浦肖巳毪盲俊<{屋の中にたまっていた空気が、ゆらりと揺れた気がした。わずかに湿って、冷えていた。 かつてここに、夕はいた。天井の梁から、彼女はぶら下がっていたのだ。そう考えると、ぶら下がって息絶えた小さな体の少女は、まだ納屋の中にいる気がしてくる。 入り口のそばにスイッチがあった。それをつけると、天井から下がっていた笠つきの電灯が光を点す。かろうじて中を照らし出すだけの、弱々しい明かりだった。 夜が僕に語った様々な話を思い出す。この地面に木箱を二つ重ねて、姉妹で首吊りをしようとしたこと。この納屋に飼われていたという犬の餌に、漂白剤を混ぜたこと。 夕の死について、僕は、夜を疑っていた。 夜は、納屋の扉を開けたとき、すでに妹が死んでいたことを知っていた。しかし家族の前で、たった今はじめて妹の死体を見たと演出したのだ。 なぜそうする必要があったのだろう。隠したくなるのは、どんな場合だったのだろう。その心理を考察すると、夜が妹の死に深く関係していたのではないかという推測に辿り着くのだ。 「ここで夕ちゃんは見つかったの……」 振りかえると、納屋の入り口に森野の祖母が立っていた。真面目な顔で、納屋の中の、少し見上げた位置に視線を向けていた。 「みんなを驚かせようとして死んでしまったと聞いています」 彼女の視線をたどり、僕も同じ場所を見つめた。おそらくそこに、夕はいたのだ。 土砂降りになってきたらしい。地面に雨の叩きつけられる音がする。しかし、納屋の中にいると、外にあるすべての音に膜がかかったようだった。雨滴が屋根のシートに当たって弾ける青も、風の音も、すべてくぐもって聞こえる。 台風で壊れて以来まともに修理されていないという天井から、水滴が落ちてきた。しかし、納屋にはほとんどなにも置かれていないため、被害はない。 片隅に農作業用の鋤や錐がある。壁に、鎌などがかけられている。|剪《せん》|定《てい》|鋏《ばさみ》や、巻かれて放置された荒縄もあった。 犬用の戸口のそばに、何種類かの紐がかけられている。犬をつないでおくための紐らしい。犬が死んでも、まだ残されているのだろう。様々な色があり、赤い紐が、特に目をひいた。 「あのときのことはよく覚えているの……」 森野の祖母が、静かな声で話した。 「私が近所から帰ってきて、傘を畳んでいると、夜ちゃんがちょうど玄関にいたわ……」 夜から聞いていた話と細部まで同じだった。彼女はぶら下げた袋の梨を見て、妹を呼びに行くと言い、納屋の戸を開ける。そして悲鳴。ひとつだけ、森野の祖母の話で腑に落ちない部分があった。それを聞こうとしたとき、靴の裏側におかしな感触がした。 いつのまにか、靴底が地面に張りついていた。地面は粘土のような土である。雨がふると、天井からもれる水滴で、わずかに柔らかくなるらしい。そのために粘度が高くなるのだろう。 足を上げると、靴底が地面から剥がれる感触。地面に薄く靴跡が残っていた。 夕が死んだ日も雨だった。地面はこうなっていたのだろうか。しかし、今、地面についた僕の靴跡は薄い。当時、まだ少女だった夜は、現在の僕よりも体重が軽かったはずだ。その重さで、靴跡は残るものだろうか。 僕は、開け放したままの入り口から、外を見た。雨は降り続いている。当時の納屋の地面が、今よりも雨が染みこんでもっと柔らかくなっていたとすれば、靴跡はついていたかもしれない。 夕が死んだ日、雨は昼ごろから降り始めた。それから夕が納屋に入り、夜はずっと家の中にいたという。死体を発見したときも、夜は入り口から中を見ただけだと聞いている。 もしも森野の祖母が、あの日、納屋の中で夜の靴跡を見ていたとしたら、バス停で聞いた彼女の話は嘘になる。夜の靴跡が残っていれば、死体を発見するよりも前に、納屋の中ですごしていた証拠となるからだ。 「夕さんが発見されたとき、地面に靴跡はありましたか?」 そのような|瑣《さ》|末《まつ》なことを覚えているかどうか怪しかった。しかし僕は、試しに質問した。 「夕ちゃんの靴跡ならあったよ」 森野の祖母は、そう返事をした。踏み台につかったらしい木箱が転がっており、それを片づけるとき、地面に子供の靴跡があったそうだ。 惜しい、と思った。夕の靴跡なら、納屋にあったとしてもおかしくはない。 「一目見てすぐに、夕さんの靴跡だとわかったのですか」 「あの子たちは外見が一緒だったから、靴で判断していたの。夜ちゃんは黒い靴、夕ちゃんは白い靴。靴跡も違っていて、そのとき納屋の地面にあったのは確かに夕ちゃんの靴跡だけだったの」 夕の描いた絵を思い出し、僕は納得した。どうやら、夕の靴跡に間違いはなかったようだ。その日、夕は白い靴を地面に並べ、裸足の状態で天井からぶら下がっていたという。律儀にも、多くの自殺者がそうするように、靴をそろえていたそうである。 「夜の靴跡はなかったのですね」 もう一度、僕は確認した。森野の祖母は、なぜそのようなことを聞くのかと、不思議そうな顔で頷く。夜は死体発見後、確かに納屋へは入らなかった。だから靴跡などなかった。納屋には子供の靴跡が一人分だったそうだ。 犬用の戸口を調べる。木の板が蝶番でぶら下がっているだけの、簡単なつくりだ。板を押せば、外からも中からも開く。そのあたりの地面は乾いていた。雨が降ったときかわいそうだという配慮からか、犬は、地面が濡れない場所につながれていたらしい。この戸口を使って外へ出れば、足跡はつかないだろう。 「夕さんが脇の下に巻いていたという縄は、まだ残っていますか」 森野の祖母は首を横に振った。どのようなものだったのかも忘れてしまったそうだ。 「それよりもあなた、今日はうちに泊まっていきなさい。外はすごい雨よ」 僕は考えて、頷いた。 二人で納屋を出て、家の中に戻る。森野の祖母は、写真に写すと良さそうな場所を説明しながら玄関を開けた。 「明日、天気が良くなるといいわね」 土間で靴を脱いでいるとき、下駄箱の上に並んでいる土産物の間に小さなプラスチック製のおもちゃがあるのを見つけた。指先でつまんで持ち上げると、お菓子のおまけについているような、花の形の小さなブローチだった。安っぽい色とデザインである。 このブローチは、主にどちらが所有していたものだろうか。それを見ていると、確かにここで、まだ幼い少女だった彼女たちが生活していたのだと改めて思う。 ブローチを手のひらに載せたまま、玄関から延びる廊下に目をやる。森野の祖母は先に部屋へ行ってしまい、視界からいなくなっていた。 僕は立ったまま想像した。 写真に写っていた人形のような双子の姉妹が、今、僕の目の前に延びている廊下を、並んで歩いている。今度はどういった死体の真似をして人を驚かせようかと、真剣な顔をして、ひそひそと秘密の会話をしている。想像の中の二人は、廊下を突きあたりまで歩いて角を曲がった。 僕はそれを追いかけるように靴を脱いで家に上がる。彼女たちの消えた先を見たが、当然、だれもそこにはおらず、黒光りする廊下の、静かで少し薄暗い空間があるだけだった。
† 4
月曜日の森野は、朝から僕の方を横目で見て気にしていた。田舎で僕が何をしてきたのか聞きたがっているのはあきらかだった。しかし僕は彼女の視線には徹底的に気づかないふりをして一日を過ごした。 彼女に声をかけたのは、夕方のホームルームで担任の先生が明日の連絡をし、椅子をひいて生徒たちが一斉に立ちあがって学校から解放された後だった。クラスメイトの数人が声をかけてきていっしょに帰らないかという意味の言葉を発したが僕は無視をした。といっても、何の反応も返さなかったわけではない。無意識のうちに頭のどこかで作り出した言い訳を適用して、ごく自然な様子で断ったのだ。自分がどのような言い訳を使ったのか、自分でもわからない。 僕は内心でクラスメイトなどにどのような関心も抱いてはいなかったが、自動的にそういった作業が行なわれるせいで、波風を立たせないで生活することができた。 やがてクラスメイトたちの足音が教室から消えて、廊下の遠くへ消え去ると、僕と森野だけが残った。彼女は自分の席に浅く腰掛けており、その姿勢はまるで沈んでいく船のようだった。やや睨むような格好で、じつと僕の方を見ていた。 僕は静かな教室をゆっくりと横切って彼女のいる席へ近づいた。森野の席は、教室の中で、窓際から三列目、後ろから三列目の位置にある。 「田舎の家に宿泊したらしいわね。祖母が電話で話していたわ」 森野はあいかわらず睡眠不足らしく、目の下のくまをさらに濃くしていた。 「ごはんがおいしかったよ」 彼女の前の席に腰掛け、横顔を向ける姿勢をとった。ちょうど正面に、視界の左隅から右隅まで、窓が並んでいた。外はまだ明るく、わずかに黄色味を帯びた空が見えていた。遠くから、どこかの部活のランニングをする掛け声が小さく聞こえてくる。教室の蛍光灯は消されており、窓から入るやわらかい光がすべてだった。 「きみの住んでいた家で、いろいろ聞いてきたよ」 「……たとえば?」 「子供のころに姉妹で行なったいたずらの数々とかさ。そして、怒られても夜は泣かなかったけど、夕はすぐに泣き出して姉の背中に隠れていたということも聞いた」 「あの子はいつも、私を頼ってばかりいたから」 お互いに黙りこみ、少しの時間、教室内には沈黙だけがあった。空気が、緊張を|孕《はら》んでいた。 僕は、彼女の方を見て、言った。 「森野夕の、いろいろなことについてわかったよ。細部は、聞達っているかもしれないけど」 彼女はそれまでの睨むような目つきをやめた。ゆっくりと僕から視線を外し、瞼を閉じる。淡いくまの上で、睫毛が震えているように見えた。 「……悪い予感はしていたの」 自嘲するような声でそう言うと、何がわかったのかを教えて、と話を促した。 「八歳で夕は死んだ。それから九年がたつわけだね」 僕は、目を閉じたままの彼女へ話をする。 「九年前のその日、きみは納屋で首吊り死体を発見して、祖母へそのことを知らせた。……しかし、きみは最初から、そこに死体があることを知っていた。本当は、玄関で家族のだれかが帰ってくるのを待っていた。そして家族の目の前で、妹の死をたった今、発見したというふりをした……」 彼女の反応を見ようと、話を区切る。森野は少し沈黙していたが、それで、とだけ言って続きを聞きたがった。 「きみは、妹の死をあらかじめ知っていた。でも、それを隠そうと演技をしていたんだ。……はたしてどのような場合にそのような心理となるのかを推測すると、ひとつの結論に落ち着く。その結論とはつまり、きみが妹の死に深く関係しているということだ」 森野は頷いた。僕はさらに続ける。 「夕は、天井の梁から、首を吊る紐と体を支えておく縄の二つを下げていた。ひとつは首に巻き、もうひとつは脇の下に巻いていた」 八歳の小さな少女が、木箱から飛び降りる。首が吊られたように一瞬は見える。しかし、胸に巻かれた縄で空中に支えられる。 そこへ、もう一人の、同じ顔の少女が現れる。壁にあった剪定鋏をそっとつかみ、天井からぶら下がっている少女へ近づく。その子の胸に巻かれて天井の梁とつながり、まっすぐ縦に張っている縄を鋏で切断する。 支えていた縄が切れると、吊られていた少女は今度こそ首でぶら下がる。 「きみは、殺したんだ」 森野は薄く目を開けた。僕を見てはおらず、視線も定まっていなかった。 「靴跡のこと、聞かなかった? 納屋に、私の靴跡はなかった……」 裸足でぶら下がっていたという少女の姿を思い浮かべる。当時、納屋の中の地面は、天井からの水滴で柔らかくなっていた。 「いいや、きみはあの納屋の中に、しっかりと靴跡を残していた。ただ、みんなは真実に気づいていなかっただけだ。きみは縄を切って一人の少女を殺害した後、地面にできた自分の靴跡に気づいた。そこで、ただその場を立ち去ったのでは疑われるかもしれないと思い、偽装をすることにした……」 自分の作り出した首吊り死体を見上げ、地面についてしまった自分の靴跡を見下ろし、幼い少女は窮地に立たされたことを知った。しかし、地面にそろえて置かれている靴が目に入ったとき、決心をしたのだろう。 それまで履いていた自分の靴を脱いで、転がっていた木箱に乗る。それ以上、自分の足跡を残さないように注意しながら、そろえて置かれていた靴を履く。かわりに、先ほど脱いだ自分の靴をその場に残していくことで、靴跡は自分のものではなくなった。 「後は、犬の戸口を通りぬけて外へ出た。その辺りの地面は乾いていて、足跡がつかないようになっていたからだ」 彼女はようやくはっきりと目を開けて、僕に視線を定めた。 「私が彼女を殺した動機は?」 「憎しみだよ」 僕が短く答えると、森野は悲しそうな顔をした。 「……あなたがさっき、『森野夕のいろいろなことについてわかった』って言ったとき、気づいた。もうばれてるって」 僕は頷く。 疑問に思ったのだ。彼女の祖母が玄関を開けて、そこにいたのがすぐに夜のほうだと気づいたのは不思議なことだ。双子で、同じ顔をしているのに、一目で判断できるわけがない。しかし、彼女が黒い靴をそのときに履いていたのであれは、すぐに区別はついたはずだ。 「九年間、みんなにだまっていたのは辛かったろう、森野夕」 それが彼女の本当の名前だ。
数人の女子生徒が楽しそうに笑いながら廊下を駆けていった。森野夕は少しの間、その声へ耳をかたむけるようにじっとしていた。笑い声はやがて、廊下に反響する小さな音となり聞こえなくなった。 「あなたの言う通り」 彼女は口を開く。 「私は妹のほう。いつも姉に命令されて、泣かされていたのが私よ……」 首を傾げて、問うような視線を向けた。 「なぜ、わかったの?」 「夕は首吊り自殺をするときに、靴を脱ぐ習慣があることを知らなかった。そのことに気づいたからだよ。かつて首吊りの遊びをするときに、夜から教えてもらっていたかもしれないが、おそらく忘れていたに違いない……」 彼女の家で見た絵のことを説明する。納屋で首吊りをして遊ぶ様を描いた絵である。 「あの絵はたしか、九年前の夏休みに描いたものだったね。夜の死ぬ直前だ。ということは、あの絵から窺い知ることのできる描き手の人格が、そのまま事件の起きた日の人格でもあったといえる」 夜も夕も、同じ場面を描いていた。しかし、違っている所がいくつかあった。 夕の絵では、二人の少女は靴を履いていた。しかし夜の絵の少女は、つま先まで肌色で塗りつぶされていた。最初、僕は、夕の方が丁寧に描いていたために、その違いがあるのだと思った。しかし後で考え方を変えた。 夜の方が、記憶へ忠実に、事実を正しく絵にしていたのではないかと思った。太陽を描いた夕と違い、夜の絵は背景が暗い灰色で塗りつぶされていたことから、その可能性は高かった。 バス停で森野は、雨の日に首吊りの遊びをしたと語っていた。夜は、靴を描こうとしなかったのではなく、裸足でいる場面を描いているのではないだろうか……。 「きみは.バス停で言ったね。夕よりも自分の方が死の知識に豊富で、残酷な少女だった、と。夜になりきったきみがそう言うのなら、夜という少女はおそらく、首吊り自殺をする者が靴を脱いでそろえてから死ぬのだというおかしな風習も知っていたに違いない」 双子の姉妹は、首吊りの遊びをするとき、靴を脱いで脇へそろえていただろう。夜はその知識を持っており、首吊り遊びのときにもそうすることにこだわっていたかもしれない。絵の中に知識を反映させることもできただろう。 しかし、夕はそうではなかった。遊びのときに靴を脱いでそろえたことも、おそらく忘れていたのだ。その知識もなく、絵の中で首吊りをしようとする自分たちに靴を履かせていた。 それなのに納屋で発見された首吊り死体は裸足だった。夕が一人で死体のふりをしようと思い立ち、純が切れて死んだのであれば、彼女の死体は靴を脱いではいなかったはずだ。 夕は沈黙して、まるで空気の音を聞くように耳をすませていた。それからゆっくりと唇を開けて、言葉を紡ぎ出す。 「黒い靴を履いていた姉が、死んだの。確かに、そうね、少し姉を憎んでいたかもしれない。でも、あなたの推測は少し違うわ……」 静かな声だった。 「胸に巻かれていた縄について情報がなかったのね。私は切っていない。自然に切れてしまったのよ……」 その日、十二時になると、姉の夜が、彼女に提案したそうだ。 首吊り死体の真似をして、みんなを驚かせよう。 夕はその提案に乗り、二人いっしょに納屋で作業をした。雨が降り始めたころだったという。そのころは犬も生きており、納屋の中で作業する二人を不思議そうに見ていた。 「姉が木箱を高く積み上げて、天井の梁に紐と縄を巻いた。私は足元で、木箱がぐらつかないように支えていた」 雨が納屋の地面を柔らかくする前から、夜は箱の上にいた。だから納屋に彼女の靴跡は残らなかったそうだ。 夜だけが死体のふりをして、夕は納屋までだれかをつれてくる役目だった。作業は進み、やがて夜は、梁から下がっている紐と縄を、それぞれ身につけた。 「そして、姉は飛び降りたの……」 夜が、乗っていた木箱を蹴って落下する。首が吊られたように見えた瞬間、脇の下に巻いた縄で、空中に吊り下げられる。 平気な顔で夕を見下ろし、笑ったそうだ。 「口の端を曲げて、人をだますときにいつもしていた微笑みを浮かべていた。