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† 3
マクドナルドで会った三日後の夕方、僕の携帯電話は、だれかからメールが届いたことを示す着信音を鳴らした。 メールは森野からだった。 『たすけて』 ただそれだけの短いメールが液晶の画面に表示された。 僕はメールを返信してたずね返した。 『なにがあった?』 しばらく待ったが、彼女からの返事はなかった。 電話をかけてみる。しかし彼女の携帯電話にはつながらなかった。電源を切られたか、破壊されたかしたのだろう。 夜、森野の家に電話をかけた。家の電話の番号は、以前に彼女から聞かされていた。家に電話をするかもしれないという理由で番号を教わったのではない。彼女の家の番号がたまたまごろ合わせで頭の狂った文章になることを、以前、森野は話していた。それを僕は記憶していたのだ。 電話に出たのは彼女の母親だった。高い声で、早い話し方をする人だった。 僕はクラスメイトであることを話し、先生から言づてがあるので彼女と話をしたいと伝えた。 彼女は戻っていなかった。 まさか森野が襲われることはないだろうと思ってはいた。 あの手帳に書かれていたのは真実だったため、殺人犯が彼女と同じ喫茶店にいたということはおそらく事実だろう。犯人が偶然に今の森野の姿を町中で見かける可能性もゼロではない。今のスタイルの森野を見かけた犯人は、先日、殺害した水口ナナミとまったく同じ服装の女がいることを不思議がるかもしれない。そして、心を動かされるかもしれない。 だからといって犯人が森野に狙いを定めるのは低い確率でしかない。おそらく同じような服装の女の子は大勢、町を|徘《はい》|徊《かい》しているはずだからだ。 ただ一つ森野が犯人に襲われるかもしれない根拠があるとすれば、それは、森野と犯人の生活圏内が重なっている可能性だ。二人は同じ喫茶店にいたのだ。犯人がその日、特別に遠出をしてきてたまたまその店にいたのでなければ、日ごろ生活していて目につくところに森野が歩いていることになる。つまり、二人は出会う確率が高い。 夜中に僕は考えた。 たぶん、今ごろ森野は殺されているにちがいない。死体はどこかの山で撒き散らされているだろう。 その様を想像しながら眠りについた。 次の日、彼女の家にもう一度、連絡をいれた。 彼女はやはり、まだ戻っていなかった。母親が言うには、連絡もなく外泊するのははじめてのことだという。母親は心配していた。 「ところであなた、あの子の彼氏なの?」 受話器の向こうで、森野の母親は言った。 「いえ、ちがいますよ」 「そんなにはっきりと否定しなくてもいいのよ。私にはわかってるんだから」 森野の母親は、僕が娘の恋人であることを疑っていなかった。娘には友達らしい友達がおらず、家にだれかから電話がかかってきたのは小学生のとき以来であることを説明した。 「最近のあの子、服装も以前に比べて明るくなったし、男ができたんだと確信していたの」 僕は携帯電話の通話料金を気にした。 「彼女の部屋に、小さな茶色の手帳がありませんか?」 母親はすぐに調べてくれた。受話器から離れて、しばらく沈黙する。やがてまた声が聞こえた。 「あの子の机の上に、それらしいのがあったけど、これかしら」 どうやら森野は、手帳を持ち歩いてはいなかったようだ。もしもそうでなかったのであれば、彼女が外で手帳を開いているところを、偶然、犯人に見られてしまい、口封じのために襲われたという可能性も考えていたのだが。 手帳を受け取りに行くので家の住所を教えてほしいと僕は森野の母親に頼んだ。 電話を切り、森野の家に向かう。彼女が駅からそう離れていないところに住んでいるのは知っていたが、家をたずねるのははじめてだった。 彼女の家は駅の表側にあるマンションの三階だった。 チャイムを鳴らすと、電話で聞いた声の女性が返事をしながら扉を開けた。森野の母親であることは間違いなかった。 「まあまあまあ、いらっしゃい」 森野の母親はエプロンをして、家庭的な普通の主婦だった。それがいつも見ている森野の雰囲気とはかけ離れていたので、この母親でどうして娘がああなるのだろうかと思った。 家にあがるように勧められたが断った。玄関先で用件を済ませるつもりだった。 