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GOTH リストカット事件
作者:    出处:咖啡日语    发表时间:2007-09-20    浏览次数:     

筏俊>菠室工巫≌丐恕⒔鹗粞uのシャッターのやかましい音が響く。車庫の正面に立って、厚く降り積もっている枯れ葉を見下ろした。植え続けた木は車庫のすぐそばまで密集しており、覆い包むように枝を伸ばしている。そのため葉が落ちると、車庫は落ち葉の中へ埋もれるような姿となる。そのうちに箒で掃かなければいけない。
 両親と祖母が死に、家で一人になってからは、掃除や洗濯をすべて佐伯がしなければならなくなった。生活を送る上での、そういった様々な作業をするときに、自分は一人なのだと思い出す。
 先日、結婚した同僚は、のりのついたシャツを着て職場に現れた。上司は自分の机で、時折、子供と写った写真を眺めている。
「佐伯さんはご結婚されないのですか?」
 同じ課にいる後輩の女性にそう聞かれたことがある。
 自分には無理だと思っていた。恋人、親友、家族、それらはすべて遠い場所にあり、手は届かない。職場で人と差し障りのない会話をすることはできる。しかし、深いつながりを持てるという自信はない。
 自分の抱えている悩みを秘密にしていると、無意識に人との接触の中で、他人を近づけさせない壁を作ってしまう。この恐ろしい悩みを打ち明けられる存在などこの世にいるわけがないのだ。
 冷たい風が首筋をなでた。昨日よりも一段と冷えている。佐伯は体を忍ばせながら、風に吹かれて地面を流れていく枯れ葉に目を落とす。しかし、寒さは冬が近づいているという理由のみではなかった。佐伯は、自分が背広の上着を脱いだままで立っていることに気づく。自分のワイシャツが皺だらけなのを見て、新婚の同僚の幸福そうな顔を思い出す。彼のシャツはいつもアイロンがけされている。
 他人のことは考えまいと頭を振り、佐伯は車庫の中へ入った。車庫の側面の壁に扉があり、そこを通る。車に近づき、後部座席のドアを開け、そこに置いていた背広の上着を手に取った。裏生地についている汚れに気づく。おそらく血が染みこんでしまったのだろう。佐伯は、鼻や唇から血を流して後部座席に横たわっている少女を見下ろし、そう思った。家の近所でだれかとすれ違った場合、後部座席に寝かせている少女の姿を見られてはいけなかった。だから念のために上着をかぶせて隠していたのだ。
 少女はまだ気絶しているらしく、動かない。体を丸めた格好で、長い髪の毛がベールのように顔を隠して車内の床に下がっている。少女が抵抗しなければ、傷つけることもなかった。佐伯は、手の甲をさすりながらそう思った。手に、少女の爪あとが赤い線となって残っている。
 組みついた瞬間、彼女は大きな叫び声をあげた。声は静かな夜空を震わせて、その周辺にいたすべての人間に聞こえたことだろう。
 それからどうなったのか容易には思い出せない。気づくと少女の顔を幾度もぶっていた。ぐったりとして、すでに少女は動いていないというのに、手を振り下ろして頬を張り飛ばしていたのだ。少女を後部座席に押し込んで上着をかけると、エンジンをかけてアクセルを踏んだ。
 佐伯は子供のころから、ほとんどだれにも暴力を振るうことなどなかった。テレビで児童虐待のニュースが流れると、胸に嫌悪感が広がった。しかし今、そのような自分が少女の顔をぶって怪我をさせている。そのときの感触は、まだ手に残っている。まるで、細かい虫が隙間なく手を覆い、ざわざわと這いまわっているようだった。恐ろしくて振り払おうとしても、それはなかなか消えてくれなかった。
 佐伯は少女を抱き上げて車内から運び出した。家の奥の部屋に向かって歩く。少女を抱えている姿が影絵となって窓や障子に映らないよう、家の電気は消したままだった。月明かりの中で、抱えている少女の腕と髪の毛が垂れ下がって揺れていた。木屑の散らかっている部屋に到着すると、作製したままの状態で放っていた棺桶に少女を寝かせた。
