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GOTH リストカット事件
作者:    出处:咖啡日语    发表时间:2007-09-20    浏览次数:     

⑺饯悉栅取⒆悚蛑工幛俊¥工扦瞬荬沃肖巳毪盲皮い骏妤瑲iくのをやめ、振りかえる。
 どうかしたの?
 彼女が問うような視線を私に向ける。
 私は、彼女の顔と、背後の草とを交互に見た。さきほど、一瞬、背後にある草が不自然に揺れたように感じた。
 ……なんでもないよ、行こう。
 私は背後の叢から視線を外して、ユカのもとに駆け寄りながら返事をする。
 そこに、だれかがいたかもしれない。いや、きっといた。私はそう確信する。それは、これまで私とユカを追いかけて、つかまえようとしていた者にちがいない。そのだれかは、今夜、ついに隠れて私たちのやることを見ていたのだ。
 ついさきほどまで、見つかることが不安だった。でも、今はそうでもない。自分のやるべきことがはっきりすると、不安が消えていった。
 私たちはもうここで動物を殺すようなことはしない。練習の時期は終わったのだ。だから、もうそのだれかの影に追いかけられて怯えることもない。
 階段を進んで土手の上に向かう。私は最後に一度、振りかえって、夜の闇にほとんど消えている草の茂みを見下ろした。
 そこに潜んでいるだれかに、私とユカがしていたことの本当の意図を教えてあげたい。ユカがどんな仕打ちのはてにこんな決心をしたのか、知ってほしい。
 不思議だけれど、今ではそう考えられた。

   † 4

「もしもし……?」
 森野の眠そうな声が携帯電話の向こう側から聞こえてくる。彼女は、このような朝早くに電話をかける僕が理解不能だという意味の言葉をもらした。
 窓の外は明るくなりかけていた。僕は三時間ほどしか眠っていなかったが、睡眠時間を自由に調節できるという特技を持っていたため、早くに起きるのがさほど苦痛ではなかった。
 森野に、昨夜、ペット誘拐の犯人をつきとめたことを話した。
「あ、そう……」
 そう言うと、彼女は一方的に電話を切った。犯人の正体が、以前に道ですれちがった少女とゴールデンレトリバーだったことなどを説明する前だった。森野にとっては、ペット誘拐の犯人よりも、睡眠の方が大事なのだろう。
 そう思っていると、携帯電話が鳴った。森野からだった。電話に出ると、彼女は前置きもなく短く質問した。
「犯人の顔、写真に撮った?」
 昨夜、デジタルカメラで撮影しようとしたが、失敗したことを説明する。橋の上の明かりだけでは、不充分だった。暗すぎたり、ばけていたりした。
「そう」
 彼女は再度、電話を切る。
 服を着替えて、部屋を出た。両親や妹はまだ眠っているらしい。家の中は静かである。玄関で靴を履き、外に出る。東の空が朝焼けで赤くなり、立ち並ぶ電柱が黒い影になって見えた。
「明日の朝に……」
 昨夜、あの橋の下でそうつぶやいた彼女の声を僕は思い出した。殺戮の儀式の直後、小さな体の少女が、大きなゴールデンレトリバーに顔を近づけて囁いていたのだ。
 叢の陰に隠れていた僕は、はっきりと全文を聞き取ることはできなかった。明日の朝、つまり土曜の朝に何が起こるというのだろう。
 また同じことをするのだろうか。僕はカメラ持参で彼女の家へ向かうことにした。家の場所はわかっている。先日、彼女と犬が家に入るのを見た。おそらくあれが彼女たちの家なのだろう。そこから彼女たちを密かに追いかけて、誘拐する様子を見るというのが、僕の計画だった。
 家を出て、少し歩き出したところで、何か忘れ物をしている気がした。財布もカメラも持ってきている。ポケットを確認し、背後にある自宅の二階、僕の部屋の窓を見上げた。ナイフを部屋に残したままだった。
 使いもしないナイフのために戻ることと、そのまま少女の家に行くこととを天秤にかける。できるだけ無駄な動きはしたくない。そのまま家を後にしたほうが労力を抑えることができる。
 そう考えたはずなのに、いつのまにか、何かに呼ばれたように僕は自室へ戻っていた。本棚の奥にあるナイフのセットから一本を取りだす。刃の表面に白い光沢があり、僕はそれで不意に指先を切ってみたくなった。その感情を押しとどめ、革製のカバーに入れた。
 ポケットの中、指先でナイフの柄の感触を確かめながら、家を出る。なぜかはわからないが、渇いている、という気がした。ナイフの刃が、焼けた砂浜の砂のように、渇きを訴えている。
 東の空を見ると、朝焼けが血のように空を染め上げていた。

   †

 朝が訪れる。
 まぶしくて、私とユカは同時に目を開けた。カーテンの隙間から、外の光が細く線状に伸びて部屋を横切っていた。|絨《じゅう》|毯《たん》、ベッド、布団、そしてくっついて眠っていた私とユカの顔を、白く清潔な光で輝かせた。布団の中で、私たちはしばらく見つめあってじっとした。
 ユカといっしょに目覚めるのは楽しかった。足でお互いの体を蹴りあいながら、今日は何をして遊ぼうかという気持ちで心が躍った。私は絶対に今という時間を忘れないだろう。たとえ離れ離れにさせられても、彼女の記憶を胸に残して生きよう。
 空中に漂っている小さなほこりを眺めた後、決心して、私たちは布団を出た。
 寝室の扉を開けて、辺りをうかがう。
「ママ」の部屋から、あいつの寝息が聞こえてきた。あいつは家にきたとき、いつも「ママ」と同じ部屋で眠っている。でも、「ママ」はいつも朝早くから外へ出かけてしまう。だからあいつは、午前中、部屋で一人、眠っていることが多い。
 私とユカは、静かに廊下を歩いて、「ママ」の部屋の入り口に立った。家の、一番、奥まったところにその部屋はある。
 廊下と部屋の間は、引き戸で区切られている。しかしその日の朝、「ママ」が閉め忘れて出ていったらしい。私が通り抜けられる程度の隙間が開いていた。
 その隙間に鼻先を突っ込んで、私は中を確認する。
 畳の上に布団が敷かれていた。そこへ、あいつが一人で仰向けに眠っている。口を半ば開き、喉元をさらしている。立つと巨大で、喉に噛みつこうとしても届かない。でも、眠っていると、私の鼻よりも低い位置に男の喉があった。
 引き戸の隙間に体をねじ込んで、私は静かに部屋へ入った。歩くと、畳がわずかに音をたてる。ユカは入り口に残り、部屋の中を見つめていた。私を心配そうに見つめている。
 私はあいつの頭のそばに近寄る。あいつは、気配を覚って起きる様子もなく、|瞼《まぶた》を閉じたままだった。掛け布団がおなかにかかっており、寝息のたびに上下する。
 一瞬、私の視界の隅で、何かが動いた。
 そちらを振りかえる。窓にかかったカーテンの向こう側を影が横切ったように見えた。
 ユカが、私の戸惑いを察した。引き戸の隙間から、どうしたのという視線を向ける。
 窓の外にだれかがいたのだろうか。いや、カーテンがゆれただけかもしれない。あるいは、外の木が風で揺れて、影が動いたのかもしれない。私は頭を振り、気にしないことにした。今は、目の前の男に集中しなければならない。
 男の寝顔を見る。ユカをいじめた姿を思い出し、私の胸の中に憎しみが広がった。
 ユカを振りかえって、目を見つめた。
 言葉はいらない。彼女が何をしてほしいか、私にどうすることを望んでいるのか、目を見れはわかる。
 私は、ゆっくりと顎を開けた。
 ためらいはない。これまで、幾度も橋の下で行なってきたことの繰り返しだった。
 私は噛みついた。
 歯が男の喉に食い込む。皮膚が破け、血が盗れた。噛み砕き、喉の肉を食いちぎるつもりだった。しかし、思いのほか、人間の喉は強靭だった。ごり、とした感触とともに私の顎は途中で止まった。
 男は目覚めて、上半身を起こした。それでも私の歯は食いこんだままだった。男の動きにつきしたがって私の体も引っ張られた。
 私を見て、男は驚き、悲鳴を上げた。しかし、大きな悲鳴は出なかった。喉の重要な部分はすでに壊れていた。男が拳で私の顔をぶった。それでも私は噛みついたままだった。男が立ちあがる。私はぶら下がった状態になる。あいつは焦ったように私を振りきろうとした。
 私は、畳の上に落ちて転がった。
 一瞬、静寂が訪れた。まるで時間が止まったように感じた。
 男の足元に転がった私の上へ、赤い液体がぼとぼとと落ちてくる。見上げると、男が呆然とした顔で、自分の首を触っている。喉の一部分が、|抉《えぐ》れている。赤いものはそこから大量に落ちてくる。男が喉を手でおさえても、血は指の間から溢れた。
 私は立ちあがり、口の中にあるものを吐き出した。布団の上へ広がった血だまりの中にそれは転がる。男の喉から食いちぎった肉片だった。
 男はそれを見ると、「あ!」という表情をして膝をつき、あわてて拾い上げた。少しの間、喉の傷口に押し当てていた。それでも喉からは赤いものが溢れ続けた。やがて男の手が震え出して、私の噛み千切った喉の肉を取り落とした。しかし、男はもうそれを拾い上げなかった。
 私の顔を見つめて、複雑な顔をしていた。怒ったようでもあるし、泣きそうな表情でもあった。大きく口を開けて、男も、吠えた。喉の抉れたところから大量に空気がもれてひゅうひゅうとおかしな音が混じっていた。しかし、部屋の中を震わせるほどの大きな声だった。
 男が私に飛びかかってきた。男の力は強く、おなかを蹴られると意識が消えそうになった。
 部屋の入り口にいたユカは、叫びながら、どうしたらいいのかわからないというように立っていた。
 逃げて!
 私は彼女に声をかけた。しかし、ユカは私を置いて逃げなかった。
 男が私の首を両手でしめた。血で汚れた畳に押さえつけて、恐ろしい言葉を吐いた。口から唾と血の混じった液体が驚くほどよく流れ落ちて私の顔にかかった。私は男の手に噛みついた。一瞬、彼がひるむ。私はその際に立ちあがり、引き戸の隙間を抜けて、ユカと一緒に逃げた。
 大量の血を出しているのに、男が死ぬ気配はない。犬だったらすでに戦意を喪失しているだろう。しかしあいつは、倒れない上に、すごい勢いで襲い掛かってくる。
 廊下を駆け抜ける私とユカの背後で、大きな音がした。男が引き戸を半ば押し破るように開けた音だった。
 私は恐怖した。だめだ、殺せない。力の差が大きすぎる。幾度、噛みついても、あいつは立ちあがって私をぶつだろう。私を殺したら、きっとユカにも手をかけるだろう。私はどうすればいいのかわからずに混乱した。
 私たちは玄関の方へ向かった。私とユカの後を、あいつが追いかけてくる。その足音が、背中に追っている。
「ママ」の部屋から玄関まで、廊下は一度、折れ曲がった後、直線となる。玄関に辿り着くまではおそらく一瞬である。しかし、その短い時間が、やけに長く感じられた。
 あと少しで外への扉に到着するというときだった。小さな悲鳴とともに、隣を走っていたユカが足を滑らせて転んだ。廊下の途中で彼女はうずくまる。
 ユカ!
 私は叫び、あわてて立ち止まろうとした。しかし全速力で走っていた私の体は急に止めることができなかった。土間に置かれていた靴を撥ね飛ばし、玄関の扉に体を当てて、ようやく停止することができた。
 舞い戻り、ユカを助け起こそうと、背後を振りかえる。そこで私は、動くのをやめる。
 あいつが、ユカのそばに立っていた。喉から血を滴らせながら私を見下ろす。恐ろしい顔をしていた。何か言葉を発していたが、うまく発音はされなかった。
 男が一歩、私に近づいた。両手を伸ばし、私が逃げないように気をつけている。
 玄関の土間に立ったまま、私は動けなかった。ユカを置いて、自分一人で外に逃げ出すこともできない。
 どうすればいいのだろう。考えても、答えは出なかった。ただ胸の中で、悔しさと怒りが荒れ狂う。しかし、もはや隙をついて襲いかかることもできない。
 諦めが、私の心を覆った。
 これまで、ユカはあいつに嫌われて、ひどい仕打ちを受けていた。彼女を助けようにも、私は、力が弱かった。どんなに立ち向かおうとしても私たちは無力で、あいつの気分次第に物事は決まっていく。私がもっと強かったら、ユカを守ってあげられていたのに……。
 男がそろそろと両手を突き出し、私を捕まえようとする。
 廊下に倒れているユカが、私を見ていた。
 ごめん……。心の中でそうつぶやく。顔をうつむけるほか、私にできることはなかった。かわいそうなユカから目をそらし、男の手に捕らえられるのを、私は待つ。
 蛍光灯はついていなかったが、窓から入る朝の光が、周囲を薄く照らしていた。うつむいた視線の先、廊下と土間の段差を、男の伸ばした手の影が移動する。少しずつ、私との距離を縮め、近づいてくる。
 助けてあげられなくてごめんね……。
 手の影につき従って、男の喉から滴っているらしい血が、線になって伸びてくる。土間の段差を滴って、靴の中に落ちる。
 いっしょにまた、遊べるとよかったのにね……。
 男の手の影が、ついに私の影へ重なった。私はうつむいたまま動かなかったが、顔のすぐ両側に、男の両手のひらがあった。視界の端に、赤く染まった男の手が見えた。まるで太陽が落ちて、辺りが暗くなるように、男の影が私の上へ覆い被さる。
 ユカ……。
 私の目に、涙が溢れた。
 その瞬間、背後で、何かの気配がした。私の背中には、扉があるだけだった。その向こう側で、だれかの靴音を聞いた気がした。
 ギィ……。なにかの|軋《きし》む音がする。続いて、硬い金属製のものが土間に落下する音……。
 うつむいて足元ばかり見ていた私の視界の中に、何かが落ちて転がった。それは、男の影の中でも、白く輝いていた。
 顔の両側にあった男の手が、止まった。突然のことに気を取られたらしい。時間が停止したような静寂が辺りを覆う。
 扉の向こう側で、再度、靴音がする。今度は、遠ざかるような足音だった。扉には新聞を受け取るための小さな窓があり、目の前のものは、そこから投げこまれたようだった。さきほどの何かが軋む音は、その窓が開閉する音だったのだろう。
 私とユカを追いかけていた知りたがりのだれかだと、私はすぐに悟った。さきほど窓の外に見かけた影も、その人物だったにちがいない。
 私が男よりも早く動けたのは、そのだれかの存在に薄々気づいていたからだった。決断の早さに差が生じ、それがおそらく運命をわけた……。

   †

 やがて少女と犬が門から飛び出して走り去っていった。僕が身を潜ませている曲がり角のある方向とは、反対側へ彼女たちは向かった。そのため、僕がいることには気づいていなかった。
 彼女たちがいなくなって、僕は家へ向かった。玄関の扉は錠がおりていなかった。開けると、男の死体が横たわっていた。仰向けになり、心臓に突き立っているナイフの柄がよく見えた。廊下の鼻から玄関のそばまで、点々と血が続いている。辺りは赤く汚れていた。
 どこにも手を触れないよう注意しながら調べる。男が何者なのかはよくわからないが、おそらく少女の父親なのだろう。母親はいないのだろうか。僕はデジタルカメラで彼を撮影して、現場から立ち去った。ナイフのことが気にはなったが、その場へ残していくことにした。そこが、ナイフのあるべき位置だという気がした。
 立ち去るとき、玄関扉の取っ手を、服の袖で拭いた。指紋を残してはいけない。
 僕は一度、家に戻った。桜がテレビを見ながら宿題をしていた。
「どこに行ってたの?」
 彼女の質問に、コンビニ、と返事をして、僕は朝食をとった。
 昼過ぎに、もう一度、少女の家へ向かった。目的地が近づくと、妙な騒々しさを空気中に感じた。曲がり角を越えて少女の家が見える場所にくると、その理由がわかった。だれかが通報したらしく、警察と野次馬が集まっていた。
 パトカーの赤いランプの明滅が、家の壁に反射していた。通りにあふれている人々は、少女の家を指差して囁きあっていた。近所の人なのだろう。エプロンを着た主婦や、パジャマ姿の中年の男が多かった。僕は、彼らの背後に近寄って、一緒に家を見上げた。囁かれている会話が、ざわめきの中で聞こえてきた。
 話によると、この家に住んでいる主婦が帰ってきたとき、知人の男性が刃物で刺されて玄関に倒れていたのだそうだ。その情報から、あの男が少女の父親ではなかったことを知った。
 僕はさりげなく、そう話していたエプロン姿の女性へ声をかけた。この家に住んでいた家族について質問してみる。突然、話しかけたにもかかわらず、その女性は答えてくれた。事件による興奮が口を滑らかにしたのだろう。
 その家では、母親と娘と犬が暮らしていたそうだ。父親がいないのは、離婚したためらしい。女の子は小学校をずっと登校拒否して、家で犬といっしょに生活していたという。
 その女性の話によると、現在、少女と犬は行方不明で、どこにいるのかわからないそうだ。
 僕は騒々しい事件現場に背中を向けて立ち去った。途中、自転車に乗った子供とすれ違った。まるで祭りでも見に行くように、事件のあった家へ自転車をこいでいた。

