられた霊のようだね」 ナルはそう言って洞窟のほうへ歩き出す。入り口まで行ってあたしを呼んだ。 洞窟はそんなに大きくなかった。体育館の半分以下の大きさ。海から入り江までつながっていると聞いたのできっと水が通ってるんだろうと思っていたのに、そうではなかった。洞窟の地面は水面よりも一メートル以上高い。ゴロゴロとした石が一面に転《ころ》がっていた。洞窟は「く」の字形にカーブしていて、反対側に海が見える。大小の岩が突き出した海面に穏《おだ》やかな波が打ち寄せている。海側の地面のほうが少し低い。波は洞窟の入り口まで達していた。曲がった洞窟のいちばん奥には小さな祠《ほこら》が建っている。そうして白い小さな光は海側の入り口から波に乗ったようにして吹きこんでくる。洞窟の中を通りぬけて入り江に出ると、上に向かってふきあげていく。 「これ、どういう霊なの?」 「たぶんこのあたりの海で死んだ命。ここは魂《たましい》が吹き寄せてくる場所らしいから」 あたしは手を伸ばしてみる。小さな光が指先に触《ふ》れた。指の先に何かが跳《は》ねる感触がして、それは魚だとなんとなくわかった。 「それで祠があるんだね」 あたしは言って、祠を振り返る。古い小さな祠だった。なんだか少しだけ歪《ゆが》んで見える。 「なんか……変」 ナルはうなずいた。 「僕《ぼく》にもわからない。悪い場所ではないけど、よい場所でもないみたい。……そうだな、霊場の気配がする」 「ふうん……」 うなずいて、あたしはナルに聞いてみる。 「ナル、だいじょうぶ?」 「うん。ごめん、心配をかけて」 「ん。……だいじょうぶだったらいいの」 そう言うと、ナルは微笑《わら》った。とてもきれいな笑顔だった。その笑顔を見ながら、やっぱりあたしはナルが好きなんだな、とそう思った。
――そうしてあたしは本当に目が覚めた。 覚めた? ……うん、覚めた。 目を開けた瞬間、とっても惜しい気がした。もっと話していたかったのにな。そう思って寝ころんだまま首を動かす。障子《しょうじ》はきちんと閉めてある。白い紙越しに夜明け前の蒼《あお》い光が差し込んでいた。
三章 海から来るもの
1
翌日は昼過ぎに到着したジョンと真砂子《まさこ》の反応たるや見物《みもの》だった。 「ナルは尋常《じんじょう》でない根性の霊に憑依《ひょうい》されて身動きがとれないの」 あたしがそう言ったときのふたりのあの顔。真砂子は泣きそうな顔をした。 「……いまどうしてるんですの?」 「寝てるよ。リンさんが禁呪《きんじゅ》とかいうのをかけて、目が覚めないようにしてあるの」 「会えます?」 真砂子はリンさんを見る。リンさんはうなずいた。 「顔を見るだけでしたら。決して部屋には入らないでください」 真砂子は大真面目《おおまじめ》な顔でうなずく。本当に泣きそうな顔だった。やっぱりこいつもナルが本当に好きなんだなぁ、とあたしは思った。 「こっち」 あたしは襖《ふすま》を開ける。ベースとして使っている部屋の、奥のほうの八畳にゆうべナルを移した。隣《となり》の部屋にひとりでおいておくのはなんとなく不安だということで意見が一致したからだ。 真砂子は中をのぞきこんで息を吐《は》いた。辛《つら》そうな声に聞こえた。 部屋には布団《ふとん》がひとつだけ。その四方には呪符《じゅふ》が木の枝で畳に射してる。ナルは身動きひとつしない。よほど気をつけて見なければ、息をしてないのかと思うほど。白い額《ひたい》に小さく文字が描かれている。あれもリンさんが書いたのだけど、インドの女の人がしてる赤いのみたいでなんだかよく似合っている。 「どういう霊が憑《つ》いているのか、わかる?」 あたしが聞くと、真砂子は力なく首を振った。 「よく――見えません。霊が憑いているのは感じるのですけど……。空虚《くうきょ》な霊と呼ぶべきですかしら」 リンさんが聞きとがめたように振り返った。 「どういうことですか?」 「無色透明で、なんの感情も放射していないんですの。なのにとても存在感が強い……。ひょっとしたら、霊の正体をつかめないように、何かが邪魔《じゃま》しているのかもしれませんわ」 リンさんは考えこむように、うつむく。 「閉めていい?」 あたしが聞くと真砂子はこっくりうなずく。あんまりそのようすが殊勝《しゅしょう》なんで、あたしはちょっとかわいそうになってしまった。 「さてと」 ぼーさんは真砂子とジョンにひととおりの事情の説明をする。話の途中で彰文《あきふみ》さんがコーヒーを持ってきてくれた。 「そ、それは松崎《まつざき》さん、タイヘンでしたですね」 ジョンに言われて綾子《あやこ》は高笑いする。 「いーの。これをネタに思いっきりゆすってやるわ。ほーほほ」 ……まーたこいつはそんなことを。 ぼーさんはリンさんに視線を向けて、 「ゆうべなんか動きはあったのか?」 「母屋《おもや》と、入り江側の部屋に。ご覧になりますか?」 「なるともー」 ……がっくり。どーも調子《ちょうし》が狂うんだよねぇ。やっぱリンさんが「ご覧になりますか?」と聞いたら、渋《しぶ》ーく「再生してくれ」とかなんとか言ってくんないと。ぶつぶつ。 モニターに映像が出る。奇妙な映像が撮影されていたのは葉月《はづき》ちゃんの部屋と母屋の廊下《ろうか》、それから入り江側の部屋だった。母屋の画面には両方とも妙な光が映りこんでいる。薄暗いぼんやりした光のようなもの。葉月ちゃんの部屋に現れた光は布団の周《まわ》りをゆらゆらと動いて消えてしまった。廊下に現れたほうはすっと画面を横切るだけ。 「音は」 「無音です。振動はありません。ほかの計器類も正常値の範囲内。ただし気温が五度ほど下がっています」 「入り江側の部屋は」 「モニターに出します」 入り江側の部屋においたカメラはまっすぐ窓のほうを向いている。その窓の向こうにときどき白い微《かす》かな光が見える。それは下から上へ動いていく。 ……下から上。 「霊姿なのか、あれは?」 「わかりません。ここも温度以外には変化は見られません」 「温度差は」 「やはり五度ていどですね」 あたしはこそこそと彰文さんに声をかける。 「……下の洞窟《どうくつ》なんですけど……」 「どうかしましたか?」 「ひょっとして洞窟の脇に道があったりします? 崖《がけ》をえぐった道みたいな……でもって、石段があってお店の脇に昇ってるんですけど……」 彰文さんはきょとんとした。 「……行ってご覧になったんですか?」 やっぱりあるのか。 「でもって洞窟は『く』の字形に曲《ま》がってて、奥に祠《ほこら》があったりします?」 「下へ降りたんですか? だめですよ、あの石段は危ないんです」 ぼーさんがあたしを見た。 「どうした、嬢ちゃん」 「あたし……また抜け出しちゃったみたい」 「抜け出した、って……また幽体離脱か?」 「……らしいんだけど……」 もごもご。あたしはナルぬきで夢の後半部の話をする。前半はとうてい人に話せる内容じゃないしなー。彰文さんがぽかんとあたしを見ていた。 「でね、洞窟に海から人魂《ひとだま》が吹き寄せてくるの。魚とか、そういうのの霊まで」 「魚の霊だぁ?」 ……いや、自分でも変だとは思うんですけど。でも、お魚だって生きてるんだし、化《ば》け猫がいるなら化け魚もいていいじゃない。 「あの洞窟はそうなんです」 真面目《まじめ》な口調で言ったのは彰文さんだった。 「潮《しお》の関係で死体が流れてくるんです」 ――え? 「この近辺の海で死ぬと、あの洞窟に流れつきます。特に人やなんかの大きいものは。それで祠《ほこら》があるんです。うちの犬が流れ着いたのもあそこでした」 ぼーさんは眉《まゆ》をひそめる。 「見てみたい。案内してもらえますか」 彰文さんはうなずいて時計を見る。 「干潮《かんちょう》までは少し時間があるな……。あそこは石段を使わないかぎり、潮が引くまでは行けないので」 「ついでにその石段も見てみたいところだな」 「だったら、少しこのあたりをご案内します。そのうちに潮が引くでしょう」
