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悪霊シリーズ第6巻 悪霊とよばないで
作者:    出处:    发表时间:2007-09-20    浏览次数:     

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「会えます?」
 真砂子はリンさんを見る。リンさんはうなずいた。
「顔を見るだけでしたら。決して部屋には入らないでください」
 真砂子は大真面目《おおまじめ》な顔でうなずく。本当に泣きそうな顔だった。やっぱりこいつもナルが本当に好きなんだなぁ、とあたしは思った。
「こっち」
 あたしは襖《ふすま》を開ける。ベースとして使っている部屋の、奥のほうの八畳にゆうべナルを移した。隣《となり》の部屋にひとりでおいておくのはなんとなく不安だということで意見が一致したからだ。
 真砂子は中をのぞきこんで息を吐《は》いた。辛《つら》そうな声に聞こえた。
 部屋には布団《ふとん》がひとつだけ。その四方には呪符《じゅふ》が木の枝で畳に射してる。ナルは身動きひとつしない。よほど気をつけて見なければ、息をしてないのかと思うほど。白い額《ひたい》に小さく文字が描かれている。あれもリンさんが書いたのだけど、インドの女の人がしてる赤いのみたいでなんだかよく似合っている。
「どういう霊が憑《つ》いているのか、わかる?」
 あたしが聞くと、真砂子は力なく首を振った。
「よく――見えません。霊が憑いているのは感じるのですけど……。空虚《くうきょ》な霊と呼ぶべきですかしら」
 リンさんが聞きとがめたように振り返った。
「どういうことですか?」
「無色透明で、なんの感情も放射していないんですの。なのにとても存在感が強い……。ひょっとしたら、霊の正体をつかめないように、何かが邪魔《じゃま》しているのかもしれませんわ」
 リンさんは考えこむように、うつむく。
「閉めていい?」
 あたしが聞くと真砂子はこっくりうなずく。あんまりそのようすが殊勝《しゅしょう》なんで、あたしはちょっとかわいそうになってしまった。
「さてと」
 ぼーさんは真砂子とジョンにひととおりの事情の説明をする。話の途中で彰文《あきふみ》さんがコーヒーを持ってきてくれた。
「そ、それは松崎《まつざき》さん、タイヘンでしたですね」
 ジョンに言われて綾子《あやこ》は高笑いする。
「いーの。これをネタに思いっきりゆすってやるわ。ほーほほ」
 
 ……まーたこいつはそんなことを。
 ぼーさんはリンさんに視線を向けて、
「ゆうべなんか動きはあったのか?」
「母屋《おもや》と、入り江側の部屋に。ご覧になりますか?」
「なるともー」
 ……がっくり。どーも調子《ちょうし》が狂うんだよねぇ。やっぱリンさんが「ご覧になりますか?」と聞いたら、渋《しぶ》ーく「再生してくれ」とかなんとか言ってくんないと。ぶつぶつ。
 モニターに映像が出る。奇妙な映像が撮影されていたのは葉月《はづき》ちゃんの部屋と母屋の廊下《ろうか》、それから入り江側の部屋だった。母屋の画面には両方とも妙な光が映りこんでいる。薄暗いぼんやりした光のようなもの。葉月ちゃんの部屋に現れた光は布団の周《まわ》りをゆらゆらと動いて消えてしまった。廊下に現れたほうはすっと画面を横切るだけ。
「音は」
「無音です。振動はありません。ほかの計器類も正常値の範囲内。ただし気温が五度ほど下がっています」
「入り江側の部屋は」
「モニターに出します」
 入り江側の部屋においたカメラはまっすぐ窓のほうを向いている。その窓の向こうにときどき白い微《かす》かな光が見える。それは下から上へ動いていく。
 ……下から上。
「霊姿なのか、あれは?」
「わかりません。ここも温度以外には変化は見られません」
「温度差は」
「やはり五度ていどですね」
 あたしはこそこそと彰文さんに声をかける。
「……下の洞窟《どうくつ》なんですけど……」
「どうかしましたか?」
「ひょっとして洞窟の脇に道があったりします? 崖《がけ》をえぐった道みたいな……でもって、石段があってお店の脇に昇ってるんですけど……」
 彰文さんはきょとんとした。
「……行ってご覧になったんですか?」
 やっぱりあるのか。
「でもって洞窟は『く』の字形に曲《ま》がってて、奥に祠《ほこら》があったりします?」
「下へ降りたんですか? だめですよ、あの石段は危ないんです」
 ぼーさんがあたしを見た。
「どうした、嬢ちゃん」
「あたし……また抜け出しちゃったみたい」
「抜け出した、って……また幽体離脱か?」
「……らしいんだけど……」
 もごもご。あたしはナルぬきで夢の後半部の話をする。前半はとうてい人に話せる内容じゃないしなー。彰文さんがぽかんとあたしを見ていた。
「でね、洞窟に海から人魂《ひとだま》が吹き寄せてくるの。魚とか、そういうのの霊まで」
「魚の霊だぁ?」
 ……いや、自分でも変だとは思うんですけど。でも、お魚だって生きてるんだし、化《ば》け猫がいるなら化け魚もいていいじゃない。
「あの洞窟はそうなんです」
 真面目《まじめ》な口調で言ったのは彰文さんだった。
「潮《しお》の関係で死体が流れてくるんです」
 ――え?
「この近辺の海で死ぬと、あの洞窟に流れつきます。特に人やなんかの大きいものは。それで祠《ほこら》があるんです。うちの犬が流れ着いたのもあそこでした」
 ぼーさんは眉《まゆ》をひそめる。
「見てみたい。案内してもらえますか」
 彰文さんはうなずいて時計を見る。
「干潮《かんちょう》までは少し時間があるな……。あそこは石段を使わないかぎり、潮が引くまでは行けないので」
「ついでにその石段も見てみたいところだな」
「だったら、少しこのあたりをご案内します。そのうちに潮が引くでしょう」

     2

 リンさんだけを機材とナルの見張りに残し、あたしたちはぞろぞろと店を出て庭を入り江に添って歩いていった。入り江のちょうどいちばん奥に崩《くず》れかけた石段がある。段の途中は単なる急斜面になっていたりするので、人が使うことはほぼ不可能に近いだろう。
「なんだってこんなところに石段があるのかねぇ」
 ぼーさんが聞くと彰文《あきふみ》さんは、
「よくわからないのですけどそうとう古いものらしいです。ここに店を建《た》てた時からあったそうですから。祖母なんかは小さい頃この石段を使って洞窟《どうくつ》に行ったようですよ。もっともその当時からすでに半分壊《こわ》れかけていたそうですが」
 一応入り江にそっては手すりや低い塀《へい》が取りまいていて、石段の降り口にはちゃんと鉄柵《てっさく》の扉がついていた。扉から石段までは少し距離があって、柵のこちらからでは入り江の水面は見えない。
「ここに店ができたのはいつ頃なんです?」
「曽祖父《そうそふ》の代だと聞いています。もともと金沢《かなざわ》に店があったのを、ここへ移したらしいんです」
「じゃあそれまでは、ここに住んでいたわけじゃねぇんだ」
「ええ。でもここはもともとうちの本家があった場所らしいんです。曽祖父はそれでここへ何度か来ていて、ここに店を移すことにしたようですね」
「その本家がいつ頃この土地へ移ってきたのかわかりますか」
 彰文さんは首をかしげた。
「さあ、それは――。菩提寺《ぼだいじ》の墓に入ってる人でいちばん古い人は安政《あんせい》年間の生まれですね。それ以前はちょっと僕では。なんでしたら祖母に聞いておきますけれど」
「頼みます。ときに安政年間というといつ頃でしたっけ?」
 彰文さんは首をかしげる。
「江戸時代というのは確かですけど詳《くわ》しいことは。何しろ受験から遠ざかって長いもので……」
「現役高校生」
 ぼーさんがいきなりあたしを振り返る。
「あたしの学校じゃまだ源氏と平家が戦ってんだい」
「真砂子《まさこ》は。いちおう学校に行ってんだろ?」
 真砂子はつんとそっぽを向く。
「いちおう、はよけいですわ。うちではまだ源氏の君が活躍してますの」
「真砂子、高校行ってんの!?」
「勝手にひとを中卒にしないでいただけます? もちろん行ってますわよ」
 ぼーさんがニンマリ笑った。
「芸能人で有名な某私立高校だよな」
 はー、そうなのか。さすがにメジャー霊媒師《れいばいし》はたいへんだ。
「基本的に忙《いそが》しいんでしょ? よく来れたねぇ」
 あたしが聞くと真砂子はちょっと赤くなった。
「忙しいんですの。まだ補習の途中でしたし。……言っておきますけれど出席日数を補うための補習ですわよ」
 わーった、わーった。で、ナルに会えるってんで飛んできたわけだ。いじらしいのぉ。――ん? ちょっと待てよ。
「真砂子、学校には何着て行ってんの?」
 あたしが聞くと真砂子は心底軽蔑《けいべつ》した顔をした。
「もちろん制服がございますわ。それともあたくしが着物で登校しているとでもお思いですの?」
 そんなことは考えてないやいっ。まぁ、ハカマかな、ていどのことは考えたけどさ、むにゃむにゃ。
「あれが茶室です」
 彰文さんが手をあげた。広い庭の歩道(というのだろーか)を歩いてきたあたしたちの目の前に小さな建物が見える。
「庭からはまったく入り江は見えないわけか?」
 ぼーさんに聞かれて彰文さんは、
「茶室の向こうへ行くと雌鼻《めばな》――岬《みさき》の先まで行けます。そこからでしたら」
 その言葉どおり、茶室をすぎてなおも歩いていくと、こぢんまりした庭に出て、そこからは入り江を見おろすことができた。低い垣根ごしに対岸の断崖《だんがい》と、その斜面に張りだした建物、建物を支える足組みが見える。そうしてその足組みの下に岩肌をえぐって細い道が通っていた。道の右は崩《くず》れかけた石段、左にはぽっかり口をあけた洞窟《どうくつ》。
「もう少し先まで行きますか」
 彰文さんがそう言って、鍵を使って垣根にある小さな戸を開ける。そこから岬の突端までは低い松がまばらに生《は》えた草地になっている。
「ここから先は柵《さく》がないので気をつけてくださいね」
 ちょっとだけおっかなびっくり歩いて、突端までは十五歩だった。突端と言っても切り立った断崖絶壁というわけではなくて、ゆるい斜面がいちおうあって、そこに潅木《かんぼく》が生えていたりする。斜面の先が断崖になっていてそこからが海だった。突端の右手に入り江の入り口になる亀裂《きれつ》が口を開けている。
「上から見るとそんなに崖《がけ》って感じでもないんだな」
 ぼーさんが言うと彰文さんは微笑《わら》う。突然綾子《あやこ》が、
「ちょっと若旦那《わかだんな》」
「若旦那……って、僕《ぼく》は別に家を継《つ》ぐわけでは
「細かいことにはこだわらない。あれ、なんなの?」
 綾子がさしたのは松の間に並んだ石だった。一抱《ひとかか》えくらいの石がきちんと横に五つ並んでいる。
「ああ、あれですか。あれは僕にもわかりません。祖母もなんだか知らないようです。墓石みたいなんで、いじらないでおくんだと言ってました」
「へぇぇ」
 
 海には大小の岩が突き出している。波があたって白く砕《くだ》けていた。正面にはひときわ大きな岩がある。小山ほどの大きいのと少し小さいのと。そこにはそれぞれ注連縄《しめなわ》がかけてあった。ジョンが指をさす。
「吉見《よしみ》さん、あれはなんですか?」
「雄瘤《おこぶ》と雌瘤《めこぶ》です。大きいほうが雄瘤、小さいほうが雌瘤ですね」「オコブとメコブ……。注連縄がかけてありますけど?」
「ええ。でも別にご神事とは関係ないんだと思うんですけど。あの注連縄もお正月に近郊の漁師さんがかけ直しているみたいなので」
 言ってから、彰文さんはあたしに、
「あれはね、ここから海に飛び込んだ男の人と女の人がああなったんだ、って言われてるんです」
 あたしは彰文さんを見上げた。
「土地の伝説ですけどね。詳《くわ》しい名前は忘れましたが、ずっと大昔、この土地になんとかいう姫君がいて。姫君は土地に住んでいる漁師《りょうし》の恋人がいたんですけど、そこに横恋慕《よこれんぼ》する男が現れるんですよね」
「へぇー」
「横恋慕してきた男は近くの貴族の息子で、姫を無理矢理お嫁《よめ》さんにしようとするんです。それを嫌《いや》がった姫は恋人と逃げようとする。――駆け落ちですよね。ところが駆け落ちの手はずを書いた手紙を貴族の息子にすり替えられてしまって、ふたりは出会えないんです」
 あたしはぽかんと彰文さんを見上げた。
「姫がまちがいに気がついてあわてて恋人を捜《さが》すと、恋人のほうは貴族の恋人を殺してしまっていた。姫が来ない代わりに貴族の息子が来たので裏切られたと思ったんです。ふたりは誤解をとくことができたけれどもう遅《おそ》い。それでこの岬から海に飛びこんでしまうんです。それを哀《あわ》れに思った神様が二度と引き裂《さ》かれることがないよう、恋人のほうを雄瘤《おこぶ》に姫のほうを雌瘤《めこぶ》に変えた、って話です」
 あれはこの話だったのか……。そう思いながらあたしは内心赤面してしまった。あたしってなんちゅー大胆なオンナなの。あたしのどこが姫君だって? しかも彰文さんが陰険な貴族の息子でナルが漁師ってか? すっげーミス・キャスト。
「どうかしましたか?」
 彰文さんに聞かれてあわてたのなんの。
「なななな、なんでもありませんです、はい」