 頭の先から足の先まで、長方形の枠にぴたりと収まった。まるで少女はあらかじめその箱へ入っていたように感じられた。しかし、鼻や唇から血を流し、ところどころ皮膚が変色しはじめている少女の顔を、佐伯はまともに見ることができなかった。自分の心の暗闇が少女の顔にしっかりと刻印されており、それと向き合うことができなかったのだ。急いで棺桶に蓋をして、釘を打った。蓋にはあらかじめ二つの小さな穴を開けていた。後に呼吸のための筒を通す穴である。
 コウスケを埋めた地面の隣で、少女のための穴は口を開けて待っていた。今日という日が訪れることを予感し、月明かりの中で黒い窪みは待ち焦がれていたのである。掘り出した土が、穴の横で小高い山となっていた。
 棺桶を引っ張って家の中からそこまで移動させた。庭へは、縁側から直接、下りられるようになっていた。人間が一人、入っている棺桶は、重かった。
 穴に棺桶を入れると、呼吸のための竹筒を二本、蓋の穴に通した。それからスコップでひとすくいずつ、土をかぶせていく。最初は棺桶の蓋へ土が落下するたびにばらばらと音をたてていたが、やがて完全に土が覆ってしまうと、音はしなくなった。穴を埋める作業は、意外と時間がかかった。全身に汗が浮き、帰ってきたきり着替えもしていなかったために、職場へ着ていく背広のズボンは泥で汚れてしまった。やがて穴を埋め終えると、スコップで叩いて平らにした。
 コウスケを埋めたときは夏で、朝顔の蔓を筒に巻きつけた。しかし今の季節にそれは無理だろう。朝顔はもともと熱帯性の植物で、寒さには強くない。塀のそばに、雑草へまじって何本か用途不明の茶色の竹が立っていることになるが、それを見ても不審に思う人はいないだろう。夏には朝顔をここで育てており、これらはそれの親木だと説明すれば、だれも疑うまい。
 新しく掘り返した跡が目立たないよう、花壇にかぶせていた藁を持ってきて、筒の周辺に敷き詰める。その作業が終わると、一見して掘り返したように見えなくなった。
 スコップを置いて、佐伯は縁側に座った。しばらくの間、じつと塀のそばにある竹筒を眺める。少女は今、完全に地中へと埋まった。
 縁側と塀を結ぶ庭にだけ木を構えておらず、いくつかの花壇と、洗濯物を干すための物干し台、そして竹筒しか見当たらない。しかし縁側から離れた両端は、木々が立ち並んで、夜になるとほとんど黒い壁のように見える。風が吹いて、その黒い影が身じろぎした。少女を車へ押しこむとき、爪あとのついた手の甲をさする。顔をぶったときの感触はもうほとんど消えていた。その手で顔を触ると、いつのまにか自分が、口元を笑みの形にほころばせているのを知る。
 縁側から家に上がり、少女の持っていた鞄を探った。防犯のための催涙スプレーが中から見つかった。生徒手帳も、鞄に入っていた。表紙をめくったところに顔写真が貼ってある。美しい顔立ちの少女である。
 写真の下に、学年とクラス、出席番号に並んで、『森野夜』という名前が記されていた。佐伯は縁側に立ち、塀のそばに立っている竹筒を見ながら、その名前を心の中でつぶやいた。
 たった今、自分の埋めた人間にも名前というものがあるのだ。そのような当たり前のことに、ようやく気づく。地中に埋めた少女にも親というものがあり、名前を授け、愛情をこめて娘を育てていたのにちがいない。その愛の塊を、自分はついさきほど生き埋めにしてしまったのである。
 頭の中へ、甘い陶酔が広がった。それはまるで、綿へ砂糖水が染みこんでいくようなものだった。殴って怪我をさせた少女が地上にいる間は恐ろしいだけだったが、地中へ埋めて姿が見えなくなった途端、不思議なことに恐怖は甘美な気持ちへと変化する。
 そのとき、かすかな声が、佐伯の耳にまで届いてきた。風にかき消えてしまいそうなほど、小さな声だった。