2
リンさんだけを機材とナルの見張りに残し、あたしたちはぞろぞろと店を出て庭を入り江に添って歩いていった。入り江のちょうどいちばん奥に崩《くず》れかけた石段がある。段の途中は単なる急斜面になっていたりするので、人が使うことはほぼ不可能に近いだろう。 「なんだってこんなところに石段があるのかねぇ」 ぼーさんが聞くと彰文《あきふみ》さんは、 「よくわからないのですけどそうとう古いものらしいです。ここに店を建《た》てた時からあったそうですから。祖母なんかは小さい頃この石段を使って洞窟《どうくつ》に行ったようですよ。もっともその当時からすでに半分壊《こわ》れかけていたそうですが」 一応入り江にそっては手すりや低い塀《へい》が取りまいていて、石段の降り口にはちゃんと鉄柵《てっさく》の扉がついていた。扉から石段までは少し距離があって、柵のこちらからでは入り江の水面は見えない。 「ここに店ができたのはいつ頃なんです?」 「曽祖父《そうそふ》の代だと聞いています。もともと金沢《かなざわ》に店があったのを、ここへ移したらしいんです」 「じゃあそれまでは、ここに住んでいたわけじゃねぇんだ」 「ええ。でもここはもともとうちの本家があった場所らしいんです。曽祖父はそれでここへ何度か来ていて、ここに店を移すことにしたようですね」 「その本家がいつ頃この土地へ移ってきたのかわかりますか」 彰文さんは首をかしげた。 「さあ、それは――。菩提寺《ぼだいじ》の墓に入ってる人でいちばん古い人は安政《あんせい》年間の生まれですね。それ以前はちょっと僕では。なんでしたら祖母に聞いておきますけれど」 「頼みます。ときに安政年間というといつ頃でしたっけ?」 彰文さんは首をかしげる。 「江戸時代というのは確かですけど詳《くわ》しいことは。何しろ受験から遠ざかって長いもので……」 「現役高校生」 ぼーさんがいきなりあたしを振り返る。 「あたしの学校じゃまだ源氏と平家が戦ってんだい」 「真砂子《まさこ》は。いちおう学校に行ってんだろ?」 真砂子はつんとそっぽを向く。 「いちおう、はよけいですわ。うちではまだ源氏の君が活躍してますの」 「真砂子、高校行ってんの!?」 「勝手にひとを中卒にしないでいただけます? もちろん行ってますわよ」 ぼーさんがニンマリ笑った。 「芸能人で有名な某私立高校だよな」 はー、そうなのか。さすがにメジャー霊媒師《れいばいし》はたいへんだ。 「基本的に忙《いそが》しいんでしょ? よく来れたねぇ」 あたしが聞くと真砂子はちょっと赤くなった。 「忙しいんですの。まだ補習の途中でしたし。……言っておきますけれど出席日数を補うための補習ですわよ」 わーった、わーった。で、ナルに会えるってんで飛んできたわけだ。いじらしいのぉ。――ん? ちょっと待てよ。 「真砂子、学校には何着て行ってんの?」 あたしが聞くと真砂子は心底軽蔑《けいべつ》した顔をした。 「もちろん制服がございますわ。それともあたくしが着物で登校しているとでもお思いですの?」 そんなことは考えてないやいっ。まぁ、ハカマかな、ていどのことは考えたけどさ、むにゃむにゃ。 「あれが茶室です」 彰文さんが手をあげた。広い庭の歩道(というのだろーか)を歩いてきたあたしたちの目の前に小さな建物が見える。 「庭からはまったく入り江は見えないわけか?」 ぼーさんに聞かれて彰文さんは、 「茶室の向こうへ行くと雌鼻《めばな》――岬《みさき》の先まで行けます。そこからでしたら」 その言葉どおり、茶室をすぎてなおも歩いていくと、こぢんまりした庭に出て、そこからは入り江を見おろすことができた。低い垣根ごしに対岸の断崖《だんがい》と、その斜面に張りだした建物、建物を支える足組みが見える。そうしてその足組みの下に岩肌をえぐって細い道が通っていた。道の右は崩《くず》れかけた石段、左にはぽっかり口をあけた洞窟《どうくつ》。 「もう少し先まで行きますか」 彰文さんがそう言って、鍵を使って垣根にある小さな戸を開ける。そこから岬の突端までは低い松がまばらに生《は》えた草地になっている。 「ここから先は柵《さく》がないので気をつけてくださいね」 ちょっとだけおっかなびっくり歩いて、突端までは十五歩だった。突端と言っても切り立った断崖絶壁というわけではなくて、ゆるい斜面がいちおうあって、そこに潅木《かんぼく》が生えていたりする。斜面の先が断崖になっていてそこからが海だった。突端の右手に入り江の入り口になる亀裂《きれつ》が口を開けている。 「上から見るとそんなに崖《がけ》って感じでもないんだな」 ぼーさんが言うと彰文さんは微笑《わら》う。突然綾子《あやこ》が、 「ちょっと若旦那《わかだんな》」 「若旦那……って、僕《ぼく》は別に家を継《つ》ぐわけでは 「細かいことにはこだわらない。あれ、なんなの?」 綾子がさしたのは松の間に並んだ石だった。一抱《ひとかか》えくらいの石がきちんと横に五つ並んでいる。 「ああ、あれですか。あれは僕にもわかりません。祖母もなんだか知らないようです。墓石みたいなんで、いじらないでおくんだと言ってました」 「へぇぇ」 海には大小の岩が突き出している。波があたって白く砕《くだ》けていた。正面にはひときわ大きな岩がある。小山ほどの大きいのと少し小さいのと。そこにはそれぞれ注連縄《しめなわ》がかけてあった。ジョンが指をさす。 「吉見《よしみ》さん、あれはなんですか?」 「雄瘤《おこぶ》と雌瘤《めこぶ》です。大きいほうが雄瘤、小さいほうが雌瘤ですね」「オコブとメコブ……。注連縄がかけてありますけど?」 「ええ。でも別にご神事とは関係ないんだと思うんですけど。あの注連縄もお正月に近郊の漁師さんがかけ直しているみたいなので」 言ってから、彰文さんはあたしに、 「あれはね、ここから海に飛び込んだ男の人と女の人がああなったんだ、って言われてるんです」 あたしは彰文さんを見上げた。 「土地の伝説ですけどね。詳《くわ》しい名前は忘れましたが、ずっと大昔、この土地になんとかいう姫君がいて。