     3

 茶室からてこてこ戻ると、正面にこんもり木が茂って、そこにちょこっとだけ何かの屋根がのぞいているのが見えた。
「彰文《あきふみ》さん、あれ、なんですか?」
「ああ、あれが神社です。神主さんもいないような小さな神社ですけどね」
 言って腕時計に視線を落とす。
「まだちょっと早いかな。行ってみますか?」
 完全に潮《しお》が引いてしまわないとパンプスの綾子《あやこ》や着物の真砂子《まさこ》が歩くのは無理だと言われて、あたしたちは神社に向かう。いったん庭を抜けて母屋《おもや》に出て、母屋の庭を通って道路に出る。吉見《よしみ》家の門から少し行ったところに鳥居《とりい》が建っていた。
 神社はけっこうきちんとしていた。無人だというからきっとすごく荒れ果てているんだろうと思ったのに、ちょっとだけ嬉《うれ》しそうに綾子が、
「あらぁ、りっばな神社。ちゃんと掃除もされてるじゃない」
「りっぱですか? 掃除はうちの家の者が、代々世話役をしてるんです」
 とうてい立派とは思えない本当に小さな神社だった。小さな舞台みたいのがあって、奥に格子戸《こうしど》があるだけ。
「りっぱ、りっぱ。氏神《うじがみ》さまでしょ、これ」
「氏神さまってにゃーに?」
「てっとり早く言っちゃうと土地の神様。村の鎮守《ちんじゅ》の神様よね。舞殿《まいどの》があるってことはお神楽《かぐら》があったりするんだ」
「ええ。秋に」
 ふうん。
「若旦那《わかだんな》、若旦那」
 今度はぼーさんに呼ばれて彰文さんは苦笑する。
 ぼーさんは境内のすみにある三つ並んだ石碑を示して、
「ありゃあなんだ?」
「それはトハチ塚です」
「とはち塚?」
「十八、と書いて十八《とはち》塚。なんだかはよくわからないんですけど、別名を三六《さんろく》塚とも言うんで、十八というのは一種の地口《じぐち》だと思うんですけど」
「にゃ?」
 彰文さんのシャツをひっぱって聞くと、
「さぶろく、じゅうはち、でしょ?」
「あ、なるほど」
「なんで三六塚と言うのかは誰《だれ》も知らないんです。でもこれが三つでしょ? そうして岬《みさき》の突端にあるのが」
「あ、五つだったよね」
 彰文さんはうなずく。
「ええ。ですから岬の先のあれは本当は六つあって、一つが紛失してしまったんじゃないかと、祖母なんかはそう言うんですけど」
 ぼーさんが考えこむ。
「紛失した塚、ねぇ」
 ジョンがぼーさんに、
「塚ゆうのはこの場合お墓のことですよね」
「そういうことだな」
「それがひとつあらへんわけですね? それは吉見《よしみ》家の事件に関係ないのですやろか」
 綾子が指を弾《はじ》いた。
「それよ。塚が狐《きつね》の墓なんだわ。でもって、店を建てたときに勝手に移動させちやったわけ。その時に六つの中のひとつを壊《こわ》すか見落とすかどうにかして、ちゃんと移動させなかった。その崇《たた》りで……」
「という想像もなりたつ、と」
 ぼーさんに言われて綾子は頬《ほお》をふくらませる。
「なによぉ」
「先走るな、とナル坊なら言うだろうよ。――真砂子、どう思う?」
 真砂子はお人形みたいな首をかしげる。
「狐、と言われて本当に狐だったことはないのですけど、動物の気配はしませんでしたわ。お店にも、塚にも。霊はよく嘘《うそ》をつきますし、人の目に映《うつ》るときには獣《けもの》の姿をして見えることが多いので」
「ふうん。ほかには」
 聞かれて真砂子は難しい顔をする。
「霊の気配はたくさん感じます。どういう霊なのかはわかりませんわ。ただ、一種の浮遊霊なんじゃないですかしら」
「真砂子。それは今回もわからん、ってことか?」
 ぼーさんの呆《あき》れた顔に、真砂子はそっぽを向く。それから、
「ここは変な場所ですわ。よい感じもしないけれど、かと言って悪い感じもしません」
 ……ちょっと、待てこのセリフは。
「家の中にも奇妙な力を感じましたけど、とても悪いものととてもよいものが混《ま》じりあってる感じでしたの。こんな感じは覚えがあるのですけど……」
「霊場?」
 聞くと真砂子が目を見開いた。
「……そう。そうですわ。それも以前アメリカに行ったとき、インディアンの霊場に行ったことがあるのですけど、そこの感じにとてもよく似ています」
「真砂子、外国に行ったことあるの?」
 おお、リッチマン。
「一度だけ。ASPRのお招《まね》きで降霊会をしたことがありますの」
「ASPR?」
「アメリカ心霊調査会のことですわ。その時にインディアンの聖地というか、そういう場所に行ったことがございますの。インディアンの霊魂が集《つど》う場所です。そこは精励に守られた神聖な場所であり、汚《けが》す者には災厄《さいやく》をもたらす崇《たた》りの震源地でもありますの。たくさんの霊が浮遊していて……。あの場所の感じによく似ていますわ」
 霊魂の集う場所……。
 ぼーさんが背後の岬のほうを振り返った。
「やっぱりどうあっても洞窟《どうくつ》を見てみないとな」

 お店の玄関の前はきれいな庭になっている。ここにも低い垣根が続いていて、その向こうは海岸。その垣根の一箇所に切れ目があって、そこから海岸に下りるコンクリート製の階段が延びていた。鋼鉄製の手すりにしがみついて長い階段を断崖《だんがい》にそって下りると、そこは小石と岩だらけの海岸だった。海岸から少し沖のほうには大小の岩が無数に海面に突き出した場所がある。それがちょうど海岸にそって平行に連なっていて、押し寄せる波はその岩にぶつかって勢いを消されるのか海岸ではとても穏《おだ》やかになっていた。
「きれいな水」
 ガラスみたいに澄んだ海水だった。
「こちらです」
 彰文さんが今下りてきた断崖の付け根を示す。崖《がけ》の下に岩や石が重なりあった小道のようなものができていた。滑《すべ》らないように気をつけて歩く。その小道は崖にそってぐるりとまわっていて、崖の突端までは簡単に行けた。突端からは岩伝いに歩いて、洞窟の入り口にたどり着く。潮はすっかり引いていて、水に落ちたからといってどうせ踝《くるぶし》ほどの深さしかないわけだけど、綾子はもう大騒ぎ。だから調査に気取った格好でくんなって言ってんのに。
 洞窟はまさしくあたしが夢で見たものと同じだった。地面は河原《かわら》のような石だらけ。中ほどで折れ曲がっているのも同じなら、ちょうど折れ曲がったあたりの奥に小さな祠《ほこら》があるのも同じ。今、祠を見ても別に歪《ゆが》んだ感じはしない。小さいけれど、掃除がゆきとどいている。きれいなきちんとした祠だ。
「真砂子、どう?」
 小声で聞くと、真砂子は高い天井を見上げる。
「同じですわ。あの山と――アメリカで見た霊場と同じ――」
 つぶやいてから、洞窟の入り口を振り返る。
「今も霊が流れこんできています」
 ぼーさんは祠の中をのぞきこんでいた。
「これの掃除も若旦那《わかだんな》んちでやってるわけか?」
「ええ。母屋《おもや》の仏壇と店にある神棚《かみだな》と……うちはそういうのうるさいですから。子供の頃はたいへんでした」
「ほぉ?」
「子供の手伝いっていうと、そういうのの掃除なんですよね。小さい頃は嫌《いや》だったな」
「わかるわかる。俺《おれ》んちも寺だったからさー」
「綾子は?
 
 あたしは聞いてみた。
「綾子の家も神社でしょ? たいへんだった?」
「残念でした。アタシのうちは別に神社じゃないもーん」
「違《ちが》うの!?」
 だったらどーして巫女《みこ》なんだよ。
「アタシ、手伝いなんてしたことないのよねぇ。ホラ、お嬢育ちでそのうえひとりっ子で甘やかされてきたからー」
「……自分で言うな。じゃ綾子んちって何してんの?」
 聞くと綾子は笑って髪をかきあげる。
「ああ、医者よ」
 げげっ!
「あのお金持ちで有名なお医者さん?」
「そ。個人で総合病院をやってたから、まぁ金持ちだわね。なんでもお手伝いさんがやってくれたしなー」
 そんな金持ちの令嬢がどーして巫女なんてやってるだ。聞こうとしたとき、ぼーさんが声をあげた。
「若旦那《わかだんな》、中に入ってるこりゃ、なんだ?」
 ぼーさんは祠《ほこら》の小さな格子戸《こうしど》に鼻をくっつけるようにして中をのぞきこんでいる。ああ、と言って彰文さんが祠を開けた。
「流木ですよ。たぶんそうだと思うんですけど」
 中に入っていたのは高さ三十センチくらいの木の棒だった。上のほうが丸くなって人の形のように見える。小さな出っ張りがふたつあって、ちょっと手みたいだ。
「『おこぶさま』って言うんです」
「『おこぶ』ってあの岩の?」
「さあ。あれとは別じゃないかな。頭と手があってなんだか人間みたいでしよ? しかもこの手ってこう見えませんか?」
 彰文さんは片手を軽く上げ、もう一方の手を垂《た》らしたまま少し前へ出す。
「あ、見える」
「これって仏像によくあるポーズなんですよね。それで祀《まつ》ってあるんだと思います」

     4

「えびす、か」
 ベースに戻るなりぼーさんはつぶやいて、それからリンさんに声をかける。
「異常は」
「今のところありません」
「そっか。なぁ、リンさんや。下の洞窟に機材をおけねぇか?」
 リンさんは洞窟のようすを聞いてから考えこむ。
「海水の心配さえなければなくはありませんが、電源が……」
「ああ、そうか」
「バッテリーは二時間しかもちませんし、ひとつしか用意していません。インターバルタイマーを使う手もありますが」
「インターバルタイマー?」
「一定時間ごとにスイッチのON・OFFをする装置です。たとえば、一時間ごとに十分だけ撮影をする、というような。これだと最高、なんとか半日もたせられますが」
「しかし、肝心要《かなめ》のところでスイッチが切れる可能性もあるわけだ」
「はい。――ああ、崖《がけ》の高さはどれくらいありますか?」
 彰文《あきふみ》さんが、十メートルちょっとです、と答える。
「それだったらなんとかここからケーブルを降ろせるでしょう。あとは機材を運《はこ》び込む労力さえ惜《お》しまなければ」
 ううう。たいへんそう……。
 ――そういうわけであたしたちはそこから過酷《かこく》な重労働をした。潮《しお》が引いているうちにというわけで大急ぎで機材を運んで。岩場は担《かつ》いで渡れないから岩を迂回《うかい》しつつ、じゃぼじゃぼ水の中を歩いて。水に濡《ぬ》らしたらおおごとなんで冷や汗タラタラ。台車も使えないしさー。
 彰文さんが入り江に飛び込んで、ベースの窓から降ろしたケーブルを受けとめて洞窟まで引っ張ってくれて。彰文さんがいなかったら、コネクターを濡らさずにケーブルを受け渡すのはけっこうたいへんな作業だったろう。機材が濡れないようビニールで巻いて簡単なテントを作って。……くらくら。そうしてやっとセッティングが終わったときには潮が満ちていて、あたしたちは腰《こし》まで水につかって戻らなければならなかったのだった。

「ねぇ、ぼーさん、『えびす』ってなに?」
 セッティングを終えてからシャワーを浴《あ》びて、ベースに戻って。そこであたしは聞いてみた。
「えびす?」
 セッティングに参加しなかった綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》は、ジョンを連《つ》れて葉月《はづき》ちゃんのようすを見にいっている。
「さっきぼーさんが言ってたんだよ。『えびす』って」
「あー、そうか。『えびす』ってのはな、要は漂着物のことだ」
「漂着物……」
「海岸に流れ着いてきた珍《めずら》しいもの。海中の石や死体、鮫《さめ》や鯨《くじら》。とにかく、めったに見られないものが海岸にやってくると、これを豊漁のきざしだといって喜ぶ風習が漁村にはあったんだな。そういう漂着物をそもそも『えびす』と言うらしい。特に珍しい形の石、ありがたい形の流木、そういうものはよいことの前触れだとか言って後生大事に祀《まつ》ったりした。『おこぶさま』とかいうあの流木もそうだろう。実際に神社のご神体が漂着物だったりすることもあるしな」
「へぇぇ」
「反対に『えびす』が悪いことの前触れだったりすることもある。たとえば台風とか津波とかな。だからまー最初は『えびす』ってのは、『海からくるもの』を神格化したものだったんだろうな。もともとは『夷』という字を書くんだが。それがのちに商売繁盛の神様になって、文字もおめでたい『恵比寿』という字を書くようになった、と」
 ……海からくるもの……。
「もともと日本にゃ『常世《とこよ》』という信仰があってな。『常世』っつーのは平たく言や不老不死の国だ。それが海の彼方《かなた》にあると信じられてた。『海からくるもの』ってのは『常世』からくるもんだと思われてたんだな」
 ほぇぇ。日本人って不思議《ふしぎ》だなー。
「えびす、おこぶさま、紛失した塚……」
 つぶやいてぼーさんは立ち上がった。
「ちょっと電話、借りてくらぁ」
「どうしたの?」
「俺《おれ》たちだけじゃ心許《こころもと》ねぇ。援軍を呼ぶんだ」
 ふに?