姉は、家族と話をするときはいつも無表情だったけど、そういうときだけ、楽しそうにしたわ」 しかし次の瞬間、縄が自然に切れた。 「私は何もしていない。姉の重みに耐えきれず、勝手に切れたのよ。縄の切れた個所は、天井の梁の近くだった。もしもあなたが、その縄について詳しく知ることができていたなら、解答を修正していたと思う。私には手の届かない高い所で切れてしまっていたのだから」 夜は、一瞬、首で吊り下がった。 「でも、すぐに私が助けに入った。姉の体を両腕で抱きしめて、支えたの。それより下へ落ちないよう空中で抱きとめた……」 納屋の中、首で天井から吊り下がった少女を、同じ顔をしたもう一人の少女が必死に支える。吊り下がっている少女はもがき、空中を蹴るように足をがむしゃらに動かして暴れる。そばで紐につながれていた犬は、双子の騒ぎを聞いて、激しく吠えたてた。納屋には、鼓膜が破れそうになるほどの大きな犬の声と、暴れる少女の苦しげな声とが充満した。永遠にその状態が続くように、彼女は感じたそうだ。 「私は、姉を死なせまいと支えていた。力はなかったけれど、姉を後ろから抱きとめて……。でも姉はわめき声をあげてはかりで……、暴れる姉の踵が、何度も私のおなかを蹴り飛ばしたわ……」 森野はあいかわらず浅く椅子に腰掛けている。視線は遠く、教室の壁よりも向こう側を見ていた。おそらく、喧騒に充ちたあの日の納屋を見ているのだろう。彼女にとっての悪夢である少女の記憶の中にいるのだ。 夕が力を抜くと、姉の体が下がる。姉の首が絞まる。夜は必死に目をむいて妹へわめきちらしたそうだ。それは、夕を励ます種類の言葉ではなかった。 「姉は私に、しっかりしなさいこのぐずって……」 彼女は、耐えるように強く目を閉じて眉間にしわをよせた。 「その言葉を聞いた途端、姉を助けようとしていた私の腕から力が抜けていって……」 夜の体が、ずるずると下へおりていく。 地面から少し上の位置で落下をやめたつま先を、夕は見た。夜は靴を履いておらず、裸足だった。ひきつれるように、足の親指と人差し指との間が大きく開いていた。がくん、がくん、と、最初、動いていた。犬が激しくわめき、耳を|劈《つんざ》いていた。痙攣とその声とが頭の中に染みついた。 「やがて力が抜けきったように、ゆっくりと姉のつま先は空中で動きを止めたのよ……」 夕は一歩、後ろへ下がった。粘土のような地面に張りついていた靴底が、剥がれる感触……。地面に靴跡が残っていた。 「きっと、私ひとりの体重だったら、あの地面に靴跡なんてつかなかったと思う」 かたわらに、そろえて置いた姉の靴があった。 「それを見て、みんなに嘘をつく決心をしたときのことは、よく覚えているわ。あの小さな納屋の中で、まだ姉の体は少しだけゆれていて、時計の振り子のようだった……」 幼い少女は小さな頭で懸命に考え、一本の道を見出す。そろえて置かれていた黒い靴に履き替えて、それまで履いていた自分の白い靴をかわりに残していくことにしたのだ。 乾いた地面を選んで移動し、犬用の戸口から出た。新たに履いた靴は黒色で、その色は、夜であることを示すものだった。自分は夜だと言って振舞うしかなくなった。 「家族の前で、それまでのように笑うのをやめて、姉のように無表情でいつづけていれは良かった。いつもいっしょだったから、姉の癖を知っていて、真似ができた。私が夕だということに、九年間、だれも気づかなかったの……」 彼女はそこまで言うと、疲れたように深く息を吐き出した。 八歳の彼女は、自分の葬式を見たのだ。自分の本名を言わず、一人でこれまで生きてきた。彼女の内側でだれにも知られずたまっていった手首を切らせるほどの激しい感情、その根源は、姉や、埋葬された自分の名前のことだったに違いない。幼い少女が歩むことを決意した道は、少女の全存在をかけて歩かねはならないような、孤独と悲壮とに満ちていたのだろう。 窓から入る光はしだいにやわらかく、金色を増していく。半端に閉められた薄い黄色のカーテンが、傾いた太陽を透かしていた。野球部の金属バットがボールを打つときの甲高い音、それが空に響き渡り、消える。他にだれもいない教室内は、静かな時間が流れている。 やがて、言うか言うまいかを|躊躇《ためら》うように彼女は口を開いた。 「……はじめてあなたと会ったのが、いつ、どこでだったか覚えている?」 高校二年の、この教室だと思っていた。そう答えると、彼女はわずかに残念そうな顔をした。 「中学のとき、人間の輪切りが展示してある博物館であなたを見かけたの。その次は、高校に入学した春。図書館で、死体解剖の医学書をあなたは読んでいた。あのときの人だと、私はすぐに気づいたのよ」 だから、教室で僕が演技しているとすぐにわかったのだ。僕は腑に落ちた。お互いに、周囲へ隠していた自分の正体を見つけあったことになる。 「きみが昔、夕だったころ、ときどきはおかしそうに笑っていたというのが信じられないな」 「確かに、そうね。昔はそうだった。でも、あの納屋を出て以来ずっと、笑ったら、私が夕だってことがばれると思っていた。だから九年間、いつも無表情にしていたの。長いこと姉の真似をしていたから、私はもう、素直に笑うことなんてできないわ」 彼女は、ほとんど他人からはわからない程度の寂しさを含んでそう言った。僕から視線を外して言葉を続ける。 「最初に私の名前を呼ぶのは、あなたなんじゃないかと思っていたの……」 僕は立ちあがった。 「きみに贈りたいものがある。きみの田舎から、勝手に持ち出してきたものだ」 自分の机に置いた鞄から、それを取り出す。 「何?」 彼女は浅く椅子に腰掛けたままたずねた。 「きみがずっと探し求めていた紐だよ。たぶん、首に合うはずだ。僕が巻くから目を閉じて」 森野は椅子の上で目を閉じた。僕が背後に立つと、小さな肩が固くなり、やや緊張する様子を見せた。 彼女の首に、そっと、赤い紐を巻きつける。ところどころほつれた古い紐で、それはあの納屋の壁にかかっていた犬用のものだった。 「きみが犬を嫌う理由もわかった」 僕は、彼女の白く細い首と、長い髪の毛とを、いっしょに紐の中へとじこめて軽く絞めた。その圧迫を受けて、少し彼女の肩が上がった。その状態で一度、僕は動きを止めた。 それから紐を結び、余った部分を後ろに垂らす。 「そう、この感じ……」 彼女はため息をつくように言った。緊張が解け、彼女の内側にあるものが、やわらかく、静かに解き放たれていくのがわかった。 夜は、犬用の紐で首を吊って死んだ……。彼女は記憶の奥底で、このことを封印していたのだろうか。自分の求めていたものが、かつて姉との首吊り遊びで使っていた紐だったということに気づいていない。 「ねえ、私は姉さんを憎んでなんかいなかった……。ときどきひどいことをされたけど、それでも姉さんは、かけがえのない存在だったのよ……」 僕は鞄を片手に持って、帰ることにする。 教室を出る前、彼女の席のそばを通りすぎるとき、僕は夕を一度、振りかえった。椅子に浅く腰掛けた彼女は、両足を伸ばして前の席まで突き出している。両手を胸の上で組んでおり、首に巻きつけた赤い紐は、両端を教室の床に垂らしている。 やわらかく瞼をおろし、睫毛の陰が薄く目の下に落ちている。頬には産毛があり、兎の背中のようだった。傾いた太陽に照らされて産毛が輝き、光を纏ったように見える。涙が頬の上を伝って、顎先から制服に落ちた。 僕は彼女を一人で残し、教室の扉を静かに閉めた。 [#改ページ] Ⅴ 土 Grave [#改ページ]
† 1
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」 コウスケが佐伯を呼んだ。いつもは無邪気で楽しげな声を出す子だったが、今日は元気がなかった。コウスケは近所に住む幼稚園に入ったばかりの小さな男の子である。 「……どうしました?」 佐伯は庭で、朝顔の花を愛でながら返事をする。夏の、朝早い時刻だった。花弁に細かな露がついて光っている。ラジオ体操へ向かう小学生たちが、庭を囲む塀の向こう側を通りすぎた。塀は佐伯の胸の高さまであり子供たちの姿は見えないが、複数の小さな足音と声が聞こえた。 「お兄ちゃん、お父さんはまだ怒ってるかな」 彼は昨日の夕方頃、泣き顔で佐伯の家にきた。それからずっと、家には戻っていない。理由をたずねると、彼は涙声で、父親の大切にしていた骨董品の置物を落として壊してしまったことを説明した。日ごろから触ってはいけないと厳しく言われていたにもかかわらず、彼は好奇心に負けて、触れてしまったらしい。 「きっと、もう怒っていないと思いますよ」 昨日の夜、彼の両親が佐伯のうちへ来たときのことを話して聞かせる。玄関で応対した彼の親は、『うちのコウスケを見ませんでしたか』と、心配そうな表情で佐伯に尋ねた。佐伯はそのとき、首を横に振って知らないふりをした。さらに、彼らと一緒に近所を歩いてコウスケを探す手伝いもした。 「本当に怒ってないと思う……?」 「ええ……」 目の前に咲いている朝顔の草は、地面に突き立った竹に巻きついている。乾燥して薄い茶色になった竹である。 佐伯の住む家は古い一軒家で、周囲に並んでいる家と比べて広い庭を持っている。ほぼ正方形の敷地の、東側の辺に接して家と車庫が並んでいる。それ以外の空いた空間は、様々な木々で占められていた。ちょうど夏の今の時期、それらが高く葉を茂らせている。 佐伯は子供のころから、植物を育てるのが好きだった。朝顔は、そのような庭の、塀に沿った場所に咲かせていた。 今日も空が晴れていた。次第に高くなっていく太陽を遮る雲はない。朝顔の巻きついた数本の竹の影が、塀と庭木の間から差しこむ朝日のため、まっすぐな黒い線として伸びていた。 コウスケの泣き出す声が聞こえた。 昨日の夕方、コウスケがうちに来て、隠れさせてほしいと言ったとき、佐伯はすぐに彼を家の中に通した。道に顔を突き出し、だれにもその様子を見られていなかったか確認して玄関を閉めた。 「コウくんは、お兄ちゃんのうちにくることを、本当にだれにも教えていないのですね?」 念を押してたずねると、彼は涙を拭いながら小さな頭を縦に振った。子供の言うことを、どれだけ信じられるだろう。しかし、そのときの佐伯は、この機会を逃してはいけないと思った。 以前からコウスケといっしょに蝉取りをしたり、空き箱で工作するのを眺めたりするときに、頭の片隅をよぎるものがあったのだ。それは、決して近づいてはいけない自分の妄想だった。恐ろしい計画で、そのようなことをときどき考えてしまう自分に嫌悪した。しかし昨日の自分は、まるで頭に霞がかかったようになっていた……。 「お兄ちゃん、ぼく、お父さんにあやまったほうがいいのかな……」 佐伯は胸がつぶれそうになる。コウスケは今の自分の状況がわかっていないのだ。自分は彼に、かわいそうなことをしてしまった。 彼が憎かったわけではない。家族をなくして家に一人きりで住んでいる自分は、コウスケを本当の弟のように思って接してきた。彼の両親が出かけるときも子守りをひきうけ、一緒に散歩をした。彼の両親と同じくらいに愛情を抱いていたはずである。それなのに、なぜこのようなことをしてしまったのだろう。しかし、もう時間は戻らないのだ。 「……コウくんは、もう家に帰ることはできません」 佐伯の声は思いのほか震えた。 庭に咲いているいくつかの朝顔は、それぞれ一本ずつ親木として添えた竹に巻きついている。それらの竹のうちの二本だけが、他のものよりもわずかに径が大きい。 コウスケは、震える声を聞いて、佐伯の様子がおかしいと気づいたのだろう。 「お兄ちゃん、どうしたの……?」 彼の問いかける声が、地面に突き立った太い竹の先端から聞こえてくる。中は|刳《く》りぬいており、地面に埋めた棺桶の中の物音を、上に立っている佐伯のもとまで届けるようになっている。コウスケは今、自分が地中に埋められていることを知らないでいる。それが憐れでならない。 昨日、コウスケを家にあげた後、佐伯は決心して奥の部屋へ通した。 「この箱に隠れるといいですよ」 そう言いながら、部屋に置いていた箱を指差した。縦長の直方体で、コウスケが中でちょうど寝転がることのできる大きさである。 コウスケは佐伯の言うことを普段からよく聞いた。そのときも、怒った父親の影に怯えるはかりで、佐伯に対しては何の疑いも抱かず自ら箱の中へ隠れた。 コウスケは気づいていなかったが、その箱は以前から自作していた棺桶だった。佐伯はそれに蓋をすると、釘付けをした。棺桶の蓋には、あらかじめ二つの空気穴を開けていた。それぞれの位置は、中で寝転がっているコウスケの、頭の上あたりと、足元のあたりである。中に閉じ込められても呼吸だけはできた。 コウスケの入った棺桶を部屋に残して、庭へ行く。縁側のちょうど正面、塀の手前に、昨夜、掘ったばかりの穴があった。それをスコップで少し大きくするだけで、コウスケの入った箱を埋められる程度の穴ができた。 その作業が終わると、再度、部屋に戻り、棺桶を穴のある場所まで選んだ。その最中、箱の中のコウスケには、父親に決して見つからない場所へ運んでいるのだと説明した。棺桶を縁側から苦労して庭に下ろし、穴まで運んで、その中に横たえる。 中を刳りぬいて筒状にした竹を、蓋の空気穴へ通した。後はスコップで上に土をかぶせると、コウスケは完全に地中へ埋まった。 二本の竹筒が何もない地面に立っている様は不自然な気がした。そこで、別の場所に育てていた朝顔を数株、親木として差していた竹の棒といっしょに、塀のそばへ移動させた。そのうちの二株を、それまで巻きついていた竹の棒から丁寧に蔓を解いて、コウスケの呼吸を約束している竹筒へ巻きなおした。これで竹筒は、何も知らない人間にとって、朝顔を支える親木としか思えないだろう。 「お兄ちゃん、どうしたの? ねえ、ぼくうちに帰りたいよ……」 竹筒が、喋った。 生き埋めにされたコウスケがかわいそうだった。それでいて自分の手は冷静に竹をつかみ、間違って倒れないようぐっと地面に突き刺してまっすぐにしている。 自分はどうしてしまったのだろう。確かに自分は、この子へ愛情を抱いていたはずである。以前、コウスケが佐伯の見ている前で車に|轢《ひ》かれそうになったことがある。ボールを追いかけるのに夢中で、走ってきた車に気づかなかったのだ。コウスケにぶつかる直前で車が急停止したとき、佐伯は安堵のため、その場に座りこんだ。しかし今、自分が少年に対して行なっていることは、いったい何なのだろう。 子供のころから佐伯は、今の家に住んでいた。当時は両親と祖母が一緒に暮らしており、共働きの両親よりも祖母になついていた。まわりの子供が野球やプラモデルで遊んでいるとき、自分だけは祖母といっしょに花を育てていたのを覚えている。植木鉢にスコップで黒い土を入れ、花の種を埋める。そのような佐伯を、よくクラスメイトたちは、女みたいだと馬鹿にした。線の細い佐伯は、確かに女の子と聞達われることが多かった。そのことでよく、傷ついた。 しかし祖母は、並んでいる鉢植えに如《じょ》雨《う》露《ろ》を使って丁寧に水をかける佐伯へ、やさしい子だねと言ってくれた。佐伯は落ちこむたびに、その言葉を思い出した。そして、決して祖母の気持ちを裏切らないよう正しく生きようとした。 しかし、いつごろから、生き物を埋める、という妄想に取りつかれたのだろう。気づくと頭の中に、自分がそうしている映像はかりが浮かんでいた。 庭に水を撒くのが好きで、晴れた日には、よくそうした。ゴムホースを伸ばして、口の部分を指で平たく押しつける。すると水圧で水が遠くまで飛んだ。扇形に水が広がり、庭の木々に当たって弾け、光を反射した。それを見た瞬間、あるいは祖母が微笑んでいるのを見る瞬間、世界が明るく照らされているような、晴れ晴れとした気分になった。 同時に、心の深い、光も差さないほどの暗い部分で、例えば祖母を箱に閉じ込めて地面に埋めることを考えた。そのようなことを考えている自分が、一瞬の後に許せなくなる。なぜそういった悪魔のような想像をしたのかと動揺した。まともに祖母の顔を見ることのできないときもあった。自分が想像したことを|覚《さと》られるようで、恐ろしかったのだ。 何か、自分がこうなる原因となった心の傷でもあるのだろうか。思い当たる節はないが、忘れているだけかもしれない。それともあるいは、もっともこれは恐ろしいことだが、自分は最初からそういった人間として生まれついているのだろうか……。 佐伯が成人して数年が経過したころ、両親と祖母は交通事故で死んだ。就職先で、佐伯はそのことを知らされた。 それまでは家族の姿が家の中にあり、彼らと触れ合うことによって、自分の社会的立場を振り返らされていた。しかし家で一人になると、想像を想像のままとどめさせておくものが、なくなったように思えた。佐伯は毎日、職場を出て家に戻ると、話し相手のいないまま同じことを考え続けた。子供のころから度々、頭に浮上してくる妄想だった。考えるだけでもいけないことだ、と頭を振って自らを戒めようとした。その反動のためか、造園の趣味に熱がこもった。 