姫君は土地に住んでいる漁師《りょうし》の恋人がいたんですけど、そこに横恋慕《よこれんぼ》する男が現れるんですよね」 「へぇー」 「横恋慕してきた男は近くの貴族の息子で、姫を無理矢理お嫁《よめ》さんにしようとするんです。それを嫌《いや》がった姫は恋人と逃げようとする。――駆け落ちですよね。ところが駆け落ちの手はずを書いた手紙を貴族の息子にすり替えられてしまって、ふたりは出会えないんです」 あたしはぽかんと彰文さんを見上げた。 「姫がまちがいに気がついてあわてて恋人を捜《さが》すと、恋人のほうは貴族の恋人を殺してしまっていた。姫が来ない代わりに貴族の息子が来たので裏切られたと思ったんです。ふたりは誤解をとくことができたけれどもう遅《おそ》い。それでこの岬から海に飛びこんでしまうんです。それを哀《あわ》れに思った神様が二度と引き裂《さ》かれることがないよう、恋人のほうを雄瘤《おこぶ》に姫のほうを雌瘤《めこぶ》に変えた、って話です」 あれはこの話だったのか……。そう思いながらあたしは内心赤面してしまった。あたしってなんちゅー大胆なオンナなの。あたしのどこが姫君だって? しかも彰文さんが陰険な貴族の息子でナルが漁師ってか? すっげーミス・キャスト。 「どうかしましたか?」 彰文さんに聞かれてあわてたのなんの。 「なななな、なんでもありませんです、はい」
3
茶室からてこてこ戻ると、正面にこんもり木が茂って、そこにちょこっとだけ何かの屋根がのぞいているのが見えた。 「彰文《あきふみ》さん、あれ、なんですか?」 「ああ、あれが神社です。神主さんもいないような小さな神社ですけどね」 言って腕時計に視線を落とす。 「まだちょっと早いかな。行ってみますか?」 完全に潮《しお》が引いてしまわないとパンプスの綾子《あやこ》や着物の真砂子《まさこ》が歩くのは無理だと言われて、あたしたちは神社に向かう。いったん庭を抜けて母屋《おもや》に出て、母屋の庭を通って道路に出る。吉見《よしみ》家の門から少し行ったところに鳥居《とりい》が建っていた。 神社はけっこうきちんとしていた。無人だというからきっとすごく荒れ果てているんだろうと思ったのに、ちょっとだけ嬉《うれ》しそうに綾子が、 「あらぁ、りっばな神社。ちゃんと掃除もされてるじゃない」 「りっぱですか? 掃除はうちの家の者が、代々世話役をしてるんです」 とうてい立派とは思えない本当に小さな神社だった。小さな舞台みたいのがあって、奥に格子戸《こうしど》があるだけ。 「りっぱ、りっぱ。氏神《うじがみ》さまでしょ、これ」 「氏神さまってにゃーに?」 「てっとり早く言っちゃうと土地の神様。村の鎮守《ちんじゅ》の神様よね。舞殿《まいどの》があるってことはお神楽《かぐら》があったりするんだ」 「ええ。秋に」 ふうん。 「若旦那《わかだんな》、若旦那」 今度はぼーさんに呼ばれて彰文さんは苦笑する。 ぼーさんは境内のすみにある三つ並んだ石碑を示して、 「ありゃあなんだ?」 「それはトハチ塚です」 「とはち塚?」 「十八、と書いて十八《とはち》塚。なんだかはよくわからないんですけど、別名を三六《さんろく》塚とも言うんで、十八というのは一種の地口《じぐち》だと思うんですけど」 「にゃ?」 彰文さんのシャツをひっぱって聞くと、 「さぶろく、じゅうはち、でしょ?」 「あ、なるほど」 「なんで三六塚と言うのかは誰《だれ》も知らないんです。でもこれが三つでしょ? そうして岬《みさき》の突端にあるのが」 「あ、五つだったよね」 彰文さんはうなずく。 「ええ。ですから岬の先のあれは本当は六つあって、一つが紛失してしまったんじゃないかと、祖母なんかはそう言うんですけど」 ぼーさんが考えこむ。 「紛失した塚、ねぇ」 ジョンがぼーさんに、 「塚ゆうのはこの場合お墓のことですよね」 「そういうことだな」 「それがひとつあらへんわけですね? それは吉見《よしみ》家の事件に関係ないのですやろか」 綾子が指を弾《はじ》いた。 「それよ。塚が狐《きつね》の墓なんだわ。でもって、店を建てたときに勝手に移動させちやったわけ。その時に六つの中のひとつを壊《こわ》すか見落とすかどうにかして、ちゃんと移動させなかった。その崇《たた》りで……」 「という想像もなりたつ、と」 ぼーさんに言われて綾子は頬《ほお》をふくらませる。 「なによぉ」 「先走るな、とナル坊なら言うだろうよ。――真砂子、どう思う?」 真砂子はお人形みたいな首をかしげる。 「狐、と言われて本当に狐だったことはないのですけど、動物の気配はしませんでしたわ。お店にも、塚にも。霊はよく嘘《うそ》をつきますし、人の目に映《うつ》るときには獣《けもの》の姿をして見えることが多いので」 「ふうん。ほかには」 聞かれて真砂子は難しい顔をする。 「霊の気配はたくさん感じます。どういう霊なのかはわかりませんわ。ただ、一種の浮遊霊なんじゃないですかしら」 「真砂子。それは今回もわからん、ってことか?」 ぼーさんの呆《あき》れた顔に、真砂子はそっぽを向く。それから、 「ここは変な場所ですわ。よい感じもしないけれど、かと言って悪い感じもしません」 ……ちょっと、待てこのセリフは。 「家の中にも奇妙な力を感じましたけど、とても悪いものととてもよいものが混《ま》じりあってる感じでしたの。こんな感じは覚えがあるのですけど……」 「霊場?」 聞くと真砂子が目を見開いた。 「……そう。そうですわ。それも以前アメリカに行ったとき、インディアンの霊場に行ったことがあるのですけど、そこの感じにとてもよく似ています」 「真砂子、外国に行ったことあるの?」 おお、リッチマン。 「一度だけ。ASPRのお招《まね》きで降霊会をしたことがありますの」 「ASPR?」 「アメリカ心霊調査会のことですわ。その時にインディアンの聖地というか、そういう場所に行ったことがございますの。インディアンの霊魂が集《つど》う場所です。そこは精励に守られた神聖な場所であり、汚《けが》す者には災厄《さいやく》をもたらす崇《たた》りの震源地でもありますの。たくさんの霊が浮遊していて……。あの場所の感じによく似ていますわ」 霊魂の集う場所……。 ぼーさんが背後の岬のほうを振り返った。 「やっぱりどうあっても洞窟《どうくつ》を見てみないとな」