手帳の話をすると、彼女はすでに用意していたらしく、すぐに持ってきた。手帳を受け取りながら、中身を読んだかどうかをたずねると、彼女は首を横に振った。 「小さな文字を読むのはめんどうだから」 興味の対象は、手帳よりも僕にあるようだった。 「あの子、二年になってちゃんと学校に行くようになったと思ったら、こういうわけだったのね」 森野は一年のとき、学校が退屈だと言ってあまり登校しなかったらしい。そのことを僕ははじめて知った。彼女の趣味は少し特殊だし、その上、周囲の人間に溶けこむことのできない不器用さがある。だからどうしてもそうなってしまうのだろう。 娘を最後に見たのはいつだったのかを僕はたずねた。 「昨日の、昼を過ぎたころかしら。家を出ていくのを見たわ」 「行き先を聞きましたか?」 森野の母親は首を横に振った。 「娘を捜してくださるの?」 玄関を離れるとき、森野の母親はそうたずねた。 僕はうなずきを返す。 ただし、生きた状態ではないでしょう、とつけくわえた。母親は冗談だと思って笑った。
駅に向かって歩きながら、合成革の表紙をめくって山の名前が連なったページを開けた。 犯人が死体遺棄を考えたであろう山の名前がリストにされている。◎のマークのつけられた山は、特に死体遺棄しやすいと犯人が判断した山にちがいない。なぜなら、◎のついた山が全部で四つあり、これまで死体のあった山はすべてその中から選択されていたからだ。 さて、◎のついた四つの山のうち、三つはすでに死体が置かれている。ということは、残った最後の山へ森野はつれていかれたのではないかと考えられる。 それはN山だった。 N山に行くためにはどの電車に乗ればいいのかを駅員にたずね、切符を買った。 N山に最も近い駅で電車を降り、そこからバスに乗らなければならなかった。N山の麓ではぶどうの栽培が行なわれており、ぶどう狩りの看板をバスの窓から頻繁に見かけた。 車に乗ってN山を訪れたとき、犯人はどの辺りに死体を残していくだろうか。おそらく悲鳴をだれにも聞かれない深い場所で犯人の儀式は行なわれるのだろう。僕にはその場所の見当がつかなかった。 バスに乗っているのは僕と運転手だけだった。車内に貼ってあった路線図を見たり、運転手に話を聞いたりして、N山のうちで犯人の立ち寄りそうな場所にあたりをつける。 僕や森野の住んでいる方面からN山を訪れた場合、ほとんどの車はN山の東側を通る県道を使うはずだという。もともとN山を通る道は少なく、その県道以外の道は僕たちの住む方面には続いていないのだ。 犯人が森野を乗せてN山にくる場合、間違いなくその県道を通っただろう。運転手の話では、今、バスが走っている道こそ、その県道だという。 僕は停留所でバスを降りた。もしも車でN山の奥へ向かう場合、一本、太い道が頂上付近まで続いているという。その道にもっとも近い停留所だった。 頂上への道を歩いた。地面はアスファルトだったが、ほとんど車とはすれ違わない。 わき道がいくつかあり、深い森の奥へと延びていた。それらのどこかに犯人と森野は入ったのかもしれないと考えた。 上り坂を歩くうち、次第に高度が増していく。木々の間から見下ろす町は小さくかすんでいた。 頂上付近まではすぐに辿り着けた。小さな駐車場があり、展望台らしい建物があった。そこから先、車は進めない。歩き始めてそれほど時間がたっていなかったので、疲れはなかった。 僕は森野の死体を捜した。 木々の間を延びる道を歩き、途中で見かけたわき道にも入った。 空は曇っており、森は暗く沈んでいる。絡み合う枝葉の間から、深い木々の連なりが覗いた。 風はなく、蝉の声だけが周囲を包んでいた。 N山は、一人のばらばらになった人体を捜し出すには広すぎる。結局、森野を見つけることは無理だと僕は判断した。 バスの停留所まで戻ったとき、歩きつかれて全身に汗をかいていた。 バスの通る県道脇には、まばらではあるが民家がある。頂上へ向かう道のそばにも一軒あり、その庭にいた老人に、昨夜この道を山奥へ向かった車がなかったかとたずねてみた。老人は首を様に振った。その後で家族まで呼び出して僕の質問を検討しだしたが、結局、車は見なかったそうだ。 森野は昨日、どういう状況でメールを打ったのだろう。 犯人に力ずくで連れ去られたのだろうか。 