家族のいたときは、せいぜい鉢で植物を栽培したり、庭木の手入れをしたりするだけだった。そこに手間をかけはじめ、よそから植木用の土を運んで庭の土質の改造を行ない、塀の内側に庭木を少しずつ増やしていった。 佐伯は一年中、木を植えるための穴をスコップで掘り続けた。職場にいないとき、佐伯の唯一の生活がそれだった。同い年の人間が興味を持つどんなことにも関心を示さず、ただ一人きりで庭に穴を掘り、それがすむと木を植えた。 やがて、家の周囲と塀の内側までの余分にあった敷地を木が覆った。塀の外から頭を突き出して中を覗いても、林立する木のためにほとんど家は見えなかった。ただ一ケ所、縁側から見える景色だけにはこだわったため、その辺りだけ木が植えられず、塀から家までの間に障害物はなかった。その空間には花壇が作られ、季節ごとに鮮やかな花が咲いた。 佐伯は当初、木を増やすために自分は穴を掘り続けていると思っていた。しかし途中から、掘った穴に対して何か存在の理由をつけるために木を植えていたという方が正しかった。最終的に、穴だけ掘って、また埋めなおすという作業を行なった。庭の大部分に木が植えられ、もはや枝を伸ばす場所などなかったから、木を増やすことが困難になっていたのだ。それでも穴を掘り続けていたのは、そうすることによって地中に人間を埋めるという妄想の霞が晴れそうだったからである。事実、穴を掘るという作業は、佐伯の頭から何もかもを忘れさせた。しかしそれも、スコップの先端が土に刺さり感触が手にくる、その一瞬のみだった。 掘り終えた後、何も埋めないまま土を戻すという作業には、いつも空虚なものを感じた。妄想から目を背けて無意味な穴を掘るほど、その後に残る頭の霞は濃くなっていくようだった。しかしそれでも穴を掘って忘れないわけにはいかず、コウスケを埋めるとき、前夜に掘った穴がまだ残っていたのはそのためだった。 近所の住人は、夜毎に聞こえるスコップの音を聞いても、奇妙なことだと思ってはいないようだった。佐伯の顔を見ると、みんな会釈をして、たまに植物の栽培方法を尋ねるものもいた。みんなは佐伯の造園の趣味を知っており、不審に思うよりもむしろ、家族を亡くして趣味だけが残された人として同情しているようだった。 コウスケと親しくなったのは、家族を失った二年後のことで、今から一年前だった。彼が庭へ迷いこんできたのがきっかけだった。お互いすぐに仲良くなり、その家族ともいっしょに出かけるほどの仲になった。 コウスケと知り合って十ヶ月ほど経過したとき、佐伯はふと車庫の中に、コウスケの背丈と同じ程度の大きさをした木の板があるのを見つけた。棺桶を作るのにちょうど良さそうだ、と一瞬、考えた。 そのときは頭を振り、そう考えた自分に怒りさえ感じたが、次の日から棺桶作りをはじめた。自分はなぜこのように馬鹿なことをしているのだろうかと苦笑した。実際に使うことなど永久にないのだ。そのくせ、手は佐伯の頭を群れて半ば自動的に木の板へ釘を打ち、箱の形へと仕上げていった。 「お兄ちゃん、ぼく、うちへ帰るよ、ここから出して……」 竹筒の先端から、コウスケの泣き声が聞こえる。まっすぐ立っている筒の中は、暗く、陰になっている。その中を通りぬける幼い声は、反響し、くぐもって地上に届く。 佐伯は、もはやコウスケに対してどう声をかければいいのかわからなかった。かわいそうに……、かわいそうに……。憐れで、そう繰り返すしかできなかった。手が、いつのまにかゴムホースを握っていた。家のそばにある蛇口へと、それはつながっている。 夏の暑さが強くなっていく。蝉の声が、頭上から降ってくる。熱気が首の辺りから次第に体を包んでいった。地面は日差しに焼かれて乾燥し、白くなっている。 そこに一筋、水の線が伸びてきて、佐伯の履いているサンダルのつま先をかすめて過ぎた。水の線は、コウスケの埋まっている辺りから伸びていた。竹筒のうち一本の先端から水が溢れ、巻きついている朝顔を濡らしながら地面に水溜りを作っている。空気穴に通した竹筒だった。 もう一本の筒の先端には、ゴムホースがはまっている。佐伯はそれを見て、ようやく自分のしていることをはっきりと覚った。といっても、それまで無意識ずくで行動していたわけではなかった。 自分が竹筒にホースをつけて蛇口をひねり、地中にある箱の中を水で満たそうとしていることは把握していた。ただ、ぼんやりと自分が夢の中にいるような気持ちで、普通の人間にはあるはずの良心は機能していなかった。 水は棺桶の中に充満し、行き場を失った未に、水圧で押し上げられてもうひとつの簡から溢れ出てくる。夏の太陽が、筒先から噴水のように溢れる水へ反射して輝く。佐伯は不意に、綺麗だと思った。蝉の声に混じり、ラジオ体操から戻ってくる子供たちの声が、塀の向こう側から聞こえてくる。さきほど開いたときとは反対から近づいて、通りすぎる。コウスケの声はもはや聞こえなくなった。朝顔の花弁に皺がより、枯れはじめていた。
気づくと、三年が経過していた。 その間、警察につかまるようなことはなかった。コウスケの両親は悲しそうな顔で引っ越しをし、佐伯は去っていく二人を見送った唯一の人間となった。だれも、佐伯がコケスケを殺したなどとは思っておらず、むしろ少年の失踪でもっとも悲しんだ人間のうちの一人として近所では思われていた。 特別に演技をしていたわけではなく、悲しみは本心だった。しかし、良心の咎めから、子供を失った親が泣いているのをまともに見てはいられなかった。清らかな涙を前に、自分の行なったことの恐ろしさだけ際立つ気がした。 三年間、いつか自分の行なったことがだれかに見つかるのだと不安に怯えながら過ごしていた。その間、コウスケの埋まっている辺りの地面に、決して佐伯は近寄らなかった。結果としてそこには雑草が茂ることとなった。朝顔は、枯れた後、散らばった種から芽が出て、雑草に混じって再び育っている。コウスケの住んでいた家へは、新たに家族が引っ越していた。 今年の初夏のことだ。ある家の主婦が回覧板を持って佐伯のうちへ来た。玄関先で彼女と、そのころワイドショーで騒がれていた連続少女惨殺事件について話をした。しばらくすると、話題は行方不明となったコウスケのことに転じた。 「コウスケくんがいなくなってもう三年ですね。佐伯さん、仲良くしていらっしゃったから、寂しいでしょう」 佐伯は緊張したが、コウスケの幼い笑った顔を思い出し、悲しくなった。自分の手で地中で溺死させたくせに、寂しくて会いたくなるという屈折した精神を、ときどきおぞましく思った。 厳粛な気持ちで佐伯は頷いた。しかし、ふと顔を上げて主婦の顔を見たとき、不思議な気持ちになった。彼女は、特に悲しんでいる様子を見せておらず、いつのまにか話題は、暑くなって鳴き始めた蝉のことへと変わっていた。もうコウスケのことは、世間では過去のことなのだと思った。 数日後、気づくとまた新たに木の板と釘を購入して人間を入れるための箱を作っていた。道を歩いている人間から、塀越しに作業を見られてはいけないため、箱の製作は家の中で行なった。のこぎりで板を切断し、散らばる細かい木屑が、作業場のかわりとしている和室の畳を覆った。 自分はまた、新たに罪を重ねようとしているのだ。人間を地中へ埋めるという恐ろしい考えは、コウスケを埋めてから後も、たびたび頭をよぎっていた。それでいて三年間、実行を踏みとどまらせていたのは、良心の呵責と、それを上回る恐怖だった。コウスケのことがだれかに気づかれることが恐かった。 しかし、回覧板を持ってきた主婦の表情を見て、胸の奥深いところに住む、黒い凶暴な動物が、もぞりと身動きした。その動物はしばらく隠れるように身を潜ませていたが、もはや眠りから覚めたように瞼を大きく広げて、佐伯の体を恐ろしい計画のために再び操っていた。佐伯は板に釘を打ち付けて棺桶を作製しながら、その黒く醜い自分の内に住む化け物が口を開けているのを感じた。 窓を閉めきっていたため、熱気が部屋に充満し、うつむいて作業する佐伯の鼻先から、汗が落下した。体中が熱かった。 やがて完成した棺桶は、コウスケを入れたものよりも大きなものだった。そのとき中は空だったが、佐伯は人間が入って横たわっている様を容易に頭へ思い描くことができた。 庭へ穴を掘った。場所は縁側の正面、塀のそばの地面で、コクスケの埋まっている場所から一メートル離れた隣である。その日以降、朝に縁側へ立ってその方向を眺めると、人間の棺桶が入る程度の大きな窪みが、暗い穴となって影を湛えているのが見えた。 地中へ埋める二人目の人物は、だれがいいだろう。佐伯は慎重に選び、そうしているうちに数ヶ月が過ぎた。棺桶を作製したときは初夏で、日ごとに暑くなっていく気温のことを、いつも職場の同僚と話していた。それが今では、夜が冷えこむという話題に変わっている。普段着の袖も長くなっていた。 いつのまに夏が過ぎ去ったのかわからない。佐伯はその間、なんとか自分の新たな凶行を思いとどまらせようとする良心と、新たな獲物を探して舌なめずりしている狂った暗黒の部分とが胸の内で戦っているのを感じていた。しかしそのような内面は表に決して現れず、まわりから見た自分はどうやらいつも通りの自分らしい。まるで自動的に動く機械にでもなったように、それまでと同じ日常生活を問題なく処理していた。 十月末の、金曜夜のことだった。佐伯は職場を出て駐車場に止めていた車へ乗りこむと、家に向けてアクセルを踏んだ。辺りはすでに暗かった。ヘッドライトをつけた車の列に入って進みながら、自然と目が歩道を歩いている人間に向いた。一瞬の後、自分がまるで品定めをするように人を見ていたことに気づいて動揺する。そのようなとき、ルームミラーに写っている自分の表情には、どんな感情も見えない。目の黒い部分が、まるで小さな穴になっているように思える。 いつも職場では、物静かで分別のある人間としての扱いを受けていた。家から持ってきた花を飾り、上司からまかされた仕事に対して不満をもらすことなく処理していた。そのうちに人望もできて、周囲から信頼の目で見られるようになった。しかし彼らは、佐伯が一人の子供を殺した人間であることを知らない。 家に近い場所までくると、車を左折させて人通りの少ない道に入る。 そこで佐伯は、その少女を見た。 彼女は道の端を歩いていた。ヘッドライトに照らされて、後姿が浮かんだ。黒い制服を身にまとい、長い髪の毛が背中に垂れていた。 少女の脇を通りすぎ、佐伯は無意識にスピードを落とした。少女の髪が、目に焼き付いていた。体ごと吸い込まれてしまいそうな、黒色の髪の毛だった。 フロントガラスの隅を見上げると、満月が夜空に浮かんでいた。雲はかかっておらず、周囲は静かに降ってくる白い月光で薄く照らされていた。住宅地の中にある、公園のそばだった。並んでいる並木は半分以上、葉を落としている。 十字路を右へ曲がってすぐのところに車を止めた。ヘッドライトを消してミラーを確認し、少女が来るのを待った。 少女が十字路をまっすぐ進むか、左手に曲がるかしたら、車を発進させて帰宅しよう。明日は休暇である。ゆっくりと眠り、体を休めることにしよう。 しかし、もしも少女が自分のいる方へ曲がってきたら……。 枯れ葉が一枚、落ちてきた。運転席のガラスに当たって路上に着地する。先日、家にまわってきた回覧板のことを思い出す。今いるこの道の落ち葉掃除について記述があった。日時は、たしか今日の夕方だったはずだ。それにしては、道の上にところどころ枯れ葉が散らかっている。しかし、朝にこの道を通ったときは一面に枯れ葉が積もっていたのだから、綺麗になったほうだろう。そう考えているうちに、また一枚、枯れ葉が静かに落ちて、今度はフロントガラスのワイパーの上に載った。 何も物音はなく、車の中で佐伯はハンドルを強く握り締めたまま待った。ミラーの中に、さきほど曲がってきた十字路が写っている。月に薄く照らされたそこに、やがて少女が現れた。
† 2
自宅の車庫に車を入れると、佐伯はシャッターを下ろした。静かな夜の住宅地に、金属製のシャッターのやかましい音が響く。車庫の正面に立って、厚く降り積もっている枯れ葉を見下ろした。植え続けた木は車庫のすぐそばまで密集しており、覆い包むように枝を伸ばしている。そのため葉が落ちると、車庫は落ち葉の中へ埋もれるような姿となる。そのうちに箒で掃かなければいけない。 両親と祖母が死に、家で一人になってからは、掃除や洗濯をすべて佐伯がしなければならなくなった。生活を送る上での、そういった様々な作業をするときに、自分は一人なのだと思い出す。 先日、結婚した同僚は、のりのついたシャツを着て職場に現れた。上司は自分の机で、時折、子供と写った写真を眺めている。 「佐伯さんはご結婚されないのですか?」 同じ課にいる後輩の女性にそう聞かれたことがある。 自分には無理だと思っていた。恋人、親友、家族、それらはすべて遠い場所にあり、手は届かない。職場で人と差し障りのない会話をすることはできる。しかし、深いつながりを持てるという自信はない。 自分の抱えている悩みを秘密にしていると、無意識に人との接触の中で、他人を近づけさせない壁を作ってしまう。この恐ろしい悩みを打ち明けられる存在などこの世にいるわけがないのだ。 冷たい風が首筋をなでた。昨日よりも一段と冷えている。佐伯は体を忍ばせながら、風に吹かれて地面を流れていく枯れ葉に目を落とす。しかし、寒さは冬が近づいているという理由のみではなかった。佐伯は、自分が背広の上着を脱いだままで立っていることに気づく。自分のワイシャツが皺だらけなのを見て、新婚の同僚の幸福そうな顔を思い出す。彼のシャツはいつもアイロンがけされている。 他人のことは考えまいと頭を振り、佐伯は車庫の中へ入った。車庫の側面の壁に扉があり、そこを通る。車に近づき、後部座席のドアを開け、そこに置いていた背広の上着を手に取った。裏生地についている汚れに気づく。おそらく血が染みこんでしまったのだろう。佐伯は、鼻や唇から血を流して後部座席に横たわっている少女を見下ろし、そう思った。家の近所でだれかとすれ違った場合、後部座席に寝かせている少女の姿を見られてはいけなかった。だから念のために上着をかぶせて隠していたのだ。 少女はまだ気絶しているらしく、動かない。体を丸めた格好で、長い髪の毛がベールのように顔を隠して車内の床に下がっている。少女が抵抗しなければ、傷つけることもなかった。佐伯は、手の甲をさすりながらそう思った。手に、少女の爪あとが赤い線となって残っている。 組みついた瞬間、彼女は大きな叫び声をあげた。声は静かな夜空を震わせて、その周辺にいたすべての人間に聞こえたことだろう。 それからどうなったのか容易には思い出せない。気づくと少女の顔を幾度もぶっていた。ぐったりとして、すでに少女は動いていないというのに、手を振り下ろして頬を張り飛ばしていたのだ。少女を後部座席に押し込んで上着をかけると、エンジンをかけてアクセルを踏んだ。 佐伯は子供のころから、ほとんどだれにも暴力を振るうことなどなかった。テレビで児童虐待のニュースが流れると、胸に嫌悪感が広がった。しかし今、そのような自分が少女の顔をぶって怪我をさせている。そのときの感触は、まだ手に残っている。まるで、細かい虫が隙間なく手を覆い、ざわざわと這いまわっているようだった。恐ろしくて振り払おうとしても、それはなかなか消えてくれなかった。 佐伯は少女を抱き上げて車内から運び出した。家の奥の部屋に向かって歩く。少女を抱えている姿が影絵となって窓や障子に映らないよう、家の電気は消したままだった。月明かりの中で、抱えている少女の腕と髪の毛が垂れ下がって揺れていた。木屑の散らかっている部屋に到着すると、作製したままの状態で放っていた棺桶に少女を寝かせた。 頭の先から足の先まで、長方形の枠にぴたりと収まった。まるで少女はあらかじめその箱へ入っていたように感じられた。しかし、鼻や唇から血を流し、ところどころ皮膚が変色しはじめている少女の顔を、佐伯はまともに見ることができなかった。自分の心の暗闇が少女の顔にしっかりと刻印されており、それと向き合うことができなかったのだ。急いで棺桶に蓋をして、釘を打った。蓋にはあらかじめ二つの小さな穴を開けていた。後に呼吸のための筒を通す穴である。 コウスケを埋めた地面の隣で、少女のための穴は口を開けて待っていた。今日という日が訪れることを予感し、月明かりの中で黒い窪みは待ち焦がれていたのである。掘り出した土が、穴の横で小高い山となっていた。 棺桶を引っ張って家の中からそこまで移動させた。庭へは、縁側から直接、下りられるようになっていた。人間が一人、入っている棺桶は、重かった。 穴に棺桶を入れると、呼吸のための竹筒を二本、蓋の穴に通した。それからスコップでひとすくいずつ、土をかぶせていく。最初は棺桶の蓋へ土が落下するたびにばらばらと音をたてていたが、やがて完全に土が覆ってしまうと、音はしなくなった。穴を埋める作業は、意外と時間がかかった。全身に汗が浮き、帰ってきたきり着替えもしていなかったために、職場へ着ていく背広のズボンは泥で汚れてしまった。やがて穴を埋め終えると、スコップで叩いて平らにした。 コウスケを埋めたときは夏で、朝顔の蔓を筒に巻きつけた。