 橋の袂から、川辺へ降りるための、コンクリートの階段が伸びている。下の方は、一面に広がる雑草の海へ沈んでいる。
 天気のいい日になった。階段を下りながら、コンクリートに濃く写った自分の影を見た。草は緑色に太陽を反射し、風が吹くと波打つように揺れた。
 階段を下りきると、視界は背の高い草に遮られた。目の高さまで草の緑があり、見上げると、すぐそばにかかっている巨大な橋の裏側と、どこまでも青い空とが見えるだけだった。
 草をかきわけて進んでいると唐突に視界が開けた。雑草の生えていない円形の空間があり、そこにゴールデンレトリバーは座っていた。
 少女はいない。
 犬は、紐でどこかにつながれていたわけではなかった。緑色の草に囲まれて、彫像のように待っていた。まるで僕の来ることを、あらかじめ知っていた様子だった。優雅で、瞳には知性がある。美しい犬だと思った。
 この場所になら、少女と犬がいるかもしれないと僕は思っていた。しかし、予想は半分しか当たらなかった。
 犬に近づき、頭に手のひらを載せてみる。犬は動揺せず、おとなしく僕に触れさせた。
 首輪に、紙が一枚、はさまっていた。それを抜き取る。
 ナイフをくれたひとへ。
 そう書かれてある。どうやら、あの少女が僕にあてた手紙らしい。彼女は、僕のことに気づいていたのだろうか。この場所に僕が来るかどうかは、賭けだっただろう。
 手紙は、破ったノートに、鉛筆で書かれたものだった。コンクリートの階段で書き記したものだろうか。文字にそういった歪みが見られる。
 文章を読む。まとまっておらず読みにくい文だったが、内容は理解できた。なぜ自分たちがペットを誘拐していたのか、なぜ橋の下であのようなことをしていたのかについて触れていた。義父となる男の暴力についての説明と、ナイフを投げこんでくれたことへの感謝が述べられている。いずれも子供っぽい文章ではあった。しかし、一生懸命に文字を書いている様子が見えるような手紙だった。
 最後に、犬をもらってほしい、という意味の言葉が書かれている。その一文を書くために、よほど時間をかけたのだろう。何度も文字を消したような、ためらいの跡がある。いっしょに連れていけば、自分がつかまったときに処分されてしまうと考えたのだろう。
 手紙をポケットに入れ、素直に待っていたレトリバーに目をやる。首輪をしているだけで、紐はついていない。どうやって家に連れて帰るか、それともここに放置するべきかを考えた。
 昨夜、橋の下で、少女は手招きして犬を呼んでいた。ためしに僕もそうしてみると、犬は従順に僕のそばへ近づいてきた。
 その調子で家まで戻った。犬は僕の後ろにつき従って歩いた。途中でどこかへ行ってしまっても、それはそれで放っておくだけだったが、レトリバーは最後までついてきた。
 家に両親はいなかったが、妹の桜がテレビの前で宿題をしていた。犬を家にあげると、その気配に気づいて彼女は振りかえり小さな悲鳴をあげた。犬を飼うことになったと僕は告げる。
 桜は驚いたが、それでも柔軟に対応した。おそらく死体を発見するよりも衝撃は軽いのだろう。そして勝手に犬の名前を考え始める。僕はそれをやめさせた。名前なら前の飼い主が橋の下で呼んでいるのを聞いていたし、手紙にも書いてある。したがって、この犬にはすでにユカという名前があることを説明する。
 今朝、少女の家の窓から、中を覗いたときのことを思い出す。ちょうど、あの少女が男の喉に噛みつく場面だった。何が起こっているのか最初はわからなかったが、手紙を読んで理解した。あの橋の下で、少女が犬と組み合った末に噛みついて殺していたのも、すべては義父を殺害するための練習だったという。
 ユカを桜にまかせ、僕はソファーに座って手紙を読み返した。鉛筆の文字は強い筆圧で書かれ、子供っぽい形である。ひとつずつ文字を拾うように読んでいくと、ところどころに、飼い犬のユカを崇拝する文章があった。
 僕は、昨夜の様子を思い出す。時折あの少女は、ゴールデンレトリバーの方を見ながら行動していた。汚れるのを嫌ったのか、服を脱いで動物に噛みついていた。
 彼女はまるで、神の声を聞くように犬へかしずいていたらしい。手紙によると、自分はユカの言葉がわかるとはっきりある。
「この子、どうして飼うことになったの?」
 桜がユカを指差しながらたずねた。
 友人の飼っていたものだが、義父が犬嫌いでいじめられるので、預かることになったのだと説明する。事実とそれほど大きくは変わらない。少女の手紙は、ユカが義父にいじめられている恐怖と、切羽詰まって殺すまでに至った様子が、混沌とした文章で書かれている。
「こんな子をいじめるなんて!」
 桜は憤慨したように言った。ユカは首を傾げて、深い点色の瞳を彼女に向けた。はたして少女が手紙に書いているほど、ユカが様々なことを考えているのかどうかはわからなかった。あの少女は、ユカの瞳に映った自分の顔と話をしていたのかもしれない。
 そのとき、携帯電話が鳴った。森野からだった。僕は妹と犬を残して二階へ上がりながら電話をとった。彼女は、近所で起きた殺人事件について話をした。
「このまえ、一緒に道を歩いたでしょう。あの辺りで起きたの。玄関で男が倒れているところを、主婦が発見したそうよ」
 ああ、そう。僕は返事をしながら、男の喉に噛みつかれた跡があることや、寝室から玄関まで血痕が続いていることを説明した。そして、被害者の命を奪った決定的な傷は胸に刺さったナイフによるもので、その刃物は何者かの手によって犯人に受け渡されたものだということを話した。
「なぜ、あなたがそんなことまで知っているの?」
「きみは、僕たちの横を通りすぎた少女が犯人だったことに気づいていないんだ」
 それだけを言って電話を切った。
 僕は犯罪者を見るのが好きだった。しかし、第三者的な立場にとどまって、決して関わらないようにしていることがルールだった。
 今回、そのルールに違反した。少女と犬が玄関の方へ逃げ、それを義父が追いかけるのを僕は窓から見た。そこでつい、少女にナイフを渡してしまった。
 悪いことではないと思う。なぜなら、僕の良心はまったく痛んでいないからだ。それにおそらく、あれは僕の意思ではなかった。ナイフが数日前から未来を見通して望んでいたことだったように、今では思う。

 数時間後、行方不明だった少女が郊外でさまよっているところを保護された。口のまわりや服が血だらけだったそうだ。その状態で一人、だれもいない寂しい荒地を歩いていたという。
 僕は薄暗い自室にいて、森野からのメールでその情報を得た。音楽もかけていない静寂だけの部屋だったから、桜と犬の明るいはしゃぎ声が階下からはっきりと聞こえてきた。
 僕は目を閉じて、橋の下で遊ぶ少女と犬を想像した。それは暑い夏の日のことで、彼女たちを囲む草の茂みは緑色に輝いていた。
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Ⅳ 記憶 Twins
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   † 1

 森野という苗字のクラスメイトがいて、時々、話をする。彼女の名前は夜。苗字と名前を続けて読むと、森野夜となる。髪の毛や目の色は黒色である。うちの高校の制服も黒色で、彼女の履いている靴も黒だ。彼女の身につけているものの中で唯一色を持ったものといえば、制服のスカーフの赤色くらいである。
 全身が黒色の彼女にとって、夜という名前は合っているという気がした。夜の暗闇が人の形をとったら彼女のようになるのではないだろうかというほど、彼女の黒色に対するこだわりは徹底している。
 その一方で彼女の顔は、太陽を知らない月のように白い。およそ生気というものがなく、陶磁器でできているように思えることがある。左目の下に小さなほくろがあり、占い師のような、魔術的な雰囲気を彼女は纏っていた。
 森野に似た雰囲気の少女を、映画の中で見たことがある。それは、冒頭で溺死した主人公夫婦が、慣れない死後の世界で戸惑う様を描いた映画である。幽霊となった主人公夫婦は、当然、普通の人には見えない。しかし、ふとしたきっかけから、自分たちを見ることのできる少女と知り合う。その少女が、リディアという名前のヒロインである。
「私は半分、死んでいるようなものだから……」
 死者を見ることができるのはなぜか。主人公たちにそう質問されて、リディアはそう答える。
「私の心は暗黒なの」
 そう口にする彼女は、黒っぽい服を身につけ、病的な青白い顔をしている。外で遊ぶよりも、家で本を読むことを好むような、不健康な気配を持っている。
一部ではそういった人々のことをGOTHと呼ぶ。GOTHというのは、つまり文化であり、ファッションであり、スタイルだ。ネットで「GOTH」や「ゴス」を検索すると、いくつものページがヒットする。GOTHは、GOTHICの略だが、ヨーロッパの建築様式とはあまり関係がない。この場合は、ヴィクトリア朝ロンドンで流行した『フランケンシュタイン』や『吸血鬼ドラキュラ』などの小説、つまりゴシック小説のGOTHICがもとになっている。
 森野もおそらく、GOTHに分類されるだろう。彼女はしばしば、人間を処刑する道具や拷問方法などに興味を示す。GOTH特有の、人間の持つ暗黒面への興味である。
 森野は、他人と言葉を交わすことが少なかった。エネルギーの溢れる健康的なクラスメイトたちとは、根本的に話がかみ合わない。
 微笑みながらクラスメイトが話しかけたとしても、いつもの仏頂面を崩さずにじっと相手を見つめ返し、「あら、そう」しか言わない。話しかけた人間がさらに森野からの反応を待ってみても、彼女からは無反応という反応しか戻ってこない。したがって多くの場合、話しかけた方は、「無視された」と考えるらしい。以前、クラスの女子たちが、無視された、という意味のことをしゃべっていた。以来、彼女たちは森野に対して軽蔑の眼差しを向けるようになった。
 そういった周囲の認識も手伝い、森野のまわりには、人を遠ざけるバリアが形成される。教室に笑い声が溢れて騒がしい中で、彼女の座っている周辺だけが異次元のように静かとなる。そこだけ、影が落ちているように薄暗い。
 しかし当の森野にとっては、話しかけた相手を無視したわけではないらしい。僕は彼女と話をするようになり、そう思うようになった。彼女が相手に対してにこりとも返さないのは、悪気があるのではなく、ただ、そういった人間だからという気がする。相手が嫌いなのではない。なぜなら、だれに対しても平等に、彼女は素っ気無いからだ。
 むしろ観察していて僕が彼女から感じるのは、「戸惑い」だった。話しかけられて、どう返事をしたらいいのかわからずに、「あら、そう」としか言えない……。自分と他人との間にある接点が見つからずに、それ以外の言葉が浮かばない……。しかしそれもやはり僕の勝手な想像で、彼女が実際のところどう思っているのかはわからない。彼女はほとんどの場合、表情が表に現れないため、感情を推し量ることが困難なのだ。
 はじめて言葉を交わしてからしばらくの間、僕は彼女のことを、人形のようなやつだと思っていた。どこか置物のような存在感しかなかったからだ。

 十月の水曜日。木々の葉から緑色が失せ、しだいに赤味を帯びはじめていた頃のことだった。
 朝、森野がうつむいた格好で教室に入ってきたとき、一瞬、みんなが静まりかえった。黒く長い髪の毛が前に垂れ下がって表情を覆い隠し、ゆっくりと足を引きずるような不気味な歩き方で彼女は自分の席へ向かった。
 幽霊のようだ、とおそらくそれを見たほとんどの生徒が思っただろう。しかし発散していた雰囲気は、手負いの獣のように危険だった。
 いつもなら透明な球のような形をしている彼女のバリアが、表面に刺状のものを形成し、近づく人間がいれば攻撃しかねないといった雰囲気を帯びていたのだ。いつもの通り彼女自身は無音だったし、だれも彼女に話しかけたりはしなかった。しかし、そばにいて雰囲気の異常さがわかるのか、彼女と席の近いものたちはいずれも緊張した顔でその日の授業を受けていた。
 僕はさほど、彼女の様子に関心がなかった。ただ機嫌が悪いだけなのだろうと思っていた。その日に僕と彼女が言葉を交わす機会はなく、理由を知ることもなかった。森野は、僕が他のクラスメイトと話をしているときは、近づいて会話に交じることなど決してしなかったからだ。
 理由を僕が知ったのは、次の日の放課後だった。
 夕方のホームルームが終わると、生徒たちはいっせいに立ちあがって教室から出て行く。やがて教室内は広々とした空間になり、みんながいたときの騒がしさが嘘のように、静かな場所となる。机と椅子が並んでいるだけの教室に、僕と森野は残っていた。
 窓から、涼しくなった風が入りこんでいた。隣の教室ではまだ授業が行なわれているらしく、先生の声が廊下を伝わってかすかに聞こえてくる。
 森野は自分の席に浅く腰掛けていた。両手を椅子の両側からだらりとぶら下げて、ひどく疲れている様子だった。
「最近、睡眠不足なの」
 彼女はそう言うと、あくびをした。目の下の皮膚が、影を落としたように薄黒い。瞼を目の中ほどまで下ろし、半日の状態で遠くを見ていた。
 僕は自分の席で帰り支度をしていた。彼女の席から遠くはなれて、ほとんど教室の反対側にあった。教室には他にだれもいないので、声はよく届いた。話をするのならそばに寄ればいい、という発想はなかった。
「だから昨日から様子がおかしかったのか」
「ときどき、こうなるの。眠ろうとしても、眠れない。不眠症というやつかも」
 椅子に腰掛けていた彼女が、立ちあがった。見ていると、眠そうな顔をしたまま、危ない足取りで黒板の前まで歩いた。
 教室の前の壁に、コンセントがあった。そこに延長コードが差しこまれて、黒板消しクリーナーへつながっていた。森野は、おもむろにコンセントから延長コードを抜き取った。五メートルほどの長いタイプのものだ。片方が黒板消しクリーナーへつながった状態のまま、彼女はそれを首に巻きつけた。少しの間、その状態で動きを止めていた。
「これもだめだわ、しっくりこない」
 やがて首を横に振って、コードを捨てた。
「不眠症になると、私は首に紐を巻きつけて眠るの。絞殺されて死体になった自分を想像して目を閉じる。そうすると、深い水に沈んでいくような眠りにつくことができる」
 彼女は寝ぼけていたわけではなかったらしい。僕はがっかりした。
「そういう方法があるなら、寝不足になる前に実行すればいいじゃないか」
「紐ならなんでもいいってわけじゃないの」
 森野にはこだわりがあるようだ。さきほどの延長コードは、首との相性が悪かったらしい。絞殺されたい理想の紐があるのだろう。
「前回の不眠症で使った紐は、なくなってしまったの。それで、新しく首に合うやつを探しているんだけど……」
 彼女はあくびをして、不健康な顔で周囲を見回した。
「でも、自分がいったいどんな紐を探しているのか、はっきりわからない。それさえわかれば不眠症も解決するのだと思う」
「以前に使っていた紐は、どんな紐だった?」
「わからないわ。拾ったものだったし、不眠症が治ったらすぐに捨ててしまってほとんど覚えてない」
 彼女は両日を閉じて、首をごしごしと触った。
「感触は覚えているのだけど……」
 それから目を開けて、何か思いついたという表情をする。
「そうだ、これから紐を買いに行きましょう。あなたもひとつ、紐や縄を買っておくと便利だと思う。だって、必要になるでしょう、自殺するとき」
 隣の教室でも授業が終わったらしい。いっせいに椅子をひく騒々しい音が聞こえてきた。