 佐伯は、塀のそばに立っている教本の竹筒を見た。白い月光が、並んでいる竹筒を闇の中で浮かび上がらせている。地面に黒い影ができており、それは佐伯の座っているほうへ向かってまっすぐ線となって伸びている。数本の竹筒のうち、四本だけが、太い。
 聞こえた小さな声は、そのうち二本の先端からだった。佐伯は立ちあがり、縁側から直接、靴を履いて庭へ降りた。歩いて庭の端に向かう。自分が体を動かしているという気がしなかった。非現実の世界を歩いている夢遊病者になった気がする。月明かりのほかに何もない夜、庭に植えた木々が静かな黒い影となって両側から佐伯を見下ろしている。
 竹筒へ近づき、敷き詰めた藁を踏みしめ、自分の胸辺りまで高さのあるその筒を、上から覗いた。中は暗闇だった。心が空虚になるような闇が、親指ほどの直径の中に見えた。そこから途切れ途切れに、少女の声が筒の内側を震わせて、地上にまで届く。筒から出てきた声は弱々しく、竹筒の先端で風に飛ばされて煙のように消えていく気がした。
 声の出てくる二本の筒には、声の大きさに差があった。棺桶に突き立てた竹筒は二本だが、一本は足元の位置にくるよう通していた。もう一本は顔に近い場所で蓋を貫いている。そのため棺桶の中で声をあげると、顔に近い方に通した竹筒から、多く声が聞こえてくるらしい。
「……だれか……」
 少女の声はかすれ気味だった。切った唇が痛むのか、大きな声を出せないようだ。
「……ここから出して……」
 佐伯は膝を折り曲げて、筒の刺さっている地面に両手のひらをついた。さきほど埋めたばかりで、藁の覆う地面は柔らかい。この下から、確かに声が発生している。気のせいにちがいないが、手のひらが、地中に埋まっている少女の体温を感じてぱっと温かくなったように感じた。
 かわいそうに、なんてこの少女は無力なのだろう。自分の履いているサンダルの裏側よりも、さらに下の方に閉じ込められて呼吸している少女のことを思うと、憐れだった。地中で何もできずに埋まったままの少女を確認し、佐伯は自分の優位を感じた。子犬や子猫を目にしたときのような、胸にこみあげてくるものを覚えた。
「私の声は聞こえますか……」
 佐伯は立ちあがってそう言った。その声は竹筒の中の暗闇に満ちた空気を震わせて少女のもとへ届いたらしい。
「だれ……。そこにだれかいるのね……」
 少女の返事が聞こえる。佐伯がだまっていると、さらに筒の先端から声が地上に出てくる。
「あなたが私をここへ閉じこめたのね……。そして地面に埋めた……」
「……今、いる場所が、地中だとわかっているのですか」
 佐伯は不思議に思って質問した。たった今、棺桶の中で目覚めたのであれば、突然の狭い暗闇に閉じ込められているとしか状況を把握できないはずである。少女は少し沈黙した。
「……土をかぶせる音が聞こえたわ」
「気絶していたのは演技だったのですか」
 路上で気を失わせて以来、ずっと少女は目覚めていないものだと思っていた。いつから起きていたのだろう。佐伯は少女を縛っていなかった。箱へ閉じこめる以前から目覚めていたのであれば、走って逃げようと考えなかったのだろうか。
「……足を怪我しているのですか。だから、逃げようとしなかった」
 佐伯が質問すると、少女は押し黙った。推測が当たったのかもしれない。
「……ここから出しなさい」
 少女は声に怒りを含ませて言った。佐伯は、少女のその態度に驚き、胸を打たれた。泣いて懇願するのではなく、命令するような口調である。地中に埋まって姿は見えないが、この少女の心が持つ貴さを声に感じた。しかしそれでも少女は無力なのだ。
「……ああ、すみません。本当に、ごめんなさい」
 地中にいる少女には見えないだろうが、首を横に振る。
「あなたを外に出しては、私の行なったことが世間に知れ渡るではありませんか。だから無理です」
「あなたは一体、何者なの……? なぜこのようなことをするの……?」
 少女の質問を心の中で反芻する。
 なぜ自分は、彼女を埋めたのか。その疑問の出口が見出せず、一瞬、袋小路に迷いこんだような気がした。しかし、律儀に少女の質問に答えなくていいのだと思いなおし、考えるのをやめた。