しかし今の季節にそれは無理だろう。朝顔はもともと熱帯性の植物で、寒さには強くない。塀のそばに、雑草へまじって何本か用途不明の茶色の竹が立っていることになるが、それを見ても不審に思う人はいないだろう。夏には朝顔をここで育てており、これらはそれの親木だと説明すれば、だれも疑うまい。 新しく掘り返した跡が目立たないよう、花壇にかぶせていた藁を持ってきて、筒の周辺に敷き詰める。その作業が終わると、一見して掘り返したように見えなくなった。 スコップを置いて、佐伯は縁側に座った。しばらくの間、じつと塀のそばにある竹筒を眺める。少女は今、完全に地中へと埋まった。 縁側と塀を結ぶ庭にだけ木を構えておらず、いくつかの花壇と、洗濯物を干すための物干し台、そして竹筒しか見当たらない。しかし縁側から離れた両端は、木々が立ち並んで、夜になるとほとんど黒い壁のように見える。風が吹いて、その黒い影が身じろぎした。少女を車へ押しこむとき、爪あとのついた手の甲をさする。顔をぶったときの感触はもうほとんど消えていた。その手で顔を触ると、いつのまにか自分が、口元を笑みの形にほころばせているのを知る。 縁側から家に上がり、少女の持っていた鞄を探った。防犯のための催涙スプレーが中から見つかった。生徒手帳も、鞄に入っていた。表紙をめくったところに顔写真が貼ってある。美しい顔立ちの少女である。 写真の下に、学年とクラス、出席番号に並んで、『森野夜』という名前が記されていた。佐伯は縁側に立ち、塀のそばに立っている竹筒を見ながら、その名前を心の中でつぶやいた。 たった今、自分の埋めた人間にも名前というものがあるのだ。そのような当たり前のことに、ようやく気づく。地中に埋めた少女にも親というものがあり、名前を授け、愛情をこめて娘を育てていたのにちがいない。その愛の塊を、自分はついさきほど生き埋めにしてしまったのである。 頭の中へ、甘い陶酔が広がった。それはまるで、綿へ砂糖水が染みこんでいくようなものだった。殴って怪我をさせた少女が地上にいる間は恐ろしいだけだったが、地中へ埋めて姿が見えなくなった途端、不思議なことに恐怖は甘美な気持ちへと変化する。 そのとき、かすかな声が、佐伯の耳にまで届いてきた。風にかき消えてしまいそうなほど、小さな声だった。 佐伯は、塀のそばに立っている教本の竹筒を見た。白い月光が、並んでいる竹筒を闇の中で浮かび上がらせている。地面に黒い影ができており、それは佐伯の座っているほうへ向かってまっすぐ線となって伸びている。数本の竹筒のうち、四本だけが、太い。 聞こえた小さな声は、そのうち二本の先端からだった。佐伯は立ちあがり、縁側から直接、靴を履いて庭へ降りた。歩いて庭の端に向かう。自分が体を動かしているという気がしなかった。非現実の世界を歩いている夢遊病者になった気がする。月明かりのほかに何もない夜、庭に植えた木々が静かな黒い影となって両側から佐伯を見下ろしている。 竹筒へ近づき、敷き詰めた藁を踏みしめ、自分の胸辺りまで高さのあるその筒を、上から覗いた。中は暗闇だった。心が空虚になるような闇が、親指ほどの直径の中に見えた。そこから途切れ途切れに、少女の声が筒の内側を震わせて、地上にまで届く。筒から出てきた声は弱々しく、竹筒の先端で風に飛ばされて煙のように消えていく気がした。 声の出てくる二本の筒には、声の大きさに差があった。棺桶に突き立てた竹筒は二本だが、一本は足元の位置にくるよう通していた。もう一本は顔に近い場所で蓋を貫いている。そのため棺桶の中で声をあげると、顔に近い方に通した竹筒から、多く声が聞こえてくるらしい。 「……だれか……」 少女の声はかすれ気味だった。切った唇が痛むのか、大きな声を出せないようだ。 「……ここから出して……」 佐伯は膝を折り曲げて、筒の刺さっている地面に両手のひらをついた。さきほど埋めたばかりで、藁の覆う地面は柔らかい。この下から、確かに声が発生している。気のせいにちがいないが、手のひらが、地中に埋まっている少女の体温を感じてぱっと温かくなったように感じた。 かわいそうに、なんてこの少女は無力なのだろう。自分の履いているサンダルの裏側よりも、さらに下の方に閉じ込められて呼吸している少女のことを思うと、憐れだった。地中で何もできずに埋まったままの少女を確認し、佐伯は自分の優位を感じた。子犬や子猫を目にしたときのような、胸にこみあげてくるものを覚えた。 「私の声は聞こえますか……」 佐伯は立ちあがってそう言った。その声は竹筒の中の暗闇に満ちた空気を震わせて少女のもとへ届いたらしい。 「だれ……。そこにだれかいるのね……」 少女の返事が聞こえる。佐伯がだまっていると、さらに筒の先端から声が地上に出てくる。 「あなたが私をここへ閉じこめたのね……。そして地面に埋めた……」 「……今、いる場所が、地中だとわかっているのですか」 佐伯は不思議に思って質問した。たった今、棺桶の中で目覚めたのであれば、突然の狭い暗闇に閉じ込められているとしか状況を把握できないはずである。少女は少し沈黙した。 「……土をかぶせる音が聞こえたわ」 「気絶していたのは演技だったのですか」 路上で気を失わせて以来、ずっと少女は目覚めていないものだと思っていた。いつから起きていたのだろう。佐伯は少女を縛っていなかった。箱へ閉じこめる以前から目覚めていたのであれば、走って逃げようと考えなかったのだろうか。 「……足を怪我しているのですか。だから、逃げようとしなかった」 佐伯が質問すると、少女は押し黙った。推測が当たったのかもしれない。 「……ここから出しなさい」 少女は声に怒りを含ませて言った。佐伯は、少女のその態度に驚き、胸を打たれた。泣いて懇願するのではなく、命令するような口調である。地中に埋まって姿は見えないが、この少女の心が持つ貴さを声に感じた。しかしそれでも少女は無力なのだ。 「……ああ、すみません。本当に、ごめんなさい」 地中にいる少女には見えないだろうが、首を横に振る。 「あなたを外に出しては、私の行なったことが世間に知れ渡るではありませんか。だから無理です」 「あなたは一体、何者なの……? なぜこのようなことをするの……?」 少女の質問を心の中で反芻する。 なぜ自分は、彼女を埋めたのか。その疑問の出口が見出せず、一瞬、袋小路に迷いこんだような気がした。しかし、律儀に少女の質問に答えなくていいのだと思いなおし、考えるのをやめた。 「そのようなことは、どうでもいいことですよ」 「ここはどこ……? 山奥……?」 「いいえ、私の家の庭です。あなたはそこへ、埋葬されたのです」 少女は押し黙った。暗闇しかない小さな空間で、彼女がどのような表情をしているのか想像する。 「埋葬……? 冗談は言わないで。私はまだ生きているわ……」 「死人を埋めてもおもしろくないです」 非常に当然のことだと思いながら佐伯は口にしたのだが、少女は一瞬、口をつぐんだように黙りこんだ。そして低い声を出す。 「出さなければ、ひどいことになるわよ……」 「だれかがきみを助けにくるとでも、思っているのでしょうか?」 「知り合いがきっと、私を見つけ出してくれるわ……!」 それまで低い声音で話していた少女は、一転して熱心な声でそう言うと、どこかが痛むのかうめき声をもらして沈黙する。筒の奥から、荒く呼吸をする音だけが聞こえてきた。もしかすると少女は肋骨を痛めており、小さな声を出すのにも背痛を感じるのではないだろうか。佐伯は今の少女の言葉に、奇妙な熱っぽさを感じてそう直感した。 「あなたが信じているというそのお知り合いの方は、男の子ですか?」 ええ、そうよ。少女はそれだけしか言わなかったが、その男の子とは少女の恋人にちがいないと確信させる響きがあった。 「彼の名前を聞いてもいいですか」 「なぜそんなことを知りたいの?」 「興味があります」 しばらく沈黙したあと、少女は名前を言った。佐伯は頭にその名を刻みこみながら、少女は嘘の名前を言ったかもしれないとも考えていた。そのような人物など存在しないという可能性もある。しかし、真実を確認する方法はない。 「そのうちに私は、双眼鏡を買おうと思っているのです……」 夜空にいつのまにか雲が出ていた。風に流されて、月の上に覆い被さる。明日は曇るのかもしれない。 「なぜだかわかりますか……?」 佐伯は聞いたが、少女は沈黙したままである。 「あなたを失って悲しんでいる彼を、遠くから眺めるためですよ……」 少女のもとへ、確かにその声は届いたはずだった。しかし彼女は何も返事をせず、黙りこんだままである。幾度か返事をさせようと声をかけてみたが、佐伯の言葉にはもう何も反応せず、ただ筒の奥に、暗く、静かな暗闇があるだけだった。 怒らせてしまったようだと思い、佐伯は筒のそばから離れた。朝になれば、機嫌も直っているにちがいない。 車庫へ向かい、車の後部座席を掃除する。少女を乗せた跡があってはいけなかった。車内にはいつも小型の座布団を置いており、少女を寝かせるとき、顔の下にそれをしいていた。おかげで彼女の血は座布団に付着し、シートには染みついていなかった。佐伯は赤黒いものが点々とついた座布団を回収し、床に落ちていた長い髪の毛を集めた。 掃除を終えて家に上がり、壁の掛け時計を確認するとすでに深夜の二時を過ぎていた。二階の自室へ向かい、布団に包まって眠りにつこうとする。瞼を閉じて夢の入り口を見つけるまでの間、庭の地中で一人、孤独に小さな暗闇へ閉じ込められている少女のことを思った。
次の日、目覚めるとすでに正午近い時刻になっていた。土曜日だったが、佐伯の働く職場は曜日などほとんど関係がない。土曜も日曜も、同じように勤務しなければいけない。しかし幸い、今日は職場に出なくても良い日だった。 自室の窓を明けて外を見渡す。子供のころ、その窓からは広々とした町並みを眺めることができた。しかし今は、立ち並ぶ木々の枝葉が邪魔をしている。木の天辺を越えて窺える空の色は灰色だった。冷たい風が目の前にあった木の細枝を揺らし、佐伯の頬に触れて通りすぎる。 少女のことは昨夜の夢だったのではないだろうかと思い、階段を下りて、縁側に向かった。そこから視線を塀の方に向けると、夢ではなく、確かに現実にあったことだとわかった。 太い竹筒が四本、細い棒に混じってまっすぐ地面に立っている。四本ということは、二人分だ。自分は確かに昨日、コウスケのいる隣に新しく少女を埋めたのだ。そう確認すると、安堵した。 少女を車に押しこんだ公園のそばの通りはどうなっているだろう。悲鳴が辺りに響いた。そのことで、近所の住人は通報したのだろうか。また、地中に埋めた少女の親は、帰らない娘のことを心配して、警察に電話をしただろうか。警察はその二つの情報から、まさにあの公園脇の並木道で少女が拉致されたと判断を下したかもしれない。 佐伯はサンダルを履いて庭に下りた。空腹感があり、少女と少し会話を楽しんだ後で食事に行こうと思っていた。不思議なことだと思う。普通はこのような異常な状況にいるとき、何も喉を通らなくなるのではないだろうか。しかしなぜか、空腹という生きている証を強く感じる。 竹筒の正面に佐伯は立った。 いきなり声をかけるのではなく、まずはじっと耳をすませた。筒の奥から何か聞こえないだろうかと思った。物音などはなかったため、佐伯は声をかけてみる。 「……朝です、起きていますか」 昨晩、別れ際に彼女は、佐伯の声へ反応しなくなった。今朝もそれが続くようであればどうしようかと心配だったが、一瞬の間があって、少女の声が聞こえてきた。 「朝だってことはわかっているわ。この箱の中は暗闇だけど……」 声が筒の内側を通り抜けて聞こえた後、地面にまっすぐ立っていた筒が何もしないのにぐらついた。竹筒は棺桶の蓋を通して、その内側にもわずかに出ている。それを少女が内側から触っているのだろう。 「顔のそばに、上の方から簡みたいなものが突き出しているわね。手探りでそれがわかったもの。これは私の呼吸のため? 中を覗いたら、筒の向こう側に白い明かりが見えるわ。夜が明けたということね?」 竹筒は固定しておらず、ただ蓋に開けた穴へ通しただけである。抜こうと思えば簡単に抜ける。内側に突き出している部分を握ってゆらすと、地上に出ている先端は、逆になった振り子のように前後左右へ揺れ動く。 「じっとしていてもらえませんか。筒を動かされては、いけないのです。だれかが見ては、不審に思うでしょう。もしそれ以上、じっとしていないのなら、取り払います。するとあなたは、呼吸できなくなりますよ」 佐伯がそう言うと、動いていた竹の筒は静止した。 「……あなたの名前は?」 少女が不意に質問する。 「佐伯、と言います。あなたは、森野さんでしょう……?」 熟考するような沈黙の後、忌々しそうな声音で少女はつぶやいた。 「佐伯さん、なぜあなたが、私をこんな場所に閉じ込めているのかはわからない……。でも、これは悪いことよ。今すぐ出した方がいいわ……。でなければ、あなたの肩に不幸な黒い鳥が舞い降りてくるでしょう……」 どこまでも少女は佐伯に屈せず、逆に呪術師が呪いをかけるよう宣言した。彼女は、立場をわかっているのだろうか。わずかに怒りが胸の内に生まれた。 「そんなところにいて、あなたに何ができると言うのですか。あなたは、今日にでも私に溺死させられるのですよ」 「溺死……?」 ゴムホースで水を流しこんで殺すという計画を少女に説明する。できるだけ意思を挫《くじ》くよう、助かる望みなど一切ないのだということが理解できるよう、丁寧に教えた。 少女はさすがに絶望という暗い穴の縁から目をそらすことができなくなったのだろう。あるいは、気丈な態度を保つ気力が薄まったのか、声を震わせながら、それでも言いきった。 「あなたに殺されるよりも前に、私は自ら命を断つ……。あなたは私の制服のポケットを調べなかったわね……。それは致命的なミスよ……。この重大さを、後々、あなたは思い知るでしょう……。ポケットにシャープペンシルが入っていて、私はそれで頸動脈を突き破るつもりよ……」 「あなたは、私に殺される前に自殺をすることで、プライドを守ったように感じるのかもしれません。でも、それは違います。同じことですよ。自殺したあなたの死体はそこで腐っていくわけです。だれにも発見されない。地中で永久に一人きりの孤独を突きつけられるわけです」 「いいえ、ちがう。永久に私が発見されないなんてことにはきっとならない。警察も馬鹿ではないでしょうから、そのうちあなたのやったことは明るみにでるわ。数日後のことか、数年後のことかはわからないけれど。それに、私には予感がするの。決して一人では死なないという予感よ」 「一人では死なない?」 「そう、孤独な死は訪れない」 「……それは、だれかと一緒に死ぬということですか? 昨日、あなたが話していた男の子のことを言っているのですか?」 「彼はおそらく、私を一人のままでは死なせないわ」 箱の中で、泣いているのだろうか。彼女の声は水分を含んでいるように思えたが、どこか確信めいた揺らぎのない意思を奥に秘めていた。 少女の恋人のことを、最初は鼻で笑うようなつもりで聞いていた。高校生の幼い恋だと思っていた。しかしなぜか今になって、わずかに不安がこみあげてくる。それは水に落とした墨汁の雫のように、黒い雲となって胸に広がっていった。 「私には理解できません……。あなたは、そんな状況にありながらなぜそんなことを言えるのか……。森野さん、あなたはそこで……、地面の中で一人きりで寂しく腐って土になるのですよ……。それ以外にありえない……」 佐伯はそう言うと少女から離れた。 少女の言葉を聞いたとき、職場で後輩の女性からされた質問を思い出した。結婚はしないのですか、という質問である。 自分は、親しい人間や家族といった様々な深い関係性の網の目から孤立している。そうしなければ生きられなかった。表面的に世間話で他人と笑顔をかわしても、決して魂の交歓はないのだ。少女の言葉はそのことを思い出させ、心の中をかき乱した。 食事をとって落ち着こうと思った。食欲はすっかり消えうせていたが、何かを口にすれば、気分もよくなるだろう。 外食にしようと思い、スーツのポケットに入れていた財布をつかむ。上着を羽織り、玄関先で靴を履きながら、ふと、妙な違和感を抱いた。 佐伯にはいつも、肌身はなさず持っている手帳があった。茶色の革表紙をしたものである。それはいつも財布と一緒に携帯しており、どこへ行くときも自分のそばから離さなかった。それを昨夜から見ていない。 靴の片方を履きかけていた佐伯は、それを脱いで立ちあがり、家の中に戻った。ハンガーで壁にかけているスーツの正面へ立ち、財布を入れていた上着のポケットに手を入れる。何も入っていないことを確認すると、他のポケットを探す。どこにも手帳はなかった。周囲を見渡して、茶色の表紙が見当たらないか確かめる。テーブルに載っている雑誌を持ち上げ、|炬《こ》|燵《たつ》の掛け布団をめくり、手帳を探した。しかし、無駄だった。 最後に手にしたのはどこだっただろうかと考える。職場にいたときは、確かに持っていたことを記憶している。どこかで落としてしまったのだろうか。 そう考えて、佐伯はある結論に辿り着いた。そのおかげでほとんど立ちくらみにも似た感覚を味わう。それを否定しようとすればするほど、間違っていないという気がしてくる。 もしも手帳を落としたのだとすれば、少女に組みついて激しくもみあったときではないだろうか。昨夜、あの公園脇の通りで、少女の悲鳴が周囲へ響き渡った瞬間、暴れる彼女の肘が佐伯のわき腹を打ち、スーツのポケットから手帳が飛び出したに違いない。 庭の方で鳥のはばたく音を聞いた。家の周囲を覆う木々に、よく鳥が集まってくる。朝になると鳴き声が聞こえ、佐伯が庭を歩くとあわてて翼をはためかせて逃げ出す。しかし今、佐伯の耳に届く鳥のはばたく音は、不気味な破滅の前兆のように聞こえた。 昨日の夕方、あの道で落ち葉の掃除が行なわれたと聞く。そのときになかった手帳が、今日、発見されたとする。それはつまり、手帳の持ち主が昨夕から今朝にかけた時間帯のどこかで、その場所にいたということだ。 手帳の持ち主を割り出すことは簡単である。手帳の中に佐伯のことが記されていたからだ。自分がその場所にいたという事実と、昨夜に起きた少女の悲鳴、失踪とを結びつける人間がどれほどいるのかはわからない。しかし、念のためすぐに手帳を回収しに向かったほうがいいように思えた。 焦りながら靴を履き、外へ出た。公園脇の通りまでは、車を出すほどの距離ではないため、走って行くことにする。 門を出る前に、少女へ一言だけ声をかけて行こうと思った。玄関先から、常緑樹の立ち並ぶ一帯を抜けて、縁側のある庭へまわった。塀のそばに立つ竹筒へ近づきかけ、ふと足を止める。 筒の先端から、まるでたがの外れたように笑う少女の声が聞こえてきた。 昨夜から話をしていて、少女の感情が解放される瞬間はなかったように思う。悲鳴ひとつあげずに、まるで心を押し殺しているような口調で佐伯と話をしていた。 それが一転して笑っている。痛みのためか、ときどきうめき声を交える。それでも笑わずにはいられないらしい。 地中の箱の中で、少女は恐怖に負けて狂ってしまったのだろうか。それまでが静かだったために、より薄気味が悪くなった。結局、佐伯は、彼女に声をかけないまま昨夜の通りへと向かった。