 ぼーさんがいなくなってリンさんとふたりっきりになると会話もいまひとつ弾《はず》まないし、それであたしは少しの間外に出てぶらぶらすることにした。海岸に下りる階段までいって腰を下ろす。さっきよりもずいぶんと狭《せま》くなった海岸を見ていた。
 ……海からくるもの。
 流れ着いた『おこぶさま』と吹き寄せてくる霊。洞窟と霊場。神社と塚。伝説のあるふたつの岩。海へ身を投げたふたり。
 ――あの霊場のせいなんだろうか。
 あたしはそう考える。
 ――それとも、あの伝説に何か関係があるんだろうか。
 あたしはさっき彰文さんに聞くまで、あの伝説を知らなかった。それがあんな夢を見たということは、きっと何か意味があるはずだ。ましてやナルが「夢の方向を示した」と言っていたんだから。あれはナルがあたしに知らせたかったことなんだろう。だとしたら伝説がこの事件に関係ないはずがない。
 それとも関係があるのはあの夢の別の部分なんだろうか。あの、逃げて逃げきれずに包囲される夢。どうして海に飛び込まなかったんだろう。伝説では海に身投げしたことになっているのに。あたしも夢の中で思った。どうして海じゃないんだろう、って。そして、あの一言。
 ――末世《まつせ》まで呪《のろ》ってやる。
「あんた、何を知らせたかったわけ?」
 それからふと思う。
 ――ひょっとして今まで見た夢も、全部ナルが「方向を示して」くれたんだろうか?
 いくら考えてもよくわからなくて、頭がぐしゃぐしゃしたまま店に戻ると、玄関を入ったところにある帳場でぼーさんが電話をしていた。
「よう。豪勢なところにいるじゃねぇか」
 ……誰《だれ》を呼ぶつもりなのやら。
「お楽しみのところ悪いんだが、ちょっと難儀なことになってな。手を貸してもらいたいんだ。来れるか?」
 ぼーさんは少しの間のあと、
「来てくれ。どうしても人手が必要なんだ。――明日? 今日の便がまだあるだろう。荷物なんかいらねぇから、何がなんでも今日の飛行機に乗れ」
 飛行機ぃ?
「直通がなきゃ乗り継いで来い。ともかく一刻も早く着いてほしいんだ」
 なんちゅー横着《おうちゃく》な呼び方だ。いったい誰に電話してるんだろう。これは親しい人間だとみたね。――ん? ひょっとして……かな?
 ニンマリ笑ってベースに戻ろうとしたとき、バタバタとあわてたような足音が聞こえた。振り返ると彰文さんだった。顔色が真っ青になっている。
 彼は帳場に飛び込み、そうして悲鳴に似た声をあげた。
「滝川《たきがわ》さん、兄が――」


四章 凶事


     1

「兄」というのは次男の靖高《やすたか》さんのことだった。
 本来はとても明るいのに、このところ何故《なぜ》だか暗かった、という人。
 あたしたちが駆《か》けつけたとき、靖高さんの部屋は血糊《ちのり》で斑《まだら》に染まっていた。六畳ふた間の部屋の一方に布団《ふとん》が敷いてあって、靖高さんはそこで寝ている。その布団の周《まわ》りを家族が取りまいていた。布団の上には投げ出された両手と、その両手首についた無残なほど深い傷と。血糊を吸った布団。胸元に放り出されたカッターナイフ。
 目眩《めまい》がした。血の臭《にお》いで吐き気がする。
 ぼーさんが部屋に飛びこむ。泣いている裕恵《ひろえ》おばさんを押し退《の》けて靖高さんの枕元に屈《かが》みこむと、すぐに立ち上がってタンスを開けた。
 
「若旦那《わかだんな》、救急車は」
「呼びました」
 タンスの中からネクタイを引っ張り出して、それで靖高さんの腕の付け根をきつく縛《しば》る。
 まだだいじょうぶなんだ。まだ……息があるんだ。止血をするくらいなんだもの、きっと死んだりはしないんだ。
 いつの間にかきつく指を組んでた。呆然《ぼうぜん》としたまま身動きできないあたしを、誰《だれ》かがつついた。和歌子《わかこ》ちゃんと克己《かつき》くんだった。
「靖おじちゃん、しんだ?」
 和歌子ちゃんが無邪気な顔をして聞いてきた。
「ねぇ、しんだ?」
 楽しいニュースをねだるみたいな顔だった。あたしにはなんて答えていいのかわからない。和歌子ちゃんはあたしを驚いたように見て、それから克己くんと顔を見合わせた。
「まだいきてるんだ」
「なぁんだ」
 本当に無邪気につまらなそうな顔をするふたりが怖《こわ》かった。あなたたちは、叔父《おじ》さんが死んでしまったほうがいいの? 聞こうとしたけど、聞くのが怖い。声を出すことができないあたしを残して、ふたりはこそこそと耳打ちをしながら廊下を駆けていく。救急車のサイレンの音が響《ひび》いてきた。

 靖高さんは近くの病院に運《はこ》ばれた。そこで彼は意識を取り戻し、俺《おれ》は気が狂《くる》ってるんだ、とそう言った。靖高さんに付き添って病院に行った彰文《あきふみ》さんは戻ってきてからあたしたちにそう話した。
「ひとりでいると声が聞こえるんだそうです。家族を殺せ、と命じるんだと」
 彰文さんの表情には悲嘆の色が深い。
「眠ると夢を見るのだそうです。家族を殺す夢です。あまり続くので人を刺《さ》す手ごたえを覚えてしまったと言っていました。内容が内容なので兄は人に言えなかったんです。それでこのままではいつか本当に僕《ぼく》らを殺してしまうんじゃないか、と……」 難しい顔をして話を聞いていたぼーさんは頭を下げる。
「発見が遅《おく》れたら一人目の犠牲者になるところだった。俺たちの力が及ばずにもうしわけありません」
「……いえ、そちらも僕らのせいで渋谷《しぶや》さんがたいへんなのですから」
 ぼーさんは軽く首を振ってから、立ちあがって、隣の襖《ふすま》を開いた。
 部屋のようすに変化はない。ぽつんとしかれた布団と眠っているナル。ぼーさんは部屋の中を見渡してからリンさんを振り返った。
「ナル坊のまわりに式を残してあるな?」
「ええ」
「ナルの近くに霊が近寄ったらあんたにわかるか?」
「わかります」
「じゃあ、反対は? ナルから霊が出ていったらわかるか」
 リンさんは軽く目を見開くようにする」
「もちろんわかります。だいいち禁呪《きんじゅ》をかけてある以上、霊が出ていくことはありえません」
「と、言うことは、だ」
 ぼーさんはあたしたちを見渡した。
「この家に憑《つ》いている霊はひとつじゃない。そういうことだ」
「ちょっと待ってよ」
 綾子《あやこ》が声をあげた。
「じゃ、靖高さんは憑依《ひょうい》されてるっていうわけ?」
「ほかに考えられんだろうが」
 ……確かに。
「ほかの家族にも注意が必要だ。霊が一体じゃない以上、三体やそれ以上である可能性もあるからな。――ジョン」
「ハイ」
「葉月《はづき》ちゃんのようすはどうだった」
「ボクにはわからへんかったのですけど、原《はら》さんがこれは悪質な憑《つ》き物の可能性があると言わはって。いちおう簡単な除霊をして部屋を封じておきました」
「手ごたえは」
「わかりませんです」
「真砂子《まさこ》。――その霊はどういう奴《やつ》だかわかるか?」
 真砂子は首を振る。
「わかりませんわ。ただ、ナルに憑《つ》いているあの霊と同じ感じがしましたわ。強《し》いて言うなら空洞ですかしら」
「空洞?」
「ええ。恨《うら》みもなければ怨念《おんねん》も感じられませんの。もしも霊が憑いているとすれば、とても空虚な霊ですわ」
「麻衣《まい》は?」
 いきなり声をかけられて、あたしはあせった。
「あ、あたし?」
「何か感じないか。なんでもいい。昨日の夢に出てきたことでひっかかることでも」
 あたしは少しだけ迷《まよ》い、そうして言ってみる。
「真砂子の意見と対立しちゃうんだけど、恨みを呑《の》んで死んだ人がいると思うの」 ……必ず末世《まつせ》まで呪《のろ》ってやる……。
「ひどい裏切られ方をした人なんだと思うんだけど。敵に包囲されて殺されてしまうの」 心中したふたりは岬《みさき》から海に身を投げた。だとしたら……。
「たぶん、このあたりで死んだ人だと思うんだけど。少なくとも土地に関係があるんじゃないかな」
 真砂子がしかめっつらをする。
「まさか。そんな霊でしたらあたくしにもわかるはずですわ」
「まー、単なる夢かもしんないんだけどさ」
「夢ですわ」
 ええい、やかましいっ。
 ぼーさんは彰文さんを振り返る。
「どうです。なんか心あたりは?」
「……すいませんが……。そういう話を聞いたことはありません。もっとも僕《ぼく》が知らないだけなのかもしれませんけど」
「ふうん。吉見《よしみ》家がここに移って来たのはいつごろだかわかりましたか」
「もうしわけありません。祖母にもあれ以上のことはわからないそうです」
 ぼーさんは少し考えこむ。それから、
「ジョン。病院に行って靖高さんの除霊をしてみてくれ。ついでに商売っけを出して少し話をしてくるんだな。二度と馬鹿《ばか》なマネをしないように」
「ハイ。やってみます」
「綾子は護符だ。家族と俺《おれ》たちの人数分」
「はいはい」
「俺はちょっと出てくる。彰文さん、悪いが菩提寺《ぼだいじ》に案内してもらえますか」

     2

 綾子《あやこ》に護符を書かせて、あたしと真砂子《まさこ》で手伝ってそれを吉見《よしみ》家の人たちに配《くば》って歩いた。決して身体《からだ》から離さないでください、とお願いしたのだけど。もらってすぐに気のないそぶりで放り出してしまったのは陽子《ようこ》さんだった。長男の和泰《かずやす》さんのお嫁さんで、克己《かつき》くんと葉月《はづき》ちゃんのお母さんであるひと。
「あの、身体から話さないでください。お守り袋かなにかの中に入れておくとか、どうにかして……」
 あたしが言うと陽子さんはおっとりと微笑《わら》った。
「これをつけておくと何か効果があるんですの?」
「ええ、悪い霊を寄せつけない護符なんです。身体から離したら効果がないので……」
「でも、お風呂《ふろ》に入るときはどうしますの?」
 え?
「お風呂には持って入れませんよね。紙ですもの。お風呂に入っている間に悪い霊が寄ってきたらどうしようもないじゃありません?」
「それはそうですけど……。でも危険ですから。ちょっとでも危険でなくするためにつけておいてください」
 あたしが言うと陽子さんは微笑う。
「わかりましたわ。そうします」
 そう言いながら護符を振り返りもしない。あたしはなんとなく釈然としないまま陽子さんの部屋を出た。
 渡そうとすると逃げだしたのは克己くんと和歌子《わかこ》ちゃんだった。
「そんなの、いらない」
「ちょっと、待って。これは大事なものなの。お願いだから」
「いや」
「いらない」
 逃げるふたりを追いかけながら、あたしは妙な気分になっていた。どうして逃げるんだろう? どうして嫌《いや》がるんだろう? 母屋《おもや》を抜けて店に出る。ふたりは玄関から外へ飛び降りてしまった。
「ねぇ、和歌子ちゃん!」
 あたしは前庭を駆け出したふたりに呼びかける。
「叔父《おじ》さんが死んだの知ってる?」
 大嘘《おおうそ》をついてみると、ぴた、とふたりの足が止まった。きょとんとした眼が振り返る。すぐにうれしそうな笑顔を浮かべた。
「ほんと?」
「びょういんにいったんでしょ? きゅうきゅうしゃにのって」
「そうよ。でも間《ま》に合わなかったの。叔父さんは病院で死んじゃったんだって」
 克己くんが小さくつぶやいた。
「やった」
 