やすやすついていくほど愚かなやつではないと思う。 それとも、犯人につかまったというのは僕の考えすぎだろうか。 停留所のそばに座り、手帳を読み返す。三人を殺害する様を描写した文章から、犯人の性格を読み取れるほど僕は心理分析に長けていなかった。 汗が手帳の上に落ちてインクがにじみ、文字が一部、読めなくなった。犯人が記述に使用したのは、水溶性のインクだったらしい。 そもそも犯人はどこでこの手帳に文章を書いたのだろうか。犯行の直後、自分の車の中か家に戻った後で書いたのだろうか。おそらく犯行中に書いたのではないだろう。犯行を思い出し、たっぷりと想像に浸りながら書いたにちがいない。 バスが来たので、僕は立ちあがった。時計を見ると、正午を三時間ほど過ぎていた。 山を下りるつもりだった。 もしかしたら、まだ犯人は森野を殺しておらず、家に閉じ込めているだけだという可能性もある。本当にそうなのかどうかを確かめるには直接、犯人にたずねるしかない。 もしもすでに殺害しているのなら、森野の死体をどの辺りに捨てたのか聞き出す必要がある。 なぜならそれを見てみたいからだ。 どっちにしろN山を下りて犯人に会わなくてはならない。もちろん、そうするつもりだった。
† 4
森野が常連になっているという喫茶店は、駅前の繁華街から奥まった場所にあった。場所は以前に聞いて知っていたが、入るのははじめてだった。 話に聞いていたとおり、店内の照明はひかえめで、心地よい暗さに包まれている。静かな音楽が流れていて、それは自己主張もなく空気の中に溶け込んでいた。 僕はカウンター席についた。 店の奥にトイレを示す表示がある。その辺りの床に目をやった。手帳はそこに落ちていたと森野は言っていた。 店内には、僕以外に一人、客がいた。若い女性の客で、スーツを着ている。窓際でコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいた。 店の主人が注文をとりにきたので、たずねてみた。 「あそこにいる人は、常連のかたですか?」 主人はうなずいた。そして、それがどうかしましたかと首をかしげた。 「いえ、意味はありません……。それよりも、握手していただけませんか?」 「握手? なぜです?」 「いえ、記念にと思って……」 主人は誠実そうな顔をした男だった。若くはないが、まだ中年というほどでもない。肌の色は白く、どこにでも売っているような黒いTシャツを着ている。 髭は丹念に剃られていた。 彼は最初のうち、僕のことをおかしな客だと思っているようだった。僕が見つめすぎたためだろう。 注文したコーヒーはすぐにできた。 「僕は、森野という女の子の友達なんです。ご存知でしょう?」 「常連ですよ」 彼女はまだ生きてますか、と聞いてみた。 主人は動きをとめた。 持っていたコーヒーのカップをゆっくり下に置き、正面から僕を見た。 彼の眼は濁って、穴のように光のない黒になった。 この人が犯人である可能性は、夕立のとき店内にいた客のだれかが犯人である可能性よりも高いと思っていた。それが正解だったことを僕は知った。 「……何のことかな?」 彼は知らないふりをした。 僕は手帳を差し出した。それを見ると、彼は口元に笑みを浮かべた。尖った白い犬歯が覗いた。 「これは、森野さんが先日、拾ったものです」 彼は手帳を手にとってベージをめくる。 「よく、持ち主が私だとわかりましたね」 「半分以上は賭けみたいなものでした」 僕は、N山に森野の死体を捜しに出かけたことと、そこで考えたことを説明した。
犯人は何を思うのだろう。 僕はまず、手帳を落とした犯人について想像をめぐらせた。 この手帳は何のために書かれたのだろうか。記念のためだろうか。忘れないためだろうか。きっと、幾度も繰り返し読んで、思い出に浸っていたのだろう。 だから犯人は、自分が手帳を落としたことに気づいていないはずがないのだ。 そもそも、手帳をどこに持っていたのだろうか。普通なら、ポケットか鞄の中だろう。落とすくらいだから、ポケットの中かもしれない。トイレで手を洗い、ハンカチをポケットから出そうとして、手帳を落としたのかもしれない。 では、いつごろそれに気づいただろうか。数十分後か、数時間後か……。おそらく一日は開いてないに違いない。 