† 3
公園のそばの通りに到着したとき、時刻はちょうど十二時だった。晴れていれば太陽は空の高い位置に見えただろう。しかし今、厚い雲に遮られて辺りは薄暗く、冷たい風が吹いている。 公園は住宅地の中にあるこぢんまりとしたものだった。子供が通りへ飛び出さないよう周囲に金網がはってある。佐伯は歩道を歩きながら金網越しに公園の中を見た。広場を中心に、いくつかの遊具がある。 ブランコに腰掛けた人影がひとつあった。敷地の反対側で佐伯の方に背中を向けていたため、黒い服を着ているらしいとしかわからない。 他にはだれもいないと知り、安堵した。もしかしたらすでに警察が通報を受けてこの近辺を調査しているかもしれないと考えていたが、どうやらまだらしい。自分がくるよりも先に、手帳を他人に拾われることこそもっとも危惧していたことだった。 通りは歩道と車道とにわかれており、一定の間隔で木が植えられている。現在、車の姿はほとんどなく、静かで閑散とした道がまっすぐのびているだけである。 風が吹いて、枯れ葉が落ちてきた。風に舞うように、という感じではない。雨が降るように、乾燥しきった葉がいくつもばらばらと落下してきた。昨日の夕方に掃除が行なわれたはずだ。 しかしすでに歩道は枯れ葉に覆われかけている。車道はさすがに車が少しは通るためか落ちている枯れ葉の量も少ないが、端の方はそのぶん厚く積もっている。 昨夜、車を止めていた辺りの地面を見まわす。少女ともみ合ったのもその辺りだった。しかし、一見した限り手帳は見当たらない。あるのは一面を覆う枯れ草だけである。落下した手帳の上に枯れ葉がかぶさって、通りを歩く人の目から隠しているのかもしれない。 佐伯は膝を曲げて、アスファルトに散らばっている枯れ葉を両手で掻き分けた。歩道のすべてをそうやって探す必要はない。手帳が落ちているとすれば、少女ともみ合ったこのあたりだろうという目処はついている。そのため、すぐに見つかるだろうと思っていた。 乾燥した枯れ葉は軽く、降り積もっている部分を|雑《ま》ぜ返すと、もろく崩れ、風に吹かれて飛んでいく。その様を見ながら、少女のことを考える。 彼女のいる箱の中は暗闇である。蓋から突き出した筒から外界を覗けば、外の明るさが小さな点となって見えるかもしれない。しかし光はそれだけだ。少女は狭い闇の中で、自分の死と無理やり向き合わされ、取り残されている。それでも彼女は、恋人が自分を一人きりで死なせないだろうという……。 さきほどそれを知ったとき、佐伯は動揺した。理解できない、という不安が胸に生まれた。地中で一人きりにされ、永遠の孤独が約束されてもなお、他人を信じるということがありえるのだろうか。 昨夜から今朝にかけて、佐伯の頭には心地よい霞がかかっていた。地中に埋められた相手の無力な状況を思うと、いたたまれなさがこみあげてきて、それが蜜のような甘い味となって舌に広がった。しかし、少女の言葉を聞いて以来、まるで頬を叩かれて眠りから覚めるように、それらが急激に薄まりつつあった。 今になって少女に対して行なったことをはっきりと自覚する。自分が彼女に言ったいくつもの恐ろしい言葉を思い返す。 |眩《め》|暈《まい》がして、佐伯は枯れ葉の上に膝をついた。視界が歪み、枯れ葉の幾重にも重なった層が、まるで海面のように波打っている。息苦しく、酸素を求めて喘ぐように呼吸を速めた。 自分はいつから、残虐な行為を、まるで砂糖菓子を味わうような気持ちで楽しむようになったのだろう。以前の自分は、善良な市民でいようと心がけていたはずだ。職場では真面目に振るまい、心から人にやさしく接してきた。道を歩けば知っている顔と挨拶をして、立ち止まって世間話をした。 人を生き埋めにするという妄想が頭に思い浮かぶたび、それを振り払おうと努力した。そのようなことをしてはいけないと自分に言い聞かせながら、せめて庭に穴を掘るだけにとどめようとした。自分は人間である。人を地中に埋めて楽しむような悪魔では、決してない……。 しかし、コウスケを地中に埋めて殺したあの日から、自分の中にあるどこか重要な歯車がおかしくなってしまったように思う。地中で身動きできない少女に対して優越を感じ、そうすることでようやく生きているのだと実感する恐ろしい自分を、はたして人間と言えるのだろうか。 眩暈のする中、それでも佐伯は膝をついたまま枯れ草を掻き分けて手帳を探す。鼻の頭に生まれた汗が、乾燥した葉の上に落ちる。 手帳はいくら探しても見つからなかった。念のためにと思い、少女ともみ合った場所から離れた位置の枯れ葉も雑ぜ返した。しかし見当たらない。焦りが、少しずつ膨らんでくる。 風に飛ばされてきた新聞紙が足に引っかった。立ち上がってそれを引き剥がしたとき、公園の金網越しに自分を見ている人物がいることに気づいた。手帳を探すことに夢中で、人影の近づいていたことがわからなかった。 ブランコが遠くで、人を乗せないまま揺れていた。さきほどそこにあった人影がいつのまにか移動していたらしい。 金網を一枚隔てたすぐ向こう側に立っていたのは、高校生くらいの少年だった。黒い学生服を着ており、両手をポケットに入れて佐伯の方を見ている。学校が半日で終わり、そのまま公園に来たのだろうと思った。彼の顔を見ると、目があって、気まずい沈黙が生まれた。ばつの悪さを感じたらしく、少年が金網の向こう側で頭を下げた。 「……すみません。何をしているのだろう、と思ったものですから」 よほど自分の姿は目立っていたらしい。 「何か落とし物でも……?」 少年の質問に、佐伯は口籠もった。 「ええ、ちょっと…‥」 どう答えたらいいのだろう。どこかへ立ち去ってほしいが、そう頼むのも不自然である気がした。一度、自分がどこかへ消え去り、少年がいなくなって改めて手帳を探したほうがいいのだろうか。 「この辺りに住んでいらっしゃる方ですか?」 口籠もっていると、少年が再び口を開いた。 「ええ、そうです」 「名前を伺ってもよろしいでしょうか?」 特に深い考えもなく、正直に答える。 「佐伯さんですか……。佐伯さん、実は少しお聞きしたいことがあるのです。おかしな質問なのですが、よろしいでしょうか?」 「おかしな質問……?」 「はい、お手間は取らせません。昨夜の悲鳴についてのことです。何かご存知でしょうか?J 心臓に氷をそっと当てられた気がした。 「悲鳴……? 何の悲鳴ですか……?」 「夜の九時ごろ、この周辺で人の悲鳴があがったそうです。この辺りに住んでいる知人から、その情報を得ました。でも、どうやら佐伯さんの家までは聞こえなかったようですね……」 佐伯の反応をうかがい、彼はそう結論付けたようだ。それならば、そうしておこう。佐伯は頷いて同意する。 「そうですか……。実は、僕のクラスメイトが一人、昨夜から家に帰っていません。今日、学校が半日あったのですが、登校していませんでした」 少年から目を逸らさずにはいられなかった。おそらく自分よりも十歳近く年下だろうその少年の目が恐ろしい。服の下に、汗が滲むのを感じた。少年が言っているのは、あの少女のことだろうか……。 「その子は毎日、この道を通って学校に通っていたそうですし、もしかすると昨日の悲鳴というのは、そのクラスメイトのものだったのではないかと……」 やはり、自分が土の中に埋めた少女のことだ。 「きみは、彼女と仲が良かったのですか」 「ええ、まあ」 少年の返事は、あまり気のないものだった。少女の言っていた仲の良い友人とは、彼のことだろうか。しかし、彼の返事のしかたから、それは違うという気がした。少年はひどく冷静で、少女のことを他人事のように話す。深いつながりを二人の間には見出せない。 「それできみは、そのいなくなったクラスメイトが心配で公園にいるというわけですね」 「いえ、違います。ここにきたのは、観光のようなものです」 「観光……?」 「警察署に、所々赤いマークのついた市内地図のポスターが貼ってありますよね」 「死亡事故が起きた個所を表しているものですか……?」 「その通りです、よくご存知ですね。僕以外にそのことを知っている人がいるとは思いませんでした。僕は、赤いマークのついている場所を歩いて、人の死んだ場所に立つことが趣味なのです。命の失われた場所に左右の足をそろえて立ち、靴底でアスファルトの表面を確かめる……。今回ここにきたのも、その延長です。事件のあった場所を眺めるのが好きで、もしかすると、例えば、何かの理由で現場に戻ってきた犯人に会えるかもしれないでしょう」 少年はポケットから両手を出して金網をつかんだ。金網が揺れて、ぎしぎしと昔を出す。彼の視線はまっすぐに佐伯へと注がれていた。 彼の言った言葉に、心臓が止まりそうになる。もしかすると、自分の話の相手をしている男が少女を捕らえた人間だと知った上で言っているのではないか。佐伯はそう考えて、否定する。そのような馬鹿なこと、あるわけがない。 しかし胸の内側は晴れず、嫌な予感が渦を巻く。 鳥のはばたく音がして、見上げると、寒々しい空を背景に、電線の上へ|鴉《からす》がとまっていた。黒い|嘴《くちばし》を、佐伯のほうに向けている。 ……もしかしたら。 佐伯は、ある可能性を考えた。 ……この少年はここで、手帳を拾ったのかもしれない。その手帳と少女の悲鳴とを関連付け、そして近いうちに犯人が拾いに戻ってくるということも想像したかもしれない……。 少年は手帳を隠し持って自分をためしているのだろうか。しかし、まさかそのようなことがありえるだろうか……? 「ところで、行方不明のクラスメイトのことなのですが、今、どこにいるのでしょうね」 少年が首を傾げてこちらを見ていた。まるで佐伯のことを観察するような目で、どこか冷たいものを感じた。 逃げたい。佐伯はそう思った。今なら、少年は金網の向こう側にいる。追いかけてくるには、金網のない公園の出入り口をまわってこなければいけないだろう。しかし、万が一にでも彼が手帳を拾っており、佐伯の不審な行動を警察へ報告したとしたら、どうなるだろう……。 「何か、ご存知ありませんか」 「……いえ、知りません」 「そうですか。なんとなく、あなたならご存知ではないかと思ったので……」 「なぜです……?」 「いえ、考えすぎだったのだと思います。だって、さきほどあなたは、自分は悲鳴を聞いていないとおっしゃったから」 「それが、何か……?」 「だから、おかしいと感じたわけです。そのとき僕は『人の悲鳴』としか説明していなかった。それなのにあなたは、行方不明になったクラスメイトの話題を出したとき、『きみは、彼女と仲が良かったのですか』とおっしゃったのです。『彼女』という言葉を使いましたよね。会話の中で性別に関することなどそれまで一度も出てきていないのに……。佐伯さん、なぜあなたは、いなくなった生徒が女子であることを知っていたのですか……?」 「ああ、それには理由があるのです。毎朝いつもこの道ですれ違う女子生徒と、なぜか今朝は会わなかった。ただそれだけです。だから、あなたの言う行方不明のクラスメイトというのはその子のことではないかと思ったのです……」 少年は頷いた。 「髪の長い、細身の女子生徒ですよね」 「はい、左目の下にほくろのある色白の子です」 生徒手帳にあった写真を思い出しながら佐伯は答えた。しかし、このような会話をはたしていつまで続ければいいのだろうか。少年はやはり自分を疑っているのだ。まるでゆっくりと首をしめられていくような居心地の寒さを感じる。 「大丈夫ですか、お顔の色がすぐれないようですね」 「……少し、気分が悪いみたいで」 「少し待っていてください、今、そちらへ行きますから」 少年は金網越しに言うと、公園の出入り口へと向かった。ブランコのそばに放置していた鞄を、途中で拾い上げる。通りに出て、佐伯のもとへ近づいてくる。大丈夫ですか、と少年が佐伯に声をかける。 さきほどから緊張で額に浮かんでいた汗を、服の袖を使って拭う。 「実は……、昨日から風邪をひいていまして……」 「そんな状態で長々と話につきあわせてしまい申し訳ありません。お手間を取らせないとあらかじめ言っていたにもかかわらず……。どこかで休まれたほうがいいのではないですか」 「そうですね……」 少し考えるふりをしたが、続ける言葉はすでに決めていた。 「……家に、帰ろうかと思います」 この後、数歩だけ進んでから立ちくらみで倒れるふりをするつもりだった。そして少年が駆け寄ってきたら、親切心につけこんで、家まで送ってもらう。そこですきをついて殺害し、ポケットを改めれば問題はない。しかし、そういった面倒な演技をする必要はなかった。 「心配です、家に向かうのでしたら送っていきましょう」 少年は眉間にしわをよせて、佐伯に無理をさせまいという顔をしていた。都合が良い。 「……では、お願いします。家はあちらです」 二人で並んで歩きはじめる。佐伯は肩をすぼめて、いかにも悪寒のするといった姿勢をする。気分が悪いのは事実だったため、風邪のふりをするのは難しくなかった。 道すがら、この少年はいったいどのような人物なのだろうかと考えた。唐突に自分の前へ現れて、なぜか今、いっしょに歩いている。家についたらどうすればいいのだろう。どうやって彼を殺せばいいのだろう。 そこまで考えて、また眩暈がひどくなる。いつのまにか、まるで仕事の予定を考えるように少年の殺害を計画している……。 もうこれ以上、恐ろしいことをしてはいけないと訴える清い心の声もあるにはあった。しかし、もしも彼が手帳を拾ったのであれば、そして少女と自分との関連に気づいたというのであれば、殺害する以外にないのだ。 でなければ、自分の行なった恐ろしい行為は世間の知るところとなるだろう。本当の佐伯が身の毛のよだつ異常者だと知ったとき、これまで自分に接してくれた職場の人間たちは、どのような顔をするのだろう。家から持ってきた花を花瓶に差して窓辺に置いていた男が、実は殺人をためらわない、唾を吐きかけるべき存在だったと知ったら、悲しむのだろうか、憤るのだろうか。一斉にあがるどよめきと失望の中心で、自分は、自分のしたことが恥ずかしくて頭をうなだれたまま何も見られないだろう。羞恥の炎は、胸を焼くに違いない。 決してそうなってはいけない。少年を殺すのは、しかたがないことなのだ。目を必死に閉じて、泣きそうな気持ちでそう自分に言い聞かせた。 家には、すぐに到着した。道すがらどのような会話をしたのか覚えていないが、あたりさわりのない話を、お互いに選んでいた気がする。 「立派なおうちですね」 少年は塀の前で屋根を見上げて口にした。 「そのかわり、古いですよ。どうぞ、上がってください」 二人で門を抜けた。車が出入りできるよう、いつも開けている。少年は途中で立ち止まり、家に並んで建っている車庫へ視線を向けた。黒い乗用車の正面が見えていた。少女を後部座席に乗せていたという痕跡は、昨夜のうちにすべて掃除していた。血の跡も、髪の毛も、何も残っていない。