「そのようなことは、どうでもいいことですよ」
「ここはどこ……? 山奥……?」
「いいえ、私の家の庭です。あなたはそこへ、埋葬されたのです」
 少女は押し黙った。暗闇しかない小さな空間で、彼女がどのような表情をしているのか想像する。
「埋葬……? 冗談は言わないで。私はまだ生きているわ……」
「死人を埋めてもおもしろくないです」
 非常に当然のことだと思いながら佐伯は口にしたのだが、少女は一瞬、口をつぐんだように黙りこんだ。そして低い声を出す。
「出さなければ、ひどいことになるわよ……」
「だれかがきみを助けにくるとでも、思っているのでしょうか?」
「知り合いがきっと、私を見つけ出してくれるわ……!」
 それまで低い声音で話していた少女は、一転して熱心な声でそう言うと、どこかが痛むのかうめき声をもらして沈黙する。筒の奥から、荒く呼吸をする音だけが聞こえてきた。もしかすると少女は肋骨を痛めており、小さな声を出すのにも背痛を感じるのではないだろうか。佐伯は今の少女の言葉に、奇妙な熱っぽさを感じてそう直感した。
「あなたが信じているというそのお知り合いの方は、男の子ですか?」
 ええ、そうよ。少女はそれだけしか言わなかったが、その男の子とは少女の恋人にちがいないと確信させる響きがあった。
「彼の名前を聞いてもいいですか」
「なぜそんなことを知りたいの?」
「興味があります」
 しばらく沈黙したあと、少女は名前を言った。佐伯は頭にその名を刻みこみながら、少女は嘘の名前を言ったかもしれないとも考えていた。そのような人物など存在しないという可能性もある。しかし、真実を確認する方法はない。
「そのうちに私は、双眼鏡を買おうと思っているのです……」
 夜空にいつのまにか雲が出ていた。風に流されて、月の上に覆い被さる。明日は曇るのかもしれない。
「なぜだかわかりますか……?」
 佐伯は聞いたが、少女は沈黙したままである。
「あなたを失って悲しんでいる彼を、遠くから眺めるためですよ……」
 少女のもとへ、確かにその声は届いたはずだった。しかし彼女は何も返事をせず、黙りこんだままである。幾度か返事をさせようと声をかけてみたが、佐伯の言葉にはもう何も反応せず、ただ筒の奥に、暗く、静かな暗闇があるだけだった。
 怒らせてしまったようだと思い、佐伯は筒のそばから離れた。朝になれば、機嫌も直っているにちがいない。
 車庫へ向かい、車の後部座席を掃除する。少女を乗せた跡があってはいけなかった。車内にはいつも小型の座布団を置いており、少女を寝かせるとき、顔の下にそれをしいていた。おかげで彼女の血は座布団に付着し、シートには染みついていなかった。佐伯は赤黒いものが点々とついた座布団を回収し、床に落ちていた長い髪の毛を集めた。
 掃除を終えて家に上がり、壁の掛け時計を確認するとすでに深夜の二時を過ぎていた。二階の自室へ向かい、布団に包まって眠りにつこうとする。瞼を閉じて夢の入り口を見つけるまでの間、庭の地中で一人、孤独に小さな暗闇へ閉じ込められている少女のことを思った。

 次の日、目覚めるとすでに正午近い時刻になっていた。土曜日だったが、佐伯の働く職場は曜日などほとんど関係がない。土曜も日曜も、同じように勤務しなければいけない。しかし幸い、今日は職場に出なくても良い日だった。
 自室の窓を明けて外を見渡す。子供のころ、その窓からは広々とした町並みを眺めることができた。しかし今は、立ち並ぶ木々の枝葉が邪魔をしている。木の天辺を越えて窺える空の色は灰色だった。冷たい風が目の前にあった木の細枝を揺らし、佐伯の頬に触れて通りすぎる。
 少女のことは昨夜の夢だったのではないだろうかと思い、階段を下りて、縁側に向かった。そこから視線を塀の方に向けると、夢ではなく、確かに現実にあったことだとわかった。