お店の玄関の前はきれいな庭になっている。ここにも低い垣根が続いていて、その向こうは海岸。その垣根の一箇所に切れ目があって、そこから海岸に下りるコンクリート製の階段が延びていた。鋼鉄製の手すりにしがみついて長い階段を断崖《だんがい》にそって下りると、そこは小石と岩だらけの海岸だった。海岸から少し沖のほうには大小の岩が無数に海面に突き出した場所がある。それがちょうど海岸にそって平行に連なっていて、押し寄せる波はその岩にぶつかって勢いを消されるのか海岸ではとても穏《おだ》やかになっていた。 「きれいな水」 ガラスみたいに澄んだ海水だった。 「こちらです」 彰文さんが今下りてきた断崖の付け根を示す。崖《がけ》の下に岩や石が重なりあった小道のようなものができていた。滑《すべ》らないように気をつけて歩く。その小道は崖にそってぐるりとまわっていて、崖の突端までは簡単に行けた。突端からは岩伝いに歩いて、洞窟の入り口にたどり着く。潮はすっかり引いていて、水に落ちたからといってどうせ踝《くるぶし》ほどの深さしかないわけだけど、綾子はもう大騒ぎ。だから調査に気取った格好でくんなって言ってんのに。 洞窟はまさしくあたしが夢で見たものと同じだった。地面は河原《かわら》のような石だらけ。中ほどで折れ曲がっているのも同じなら、ちょうど折れ曲がったあたりの奥に小さな祠《ほこら》があるのも同じ。今、祠を見ても別に歪《ゆが》んだ感じはしない。小さいけれど、掃除がゆきとどいている。きれいなきちんとした祠だ。 「真砂子、どう?」 小声で聞くと、真砂子は高い天井を見上げる。 「同じですわ。あの山と――アメリカで見た霊場と同じ――」 つぶやいてから、洞窟の入り口を振り返る。 「今も霊が流れこんできています」 ぼーさんは祠の中をのぞきこんでいた。 「これの掃除も若旦那《わかだんな》んちでやってるわけか?」 「ええ。母屋《おもや》の仏壇と店にある神棚《かみだな》と……うちはそういうのうるさいですから。子供の頃はたいへんでした」 「ほぉ?」 「子供の手伝いっていうと、そういうのの掃除なんですよね。小さい頃は嫌《いや》だったな」 「わかるわかる。俺《おれ》んちも寺だったからさー」 「綾子は? あたしは聞いてみた。 「綾子の家も神社でしょ? たいへんだった?」 「残念でした。アタシのうちは別に神社じゃないもーん」 「違《ちが》うの!?」 だったらどーして巫女《みこ》なんだよ。 「アタシ、手伝いなんてしたことないのよねぇ。ホラ、お嬢育ちでそのうえひとりっ子で甘やかされてきたからー」 「……自分で言うな。じゃ綾子んちって何してんの?」 聞くと綾子は笑って髪をかきあげる。 「ああ、医者よ」 げげっ! 「あのお金持ちで有名なお医者さん?」 「そ。個人で総合病院をやってたから、まぁ金持ちだわね。なんでもお手伝いさんがやってくれたしなー」 そんな金持ちの令嬢がどーして巫女なんてやってるだ。聞こうとしたとき、ぼーさんが声をあげた。 「若旦那《わかだんな》、中に入ってるこりゃ、なんだ?」 ぼーさんは祠《ほこら》の小さな格子戸《こうしど》に鼻をくっつけるようにして中をのぞきこんでいる。ああ、と言って彰文さんが祠を開けた。 「流木ですよ。たぶんそうだと思うんですけど」 中に入っていたのは高さ三十センチくらいの木の棒だった。上のほうが丸くなって人の形のように見える。小さな出っ張りがふたつあって、ちょっと手みたいだ。 「『おこぶさま』って言うんです」 「『おこぶ』ってあの岩の?」 「さあ。あれとは別じゃないかな。頭と手があってなんだか人間みたいでしよ? しかもこの手ってこう見えませんか?」 彰文さんは片手を軽く上げ、もう一方の手を垂《た》らしたまま少し前へ出す。 「あ、見える」 「これって仏像によくあるポーズなんですよね。それで祀《まつ》ってあるんだと思います」
4
「えびす、か」 ベースに戻るなりぼーさんはつぶやいて、それからリンさんに声をかける。 「異常は」 「今のところありません」 「そっか。なぁ、リンさんや。下の洞窟に機材をおけねぇか?」 リンさんは洞窟のようすを聞いてから考えこむ。 「海水の心配さえなければなくはありませんが、電源が……」 「ああ、そうか」 「バッテリーは二時間しかもちませんし、ひとつしか用意していません。インターバルタイマーを使う手もありますが」 「インターバルタイマー?」 「一定時間ごとにスイッチのON・OFFをする装置です。たとえば、一時間ごとに十分だけ撮影をする、というような。これだと最高、なんとか半日もたせられますが」 「しかし、肝心要《かなめ》のところでスイッチが切れる可能性もあるわけだ」 「はい。――ああ、崖《がけ》の高さはどれくらいありますか?」 彰文《あきふみ》さんが、十メートルちょっとです、と答える。 「それだったらなんとかここからケーブルを降ろせるでしょう。あとは機材を運《はこ》び込む労力さえ惜《お》しまなければ」 ううう。たいへんそう……。 ――そういうわけであたしたちはそこから過酷《かこく》な重労働をした。潮《しお》が引いているうちにというわけで大急ぎで機材を運んで。岩場は担《かつ》いで渡れないから岩を迂回《うかい》しつつ、じゃぼじゃぼ水の中を歩いて。水に濡《ぬ》らしたらおおごとなんで冷や汗タラタラ。台車も使えないしさー。 彰文さんが入り江に飛び込んで、ベースの窓から降ろしたケーブルを受けとめて洞窟まで引っ張ってくれて。彰文さんがいなかったら、コネクターを濡らさずにケーブルを受け渡すのはけっこうたいへんな作業だったろう。機材が濡れないようビニールで巻いて簡単なテントを作って。……くらくら。そうしてやっとセッティングが終わったときには潮が満ちていて、あたしたちは腰《こし》まで水につかって戻らなければならなかったのだった。
「ねぇ、ぼーさん、『えびす』ってなに?」 セッティングを終えてからシャワーを浴《あ》びて、ベースに戻って。そこであたしは聞いてみた。 「えびす?」 セッティングに参加しなかった綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》は、ジョンを連《つ》れて葉月《はづき》ちゃんのようすを見にいっている。 「さっきぼーさんが言ってたんだよ。『えびす』って」 「あー、そうか。『えびす』ってのはな、要は漂着物のことだ」 「漂着物……」 「海岸に流れ着いてきた珍《めずら》しいもの。海中の石や死体、鮫《さめ》や鯨《くじら》。とにかく、めったに見られないものが海岸にやってくると、これを豊漁のきざしだといって喜ぶ風習が漁村にはあったんだな。そういう漂着物をそもそも『えびす』と言うらしい。特に珍しい形の石、ありがたい形の流木、そういうものはよいことの前触れだとか言って後生大事に祀《まつ》ったりした。『おこぶさま』とかいうあの流木もそうだろう。実際に神社のご神体が漂着物だったりすることもあるしな」 「へぇぇ」 「反対に『えびす』が悪いことの前触れだったりすることもある。たとえば台風とか津波とかな。だからまー最初は『えびす』ってのは、『海からくるもの』を神格化したものだったんだろうな。もともとは『夷』という字を書くんだが。それがのちに商売繁盛の神様になって、文字もおめでたい『恵比寿』という字を書くようになった、と」 ……海からくるもの……。 「もともと日本にゃ『常世《とこよ》』という信仰があってな。『常世』っつーのは平たく言や不老不死の国だ。それが海の彼方《かなた》にあると信じられてた。『海からくるもの』ってのは『常世』からくるもんだと思われてたんだな」 ほぇぇ。日本人って不思議《ふしぎ》だなー。 「えびす、おこぶさま、紛失した塚……」 つぶやいてぼーさんは立ち上がった。 「ちょっと電話、借りてくらぁ」 「どうしたの?」 「俺《おれ》たちだけじゃ心許《こころもと》ねぇ。援軍を呼ぶんだ」 ふに?