掃除をしたときにシャッターを開け放していたままだった。 「車はあの一台きりですか。そういえば佐伯さんは、お一人でこの家に住んでいらっしゃるのですね」 「はい」 次に少年は、庭に目を向けた。 「木が多いですね」 「趣味なのです。まるで森のようでしょう」 少し見てもいいですかと確認し、少年は庭へ足を進めた。佐伯も後ろをついていく。 曇った空の下で、佐伯の育てた植物は濃い緑色をしていた。少年は立ち並んでいる常緑樹の間を歩き、感嘆するような声を出した。 「広い庭ですね」 やがて少年の背中は、常緑樹の並んでいる区域を抜けて、広い場所に出た。そこは家の南側で、縁側と塀とにはさまれた場所である。石を並べて作った花壇がある。植物は生えておらず、乾燥した灰色の土が見えるだけだ。 そして塀のそばに、竹の筒が数本、並んでいる。かつて朝顔のあった地面は藁に覆われており、その下には……。 「このあたりだけ、木がありませんね」 「縁側の見晴らしが悪くなりますから」 ……下には、少女と、もはや原形をとどめていないであろうコウスケが埋まっている。 竹筒はまっすぐ塀のそばに立っており、揺れ動いてはいない。少年はまだ竹筒に注目してはおらず、背景の一部としてしか認識していない。しかし、もしも地中で、今、少女が蓋の裏側に突き出ている部分を握ってゆらしたとする。すると少年は、不自然に動いている筒に気づき、不思議に思って近寄ることだろう。 そうなる前に、物事を終わらせなければいけない。佐伯は少年を縁側に座らせた。 「お茶を持ってきます」 そう言い残し、縁側から直接家に上がって奥へ向かおうとする。 「それにしても森野さんはどこへ消えてしまったのでしょうか……」 少年のつぶやきが聞こえた。佐伯は一瞬、立ち止まって、縁側に座っている少年の背中を見つめた。 「彼女は、うまく言えないのですが、変質者を誘うフェロモンを分泌しているらしいのです」 いつのまにか少年が振り返って佐伯の顔を見ていた。さきほどのつぶやきは、わざと聞こえるように言ったものだったに違いない。 「そんなフェロモンを振り撒きながら歩くものだから、よくおかしな人に狙われるのです」 「……待っていてください、お茶を、持ってきますから」 佐伯はそれだけ言うと少年から離れた。少年がわざとそのような話を聞かせて佐伯の気をひこうとしているのかどうかはわからない。しかし、彼の口ぶりに、どこか気味の寒さを感じていた。 台所で一人分のお茶の湯を沸かしながら、包丁を取り出す。人を殺す凶器として、それしか思い浮かばなかった。 ガスコンロの青い炎がヤカンの水を熱している。盆の上に、湯のみと急須、そして包丁を並べた。その銀色の刃を眺めながら、これから縁側に腰掛けている彼に向かって背後からそれを振り下ろさなければならないのだと考える。コンロの炎がちらつき、刃に反射した。一人分のお茶の湯だから量は少なく、さっそくヤカンの水が沸騰しはじめてコトコトという音を出す。 佐伯は流しに手をついて体を支えた。そうしていなければ立っていられなかった。少女を地中に埋めたときの甘美な気持ちはかけらもなくなっていた。そのかわり悪夢へ放り出されたような、ひどい気分である。目に映るもの、触れられるもの、何もかもがすべて腐敗臭を放つような気がしてくる。そこでもっとも醜い生物は自分自身である。コウスケを殺し、少女を埋めて、今度は少年を刺そうとしている。恋人を信じる少女の精神に比べ、自分の心はどんなにおぞましいのだろう。コウスケを殺したときから、悪夢はすでにはじまっていた。 いや、あるいは、生まれたときからこの悪い夢は運命付けられていたのかもしれない。この世に生を受けたときからすでに、自分はこのような人殺しとしての避けられない衝動を魂の奥に持っていたのかもしれない。 水が沸騰し、ヤカンの口から勢い長く湯気が吐き出される。火を止めようとして、佐伯は、あることに気づいた。 コウスケ……。 湯気が立ち上り、沸騰した水でぐらぐらとヤカンの中は煮えたぎっている。 コウスケはどんな顔をした子供だっただろう……。 佐伯は、自分の殺した幼い子供の顔をまったく思い出せなかった。何度も一緒に公園へ出かけては親しく遊ぶような長い関係だったはずだ。それなのにまるで、消耗品のように、もはや記憶から消している。 自分は、いったいどうしてしまったのだろう。もはや何もわからなかった。心の一方は、人にやさしく接するような、正しい市民であろうとする。しかしもう一方は、人を地中に埋めて喜ぶような恐ろしい怪物の心である。それは二重人格のように相反していながら、別のものではなく、なだらかに地続きでつながった連続したものなのだ。決して別人ではない。 しかしそうすると、これまで生きてきて、自分が、自分だと思っていた人間は、いったいだれだったのだろう。自分を信じられない自分は、いったいなにを信じて生きればいいというのだろう。 盆に置いていた包丁を持ち上げる。持つ手が、震えた……。 コンロの火を止めて湯を急須に注ぐ。盆を持って、縁側の少年のもとに向かう。 佐伯は静かに歩いた。廊下を抜けて縁側の見える位置にくると、少年の背中が見えた。庭の方を向いて、縁側に腰掛けている。 片手に携帯電話を握り締めて耳に当てていた。警察に電話しているのだろうかと、一瞬、動揺する。 静かな足取りで、背後に近づく。 電話に向かって話をする少年の声が、佐伯にも聞こえてくる。その口調から推し量ると、どうやら警察への通報ではなく、友人に対する電話のようだった。 少年の背後に立ったとき、床板が、|軋《きし》んだ。 不意に少年が振りかえる。そして電話を切った。 「佐伯さん、遅かったですね……」 少年は言った。 「それに、お顔の色がさきほどよりも悪いようです……」 佐伯は、少年のそばに盆を置く。 「ええ、ちょっと……、眩暈がひどくなって……」 急須から湯呑みへ茶を注ぐ。 自分は、心の内側に潜んでいる恐ろしい獣と戦わなければならない……。 湯呑みを少年に差し出しながら、佐伯は無言で決心する。 包丁は、台所に残してきた。コウスケの顔を思い出せないと気づいたとき、そうしなければならないと感じた。そうすることが、悪夢から抜け出すための唯一の方法であるように思えたのだ。 佐伯の差し出す湯呑みを、少年は受け取った。薄い緑色の液体から白い湯気がのぼり、空中に消える。それを少しの間、眺めていたが、口をつけることなく湯呑みを下に置く。 「佐伯さん、ひとつ、いいお知らせがあります」 少年は目を細めて安堵するような表情を浮かべると、ため息を吐くように言った。 「昨夜からいなくなっていた森野さんが、ついさきほど、家に戻ってきたそうです」
† 4
壁の掛け時計の針が深夜の十二時を差したとき、佐伯は電気を消した自室の片隅で体を丸めていた。膝を抱え、ただ暗闇の中で息を潜めさせていた。体の震えは容易に止まなかった。日の落ちはじめるころからずっとその状態で、もはや寒いのか暑いのか、自分が生きているのか死んでいるのかもわからなかった。 掛け時計の長針がひと目盛り動いた。すると、ちょうど窓の外から差し込む月光を反射する角度になったらしい。針が白く輝いた。それを視界の中にとらえて、ようやく佐伯は決心して立ちあがる。階段を下りて、まずは車庫へ行った。中に置いていたスコップと、箱の蓋を開けるためのバールを携えて、庭へと向かう。 世界が暗闇へ沈むのを待っていた。日のある明るいうちには、だれかが間違って塀から覗きこみ、佐伯のしていることを見てしまうかもしれないと考えたからだ。しかし待っている間、あらゆる想像が頭の中を駆け巡り、もはや平常心ではいられなかった。暗闇の中で恐怖ばかり膨れ上がり、何度も気絶しそうになりながら、気づくと六時間も体を丸めていたことになる。 常緑樹の並んだ場所を抜けて、縁側と塀にはさまれた庭へ出る。塀のそばに立っている竹筒を見据えながら、一歩ずつ近づく。手の甲が、やけにずきずきと痛んだ。前夜、少女に爪痕を残された場所である。 佐伯は、胸の辺りまで高さのある乾いた竹筒の前に立った。少女の棺桶とつながっているはずの竹筒である。手の痛みは、まるで血の流れそうなほどだった。 まずはじめに少女へ呼びかける。しかし返事はなかった。佐伯は震える手で筒を土から引き抜き、そばに置いた。地面を覆っていた藁を掻き分けると、まるで蝉の|蛹《さなぎ》が掘り起こした跡のような筒の立っていた穴が現れた。 スコップの先端を、地面に突き刺す。佐伯は穴を掘り始めた。 目立たないよう照明を一切つけずに作業した。昼間に空を覆っていた雲は、風に流されて消えていた。昨晩と同じように、辺りは白く月光に照らされている。塀の向こう側にある通りを人の通る気配はなく、ほとんど無音の中、スコップの先が地面に食い込む音だけが存在した。眩暈はあいかわらずひどく、熱でもあるように体がふらつく。その状態で穴を掘り続けながら、昼間、縁側で少年の言ったことが頭に|蘇《よみがえ》る。 「彼女、ひどいめにあったらしいですが、命に別状はないそうです。さきほど電話で話をしました。もう帰ります。いろいろな話を聞かせてくださって、ありがとうございました」 湯呑みの中の茶が冷めてもいないうちに少年はそう言うと、頭を下げて縁側から立ちあがったのだ。彼は何を言っているのだろうかと、佐伯には、少年の話す言葉の意味がわからなかった。少女が土の中から出られるはずがない。 しかし少年は、戸惑っている佐伯を振りかえりもせず、足元に置いていた鞄を拾い上げて門の方向へと歩き出す。面食らいながらも、佐伯は縁側から下りて靴を履き後を追った。林立する木の幹の間で、少年の背中に追いついた。 「家に……、家に戻ったというのは……?」 そんなことは嘘にちがいない。内心では思いながら、佐伯は聞かずにいられなかった。 「そのままの意味ですよ。電話の彼女は、なにか精神的にひどくショックをうけているみたいでした。今後が心配です。立ち直れるでしょうか」 門を抜け、鞄を下げた学生服の少年は、公園の方角へ歩き出した。佐伯は門のところで足を止めた。片方の門柱に片手をついて体を支え、離れていく少年の背中をただ見ていた。 不意に、門からさほど遠くないところにあるT字路で、少年が立ち止まった。角の向こう側、佐伯には見えない位置からだれかが近づいてくるらしく、彼は片手をあげていた。やがて角から現れて少年のそばに立ったのは、見覚えのある、髪の長い少女だった。 目を疑った。少女の顔は、よく見えた。整った美しい顔で、白い肌である。地中に埋まっているはずの少女だった。彼女は少年と何か話をしている。 自分は夢の中にいるのだろうか。眩暈のために家や電柱のあらゆる直線がやわらかく歪んだ。道路や壁は粘性の沼のように波をうつ……。 少女を埋めていた竹筒のある方を見る。佐伯は走り出した。T字路にいた二人から目を離す瞬間、少年が自分の方を振りかえった。しかし問題は竹筒の下である。佐伯は、少女を埋めた場所に立った。棺桶へ通した筒に呼びかける。しかし返事はなかった。地面の下にどんな人間の気配もなく、筒の中を覗いても暗闇が濁った黒い水のようにたまっているだけである。 少女はやはり、土の中から脱出していたのだ。 いや、ちがう。佐伯は否定した。土に掘り返した跡はない。 それならば……。 自分はいったい、何を地面に埋めてしまったのだろう……。 少年が帰って以降、暗くなるまでの間、幾度も竹筒に呼びかけた。しかし声の返ってくることは一度もなかった。いくら考えても答えは出ず、結局、夜がふけるのを待って箱を掘り返すという以外にできることはなかった。 月光の下に、土を掘り返す音だけがある。佐伯は一心に作業を行なつた。庭木が黒い壁のように両側から見下ろしていた。夜の露を受けて常緑樹の葉は濃密な匂いを出している。 淡く白い霧のようなものが、立ち並ぶ幹の間から漂い、庭中を覆っていた。木々も呼吸をする。それら白い霧は、自分の植えた植物たちの吐息なのだと、佐伯は感じていた。 スコップの先端が土へ刺さる感触を手に感じながら、そして土を持ち上げてそばに捨てるという作業を繰り返しながら、まるで自分が悪夢の中に閉じ込められているような気がした。土を掘り返す作業が単調だからだろうか。自分がこの世で生きて暮らしているという人間ではなく、はるか昔から今まで、そしてこれからさきもずっと、ただ夜の闇の中で永遠に土を掘り返し続けるただの人形である気がしてくる。 手が痛む。手の甲に幾本も引かれた赤い爪痕の線が、それぞれ少女の怨念を宿しているように思える。 はたして土の下に何が埋まっているのだろう。穴が深くなっていくにつれ、わけもわからず佐伯の目から涙が出てきた。スコップで一山の土を捨てるたびに、服の肩の部分で目元を拭わなければ何も見えなくなった。地中に埋めたものが恐ろしい。自分のおかした罪の塊が、そこにあるはずなのだ。それはきっと鏡のように、人間とは思えない自分の本性を映し出して佐伯に突きつけるだろう。 永遠に続くと思われた作業が、やがて終わった。庭の隅へ掘った穴の中に、自分で作り出した木の箱が静かに現れた。土の匂いの中、白い霧に包まれて、月光に浮かび上がっている。蓋は釘付けされたまま開いた様子がなく、親指ほどの二つの空気穴は暗い。肌の粟立つような気配が、箱から漂ってくる。それは妖気とも言えるほどの、冷たい空気だった。佐伯は嗚咽をもらしながら、バールで蓋をこじ開けた。 最初にむせ返るほどの血の臭いが鼻をつき、次に箱の中へ収まっている制服姿の少女が現れた。彼女は胸の上に手を組んだ状態で仰向けに寝ていた。彼女の顔や箱の壁、蓋の表側が、赤く汚れていた。箱の底から数センチほどの高さまで黒々とした液体がたまっている。 少女の首から流れ出た血だった。組んだ手の中に、シャープペンシルが振られている。彼女は佐伯に宣言した通り、それで首を切ったのだろう。 勢い良く吹き出したであろう血で、箱の中はひどい有様だった。佐伯は口に手を当てて穴から出た。とにかく少女から遠ざかりたかった。塀に沿って歩き、一本の常緑樹のそばまでくると、膝をついて吐いた。一日、何も食べていなかったため、胃液しか出てこなかった。 お気づきの通り、彼女は森野夜さんではありませんよ……。 恐ろしさに肩を震わせていると、そのような声が聞こえた。最初は自分の頭の中に聞こえるだけの声かと思ったが、もう一度、今度ははっきりと昼間の少年の声で聞こえた。 「佐伯さん、あなたは彼女を森野さんだと思いこんでいただけなのです」 すぐそばで、地面を踏む靴の音が聞こえた。佐伯が顔を上げると、人影が白い霧の中から現れた。木のそばに立ち、月光を背中で受けるような格好で佐伯を見下ろす。影になって顔はよく見えなかったが、おそらくあの少年だった。 もうひとつ、今度は少し離れた場所で靴音がした。常緑樹の間、霧の向こうにだれかがもう一人いた。その人物も歩み出てきて、佐伯の掘り起こした棺桶にまっすぐ向かう。佐伯や少年よりも背が高い、大きな体の男の子だった。おそらく少年と同年代だろう。月明かりの下で見えた顔には見覚えがない。 自分の埋めた見知らぬ少女に、見知らぬ男が近づく。いったい今、何が起こっているというのだろう。理解ができなかった。はたして現実なのか、それとも自分は眠っているのか、わからない。少年を見上げて、佐伯は首を横に振った。何もわからないという意思表示だった。涙を流しながら首を振る佐伯に、少年は説明した。 「彼もクラスメイトです。あなたが埋めていたあの子の、恋人です。彼の名前は……」 少年は名前を言った。聞き覚えのある名だった。 「ああ……、それでは彼が……」 少女の話していた人物だった。 その人物は穴の中に下りて、身をかがめた。佐伯のいる位置からは、彼の背中だけが見えた。悲痛な声で話しかけて、そのたびに彼の背中は揺れた。おそらく少女の肩を揺さぶっているのだろう。 彼は少女に語りかけている。最初のうち静かな、冗談を確認するような声だったものが、何度も呼びかけて少女の返事がないたびに、大きな声となっていく。 「さきほどあなたが見た彼女の顔に、ほくろはありましたか」 少年が問いかけた。佐伯は無言で、首を横に振る。 血で汚れた少女の顔は、昨晩、殴ったせいでひどく腫れていた。しかし、さきほど見た限りでは、ほくろはなかった。 「いつもすれ違っていたのに、今朝だけは見かけなかった女子生徒……、今日の昼にあなたは、その行方不明になった少女の左目の下に、ほくろがあったと説明した。それが、あなたを疑った原因です。森野さんとあの子を取り違えているのだと、そのときに知ったのです」 「でも、あの子の鞄の中に生徒手帳が……」 「森野さんの落とし物を、家の近いあの子が届けようと持っていたものなのです。そのことは、今日の午前中、学校で森野さんから聞いて知っていました。だからあなたがほくろのことを言ったとき、生徒手帳の写真を見たのではないかと思ったわけです。最初は佐伯さんが、あの子を車で轢いてしまったのかと考えました。顔がつぶれてしまってわからなくなったため、やむなく生徒手帳の写真で確認したのかと……」 佐伯は自分の両手を見つめた。車に押しこむとき、彼女の顔をひどく殴ってしまった。