 ……この子たちは……まさか……。
 あたしは意識的に小さな声で言ってみた。
「それと、彰文《あきふみ》さんもね……」
「彰にいさんも? どうかしたの?」
 ふたりはそろって声を上げる。ニ、三歩こちらに戻ってきた。
「どうしよう。教えようかな」
「おしえて、おしえて」
「んー、でも。やっぱ内緒にしておこうかな」
 ぐずぐずと口の中で言うと、ふたりが近づいてくる。
「ねぇ、おねえさん、おしえて」
「おしえてよー。彰にいさんもしんだの?」
「んーとねぇ……」
「しんだの? くるまにのった?」
「車……」
 ふたりはあたしのスカートを引っ張る。あたしはすかさずふたりの手を捕《つか》まえた。
「車ってどういうこと?」
「はなしてっ」
「はなせよー」
「放さない。ねぇ、車ってどういうとなの!?」
 ふたりは暴れる。あたしは必死でその手をつかんだ。
「麻衣《まい》? 何やってんの?」
 綾子と真砂子、それから光可《てるか》さんが走ってきた。克己くんが手の中から逃げるるあたしは一緒に逃げだそうとする和歌子ちゃんを捕まえ直した。
 克己くんは少しだけ離れたところで振り返る。
「和歌ちゃん、はなせよ」
「いや。車ってなんのことだか教えて」
「はなせってば」
 あたしは側でおろおろしている綾子を振り返る。
「綾子、和歌子ちゃんに護符を持たせて」
「そんなことするなっ!」
 あたしは克己くんをにらみつける。
「だったら車のこと、教えて。そうじゃなきゃ、和歌子ちゃんに護符を張り付けてとれないようにしてやるから」
「そんなことしたら、ぼく、うみにとびこむからなっ」
「……克己くん、何言ってるかわかってんの?」
 前庭の海岸に下りる階段までは五メートルもない。
「わかってるよ。ぼくがしんだら、みーんなこまるんだから」
「死ぬの、苦しいと思うよ」
「しってるよ。くるしかったら、ざまぁみろだもん」
「誰《だれ》にざまぁみろなの?」
「みんな」
 あたしは綾子に暴れている和歌子ちゃんを押しつけた。
「綾子、捕まえてて。――克己くん、君、本当は誰なの?」
 あたしは玄関から外に出る。克己くんはあたしをにらんだまま一歩さがった。
「克己くんじゃないんでしょ? 本当の克己くんはそんなこと言わないもの。護符を怖がったりしないもんね」
「こわくないよ」
「うそよ。怖いんでしょ? だから護符を持つのもいやなんだよね」
 克己くんは笑った。それはとても子供の笑顔には見えなかった。
「ころしてやる」
「誰を?」
「おまえも、おまえらも。この家の連中も」
 あたしはそっと手を構える。(――人に向けてはいけない)
「この子供も」
 克己くんは――彼の中にいる者はそう言って笑う。
「どうしてなの」
 手が震える。(でもあたし、タカにやったことがある。あれは冗談だったのだけど)
「海に飛びこむくらいは慈悲《じひ》のうちだよ。楽なもんだ。首を切られるのに比べたら」
「首を……切られた?」
 今度がだいじょうぶだという保証は?(――二度とするな。麻衣ていどだから何も起こらなかったんだぞ)
「同朋の裏切りに比べれば」
「この家の人たちが、あなたに何をしたの」
「さてな」
「……その子から離れなさい」
「子供が死ねば用はない。そうなったら離れてやる」
 克己くんは笑って身を翻《ひるがえ》す。その場を駆け出した。たった五メートルの距離。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン」
 お願い、克己くんを止めてっ!
「臨兵闘者皆陳烈在前《りんぴょうとうしゃかいぢんれつざいぜん》っ!」
 剣印を振り降ろすと克己くんが転《ころ》ぶ。階段までわずかに一メートルもない。それと同時に何かが風を巻いて、あたしの顔のわきをすさまじい勢いで背後へ向かって駆け抜けていった。
「……なに」
 周囲を見渡しても何もない。突然和歌子ちゃんが火がついたように泣きだした。あたしはあわてて克己くんのところに駆けよる。転んだままの克己くんを抱き上げると、克己くんは悲鳴に似た声で泣き始めた。
「ごめんね。ごめんね……」

     3

 克己《かつき》くんと――不思議《ふしぎ》なことに和歌子《わかこ》ちゃんも、泣きやまないので調べてみると背中にひどい火傷《やけど》ができていた。ちょうどあたしが九字《くじ》を切った、そのとおりに格子縞《こうしじま》の水ぶくれができている。決して大きいものではなかったけれど、これは痛くてたまらないだろう。
 茶の間で手当てをしてようやく落ち着いたふたりは、なにごともなかったかのようにきょとんとしていた。護符を持たせてもめずらしそうにいじるだけ。真砂子《まさこ》がハンカチで縫《ぬ》ったお守り袋の中にたたんで入れて、それを首にかけてやるとなんだかうれしそうにしていた。
 ふたりにケガをさせてしまったあたしはもう平あやまり。薬箱を持ってきてくれた裕恵《ひろえ》おばさんに平身低頭であやまって。
「本当にもうしわけありませんでしたっ」
 ちょうど現場を見ていた光可《てるか》さんがとりなしてくれて。
「おかげで克己も和歌子も無事だったんですから。どうぞ気にしないでください」
 いえ、これを無事と言っていいのかどうか……。冷や汗をかいていると小さな手があたしの腕に触《さわ》る。
「おねえさん、しかられてるの?」
 和歌子ちゃんだった。
「うん。そうなの」
「そういうときには、すなおにあやまらなきゃだめだよ」
「はは……。ごめんなさい」
 頭を下げると、和歌子ちゃんはブラウスの下からお守り袋を引っ張り出す。
「えらいねー。ごほうびにおねえさんにも、これをかしてあげようか?」
 うるうる。かわいいなぁ。
「ありがと。でもそれは和歌子ちゃんのだから。それはぜったいに外《はず》しち
ゃだめよ」
「きがえるときも?」
「着替えるときも」
 うん、と大真面目《おおまじめ》にうなずいて、和歌子ちゃんは宝物でも隠《かく》すような手つきでお守りを服の中にしまいこむ。満足そうに笑ったところに泰造《たいぞう》おじさんが戻ってきた。
「車の……ブレーキオイルがもれていました」
 車という言葉《ことば》が気になって、車を全部調べてもらったのだ。
「私用に使っている車でして……。気づかずに乗っていたら事故になるところでした」
 あたしは大きく息をつく。……よかったぁ。
 ――ところがぜんぜんよくなかったのよね。暗くなってから戻ってきたぼーさんにガミガミしぼられて。
「あれほど人に向けるなと言っておいたのに、お前ってやつは」
「だってしかたなかったんだもん」
「問答無用っ!」
 
 えーん、えーん。ぼーさんがいじめるー。
 ぼーさんは溜《た》め息《いき》をついてから静かな声を出した。
「退魔法というのはな、誰《だれ》がやっても効果があるもんじゃない」
 ……はぁ。
「お前は才能があるよ、拝《おが》み屋のな。……だから、二度とするな。二度と九字《くじ》を人に向かって切らなきゃならないような状況を作るな」
「うん……ごめん」
 ぽんとあたしの頭を叩《たた》いて、ぼーさんは綾子《あやこ》と真砂子のほうを見る。
「ほかは? 受け取りを拒否した人間がいるか?」
「奈央《なお》さんね」
 奈央さんというと……彰文《あきふみ》さんのすぐ上のお姉さんだ。
「と言っても、奈央さんがいなかったからなんだけど。それと若旦那《わかだんな》よね。理由は同じく。――そういうわけで若旦那、護符をどうぞ」
 綾子が差し出す護符を彰文さんは微笑《わら》って受け取る。よしよし、ちゃんと受け取ってくれたな。
「奈央姉さんはどこに行ったんだろうな?」
「さぁ。誰も行く先を聞いてないんで捜《さが》してるみたいだったけど」
 ……おやぁ?
「麻衣《まい》は、どうだった? 受け取らなかったのはチビさんたちだけか?」
 聞かれてあたしは、陽子《ようこ》さんも妙な感じだった、と言いかけた。最後まで言えなかったのは当の陽子さんがその時部屋の中に入ってきたからだった。
「――?」
 陽子さんは声もかけずにずかずかベースに入ってきて、あたしたちを見渡した。
「子供に怪我《けが》をさせたのは誰」
 あ。……苦情かぁ……。ううう。
「克己にあんなことをしたのは誰《だれ》なの。おまけに変なものを持たせて」
 変なもの――って。
「やくたいもない護符のことよ。さっさと外《はず》してちょうだい」
「あのう……でも」
「妙なことを吹きこんだでしょう。あの子は外せと言っても外さないのよ。外してちょうだい!」
 陽子さんは怒鳴《どな》る。
「葉月《はづき》にも何かしたでしょう。和歌子にも靖高《やすたか》にも栄次郎《えいじろう》にも」
 あたしたちはまくしたてる陽子さんをまじまじと見つめた。……この人は……。
「何から何までよけいなことを!」
 ぼーさんが護符を取って立ち上がる。
「これは身を守るために必要なもんなんです。陽子さん、持ってますか」
 陽子さんは笑った。
「そんなもの、役になんかたたないわ」
 ぼーさんは護符をさしだす。
「そんなことはないですよ。……どうぞ」
 陽子さんは黙《だま》ってそれを受け取り――そうしてそれが突然燃え上がった。護符が勝手に火を噴《ふ》いたように、陽子さんの手の上で燃えてしまう。
「……役になんかたたないわ」
 陽子さんは笑う。不適な色の笑い方。
「こんなもの。ぜんぜんなんでもないじゃないの」
 あたしたちはじりじりと動いて陽子さんを取り囲むようにして身構えている。
「綾子、七縛《しちばく》」
「おーらい」
 陽子さんは眉《まゆ》をひそめる。
「なに?」
「なんでもありませんって。俺《おれ》たちはちょいと陽子さんに用があるだけでして」 綾子は指を結ぶ。五横四縦の九字《くじ》を切る。小さく口の中で何かを唱《とな》える。
「なんなの……?」
「まぁまぁ。……ジョン」
 呼ばれてジョンが聖水をまいた。顔をしかめてニ、三歩さがる陽子さんをリンさんが背後から捕まえる。
「放しなさいよっ」
 ジョンは軽く十時を切る。
「我は汝《なんじ》、呪《のろ》われた不純きわまる霊、悪意の元凶、犯罪の本質、罪の源、欺瞞《ぎまん》と神聖冒涜《ぼうとく》と姦淫《かんいん》と殺人にふける汝に、言葉をかける者なり」
 眼を見開いた陽子さんへジョンは手をのばす。指で陽子さんの胸元に十字をしるす。
「我はキリストの御名《みな》において汝に厳命いたす」
 額《ひたい》に十字を描く。
「身体《からだ》のいかなる個所に身を潜《ひそ》めていようとその姿をあらわし、汝が占有する身体より逃げ去るべし」
 右の耳に。
「離れるべし、いずこに潜みおろうと離れ、神に捧げられたる身体をもはや求めるなかれ」
 左の耳に。
「父と子と聖霊の御名により、聖なる身体は汝に永遠に禁じられたものとなすべし」
 口に。そうして指でそっと眼に触《ふ》れるようにして手をかざす。
「イン・プリンシビオ」
 がくっと陽子さんの膝《ひざ》がくだけた。リンさんに支えられたままずるずるとその場に座りこむ。堅《かた》く眼閉じた眼が開いたときには陽子さんは驚いた表情をしていた。
「……え? なに?」
 狼狽《ろうばい》する陽子さんにジョンは微笑《わら》いかけた。手に持っていた十字架に軽くキスしてそれを陽子さんの首にかける。
「もうだいじょうぶです。これを身につけて離さんといてください」

     4

 陽子《ようこ》さんはそもそも、あたしたちがこの家に来たところから何も覚えていなかったので、彰文《あきふみ》さんが一から事情を説明しなければならなかった。
「ねーねー、綾子《あやこ》。七縛《しちばく》ってなに?」
 交代でとっている夕飯の時に聞くと、
「不動金縛《かなしば》りってやつね」
「リンさんがナルにかけてるやつ?」
 聞くと綾子は顔をしかめた。
「まさか。他人を眠らせておくような、そんなたいそうなもんじゃないわよ。ちょっと人を無気力にして、身動きしにくくするくらいかな」
 ほぉー。それでも綾子にしちゃ、ちゃんと役にたっててすごいな。
「七縛のとき、九字《くじ》を切ってたでしょ? 陽子さんに向いてたけど、よかったの?」
 ああ、と綾子は微笑《わら》う。
「九字《くじ》というのは、そもそも護身九字っていって、身を守るもんなのよね」
「あ、そうなんだ」
「あんたに教えたのは早九字《はやくじ》。本当はもっとのんびりやるもんなのよね。あたしが祈祷《きとう》のときにやってるけど。あれってつまり、祈祷とか修行とかそういうのをやるときに、悪霊なんかに邪魔されないようにするもんなの。だから、そもそもは護身法なのよね。それを最後に刀印で中央を払って気合をかけるじゃない? そうすると一種の攻撃にも使える、というわけ。気合をかけてるときに気力を発射してるのよね」「なるほろ……。じゃ、除霊とかああいうのって、とどのつまりは気力を操《あやつ》って何かしてることになるわけだ」 
「そ。呪文《じゅもん》を唱《とな》えるとか道具をつかうとかは、結局のところ気力を効率よく集めるための単なる儀式よね」
「じゃ意味がないわけ?」
 綾子は頬杖《ほおづえ》をつく。
「んー、意味がないっていうか。なきゃできないってもんでもない、ってことよね。たとえば真言《しんごん》をまちがえて覚えている人がいても、まちがえてるからどうこうって問題じゃない。……と、アタシなんかは思ってるけど」
「へぇぇ」
「中国に気功法ってのがあってね、これなんかは気力を操る功夫《クンフー》なのよ。病気を治《なお》したりものを動かしたり、はては離れたところにいる人を手も触《ふ》れずに倒したり、儀式をとっぱらった気力かしら、と思ってるんだけど」
「それって、PKなんじゃないの?」
 綾子はあたしを振り返る。
「あ、そうか。そうよねぇ。病気を治すなんてのはPK-LTだし、遠くの人をやっつけるのはPK-STか。じゃやっぱりPKって気力なんだ」
「よくわかってないわけ?」
「わかってることのほうが少ないの。あたしも気功法に詳《くわ》しくないしな。達人っていわれる人は本当にすごいらしいんだけど、見たことないしねぇ。触《さわ》りもしないで岩は砕《くだ》くし、鉄は曲《ま》げるし、ガンは治すし、人間を操ったりもできるらしいし。気功で除霊をする人もいるらしいしなぁ」
「ふぅん……」
「案外リンなんか、できたりして」
「あ、言えてる」
 ふたりして笑ってから、あたしたちは顔を見合わせた。
「ナル!」
 ナルが気功法の達人だって可能性はないだろうか?
「気功だったら縛《しば》っても意味ないよね」
「閉じこめたって意味がない。そりゃ、危険だわ」
 