 学校を出て、僕たちは郊外にある大型雑貨店に向かった。距離はあったが、頻繁にバスの通る道沿いにあったから、到着するまでにさほど時間はかからなかった。バスの中は半分ほど座席が埋まっており、椅子に腰掛けている森野を、僕は吊り革につかまって立った状態で見ていた。彼女は常にうつむいており、眠ろうと努力しているようだった。しかし結局、バスの心地よい振動さえも彼女を睡眠に誘うことのできないまま、僕たちは目的地に到着した。
 広い店内に、工作用の木材や金具、工作道具などが並んでいた。僕たちは棚の間を歩きながら、紐状のものを眺めた。テレビとビデオを繋ぐAVケーブルや、物干しロープから凧糸まで、さまざまなものがそろっている。
 森野はそれらをひとつずつ手にとり、細い指先で触っていた。身につける服を選ぶような、大切なものをあつかう手つきだった。
 彼女は、首吊り自殺をするときの紐について自分なりの考えを持っているらしく、やつれた頬で意見を述べた。
「まず、すぐに切れてしまいそうな細いのはいやだわ。電気コードなら丈夫でよさそうだけど、なんだか美しくない」
「ビニールの紐はどう」
 棚の下の段に、白いビニール紐の巻かれた塊があった。たまたまそれが目に入ったので、聞いてみた。彼女は、無表情のまま首を横に振った。
「伸びてしまって、台無しという気がする。興ざめだわ」
 工具売り場の棚に、何種類もの鎖が売られていた。幅が二センチほどある太いものから、数ミリしかない細いものまでそろっている。トイレットペーパーのように、巻かれた状態で棚に取りつけられている。そばにある切断用の工具で好きな長さに切り取って精算するらしい。
「これを見て、この細さで五十キロの重さまで耐えられるそうよ」
 彼女は、銀色の細い鎖を、親指と人差し指でそっとつまんだ。そのまま引き出して、首筋に当てる。彼女の手からこぼれた鎖の端が、蛍光灯を反射して輝いた。
「色もいい。きっと首吊り死体も綺麗に見えるわ。……でも、首を吊った瞬間、鎖が皮膚をはさむかもしれないわね」
 そう言いながら、鎖から手を離した。これも彼女の理想とは違っていたらしい。
 どんな紐で死にたいかを、彼女はいつも考えている。僕は逆だった。もし自分が人を絞殺するならどのような紐を使うだろう。そう考えながら店内を歩いていた。
「首のまわりがちくちくするのはいやだわ」
 僕が荒縄の束を指差すと、彼女は言った。
「そんなタイプの古い縄、昔、住んでいた田舎の家にたくさんあった。農作業によく使われてたみたい」
 彼女は、小学四年生のころまで、別の場所に住んでいたそうだ。そこは、今の家から車で二時間ほど離れた山の方だったという。
「母の生まれ育った家なの。私の祖父や祖母が農作業をして、父はその家から、車で長い時間をかけて会社に通勤していたわ」
 しかし、利便性を考えて、今の家に引っ越したのだという。それは、はじめて聞く話だった。
「ところで、きみは自殺をするとき、首を吊るのではなく手首を切るものだと思っていたけど」
 僕がそう言うと、彼女は手首を差し出した。
「これのことを言っているの?」
 手首には、ミミズのはりついたような白い線が見える。わずかに皮膚が盛り上がり、刃物で手首を切った傷跡だとわかる。これまで彼女に、傷のことをたずねたことはなかった。なぜ彼女が手首を切ったのか、僕は理由を知らなかった。
「自殺しようとして、こうなったわけじゃないわ。発作的に傷をつけただけよ」
 彼女は、いつも無表情で毎日を過ごしている。しかし、発作的にそうきせるほどの感情が、彼女の中にはどうやらあるらしい。おそらく彼女の無表情さは、魔法瓶の外側が熱くないのと同じなのだ。内側に何かがあっても、それが表にまでは出てこない。
 だが、人間は感情が溢れすぎたとき、どうにかしなければならない。遊ぶことや運動をすることで気持ちを解放させる人もいれば、何かを壊して感情を落ち着かせる人もいる。後者のような人で、感情の捌け口が外に向かう場合は、家具などを壊すだけで終わるだろう。しかし彼女の場合、その衝動は外へ向かわずに、おそらく自分へと向かったのだろう。
「兄さん?」
 唐突に、知っている声が僕を呼んだ。後ろを振りかえると、少し離れた場所に妹の桜が立っていた。首を傾げて、棚の間にいる僕を見ている。両手で大きな袋を抱えていた。ドッグフードの袋だった。偶然、彼女も買い物に来ていたらしい。
 隣で眠そうな顔をしていた森野が、ドッグフードの袋に印刷された犬の顔写真を見て、少しだけ頬を引きつらせた。
 桜は、こんなところで会うのは珍しいという意味の話をして、それから森野に目を向けた。
 森野は目を逸らしたが、それは桜と目を合わせないようにしたのではなく、桜の抱えていた袋の犬写真と目を合わせまいとしたのだろう。彼女は犬という文字のある棚には決して近づかなかった。
「こちらの綺麗な方は?」
 桜は好奇心を含んだ顔でたずねた。おそらく想像しているような人間ではないのだということを、僕は丁寧に説明した。しかし彼女が納得した様子はなかった。
「まあいいわ。私はお母さんに言いつけられて買い物にきたの。ひとまずドッグフードを買って、あと、クリーニング屋で服を受けとって……」
 桜は紙のメモを取り出して読み上げた。彼女は僕と違って性格がよい。受験生で忙しい時期なのに、人からさまざまな仕事を押しつけられると断れないらしい。
「……あと、隣の家のおばちゃんに豆腐とみかん。帰ったら犬の散歩をしなくちゃ」
 そう言って、桜は去ろうとした。そのとき、森野に手を振ってにこやかに笑った。森野は妹の抱いているドッグフードの袋から目を逸らすので忙しいらしく、見てはいなかった。よろけるように棚へ片手をつき、全身で犬の写真を拒否している。
 桜が去って見えなくなったのを確認し、僕は言った。
「もう顔を上げても大丈夫だと思う」
 それを聞くと彼女は、体をまっすぐにのばした。まったくなにごともなかったとでもいうように棚と向かい合って、針金の束をチェックしはじめる。
「今のは妹さん?」
 僕は頷いた。
「……私にも妹がいたのよ。双子の妹だったの。もう、ずっと以前に死んだけど」
 初耳だった。
「名前は夕。夕よ……」
 彼女は説明しながら、鈍く銀色に光る針金を指先で触っていた。青白い唇が動いて、白い歯が覗く。その奥から、彼女の静かな声が聞こえる。
 夕は、首吊り自殺で死んだの……。
 森野夜はそう言った。
 雑貨店で様々な紐を首に巻いたが、不眠症を解決させるようなものはなかったらしい。僕たちは何も購入せずに店を出た。
 大型雑貨店の広大な駐車場を横切り、通りのある方向へ歩いた。目の下にくまを作った森野は、強い風が吹けば倒れそうな力ない足取りだった。
 大型雑貨店の巨大な建物以外、周囲にはほとんど何もなかった。畑や、枯れた草の生えている荒地があるだけだ。その中を、つい最近に舗装されたような黒いアスファルトの、広い幅を持つ道路が突っ切っていた。これから開発され、栄えていく地区なのだろう。
 道路の脇にバス停があり、ベンチが設置されていた。そこに森野が腰掛ける。彼女は家の近くまでバスに乗って帰るらしい。
 僕の家は反対方向で、歩いて帰ることのできる距離だった。バスに乗るつもりはなかったが、森野の隣に腰掛けた。
 太陽が傾きかけていた。空の色はまだ青かったが、浮かんでいる雲の下の辺りがわずかに赤く染まっている。
「きみの妹の話を聞いてもいいかい」
 彼女はちらりと僕を見た。口籠もったように、沈黙する。
 目の前を横切っている道路は、通行量が多くない。たまにしか車が通らず、僕たちの目の前には、アスファルトの平らな面とガードレール、その向こう側に広がった枯れ草の荒地があるだけだった。広い視界の中で、はるか遠くに立っている鉄塔が、微小な粒のように見えた。
「……ええ、いいわ」
しばらくして彼女はそう言った。

 


† 2

「夕が死んだのは小学二年生のことだったから、私が覚えているのは、まだ八歳にもなっていない子供のころの彼女だけよ……。当時、私の家族が住んでいたところは、田んぼと畑しかない田舎だったわ……」
 家は山裾にあったという。裏手に森があり、そこから鳥のはばたく音がよく聞こえたそうだ。
「私と夕は、同じ部屋に布団を並べて眠っていたの。暗くなって眠ろうとしていると、森から|梟《ふくろう》の声が闇を越えて部屋まで届いたわ」
 古い木造の家は、黒光りのする板と柱でできていた。屋根の瓦には緑色の苔が生えており、家の周期の地面には、割れた瓦の破片がよく落ちていた。家の中は広く、後から増築した台所以外はすべて畳の部屋だった。そこに夜と夕の双子の姉妹と両親、祖父と祖母が住んでいた。
 森野の父は、毎朝、二時間かけて町にある会社まで通っていた。祖父と祖母はよく、田んぼの水を確認するために外へ行ったり、納屋から道具を持ち出して畑で作業をしたりする。家から五分ほど歩いた場所に、畑や水田があった。家で食べる大根や白菜などは、いつもそこからとれていた。
「でも、うちでつくった大根は、店に売っているものと比べて、形もへなちょこだし、黄色味がかっていた」
 庭に、木が何本も生えていた。地面は剥き出しの土で、雨が降るとぬかるみになり、泥水が水溜りをつくった。雨の後に庭を歩くと、足が地面にとられて歩き難かった。
 家の左隣に納屋があった。母屋へ寄り添って立っているような、小さなものだった。中に、農作業の道具が置かれていた。台風で屋根が壊れていたが、青いビニールシートをかぶせたきり、修理をしていなかった。少し雨漏りしたが、農器具を置いているだけなので、さほど問題はなかった。
「妹とは、よくいっしょに遊んだわ」
 小学生になると、麓の小学校まで手をつないで歩いた。道は細く曲がりくねっていた。片側は常に山の斜面で、様々な種類の木々が絡まりあっていた。反対側にも木は茂っていたが、たまに葉の間から、山の下に広がる景色が見えた。茶色の落ち葉が道の両端にたまり、雨で柔らかくなっていた。高い木の枝葉が太陽を遮るため、いつも道は薄暗く、湿った空気が立ち込めていた。
「登校するときは下り坂だったから得した気分だったわ。でも、家に帰るときはいつも上り坂だったから、損した気分にもなった」
 夜と夕の姉妹は、顔、ほくろの位置、すべてが一致していたそうだ。その上、二人とも腰まで髪を伸ばし、服も似たようなものを選んで着ていたという。そのような姉妹が、両側に木の絡み合った山深い道を並んで駆け抜ける様を僕は想像した。
「……私たちはそっくりだった。母さえ、外見で私たちを見分けることなんてできなかった。お風呂に入る前、二人で裸になって、じっと押し黙っていたことがあるの」
 母親はそのとき、どちらが姉で、どちらが妹なのか。判別できなかったそうだ。
「……もっとも、仕草や表情に違いがあったから、少し話をすれは、家族にも区別がついたのだけど」
 見分けがつかずに困惑していた母親を見て、まだ幼い子供だった夕が、吹きだして笑ったそうだ。その瞬間に母親は、名前を呼びながら指差したという。
「こっちが夜、こっちが夕!」
 妹の夕は、姉の夜に比べて、感情が現れやすい子供だったらしい。母親や父親が話しかければ、にこにこと笑みを返していたそうだ。
「そのころ気に入っていた遊びは、お絵かきと、死体の真似をすることだった」
 夏休みになると、小学校のプールが開放されて、自由に泳ぐことができた。
「小さな小学校で、生徒全員の人数は百人くらいだったと思う。ひと学年のクラスに、二十人もいなかったわ。でも、夏休みには、ほとんど毎日、プールは大盛況だった」
 白い輝きのような太陽の光と、子供たちのたてる水飛沫とが、夏休みにはあったという。プールに浮かんでいると、そこから見える近い山から、巨大な蝉の声がほとんど壁が倒れ掛かってくるように聞こえてきたそうだ。
「プールサイドにはね、子供たちが危ないことをしないよう監視するために、大人が一人か二人、いつもついていたわ。先生のときもあれば、生徒の親が持ちまわりでやっていたこともあった。ほとんどの場合、何も問題なんて起こらなかったから、日除けの下にあるベンチで近所話をしていただけみたいだったけど」
 双子の姉妹はある日、監視をしている大人を驚かせようと水死体のふりをすることにした。
 水にうつむいて浮かび、全身の力を抜く。二人でどちらが長く、そしてより水死体に近く振舞えるかを競争した。
 エネルギーに満ち溢れている子供たちがブールではしゃいでいる中、水面に浮かんでいる姉妹の静けさは異様だっただろう。髪の毛を海藻のように漂わせながら、背中だけを水面に出して、息の続く限り身動きしない。息が続かなくなったら、そっと顔をあげて呼吸し、また死体となる。
「……予想外に大きな展開が私と夕を待ちうけていたわ」
 そのときプールの監視をしていたのは、姉妹のクラスメイトの母親二人だった。いつまでも動かない双子の姿を見て、そのうちの片方がベンチから立ちあがって大きな悲鳴をあげた。その声でプールを泳いでいた子供たち全員がベンチを振りかえった。はしゃいでいた低学年の子供たちも、水泳の練習をしていた六年生も、みんな何が起こったのだろうと思ったらしい。悲鳴をあげなかったもう一人の母親は、立ちあがると、水面へ浮かんでいる姉妹を助けるために走った。しかし、プールサイドを走るのは危険な行為だった。
「その人は転んで気絶。悲鳴をあげた方の人は、それに気づかずにプールから離れて救急車を呼びに行っていたの。私と夕が、息を止めるのにくたびれて水面から立ちあがったとき、周囲は混乱していたわ。地獄絵図だった。低学年の子たちはわけもわからず泣き出していた。転んで気絶していた人のそばで、お母さん、って呼びかけながら肩を揺り動かしている男の子もいた。私と夕のクラスメイトだった」
 彼女たちはお互いの顔を見ると、無言ですばやくプールからあがり、着替えもせずにその場から逃げたそうだ。
「こう、脇に着替えとバスタオルの入った袋を抱えてね、私たちは、靴を手にひっかけた状態で裏口から出ていったのよ。水着で田んぼのあぜ道を走っていたときにね、救急車が何台も何台も連なって遠くの道を通り過ぎていったわ。いったいあの母親は何人の水死体を見たのか、五台くらい走っていたと思うの」
 小学校は麓に位置しており、山と反対の方向には、視界いっぱいに水田が広がっていた。緑色の稲の葉が地面を覆い、平たい絨毯が広がっているようだった。その中のあぜ道を、水着のまま彼女たちは歩く。
「草の先が、足をちくちくと刺したわ」
 救急車が学校に到着した後のことはわからなかった。しかし彼女たちは、深く考えないことにして家に帰りつき、かき氷を食べて眠ったという。
「死体の真似といったら、ケチャップをお互いの顔に塗りつけて流血したように見せかけたこともあった」
 冷蔵庫の前で向かい合い、指にケチャップをつけて、相手の顔に載せる。当時から白かった皮膚に、赤いものがつく。
「そうしていると、どんどんケチャップがたれてきてね、舌でなめて拭き取らなくちゃいけなかった。ずっとそうしているとケチャップの味に飽きてきて、最後にはソーセージにケチャップをつけて食べていたわ」
 ある時、彼女たち姉妹は、ミートソースの缶詰を携えて外に出た。
 家から少し離れた近所に、かつて交通事故のあった曲がり角があった。幼稚園に通っていた男の子が車に|轢《ひ》かれて命を落としていた。同じ場所で、夕が仰向けに横たわって目を閉じる。
「お姉ちゃん、いいよ。あの子がそう言ったのを合図に、私は夕の額にむけてミートソースの缶詰を逆さにしたの。あの子の顔にソースが落ちて、私たちの想像通り、まるで脳味噌がはみ出したように見えたわ。私は夕に、何があってもそこで身動きしないようにと命令したの。あの子は、ソースが入らないよう目を閉じたまま、頷いた」
 夜はそばの茂みに隠れて、通りがかった近所の人が、わっと声をあげて驚くのを観察した。夕を見たのが幼い子供だった場合、大人の場合とは違って驚くことなく、何の遊びをしているのだろうという顔で夕に近づいていった。
「驚いた人も、すぐにそれがミートソースだと気づいて笑っていたわ。またか、という顔をするの。私たちは近所でいつも似たようなことをしていたから」
「車は通らなかったのかい?」
 交通事故のあった場所なら、車がときどきは通ったにちがいない。そうなったとき、路上に寝ていた夕は危なかったのではないだろうか。
 僕が質問すると、彼女は無表情のまま言った。
「車は、来たわ。夕は目を閉じていて気付かなかったけど。急ブレーキをかけて、あの子の直前で停止したの。夕はその昔でようやく上半身を起こした。顔のミートトソースを拭って、鼻先にある車のバンパーを見たの……。バンパーは銀色で、彼女の顔が映りこんでいたわ……」
「きみは妹に声をかけて、危険を知らせなかった?」
「……ええ、そうね。だまって見ていたわ。それもまた、おもしろいと思ったから」
 罪悪感という言葉を彼女の声の中に探したが、見当たらなかった。おそらく、彼女の心から欠落しているのだろう。その辺りは僕と確かに同類だった。
 彼女は説明を続ける。
「私たちは双子で、外見は同じだった。いつも、似たようなことを考えて過ごしていた。でも、少しだけ性格が違っていたの。妹は弱虫だった…‥」
 僕と彼女の座っているベンチの前を、バスが通過する。さきほどバス停に止まって、僕たちが乗りこむのを待っていたのだが、森野が乗ろうとしないため、行ってしまった。後には、排気ガスの臭いだけが残った。
 太陽がほとんど地平線に接している。東の空が暗かった。風が吹いて、ガードレールの下に生えた枯れ草を揺らしていた。
 森野はベンチに深く座り、両手を握り締めて膝の上に置いていた。
「私たちは、死ぬことについてよく考えた。死んだらどこへ行くのか。どうなってしまうのか。そのことに、すごく惹かれたの。でも、夕よりも私のほうが、死の知識に豊富で、残酷な子供だったと思う……」
 私はいろいろなことを夕に命令したわ、と、無表情に森野は言った。
「そのころ、納屋に動物を飼っていたの。四本足で、涎をたらす、臭い動物なんだけど……、つまりあれのこと」
 おそらく犬のことだろう。彼女が昔、犬を飼っていたというのは意外だった。
「私の命令で、餌の中に漂白剤を混ぜさせたことがあった。別に、そいつを真っ白にしようと思って漂白剤を飲ませようとしたのではないのよ。あれが苦しむのを見たかっただけ……」
 夕は彼女に、やめようと懇願したそうだ。
「でも、私は聞かないふりをして、夕の手で餌の中へ入れさせたの。嫌だと言ったけれど、許さなかった」
 漂白剤を飲まされても、犬は死ななかった。しかし、二日間、もだえ苦しんでいた。両親や祖父、祖母たちは心配そうに犬を看病した。痙攣し、苦痛にあえぐ犬の声が、昼夜の関係なく納屋から聞こえていた。山の上へ広がる空に、高く、吠え声は響いていた。
 夜はその様子を観察した。しかし夕は、恐ろしくて家の中でうずくまり、耳を押さえていた。
「夕は泣いていたわ」
 夜は、その妹の姿もまた、犬を見るのと同じように観察したそうだ。自分の手で犬に漂白剤を飲ませることにより、夕が呵責で苦しむよう仕向けたのだろう。犬と妹の苦しみを両方同時に観察するという、夜の実験だったのだ。
 夜と夕は、一度だけ、首を吊る遊びもしたそうだ。
「正確には、首を吊る一歩手前で踏みとどまるという遊びだった。雨の降る日だったわ。外へ行けないから、納屋の中でその遊びをしたの。……夕の死ぬ、数ヶ月前ではなかったかしら」
 姉妹はそれぞれ、納屋の地面に木箱を置き、縦にふたつ積み上げた。箱の上に立って。|梁《はり》からぶら下げた紐の輪へ首を通す。後は、箱から飛び降りれば死ぬだけだった。
「いっせーのせ、で飛ぼう。私はそう言った。でも、それは嘘だった。自分だけ飛び降りないで、夕が首を吊って死ぬところを見るつもりだったの」
 いっせーのせ。二人でそう合図しても、何も起こらなかった。二人とも飛び降りず、納屋の中には沈黙だけが残った。
「夕は、私の考えていたことに気づいていた。だから飛ばなかったのよ。私は彼女に、なぜ飛び降りないの、ってなじったわ。彼女は恐ろしそうに立ちすくんでいた」
 夕は理不尽さを訴えることもできず、夜の罵りをだまって受けとめていたそうだ。
「夕は、きみにいじめられていたのか」
「そういうことになるのかも。でも、当時はあまり意識しなかったわ。それに、普段は仲良くしていたの。夕だっていろいろひどいことをしたのよ。死体のふりをして人を驚かせるのは、私よりもうまかったと思う」
「きみたちの力関係に、家族は気づいていた?」
「いいえ」
 彼女は押し黙って、前方の道路を見つめていた。車が一台、通りすぎた。辺りは暗くなり始めていたので、ヘッドライトをつけていた。そのため、一瞬、彼女の横顔が光の輪の中にすいこまれた。風が彼女の髪の毛を散らして、頬に教本、引っ掛けた。
「夕が死んだのは、小学二年の夏休みのことだった。朝は晴れていたけど、だんだん雲が濃くなって、昼ごろから雨が降り始めた……」
 昼の十二時を過ぎて、母親が買い物へ出かけた。父もおらず、祖父や祖母も出かけていた。家の中には双子の姉妹しかいなかった。
 雨は最初のうち小降りで、窓に細かな水滴をつけていただけだった。しかしやがて、雨は強くなり、窓の水滴同士は重なって、重みで垂れて線になった。
「十二時半ごろ、夕が納屋に入っていくのを見ていた。私に声をかけなかったから、一人で何かやりたいのだと思って、私はついていかなかったの」
 夜は、しばらく一人で本を読んでいたそうだ。
 やがて一時間ほど経過すると、玄関の扉を開ける気配がした。玄関に行くと、袋に一杯の梨をぶら下げた祖母がいた。傘を畳みながら、「これ、近所の人からもらったんだよ、今、剥いてあげるからね」と祖母は言った。
「夕を呼んでくる。私はそう言うと、玄関先に祖母を残して納屋へ向かったの」
 納屋の扉を、彼女は開ける。
 そして夜は、それを目にした。すぐに叫び声をあげた。
「夕はぶら下がっていた。首に紐をかけて、天井から吊られていたの。私はすぐに玄関へ戻ったわ。祖母は梨の入った袋を抱えたまま、慌てている私を見て驚いていた」
 夕が死んでる。彼女は祖母に教えた。
 首吊り自殺だった。しかし、事故でもあった。
 夕の体を吊り下げている紐のほかに、もう一本、縄があったのだ。胸のまわり、ちょうど脇の下に巻かれていた。農作業用の荒縄だつた。一方の端は夕の体に巻かれて、もう一方の端は尻尾のように下へ垂れていた。
 天井の梁にも、同じ種類の縄がぶら下がっていた。もともとそれらの縄は、つながっていて一本だったらしい。それが途中で切れていたのだ。
「妹は、死ぬつもりなんてなかったの。胸に巻きつけた縄で、天井の梁からぶら下がるつもりだったのよ。首吊り死体のふりをして、みんなを脅かすつもりだった。でも、ぶら下がった瞬間、体を支えるはずの縄が切れてしまって……」
 夕の葬儀は、静かに行なわれたという。
 それで彼女の話は終わりだった。
 疑問がひとつだけ残ったものの、僕はそれを聞かず、疲労して深く息を吐き出している森野の顔を見た。
 太陽は地平線の彼方へ沈んでいた。道路脇の歩道を、街灯が連なっている。バス停は、時刻表の印刷されている部分が、内部のランプで光るようになっている。ベンチに座っている僕たちは、バス停の白くぼんやりした明かりに照らされていた。
 道の遠くに、車のライトが見えた。大きな四角い正面で、バスだとわかった。エンジン音を響かせて、バス停の前に停車する。
 森野は立ちあがり、開いた扉へ入っていく。僕もベンチを去る。お互いに別れの挨拶もないまま、振りかえりもしなかった。