その腫れあがった顔を正視できず、すぐに棺桶の蓋をかぶせてしまい、まともに顔を見なかったのだ。だから、生徒手帳の写真を彼女だと思いこんでしまった……。 ゆっくりと、自分のおかした間違いを理解していく。今日の昼、少女は土の中で笑っていた。あれは狂っていたのではなかったのに違いない。佐伯が彼女のことを、違う名前で呼んでいたからだ。そのときすでに、少女は佐伯のおかした間違いに気づいており、それがおかしかったための笑い声だったのだ。 佐伯はあらためて穴を見た。自分の埋めた少女のそばに、その恋人という人物がいる。はたしてどれほど深く二人が愛し合っていたのか、佐伯には具体的なことは何もわからない。ただ、地中にいる少女と交わした短い会話の中で、彼女が彼の名を口にしたことが、二人の関係の重みを表している気がした。四方を塞がれた小さな暗闇の中で、彼女は決して佐伯に屈するような態度を取らなかった。しかし恐怖は想像以上だっただろう。そのような中で唯一、自分を助けに来るかもしれない存在として、彼のことを思い出して名を挙げたのだから。 彼は少女のわきに腰を下ろし、静かになっていた。語りかけるのをやめ、沈黙したまま棺桶の中を見ている。 「佐伯さん、あなたがあの子を家のどこかに隠していると気づいたのは、今日の昼、別れ際のことでした。あなたは、門のところに立っていましたね。実を言うとあのとき、彼女の居場所について、僕は何もわからなかった。でもあなたは、生きて動いている森野さんを目にした瞬間、顔を青ざめさせて庭に目を向けたのです。そして走った。だから、庭のどこかに埋めたのではないかと推測できました」 少年が森野夜という少女を電話で呼び出したのは、自分に見せて動揺させるためだったのだと気づいた。その結果、少年は庭に目星をつけて、自分を監視しておくことができたのだ。 「あなたは……」 佐伯は少年を見上げて口籠もる。目の前にいるこの少年は、いったい何者なのだろう。クラスメイトの仇をとるため自分の前に現れたとしか思えなかった。しかし、それでいて自分に向ける彼の口調には、犯罪者に対するような蔑みや憤りを感じなかった。静かで、穏やかな声である。 もしもこの少年に会わなければ、自分の罪は暴かれなかったかもしれない。なぜ自分は彼と関わってしまったのだろう。 そう考えたとき、ようやく手帳のことを思い出した。それを拾うために出かけて、少年に会ったのだ。 「私の手帳は、どうしましたか……」 少年にそう尋ねたが、彼は首を傾げた。 「あなたが公園のそばで、私の手帳を拾ったのではないのですか……」 佐伯は、手帳のことを説明する。少年は納得したように頷いた。 「それで地面を探していたのですか」 しかし彼は、手帳など見ていないという。 「あなたが持っていないとすると、私の手帳はいったいどこに……」 「最後に見たのはどこでしたか」 「職場でした。いつもは上着のポケットに……」 もしかすると……。 佐伯の頭の中に、ある考えが浮かんだ。 「……あの子の体を調べてみてください。私のかわりに、お願いします」 佐伯は少女のいる方を指差して、少年に頼んだ。恐ろしくて、少女とその恋人のいる穴には近づけなかった。 「あの子が、持っているかもしれない」 車の中で上着を少女にかぶせた。そして少女は、埋められるよりも前に目覚めていた……。 少年は佐伯のそばを離れて穴に近づき、静かになっている少女の恋人のわきを抜けて穴におりた。身を屈めて、少女の服を調べる。 「ありました。これですね」 やがて少年は、手に小さな手帳を持って立ちあがった。 「そしてついでにこれ。彼女の生徒手帳です。スカートのポケットに入っていましたよ」 少年は二つの手帳を持って、再び佐伯のそばに近づいてくる。 佐伯の手帳を持っていたのは、やはり少女だったのだ。おそらく、逃げ出す機会があったときのために、犯人の手がかりをつかんでおきたかったのだろう。箱に閉じ込められた後は、自分が死んでも、いっしょに中に入っている手帳が犯人を告発してくれると願っていたかもしれない。そして少女のその行動は、不幸を運ぶ鳥となって佐伯を破滅に導いた。 自分は、地中にいる少女に負けた。彼女を埋めたとき、すでに自分は罠へかかっていたのだ。 「佐伯さん、あなたは……」 少年は手帳を眺めながら何かを言いかけた。彼が何を言おうとしたのかはわかった。地面に手をついたまま、佐伯は首をうなだれた。 「ええ……、その通りです……」 それだけは、見られたくなかった。 佐伯は少年に顔を向けられなかった。彼の視線が痛く、ただ顔を伏せていることしかできない。身を焼くほどの恥ずかしさで、痙攣するように体が震える。 少年が探し出して月光の下に持ち出したものは、茶色の革表紙をした警察手帳だった。表紙には県の警察名が金色で縦書きされており、それをめくった一枚目には佐伯の顔写真が、その下には階級と名前がはっきりと記されているはずだった。 あってはならないことである。佐伯は真面目に勤務し、思いやりのある人間として人望もあった。商店街を巡回中、仲良くなった店のおばさんに、笑顔であいさつをしたこともあった。コウスケの両親が、幼い息子を佐伯に預けたのも、信頼してくれていたからだ。自分自身、昔は、この仕事に従事する清い人間として自分が生きていくことを疑わなかった。それなのに、法律も、人権も、自分をやさしい子だと言ってくれた祖母も、この世にあるすべてのものを裏切ってしまった……。 「お願いです……。わかっていますから……。どうか、何も言わないでください……」 懇願するように少年へ言った。地面に膝をつけ、顔を伏せている佐伯のもとに、彼の足音が近づいてくる。 「顔を上げてください」 少年の言葉に、おそるおそる従った。目の前に、少年の差し出した警察手帳があった。受け取れ、という意味なのだろう。地面に膝をついたままそう解釈し、佐伯は手帳をもらいうけた。立ちあがることができず、今では正座をするような格好となっていた。 「佐伯さん、まだ聞きたいことがあります。あなたがあの子と森野さんを取り違えていたと知ったとき、交通事故のあった可能性を考えました。あの子の顔がわからなくなる理由として、もっともありえそうだと思ったのです……」 警察手帳を両手で強く握り締めながら、少年の言葉を聞いた。 「でも、地面には血の跡もなく、あなたの車には事故の跡もなかった。さきほどあの子を調べたとき、殴られた跡や骨折した個所はありましたが、どうやら自殺したような首の怪我以外に致命傷はない。あなたは、彼女を事故で死なせてしまって、それを隠すためにあそこへ埋めたのではありませんね」 佐伯は頷いた。すると少年は両手を膝にあてて前かがみになり、顔を近づけてきた。 「それでは、あなたはなぜ、あの子を埋めていたのですか……?」 一人の少女を死に至らしめた佐伯を非難するわけでもなく、まるで少年は、それを知ることがもっとも重要なことであるかのように問いかけた。佐伯は質問に対する明確な回答が思いつかず、困り果てた後に、無言で少年を見て首を横に振った。 「……まるで、わからないのです。埋めたくて、埋めてしまいました」 それが正直な気持ちだった。 自分はなぜコウスケを殺してしまったのだろう。なぜ人を生き埋めにするという恐ろしい妄想に取りつかれたのだろう……。 どこにも理由はない。まるでそういう生き物として生まれてきたように、佐伯は、二人の人間を埋めたのだ。 「埋めてみたくて、埋めてみました……」 もう一度、泣き笑いのようにつぶやいてみると、胸が|抉《えぐ》られるようだった。やはり自分は人間でありえないという答えに、ついに行きついてしまった。手が震えだし、持っていた警察手帳を取り落とす。 「私は……」 これからどうやって生きていけはいいのだろう。見つけてしまった自分の本当の姿が恐ろしい。そのような自分と、これからどのように生きればいいというのだろう。 なぜ自分は、このような|穢《けが》れた魂を持って生まれついてしまったのだろう。なぜ、他の人と同じではないのだろう。心の中に、そのことへの疑問と悲しみが溢れ出す。 人を殺して喜びを得るようなことをせず、自分も普通の人のように生きたかった。人間を生き埋めにするという妄想に取りつかれず、夜に一人で穴を掘って心を落ち着けることもせず、ただそっとだれにも迷惑をかけないよう生きたかった。 決して多くを望まない。どんなにささやかでもいい。ただ自分は、上司が子供の写真を眺めるように、同僚が真新しいシャツで職場へ現れるように、普通の人が送るような、当たり前の人生をいつも夢見ていた。自分にそれが与えられていたなら、どんなによかっただろう。 両目から静かに涙がこぼれてきた。地面に膝をついたまま、その涙が落下して土に染みこんで消えるのを見つめた。どうすれはいいのか、何もわからなかった。世界は闇へと沈み、息苦しさと圧迫感の支配する見えない棺桶の中へと、佐伯は閉じ込められた。
…………。 どれほどの時間が過ぎたのか、一瞬、わからなかった。佐伯はいつのまにか縁側に座っていた。まだ夜は明けておらず外は暗かったが、じきに朝の訪れることを予感させる鳥の声が遠くから聞こえていた。 家の中に明かりが点っており、だれかの歩く気配がする。立ちあがって確認するような体力はなく、足に力が入らない。手は、指の先まで小刻みに震えていた。 縁側に腰掛けたまま振りかえって見ていると、やがて少年が明かりの中を横切った。目が合うと、大丈夫ですか、と声をかけてきた。どうやら、彼が縁側に座らせてくれたらしい。 「……少し、記憶がありません」 「あなたはずっと泣いていました」 顔を触ると、まだ乾ききっていないものが残っていた。 「勝手に家へ上がらせてもらっています」 少年の言葉を開きながら、庭をあらためて見た。 掘り返したはずの穴が見当たらず、筒が四本立っている。一瞬、何もかもなかったことなのではないかという錯覚を覚えた。 「あの竹筒は蓋の穴に通して、呼吸ができるようにという工夫だったのですね」 少年が佐伯のそばに立って言った。その言葉から、彼が穴を再び埋めたのだと理解した。しかしなぜ少年はすぐにでも警察に電話をしないのだろう。なぜまた穴を埋めたのだろう。 少女の恋人という男の子の姿も見当たらない。おそらく自分と同じようにどんな反応も見せない状態になって、別の部屋で寝かされているのだろう。 地中で少女は、彼が自分を見つけて一人きりにはさせないだろうと信じていた。狂おしい二人の恋を引き裂いた罪ははかりしれない。 縁側のある畳の間を佐伯は振りかえる。そこで少年は携帯電話を取り出し、だれかにかけていた。片手に生徒手帳を持っている。 きみの生徒手帳をさっき道で拾ったのだけど……。 少年が電話に向かって言うのを聞き、その生徒手帳が森野夜という少女のもので、電話の相手も彼女にちがいないと推測した。 電話をはじめた直後に通話が切られたらしく、少年は携帯電話をまじまじと見て、そういえばまだ朝だったな、とつぶやいた。結局、森野という少女は、自分の落とした手帳が佐伯の人生に大きく影響を与えたことなど、何も気づいていないのだろう。 空が明るくなり始めた。縁側から東を見ると、立ち並ぶ常緑樹がある。黒く影になった木々の向こう側が、朝焼けで赤くなっていた。いつのまにか白い霧も消えている。 少年が近づいてきて、佐伯の左隣に腰掛けた。 地面に突き立っている数本の竹を眺める。埋めなおしたときに使ったらしいスコップが、そのそばに放置されている。 木々の間から朝日がもれて、佐伯の隣に座る少年の白い頬を照らし出した。逆光だったため、まぶしくて佐伯は少し目を細めた。少年の横顔の輪郭だけ輝き、後は影で黒く染まった。そのような中、竹筒を見つめている彼の瞳が印象に残った。 少年の目にはどんな感情も宿っておらず、無表情だった。それは、地中に埋める標的を探して車を運転しているとき、不意にルームミラーに写った自分の顔にあった、底無しの暗闇を秘めた瞳に似ていた。 佐伯は朝日の中で、静かな気持ちになった。涙に溶けて消えたのか、眩暈もいつのまにかなくなっていた。 「私は……」 佐伯が口を開いてそう言うと、少年が振り向いた。逆光の作る暗い影の中で、佐伯の紡ぎ出そうとする言葉に耳をすませている。 「……私は、私の行なったことをすべて、警察でお話ししようかと思います」 その決心は、唇の間から零れ落ちるように出てきた。その途端、全身の力が抜けていきそうになる。せっかく止まっていた涙が、また出てきた。しかし今度は、絶望からくる涙ではない。朝の光と同様、清く透明なものだった。 おそらく自分の人生はそれでおしまいになるだろう。大勢の人間が佐伯をなじり、その視線は体を貫くだろう。しかし構わない。自ら罪を告白し、裁かれることを望むことこそ、人間としての最後の決断だった。 「よかった……。自分でそう決心できてよかった……」 これまで、自分のことをはたしてどれだけの回数、人間ではないと悲しんだことだろう。恐ろしいことを想像し、実行し、そのたびに胸の奥の暗闇こそが自分の本性だと嘆いていた。しかし今、自分に残っている人間の部分が静かに勝ったのだ。 「自分の罪がそれで消えるとは思えません。ですが、私は自分でそう決心できたことを誇りに思います……」 少年が、口を開いた。 「佐伯さんが自首したいのなら止めません。でも、あと半年、待ってもらえませんか」 理由をたずねると、少年は立ちあがった。 「もう家に帰ります。佐伯さん、いいですか、半年ですよ。でなければひと月でもいい。感謝しているのならお願いします。そして警察には、佐伯さんが自分一人で何もかもやって、自首を決断したと説明してください」 森野夜という少女のことや少年のことをだれにも言わない。佐伯はそう誓わされた。 「いいですか、彼は、自ら望んだのです。それについてあなたは気に病む必要はない。助け出そうとしても彼は拒否するでしょう。しかし世間には、あなたがやったと説明してください。ここには何も証拠を残していきませんから、たとえ佐伯さんがどのようなことを証言しても、あなたの他に僕がいたなどとだれも信じませんよ」 縁側の下に置いていた靴を履きながら、少年は佐伯に言い聞かせるような口調で話した。 彼が何を言っているのか、理解できなかった。聞き返そうとするうちに少年は縁側のそばを離れ、門の方へ向かいはじめる。別れの挨拶もせずに無言だった。振り返ることもなく、立ち並ぶ常緑樹の幹の間へ少年の背中は消えた。あとはただ、朝のおとずれた庭と、佐伯だけが残された。 ふと、気づいた。彼が一人で帰ったのだとすれば、どこかの部屋で寝かされていると考えた少女の恋人は、どこへ消えたのだろう。 縁側から立ちあがる。 予感はあった。 半ばよろけそうになりながら、裸足で庭を横切る。朝の冷たい空気が、吐き出す息を白色に変えた。 庭の端に突き立っている竹筒は少しも傾いたところがなく、明るくなりかけた空をまっすぐ差している。少年の埋めなおした棺桶が、その筒の下にあるはずだった。 佐伯は筒の先端に耳を近づけた。 筒の内側の壁に反響し、少しくぐもっていたが、地中から声が聞こえた。棺桶の中で恋人と寄り添い名前を呼び続ける男の子の声だった。それはすすり泣くような静かな声で、ただ少女の名前だけ繰り返し呼んでいた。 [#改ページ] Ⅵ 声 Voice [#改ページ]
† プロローグ