ぼーさんがいなくなってリンさんとふたりっきりになると会話もいまひとつ弾《はず》まないし、それであたしは少しの間外に出てぶらぶらすることにした。海岸に下りる階段までいって腰を下ろす。さっきよりもずいぶんと狭《せま》くなった海岸を見ていた。 ……海からくるもの。 流れ着いた『おこぶさま』と吹き寄せてくる霊。洞窟と霊場。神社と塚。伝説のあるふたつの岩。海へ身を投げたふたり。 ――あの霊場のせいなんだろうか。 あたしはそう考える。 ――それとも、あの伝説に何か関係があるんだろうか。 あたしはさっき彰文さんに聞くまで、あの伝説を知らなかった。それがあんな夢を見たということは、きっと何か意味があるはずだ。ましてやナルが「夢の方向を示した」と言っていたんだから。あれはナルがあたしに知らせたかったことなんだろう。だとしたら伝説がこの事件に関係ないはずがない。 それとも関係があるのはあの夢の別の部分なんだろうか。あの、逃げて逃げきれずに包囲される夢。どうして海に飛び込まなかったんだろう。伝説では海に身投げしたことになっているのに。あたしも夢の中で思った。どうして海じゃないんだろう、って。そして、あの一言。 ――末世《まつせ》まで呪《のろ》ってやる。 「あんた、何を知らせたかったわけ?」 それからふと思う。 ――ひょっとして今まで見た夢も、全部ナルが「方向を示して」くれたんだろうか? いくら考えてもよくわからなくて、頭がぐしゃぐしゃしたまま店に戻ると、玄関を入ったところにある帳場でぼーさんが電話をしていた。 「よう。豪勢なところにいるじゃねぇか」 ……誰《だれ》を呼ぶつもりなのやら。 「お楽しみのところ悪いんだが、ちょっと難儀なことになってな。手を貸してもらいたいんだ。来れるか?」 ぼーさんは少しの間のあと、 「来てくれ。どうしても人手が必要なんだ。――明日? 今日の便がまだあるだろう。荷物なんかいらねぇから、何がなんでも今日の飛行機に乗れ」 飛行機ぃ? 「直通がなきゃ乗り継いで来い。ともかく一刻も早く着いてほしいんだ」 なんちゅー横着《おうちゃく》な呼び方だ。いったい誰に電話してるんだろう。これは親しい人間だとみたね。――ん? ひょっとして……かな? ニンマリ笑ってベースに戻ろうとしたとき、バタバタとあわてたような足音が聞こえた。振り返ると彰文さんだった。顔色が真っ青になっている。 彼は帳場に飛び込み、そうして悲鳴に似た声をあげた。 「滝川《たきがわ》さん、兄が――」
四章 凶事
1
「兄」というのは次男の靖高《やすたか》さんのことだった。 本来はとても明るいのに、このところ何故《なぜ》だか暗かった、という人。 あたしたちが駆《か》けつけたとき、靖高さんの部屋は血糊《ちのり》で斑《まだら》に染まっていた。六畳ふた間の部屋の一方に布団《ふとん》が敷いてあって、靖高さんはそこで寝ている。その布団の周《まわ》りを家族が取りまいていた。布団の上には投げ出された両手と、その両手首についた無残なほど深い傷と。血糊を吸った布団。胸元に放り出されたカッターナイフ。 目眩《めまい》がした。血の臭《にお》いで吐き気がする。 ぼーさんが部屋に飛びこむ。泣いている裕恵《ひろえ》おばさんを押し退《の》けて靖高さんの枕元に屈《かが》みこむと、すぐに立ち上がってタンスを開けた。 「若旦那《わかだんな》、救急車は」 「呼びました」 タンスの中からネクタイを引っ張り出して、それで靖高さんの腕の付け根をきつく縛《しば》る。 まだだいじょうぶなんだ。まだ……息があるんだ。止血をするくらいなんだもの、きっと死んだりはしないんだ。 いつの間にかきつく指を組んでた。呆然《ぼうぜん》としたまま身動きできないあたしを、誰《だれ》かがつついた。和歌子《わかこ》ちゃんと克己《かつき》くんだった。 「靖おじちゃん、しんだ?」 和歌子ちゃんが無邪気な顔をして聞いてきた。 「ねぇ、しんだ?」 楽しいニュースをねだるみたいな顔だった。あたしにはなんて答えていいのかわからない。和歌子ちゃんはあたしを驚いたように見て、それから克己くんと顔を見合わせた。 「まだいきてるんだ」 「なぁんだ」 本当に無邪気につまらなそうな顔をするふたりが怖《こわ》かった。あなたたちは、叔父《おじ》さんが死んでしまったほうがいいの? 聞こうとしたけど、聞くのが怖い。声を出すことができないあたしを残して、ふたりはこそこそと耳打ちをしながら廊下を駆けていく。救急車のサイレンの音が響《ひび》いてきた。
靖高さんは近くの病院に運《はこ》ばれた。そこで彼は意識を取り戻し、俺《おれ》は気が狂《くる》ってるんだ、とそう言った。靖高さんに付き添って病院に行った彰文《あきふみ》さんは戻ってきてからあたしたちにそう話した。 「ひとりでいると声が聞こえるんだそうです。家族を殺せ、と命じるんだと」 彰文さんの表情には悲嘆の色が深い。 「眠ると夢を見るのだそうです。家族を殺す夢です。あまり続くので人を刺《さ》す手ごたえを覚えてしまったと言っていました。内容が内容なので兄は人に言えなかったんです。それでこのままではいつか本当に僕《ぼく》らを殺してしまうんじゃないか、と……」 難しい顔をして話を聞いていたぼーさんは頭を下げる。 「発見が遅《おく》れたら一人目の犠牲者になるところだった。俺たちの力が及ばずにもうしわけありません」 「……いえ、そちらも僕らのせいで渋谷《しぶや》さんがたいへんなのですから」 ぼーさんは軽く首を振ってから、立ちあがって、隣の襖《ふすま》を開いた。 部屋のようすに変化はない。ぽつんとしかれた布団と眠っているナル。ぼーさんは部屋の中を見渡してからリンさんを振り返った。 「ナル坊のまわりに式を残してあるな?」 「ええ」 「ナルの近くに霊が近寄ったらあんたにわかるか?」 「わかります」 「じゃあ、反対は? ナルから霊が出ていったらわかるか」 リンさんは軽く目を見開くようにする」 「もちろんわかります。だいいち禁呪《きんじゅ》をかけてある以上、霊が出ていくことはありえません」 「と、言うことは、だ」 ぼーさんはあたしたちを見渡した。 「この家に憑《つ》いている霊はひとつじゃない。そういうことだ」 「ちょっと待ってよ」 綾子《あやこ》が声をあげた。 「じゃ、靖高さんは憑依《ひょうい》されてるっていうわけ?」 「ほかに考えられんだろうが」 ……確かに。 「ほかの家族にも注意が必要だ。霊が一体じゃない以上、三体やそれ以上である可能性もあるからな。――ジョン」 「ハイ」 「葉月《はづき》ちゃんのようすはどうだった」 「ボクにはわからへんかったのですけど、原《はら》さんがこれは悪質な憑《つ》き物の可能性があると言わはって。いちおう簡単な除霊をして部屋を封じておきました」 「手ごたえは」 「わかりませんです」 「真砂子《まさこ》。――その霊はどういう奴《やつ》だかわかるか?」 真砂子は首を振る。 「わかりませんわ。ただ、ナルに憑《つ》いているあの霊と同じ感じがしましたわ。強《し》いて言うなら空洞ですかしら」 「空洞?」 「ええ。恨《うら》みもなければ怨念《おんねん》も感じられませんの。もしも霊が憑いているとすれば、とても空虚な霊ですわ」 「麻衣《まい》は?」 いきなり声をかけられて、あたしはあせった。 「あ、あたし?」 「何か感じないか。なんでもいい。昨日の夢に出てきたことでひっかかることでも」 あたしは少しだけ迷《まよ》い、そうして言ってみる。 「真砂子の意見と対立しちゃうんだけど、恨みを呑《の》んで死んだ人がいると思うの」 ……必ず末世《まつせ》まで呪《のろ》ってやる……。 「ひどい裏切られ方をした人なんだと思うんだけど。敵に包囲されて殺されてしまうの」 心中したふたりは岬《みさき》から海に身を投げた。だとしたら……。 「たぶん、このあたりで死んだ人だと思うんだけど。少なくとも土地に関係があるんじゃないかな」 真砂子がしかめっつらをする。 「まさか。そんな霊でしたらあたくしにもわかるはずですわ」 「まー、単なる夢かもしんないんだけどさ」 「夢ですわ」 ええい、やかましいっ。 ぼーさんは彰文さんを振り返る。 「どうです。なんか心あたりは?」 「……すいませんが……。そういう話を聞いたことはありません。もっとも僕《ぼく》が知らないだけなのかもしれませんけど」 「ふうん。吉見《よしみ》家がここに移って来たのはいつごろだかわかりましたか」 「もうしわけありません。祖母にもあれ以上のことはわからないそうです」 ぼーさんは少し考えこむ。それから、 「ジョン。病院に行って靖高さんの除霊をしてみてくれ。ついでに商売っけを出して少し話をしてくるんだな。二度と馬鹿《ばか》なマネをしないように」 「ハイ。やってみます」 「綾子は護符だ。家族と俺《おれ》たちの人数分」 「はいはい」 「俺はちょっと出てくる。彰文さん、悪いが菩提寺《ぼだいじ》に案内してもらえますか」