   † 3

 森野夜から死んだ妹のことを聞いた二日後の土曜日、空は朝から曇っていた。学校は休日で、僕は朝早くに駅で電車に乗りこんだ。
 電車は都会から離れ、次第に寂しい場所へ向かっていく。揺られながら、最初は車内にいっぱいだった乗客が一人ずつ消えていき、最後には僕だけとなる。窓の外を見ると、太陽のないくすんだ色の田園地帯が、横ヘスライドしていた。
 民家のまばらな駅で降りた。駅前のバス停からバスに乗ってしばらく進むと、やがてゆるやかなのぼり坂となり、木々が増える。いつのまにか町を見下ろす高さになっていた。道路の幅は細く、ほとんどバスの幅しかなかった。道の両側の木々がガードレールを越えて伸びており、バスのガラス窓にあたって軽い音を出す。
 森の中にあるようなバス停で下車した。バスが行ってしまうと、道には車がなくなった。時刻表を確認する。一時間に一本だけあった。夕方になると帰りのバスはなくなるらしく、それまでに戻ってこなければならない。バス停のまわりには木しかなかったが、少し歩くと視界が開け、点々と民家の屋根が見えた。
 森野が生まれ、少女時代を過ごした町だった。一度、立ち止まって周囲を見渡した。晴れていれば、紅葉のために山は赤く見えていたかもしれない。しかし今は曇り空で精彩が失せている。
 森野の住んでいた家へ向かって、僕は歩き始めた。足を交互に踏み出しながら、昨日、学校で交わした森野との会話を思い返す。
 金曜日の昼休み、図書室に人はまばらだった。壁際に書架が並び、それ以外の空間には、閲覧のための机と椅子がある。森野は、人のあまりこない奥の席に座っていた。彼女を見つけた僕は、近づいて声をかけた。
「きみが住んでいた家を見てみたいのだけど」
 彼女は読んでいた本から顔をあげて眉をひそめた。
「なぜ?」
「人の死んだ場所を眺めて歩くのが僕の趣味だってこと、忘れたのかい」
 森野は僕から目をそらし、机に広げた本へ視線を落とした。立っている僕には、彼女の丸い後頭部しか見えなくなった。彼女は僕を無視して、本だけに集中しようとしていた。
 彼女の読んでいる本に注意を向ける。ページの角に、『第3章・あなたは一人じゃない……前向きに生きる方法』という見出しが見えた。僕はわずかにショックを受けながらその見出しを読み上げた。彼女は顔をふせたまま、誤解しないで、という声色で返事をした。
「この本の内容なら、眠れるかと思ったのよ」
 しばらく迷うように沈黙した後、彼女は再び顔をあげた。
「あなたに夕の話をしたこと、後悔しているわ。もし行くのなら、一人で行ってきて」
 彼女の説明によると、家と納屋は取り壊されずに残っているらしい。祖父と祖母がそこで、農作業をしながら生活しているそうだ。なぜいっしょに行こうとしないのかとたずねると、寝不足で体調がすぐれないからよ、と彼女は言った。
 次の日の土曜は学校が休みであるため、一人で彼女の田舎をたずねることに決める。住所と、そこまでの行き方を教えてもらった。なんとか日帰りで行ける場所だった。持っていた手帳を差し出して、地図を描いてもらう。
「突然に知らない男子高校生が訪ねたら、驚くだろうね」
 僕がそう言うと、彼女は、わかった、と頷いた。電話をして、僕がたずねることを知らせておくそうだ。大自然をカメラで撮影するために田舎を訪れた、という名目で行くことにする。
「話はそれだけ?」
 森野がいつもの無表情で聞いた。僕は手帳に描かれた地図を眺めていた。
「あいかわらず鳥肌の立つ地図を描くね」
 そう言い残して、僕は彼女に背中を向けた。図書館を出るまで、ずっと、彼女の視線を感じていた。何かを言おうとして、言葉が喉で止まってしまったような、ためらいを含んだ視線だった。
 低い灰色の雲を背景に、黒い鳥が飛んでいた。僕はそれから視線を外すと、手帳を取りだして、森野に描いてもらった地図を見る。地図上では、保育園の中を道路が突っ切っている。親はそのような保育園に子供を預けたがらないだろう。
 解読しながら彼女の家を目指して歩き始めた。家の番地や目印になるものを聞いてメモにとっていたから、地図に頼らなくても辿り着けるはずだった。
 歩きながら、一昨日、バス停のベンチで聞いた彼女の話を頭の中で反芻していた。残酷な心を持った少女と、その双子の妹についての物語だ。
 夕は、首吊り死体で発見された。
 しかし、森野の話でひとつ腑に落ちない部分があった。それは、彼女が妹の自殺死体を発見したときのことだ。
 夜は納屋の戸口を開けて、すぐに悲鳴を上げた。そして玄関先の祖母へ、妹の死を教えに行ったという。
 なぜ、夕がすぐに死んでいるとわかったのだろうか。彼女は妹と二人で、頻繁に死体の真似をして他人を驚かせていたのだ。それならば、また妹は死体の真似をしているのだと、少しでも考えなかったのだろうか。
 見た瞬間、驚いて悲鳴をあげるのは自然な反応だろう。確かに本物の死体は、真似とは思えない迫力を持っていたかもしれない。
 しかし、いたずらであるという可能性を考えず、死んでいると即座に断定して祖母へ知らせに行ったということが、僕には不自然に思える。
 地図と道を幾度も見比べる。目の前に深い谷川があった。地図によると、そこはクリーニング屋のはずである。せっかく洗い終えた服が濡れる、と思った。
 橋を渡りながら空を見上げた。山の頂上付近が、低く垂れこめた雲にかすんでいる。山の木々が、やけに黒々と見えた。
 散々に歩かされた後、かつて彼女の住んでいた家を見つけた。山に抱きかかえられるように立っていた。古い家屋で、話の通り、屋根瓦に緑色の苔が生えていた。周囲には木と畑しかなく、夜になれば本当の暗闇へかわるだろう。門や塀はなく、道を歩いていると、いつのまにか家の敷地に入りこんでいた。
 玄関に向かって歩くと、左隣に立っている小さな古ばけた納屋が視界に入った。夕が死体で発見されたという納屋に違いない。壁は白く乾燥した木の板である。屋根に青いビニールシートがかぶせてあり、ビニールの紐で固定されている。古いためか、全体的に傾いているような気がした。
 僕はそれを横目で見ながら、玄関の前に立つ。戸は、格子状のサッシとすりガラスで構成され、横にスライドして開けるタイプのものだった。呼び鈴を鳴らそうとすると、後ろから名前を呼ばれた。
「**君?」
 振りかえると、鍬を持って腰をまげた年老いた女性がいた。モンペ姿で、首の周りにタオルを巻いている。おそらく森野の祖母だろう。持っていた鍬には泥がついていた。離れた場所に立っていたが、見ただけで畑の土の匂いを感じさせる風貌だった。
「夜ちゃんから電話で聞いてたよ。待ってもこないから心配してたのよ」
 にこやかに笑った皺だらけの顔は、森野の血縁者というイメージから遠かった。森野は、普段、まるですでに死んでいるような気配があり、彼女の祖母が感じさせるような、生活感や笑顔とは無縁だった。
 僕は頭を下げて、様々な写真を撮ったらすぐに帰りますと説明した。しかし森野の祖母は話を聞かず、無理やり僕を家にあげた。
 玄関に下駄箱があり、その上に、どこかの土産物らしい置物が数多くあった。正面に廊下が伸びており、芳香剤のような、他人の家の匂いがした。
「おなかがすいたでしょう」
「いえ、別に」
 僕の言葉は無視された。台所のテーブルに座らされた僕の目の前に、料理の載った皿が並べられた。やがて森野の祖父らしい人物が現れた。背の高い白髪の老人だった。二人は、僕が森野の婚約者か何かだと思っているらしかった。
「そのうち、夜をもらってやってくれ」
 彼女の祖父は、箸を持って食事させられている僕を見ると、いきなり頭を下げた。僕は窓の外を眺めながら、雨が降ってこないうちに納屋を見て、バス停まで戻り、最終のバスに乗りこむことができるだろうかと考えていた。
 台所の食器棚に、写真が一枚、飾られていた。
 人形のような少女が二人、写っていた。どちらも長くまっすぐな黒い髪の毛で、カメラを正面に立ったまま、にこりともしていない。服は黒色で、横に並んで手をつないでいる。家の前で写したらしく、背後にこの家の玄関がある。
「夜ちゃんと、夕ちゃんよ」
 僕が写真を見ていることに気づくと、祖母がそう説明した。
「あの子が双子だったこと、もう聞いた?」
 彼女の質問に僕は頷いた。
「六歳のころの写真だ」
 森野の祖父が横から言った。それ以上、二人は写真について何も語らなかつた。
 食事の後、仏壇に手を合わせることにした。礼儀を重んじているような態度を見せていれば、様々なことが円滑に進むだろうという配慮だった。
 仏壇に飾られている夕の写真を見ながら、祖父母にとって彼女の死はまだ先日のことのように思えるのだろうと考えた。彼女の死は、今から九年前だ。僕や森野にとって九年前とは、これまでの人生の半分以上の長さになる。しかし彼女の祖父や祖母といった年齢の人にとっての九年前は、一年前や半年前という距離とさほどかわらないのではないだろうか。
 仏壇で手を合わせた後、森野の祖母や祖父は、僕を居間に座らせて、高校で孫がどんな生活をしているのかと質問した。それに対して僕が答えるより先に、森野が昔どんなことをして遊んでいたかという昔話をはじめた。もしかすると僕の話には興味がないのではないかと思った。
「あ、そうそう、小学生のときに描いた絵がまだあるの」
 楽しげにそう言いながら祖母が立ちあがり、奥へ消える。その背中を見送ってから、祖父はすまなそうに僕へ頭を下げた。
「家内があんなに浮かれて、きみに迷惑だったら申し訳ない」
 僕は首を横に振り、いえ、と一応の一般的な反応を見せておくことにした。
「……夜がこれまでに一人も友達らしい人間を家につれてきたことがなかったものだから。きみがうちにくると聞いて、あいつは楽しみにしていたんだよ」
 森野の祖母が、紙袋を抱えて戻ってきた。テーブル上に袋を置いて、中のものを取り出す。
 古い画用紙が何枚も入っていた。森野が小学生のとき、絵の具やクレヨンで描いた絵だった。彼女に地図を描かせたときに薄々、気づいてはいたが、絵に関する才能は持っていないらしい。
 画用紙の裏側に、名前と学年が記されている。
 夕の描いた絵も交じっていた。二人の作品をいっしょに保管しているらしい。夜の名前の記された絵は一年から六年までそろっていたが、夕のものは、一年と二年のときに描いたものだけである。その事実が、確かに夕という少女はここにいて、そしていなくなったのだと主張している。
 僕は、小学二年生のときに二人の描いたそれぞれの絵を見比べた。
「どっちの絵も、ほとんど何が描かれているのかわからないでしょう?」
 祖母はそう言いながら微笑んでいた。姉妹の画力に差はない。しかし、姉妹はどちらも同じ題材を絵にしたらしく、似た絵を描いている。
 どちらの絵にも、簡略化された家の断面図が描かれており、その中で、髪の長い女の子らしい人物が二人、並んで立っていた。それらの人物は、おそらく彼女たち自身の姿なのだろう。
「本当に、何をしているところなんだか」
 祖母がそう言うと、祖父が答える。
「家の中に、二人で並んで立っている絵じゃないのかい」
「まあ、そのままじゃない」
 そして笑う。
 僕はだまっていたが、姉妹が何の絵を描いているのかがわかった。それぞれの絵に描かれている二人の人物の首から、赤い線が上に伸びて天井とつながっている。おそらく、納屋で首吊りの遊びをしたときの絵だろう。
「この絵はね、あの子たちが二年生の夏休みに描いた絵なの。宿題だったのよ。本当は夏休みが明けたとき、夕ちゃんはその絵を持って学校に行くはずだったのだけど……。それは、夕ちゃんが死ぬ数日前に描いた絵なの……」
 なつかしそうに目を細めて、祖母はそう口にした。
 どちらの絵も大差はないが、夕の方が若干、細かく描いている。天井の常に赤い紐がぐるぐると巻きつけてある様や、机み上げた木箱。家の上に浮かんでいる太陽。そして二人の少女の履いている靴。
 夜の絵では、それらが細かく描かれておらず、シンプルに、あるいは大胆に塗りつぶされていた。足の先まで肌色一色で、靴を描こうともしていない。背景は暗い灰色である。
 夕の絵に描かれている靴へ、僕は注意を向けた。片方の少女は黒い靴を履き、もう一方の少女は白い靴を履いている。意味があるのかどうかはわからないが、気にしておくことにした。
 僕は、眺めていた絵をテーブルに置く。
「そろそろ森の風景を撮影したいので……」
 そう言って話を打ち切り、持参したデジタルカメラを持って外に出た。
 玄関を開けると、周囲が白くかすんでいた。最初は霧かと思ったが、小雨だった。細かい雨粒が、山一面を覆っていた。傘を差すほどのものではなく、デジタルカメラで周囲をてきとうに撮影しながら歩いた。
 しばらくそうしていると、次第に雨粒が大きさをましていった。やがて、偶然に立ち寄った振りをして、家の隣に建っている納屋へ向かった。
 納屋の扉は、木の板で作られた引き戸だった。閉ざされており、中は見えなかった。屋根のシートに落下する無数の雨滴の音が聞こえた。納屋の戸に指を引っ掛けて、横へ引く。多少、引っかかりながら開いた。
 入り口から斜めに差し込む明かりで、中はぼんやり照らされた。枯れた植物の匂いが漂ってきた。
 高さは二メートル、広さは三メートル四方。
 地面は、粘土のような土である。
 天井の近くに梁があり、壊れかけた屋根裏が見える。所々に空いた穴から、屋根にかけられたビニールシートの青が覗いていた。小さな電灯がひとつ、下がっている。
 話によると納屋で犬を飼っていたらしいが、もういない。死んだのだろう。入り口がある正面の壁には、地面と接する位置に正方形の小さな出入り口がある。おそらくそれは犬専用の戸口で、犬はそのそばにつながれていたのではないかと推測する。
 一歩、踏み出して中に入った。納屋の中にたまっていた空気が、ゆらりと揺れた気がした。わずかに湿って、冷えていた。
 かつてここに、夕はいた。天井の梁から、彼女はぶら下がっていたのだ。そう考えると、ぶら下がって息絶えた小さな体の少女は、まだ納屋の中にいる気がしてくる。
 入り口のそばにスイッチがあった。それをつけると、天井から下がっていた笠つきの電灯が光を点す。かろうじて中を照らし出すだけの、弱々しい明かりだった。
 夜が僕に語った様々な話を思い出す。この地面に木箱を二つ重ねて、姉妹で首吊りをしようとしたこと。この納屋に飼われていたという犬の餌に、漂白剤を混ぜたこと。
 夕の死について、僕は、夜を疑っていた。
 夜は、納屋の扉を開けたとき、すでに妹が死んでいたことを知っていた。しかし家族の前で、たった今はじめて妹の死体を見たと演出したのだ。
 なぜそうする必要があったのだろう。隠したくなるのは、どんな場合だったのだろう。その心理を考察すると、夜が妹の死に深く関係していたのではないかという推測に辿り着くのだ。
「ここで夕ちゃんは見つかったの……」
 振りかえると、納屋の入り口に森野の祖母が立っていた。真面目な顔で、納屋の中の、少し見上げた位置に視線を向けていた。
「みんなを驚かせようとして死んでしまったと聞いています」
 彼女の視線をたどり、僕も同じ場所を見つめた。おそらくそこに、夕はいたのだ。
 土砂降りになってきたらしい。地面に雨の叩きつけられる音がする。しかし、納屋の中にいると、外にあるすべての音に膜がかかったようだった。雨滴が屋根のシートに当たって弾ける青も、風の音も、すべてくぐもって聞こえる。
 台風で壊れて以来まともに修理されていないという天井から、水滴が落ちてきた。しかし、納屋にはほとんどなにも置かれていないため、被害はない。
 片隅に農作業用の鋤や錐がある。壁に、鎌などがかけられている。|剪《せん》|定《てい》|鋏《ばさみ》や、巻かれて放置された荒縄もあった。
 犬用の戸口のそばに、何種類かの紐がかけられている。犬をつないでおくための紐らしい。犬が死んでも、まだ残されているのだろう。様々な色があり、赤い紐が、特に目をひいた。
「あのときのことはよく覚えているの……」
 森野の祖母が、静かな声で話した。
「私が近所から帰ってきて、傘を畳んでいると、夜ちゃんがちょうど玄関にいたわ……」
 夜から聞いていた話と細部まで同じだった。彼女はぶら下げた袋の梨を見て、妹を呼びに行くと言い、納屋の戸を開ける。そして悲鳴。ひとつだけ、森野の祖母の話で腑に落ちない部分があった。それを聞こうとしたとき、靴の裏側におかしな感触がした。
 いつのまにか、靴底が地面に張りついていた。地面は粘土のような土である。雨がふると、天井からもれる水滴で、わずかに柔らかくなるらしい。そのために粘度が高くなるのだろう。
 足を上げると、靴底が地面から剥がれる感触。地面に薄く靴跡が残っていた。
 夕が死んだ日も雨だった。地面はこうなっていたのだろうか。しかし、今、地面についた僕の靴跡は薄い。当時、まだ少女だった夜は、現在の僕よりも体重が軽かったはずだ。その重さで、靴跡は残るものだろうか。
 僕は、開け放したままの入り口から、外を見た。雨は降り続いている。当時の納屋の地面が、今よりも雨が染みこんでもっと柔らかくなっていたとすれば、靴跡はついていたかもしれない。
 夕が死んだ日、雨は昼ごろから降り始めた。それから夕が納屋に入り、夜はずっと家の中にいたという。死体を発見したときも、夜は入り口から中を見ただけだと聞いている。
 もしも森野の祖母が、あの日、納屋の中で夜の靴跡を見ていたとしたら、バス停で聞いた彼女の話は嘘になる。夜の靴跡が残っていれば、死体を発見するよりも前に、納屋の中ですごしていた証拠となるからだ。
「夕さんが発見されたとき、地面に靴跡はありましたか?」
 そのような|瑣《さ》|末《まつ》なことを覚えているかどうか怪しかった。しかし僕は、試しに質問した。
「夕ちゃんの靴跡ならあったよ」
 森野の祖母は、そう返事をした。踏み台につかったらしい木箱が転がっており、それを片づけるとき、地面に子供の靴跡があったそうだ。
 惜しい、と思った。夕の靴跡なら、納屋にあったとしてもおかしくはない。
「一目見てすぐに、夕さんの靴跡だとわかったのですか」
「あの子たちは外見が一緒だったから、靴で判断していたの。夜ちゃんは黒い靴、夕ちゃんは白い靴。靴跡も違っていて、そのとき納屋の地面にあったのは確かに夕ちゃんの靴跡だけだったの」
 夕の描いた絵を思い出し、僕は納得した。どうやら、夕の靴跡に間違いはなかったようだ。その日、夕は白い靴を地面に並べ、裸足の状態で天井からぶら下がっていたという。律儀にも、多くの自殺者がそうするように、靴をそろえていたそうである。
「夜の靴跡はなかったのですね」
 もう一度、僕は確認した。森野の祖母は、なぜそのようなことを聞くのかと、不思議そうな顔で頷く。夜は死体発見後、確かに納屋へは入らなかった。だから靴跡などなかった。納屋には子供の靴跡が一人分だったそうだ。
 犬用の戸口を調べる。木の板が蝶番でぶら下がっているだけの、簡単なつくりだ。板を押せば、外からも中からも開く。そのあたりの地面は乾いていた。雨が降ったときかわいそうだという配慮からか、犬は、地面が濡れない場所につながれていたらしい。この戸口を使って外へ出れば、足跡はつかないだろう。
「夕さんが脇の下に巻いていたという縄は、まだ残っていますか」
 森野の祖母は首を横に振った。どのようなものだったのかも忘れてしまったそうだ。
「それよりもあなた、今日はうちに泊まっていきなさい。外はすごい雨よ」
 僕は考えて、頷いた。
 二人で納屋を出て、家の中に戻る。森野の祖母は、写真に写すと良さそうな場所を説明しながら玄関を開けた。
「明日、天気が良くなるといいわね」
 土間で靴を脱いでいるとき、下駄箱の上に並んでいる土産物の間に小さなプラスチック製のおもちゃがあるのを見つけた。指先でつまんで持ち上げると、お菓子のおまけについているような、花の形の小さなブローチだった。安っぽい色とデザインである。
 このブローチは、主にどちらが所有していたものだろうか。それを見ていると、確かにここで、まだ幼い少女だった彼女たちが生活していたのだと改めて思う。
 ブローチを手のひらに載せたまま、玄関から延びる廊下に目をやる。森野の祖母は先に部屋へ行ってしまい、視界からいなくなっていた。
 僕は立ったまま想像した。
 写真に写っていた人形のような双子の姉妹が、今、僕の目の前に延びている廊下を、並んで歩いている。今度はどういった死体の真似をして人を驚かせようかと、真剣な顔をして、ひそひそと秘密の会話をしている。想像の中の二人は、廊下を突きあたりまで歩いて角を曲がった。
 僕はそれを追いかけるように靴を脱いで家に上がる。彼女たちの消えた先を見たが、当然、だれもそこにはおらず、黒光りする廊下の、静かで少し薄暗い空間があるだけだった。