最近の妹は起きて顔を洗うと、まず犬の散歩に出かける。十一月も終わりになると朝が冷えこむため、いつも寒そうにしながら外へ行く。 その日の朝も、彼女は震えながら玄関に向かっていた。僕は食卓で朝食を食べながら、いつも通り新聞の死亡欄に目を通していた。 部屋の隅に石油ストーブがあった。母がつけたばかりで、灯油の臭いが部屋に充満していた。脳細胞が消滅していくような臭いだった。ストーブの一酸化炭素中毒で子供が死んだという記事を、読んでいた新聞の中でちょうど発見した。 換気のために窓を開けると、冷たい朝の空気がなだれこんできて、部屋に充満する臭いを吹き飛ばした。空に雲が薄くかかっており、庭には霜がおりていた。 セーターとマフラーで身を包んだ妹が、窓の外に立っていた。窓を開けた僕と目があうと、やあ、と言って手袋の緑まった手を振った。足元に犬がいて、首輪につなげた紐を彼女は片手に持っていた。 「さっきからこの子、庭の隅を妙に気にして動かないの」 妹は犬を指差して言った。犬は、隣の家との境にある塀のそばで、地面に鼻先を近づけ臭いを嗅いでいる。前足で、穴を掘ろうとする仕草も見せた。 「ほら、もう行こう。散歩の時間がなくなるよ」 妹は犬の紐を引っ張りながら話しかけた。彼女は散歩の後、身支度を整えて学校へ行かなければならない。犬は彼女の言葉を理解したのか、庭の片隅から離れる。そうして妹と犬は、白い息を吐きながら視界から消えていった。 窓を閉めてよ、と背後から母に言われた。僕は言われた通りに窓を閉めてから外へ出た。 庭の片隅に、一抱えもある大きな石が転がっていた。僕はそれを、犬の掘ろうとしていた場所に移動させた。それで、犬は地面が掘れなくなった。その場所を掘り返されてはまずかった。もう少しで妹は、僕が半年前に埋めた何人分もの人間の手を発見してしまうところだった。学校から帰ったら、見つかる前に別の場所へ埋めなおそうと考えた。そして、おかしなものをなぜか見つけてしまうという妹の特殊な運命を垣間見た気がしていた。 家の中に戻り、僕は新聞を再び読んだ。何かおもしろい記事でもあるの、と母が聞いた。別に、と返事をしながら、その日の新聞にも、北沢博子に関する新たな情報が掲載されていないことを確認した。 北沢博子の死体は、七週間前に廃墟で見つかった。うちからそう遠くない、同じ市内のことである。その廃墟は、以前、病院だった。市の中心から山の方へ向かった寂しい場所にあり、道路からそれて砂利道を進んだ先にあった。錆びた金網を越えたところに、取り壊されず残っている。周囲は一年中、枯れた草が広がっているだけで、他にどんな建物もなかった。 三人の小学生が、その廃墟を探険している最中に、北沢博子の死体を発見した。その三人は現在、カウンセリングを受けているという。 死体の発見された当時、新聞やテレビはこのニュースを大きく取り上げた。しかし今ではほとんどだれも彼女のことを語らない。捜査の状況が現在どうなっているのかわからなかった。 僕の集めた彼女に関する記事は、死体発見の経緯を印字した文章と、彼女の顔写真だけである。どちらも新聞の切り抜きだった。 写真は、生前の笑った顔だった。白い八重歯を覗かせて彼女は笑みを浮かべ、直毛の黒い髪の毛を肩でそろえていた。彼女の写真はそれ以外に公開されていない。 警察はどこまで犯人に近づいているのだろう。 その日の夕方。 授業の終わるころ外はすでに薄暗くなっていた。教室は蛍光灯をつけており、窓ガラスは鏡のように教室内を反射して映し出している。帰りのホームルームが終わると、クラスメイトたちはまるで波がひくように教室を去っていく。ざわめきとともに教室の出入り口から出ていく彼らの中で、ひとつだけ動かない人影が、僕の見ていた窓ガラスに映っていた。まっすぐの長く黒い髪の毛に、雪で作られているのではないかと思うような、白い顔をした女子生徒である。森野夜だった。 教室に二人だけが残った。 「見せたいもの、というのは?」 僕は彼女に聞いた。その日、昼休みの終わるころ、廊下を歩いている僕にそっと彼女が耳うちしたのだ。見せたいものがあるから残ってなさい、と。 「死体の写真よ。手に入れたの」 人にはそれぞれ、生きかたというのがある。百人いれば、百通りの生きかたがあり、おそらく人は、自分以外の人間の生きかたをうまく理解できないだろう。 彼女と僕はお互いに、一般的な|範《はん》|疇《ちゅう》からはみだしている特殊な生きかたをしていた。つまり、入手した死体の写真を見せ合うような、生きかただ。 彼女は鞄からA4サイズの紙を一枚、取り出した。光沢のある滑らかな表面をしている。プリンタで美しく印刷するための、専用の紙だった。 コンクリートの殺風景な部屋を撮影した画像が印刷されている。それを一目、見たときに感じたことは、赤い、だった。 写真の中心に横長の台が配置されており、その上や周辺、壁や天井がその色に染まっている。鮮やかな赤ではない。照明が届かずに部屋の片隅へ残っている暗闇から、徐々に浮かび上がってくるような、黒味を帯びた赤色だった。 中心に写っている横長の台に、彼女が載っていた。 「……これは北沢博子さんの」 僕がそう言うと、森野はわずかに眉をあげた。見落としそうなほどきさやかな、彼女の驚いた表情である。 「よくわかったわね」 「ネットで入手したのかい」 「人にもらったのよ。市の図書館で、北沢さんに関する新開記事を切り抜いて集めていたら、通りがかった人がくれたの。北沢さんの写真だそうだけど、私にはよくわからなかったわ」 森野夜は美しい顔をしていたため、他校の男子生徒に町中で声をかけられるということがときどきあった。しかし、学校内ではほとんどだれも近寄らない。彼女がまったくそういうことに興味を示さないことを周囲の人間は|覚《さと》りはじめていた。 しかし市の図書館という特殊な場所で、彼女が変わった新聞記事を切り抜きするのを見て、新たな声のかけかたを思いついた者がいたらしい。 写真の印刷された紙を、彼女は僕の手から取り上げて眺めた。目を細めて、顔を近づける。 「よくこの写真を一目、見ただけで、北沢博子さんだってわかったわね……」 だってこの写真の彼女……。 ほとんど人間らしいところが……。 彼女はそうつぶやいた。僕は、ほとんどあてずっぽうで言ったのだと説明する。写真の台に、北沢博子の頭部が置かれていた。その横顔と髪型から推測したのだと告げる。 「ああ、そうなの」 彼女は納得したらしく、頷いた。 僕はその写真をくれた人物についてたずねたが、彼女は教えてくれなかった。帰ったら自分でネットを探してみようと思った。 森野から目を離して、僕は窓を見た。ガラスの向こう側には暗闇しかなくなっていた。深く底無しの闇である。白い明かりに照らされた教室内の、並んでいる無数の机が、反射して浮かび上がっている。 「人間には、殺す人間と、殺される人間がいるね」 「突然、何を言い出すの」 人を殺す人間が、確かに存在している。どんな理由もなく、殺したくなるのだ。成長する過程でそうなるのか、生まれつきそうなるのかはわからない。問題は、その性質を隠して、それらの人々は、普通の人間として生活しているということだ。この世界にまぎれこんで、見た目には普通の人と何ら変わらない。 しかしあるときふと、殺さずにはいられなくなる。社会的な生活から離れて、狩りへ赴く。 僕も、そのうちの一人だ。 これまでに僕は、幾人かの殺人者と目を合わせた。それらの多くの目は、ある瞬間、人間でない目をする。ほとんど気づくか気づかないかという程度のちがいだが、瞳の奥に、通常とは異質のものを見た。 たとえば、普通の人と正面に向き合って接していれば、その人は僕を人間として認識し、それ相応の配慮を持って応対するだろう。 しかしこれまでに僕の見た殺人者は少し違っていた。彼らの瞳をよく見ていると、「今この人は目の前にいる僕のことを生きた人間ではなくただの物体としてとらえた」と感じられる瞬間があった。 「ねえ……」 窓ガラスに浮かび上がっている森野と目が合った。 あなたが彼女を殺したわけじゃないでしょうね……? だってこの写真の彼女、髪の毛はパーマがかかっているし、色も……。新聞で公開されていた写真とは違っているのに、なぜあなたはこれが彼女だとわかったの……? 森野の声を聞きながら、今日は冴えているな、と思った。 彼女の瞳には、これまでに会った殺人者と同じような特殊な気配はない。人間を人間として映し出す瞳をしている。おそらく彼女がこの先、人を殺すことはないだろう。彼女は普通の人に比べて特殊な趣味を持っているが、正常な人間の範疇にいる。 僕と森野はところどころ似通ってはいるが、そこが違うのだ。その違いは決定的で、人間なのか、そうでないかをわけるようなものだと思う。 彼女は人間。いつも殺される役だ。 だが僕は違う。 「パーマをあてた後の顔写真も公開されているんだ。親族に無断で使用された写真だから、あまり出まわってないみたいだけど。そっちに見覚えがあっただけだよ」 「そういうわけか」 彼女は再び納得した。 家に帰り、僕は二階の自室でパソコンを起動させた。北沢博子の死体の写真を求めてネットを探しまわる。部屋の空気が淀み始め、濁ってくる。しかし見つからなかった。 あきらめて僕は、本棚の奥に際していたナイフを取り出した。刃に映りこんだ自分の顔を見つめる。外から聞こえる風の音が、かつてそのナイフによって殺害された人の悲鳴に似てくる。 ナイフがまるで意思を持ったように僕へ呼びかけることがあった。あるいはもしかすると、僕の心の奥底にいるものが、ナイフという鏡に映して自分の声を聞かせているだけなのかもしれない。僕は窓の外を見た。遠くにある街の光が、夜空に薄く明かりを滲ませていた。 手に持ったナイフから、あるはずのない音が聞こえてくる。刃の乾燥する音だと、なぜか僕はそう感じる。 僕は森野に嘘をついた。パーマをあてた北沢博子の顔写真は、一切、出まわっていない。
† 1
これまで、家族のうちのだれかが一人、一時的に家の中から消えるということはあった。たとえば父が出張でいなくなったときや、母が友達との旅行で出かけているとき、四人で暮らしていた家の中が、妙に風通し良くなったように感じた。私が修学旅行に参加しているときも、家にいる両親や姉は、いつも私のいるはずの空間に空気しかないのを見て、似たような虚しさを感じていたのだろうか。しかしそういった家族のひと欠けも、たいていはほんの数日のことだった。欠けていた家族が旅行先から帰ってくれば、また元通り、家の中には四人の顔が見られるようになる。家の中はちょうどよく慣れた広さになって、テレビの前を横切るときに姉の伸ばした足につい|躓《つまづ》いてしまうような、心地よい窮屈さに復帰する。 私の家は少し前まで、四人家族だった。しかし今、姉が永遠にいなくなって、テーブルに家族がついても、ひとつだけ椅子が余るようになった。 姉がなぜ殺されなければいけなかったのか、だれにもわからない。しかし、七週間前に姉の北沢博子は死んだ。最後に目撃されてから十二時間後、彼女はだれかに殺された状態で、郊外にある病院の廃墟で発見されたのだ。 私は実際にその廃墟の中へ入ったことがない。しかし、姉が発見された後、外から一度だけ眺めたことならある。枯れた草の他になにもない、寒々しい場所だった。地面は砂利道で、細かい砂埃が風に吹かれて靴の表面を白くした。病院の廃墟は、四角いコンクリートで、巨大な何かの抜け殻のように見えた。窓ガラスがすべて割れていて、奥は暗かった。姉がその中で発見されてさほど時間がたっていなかったので、入り口にテープがはられ、警察がそれをくぐって出入りしていた。 廃墟の奥まったところにある部屋で、姉は小学生に発見されたという。警察は情報を公開していないが、その部屋は以前、患者の手術を行なっていた部屋だった。 遺体の損傷は激しく、身元を判別することは困難だったそうだが、近くにあったバッグから姉の持ち物が出てきて、警察はうちに連絡をすることができた。電話を受けたのは母だった。最後に姉を見てから一日も経過していない昼間のことで、電話はだれかのいたずらとしか思えなかったそうだ。 しかし遺体はたしかに姉のものだった。それは、実際に姉を知っている両親や私、恋人の赤木さんが姉の|亡《なき》|骸《がら》を確認してわかったというわけではない。生前に姉のかかっていた外科医のカルテや、いくつかの精密な医学的な検査が判定したことだった。 ……警察は、姉がどのような状態で発見されたのか、どのような方法で殺されたのかを、あまり公にはしなかった。世間には、絞殺され、刃物で切断されていたとだけ広めた。それだけでも、相当に残酷な事件で、ニュースは騒ぎ立てた。しかし実際は、その程度のことではなかったらしい。 姉の受けた仕打ちを何もかも公開すると、あまりにも社会に対する影響が大きいと判断したらしく、だれもが口を閉ざしたのだ。発見した小学生にまで、その箝口令はしかれたらしい。 両親は、姉の死体を見せてくれるように警察や医者へ頼みこんだ。しかし彼らはしぶった。姉はもう、もとの姿にまで復元することは不可能な状態で、家族には見せないほうがいいと判断されたのだ。 父母は生前の姉を、特別に溺愛していたというわけではなかったと思う。どこにでもあるような親子で、テレビコマーシャルの話題で盛りあがったり、新聞をどこに置き忘れたかで険悪になったりするような家族だった。人前で姉を誉めるということもなく、どれだけの愛情を注いで育てていたのかなど、姉の死を知らされた両親が顔を擦って泣き出すまで私は知らなかった。 「博子に会わせてください!」 病院で、父は必死に医者と警察へ頼みこんだ。顔を赤くして、ほとんど怒っているように見えた。少しも引く様子がないのを見て、医者と警察は困惑しながら、父母を遺体の安置されている部屋に通した。 四角い両開きの扉を抜けて両親の背中が消えるのを、私は廊下から見送った。恐ろしくて、私は姉を見るためにその部屋へ入る勇気がわかなかった。 刑事と医者が話しているのを、ちらりと耳にした。彼らは、私が階段の陰にいることに気づいていなかったらしい。 散らばった体を集めるのが大変で……。 刑事は、そう口にした。私の靴が、病院の床で擦れて高い音を出した。刑事が振り向いて、私の存在に気づく。しまった、という表情をして口をつぐんだ。 姉の体を、集める。私は立ちすくんで、その言葉の意味を考えた。 しばらくして両親が連体の安置された部屋から出てきたとき、姉はどのような状態だったのかと私は尋ねた。しかし、言葉は二人の上を素通りした。それまで涙を流し続けていた二人は、その部屋に入った後、もう泣かなくなっていた。そのかわり、だれとも目をあわせないまま下を向いて押し黙っていた。表情を部屋の中に忘れてきたようだった。二人の顔の皮膚はひどく黄色くて、まるで動かないマスクのようになっていた。 姉の遺体について、警察は固く口を閉ざし、世間に対しては、黒い箱の中へ入れたままにした。そのおかげなのか、遺体が発見された当時は賑やかだった報道も、長くは続かなかった。姉が殺されて七週間が経過した今、もう警察や報道関係者がうちにくることはなくなっていた。
姉は私より二歳年上で、死んだとき二十歳だった。二人きりの姉妹だったから、いつも姉を見て私は生きてきたようなものだった。 私が小学五年生になったとき、姉は中学校の見なれない制服を着た。私が中学二年生になったとき、姉は高校というやはり私の知らない世界のことを家で話し始めた。二年後の私に訪れるはずの生活を、私は姉の中に見ていた。そう考えてみると、姉は私にとって、暗い海を先導して進む船のような存在だったのではないかと思う。 二歳のちがいはあったが、背丈はほとんど変わらなかった。そのせいか、私たちはよく人から、似ていると言われた。小学生だったころ、正月に親戚の家へ行くと、会う人ごとにそう話しかけられて困った。 「べつに、そんなことないよねー?」 姉は親戚たちの反応をおかしそうに見ながら私にそう言った。私たちにとって、毎日、目にするお互いの顔は、自分とは全然ちがった別の顔にしか見えなかった。どこが似ているというのだろう。いつもそう思っていたが、姉と別の部屋で親戚の子供といっしょにゲームなどをやっていると、部屋の前を通りかかった親戚のおばさんは、「あら、あなたさっき、向こうの部屋にいなかった?」と首をかしげていた。 子供のころ、私と姉は仲が良くて、いつもいっしょに遊んだ。姉に手を引かれて、二歳年上の、姉のクラスメイトの家に行ったこともあった。 ……それが、いつごろから変わってしまったのだろう。最後に笑って姉と会話したのが、いつだったのかを思い出せない。 数年前から私たちの間に、わずかな溝ができていた。それは、まわりの人にもわかるような、はっきりとしたものではなかった。あるいは、溝というほどの大げさなものではなかったのかもしれない。私と話をしていると、姉が、わずかに不機嫌そうな顔をするときがあったのだ。 あるとき私が居間のソファーで、読んでいた雑誌を指差し、こんなおもしろい記事があるよと姉に声をかけた。ただそれだけなのに、彼女はちらりと雑誌を目にすると眉間に皺をよせ、ああそう、とそっけなく居間を出ていった。そのときの姉の仕草や表情に、気のせいか、いらつきの断片が見え隠れしたように思えた。 虫の居所が悪かっただけにちがいない。あるいは、忙しいときに私は声をかけてしまったのかもしれない。私はそのように考え、姉の見せた表情が、たいした理由によるものではないと信じようとした。 しかし姉のいらつきは気のせいでも、そのときだけの特別なことでもなかった。 たとえばある日、私が高校から帰ってくると、姉が居間で友達と電話をしていた。コードレスの受話器に向かって話す彼女の声には、笑い声が交じっていた。私は電話の邪魔をしないよう、ソファーに腰掛け小さな音声でテレビを眺めた。 やがて姉が電話を終えると、部屋は急に静かな空間へと変わった。私たちは向かい合わせのソファーにそれぞれ座り、無言でテレビ画面を見つめていた。私は何か姉に話しかけたかったのだが、それをためらわせる気配が姉から発散されていた。ついさきほどまで電話に向かって機嫌良く話をしていたはずなのに、私とふたりきりという状況になると、急に姉は黙りこむ。毛布のような暖かい雰囲気を消して、見えない壁を作り、私から距離をとる。 そこへ近づいて話しかけようとすると、姉は不機嫌な表情で拒否するのだ。私と話をするときの、姉の受け答えは短かった。母と話をするときに比べ、短時間で会話を終わらせようという意思を感じた。 理由がわからず、恐かった。言葉よりも前に姉の不機嫌さだけを肌で感じ、そばにいることすらできなくなる。やがて姉の前を横切ったり、いっしょの部屋にいたりするだけで緊張するようになり、そのようなとき私は、体を硬くした。 「夏海、その服はやめたほうがいいんじゃない」 半年ほど前、参考書を買いに本屋へ向かおうとしていると、姉がそう声をかけて |