「確かに眠らせとくしかないわけで」
「そうかぁ。そうだったのかぁ」
 にゃるほど。疑問がひとつ解《と》けたぞー。
 綾子は盛んにうなずいている。
「そうよねぇ。でなきゃ、ナルまで精進潔斎《しょうじんけっさい》する必要なんかないわけだしー」
「あ!」
 あたしは手を叩《たた》いた。
「なによ」
「あたしー長らく疑問だったことがあるんだけどー」
「ふむふむ」
「ずーっと以前にタカの学校調査に行ったときに、あたしナルと穴《あな》の中に落ちたことがあったじゃない」
「あった、あった」
「マンホールがあってさー、穴の中は落ちこんだガレキでいっぱいだったわけ。それがさ、たまたま落ちたのがコンクリートの大きなかたまりとかないところで、そんでたいしたケガもなかったわけだど、それって変だなーと思ってたのよ」
「どうして」
「だって、マンホールからあたしたちは落ちたわけでしょ? ガレキだってマンホールから落ちたんだよね。そしたら、あたしたちもガレキも落ちる場所は似たりよったりなのが当然なんじゃないの?」
「そっか。麻衣《まい》たちが落ちるところってのは、ガレキなんかがゴロゴロしてるのが当然なわけだ」
「でしょ? それが、ガレキがなかったということはー」
「誰《だれ》かが砕《くだ》くか、のけるかしなきゃねー」
「だよねー」
「ふっふっふー」
 ついに尻尾《しっぽ》をつかんだぜ。あたしと綾子はしばらくヘラヘラ笑い続けていた。
「ん? しかしちょっと待てよ」
 綾子が唐突に首をひねった。
「でも、気功法が使えるなら、あの狐《きつね》みたいなのが飛びかかってきたときなんで撃退できなかったの?」
「んんん? それは確かに……」
 そういえばリンさんが何か言ったんだ。「止《や》めろ」とかなんとか……。
「気功法を使っちゃいけない理由でもあるのかなぁ……」
 結局頭を抱えてしまったあたしと綾子だった。

     5

 奈央《なお》さんが帰ってこない。それが問題になったのは十二時が近くなってきてからだった。
「無断でこんな時間まで帰ってこないなんてありえない」
 裕恵《ひろえ》おばさんたちが騒ぎ出して、調べてみると誰《だれ》も奈央さんが出かけたのを見ていない。部屋を調べてみても財布やなんかが残っていたり、どう考えても出かけているとは考えられない、ということになった。ぼーさんとジョンが手伝って近所を捜したのだけど、奈央さんの姿は見つからなかった。ぼーさんとジョンがベースに戻って来たのは一時過ぎ。雲の厚い夜空には月も見えない。
「どうだった?」
 あたしが聞くぼーさんとジョンは首を横に振る。
「明日、戻ってこなかったら捜索願を出すってさ」
 ひどく重苦しい気分になった。
 あたしがうなずいたところで、突然機材を見守っていたリンさんが声を上げた。
「滝川《たきがわ》さん。――これを」
 そう言ってモニターを示す。洞窟《どうくつ》においたカメラの映像だった。画面の左に洞窟の入り口が見える。……別に異常はないみたいだけど。何かな?
 ぼーさんは画面に見入り、それからあわてたように立ち上がった。
「リン、懐中電灯があるか」
「車に乗せてあります」
「ジョン、来い」
「どうしたの?」
「麻衣《まい》たちはここにいろ。若旦那《わかだんな》、この場を頼む」
 血相を変えて出ていく三人を見送って、あたしは綾子《あやこ》と顔を見合わせる。
 洞窟の映像に何か問題があるんだろうか? あたしはあらためて画面に見入ったけれど、洞窟の中には何の以上も見えない。ガランとした空間が高感度カメラ独特の妙《みょう》に白々としたトーンで映《うつ》っているだけだ。
「なんなのかしら」
 綾子のセリフにあたしは首をひねる。
「……なんにもないよねぇ。変なものが映ってるわけでも、変なことが起こってるわけでもないし……」
 言いかけて、あたしは洞窟の入り口に眼を留めた。入り口の外は岩場で、突き出した岩に白い波が打ち寄せている。そこに波に洗われるようにして引っかかっている何か。
「あれ、なんだろ」
 眼を凝《こ》らしてみても、なんだかわからない。岩にぶつかって離れてを繰り返す。 必死で眼を凝らしているうちに、ぼーさんたちが駆けつけたのが映った。ぼーさんたちはまっすぐ岩場に引っかかったモノのほうへ向かう。やっぱりあれが……。
 彰文《あきふみ》さんが腰を浮かせた。
 あたしがスピーカーを切り替えた。ぼーさんたちはだまりこくっている。波の音よりほかにスピーカーから流れてくる音は聞こえない。
 ぼーさんたちは波をかぶりながらそれを引き上げた。リンさんとふたりがかりで抱《かか》え上げる。
 綾子が悲鳴をあげた。彰文さんが部屋を飛び出す。
 映像は粗《あら》くてよくは見えない。それでもそれが人だということはわかった。あたしたちが眺《なが》めている間、無抵抗に波に洗われていた人の身体《からだ》。生きている人だとは思えない。
(――潮《しお》の関係で死体が流れてくるんです)
 奈央さんは戻ってこない。出かけているとは考えられない。
 あたしは眼を閉じた。どうか別人でありますように。ぜんぜん関係のない誰《だれ》かでありますように。
 ――それでも、そんな偶然があるはずのないことがあたしにもわかっていた。

 それはまちがいなく奈央さんだった。彼女は潮に乗って、あの洞窟《どうくつ》までたどりついたのだった。警察が呼ばれて、奈央さんは運《はこ》ばれていった。検死解剖にふされるのだと聞いた。
「女の人なのに……解剖なんかされるの、嫌《いや》だろうな……」
 ベースであたしは膝《ひざ》を抱えている。綾子が背中を慰《なぐさ》めるみたいに叩《たた》いてきた。
 スピーカーからは相変わらず波の音が流れてきていた。波の音がじつは寂《さび》しい音だということにあたしは初めて気がついた。
 着替えをすませたぼーさんたちが、暗い顔をして戻ってきたのはずいぶんと経《た》ってからだった。
「お疲れさま。……コーヒーいれるね」
「すまねぇな」
 それっきり誰も何もしゃべらない。
 コーヒーを配《くば》り終わって、みんなが口をつけたころに、やっとぼーさんが口を開いた。
「真砂子《まさこ》ちゃんや」
「はい?」
「奈央さんを降ろせるかい」
 真砂子がハッとしたようにぼーさんを見返した。
「……できると思いますけれど」
「リンは日が悪いって言うんでな。悪いがお前さんがやってくれるか」
「やってみてもよろしゅうございますわ」
「麻衣、母屋《おもや》に行って、これだけのことを聞いてこい」
 言ってぼーさんはメモを作り始める。奈央さんの生年月日、血液型、趣味、好きなアーティスト、財布の中の所持金、最近旅行に行った場所、などなど。
「……こんなこと聞いてどうするの」
「いいから行ってこい。降霊会のことは言うなよ。わからないことはわからないでいいから。――真砂子、何か準備するものはあるか?」

     6

 言われたとおりにえんえんと質問をして、あたしがベースに戻るともうちゃんと部屋の中は準備が整っていた。と、言ってもろうそくとお線香《せんこう》、あとは録画用の機材、それだけだったけど。
「聞いてきたか?」
「うん。でも半分くらいしか埋《う》まってないよ」
「それでいい」
 あたしはぼーさんにメモを渡しながら、
「でもこんなこと聞いて本当にどうすんの?」
「降りてきたのが奈央《なお》さんかどうか、まちがいのないところを判定する必要があるんだ」
 あ、なるほど。
「だったら彰文《あきふみ》さんに来てもらったら? 彰文さんに確かめてもらえば早いじゃない?」
「それは困る」
「どうして? きっと彰文さんだって会いたいと思うよ。ねぇ、せめて声をかけたら?」「だめだ」
 あたしはちょっとムッとしてしまった。
「どうしてよ。奈央さん、急にこんなことになって、これがわかってたらこれだけは言っておきたかったのに、ってことがきっとあると思うの。あたしもそうだったもん。……ね、呼んであげようよ」
 
 ぼーさんはあたしを見る。とても真摯《しんし》な顔だった。
「奈央さんが事故で死んだとはかぎらない」
「……どういうこと?」
「平たく言ってやろう。この家の誰《だれ》かに殺された可能性がある」
「ぼーさんっ!」
「お前らで護符を配ったとき、すでに奈央さんはないかった。あの時点で、憑依《ひょうい》されていたと思われる人間が三人はいる。陽子《ようこ》さんと子供二人だ。事故や自殺とはかぎらない。もしも陽子さんが殺したんだとして、若旦那《わかだんな》がそれを聞きたいと思うか?」
「……そんな」
 ぼーさんは溜《た》め息《いき》をついた。
「そうでなきゃいいと、俺《おれ》だって思うさ。だから、それを確かめるために真砂子《まさこ》に彼女を呼んでもらうんだ。家族は参加させない。了解?」
「……了解」

 あたしたちは全員で座卓を囲んだ。ろうそくとお線香に火をつけて電灯を消す。座イスに深く座った真砂子は手を合わせて眼を閉じた。そうして口の中でお経《きょう》らしきものを唱《とな》え始める。
「観自……菩薩密多時……五……空」
 すぐに真砂子の姿勢が崩れる。いつもきちんと背筋を伸ばしているのが、少し猫背になったかと思うと、座イスの背に深く背中を預《あず》けるようになって、言葉がますます不明瞭《ふめいりょう》になっていく。やがてそれも途切れて、しばらくのあいだ部屋の中にはなんの物音もしなくなった。聞こえるのは微《かす》かな波の音と、機材の動く低いモーター音だけ。
「奈央さん」
 ぼーさんが低く呼びかける。
「奈央さん、そこにいますか」
 真砂子は眼を閉じたまま、赤い唇《くちびる》を動かした。
「はい……」
 ほっと誰かが息をつく。
「吉見《よしみ》、奈央さんですね?」
「はい。……これはなんですか」
「少し質問に答えてほしいんですが」
 言ってぼーさんは細々とした質問を始める。真砂子はその質問にとまどいとまどいしながら答えていく。どれもあたしが母屋《おもや》で聞いてきた答えによく合った。真砂子はすっかり眠っているように見えるので、口だけを動かして話を続けるそのようすはかなりのところ異常な感じがした。真砂子――真砂子の口を借りた奈央さんは何度も「これはなんですか」と聞いていた。それがひどく印象に残った。
「あなたは亡《な》くなりました。……わかりますか」
 ぼーさんの言葉に少しの間があった。
「……はい」
「何故《なぜ》亡くなったのか……わかりますか?」
 これにも少しの間があく。
「海に……落ちました」
 言ったとたん、真砂子の閉じた目元に光るものが浮かんだ。
「庭にいて……海を見ていて」
 涙が頬《ほお》を伝う。
「それは庭のどこですか?」
「茶室の……むこうです……。考えごとをしたくて……」
「足をすべらせたわけですか?」
 今度は長い間があった。
「……突き落とされました」
 やっぱり。やはりそうだったのか。
「あなたを突き落としたのは誰《だれ》です?」
「わかりません。……誰かが背中を突き飛ばしたんです……」
 言って彼女は長い息をついた。
「とても……こわかった……」
 ……聞いているのが辛《つら》い。あたしは顔を伏《ふ》せる。どんなに怖《こわ》かったろう。どんなに悲しいだろう。
「どんなことでもいい、あなたを突き落とした人のことを思い出せませんか?」
「……覚えてません。……でも、知らないですんでよかった」
「何故《なぜ》です」
「あそこへは家族しか行きません。わたしを突き飛ばしたのが家族なら……知りたくありません……」
 そう言って彼女はもう一度深い溜《た》め息《いき》を落とした。
「わたしはもう……生きることができないんですね……」
 ひどい。奈央さんが何をしたっていうんだろう。誰がなんの恨《うら》みがあって、こんなひどいことをしたんだろう。……させたんだろう。
「どうぞ安らかにお休みください」
 ぼーさんが言うと、彼女は急に小さな声を上げた。
「どうしました」
「誰かが……引っ張るんです」
「引っ張る?」
「これは……なに? 誰なんですか? 怖い、わたし、行きたくない。引っ張るのをやめてください。そっちは怖くてわたしはいや……」
「奈央さん?」
「こんなの……いや。お願いだから、引っ張らないで。怖い、そっちには行きたくない。どうぞ、やめて……!」
 悲鳴じみた声に全員が腰を動かす。
「いや……! 化け物……!」
「奈央さん!?」
「助けて!」
 悲鳴といっしょに、真砂子の合掌《がっしょう》した手が離れて膝《ひざ》の上に落ちた。すぐに真砂子の眼が開く。真砂子は背筋を伸ばし、そうしてまぶしそうに瞬《まばた》きをする。
「あたくし……呼べたようですわね」
「やっぱり殺されたんだ……」
 綾子《あやこ》の声に、身体《からだ》が震《ふる》えた。
「問題は、誰《だれ》が犯人なのかということだわね」
 ジョンがうなずく。
「少なくとも靖高《やすたか》さんは違《ちが》いますです。病院に運《はこ》ばれたとき、奈央さんもいてましたから。おばあさんも出歩いたりはでけへんようですし」
「子供も違うでしょ」
 綾子の声にぼーさんは苦《にが》い顔をした。
「そうとはかぎらねぇな」
「どうして? だって子供じゃムリよ」
「弾《はず》みをつければできんことじゃねぇぜ」
「それは、そうだけど……。でも、どっちかというと怪《あや》しいのはほかの人たちでしょ? まだ家の中に憑依《ひょうい》されてる人がいるんだわ」
「何故《なぜ》?」
「何故、って……」
 言い淀《よど》む綾子にぼーさんは言い捨てる。
「すでに除霊はすんでるのかもしれん。自分がやったことを忘れている可能性がある。もしも陽子さんだったとしたら……」
 こわいことだ。陽子さんには憑依されている間の記憶がない。その間にもしも奈央さんを突き落としたのだとしたら。陽子さんは自分の知らないうちに大罪を犯したことになる。それを知ったらどんなにショックを受けるか……。
 十三人の家族。彰文さんとそのおばあさん、お父さん、お母さん、兄姉が四人、義理の兄姉がふたり、甥姪《おいめい》が三人、計十三人。奈央さんを除く十二人の中に、奈央さんを殺した犯人はいるはず。
 おばあさんは動けない。靖高さんは入院したので犯人ではありえない。綾子の言葉を信じるなら、すでに除霊された子供三人と、義理の兄姉ふたりは犯人じゃない。印象だけで言うなら、彰文さんとお父さんお母さん、以前襲われた光可《てるか》さんも犯人とは思えない。残るのは……長男の和泰《かずやす》さん?
 知りたくない、と言った奈央さんの気持ちがわかる。あたしだって知りたくない。もしも犯人の名前がわかって、それからあたしたちはどうすればいいんだろう。除霊して、正気にもどった相手に何をどう伝えればいい?
 そして……と、あたしは窓のほうを見た。
 いったい奈央さんの霊に何が起こったのだろうか?