そして、最後に手帳を読んだのはいつだったかを思い返すだろう。その範囲内の時間で自分は手帳をなくしたと考える。それはつまり、自分がその日に動き回った地域と照らし合わせて、手帳を落とした場所をある程度、特定する作業となる。 そしてこれは僕の勝手な思いこみだが、犯人はある程度、せまい地域で手帳を落としたのではないかと思う。なぜなら、手帳を頻繁に見たいからだ。頭の中に暗黒の思考が入り乱れるたびに、手帳を読み返して気を落ちつける。そうやって頻繁に手帳を手にして確認するほど、なくす時間や地域が狭まることにつながる。 それから犯人は探すだろう。地面を見て、手帳が落ちてないか探す。 しかしない。 そこで犯人は考えたはずだ。手帳は、だれかに拾われてしまった。 手帳の中身をだれかに読まれると、いけない。おそらく警察が三人目の被害者を捜索して死体を見つけるだろう。それだけなら別にかまわない。問題は、手帳から指紋を採取される可能性だ。また、筆跡を教えることにもなる。 そう考えた場合、僕ならどうするだろうか。 おそらく、四人目の犯行はおかさない。 もしかしたら警察がこの周辺を調査しているかもしれないのだ。なぜなら手帳は、自分が日常に動き回る範囲でなくしてしまったのだから、犯人はこの辺りにいると警察は考えるだろう。 動くのはまずい。 しかし、しばらくしても三人目の被害者である水口ナナミの死体は発見されない。僕と森野が、手帳を警察に渡さなかったからだ。 犯人は、彼女の死体発見のニュースが流れるのを待っていただろう。僕ならば、四人目は安全が確認できるまでひかえておく。 しかし、森野はいなくなった。 森野の行方不明がただの彼女のいたずらだったという可能性は考えないことにして、僕はなぜその食い違いが起きたのかについて考えてみた。 僕が犯人だとして、四人目を殺すのはどんなときだろう。
・どうしても我慢できなくなったとき。 ・自分を過信して、つかまらないとたかをくくり、警察をなめているとき。 ・警察につかまることを気にしないとき。 ・手帳はだれにも拾われず、読まれなかったと考えたとき。 ・手帳を拾った人間がその内容を本気にしなかったと考えたとき。
それとも、やはり手帳を落としたことに気づいていないのかもしれない。どれも可能性はゼロではない。しかし、僕はもうひとつの考え方に賭けてみた。犯人は、こう思考したのではないだろうか。
・手帳はだれかに拾われたが、内容は読めなかった。その結果、警察には通報されず、水口ナナミもまだ発見されていない。
喫茶店の主人は僕の話を聞きながら、興味深そうにうなずいていた。 「それで、どうして犯人が僕だと?」 手帳を彼の手から返してもらい、あるページを開けた。汗で文字がにじみ、読めなくなっている。 「インクが水溶性で、濡れると文字が消えることをあなたは知っていた。犯人は、手帳を店の中ではなく、外で落としたと考えたのではないかと推測しました。森野は外が夕立の時に手帳が落ちていたことを説明してくれました。きっと犯人も、あの夕立の時間に手帳を落としたのではないかと検討したはずです」 犯人が普通の考え方をするならば、店内のだれかが手帳を拾ったと仮定した場合、警察にそれが渡るはずだと思うだろう。しかし水口ナナミの遺体発見のニュースは流れない。 「そこで犯人は、その日、夕立の中に手帳を落としたと結論づけたのではないか。そう僕は推測しました。もしそれなら、激しい雨のために手帳は濡れて、中身が読めなくなる」 あの日、夕立の合間に外へ出たのは店長だけだったことを、森野の話は告げていた。 ほとんど想像の中だけで組み立てた綱渡りのような話を僕が終えると、店の主人は口元をほころばせた。 「確かに、その手帳は夕立の中に落としたんじゃないかと考えた」 森野さんは、うちにいる。そう彼は言った。 この喫茶店の二、三階が彼の家なのだそうだ。 そして彼は手帳を大事そうに自分のポケットへ入れた。僕に背中を向けると店の出入り口に向かい、扉を開ける。 さきほどまで曇っていた空は晴れたらしく、夏の日差しに照らされた外の世界が、店内の薄暗い照明になれた目には白く見えた。店を出た彼は通りへ向かって歩き出し、光の中に消えた。 常連だという女性客がテーブルから立ち上がり、会計をするためにレジの前へ立った。視線を店内にさまよわせた後、マスターは? と僕にたずねたが、僕は首を横にふった。