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綾子《あやこ》に護符を書かせて、あたしと真砂子《まさこ》で手伝ってそれを吉見《よしみ》家の人たちに配《くば》って歩いた。決して身体《からだ》から離さないでください、とお願いしたのだけど。もらってすぐに気のないそぶりで放り出してしまったのは陽子《ようこ》さんだった。長男の和泰《かずやす》さんのお嫁さんで、克己《かつき》くんと葉月《はづき》ちゃんのお母さんであるひと。 「あの、身体から話さないでください。お守り袋かなにかの中に入れておくとか、どうにかして……」 あたしが言うと陽子さんはおっとりと微笑《わら》った。 「これをつけておくと何か効果があるんですの?」 「ええ、悪い霊を寄せつけない護符なんです。身体から離したら効果がないので……」 「でも、お風呂《ふろ》に入るときはどうしますの?」 え? 「お風呂には持って入れませんよね。紙ですもの。お風呂に入っている間に悪い霊が寄ってきたらどうしようもないじゃありません?」 「それはそうですけど……。でも危険ですから。ちょっとでも危険でなくするためにつけておいてください」 あたしが言うと陽子さんは微笑う。 「わかりましたわ。そうします」 そう言いながら護符を振り返りもしない。あたしはなんとなく釈然としないまま陽子さんの部屋を出た。 渡そうとすると逃げだしたのは克己くんと和歌子《わかこ》ちゃんだった。 「そんなの、いらない」 「ちょっと、待って。これは大事なものなの。お願いだから」 「いや」 「いらない」 逃げるふたりを追いかけながら、あたしは妙な気分になっていた。どうして逃げるんだろう? どうして嫌《いや》がるんだろう? 母屋《おもや》を抜けて店に出る。ふたりは玄関から外へ飛び降りてしまった。 「ねぇ、和歌子ちゃん!」 あたしは前庭を駆け出したふたりに呼びかける。 「叔父《おじ》さんが死んだの知ってる?」 大嘘《おおうそ》をついてみると、ぴた、とふたりの足が止まった。きょとんとした眼が振り返る。すぐにうれしそうな笑顔を浮かべた。 「ほんと?」 「びょういんにいったんでしょ? きゅうきゅうしゃにのって」 「そうよ。でも間《ま》に合わなかったの。叔父さんは病院で死んじゃったんだって」 克己くんが小さくつぶやいた。 「やった」 ……この子たちは……まさか……。 あたしは意識的に小さな声で言ってみた。 「それと、彰文《あきふみ》さんもね……」 「彰にいさんも? どうかしたの?」 ふたりはそろって声を上げる。ニ、三歩こちらに戻ってきた。 「どうしよう。教えようかな」 「おしえて、おしえて」 「んー、でも。やっぱ内緒にしておこうかな」 ぐずぐずと口の中で言うと、ふたりが近づいてくる。 「ねぇ、おねえさん、おしえて」 「おしえてよー。彰にいさんもしんだの?」 「んーとねぇ……」 「しんだの? くるまにのった?」 「車……」 ふたりはあたしのスカートを引っ張る。あたしはすかさずふたりの手を捕《つか》まえた。 「車ってどういうこと?」 「はなしてっ」 「はなせよー」 「放さない。ねぇ、車ってどういうとなの!?」 ふたりは暴れる。あたしは必死でその手をつかんだ。 「麻衣《まい》? 何やってんの?」 綾子と真砂子、それから光可《てるか》さんが走ってきた。克己くんが手の中から逃げるるあたしは一緒に逃げだそうとする和歌子ちゃんを捕まえ直した。 克己くんは少しだけ離れたところで振り返る。 「和歌ちゃん、はなせよ」 「いや。車ってなんのことだか教えて」 「はなせってば」 あたしは側でおろおろしている綾子を振り返る。 「綾子、和歌子ちゃんに護符を持たせて」 「そんなことするなっ!」 あたしは克己くんをにらみつける。 「だったら車のこと、教えて。そうじゃなきゃ、和歌子ちゃんに護符を張り付けてとれないようにしてやるから」 「そんなことしたら、ぼく、うみにとびこむからなっ」 「……克己くん、何言ってるかわかってんの?」 前庭の海岸に下りる階段までは五メートルもない。 「わかってるよ。ぼくがしんだら、みーんなこまるんだから」 「死ぬの、苦しいと思うよ」 「しってるよ。くるしかったら、ざまぁみろだもん」 「誰《だれ》にざまぁみろなの?」 「みんな」 あたしは綾子に暴れている和歌子ちゃんを押しつけた。 「綾子、捕まえてて。――克己くん、君、本当は誰なの?」 あたしは玄関から外に出る。克己くんはあたしをにらんだまま一歩さがった。 「克己くんじゃないんでしょ? 本当の克己くんはそんなこと言わないもの。護符を怖がったりしないもんね」 「こわくないよ」 「うそよ。怖いんでしょ? だから護符を持つのもいやなんだよね」 克己くんは笑った。それはとても子供の笑顔には見えなかった。 「ころしてやる」 「誰を?」 「おまえも、おまえらも。この家の連中も」 あたしはそっと手を構える。(――人に向けてはいけない) 「この子供も」 克己くんは――彼の中にいる者はそう言って笑う。 「どうしてなの」 手が震える。(でもあたし、タカにやったことがある。あれは冗談だったのだけど) 「海に飛びこむくらいは慈悲《じひ》のうちだよ。楽なもんだ。首を切られるのに比べたら」 「首を……切られた?」 今度がだいじょうぶだという保証は?(――二度とするな。麻衣ていどだから何も起こらなかったんだぞ) 「同朋の裏切りに比べれば」 「この家の人たちが、あなたに何をしたの」 「さてな」 「……その子から離れなさい」 「子供が死ねば用はない。そうなったら離れてやる」 克己くんは笑って身を翻《ひるがえ》す。その場を駆け出した。たった五メートルの距離。 「ナウマクサンマンダバザラダンカン」 お願い、克己くんを止めてっ! 「臨兵闘者皆陳烈在前《りんぴょうとうしゃかいぢんれつざいぜん》っ!」 剣印を振り降ろすと克己くんが転《ころ》ぶ。階段までわずかに一メートルもない。それと同時に何かが風を巻いて、あたしの顔のわきをすさまじい勢いで背後へ向かって駆け抜けていった。 「……なに」 周囲を見渡しても何もない。突然和歌子ちゃんが火がついたように泣きだした。あたしはあわてて克己くんのところに駆けよる。転んだままの克己くんを抱き上げると、克己くんは悲鳴に似た声で泣き始めた。 「ごめんね。ごめんね……」