   † 4

 月曜日の森野は、朝から僕の方を横目で見て気にしていた。田舎で僕が何をしてきたのか聞きたがっているのはあきらかだった。しかし僕は彼女の視線には徹底的に気づかないふりをして一日を過ごした。
 彼女に声をかけたのは、夕方のホームルームで担任の先生が明日の連絡をし、椅子をひいて生徒たちが一斉に立ちあがって学校から解放された後だった。クラスメイトの数人が声をかけてきていっしょに帰らないかという意味の言葉を発したが僕は無視をした。といっても、何の反応も返さなかったわけではない。無意識のうちに頭のどこかで作り出した言い訳を適用して、ごく自然な様子で断ったのだ。自分がどのような言い訳を使ったのか、自分でもわからない。
 僕は内心でクラスメイトなどにどのような関心も抱いてはいなかったが、自動的にそういった作業が行なわれるせいで、波風を立たせないで生活することができた。
 やがてクラスメイトたちの足音が教室から消えて、廊下の遠くへ消え去ると、僕と森野だけが残った。彼女は自分の席に浅く腰掛けており、その姿勢はまるで沈んでいく船のようだった。やや睨むような格好で、じつと僕の方を見ていた。
 僕は静かな教室をゆっくりと横切って彼女のいる席へ近づいた。森野の席は、教室の中で、窓際から三列目、後ろから三列目の位置にある。
「田舎の家に宿泊したらしいわね。祖母が電話で話していたわ」
 森野はあいかわらず睡眠不足らしく、目の下のくまをさらに濃くしていた。
「ごはんがおいしかったよ」
 彼女の前の席に腰掛け、横顔を向ける姿勢をとった。ちょうど正面に、視界の左隅から右隅まで、窓が並んでいた。外はまだ明るく、わずかに黄色味を帯びた空が見えていた。遠くから、どこかの部活のランニングをする掛け声が小さく聞こえてくる。教室の蛍光灯は消されており、窓から入るやわらかい光がすべてだった。
「きみの住んでいた家で、いろいろ聞いてきたよ」
「……たとえば?」
「子供のころに姉妹で行なったいたずらの数々とかさ。そして、怒られても夜は泣かなかったけど、夕はすぐに泣き出して姉の背中に隠れていたということも聞いた」
「あの子はいつも、私を頼ってばかりいたから」
 お互いに黙りこみ、少しの時間、教室内には沈黙だけがあった。空気が、緊張を|孕《はら》んでいた。
 僕は、彼女の方を見て、言った。
「森野夕の、いろいろなことについてわかったよ。細部は、聞達っているかもしれないけど」
 彼女はそれまでの睨むような目つきをやめた。ゆっくりと僕から視線を外し、瞼を閉じる。淡いくまの上で、睫毛が震えているように見えた。
「……悪い予感はしていたの」
 自嘲するような声でそう言うと、何がわかったのかを教えて、と話を促した。
「八歳で夕は死んだ。それから九年がたつわけだね」
 僕は、目を閉じたままの彼女へ話をする。
「九年前のその日、きみは納屋で首吊り死体を発見して、祖母へそのことを知らせた。……しかし、きみは最初から、そこに死体があることを知っていた。本当は、玄関で家族のだれかが帰ってくるのを待っていた。そして家族の目の前で、妹の死をたった今、発見したというふりをした……」
 彼女の反応を見ようと、話を区切る。森野は少し沈黙していたが、それで、とだけ言って続きを聞きたがった。
「きみは、妹の死をあらかじめ知っていた。でも、それを隠そうと演技をしていたんだ。……はたしてどのような場合にそのような心理となるのかを推測すると、ひとつの結論に落ち着く。その結論とはつまり、きみが妹の死に深く関係しているということだ」
 森野は頷いた。僕はさらに続ける。
「夕は、天井の梁から、首を吊る紐と体を支えておく縄の二つを下げていた。ひとつは首に巻き、もうひとつは脇の下に巻いていた」
 八歳の小さな少女が、木箱から飛び降りる。首が吊られたように一瞬は見える。しかし、胸に巻かれた縄で空中に支えられる。
 そこへ、もう一人の、同じ顔の少女が現れる。壁にあった剪定鋏をそっとつかみ、天井からぶら下がっている少女へ近づく。その子の胸に巻かれて天井の梁とつながり、まっすぐ縦に張っている縄を鋏で切断する。
 支えていた縄が切れると、吊られていた少女は今度こそ首でぶら下がる。
「きみは、殺したんだ」
 森野は薄く目を開けた。僕を見てはおらず、視線も定まっていなかった。
「靴跡のこと、聞かなかった? 納屋に、私の靴跡はなかった……」
 裸足でぶら下がっていたという少女の姿を思い浮かべる。当時、納屋の中の地面は、天井からの水滴で柔らかくなっていた。
「いいや、きみはあの納屋の中に、しっかりと靴跡を残していた。ただ、みんなは真実に気づいていなかっただけだ。きみは縄を切って一人の少女を殺害した後、地面にできた自分の靴跡に気づいた。そこで、ただその場を立ち去ったのでは疑われるかもしれないと思い、偽装をすることにした……」
 自分の作り出した首吊り死体を見上げ、地面についてしまった自分の靴跡を見下ろし、幼い少女は窮地に立たされたことを知った。しかし、地面にそろえて置かれている靴が目に入ったとき、決心をしたのだろう。
 それまで履いていた自分の靴を脱いで、転がっていた木箱に乗る。それ以上、自分の足跡を残さないように注意しながら、そろえて置かれていた靴を履く。かわりに、先ほど脱いだ自分の靴をその場に残していくことで、靴跡は自分のものではなくなった。
「後は、犬の戸口を通りぬけて外へ出た。その辺りの地面は乾いていて、足跡がつかないようになっていたからだ」
 彼女はようやくはっきりと目を開けて、僕に視線を定めた。
「私が彼女を殺した動機は?」
「憎しみだよ」
 僕が短く答えると、森野は悲しそうな顔をした。
「……あなたがさっき、『森野夕のいろいろなことについてわかった』って言ったとき、気づいた。もうばれてるって」
 僕は頷く。
 疑問に思ったのだ。彼女の祖母が玄関を開けて、そこにいたのがすぐに夜のほうだと気づいたのは不思議なことだ。双子で、同じ顔をしているのに、一目で判断できるわけがない。しかし、彼女が黒い靴をそのときに履いていたのであれは、すぐに区別はついたはずだ。
「九年間、みんなにだまっていたのは辛かったろう、森野夕」
 それが彼女の本当の名前だ。