階段は建物の外にあり、上の階へ行くためには一度、店の外に出なければならなかった。 森野は三階で縛られていた。服装は水口ナナミのままで、手足にロープを巻かれて畳に転がされている。乱暴された様子はなかった。 彼女は僕の顔を見ると、すっと目を細くした。それは彼女の笑顔だった。口にはタオルを噛まされていたので、声は出せなかった。 タオルを取ると、彼女は大きく息を吐いた。 「あの店長、骨折したふりをして、荷物運びを私に頼んだの。気づくとこうなっていたわ」 手足に巻かれたロープを外すのは困難そうだった。彼女をそのまま放り出しておき、僕は部屋の中を見まわす。店の主人は一人暮しだったらしいことが、家の中の様子からわかった。 机の上にメモ用紙らしい白い紙が置かれていた。紙面には無数の小さな十字架が描かれていた。 棚の中に、ナイフのセットが置かれていた。それが殺害に使用されたナイフであることは容易に推測できた。手帳の記述の中にナイフという言葉が頻出している。 森野が転がったまま声をあげ、手足を自由にしない僕のことを非難した。 棚のナイフセットから手ごろなものを選び、それでロープを切った。 「早く逃げないと、店長に見つかってしまうわ」 「彼はこないよ」 おそらく二度とこの辺りには現れないだろう。僕はそのことをほとんど確信していた。口を封じるために僕や森野を殺しに来るかもしれないという可能性もあったが、そうはならないことがなぜかわかっていた。 喫茶店のカウンターをはさんだ会話の中で、僕とあの異常者はどこか心を通じ合わせてしまった気がしたからだ。 彼が静かに店を出ていったのは、僕がだれにも話さないことを直感的に知ったからだろう。 店長は二度と戻らないと宣言する僕を、森野は不思議そうに見た。立ち上がりながら服装を直す。 「あなたにメールだけ打てたけど、見つかってしまって……」 机の上に、森野の携帯電話が電源を切って置かれていた。森野がそのとき持っていたはずの水口ナナミの鞄もある。犯人は、三番目の被害者が持っていた鞄と、四番目の被害者になるはずの女が持っていた鞄とが同じものだったことに気づかなかったのだろうか。それとも、同じものだったから森野を狙ったのだろうか。 丸一日、森野はしばられて転がされていたらしい。よろよろした足取りで階段に向かった。 部屋を出るとき、僕は棚のナイフセットと机の上の紙を手にした。それらは記念にもらっておくことにする。警察がすべてを知ってこの部屋を捜索したとき、犯行に使用した凶器が見つからずに困るかもしれない。もちろん、僕は気にしない。 一階に下りて、店内を覗いてみる。無人の店内に静かな音楽が流れている。 ドアにかけられた『OPEN』という札を裏返し、『CLOSE』にした。 森野は僕の後ろに立って、手首をさすりながらその様を眺めていた。手首にはロープの痕が残っている。 「ひどいめに会ったわ」 彼女がつぶやいた。 「もうこの店にはこないことにする」 「でも、よかったじゃないか。あの人に会うことができて」 森野は首をかしげた。 「あの人って……? そもそも、あの店長はなぜ私をこんなめにあわせたのかしら?」 彼女は、あの店長が殺人鬼だということに気づいていなかった。 僕は持ってきた白い紙に目を落とし、無数に描かれた小さな十字架を眺めた。 [#改ページ] Ⅱ リストカット事件 Wristcut [#改ページ]
† プロローグ
人の少なくなった放課後の教室で僕が帰り支度をしていると、背後にだれかの立つ気配がした。振り返って見ると、森野だった。 「帰る前に、言いたいことがあって」 彼女はそう前置きした。森野とは今日一日を通して言葉を交わしていなかったので、声を聞くのはほぼ二十四時間ぶりだった。 「昨日、ビデオショップで変な映画を借りたの……」 森野はどうやら、その映画の話をだれかにしたくてしょうがなかったらしい。しかし彼女がこの教室で話をするのは僕だけだった。それも、僕が他のクラスメイトと会話をしていない一人でいるときに限っていた。だから今日、帰る直前になるまで、森野は僕にその話をすることができなかったのだ。 僕と森野が話しているのを、教室の隅にいた女子の一群が見て気にしていた。