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克己《かつき》くんと――不思議《ふしぎ》なことに和歌子《わかこ》ちゃんも、泣きやまないので調べてみると背中にひどい火傷《やけど》ができていた。ちょうどあたしが九字《くじ》を切った、そのとおりに格子縞《こうしじま》の水ぶくれができている。決して大きいものではなかったけれど、これは痛くてたまらないだろう。 茶の間で手当てをしてようやく落ち着いたふたりは、なにごともなかったかのようにきょとんとしていた。護符を持たせてもめずらしそうにいじるだけ。真砂子《まさこ》がハンカチで縫《ぬ》ったお守り袋の中にたたんで入れて、それを首にかけてやるとなんだかうれしそうにしていた。 ふたりにケガをさせてしまったあたしはもう平あやまり。薬箱を持ってきてくれた裕恵《ひろえ》おばさんに平身低頭であやまって。 「本当にもうしわけありませんでしたっ」 ちょうど現場を見ていた光可《てるか》さんがとりなしてくれて。 「おかげで克己も和歌子も無事だったんですから。どうぞ気にしないでください」 いえ、これを無事と言っていいのかどうか……。冷や汗をかいていると小さな手があたしの腕に触《さわ》る。 「おねえさん、しかられてるの?」 和歌子ちゃんだった。 「うん。そうなの」 「そういうときには、すなおにあやまらなきゃだめだよ」 「はは……。ごめんなさい」 頭を下げると、和歌子ちゃんはブラウスの下からお守り袋を引っ張り出す。 「えらいねー。ごほうびにおねえさんにも、これをかしてあげようか?」 うるうる。かわいいなぁ。 「ありがと。でもそれは和歌子ちゃんのだから。それはぜったいに外《はず》しち ゃだめよ」 「きがえるときも?」 「着替えるときも」 うん、と大真面目《おおまじめ》にうなずいて、和歌子ちゃんは宝物でも隠《かく》すような手つきでお守りを服の中にしまいこむ。満足そうに笑ったところに泰造《たいぞう》おじさんが戻ってきた。 「車の……ブレーキオイルがもれていました」 車という言葉《ことば》が気になって、車を全部調べてもらったのだ。 「私用に使っている車でして……。気づかずに乗っていたら事故になるところでした」 あたしは大きく息をつく。……よかったぁ。 ――ところがぜんぜんよくなかったのよね。暗くなってから戻ってきたぼーさんにガミガミしぼられて。 「あれほど人に向けるなと言っておいたのに、お前ってやつは」 「だってしかたなかったんだもん」 「問答無用っ!」 えーん、えーん。ぼーさんがいじめるー。 ぼーさんは溜《た》め息《いき》をついてから静かな声を出した。 「退魔法というのはな、誰《だれ》がやっても効果があるもんじゃない」 ……はぁ。 「お前は才能があるよ、拝《おが》み屋のな。……だから、二度とするな。二度と九字《くじ》を人に向かって切らなきゃならないような状況を作るな」 「うん……ごめん」 ぽんとあたしの頭を叩《たた》いて、ぼーさんは綾子《あやこ》と真砂子のほうを見る。 「ほかは? 受け取りを拒否した人間がいるか?」 「奈央《なお》さんね」 奈央さんというと……彰文《あきふみ》さんのすぐ上のお姉さんだ。 「と言っても、奈央さんがいなかったからなんだけど。それと若旦那《わかだんな》よね。理由は同じく。――そういうわけで若旦那、護符をどうぞ」 綾子が差し出す護符を彰文さんは微笑《わら》って受け取る。よしよし、ちゃんと受け取ってくれたな。 「奈央姉さんはどこに行ったんだろうな?」 「さぁ。誰も行く先を聞いてないんで捜《さが》してるみたいだったけど」 ……おやぁ? 「麻衣《まい》は、どうだった? 受け取らなかったのはチビさんたちだけか?」 聞かれてあたしは、陽子《ようこ》さんも妙な感じだった、と言いかけた。最後まで言えなかったのは当の陽子さんがその時部屋の中に入ってきたからだった。 「――?」 陽子さんは声もかけずにずかずかベースに入ってきて、あたしたちを見渡した。 「子供に怪我《けが》をさせたのは誰」 あ。……苦情かぁ……。ううう。 「克己にあんなことをしたのは誰《だれ》なの。おまけに変なものを持たせて」 変なもの――って。 「やくたいもない護符のことよ。さっさと外《はず》してちょうだい」 「あのう……でも」 「妙なことを吹きこんだでしょう。あの子は外せと言っても外さないのよ。外してちょうだい!」 陽子さんは怒鳴《どな》る。 「葉月《はづき》にも何かしたでしょう。和歌子にも靖高《やすたか》にも栄次郎《えいじろう》にも」 あたしたちはまくしたてる陽子さんをまじまじと見つめた。……この人は……。 「何から何までよけいなことを!」 ぼーさんが護符を取って立ち上がる。 「これは身を守るために必要なもんなんです。陽子さん、持ってますか」 陽子さんは笑った。 「そんなもの、役になんかたたないわ」 ぼーさんは護符をさしだす。 「そんなことはないですよ。……どうぞ」 陽子さんは黙《だま》ってそれを受け取り――そうしてそれが突然燃え上がった。護符が勝手に火を噴《ふ》いたように、陽子さんの手の上で燃えてしまう。 「……役になんかたたないわ」 陽子さんは笑う。不適な色の笑い方。 「こんなもの。ぜんぜんなんでもないじゃないの」 あたしたちはじりじりと動いて陽子さんを取り囲むようにして身構えている。 「綾子、七縛《しちばく》」 「おーらい」 陽子さんは眉《まゆ》をひそめる。 「なに?」 「なんでもありませんって。俺《おれ》たちはちょいと陽子さんに用があるだけでして」 綾子は指を結ぶ。五横四縦の九字《くじ》を切る。小さく口の中で何かを唱《とな》える。 「なんなの……?」 「まぁまぁ。……ジョン」 呼ばれてジョンが聖水をまいた。顔をしかめてニ、三歩さがる陽子さんをリンさんが背後から捕まえる。 「放しなさいよっ」 ジョンは軽く十時を切る。 「我は汝《なんじ》、呪《のろ》われた不純きわまる霊、悪意の元凶、犯罪の本質、罪の源、欺瞞《ぎまん》と神聖冒涜《ぼうとく》と姦淫《かんいん》と殺人にふける汝に、言葉をかける者なり」 眼を見開いた陽子さんへジョンは手をのばす。指で陽子さんの胸元に十字をしるす。 「我はキリストの御名《みな》において汝に厳命いたす」 額《ひたい》に十字を描く。 「身体《からだ》のいかなる個所に身を潜《ひそ》めていようとその姿をあらわし、汝が占有する身体より逃げ去るべし」 右の耳に。 「離れるべし、いずこに潜みおろうと離れ、神に捧げられたる身体をもはや求めるなかれ」 左の耳に。 「父と子と聖霊の御名により、聖なる身体は汝に永遠に禁じられたものとなすべし」 口に。そうして指でそっと眼に触《ふ》れるようにして手をかざす。 「イン・プリンシビオ」 がくっと陽子さんの膝《ひざ》がくだけた。リンさんに支えられたままずるずるとその場に座りこむ。堅《かた》く眼閉じた眼が開いたときには陽子さんは驚いた表情をしていた。 「……え? なに?」 狼狽《ろうばい》する陽子さんにジョンは微笑《わら》いかけた。手に持っていた十字架に軽くキスしてそれを陽子さんの首にかける。 「もうだいじょうぶです。これを身につけて離さんといてください」