五章 ユダ


     1

 あたしは洞窟《どうくつ》の中に立っていた。ボンヤリと入り口の岩場に波が打ち寄せるのを見ている。波と一緒に小さな光の玉も打ち寄せる。まるで雪みたいだ。
 ……ああ、また夢を見てるのか……。
 波の間に人影が見えた。女の人だった。彼女は粛々《しゅくしゅく》と歩いてくる。うなだれて、肩を落として。
「奈央《なお》さん……」
 洞窟にたどりついた奈央さんは、あたしになんか気がつかないようにしずしずと歩いて、入り江のほうに抜けていく。
「待って、奈央さん」
 入り江に出ると、奈央さんは風にのって空へ向かって吹き上げられていった。
 あたしはひとつ溜《た》め息《いき》をついて、背後を振り返るる小さな祠《ほこら》が見えた。祠はやはり歪《ゆが》んで見える。とても嫌《いや》な気配がする。近づいてみようかと思ったけれど、どうしてもそんな気にはなれなかった。
 
 しばらくボンヤリ祠を見ている。そうして視線を海に戻すと、そこから再び奈央さんが入ってくるのが眼に入った。
「……奈央さん?」
 彼女の返答はない。駆け寄るとゆるい風に押されたようにフラリと逃げてしまう。視線さえ動かさないまま彼女は入り江に出ていって、そうしてまた空へ向かって吹き上げられていく。しばらく待っていると、また海から現れる。それを何度も繰り返した。
「……なに?」
 あれはいったいなんなんだろう。
「あれはなに? 教えて。――ナル! いないの!?」
「再生の儀式」
 背後で突然声がした。振り返るとナルが微笑《わら》っている。
 ……なんだ、呼べば会えたのか……。そんなことを思った。
「再生の儀式?」
「たぶん、そうなんだと思う。暗い穴の中を通り抜けるのは、もう一度生まれ直すことを意味している。彼女は何度もああしてこの洞窟を通り抜けながら、別の何かに生まれ変わろうとしてるんだと思う」
 ……別の何か……。
「この洞窟は魂《たましい》を呼び寄せる。呼び寄せられた魂はああして、儀式を繰り返す。……そこまではわかるんだけど……」
「……あたし、今、魂なんじゃないの?」
 げげげ、あたしもあの儀式に参加しなゃきいけないわけ?
「そう。だからここへはあまり近寄らないほうがいい。……行こう」
 ナルは手を差し出す。あたしはちょっとドギマギしながらその手をとった。残念なことになんの手ごたえもしなかった。あたしは今身体《からだ》がないんだから当然なんだけど。手を引かれてフイと風に乗ると、水の中を浮上するみたいに入り江の上に舞い上がる。そしてそこから夜の庭に降り立った。
「ね、ナル?」
 ん? と問いかけるような優《やさ》しい視線があたしに向く。
「夢の方向を示した、って前に言ったでしょ? 今までもずっとそうだったの?」
 これには返答がない。ただやんわりと微笑《ほほえ》んだだけだった。
 入り江からは細かな光が次々に吹き上げてくる。
「麻衣《まい》……」
「なに?」
 呼ばれて振り返ると誰《だれ》の姿もなかった。
「ナル?」
「――麻衣」
 どこ。どこから声がしてるの?
「麻衣っ!」

 は、ははははいっ!
 あたしはいきなり目を覚ました。目の前に呆《あき》れたような真砂子《まさこ》の顔。
「あ……」
 あわててあたりを見回すと、ここはベース。あたしは壁《かべ》にもたれてウトウトしていたらしい。真砂子のほかに姿は見えない。窓からは朝の光が射《さ》しこんでいる。「ご、ごめん。呼んだ?」
 真砂子は冷たい目つきをする。
「呼ばなかったほうがよかったみたいですわね」
「べつに……」
「誰《だれ》かさんとデート中だったんでしょう?」
 ななな……なにをいきなりっ!?
 真砂子は意地悪かいじわる》っぽく笑って、
「あたくしのことを誰かとまちがえたみたいでしたわねぇ。……とかなんとか」
 げっ!
「ち、ちがうっ! それは誤解でちがうの、本当はそうじゃなくて、誤解されるようなことじゃなく、あのっ……」
 冷や汗がだーらだら。
 真砂子はちょっとふくれっつらをして、それからあたしの顔をのぞきこむ。
「何か手がかりがありまして?」
 あたしは夢を思い出し、すとんと気分が下降してしまった。
「……奈央さんが洞窟を何度も通ってた」
 真砂子は怪訝《けげん》そうな顔をする。
「洞窟を?」
「うん。何度も海から入り江に通っていくの。再生の儀式……かな」
「ああ、暗い穴を通り抜けるわけですものね。胎内《たいない》めぐり」
「胎内めぐり?」
「神社やお寺にそういう場所がよくありますわ。暗いトンネルがあって、それをお母さんのお腹《なか》に見立てるんですの。トンネルを抜けて外に出ると、もう一度生まれたことになるんです」
 へぇぇ。
「ですけど、どうして奈央さんがそんなことを。……転生の手続きですかしら」
「転生って、生まれ変わりのこと?」
「ええ。……よくわかりませんわね」
 ……うん。
「みんなは?」
「玄関に……。――戻ってきましたわ」
 真砂子が部屋の入り口を示すと、廊下のほうからにぎやかな人声が近づいてきた。格子戸《こうしど》を開けて、みんなが戻ってくる。その人数がひとり多いのにあたしは気づいた。
「……安原《やすはら》さん!」
 あたしが声をあげると、みんなに囲まれていた安原さん(安原修。もと依頼者)が笑顔を向ける。気ぬけするくらい明るい笑顔。安原さんの性格がそのまま表情になって表れたみたいな。
「あ、谷山さん、どうも!」
 あたしはなんだかほっとしてしまった。こんな辛《つら》い気分のときに、明るい笑顔を見るのはうれしい。
「やっぱぼーさんが呼んだのって、安原さんだったんだー」
「そう、僕《ぼく》だったんです」
「今着いたとこ? たいへんだったでしょ?」
 安原さんはコックリうなずく。
「本当、たいへんでしたよ。我ながら自分の手際《てぎわ》のよさにうっとりしちゃいましたね」
「どこから来たの?」
「沖縄《おきなわ》でして」
 ひえぇぇ。
「よく着いたねぇ」
 昨日の今日で。しかもこんな朝はやく。
「でしょう? 電話切手、すぐに荷物まめとて空港に行って、友人が危篤《きとく》だってことにして」
「友人が危篤?」
「はぁ。単に遊んでたわけじゃなくて、僕バイト中だったんです。リゾート・ホテルのボーイでして。友人の滝川《たきがわ》ってのが事故って危篤だって。そう言って抜けてきたんですよね」
 ぼーさんが苦笑する。
「誰《だれ》が危篤だ、誰が」
「まぁまぁ。そんで、福岡《ふくおか》までの便をなんとか捕まえて。最終の新幹線に乗って大阪まで行って。そこからさらに夜行に飛び乗って。で、朝一番に着いたというわけです」
「えらい」
 拍手《はくしゅ》しちゃうわ、あたし。
「でしょう?」
 笑って安原さんはぼーさんを見た。
「それで? 僕は何をすればいいんですか?」
「俺《おれ》たちはここから動けない。少年は外で情報を集めてもらいたいんだ」
「はぁ、なるほど。探偵《たんてい》をやればいいんですね。でも、どういう性質の情報を?」
「詳《くわ》しいことは今から説明するが……」
 言ってぼーさんは安原さんに聞く。
「そう言や、少年。安政年間ってのは何年ぐらいだ?」
「安政の大獄《たいごく》が一八五八年ですよね。そのくらいじゃないでしょうか」
 えらい。さすがだ。
「ま、そういう種類の情報だ」
「了解しました」

     2

 安原《やすはら》さんはお茶を飲む暇《ひま》もなく出ていって、残されたあたしたちは昨夜のデータをチェックする。再生し始めてすぐに、あたしたちは全員顔をしかめざるをえなかった。
「なんだ……? この音は」
 
 どのカメラにも入っている低い音。まるで海鳴りみたいな。ゆるやかに大きくなったり小さくなったりを繰り返して、何か巨大な獣《けもの》の息づかいのように聞こえる。
「恐竜の寝息みたいや……」
 変な形容をしたのはジョンだった。
「言えてる……」
 あたしたちはしばらくその気味の悪い音に聞き入っていた。

 その日の午後も遅《おそ》くなってからだった。ベースでダラダラしていたあたしたちは、けたたまましいベルの音で立ち上がった。
「……なに!?」
「火災報知気じゃねぇのか」
 廊下《ろうか》に出てみると、母屋《おもや》のほうに微《かす》かに煙《けむり》が流れている。走って行ってみると、母屋の奥のほうで煙が上がっているのが窓越しに見えた。
「……あれ、おばあさんの部屋じゃない!?」
「近そうだな」
 走っていくと、おばあさんのいる座敷に通じた奥の廊下で火の手が上がっていた。
「滝川《たきがわ》さん!」
 毛布で火を消していた彰文《あきふみ》さんが声を上げる。灯油か何かの臭《にお》いがした。
「だいじょうぶか!? おばあさんは」
「今、窓のほうから父たちが行ってます」
「チビさんたちは」
「もう外に出しました」
 裕恵《ひろえ》おばさんが消火器を抱《かか》えて駆けつけてきた。あたしはそれを受け取る。
「もっとあります!?」
「あります。いま集めてきます」
 言って裕恵おばさんは走り去っていく。ジョンが手を出すので消火器を渡して、あたしも裕恵おばさんの後をついていこうとした。その時だった。リンさんがふいに背後を振り返った。
「……ナル」
「え!?」
 リンさんが身を翻《ひるがえ》して駆け出す。
「この場をお願いします!」
 お願いって……。反射的にあたしも駆け出していた。
「麻衣《まい》!?」
「綾子《あやこ》、真砂子《まさこ》と消火器を集めて!」
 ぽかんとした綾子に怒鳴《どな》って、あたしはリンさんの後を追う。
 ……みんな、ごめんっ。