小さな声で、僕たちのことについて話題にしているのがわかった。 最初のうち、僕たちがつきあっているのではないかと推測する者もいた。しかし僕たちはお互いに親しそうな顔をしているわけではなく、ぶすっとした表情で会話をしている。だからみんなは、僕と森野がどの程度の親しさなのかを今でも測りかねていた。 そもそも周囲の人間にとっては、森野がだれかと話をしていることが珍しいのだ。彼女はこの高校に入学して以来、学校内で人と話をすることが稀だった。常に教室内では身を潜めて、下校の時間が来たら静かに消え去るといった、海底を進む潜水艇のような生き方を好んでいるようだった。 制服が夏服でないかぎり、彼女はいつも黒い服を着ていて、長い髪の毛から靴の先まで黒色に包まれている。光を嫌い、闇の中へ積極的に溶けこもうとするかのようだった。 森野に、この学校を選んだ志望動機をたずねたことがある。 「学生服が真っ黒で派手じゃないでしょう、だからこの高校を選んだの。ところで、シボウドウキってこの字を思い浮かべたわ」 彼女は黒板に向かって白いチョークで、『死亡動機』と書いた。そのとき制服から覗いた細い腕が目に入る。一度も日光に当たったことのないような白い肌をしている。 彼女は整った顔をしていたので以前は言い寄ってくる人間もいたそうだが、少し前に起きたある事件から少々事情が変わった。学校内で彼女を相手に、セクハラまがいのことをしようとした教師がいたのだ。森野は隠し持っていた痴漢撃退用のスプレーで冷静に攻撃し、近くにあった椅子でその先生を殴りつけた。僕はその場面をひそかに見ていたのだが、それ以来、森野に声をかける男子生徒はいなくなった。
これからする話は、僕と森野が知り合うきっかけとなった事件である、というわけではない。 しかし、教室で彼女の白い手が目に入るたびに、僕はその事件のことを思い出す。 今年の春先、連日のようにニュースをにぎわせていた連続手首切断事件である。僕はひそかに、その事件へ巻き込まれていたのだ。 それは、まだ森野と一度も言葉を交わしたことのなかった五月末のことだった……。
† 1
篠原は自分の手を見つめて考える。手とはもちろん、脊椎動物における前足の末端部分のことである。自分の手は物をつかむために発達しており、五本の指でパソコンのキーボードを打つことや、コーヒーカップを傾けることが可能である。手が人間のすべてであることはおそらく間違いないだろう。だから手相術というものがある。手相術というのは、手のひらの筋にあらわれた形相を観察することにより、その人の性格や運勢を占うものである。すなわち手はその人間の過去と未来を映す鏡なのだ。 子供のころから篠原は手が好きだった。他人の手が気になってしかたなく、親に連れられて外出した際も、幼い篠原の目に映る町中の雑踏は、人間の集団というよりもむしろ無数の手の集まりだった。小学校に通いはじめても、自分のまわりを歩いているのはクラスメイトというより、二つの手をぶら下げた生物だった。 手以外の部分は人間の本質的な部分ではない。例えば、顔の作る表情、口から出る言葉、それらに真実が混じっているとは、篠原には思えなかった。それにひきかえ、手は揺るがし難いほどの真実を含んでいる。筋の浮かぶ甲。伸びる五本の指。指の先端に耽っている爪と、そこに浮かぶ白い半月。指紋は特に個人を特定する重要な部分である。 小学校低学年のころ、姉の捨てた着せ替え人形の手首を、だれにも気づかれないようにはさみで切り取ってみた。人形の小さな手は、篠原の手のひらの上でころころと転がる。それをポケットに入れて、手首から先のない人形は捨てた。それからひまな時間があると、人形の小さく固い手を親指の腹でなぞった。微少な凹凸の感触は、母や先生からかけられる言葉よりもやさしくしっかりと充実をともなって篠原に何かを語りかけてくる。 犬や猫の前足の先端を|剪《せん》|定《てい》ばさみで切り取ったこともある。剪定ばさみというのは、小さな手首をカットするのに、実に都合がいい。篠原は犬や猫が好きだった。肉球は人間の手にはない部分で、ユーモラスな形状をしている。押すと爪が出入りし、表面には毛が生えている。人間のように物をつかむことはできないが、独特の進化をしていておもしろい。 