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陽子《ようこ》さんはそもそも、あたしたちがこの家に来たところから何も覚えていなかったので、彰文《あきふみ》さんが一から事情を説明しなければならなかった。 「ねーねー、綾子《あやこ》。七縛《しちばく》ってなに?」 交代でとっている夕飯の時に聞くと、 「不動金縛《かなしば》りってやつね」 「リンさんがナルにかけてるやつ?」 聞くと綾子は顔をしかめた。 「まさか。他人を眠らせておくような、そんなたいそうなもんじゃないわよ。ちょっと人を無気力にして、身動きしにくくするくらいかな」 ほぉー。それでも綾子にしちゃ、ちゃんと役にたっててすごいな。 「七縛のとき、九字《くじ》を切ってたでしょ? 陽子さんに向いてたけど、よかったの?」 ああ、と綾子は微笑《わら》う。 「九字《くじ》というのは、そもそも護身九字っていって、身を守るもんなのよね」 「あ、そうなんだ」 「あんたに教えたのは早九字《はやくじ》。本当はもっとのんびりやるもんなのよね。あたしが祈祷《きとう》のときにやってるけど。あれってつまり、祈祷とか修行とかそういうのをやるときに、悪霊なんかに邪魔されないようにするもんなの。だから、そもそもは護身法なのよね。それを最後に刀印で中央を払って気合をかけるじゃない? そうすると一種の攻撃にも使える、というわけ。気合をかけてるときに気力を発射してるのよね」「なるほろ……。じゃ、除霊とかああいうのって、とどのつまりは気力を操《あやつ》って何かしてることになるわけだ」 「そ。呪文《じゅもん》を唱《とな》えるとか道具をつかうとかは、結局のところ気力を効率よく集めるための単なる儀式よね」 「じゃ意味がないわけ?」 綾子は頬杖《ほおづえ》をつく。 「んー、意味がないっていうか。なきゃできないってもんでもない、ってことよね。たとえば真言《しんごん》をまちがえて覚えている人がいても、まちがえてるからどうこうって問題じゃない。……と、アタシなんかは思ってるけど」 「へぇぇ」 「中国に気功法ってのがあってね、これなんかは気力を操る功夫《クンフー》なのよ。病気を治《なお》したりものを動かしたり、はては離れたところにいる人を手も触《ふ》れずに倒したり、儀式をとっぱらった気力かしら、と思ってるんだけど」 「それって、PKなんじゃないの?」 綾子はあたしを振り返る。 「あ、そうか。そうよねぇ。病気を治すなんてのはPK-LTだし、遠くの人をやっつけるのはPK-STか。じゃやっぱりPKって気力なんだ」 「よくわかってないわけ?」 「わかってることのほうが少ないの。あたしも気功法に詳《くわ》しくないしな。達人っていわれる人は本当にすごいらしいんだけど、見たことないしねぇ。触《さわ》りもしないで岩は砕《くだ》くし、鉄は曲《ま》げるし、ガンは治すし、人間を操ったりもできるらしいし。気功で除霊をする人もいるらしいしなぁ」 「ふぅん……」 「案外リンなんか、できたりして」 「あ、言えてる」 ふたりして笑ってから、あたしたちは顔を見合わせた。 「ナル!」 ナルが気功法の達人だって可能性はないだろうか? 「気功だったら縛《しば》っても意味ないよね」 「閉じこめたって意味がない。そりゃ、危険だわ」 「確かに眠らせとくしかないわけで」 「そうかぁ。そうだったのかぁ」 にゃるほど。疑問がひとつ解《と》けたぞー。 綾子は盛んにうなずいている。 「そうよねぇ。でなきゃ、ナルまで精進潔斎《しょうじんけっさい》する必要なんかないわけだしー」 「あ!」 あたしは手を叩《たた》いた。 「なによ」 「あたしー長らく疑問だったことがあるんだけどー」 「ふむふむ」 「ずーっと以前にタカの学校調査に行ったときに、あたしナルと穴《あな》の中に落ちたことがあったじゃない」 「あった、あった」 「マンホールがあってさー、穴の中は落ちこんだガレキでいっぱいだったわけ。それがさ、たまたま落ちたのがコンクリートの大きなかたまりとかないところで、そんでたいしたケガもなかったわけだど、それって変だなーと思ってたのよ」 「どうして」 「だって、マンホールからあたしたちは落ちたわけでしょ? ガレキだってマンホールから落ちたんだよね。そしたら、あたしたちもガレキも落ちる場所は似たりよったりなのが当然なんじゃないの?」 「そっか。麻衣《まい》たちが落ちるところってのは、ガレキなんかがゴロゴロしてるのが当然なわけだ」 「でしょ? それが、ガレキがなかったということはー」 「誰《だれ》かが砕《くだ》くか、のけるかしなきゃねー」 「だよねー」 「ふっふっふー」 ついに尻尾《しっぽ》をつかんだぜ。あたしと綾子はしばらくヘラヘラ笑い続けていた。 「ん? しかしちょっと待てよ」 綾子が唐突に首をひねった。 「でも、気功法が使えるなら、あの狐《きつね》みたいなのが飛びかかってきたときなんで撃退できなかったの?」 「んんん? それは確かに……」 そういえばリンさんが何か言ったんだ。「止《や》めろ」とかなんとか……。 「気功法を使っちゃいけない理由でもあるのかなぁ……」 結局頭を抱えてしまったあたしと綾子だった。
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奈央《なお》さんが帰ってこない。それが問題になったのは十二時が近くなってきてからだった。 「無断でこんな時間まで帰ってこないなんてありえない」 裕恵《ひろえ》おばさんたちが騒ぎ出して、調べてみると誰《だれ》も奈央さんが出かけたのを見ていない。部屋を調べてみても財布やなんかが残っていたり、どう考えても出かけているとは考えられない、ということになった。ぼーさんとジョンが手伝って近所を捜したのだけど、奈央さんの姿は見つからなかった。ぼーさんとジョンがベースに戻って来たのは一時過ぎ。雲の厚い夜空には月も見えない。 「どうだった?」 あたしが聞くぼーさんとジョンは首を横に振る。 「明日、戻ってこなかったら捜索願を出すってさ」 ひどく重苦しい気分になった。 あたしがうなずいたところで、突然機材を見守っていたリンさんが声を上げた。 「滝川《たきがわ》さん。――これを」 そう言ってモニターを示す。洞窟《どうくつ》においたカメラの映像だった。画面の左に洞窟の入り口が見える。……別に異常はないみたいだけど。何かな? ぼーさんは画面に見入り、それからあわてたように立ち上がった。 「リン、懐中電灯があるか」 「車に乗せてあります」 「ジョン、来い」 「どうしたの?」 「麻衣《まい》たちはここにいろ。若旦那《わかだんな》、この場を頼む」 血相を変えて出ていく三人を見送って、あたしは綾子《あやこ》と顔を見合わせる。 洞窟の映像に何か問題があるんだろうか? あたしはあらためて画面に見入ったけれど、洞窟の中には何の以上も見えない。ガランとした空間が高感度カメラ独特の妙《みょう》に白々としたトーンで映《うつ》っているだけだ。 「なんなのかしら」 綾子のセリフにあたしは首をひねる。 「……なんにもないよねぇ。変なものが映ってるわけでも、変なことが起こってるわけでもないし……」 言いかけて、あたしは洞窟の入り口に眼を留めた。入り口の外は岩場で、突き出した岩に白い波が打ち寄せている。そこに波に洗われるようにして引っかかっている何か。 「あれ、なんだろ」 眼を凝《こ》らしてみても、なんだかわからない。岩にぶつかって離れてを繰り返す。 必死で眼を凝らしているうちに、ぼーさんたちが駆けつけたのが映った。ぼーさんたちはまっすぐ岩場に引っかかったモノのほうへ向かう。やっぱりあれが……。 彰文《あきふみ》さんが腰を浮かせた。 あたしがスピーカーを切り替えた。ぼーさんたちはだまりこくっている。波の音よりほかにスピーカーから流れてくる音は聞こえない。 ぼーさんたちは波をかぶりながらそれを引き上げた。リンさんとふたりがかりで抱《かか》え上げる。 綾子が悲鳴をあげた。彰文さんが部屋を飛び出す。 映像は粗《あら》くてよくは見えない。それでもそれが人だということはわかった。あたしたちが眺《なが》めている間、無抵抗に波に洗われていた人の身体《からだ》。生きている人だとは思えない。 (――潮《しお》の関係で死体が流れてくるんです) 奈央さんは戻ってこない。出かけているとは考えられない。 あたしは眼を閉じた。どうか別人でありますように。ぜんぜん関係のない誰《だれ》かでありますように。 ――それでも、そんな偶然があるはずのないことがあたしにもわかっていた。
それはまちがいなく奈央さんだった。彼女は潮に乗って、あの洞窟《どうくつ》までたどりつい |