 リンさんはベースに駆けこむ。あたしもその後を追ってベースの中に飛びこんだ。
「あ……!?」
 ベースの中にはリンさんと、そしてもうひとり――和泰《かずやす》さんがいた。
 和泰さんはリンさのほうをうかがいながら、握った包丁《ほうちょう》で隣《となり》の部屋に通じる襖《ふすま》を引き裂いている。片手をかけて襖をゆすり、開かないのにじれて刃先を紙に突き刺す。ぴったりと閉められた襖はそのせいでズタズタだった。
「和泰さん……」
「まだ憑依《ひょうい》された者がいたというわけですね」
 言ってリンさんは和泰さんを見る。
「やめなさい。それを開ければあなたが死ぬことになります」
 和泰さんは吼《ほ》える。刺した包丁を大きく引く。襖に深い傷ができた。
「谷山《たにやま》さん、九字《くじ》を撃《う》ってみますか」
「そんな……!」
 やっちゃいけないって、言われたもんっ。
「私だと大ケガをさせてしまいます」
「でも!」
「あの結界はそんなにはもちません。ナルを起こされたら終わりですよ」
 でも……。とっさに目の前に浮かんだのは、克己《かつき》くんと和歌子《わかこ》ちゃんの背中にできた火傷《やけど》だった。人にケガをさせることは怖い。人を傷つけることは自分が傷つくことよりも怖い。
 和泰さんがもう一度包丁を突き立てた。襖に長い穴が開く。裂け目から横たわったナルの白い横顔が見えた。弾《はじ》かれたように手をあげたけど、その手が動かない。あたし、やっぱり迷《まよ》ってる……。
 リンさんが指笛を吹いた。和泰さんが襖《ふすま》にできた穴にさらに刃先を突き立てる。穴が広がって――。
 その時に見てしまったモノはあたしを硬直させた。穴から外へ出てきた――赤い腕。なんだかねじれたように子供ほどの長さの腕。肌《はだ》はなめした革《かわ》のようで、しかも血に濡《ぬ》れたように赤い。コブのように節のたった指と、指ほども長い爪《つめ》と……。
 それは空気をかき切る速度で動いて穴の中に消えた。一拍送れて血糊《ちのり》が飛んで襖の表面に散る。和泰さんが包丁を取り落とした。その腕に刻《きざ》まれたえぐったように深い四筋の傷――。
 呆然《ぼうぜん》としてしまったあたしをよそに、リンさんがするりと動く。あっという間に流れ出した血で真っ赤に染まった腕を抱いてうずくまった和泰さんに近づいた。もう一度血糊が飛んだ。飛沫《しぶき》が襖に斑《まだら》を描く。今度血を流したのはリンさんのほうだった。
「リンさんっ!」
 ざっくり切れた腕を和泰さんに突き出す。それよりも速く和泰さんがさがる。猫のように飛びさがった。その動きは人間のものとは思えない。
「臨《りん》……」
「あたしは手をあげる。
「兵《ぴょう》……闘《とう》、者《しゃ》」
 こんな……おそろしい戦いはさせられないっ!
「皆陳烈在前《かいぢんれつざいぜん》っ!」
 和泰さんが吼《ほ》えた。転《ころ》がるように畳の上に倒《たお》れこむと、すぐさま起き上がってこちらへ向かって突進してくる。真正面から体当たりされてあたしは思わず悲鳴をあげた。弾《はじ》き飛ばされて背中をしたた柱にぶつける。瞬間、息が止まったけれど、すぐに大きく頭を振った。
 ……和泰さんは!?
 部屋の中にはいない。ベースを飛び出していくリンさんの姿が見えた。足をもつれさせながら、その後を追う。廊下《ろうか》に出ると、和泰さんが廊下の突き当たりにある窓を突き破って外にとびだすところだった。
「谷山さん、滝川さんを呼んでください! ベースに誰《だれ》か人を!」
「はいっ!」

     3

 母屋《おもや》に向かって走ったところで、すぐに戻ってくるぼーさんたちに会った。「どうした」
「和泰《かずやす》さんが……」
 なんと言えばいいんだろう。
「ベースを襲ったの。リンさんと乱闘になって……庭に逃げて行った。ぼーさんに来てって」
「――ジョン、来い!」
「はいですっ」
 駆け出していくぼーさんたち。彰文《あきふみ》さんがそれに続く。その後を追おうとした綾子《あやこ》をあたしは止めた。
「ベースにいて! また襲われないように」
「麻衣《まい》は」
「あたし、追いかける」
 もう足は走り出してる。
「ちょ……! 止《や》めなさいよっ! あんたなんかが行ったって!」
「あたし非力だから、あたしにしかできないことがあるのっ!」

 あたしは庭に飛び出す。周囲を見渡す。リンさんと和泰さんはどこへ行ったの!? 少し先でぼーさんたちもあたりを見回している。ふいに岬《みさき》のほうで指笛の音がした。
「ぼーさん、あっち!」
 あたしたちは走る。広い庭を駆け抜けて、茶室を回りこむとリンさんの姿が見えた。
「リンさんっ」
 ちら、と視線をこちらに向けたリンさんは傷が増えている。襖の植え込みに身を潜《ひそ》めた和泰さんが見える。
「滝川《たきがわ》さん、気をつけて。彼はカマタイチを使います」
「……あいよ」
 和泰さんは追いつめられた獣《けもの》みたいに喉《のど》の奥でうなり声をあげているるリンさんとぼーさんがそれをじりじり包囲する。息が切れて、目眩《めまい》がして、あたしは垣根に手をついた。緊張と疲労で、吐《は》き気《け》がする――。
「麻衣《まい》さん、ダイジョウブ……」
 ジョンの声は最後まで聞こえなかった。
 突然ぐらりと景色が揺《ゆ》れる。ひずんで、ねじれて、垣根にすがったときに、背中を強く突き飛ばされた。
 ――落ちる!
 身体《からだ》が硬直する。景色が揺れて、崖《がけ》の下の水面がいきなり視野に飛びこんできた。波に現れている岩場と真っ白に泡《あわ》だった波と……。墜落《ついらく》する。あれにたたきつけられたら生きていられない。
 とっさに視線を動かした。足元に崖の縁が見えて、そしてそこで時間が止まった。あたしは宙に投げ出されている。あたしが離れてしまった崖の縁には垣根が見える。そして、そこに人影。垣根の縁をつかんで、あたしが落ちていくのを見ている無感動な顔……。
「麻衣さんっ!?」
 ジョンに呼びれたあたしは我にかえった。
 あたし、落ちてない。ちゃんと手は垣根をつかんでいる。足はちゃんと……膝《ひざ》が砕《くだ》けてその場に座りこんだ。
「谷山《たにやま》さん」
 
 ぽろぽろ涙がこぼれた。
「……和泰さんがやったんだね」
 植えこみの中から和泰さんが顔を出す。あたしのほうを見た。
「奈央《なお》さんをここで突き落としたんだね」
 頭の中に浮かび上がる映像。夕暮れの部屋。そこには鳥篭《とりかご》があって和泰さんは籠の中に手を突っこんでいる。鳥のかんだかい悲鳴のような鳴き声がして……。
「鳥を殺したのも、犬を殺したのも和泰さんなんだね」
 庭。車庫から出てくる彼。それを見ている克己《かつき》くんと和歌子《わかこ》ちゃん……。
「車に細工《さいく》をしたのも。……みんなあなたなんでしょ?」
 涙が出て止まらなかった。それは和泰さんのしたことであって、したことじゃない。
 すっとぼーさんが刀印を構えた。
「……お前さんは何者だ?」
 植えこみからはうなり声だけが聞こえる。
「なんの恨《うら》みがあってこんなことをする」
 バッと霧を吹いたように血煙があがった。ぼーさんの腕に赤い傷ができる。
「何者だ、言ってみろ!」
 植えこみから低い笑い声が響《ひび》いた。
「ナルを解放してどうする」
 返答はない。ただ含み笑うような声が植えこみから響いてくるだけ。
「何が目的だ」
 やっと低い声がこたえた。
「死が」
 突然身を潜めた植え込みから躍《おど》り出ると、身を低くして庭を駆け抜ける。眼で追うよりもずっと速かった。和泰さんの駆け抜けた方向に視線が追いついたときには和泰さんの姿はどこにもなかった。
 突き倒された垣根と、いっぱいに光を含んだ空が広がっていただけだ。
 あたしが入り江側の垣根にたどり着いたときには、入り江の水面に広がった真っ白な泡《あわ》の中に人影が浮かんでいた。我にかえったように駆け出そうとしたぼーさんを彰文さんが止めた。
「もう……間に合いませんから」
「しかし……!」
 言ってからぼーさんも息を吐《は》いてうつむく。
 泡の中にうつ伏せで浮かんだその人の、首はとても妙な角度に曲《ま》がってしまっていた。誰《だれ》が見ても、もう間に合うはずのないことがわかる。
「こんなの……」
 前の事件でだって人が死んだ。でも、それはあたしの眼の前でじゃない」
「こんなの、ないっ!」
 どんどん涙があふれてきて、眼を開けていることができなかった。
「あたしたち、なんのために来たの!? ぜんぜん何もできないでっ!!」
 胸の中に辛《つら》い悲しいものがぎっしり詰まっていて、呑《の》みこむことも吐き出すこともできなかった。この苦いものが喉《のど》に詰まって、きっと窒息してしまうんだと思った。誰かが背中をなでてくれた。暖かい腕が肩にまわる。
「……誰のせいでもないですから」
 彰文さんの声がした。
「谷山さんのせいでも、滝川さんのせいでも、誰のせいでもないんです」
 返事ができない。眼を開けることもできない。あたしはうつむいて、彰文さんの肩口に額をこすりつけていた。
「できるかぎりのことをしてくださったと知っています」
 それでも、人を死なせてしまっては意味がない。
「これでよかったんだと思います」
「……そんな……!」
 顔をあげると、彰文さんが涙をこぼしていた。
「少なくとも兄は……自分のしたことを知らずにすんだのですから」
 ……自分のしたこと。妹を突き落として死なせてしまったこと……。
 あたしはうなずいた。それでも涙が止まらなかった。

     4

 夜に戻ってきた安原《やすはら》さんは、和泰《かずやす》さんの話を聞いてひとつだけ溜《た》め息《いき》をついた。
「元気、出しましょう。まだ終わったわけじゃないんですから」
 ……うん。
「こんな犠牲《ぎせい》出して、負けて帰ったらそれこそなんのために来たんですか」
 言って安原さんはとほうもない量のコピーをテーブルの上に投げ出す。
「さ、宿題をかたづけちゃいましょう」
「宿題?」
「そ。まず、これが滝川《たきがわ》さんのご要望の新聞です」
 安原さんはとじたコピーをひとつずつ示す。
「これが先代のとき、先々代のときです」
「お疲れさん」
 安原さんはぼーさんにコピーを渡して、
「要約するとこういうことです。先代――つまり彰文《あきふみ》さんのお祖父《じい》さんから家を譲《ゆず》られたとき、八人の人間が死んでいます。詳《くわ》しい内訳は新聞を見てもらうとわかりますが、四人は心中。残り四人のうち、ひとりが自殺、ひとりが事故、ほかのふたりが原因不明の急死です」
「心中……か」
「ええ。次男が妻と二人の子供を殺して死にました。無理心中というやつですね。客がふたり死んでますが、これは原因がはっきりしません。海岸に死体が上がったので一応事故ということになってますが、怪《あや》しいと僕《ぼく》なんかは思いますね。死んだ霊能者が三人、ふたりは自分たちで焚《た》いた護摩《ごま》の火が衣に燃え移って死んでます。のこりひとりは原因不明の急死。計十三人です」
「十三、ねぇ」
「その前、ひい祖父さんの時には新聞に載《の》っているだけで家族が六人です。ただ、戦前のことですので、本当に六人だったか怪《あや》しいと思いますね。死んだ六人というのは、井戸に入っていた毒物のせいで死んだんです。これは金沢《かなざわ》のお店を閉めてこちらへ移ってきてすぐのことです」
「じゃ、何か? 曽々祖父《ひいひいじい》さんが死んだのは、こっちに移ってきてからか」
「そのようですね。享年七十八歳ですから、ずいぶん高齢ですよね。もう息子に店を譲ってたんじゃないでしょうか。――それから、これが過去帳」
「ああ、コピーさせてもらえたか」
「ええ。朝一番にお寺へ行ってコピーさせてもらって。それから市立図書館に寄ってすぐに金沢に行ってきたんですが……」
「金沢まで行ったのか!?」
「行きましたとも。もー、走った走った。その電車の中でですね、コピーの束《たば》を見ていて、僕《ぼく》は妙なことに気がついたんですよね」
「妙なこと?」
「はい。お祖母《ばあ》さんは『代替わりのときに必ず変事が起こる』と言ったそうですが、実際にこの吉見《よしみ》家で代替わりの時に大量の死人が出ているのは、先代と先々代、このときだけなんです」
「見せてくれ」
 ぼーさんは過去帳のコピーをひったくる。
「その前の代のときには、別に異常なほど死者が出たわけじゃないんですよね」
「確かにそうだ……」
「これは妙なんじゃないかと思いまして、帰りにもういちどお寺へ寄って、本家分家、全部の過去帳を見せてもらいました。そのコピーがこれです」
 安原さんはコピーを突きつける。
「結論を言いますと、問題は吉見家にあるんじゃなくて、この場所にあるんですよ」
「……なに?」
「彰文さんたちの一族――金沢の分家と呼びます――は、ここに越してきてから変事にみまわれるようになりました。その前には本家筋の一家がここに住んでいたんですが、金沢の分家が戻ってくる五年ほど前に一家が絶《た》えてしまっているんです」
「ふう……ん」
「しかもですね。本家がここにやってきて、最初の死者が出たのが安政三年。それ以前は吉見家というのはこの土地にはいなかったようなんです。じゃ、その前にはここは誰《だれ》の所有だったかといいますと、藤迫《ふじさこ》家というおうちのものだったんですね。この藤迫家が、安政元年に途絶しています」
 そう言って、安原さんは得意そうに別のコピーを引っ張り出す。
「これが、住職を拝《おが》み倒してコピーさせてもらった。藤迫家の過去帳です」
「えらい」
「でしょ? 藤迫家のぶんは二代しかないんですが、それ以前のものは過去帳が残ってなかったんです。つまりですね、ここでまとめますが」
 言って安原さんは軽く咳払《せきばら》いをする。
「この場所はもともと藤迫家のものでした。それが変事のせいで絶えたあとに入ってきたのが吉見家。この吉見家はここに四代住んでいたんですが、四代目でこれも絶えたわけです。その後に入ってきたのが、その分家すじのこの一族、ということになるわけです」
 ぼーさんは髪をかき回す。
「じゃあ、問題は家系じゃなくて、場所なのか……」
「そのようですね。それでですね、僕《ぼく》はこのあたりの歴史とか伝説を調べてみたわけです。その結果が、これ」
 安原さんが積み上げたコピーの束《たば》は、ゆうに本二冊ぶんはある。
「これだけのもんを一日で調べたのか……? 金沢まで往復しつつ?」
 呆《あき》れたようなぼーさんの声に安原さんはニッコリ笑う。
「ふっふっふ。僕《ぼく》は要領がいいですからね」
「要領がいいって……お前」
「お寺に行って過去帳をコピーしてもらったあと、市立図書館に行ってですね、新聞を閲覧《えつらん》するより先にしたことがあります。それはなんでしょう?」
「……なんだ?」
 