手が人間のすべてであるという自分の考え方が一般に受け入れられないことは充分に承知していた。周囲の人間を観察していると、頭と口による中身のない言葉ばかりが世界を支配していることに気づかされるからだ。大人になり、職につくと、特に自分のそのような考えは隠さなければならなかった。 しかしふとした瞬間に手のことを考える。五本の指がついた、神が創造したとしか思えないデザイン。それが頭の中をめぐる。 この春、はじめて人間の手首を切断してみた。乳児の手だった。乳母車に乗っていた乳児を見つけ、母親がほんの一瞬そばを離れた際に剪定ばさみで切り取った。 乳児の小さな手は、熱く、ふっくらしていた。切断した瞬間、眠っていた乳児は泣き喚き、篠原の握り締める手から熱が消えていく。篠原は乳児の手をポケットに入れて持ち去り、冷蔵庫に保存した。 乳児の手だけにはとどまらなかった。小学生を気絶させ、暗闇の中で手首を切断した。高校生や、社会人の手を切ったこともある。成長した人間の手首は、剪定ばさみで切断するには太すぎた。しかしのこぎりでは切り口がきたなくなり、篠原の美意識が許さなかった。かといって斧は持ち運ぶのが面倒だった。結局、肉切り包丁で仕事をした。気絶させた人間の手首に思いきり打ちつけると、骨まで鮮やかに切断することができた。 死んだ人間はいなかった。篠原は手が欲しいだけで、殺したいわけではない。手以外の部分は、死んでいようがいまいが関係ない。自分の姿を見られていないかぎり、気絶させたまま放っておくことにしていた。 新聞やテレビの報道によると、病院に運ばれた被害者は、いずれも犯人の顔は見ていないと報告したらしい。篠原は安堵で胸をなでおろす。暗闇に紛れて慎重に行動しているとはいえ、やはり逮捕されるのは心配だった。 手そのものも好きだったし、手首を切断する作業も楽しかった。手とそれ以外の部分とを分ける瞬間、解放感が体を駆け巡る。それは、世界を支配する歪んだ価値観から手を解き放つという行為が我ながら英雄的だからだろう。 職場では、小さな人形の手を切ることもあった。布製で、中に綿が入った手のひらサイズの人形である。小さいため、細かい造形はされていない。指はなく、腕の先端は丸みをおびているだけである。だからといって手ではないというわけではないのだ。これは、人形を作製するために進化した、指のない手なのである。それをはさみで切り取るだけでも、世界と自分との間にあった緊張感が霧散する。 切断した手は、すべて冷蔵庫に入れた。人形の布でできた手や犬猫の前足も例外ではない。何一つ、捨てられるものなどなかった。 一人暮しの篠原の家は、一斉に賑やかとなった。冷蔵庫を開けると、手が並んでいる。それらを触ると、持ち主がこれまで体験した過去や、これから待ちうけているであろう未来がわかるようだった。それぞれの感触は篠原に苦楽となって語りかけ、手がこれまで両親から受けた愛情も、世界から受けた悲しい仕打ちも打ち明ける。 新聞やテレビは連日の篠原の犯行を報道した。いつのまにかリストカット事件という名前で呼ばれている。もちろん篠原にとって、事件の名称などどうでも良かった。 ただ、自分が犯人として憎まれていることが不愉快である。自分達の価値観を押しつけないでほしい。 テレビのニュースを見ながらその不満について子供の手に語りかける。冷蔵庫から取り出して握り締めている子供の手である。 「本当にそうだね、きみの言う通りだよ」 子供の手の凹凸や弾力が、手のひら越しに篠原へそう語った。不安や怒りが溶けて消え、胸の奥に生きていく勇気がわいてくるのを篠原は感じる。
† 2
その化学教師は午前中に行なわれた授業でこう言った。 「昼休みに化学準備室の大がかりな片付けをするのでひまな者は手伝いにきてほしい」 彼自身も生徒が手伝いに来てくれることを期待しているようではなかったし、クラスのほとんどの者が教師の話を聞き流していた。だから、昼休みに僕が化学準備室を訪れたのを見て、その化学教師は意外そうな顔をした。 窓の外は晴れ渡っており、春の暖かい日差しがふりそそいでいる。化学準備室はそれと対照的に暗く、少し肌寒かった。外で遊んでいる生徒達の楽しげな声が、遠くからかすかに聞こえてくる。 化学準備室は狭く、棚がひしめいている。