 数人の女子生徒が楽しそうに笑いながら廊下を駆けていった。森野夕は少しの間、その声へ耳をかたむけるようにじっとしていた。笑い声はやがて、廊下に反響する小さな音となり聞こえなくなった。
「あなたの言う通り」
 彼女は口を開く。
「私は妹のほう。いつも姉に命令されて、泣かされていたのが私よ……」
 首を傾げて、問うような視線を向けた。
「なぜ、わかったの?」
「夕は首吊り自殺をするときに、靴を脱ぐ習慣があることを知らなかった。そのことに気づいたからだよ。かつて首吊りの遊びをするときに、夜から教えてもらっていたかもしれないが、おそらく忘れていたに違いない……」
 彼女の家で見た絵のことを説明する。納屋で首吊りをして遊ぶ様を描いた絵である。
「あの絵はたしか、九年前の夏休みに描いたものだったね。夜の死ぬ直前だ。ということは、あの絵から窺い知ることのできる描き手の人格が、そのまま事件の起きた日の人格でもあったといえる」
 夜も夕も、同じ場面を描いていた。しかし、違っている所がいくつかあった。
 夕の絵では、二人の少女は靴を履いていた。しかし夜の絵の少女は、つま先まで肌色で塗りつぶされていた。最初、僕は、夕の方が丁寧に描いていたために、その違いがあるのだと思った。しかし後で考え方を変えた。
 夜の方が、記憶へ忠実に、事実を正しく絵にしていたのではないかと思った。太陽を描いた夕と違い、夜の絵は背景が暗い灰色で塗りつぶされていたことから、その可能性は高かった。
 バス停で森野は、雨の日に首吊りの遊びをしたと語っていた。夜は、靴を描こうとしなかったのではなく、裸足でいる場面を描いているのではないだろうか……。
「きみは.バス停で言ったね。夕よりも自分の方が死の知識に豊富で、残酷な少女だった、と。夜になりきったきみがそう言うのなら、夜という少女はおそらく、首吊り自殺をする者が靴を脱いでそろえてから死ぬのだというおかしな風習も知っていたに違いない」
 双子の姉妹は、首吊りの遊びをするとき、靴を脱いで脇へそろえていただろう。夜はその知識を持っており、首吊り遊びのときにもそうすることにこだわっていたかもしれない。絵の中に知識を反映させることもできただろう。
 しかし、夕はそうではなかった。遊びのときに靴を脱いでそろえたことも、おそらく忘れていたのだ。その知識もなく、絵の中で首吊りをしようとする自分たちに靴を履かせていた。
 それなのに納屋で発見された首吊り死体は裸足だった。夕が一人で死体のふりをしようと思い立ち、純が切れて死んだのであれば、彼女の死体は靴を脱いではいなかったはずだ。
 夕は沈黙して、まるで空気の音を聞くように耳をすませていた。それからゆっくりと唇を開けて、言葉を紡ぎ出す。
「黒い靴を履いていた姉が、死んだの。確かに、そうね、少し姉を憎んでいたかもしれない。でも、あなたの推測は少し違うわ……」
 静かな声だった。
「胸に巻かれていた縄について情報がなかったのね。私は切っていない。自然に切れてしまったのよ……」
 その日、十二時になると、姉の夜が、彼女に提案したそうだ。
 首吊り死体の真似をして、みんなを驚かせよう。
 夕はその提案に乗り、二人いっしょに納屋で作業をした。雨が降り始めたころだったという。そのころは犬も生きており、納屋の中で作業する二人を不思議そうに見ていた。
「姉が木箱を高く積み上げて、天井の梁に紐と縄を巻いた。私は足元で、木箱がぐらつかないように支えていた」
 雨が納屋の地面を柔らかくする前から、夜は箱の上にいた。だから納屋に彼女の靴跡は残らなかったそうだ。
 夜だけが死体のふりをして、夕は納屋までだれかをつれてくる役目だった。作業は進み、やがて夜は、梁から下がっている紐と縄を、それぞれ身につけた。
「そして、姉は飛び降りたの……」
 夜が、乗っていた木箱を蹴って落下する。首が吊られたように見えた瞬間、脇の下に巻いた縄で、空中に吊り下げられる。
 平気な顔で夕を見下ろし、笑ったそうだ。
「口の端を曲げて、人をだますときにいつもしていた微笑みを浮かべていた。姉は、家族と話をするときはいつも無表情だったけど、そういうときだけ、楽しそうにしたわ」
 しかし次の瞬間、縄が自然に切れた。
「私は何もしていない。姉の重みに耐えきれず、勝手に切れたのよ。縄の切れた個所は、天井の梁の近くだった。もしもあなたが、その縄について詳しく知ることができていたなら、解答を修正していたと思う。私には手の届かない高い所で切れてしまっていたのだから」
 夜は、一瞬、首で吊り下がった。
「でも、すぐに私が助けに入った。姉の体を両腕で抱きしめて、支えたの。それより下へ落ちないよう空中で抱きとめた……」
 納屋の中、首で天井から吊り下がった少女を、同じ顔をしたもう一人の少女が必死に支える。吊り下がっている少女はもがき、空中を蹴るように足をがむしゃらに動かして暴れる。そばで紐につながれていた犬は、双子の騒ぎを聞いて、激しく吠えたてた。納屋には、鼓膜が破れそうになるほどの大きな犬の声と、暴れる少女の苦しげな声とが充満した。永遠にその状態が続くように、彼女は感じたそうだ。
「私は、姉を死なせまいと支えていた。力はなかったけれど、姉を後ろから抱きとめて……。でも姉はわめき声をあげてはかりで……、暴れる姉の踵が、何度も私のおなかを蹴り飛ばしたわ……」
 森野はあいかわらず浅く椅子に腰掛けている。視線は遠く、教室の壁よりも向こう側を見ていた。おそらく、喧騒に充ちたあの日の納屋を見ているのだろう。彼女にとっての悪夢である少女の記憶の中にいるのだ。
 夕が力を抜くと、姉の体が下がる。姉の首が絞まる。夜は必死に目をむいて妹へわめきちらしたそうだ。それは、夕を励ます種類の言葉ではなかった。
「姉は私に、しっかりしなさいこのぐずって……」
 彼女は、耐えるように強く目を閉じて眉間にしわをよせた。
「その言葉を聞いた途端、姉を助けようとしていた私の腕から力が抜けていって……」
 夜の体が、ずるずると下へおりていく。
 地面から少し上の位置で落下をやめたつま先を、夕は見た。夜は靴を履いておらず、裸足だった。ひきつれるように、足の親指と人差し指との間が大きく開いていた。がくん、がくん、と、最初、動いていた。犬が激しくわめき、耳を|劈《つんざ》いていた。痙攣とその声とが頭の中に染みついた。
「やがて力が抜けきったように、ゆっくりと姉のつま先は空中で動きを止めたのよ……」
 夕は一歩、後ろへ下がった。粘土のような地面に張りついていた靴底が、剥がれる感触……。地面に靴跡が残っていた。
「きっと、私ひとりの体重だったら、あの地面に靴跡なんてつかなかったと思う」
 かたわらに、そろえて置いた姉の靴があった。
「それを見て、みんなに嘘をつく決心をしたときのことは、よく覚えているわ。あの小さな納屋の中で、まだ姉の体は少しだけゆれていて、時計の振り子のようだった……」
 幼い少女は小さな頭で懸命に考え、一本の道を見出す。そろえて置かれていた黒い靴に履き替えて、それまで履いていた自分の白い靴をかわりに残していくことにしたのだ。
 乾いた地面を選んで移動し、犬用の戸口から出た。新たに履いた靴は黒色で、その色は、夜であることを示すものだった。自分は夜だと言って振舞うしかなくなった。
「家族の前で、それまでのように笑うのをやめて、姉のように無表情でいつづけていれは良かった。いつもいっしょだったから、姉の癖を知っていて、真似ができた。私が夕だということに、九年間、だれも気づかなかったの……」
 彼女はそこまで言うと、疲れたように深く息を吐き出した。
 八歳の彼女は、自分の葬式を見たのだ。自分の本名を言わず、一人でこれまで生きてきた。彼女の内側でだれにも知られずたまっていった手首を切らせるほどの激しい感情、その根源は、姉や、埋葬された自分の名前のことだったに違いない。幼い少女が歩むことを決意した道は、少女の全存在をかけて歩かねはならないような、孤独と悲壮とに満ちていたのだろう。
 窓から入る光はしだいにやわらかく、金色を増していく。半端に閉められた薄い黄色のカーテンが、傾いた太陽を透かしていた。野球部の金属バットがボールを打つときの甲高い音、それが空に響き渡り、消える。他にだれもいない教室内は、静かな時間が流れている。
 やがて、言うか言うまいかを|躊躇《ためら》うように彼女は口を開いた。
「……はじめてあなたと会ったのが、いつ、どこでだったか覚えている?」
 高校二年の、この教室だと思っていた。そう答えると、彼女はわずかに残念そうな顔をした。
「中学のとき、人間の輪切りが展示してある博物館であなたを見かけたの。その次は、高校に入学した春。図書館で、死体解剖の医学書をあなたは読んでいた。あのときの人だと、私はすぐに気づいたのよ」
 だから、教室で僕が演技しているとすぐにわかったのだ。僕は腑に落ちた。お互いに、周囲へ隠していた自分の正体を見つけあったことになる。
「きみが昔、夕だったころ、ときどきはおかしそうに笑っていたというのが信じられないな」
「確かに、そうね。昔はそうだった。でも、あの納屋を出て以来ずっと、笑ったら、私が夕だってことがばれると思っていた。だから九年間、いつも無表情にしていたの。長いこと姉の真似をしていたから、私はもう、素直に笑うことなんてできないわ」
 彼女は、ほとんど他人からはわからない程度の寂しさを含んでそう言った。僕から視線を外して言葉を続ける。
「最初に私の名前を呼ぶのは、あなたなんじゃないかと思っていたの……」
 僕は立ちあがった。
「きみに贈りたいものがある。きみの田舎から、勝手に持ち出してきたものだ」
 自分の机に置いた鞄から、それを取り出す。
「何?」
 彼女は浅く椅子に腰掛けたままたずねた。
「きみがずっと探し求めていた紐だよ。たぶん、首に合うはずだ。僕が巻くから目を閉じて」
 森野は椅子の上で目を閉じた。僕が背後に立つと、小さな肩が固くなり、やや緊張する様子を見せた。
 彼女の首に、そっと、赤い紐を巻きつける。ところどころほつれた古い紐で、それはあの納屋の壁にかかっていた犬用のものだった。
「きみが犬を嫌う理由もわかった」
 僕は、彼女の白く細い首と、長い髪の毛とを、いっしょに紐の中へとじこめて軽く絞めた。その圧迫を受けて、少し彼女の肩が上がった。その状態で一度、僕は動きを止めた。
 それから紐を結び、余った部分を後ろに垂らす。
「そう、この感じ……」
 彼女はため息をつくように言った。緊張が解け、彼女の内側にあるものが、やわらかく、静かに解き放たれていくのがわかった。
 夜は、犬用の紐で首を吊って死んだ……。彼女は記憶の奥底で、このことを封印していたのだろうか。自分の求めていたものが、かつて姉との首吊り遊びで使っていた紐だったということに気づいていない。
「ねえ、私は姉さんを憎んでなんかいなかった……。ときどきひどいことをされたけど、それでも姉さんは、かけがえのない存在だったのよ……」
 僕は鞄を片手に持って、帰ることにする。
 教室を出る前、彼女の席のそばを通りすぎるとき、僕は夕を一度、振りかえった。椅子に浅く腰掛けた彼女は、両足を伸ばして前の席まで突き出している。両手を胸の上で組んでおり、首に巻きつけた赤い紐は、両端を教室の床に垂らしている。
 やわらかく瞼をおろし、睫毛の陰が薄く目の下に落ちている。頬には産毛があり、兎の背中のようだった。傾いた太陽に照らされて産毛が輝き、光を纏ったように見える。涙が頬の上を伝って、顎先から制服に落ちた。
 僕は彼女を一人で残し、教室の扉を静かに閉めた。
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Ⅴ 土 Grave
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   † 1

「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」
 コウスケが佐伯を呼んだ。いつもは無邪気で楽しげな声を出す子だったが、今日は元気がなかった。コウスケは近所に住む幼稚園に入ったばかりの小さな男の子である。
「……どうしました?」
 佐伯は庭で、朝顔の花を愛でながら返事をする。夏の、朝早い時刻だった。花弁に細かな露がついて光っている。ラジオ体操へ向かう小学生たちが、庭を囲む塀の向こう側を通りすぎた。塀は佐伯の胸の高さまであり子供たちの姿は見えないが、複数の小さな足音と声が聞こえた。
「お兄ちゃん、お父さんはまだ怒ってるかな」
 彼は昨日の夕方頃、泣き顔で佐伯の家にきた。それからずっと、家には戻っていない。理由をたずねると、彼は涙声で、父親の大切にしていた骨董品の置物を落として壊してしまったことを説明した。日ごろから触ってはいけないと厳しく言われていたにもかかわらず、彼は好奇心に負けて、触れてしまったらしい。
「きっと、もう怒っていないと思いますよ」
 昨日の夜、彼の両親が佐伯のうちへ来たときのことを話して聞かせる。玄関で応対した彼の親は、『うちのコウスケを見ませんでしたか』と、心配そうな表情で佐伯に尋ねた。佐伯はそのとき、首を横に振って知らないふりをした。さらに、彼らと一緒に近所を歩いてコウスケを探す手伝いもした。
「本当に怒ってないと思う……?」
「ええ……」
 目の前に咲いている朝顔の草は、地面に突き立った竹に巻きついている。乾燥して薄い茶色になった竹である。
 佐伯の住む家は古い一軒家で、周囲に並んでいる家と比べて広い庭を持っている。ほぼ正方形の敷地の、東側の辺に接して家と車庫が並んでいる。それ以外の空いた空間は、様々な木々で占められていた。ちょうど夏の今の時期、それらが高く葉を茂らせている。
 佐伯は子供のころから、植物を育てるのが好きだった。朝顔は、そのような庭の、塀に沿った場所に咲かせていた。
 今日も空が晴れていた。次第に高くなっていく太陽を遮る雲はない。朝顔の巻きついた数本の竹の影が、塀と庭木の間から差しこむ朝日のため、まっすぐな黒い線として伸びていた。
 コウスケの泣き出す声が聞こえた。
 昨日の夕方、コウスケがうちに来て、隠れさせてほしいと言ったとき、佐伯はすぐに彼を家の中に通した。道に顔を突き出し、だれにもその様子を見られていなかったか確認して玄関を閉めた。
「コウくんは、お兄ちゃんのうちにくることを、本当にだれにも教えていないのですね?」
 念を押してたずねると、彼は涙を拭いながら小さな頭を縦に振った。子供の言うことを、どれだけ信じられるだろう。しかし、そのときの佐伯は、この機会を逃してはいけないと思った。
 以前からコウスケといっしょに蝉取りをしたり、空き箱で工作するのを眺めたりするときに、頭の片隅をよぎるものがあったのだ。それは、決して近づいてはいけない自分の妄想だった。恐ろしい計画で、そのようなことをときどき考えてしまう自分に嫌悪した。しかし昨日の自分は、まるで頭に霞がかかったようになっていた……。
「お兄ちゃん、ぼく、お父さんにあやまったほうがいいのかな……」
 佐伯は胸がつぶれそうになる。コウスケは今の自分の状況がわかっていないのだ。自分は彼に、かわいそうなことをしてしまった。
 彼が憎かったわけではない。家族をなくして家に一人きりで住んでいる自分は、コウスケを本当の弟のように思って接してきた。彼の両親が出かけるときも子守りをひきうけ、一緒に散歩をした。彼の両親と同じくらいに愛情を抱いていたはずである。それなのに、なぜこのようなことをしてしまったのだろう。しかし、もう時間は戻らないのだ。
「……コウくんは、もう家に帰ることはできません」
 佐伯の声は思いのほか震えた。
 庭に咲いているいくつかの朝顔は、それぞれ一本ずつ親木として添えた竹に巻きついている。それらの竹のうちの二本だけが、他のものよりもわずかに径が大きい。
 コウスケは、震える声を聞いて、佐伯の様子がおかしいと気づいたのだろう。
「お兄ちゃん、どうしたの……?」
 彼の問いかける声が、地面に突き立った太い竹の先端から聞こえてくる。中は|刳《く》りぬいており、地面に埋めた棺桶の中の物音を、上に立っている佐伯のもとまで届けるようになっている。コウスケは今、自分が地中に埋められていることを知らないでいる。それが憐れでならない。
 昨日、コウスケを家にあげた後、佐伯は決心して奥の部屋へ通した。
「この箱に隠れるといいですよ」
 そう言いながら、部屋に置いていた箱を指差した。縦長の直方体で、コウスケが中でちょうど寝転がることのできる大きさである。
 コウスケは佐伯の言うことを普段からよく聞いた。そのときも、怒った父親の影に怯えるはかりで、佐伯に対しては何の疑いも抱かず自ら箱の中へ隠れた。
 コウスケは気づいていなかったが、その箱は以前から自作していた棺桶だった。佐伯はそれに蓋をすると、釘付けをした。棺桶の蓋には、あらかじめ二つの空気穴を開けていた。それぞれの位置は、中で寝転がっているコウスケの、頭の上あたりと、足元のあたりである。中に閉じ込められても呼吸だけはできた。
 コウスケの入った棺桶を部屋に残して、庭へ行く。縁側のちょうど正面、塀の手前に、昨夜、掘ったばかりの穴があった。それをスコップで少し大きくするだけで、コウスケの入った箱を埋められる程度の穴ができた。
 その作業が終わると、再度、部屋に戻り、棺桶を穴のある場所まで選んだ。その最中、箱の中のコウスケには、父親に決して見つからない場所へ運んでいるのだと説明した。棺桶を縁側から苦労して庭に下ろし、穴まで運んで、その中に横たえる。
 中を刳りぬいて筒状にした竹を、蓋の空気穴へ通した。後はスコップで上に土をかぶせると、コウスケは完全に地中へ埋まった。
 二本の竹筒が何もない地面に立っている様は不自然な気がした。そこで、別の場所に育てていた朝顔を数株、親木として差していた竹の棒といっしょに、塀のそばへ移動させた。そのうちの二株を、それまで巻きついていた竹の棒から丁寧に蔓を解いて、コウスケの呼吸を約束している竹筒へ巻きなおした。これで竹筒は、何も知らない人間にとって、朝顔を支える親木としか思えないだろう。
「お兄ちゃん、どうしたの? ねえ、ぼくうちに帰りたいよ……」
 竹筒が、喋った。
 生き埋めにされたコウスケがかわいそうだった。それでいて自分の手は冷静に竹をつかみ、間違って倒れないようぐっと地面に突き刺してまっすぐにしている。
 自分はどうしてしまったのだろう。確かに自分は、この子へ愛情を抱いていたはずである。以前、コウスケが佐伯の見ている前で車に|轢《ひ》かれそうになったことがある。ボールを追いかけるのに夢中で、走ってきた車に気づかなかったのだ。コウスケにぶつかる直前で車が急停止したとき、佐伯は安堵のため、その場に座りこんだ。しかし今、自分が少年に対して行なっていることは、いったい何なのだろう。
 子供のころから佐伯は、今の家に住んでいた。当時は両親と祖母が一緒に暮らしており、共働きの両親よりも祖母になついていた。まわりの子供が野球やプラモデルで遊んでいるとき、自分だけは祖母といっしょに花を育てていたのを覚えている。植木鉢にスコップで黒い土を入れ、花の種を埋める。そのような佐伯を、よくクラスメイトたちは、女みたいだと馬鹿にした。線の細い佐伯は、確かに女の子と聞達われることが多かった。そのことでよく、傷ついた。
 しかし祖母は、並んでいる鉢植えに如《じょ》雨《う》露《ろ》を使って丁寧に水をかける佐伯へ、やさしい子だねと言ってくれた。佐伯は落ちこむたびに、その言葉を思い出した。そして、決して祖母の気持ちを裏切らないよう正しく生きようとした。
 しかし、いつごろから、生き物を埋める、という妄想に取りつかれたのだろう。気づくと頭の中に、自分がそうしている映像はかりが浮かんでいた。
 庭に水を撒くのが好きで、晴れた日には、よくそうした。ゴムホースを伸ばして、口の部分を指で平たく押しつける。すると水圧で水が遠くまで飛んだ。扇形に水が広がり、庭の木々に当たって弾け、光を反射した。それを見た瞬間、あるいは祖母が微笑んでいるのを見る瞬間、世界が明るく照らされているような、晴れ晴れとした気分になった。
 同時に、心の深い、光も差さないほどの暗い部分で、例えば祖母を箱に閉じ込めて地面に埋めることを考えた。そのようなことを考えている自分が、一瞬の後に許せなくなる。なぜそういった悪魔のような想像をしたのかと動揺した。まともに祖母の顔を見ることのできないときもあった。自分が想像したことを|覚《さと》られるようで、恐ろしかったのだ。
 何か、自分がこうなる原因となった心の傷でもあるのだろうか。思い当たる節はないが、忘れているだけかもしれない。それともあるいは、もっともこれは恐ろしいことだが、自分は最初からそういった人間として生まれついているのだろうか……。
 佐伯が成人して数年が経過したころ、両親と祖母は交通事故で死んだ。就職先で、佐伯はそのことを知らされた。
 それまでは家族の姿が家の中にあり、彼らと触れ合うことによって、自分の社会的立場を振り返らされていた。しかし家で一人になると、想像を想像のままとどめさせておくものが、なくなったように思えた。佐伯は毎日、職場を出て家に戻ると、話し相手のいないまま同じことを考え続けた。子供のころから度々、頭に浮上してくる妄想だった。考えるだけでもいけないことだ、と頭を振って自らを戒めようとした。その反動のためか、造園の趣味に熱がこもった。
 家族のいたときは、せいぜい鉢で植物を栽培したり、庭木の手入れをしたりするだけだった。そこに手間をかけはじめ、よそから植木用の土を運んで庭の土質の改造を行ない、塀の内側に庭木を少しずつ増やしていった。
 佐伯は一年中、木を植えるための穴をスコップで掘り続けた。職場にいないとき、佐伯の唯一の生活がそれだった。同い年の人間が興味を持つどんなことにも関心を示さず、ただ一人きりで庭に穴を掘り、それがすむと木を植えた。
 やがて、家の周囲と塀の内側までの余分にあった敷地を木が覆った。塀の外から頭を突き出して中を覗いても、林立する木のためにほとんど家は見えなかった。ただ一ケ所、縁側から見える景色だけにはこだわったため、その辺りだけ木が植えられず、塀から家までの間に障害物はなかった。その空間には花壇が作られ、季節ごとに鮮やかな花が咲いた。
 佐伯は当初、木を増やすために自分は穴を掘り続けていると思っていた。しかし途中から、掘った穴に対して何か存在の理由をつけるために木を植えていたという方が正しかった。最終的に、穴だけ掘って、また埋めなおすという作業を行なった。庭の大部分に木が植えられ、もはや枝を伸ばす場所などなかったから、木を増やすことが困難になっていたのだ。それでも穴を掘り続けていたのは、そうすることによって地中に人間を埋めるという妄想の霞が晴れそうだったからである。事実、穴を掘るという作業は、佐伯の頭から何もかもを忘れさせた。しかしそれも、スコップの先端が土に刺さり感触が手にくる、その一瞬のみだった。
 掘り終えた後、何も埋めないまま土を戻すという作業には、いつも空虚なものを感じた。妄想から目を背けて無意味な穴を掘るほど、その後に残る頭の霞は濃くなっていくようだった。しかしそれでも穴を掘って忘れないわけにはいかず、コウスケを埋めるとき、前夜に掘った穴がまだ残っていたのはそのためだった。
 近所の住人は、夜毎に聞こえるスコップの音を聞いても、奇妙なことだと思ってはいないようだった。佐伯の顔を見ると、みんな会釈をして、たまに植物の栽培方法を尋ねるものもいた。みんなは佐伯の造園の趣味を知っており、不審に思うよりもむしろ、家族を亡くして趣味だけが残された人として同情しているようだった。
 コウスケと親しくなったのは、家族を失った二年後のことで、今から一年前だった。彼が庭へ迷いこんできたのがきっかけだった。お互いすぐに仲良くなり、その家族ともいっしょに出かけるほどの仲になった。
 コウスケと知り合って十ヶ月ほど経過したとき、佐伯はふと車庫の中に、コウスケの背丈と同じ程度の大きさをした木の板があるのを見つけた。棺桶を作るのにちょうど良さそうだ、と一瞬、考えた。
 そのときは頭を振り、そう考えた自分に怒りさえ感じたが、次の日から棺桶作りをはじめた。自分はなぜこのように馬鹿なことをしているのだろうかと苦笑した。実際に使うことなど永久にないのだ。そのくせ、手は佐伯の頭を群れて半ば自動的に木の板へ釘を打ち、箱の形へと仕上げていった。
「お兄ちゃん、ぼく、うちへ帰るよ、ここから出して……」
 竹筒の先端から、コウスケの泣き声が聞こえる。まっすぐ立っている筒の中は、暗く、陰になっている。その中を通りぬける幼い声は、反響し、くぐもって地上に届く。
 佐伯は、もはやコウスケに対してどう声をかければいいのかわからなかった。かわいそうに……、かわいそうに……。憐れで、そう繰り返すしかできなかった。手が、いつのまにかゴムホースを握っていた。家のそばにある蛇口へと、それはつながっている。
 夏の暑さが強くなっていく。蝉の声が、頭上から降ってくる。熱気が首の辺りから次第に体を包んでいった。地面は日差しに焼かれて乾燥し、白くなっている。
 そこに一筋、水の線が伸びてきて、佐伯の履いているサンダルのつま先をかすめて過ぎた。水の線は、コウスケの埋まっている辺りから伸びていた。竹筒のうち一本の先端から水が溢れ、巻きついている朝顔を濡らしながら地面に水溜りを作っている。空気穴に通した竹筒だった。
 もう一本の筒の先端には、ゴムホースがはまっている。佐伯はそれを見て、ようやく自分のしていることをはっきりと覚った。といっても、それまで無意識ずくで行動していたわけではなかった。
 自分が竹筒にホースをつけて蛇口をひねり、地中にある箱の中を水で満たそうとしていることは把握していた。ただ、ぼんやりと自分が夢の中にいるような気持ちで、普通の人間にはあるはずの良心は機能していなかった。
 水は棺桶の中に充満し、行き場を失った未に、水圧で押し上げられてもうひとつの簡から溢れ出てくる。夏の太陽が、筒先から噴水のように溢れる水へ反射して輝く。佐伯は不意に、綺麗だと思った。蝉の声に混じり、ラジオ体操から戻ってくる子供たちの声が、塀の向こう側から聞こえてくる。さきほど開いたときとは反対から近づいて、通りすぎる。コウスケの声はもはや聞こえなくなった。朝顔の花弁に皺がより、枯れはじめていた。