「ヒマそうな学生風の女の子をつかまえて、バイト持ちかけたことでーす」
 頬杖《ほおづえ》をついていたぼーさんは、カクンと顎《あご》を落とした。
「バイトを雇《やと》ったのか」
「そうですとも。急ごうと思ったら人海戦術《じんかいせんじゅつ》しかないでしょう?」
 ……そら、そーだ。
「金沢でもコピー要員をひとり確保しまして。こっちに残した子と電話で連絡をとりつつ、これだけの資料を集めたわけです」
 ……す、すごい。
 ニンマリ笑って胸を張った安原さんはリンさんを見る。
「そういうわけで、そのバイト代は『渋谷サイキック・リサーチ』から出ますよね」
 リンさんがさすがに苦笑する。
「出しましょう」
「あー、よかった」
 胸をなで下ろしたのが、妙におかしかった。

     5

「えーとですね、それでこの場所に関することなんですが、調べていくうちにちょっと面白《おもしろ》い話を聞きこみまして」
「面白い話?」
「ええ。それが、よくある異人《いじん》殺しの民話なんですけどね」
「偉人? ……殺しぃ?」
 なんだ、それはぁ?
 あたしが声をあげると安原《やすはら》さんは笑う。
「言っときますが、偉《えら》い人の偉人じゃないですよ。『赤い靴』のほう。『異人さんに連れられて行っちゃった』って、知りませんか?」
「ああ、外国人のこと」
 つまりはジョンだな。
「ええ。ただ『異人殺し』の『異人』は少し違《ちが》うんですけどね。どちらかというと『よそ者』みたいな意味でしょうね」
 ふに?
「昔は村というのは閉鎖社会だったわけです。誰《だれ》も出ていかないし、誰も入ってこない。村人は地縁的にも血縁的にも深く結ばれてて――つまり、ご近所さんで親戚《しんせき》だったわけです」
「ふむふむ」
「ところがそこに諸国を歩きま回っている行商人がやってきたとするでしょう? 彼は村人とは地縁的にも血縁的にもなんの関係もない。村人とはまったく異なった人、すなわち『異人』です」
「あー、なるほど。広い意味でいうと、外人さんも『異人』なわけね」
「そうです。でもって、村に入ってきた『異人』を殺した、という昔話が各地に残ってるわけですが、これを『異人殺し』と分類するんです」
「ほほう」
「しかも『異人殺し』と呼ばれる昔話の場合はもっと『異人』の範囲が狭《せま》いんですよ。薬売りだとか行商人だとかいろいろといる中で、いわゆる『マレビト』が殺されるのが常なんです」
 あたしは恨《うら》みがましく安原さんを見てしまう。
「またそうやって、あたしの知らない言葉を使って混乱させるぅ」
「これは失礼。つまり折口信夫《おりぐちしのぶ》という人が『マレビト』と言ってて、これはどういうものかというと『来訪神』と、神を背負って村から村へ渡り歩く人のことをいうんですね」
 ……あー、……わからん。
「来訪神というのは来訪する神ですね。どこからか村へやってきて村人を祝福したり訓戒《くんかい》を垂《た》れたりする。これが拡大されて、どこからか村へやってきて村人を祝福したり訓戒を垂れたりする神の代理人も『マレビト』と呼ぼうと」
「何がなんだか」
「神様や仏様や精霊や、そういう普通の人にはかかわり合いになることのできない超自然的な力とうまく付き合うことのできる人がですね、村へやってきて普通の人にはできないことをしていく。予言をしたり、雨を降らせたり、豊作を祈願したり、あるいは狐《きつね》を落としたり妖怪《ようかい》を退治したり怨霊《おんりょう》を除霊したりするわけです」
 ……んー。ということは。
「んじゃ、あたしたちも『マレビト』になるわけ? 東京から来たよそ者で、超自然的な力を使って悪霊《あくりょう》退治をするわけでしょ?」
 安原さんは手を叩《たた》く。
「そう。そうなんですよ。『マレビト』というのはですね、あっちこっちを渡り歩く巫女《みこ》とか坊主とか、そういう人たちを言ったんですよね」
「だったら最初からそう言ってよぉ」
「まぁまぁ。そういう『マレビト』を殺す、という昔話のパターンが日本にはあるわけです。それを『異人殺し』の民話と呼ぶわけですね」
「ふむふむ」
「だいたい村へやってきた『マレビト』が、やな奴《やつ》だとかお金を持ってたとかいう理由で殺されて、その結果崇《たた》りが起こる、とそういう話です。『マレビト』というのは軽蔑《けいべつ》の対象であり、同時に畏怖《いふ》の対象だったんですよ。だから彼らの生命は軽視されてささいな理由で殺されてしまうわけですが、同時に畏怖される存在でもあったので殺したのちに崇りが起こったりするんです。本当に崇りがあったかはともかく、『マレビト』を殺してただですむわけがない、という恐れの表れがそういう伝説になって残ったんでしょうね」
「それはわかるなぁ。あたしたちだってバカにされたり、意味もなくありがたがられたりするもんね」
 安原さんはうなずく。
「でしょう? ――それで、ここに残る『異人殺し』ですが」
 そう言ってノートを開く。
「これにはふたつパターンがあります。どっちが本当にあったことなのか、それともどちらもあったことなのか、はたまたどちらもなかったことなのか、それはよくわかりまんせけどね。――まずタイプA」
 安原さんはノートを読み上げた。
「昔、村に三人の修験者《しゅげんじゃ》がやってきた。彼らは『おこぶさま』を見て、これは崇りをなすものだから除霊をしようと言う。除霊をしてみると、『おこぶさま』はいつの間にか金の仏像に変わっていた。ありがたい仏像が波に洗われてこんな姿になったために祟るのであろう、と言って行者はその仏像を都へ持ち帰りお堂を建てて祀《まつ》ることにした。ところが村の長者がこれを見て、金の仏像欲しさに行者を海岸に連れていって殺してしまったが、行者を殺すと同時に金の仏像はもとの木の棒になってしまった。ほどなく長者の家は不幸が続いて絶えてしまったので行者の祟りといわれる。――これがタイプAです」
 なるほど、なるほど。
「もうひとつ。昔、村に三人の座頭がやってきた。彼らは『おこぶさま』を見て、ありがたい神様であるから社《やしろ》を立てて祀るべきだ、と言う。しかし村人はこの年の凶作で年貢《ねんぐ》の払いにも困っており、そんな余裕がなかった。しかも村人のひとりが座頭たちが大金を持っているのを見てそれを伝える。村人は集まって座頭を殺してしまおうと相談をまとめ、座頭たちを長者の家に呼ぶ。食事に毒をまぜて座頭を殺し、お金を奪って死体を海に捨てた。それ以来嵐や高波が続いたので、村人は後悔して『おこぶさま』を祀《まつ》る社《やしろ》を建て座頭の塚を建てた。それで災害がやんで以来豊作に恵まれたという。――これがタイプBです」
「ひどい話……」
「まぁ、『異人殺し』というのはそういうものですから」
 そう言って安原さんは身を乗り出した。
「これって単なる伝説とは思えないんですよ。『マレビト』が三人とか、『おこぶさま』とか共通する事項が多いでしょう? このふたつをまとめるとですね、こういうことになります。村に三人の『マレビト』がやってきて『おこぶさま』について何かを言ったと。しかし結局この『マレビト』は欲ボケした村の人間によって殺されてしまった。犯行には『長者』が関係していて、死んだ場所あるいは死体を捨てた場所は海です。この結果、村に悪いことが起こった、と。ふたつとも話の大筋は結局のところ同じなんですよ」
 ぼーさんがパチクリする。
「すると、何か? 過去に実際、そういう事件があったんじゃねぇかという?」
「だと思うんです。実際にモデルになる事件があって、それが語り継《つ》がれていくうちにふたつのタイプに分裂してしまったんじゃないか、って」
「ふぅむ……」
「それでですね、実際に郷土史を調べてみると、出てきました。『御小仏様《おこぶつさま》のこと』という伝説が」
「御小仏さま? おこぶさまじゃなくて?」
「ええ。ですけどね、タイプAとよく似た話なんですよ。どこかこのへんの海岸に木の棒が打ち上げられて、これをお坊さんに見せたところ、ありがたい仏さまじゃ、って言われるんです。実際そのお坊さんがお経《きょう》を唱《とな》えると、木の棒がたちまち金の仏像に変わった。一夜明けるともとの木の棒に変わっていたけれど、以来それを『御小仏様』と呼んで祀ることにした、って話なんです」
「なるほど、たしかに似てるな。するとタイプAのほうが実話か」
「そう即断するのは危険だと思いますけどね。やっぱりもとになる実話があったんだと思うんですよ」
 ぼーさんはうなずいて少し考えこんだ。
「三人の行者……もしくは座頭……」
「どうしました?」
「神社にあった塚だよ」
「ああ、『十八《とはち》塚』?」
「なんでそういう名前なのか、わかったか?」
「いえ。それについては手がかりなしです。また明日、調べに行きますが……」
「塚が三つあっただろう? 別名を『三六《さんろく》塚』。『三つの六塚』じゃねぇのか」
「――ああ、なるほど。ありえますね。でも『六塚』って?」
「六部塚」ってのは?」
「 安原さんが手を叩《たた》いて大きくうなずいた。
「あ、そうか! 『三つの六塚』、これが省略されて『三六塚』か。そうるすと、タイプBの最後の部分とぴったりあてはまるんだ。『社《やしろ》を建てて塚を建てた』っていう」
 あたしはぼーさんに聞いてみる。
「ろくぶってなに?」
「全国六十六箇所の霊場をまわる行脚僧《あんぎゃそう》のことだ。写経した法華経《ほけきょう》ってえ経典を一部ずつ納めることから、『六十六部』とか略して『六部』とか言う。諸国をうろつく行脚僧のこともそう呼ぶようになった。つまりは『マレビト』だ」「へぇぇ」
 あたしが声を上げるのと同時に、安原さんが猛然とコピーの束をひっくり返し始めた。「……どしたの?」
「『六部塚』ですよ。どっかに……これだ!」
 安原さんは綴《と》じたコピーを引っ張り出す。
「このあたりにあったという『六部塚』についての伝承なんですけどね、『六部塚』がないんで見過ごしてました。ええと……」
 コピーをめくって読み上げる。
「いつのことだかは書いてありませんが、昔このあたりりに飢饉《ききん》が起こって、困った村人が一揆《いっき》を起こすんですね。けれどこれは結局鎮圧《ちんあつ》されてしまうんです。その時に首謀者を差し出せば村人の命は助けてやる、って言われて、村人は首謀者を引き渡してしまうんです。首謀者は逃げ出すんですけど、『六部塚』まで逃げたところで追っ手に捕まって、その場で首を切られてしまう。それ以来、村に疫病《えきびょう》がはやったり変な地鳴りがしたりおかしなことが続いたので、これはその首謀者の祟《たた》りだってことになって、『六物塚』の隣《となり》にお墓を建てるんですけど少しもやまない。結局そこに寺を建て、手厚く墓を祀《まつ》るとようやく怪異が静まった、とあります」
 ふいに、頭の中で声が響いた。
(――この……裏切り)
「『六部塚』の隣ぃ? それって、ここのことじゃないの」
 綾子が言う。ぼーさんもうなずいて、
「社の左は海だし、道路を挟《はさ》んだ向かいに山があるが、向かいを隣たぁ言わねぇだろう」
「まだあります。――昔このあたりに一揆が起こったことがあって、その首謀者は『六部塚』の近くで首をはねられた。近くに墓を建てて手厚く葬《ほうむ》ったが、その墓に悪戯《いたずら》すると首に妙なできものができ、やがてそこから腐《くさ》って首が落ちるという」
 綾子《あやこ》とジョンが声をそろえた。
「首に妙なできもの」
 安原さんは猛烈《もうれつ》ない勢いでコピーの束をめくる。
 
「郷土史によると――。このあたりで一揆《いっき》が起こったのは一度だけですね。こういう記事があります。文久二年、つまり一八六二年にこのあたりで一揆が起こり、その首謀者五人

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责任编辑:Mashimaro

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