中には薬品や分子構造を示す模型、ホルマリンに清けられた何かの内臓が並んでいた。部屋の窓際に木の机があり、植物や宇宙に関して書かれた理科的な書物や紙片が置かれている。古いタイプのパソコンがあり、かたわらの別の机には、積まれた本に隠れるようにしてプリンターがあった。ブラインドの隙間からもれてくる縞模様の外の光が、空中に漂う埃を浮かび上がらせる。 「ええと、それじゃあまず、この部屋にあるごみ箱を化学講義室に持っていってくれ」 化学教師は、丸められた紙くずでいっぱいになった青いプラスチック製のごみ箱を指し示した。僕は頷いてそれを抱えると、化学講義室に向かった。
「だれがわざわざ好きで昼休みをつぶすんだよ」 授業中に化学教師が手伝ってくれる者を募ったとき、近くの席にいたクラスメイトの一人が、僕に小声で話しかけてきた。自分がそれにどのような返事をしたのかはすでに忘れてしまった。しかし、そのクラスメイトが僕の返事で笑い声をあげたことから、気の利いたことを僕は言ったのだろう。 陽気なクラスメイトたちに調子を合わせるのは簡単だった。テレビのバラエティ番組とドラマをチェックして、適当な相槌と作り笑顔を覚えておけば、大抵は足並みをそろえることができた。そうしておくことで僕は性格の明るい高校生の一人としてみんなに認知され、様々なわずらわしい障害は取り除かれる。 障害というのはつまり、これは僕の幼稚園時代の記憶なのだが、人形の顔をマジックで黒く塗りつぶして四肢を切断しなければいけないという強迫観念のもとにそれを実行し、周囲のものを心配がらせるといったことである。当時、母と幼稚園の先生が僕をちらちらと見て不安そうにしていたのを思い出す。 僕が嘘をつくのが上手になったのはそれからだった。たとえば絵を描くときに使っていたクレヨン。それまでは黒いクレヨンばかりが短くなっていったのだが、意識してすべての色のクレヨンが均等に短くなるよう心がけた。自分がどのような夢見がちな絵を描いたのかは覚えていないが、おそらく虹とか花とかそういうものだろう。そうしておけば周囲の大人達はほっとした。 世間で好かれるような価値観を知り、それを覚えて装うことで、僕は問題のない人間として生活することができる。クラスメイトたちとの特に興味のない会話にも、僕は陽気な調子で参加するという作業をこなさなくてはならない。 僕が化学準備室の片づけの手伝いをすることは、クラスメイトたちにはだまっていた。なぜなら教室での僕はそのようなことをするキャラクターではなかったし、積極的に手伝っていい人ぶっているというイメージを与えるのも避けたかったからだ。 それに、化学準備室の片づけをボランティアで手伝うことにしたわけではない。僕には思惑がある。 僕たちのクラスを教える化学教師には、試験の問題を化学準備室の机で作成するという噂があった。そのメモをごみ箱へ捨てる可能性があり、片づけのついでにそれを手に入れられないかと考えていたのだ。 一年生のとき、僕はたまたまその教師と準備室の片づけをしたことがあった。だから、片づけの手順はあらかじめ知っている。 まず、化学準備室にあったごみ箱を隣り合った化学講義室へ運び出す。そして準備室の整理を行ない、その後で先生といっしょにごみ捨てをする。整理中に次々とごみは増えていくので、それらを捨てるときはおそらく二人がかりになる。それが昨年の例だった。 ここで問題が発生する。このままでは、ごみ箱の中をゆっくり探る時間がないのだ。そのため、僕は次のような計画をたてる必要があった。 片づけを手伝う前に、あらかじめ他の教室からごみ箱を借りて、化学講義室に隠しておく。それから準備室を訪ね、片づけの手伝いをする。 昨年の通りだと、準備室のごみ箱を講義室へ運ぶようにと先生が僕に指示を出す。そうでなかった場合は、際を見て講義室に運びこむ。 学校内のごみ箱は、どの教室も統一されている。つまり化学準備室のごみ箱も、他の教室のごみ箱も、青いプラスチック製の同じ形なのだ。したがって、たとえ僕が、準備室にあったごみ箱と、あらかじめ選びこんで隠していた他の教室のごみ箱とを、講義室でひそかに入れ替えていたとしても、教師は気づかないというわけである。 テスト作成のメモが入っている可能性のある準備室のごみ箱は、教師の片づけを |