 気づくと、三年が経過していた。
 その間、警察につかまるようなことはなかった。コウスケの両親は悲しそうな顔で引っ越しをし、佐伯は去っていく二人を見送った唯一の人間となった。だれも、佐伯がコケスケを殺したなどとは思っておらず、むしろ少年の失踪でもっとも悲しんだ人間のうちの一人として近所では思われていた。
 特別に演技をしていたわけではなく、悲しみは本心だった。しかし、良心の咎めから、子供を失った親が泣いているのをまともに見てはいられなかった。清らかな涙を前に、自分の行なったことの恐ろしさだけ際立つ気がした。
 三年間、いつか自分の行なったことがだれかに見つかるのだと不安に怯えながら過ごしていた。その間、コウスケの埋まっている辺りの地面に、決して佐伯は近寄らなかった。結果としてそこには雑草が茂ることとなった。朝顔は、枯れた後、散らばった種から芽が出て、雑草に混じって再び育っている。コウスケの住んでいた家へは、新たに家族が引っ越していた。
 今年の初夏のことだ。ある家の主婦が回覧板を持って佐伯のうちへ来た。玄関先で彼女と、そのころワイドショーで騒がれていた連続少女惨殺事件について話をした。しばらくすると、話題は行方不明となったコウスケのことに転じた。
「コウスケくんがいなくなってもう三年ですね。佐伯さん、仲良くしていらっしゃったから、寂しいでしょう」
 佐伯は緊張したが、コウスケの幼い笑った顔を思い出し、悲しくなった。自分の手で地中で溺死させたくせに、寂しくて会いたくなるという屈折した精神を、ときどきおぞましく思った。
 厳粛な気持ちで佐伯は頷いた。しかし、ふと顔を上げて主婦の顔を見たとき、不思議な気持ちになった。彼女は、特に悲しんでいる様子を見せておらず、いつのまにか話題は、暑くなって鳴き始めた蝉のことへと変わっていた。もうコウスケのことは、世間では過去のことなのだと思った。
 数日後、気づくとまた新たに木の板と釘を購入して人間を入れるための箱を作っていた。道を歩いている人間から、塀越しに作業を見られてはいけないため、箱の製作は家の中で行なった。のこぎりで板を切断し、散らばる細かい木屑が、作業場のかわりとしている和室の畳を覆った。
 自分はまた、新たに罪を重ねようとしているのだ。人間を地中へ埋めるという恐ろしい考えは、コウスケを埋めてから後も、たびたび頭をよぎっていた。それでいて三年間、実行を踏みとどまらせていたのは、良心の呵責と、それを上回る恐怖だった。コウスケのことがだれかに気づかれることが恐かった。
 しかし、回覧板を持ってきた主婦の表情を見て、胸の奥深いところに住む、黒い凶暴な動物が、もぞりと身動きした。その動物はしばらく隠れるように身を潜ませていたが、もはや眠りから覚めたように瞼を大きく広げて、佐伯の体を恐ろしい計画のために再び操っていた。佐伯は板に釘を打ち付けて棺桶を作製しながら、その黒く醜い自分の内に住む化け物が口を開けているのを感じた。
 窓を閉めきっていたため、熱気が部屋に充満し、うつむいて作業する佐伯の鼻先から、汗が落下した。体中が熱かった。
 やがて完成した棺桶は、コウスケを入れたものよりも大きなものだった。そのとき中は空だったが、佐伯は人間が入って横たわっている様を容易に頭へ思い描くことができた。
 庭へ穴を掘った。場所は縁側の正面、塀のそばの地面で、コクスケの埋まっている場所から一メートル離れた隣である。その日以降、朝に縁側へ立ってその方向を眺めると、人間の棺桶が入る程度の大きな窪みが、暗い穴となって影を湛えているのが見えた。
 地中へ埋める二人目の人物は、だれがいいだろう。佐伯は慎重に選び、そうしているうちに数ヶ月が過ぎた。棺桶を作製したときは初夏で、日ごとに暑くなっていく気温のことを、いつも職場の同僚と話していた。それが今では、夜が冷えこむという話題に変わっている。普段着の袖も長くなっていた。
 いつのまに夏が過ぎ去ったのかわからない。佐伯はその間、なんとか自分の新たな凶行を思いとどまらせようとする良心と、新たな獲物を探して舌なめずりしている狂った暗黒の部分とが胸の内で戦っているのを感じていた。しかしそのような内面は表に決して現れず、まわりから見た自分はどうやらいつも通りの自分らしい。まるで自動的に動く機械にでもなったように、それまでと同じ日常生活を問題なく処理していた。
 十月末の、金曜夜のことだった。佐伯は職場を出て駐車場に止めていた車へ乗りこむと、家に向けてアクセルを踏んだ。辺りはすでに暗かった。ヘッドライトをつけた車の列に入って進みながら、自然と目が歩道を歩いている人間に向いた。一瞬の後、自分がまるで品定めをするように人を見ていたことに気づいて動揺する。そのようなとき、ルームミラーに写っている自分の表情には、どんな感情も見えない。目の黒い部分が、まるで小さな穴になっているように思える。
 いつも職場では、物静かで分別のある人間としての扱いを受けていた。家から持ってきた花を飾り、上司からまかされた仕事に対して不満をもらすことなく処理していた。そのうちに人望もできて、周囲から信頼の目で見られるようになった。しかし彼らは、佐伯が一人の子供を殺した人間であることを知らない。
 家に近い場所までくると、車を左折させて人通りの少ない道に入る。
 そこで佐伯は、その少女を見た。
 彼女は道の端を歩いていた。ヘッドライトに照らされて、後姿が浮かんだ。黒い制服を身にまとい、長い髪の毛が背中に垂れていた。
 少女の脇を通りすぎ、佐伯は無意識にスピードを落とした。少女の髪が、目に焼き付いていた。体ごと吸い込まれてしまいそうな、黒色の髪の毛だった。
 フロントガラスの隅を見上げると、満月が夜空に浮かんでいた。雲はかかっておらず、周囲は静かに降ってくる白い月光で薄く照らされていた。住宅地の中にある、公園のそばだった。並んでいる並木は半分以上、葉を落としている。
 十字路を右へ曲がってすぐのところに車を止めた。ヘッドライトを消してミラーを確認し、少女が来るのを待った。
 少女が十字路をまっすぐ進むか、左手に曲がるかしたら、車を発進させて帰宅しよう。明日は休暇である。ゆっくりと眠り、体を休めることにしよう。
 しかし、もしも少女が自分のいる方へ曲がってきたら……。
 枯れ葉が一枚、落ちてきた。運転席のガラスに当たって路上に着地する。先日、家にまわってきた回覧板のことを思い出す。今いるこの道の落ち葉掃除について記述があった。日時は、たしか今日の夕方だったはずだ。それにしては、道の上にところどころ枯れ葉が散らかっている。しかし、朝にこの道を通ったときは一面に枯れ葉が積もっていたのだから、綺麗になったほうだろう。そう考えているうちに、また一枚、枯れ葉が静かに落ちて、今度はフロントガラスのワイパーの上に載った。
 何も物音はなく、車の中で佐伯はハンドルを強く握り締めたまま待った。ミラーの中に、さきほど曲がってきた十字路が写っている。月に薄く照らされたそこに、やがて少女が現れた。

   † 2

 自宅の車庫に車を入れると、佐伯はシャッターを下ろした。静かな夜の住宅地に、金属製のシャッターのやかましい音が響く。車庫の正面に立って、厚く降り積もっている枯れ葉を見下ろした。植え続けた木は車庫のすぐそばまで密集しており、覆い包むように枝を伸ばしている。そのため葉が落ちると、車庫は落ち葉の中へ埋もれるような姿となる。そのうちに箒で掃かなければいけない。
 両親と祖母が死に、家で一人になってからは、掃除や洗濯をすべて佐伯がしなければならなくなった。生活を送る上での、そういった様々な作業をするときに、自分は一人なのだと思い出す。
 先日、結婚した同僚は、のりのついたシャツを着て職場に現れた。上司は自分の机で、時折、子供と写った写真を眺めている。
「佐伯さんはご結婚されないのですか?」
 同じ課にいる後輩の女性にそう聞かれたことがある。
 自分には無理だと思っていた。恋人、親友、家族、それらはすべて遠い場所にあり、手は届かない。職場で人と差し障りのない会話をすることはできる。しかし、深いつながりを持てるという自信はない。
 自分の抱えている悩みを秘密にしていると、無意識に人との接触の中で、他人を近づけさせない壁を作ってしまう。この恐ろしい悩みを打ち明けられる存在などこの世にいるわけがないのだ。
 冷たい風が首筋をなでた。昨日よりも一段と冷えている。佐伯は体を忍ばせながら、風に吹かれて地面を流れていく枯れ葉に目を落とす。しかし、寒さは冬が近づいているという理由のみではなかった。佐伯は、自分が背広の上着を脱いだままで立っていることに気づく。自分のワイシャツが皺だらけなのを見て、新婚の同僚の幸福そうな顔を思い出す。彼のシャツはいつもアイロンがけされている。
 他人のことは考えまいと頭を振り、佐伯は車庫の中へ入った。車庫の側面の壁に扉があり、そこを通る。車に近づき、後部座席のドアを開け、そこに置いていた背広の上着を手に取った。裏生地についている汚れに気づく。おそらく血が染みこんでしまったのだろう。佐伯は、鼻や唇から血を流して後部座席に横たわっている少女を見下ろし、そう思った。家の近所でだれかとすれ違った場合、後部座席に寝かせている少女の姿を見られてはいけなかった。だから念のために上着をかぶせて隠していたのだ。
 少女はまだ気絶しているらしく、動かない。体を丸めた格好で、長い髪の毛がベールのように顔を隠して車内の床に下がっている。少女が抵抗しなければ、傷つけることもなかった。佐伯は、手の甲をさすりながらそう思った。手に、少女の爪あとが赤い線となって残っている。
 組みついた瞬間、彼女は大きな叫び声をあげた。声は静かな夜空を震わせて、その周辺にいたすべての人間に聞こえたことだろう。
 それからどうなったのか容易には思い出せない。気づくと少女の顔を幾度もぶっていた。ぐったりとして、すでに少女は動いていないというのに、手を振り下ろして頬を張り飛ばしていたのだ。少女を後部座席に押し込んで上着をかけると、エンジンをかけてアクセルを踏んだ。
 佐伯は子供のころから、ほとんどだれにも暴力を振るうことなどなかった。テレビで児童虐待のニュースが流れると、胸に嫌悪感が広がった。しかし今、そのような自分が少女の顔をぶって怪我をさせている。そのときの感触は、まだ手に残っている。まるで、細かい虫が隙間なく手を覆い、ざわざわと這いまわっているようだった。恐ろしくて振り払おうとしても、それはなかなか消えてくれなかった。
 佐伯は少女を抱き上げて車内から運び出した。家の奥の部屋に向かって歩く。少女を抱えている姿が影絵となって窓や障子に映らないよう、家の電気は消したままだった。月明かりの中で、抱えている少女の腕と髪の毛が垂れ下がって揺れていた。木屑の散らかっている部屋に到着すると、作製したままの状態で放っていた棺桶に少女を寝かせた。
 頭の先から足の先まで、長方形の枠にぴたりと収まった。まるで少女はあらかじめその箱へ入っていたように感じられた。しかし、鼻や唇から血を流し、ところどころ皮膚が変色しはじめている少女の顔を、佐伯はまともに見ることができなかった。自分の心の暗闇が少女の顔にしっかりと刻印されており、それと向き合うことができなかったのだ。急いで棺桶に蓋をして、釘を打った。蓋にはあらかじめ二つの小さな穴を開けていた。後に呼吸のための筒を通す穴である。
 コウスケを埋めた地面の隣で、少女のための穴は口を開けて待っていた。今日という日が訪れることを予感し、月明かりの中で黒い窪みは待ち焦がれていたのである。掘り出した土が、穴の横で小高い山となっていた。
 棺桶を引っ張って家の中からそこまで移動させた。庭へは、縁側から直接、下りられるようになっていた。人間が一人、入っている棺桶は、重かった。
 穴に棺桶を入れると、呼吸のための竹筒を二本、蓋の穴に通した。それからスコップでひとすくいずつ、土をかぶせていく。最初は棺桶の蓋へ土が落下するたびにばらばらと音をたてていたが、やがて完全に土が覆ってしまうと、音はしなくなった。穴を埋める作業は、意外と時間がかかった。全身に汗が浮き、帰ってきたきり着替えもしていなかったために、職場へ着ていく背広のズボンは泥で汚れてしまった。やがて穴を埋め終えると、スコップで叩いて平らにした。
 コウスケを埋めたときは夏で、朝顔の蔓を筒に巻きつけた。しかし今の季節にそれは無理だろう。朝顔はもともと熱帯性の植物で、寒さには強くない。塀のそばに、雑草へまじって何本か用途不明の茶色の竹が立っていることになるが、それを見ても不審に思う人はいないだろう。夏には朝顔をここで育てており、これらはそれの親木だと説明すれば、だれも疑うまい。
 新しく掘り返した跡が目立たないよう、花壇にかぶせていた藁を持ってきて、筒の周辺に敷き詰める。その作業が終わると、一見して掘り返したように見えなくなった。
 スコップを置いて、佐伯は縁側に座った。しばらくの間、じつと塀のそばにある竹筒を眺める。少女は今、完全に地中へと埋まった。
 縁側と塀を結ぶ庭にだけ木を構えておらず、いくつかの花壇と、洗濯物を干すための物干し台、そして竹筒しか見当たらない。しかし縁側から離れた両端は、木々が立ち並んで、夜になるとほとんど黒い壁のように見える。風が吹いて、その黒い影が身じろぎした。少女を車へ押しこむとき、爪あとのついた手の甲をさする。顔をぶったときの感触はもうほとんど消えていた。その手で顔を触ると、いつのまにか自分が、口元を笑みの形にほころばせているのを知る。
 縁側から家に上がり、少女の持っていた鞄を探った。防犯のための催涙スプレーが中から見つかった。生徒手帳も、鞄に入っていた。表紙をめくったところに顔写真が貼ってある。美しい顔立ちの少女である。
 写真の下に、学年とクラス、出席番号に並んで、『森野夜』という名前が記されていた。佐伯は縁側に立ち、塀のそばに立っている竹筒を見ながら、その名前を心の中でつぶやいた。
 たった今、自分の埋めた人間にも名前というものがあるのだ。そのような当たり前のことに、ようやく気づく。地中に埋めた少女にも親というものがあり、名前を授け、愛情をこめて娘を育てていたのにちがいない。その愛の塊を、自分はついさきほど生き埋めにしてしまったのである。
 頭の中へ、甘い陶酔が広がった。それはまるで、綿へ砂糖水が染みこんでいくようなものだった。殴って怪我をさせた少女が地上にいる間は恐ろしいだけだったが、地中へ埋めて姿が見えなくなった途端、不思議なことに恐怖は甘美な気持ちへと変化する。
 そのとき、かすかな声が、佐伯の耳にまで届いてきた。風にかき消えてしまいそうなほど、小さな声だった。
 佐伯は、塀のそばに立っている教本の竹筒を見た。白い月光が、並んでいる竹筒を闇の中で浮かび上がらせている。地面に黒い影ができており、それは佐伯の座っているほうへ向かってまっすぐ線となって伸びている。数本の竹筒のうち、四本だけが、太い。
 聞こえた小さな声は、そのうち二本の先端からだった。佐伯は立ちあがり、縁側から直接、靴を履いて庭へ降りた。歩いて庭の端に向かう。自分が体を動かしているという気がしなかった。非現実の世界を歩いている夢遊病者になった気がする。月明かりのほかに何もない夜、庭に植えた木々が静かな黒い影となって両側から佐伯を見下ろしている。
 竹筒へ近づき、敷き詰めた藁を踏みしめ、自分の胸辺りまで高さのあるその筒を、上から覗いた。中は暗闇だった。心が空虚になるような闇が、親指ほどの直径の中に見えた。そこから途切れ途切れに、少女の声が筒の内側を震わせて、地上にまで届く。筒から出てきた声は弱々しく、竹筒の先端で風に飛ばされて煙のように消えていく気がした。
 声の出てくる二本の筒には、声の大きさに差があった。棺桶に突き立てた竹筒は二本だが、一本は足元の位置にくるよう通していた。もう一本は顔に近い場所で蓋を貫いている。そのため棺桶の中で声をあげると、顔に近い方に通した竹筒から、多く声が聞こえてくるらしい。
「……だれか……」
 少女の声はかすれ気味だった。切った唇が痛むのか、大きな声を出せないようだ。
「……ここから出して……」
 佐伯は膝を折り曲げて、筒の刺さっている地面に両手のひらをついた。さきほど埋めたばかりで、藁の覆う地面は柔らかい。この下から、確かに声が発生している。気のせいにちがいないが、手のひらが、地中に埋まっている少女の体温を感じてぱっと温かくなったように感じた。
 かわいそうに、なんてこの少女は無力なのだろう。自分の履いているサンダルの裏側よりも、さらに下の方に閉じ込められて呼吸している少女のことを思うと、憐れだった。地中で何もできずに埋まったままの少女を確認し、佐伯は自分の優位を感じた。子犬や子猫を目にしたときのような、胸にこみあげてくるものを覚えた。
「私の声は聞こえますか……」
 佐伯は立ちあがってそう言った。その声は竹筒の中の暗闇に満ちた空気を震わせて少女のもとへ届いたらしい。
「だれ……。そこにだれかいるのね……」
 少女の返事が聞こえる。佐伯がだまっていると、さらに筒の先端から声が地上に出てくる。
「あなたが私をここへ閉じこめたのね……。そして地面に埋めた……」
「……今、いる場所が、地中だとわかっているのですか」
 佐伯は不思議に思って質問した。たった今、棺桶の中で目覚めたのであれば、突然の狭い暗闇に閉じ込められているとしか状況を把握できないはずである。少女は少し沈黙した。
「……土をかぶせる音が聞こえたわ」
「気絶していたのは演技だったのですか」
 路上で気を失わせて以来、ずっと少女は目覚めていないものだと思っていた。いつから起きていたのだろう。佐伯は少女を縛っていなかった。箱へ閉じこめる以前から目覚めていたのであれば、走って逃げようと考えなかったのだろうか。
「……足を怪我しているのですか。だから、逃げようとしなかった」
 佐伯が質問すると、少女は押し黙った。推測が当たったのかもしれない。
「……ここから出しなさい」
 少女は声に怒りを含ませて言った。佐伯は、少女のその態度に驚き、胸を打たれた。泣いて懇願するのではなく、命令するような口調である。地中に埋まって姿は見えないが、この少女の心が持つ貴さを声に感じた。しかしそれでも少女は無力なのだ。
「……ああ、すみません。本当に、ごめんなさい」
 地中にいる少女には見えないだろうが、首を横に振る。
「あなたを外に出しては、私の行なったことが世間に知れ渡るではありませんか。だから無理です」
「あなたは一体、何者なの……? なぜこのようなことをするの……?」
 少女の質問を心の中で反芻する。
 なぜ自分は、彼女を埋めたのか。その疑問の出口が見出せず、一瞬、袋小路に迷いこんだような気がした。しかし、律儀に少女の質問に答えなくていいのだと思いなおし、考えるのをやめた。
「そのようなことは、どうでもいいことですよ」
「ここはどこ……? 山奥……?」
「いいえ、私の家の庭です。あなたはそこへ、埋葬されたのです」
 少女は押し黙った。暗闇しかない小さな空間で、彼女がどのような表情をしているのか想像する。
「埋葬……? 冗談は言わないで。私はまだ生きているわ……」
「死人を埋めてもおもしろくないです」
 非常に当然のことだと思いながら佐伯は口にしたのだが、少女は一瞬、口をつぐんだように黙りこんだ。そして低い声を出す。
「出さなければ、ひどいことになるわよ……」
「だれかがきみを助けにくるとでも、思っているのでしょうか?」
「知り合いがきっと、私を見つけ出してくれるわ……!」
 それまで低い声音で話していた少女は、一転して熱心な声でそう言うと、どこかが痛むのかうめき声をもらして沈黙する。筒の奥から、荒く呼吸をする音だけが聞こえてきた。もしかすると少女は肋骨を痛めており、小さな声を出すのにも背痛を感じるのではないだろうか。佐伯は今の少女の言葉に、奇妙な熱っぽさを感じてそう直感した。
「あなたが信じているというそのお知り合いの方は、男の子ですか?」
 ええ、そうよ。少女はそれだけしか言わなかったが、その男の子とは少女の恋人にちがいないと確信させる響きがあった。
「彼の名前を聞いてもいいですか」
「なぜそんなことを知りたいの?」
「興味があります」
 しばらく沈黙したあと、少女は名前を言った。佐伯は頭にその名を刻みこみながら、少女は嘘の名前を言ったかもしれないとも考えていた。そのような人物など存在しないという可能性もある。しかし、真実を確認する方法はない。
「そのうちに私は、双眼鏡を買おうと思っているのです……」
 夜空にいつのまにか雲が出ていた。風に流されて、月の上に覆い被さる。明日は曇るのかもしれない。
「なぜだかわかりますか……?」
 佐伯は聞いたが、少女は沈黙したままである。
「あなたを失って悲しんでいる彼を、遠くから眺めるためですよ……」
 少女のもとへ、確かにその声は届いたはずだった。しかし彼女は何も返事をせず、黙りこんだままである。幾度か返事をさせようと声をかけてみたが、佐伯の言葉にはもう何も反応せず、ただ筒の奥に、暗く、静かな暗闇があるだけだった。
 怒らせてしまったようだと思い、佐伯は筒のそばから離れた。朝になれば、機嫌も直っているにちがいない。
 車庫へ向かい、車の後部座席を掃除する。少女を乗せた跡があってはいけなかった。車内にはいつも小型の座布団を置いており、少女を寝かせるとき、顔の下にそれをしいていた。おかげで彼女の血は座布団に付着し、シートには染みついていなかった。佐伯は赤黒いものが点々とついた座布団を回収し、床に落ちていた長い髪の毛を集めた。
 掃除を終えて家に上がり、壁の掛け時計を確認するとすでに深夜の二時を過ぎていた。二階の自室へ向かい、布団に包まって眠りにつこうとする。瞼を閉じて夢の入り口を見つけるまでの間、庭の地中で一人、孤独に小さな暗闇へ閉じ込められている少女のことを思った。

 次の日、目覚めるとすでに正午近い時刻になっていた。土曜日だったが、佐伯の働く職場は曜日などほとんど関係がない。土曜も日曜も、同じように勤務しなければいけない。しかし幸い、今日は職場に出なくても良い日だった。
 自室の窓を明けて外を見渡す。子供のころ、その窓からは広々とした町並みを眺めることができた。しかし今は、立ち並ぶ木々の枝葉が邪魔をしている。木の天辺を越えて窺える空の色は灰色だった。冷たい風が目の前にあった木の細枝を揺らし、佐伯の頬に触れて通りすぎる。
 少女のことは昨夜の夢だったのではないだろうかと思い、階段を下りて、縁側に向かった。そこから視線を塀の方に向けると、夢ではなく、確かに現実にあったことだとわかった。
 太い竹筒が四本、細い棒に混じってまっすぐ地面に立っている。四本ということは、二人分だ。自分は確かに昨日、コウスケのいる隣に新しく少女を埋めたのだ。そう確認すると、安堵した。
 少女を車に押しこんだ公園のそばの通りはどうなっているだろう。悲鳴が辺りに響いた。そのことで、近所の住人は通報したのだろうか。また、地中に埋めた少女の親は、帰らない娘のことを心配して、警察に電話をしただろうか。警察はその二つの情報から、まさにあの公園脇の並木道で少女が拉致されたと判断を下したかもしれない。
 佐伯はサンダルを履いて庭に下りた。空腹感があり、少女と少し会話を楽しんだ後で食事に行こうと思っていた。不思議なことだと思う。普通はこのような異常な状況にいるとき、何も喉を通らなくなるのではないだろうか。しかしなぜか、空腹という生きている証を強く感じる。
 竹筒の正面に佐伯は立った。
 いきなり声をかけるのではなく、まずはじっと耳をすませた。筒の奥から何か聞こえないだろうかと思った。物音などはなかったため、佐伯は声をかけてみる。
「……朝です、起きていますか」
 昨晩、別れ際に彼女は、佐伯の声へ反応しなくなった。今朝もそれが続くようであればどうしようかと心配だったが、一瞬の間があって、少女の声が聞こえてきた。
「朝だってことはわかっているわ。この箱の中は暗闇だけど……」
 声が筒の内側を通り抜けて聞こえた後、地面にまっすぐ立っていた筒が何もしないのにぐらついた。竹筒は棺桶の蓋を通して、その内側にもわずかに出ている。それを少女が内側から触っているのだろう。
「顔のそばに、上の方から簡みたいなものが突き出しているわね。手探りでそれがわかったもの。これは私の呼吸のため? 中を覗いたら、筒の向こう側に白い明かりが見えるわ。夜が明けたということね?」
 竹筒は固定しておらず、ただ蓋に開けた穴へ通しただけである。抜こうと思えば簡単に抜ける。内側に突き出している部分を握ってゆらすと、地上に出ている先端は、逆になった振り子のように前後左右へ揺れ動く。
「じっとしていてもらえませんか。筒を動かされては、いけないのです。だれかが見ては、不審に思うでしょう。もしそれ以上、じっとしていないのなら、取り払います。するとあなたは、呼吸できなくなりますよ」
 佐伯がそう言うと、動いていた竹の筒は静止した。
「……あなたの名前は?」
 少女が不意に質問する。
「佐伯、と言います。あなたは、森野さんでしょう……?」
 熟考するような沈黙の後、忌々しそうな声音で少女はつぶやいた。
「佐伯さん、なぜあなたが、私をこんな場所に閉じ込めているのかはわからない……。でも、これは悪いことよ。今すぐ出した方がいいわ……。でなければ、あなたの肩に不幸な黒い鳥が舞い降りてくるでしょう……」
 どこまでも少女は佐伯に屈せず、逆に呪術師が呪いをかけるよう宣言した。彼女は、立場をわかっているのだろうか。わずかに怒りが胸の内に生まれた。
「そんなところにいて、あなたに何ができると言うのですか。あなたは、今日にでも私に溺死させられるのですよ」
「溺死……?」
 ゴムホースで水を流しこんで殺すという計画を少女に説明する。できるだけ意思を挫《くじ》くよう、助かる望みなど一切ないのだということが理解できるよう、丁寧に教えた。
 少女はさすがに絶望という暗い穴の縁から目をそらすことができなくなったのだろう。あるいは、気丈な態度を保つ気力が薄まったのか、声を震わせながら、それでも言いきった。
「あなたに殺されるよりも前に、私は自ら命を断つ……。あなたは私の制服のポケットを調べなかったわね……。それは致命的なミスよ……。この重大さを、後々、あなたは思い知るでしょう……。ポケットにシャープペンシルが入っていて、私はそれで頸動脈を突き破るつもりよ……」
「あなたは、私に殺される前に自殺をすることで、プライドを守ったように感じるのかもしれません。でも、それは違います。同じことですよ。自殺したあなたの死体はそこで腐っていくわけです。だれにも発見されない。地中で永久に一人きりの孤独を突きつけられるわけです」
「いいえ、ちがう。永久に私が発見されないなんてことにはきっとならない。警察も馬鹿ではないでしょうから、そのうちあなたのやったことは明るみにでるわ。数日後のことか、数年後のことかはわからないけれど。それに、私には予感がするの。決して一人では死なないという予感よ」
「一人では死なない?」
「そう、孤独な死は訪れない」
「……それは、だれかと一緒に死ぬということですか? 昨日、あなたが話していた男の子のことを言っているのですか?」
「彼はおそらく、私を一人のままでは死なせないわ」
 箱の中で、泣いているのだろうか。彼女の声は水分を含んでいるように思えたが、どこか確信めいた揺らぎのない意思を奥に秘めていた。
 少女の恋人のことを、最初は鼻で笑うようなつもりで聞いていた。高校生の幼い恋だと思っていた。しかしなぜか今になって、わずかに不安がこみあげてくる。それは水に落とした墨汁の雫のように、黒い雲となって胸に広がっていった。
「私には理解できません……。あなたは、そんな状況にありながらなぜそんなことを言えるのか……。森野さん、あなたはそこで……、地面の中で一人きりで寂しく腐って土になるのですよ……。それ以外にありえない……」
 佐伯はそう言うと少女から離れた。
 少女の言葉を聞いたとき、職場で後輩の女性からされた質問を思い出した。結婚はしないのですか、という質問である。
 自分は、親しい人間や家族といった様々な深い関係性の網の目から孤立している。そうしなければ生きられなかった。表面的に世間話で他人と笑顔をかわしても、決して魂の交歓はないのだ。少女の言葉はそのことを思い出させ、心の中をかき乱した。
 食事をとって落ち着こうと思った。食欲はすっかり消えうせていたが、何かを口にすれば、気分もよくなるだろう。
 外食にしようと思い、スーツのポケットに入れていた財布をつかむ。上着を羽織り、玄関先で靴を履きながら、ふと、妙な違和感を抱いた。
 佐伯にはいつも、肌身はなさず持っている手帳があった。茶色の革表紙をしたものである。それはいつも財布と一緒に携帯しており、どこへ行くときも自分のそばから離さなかった。それを昨夜から見ていない。
 靴の片方を履きかけていた佐伯は、それを脱いで立ちあがり、家の中に戻った。ハンガーで壁にかけているスーツの正面へ立ち、財布を入れていた上着のポケットに手