 太い竹筒が四本、細い棒に混じってまっすぐ地面に立っている。四本ということは、二人分だ。自分は確かに昨日、コウスケのいる隣に新しく少女を埋めたのだ。そう確認すると、安堵した。
 少女を車に押しこんだ公園のそばの通りはどうなっているだろう。悲鳴が辺りに響いた。そのことで、近所の住人は通報したのだろうか。また、地中に埋めた少女の親は、帰らない娘のことを心配して、警察に電話をしただろうか。警察はその二つの情報から、まさにあの公園脇の並木道で少女が拉致されたと判断を下したかもしれない。
 佐伯はサンダルを履いて庭に下りた。空腹感があり、少女と少し会話を楽しんだ後で食事に行こうと思っていた。不思議なことだと思う。普通はこのような異常な状況にいるとき、何も喉を通らなくなるのではないだろうか。しかしなぜか、空腹という生きている証を強く感じる。
 竹筒の正面に佐伯は立った。
 いきなり声をかけるのではなく、まずはじっと耳をすませた。筒の奥から何か聞こえないだろうかと思った。物音などはなかったため、佐伯は声をかけてみる。
「……朝です、起きていますか」
 昨晩、別れ際に彼女は、佐伯の声へ反応しなくなった。今朝もそれが続くようであればどうしようかと心配だったが、一瞬の間があって、少女の声が聞こえてきた。
「朝だってことはわかっているわ。この箱の中は暗闇だけど……」
 声が筒の内側を通り抜けて聞こえた後、地面にまっすぐ立っていた筒が何もしないのにぐらついた。竹筒は棺桶の蓋を通して、その内側にもわずかに出ている。それを少女が内側から触っているのだろう。
「顔のそばに、上の方から簡みたいなものが突き出しているわね。手探りでそれがわかったもの。これは私の呼吸のため? 中を覗いたら、筒の向こう側に白い明かりが見えるわ。夜が明けたということね?」
 竹筒は固定しておらず、ただ蓋に開けた穴へ通しただけである。抜こうと思えば簡単に抜ける。内側に突き出している部分を握ってゆらすと、地上に出ている先端は、逆になった振り子のように前後左右へ揺れ動く。
「じっとしていてもらえませんか。筒を動かされては、いけないのです。だれかが見ては、不審に思うでしょう。もしそれ以上、じっとしていないのなら、取り払います。するとあなたは、呼吸できなくなりますよ」
 佐伯がそう言うと、動いていた竹の筒は静止した。
「……あなたの名前は?」
 少女が不意に質問する。
「佐伯、と言います。あなたは、森野さんでしょう……?」
 熟考するような沈黙の後、忌々しそうな声音で少女はつぶやいた。
「佐伯さん、なぜあなたが、私をこんな場所に閉じ込めているのかはわからない……。でも、これは悪いことよ。今すぐ出した方がいいわ……。でなければ、あなたの肩に不幸な黒い鳥が舞い降りてくるでしょう……」
 どこまでも少女は佐伯に屈せず、逆に呪術師が呪いをかけるよう宣言した。彼女は、立場をわかっているのだろうか。わずかに怒りが胸の内に生まれた。
「そんなところにいて、あなたに何ができると言うのですか。あなたは、今日にでも私に溺死させられるのですよ」
「溺死……?」
 ゴムホースで水を流しこんで殺すという計画を少女に説明する。できるだけ意思を挫《くじ》くよう、助かる望みなど一切ないのだということが理解できるよう、丁寧に教えた。
 少女はさすがに絶望という暗い穴の縁から目をそらすことができなくなったのだろう。あるいは、気丈な態度を保つ気力が薄まったのか、声を震わせながら、それでも言いきった。
「あなたに殺されるよりも前に、私は自ら命を断つ……。あなたは私の制服のポケットを調べなかったわね……。それは致命的なミスよ……。この重大さを、後々、あなたは思い知るでしょう……。ポケットにシャープペンシルが入っていて、私はそれで頸動脈を突き破るつもりよ……」
「あなたは、私に殺される前に自殺をすることで、プライドを守ったように感じるのかもしれません。でも、それは違います。同じことですよ。自殺したあなたの死体はそこで腐っていくわけです。だれにも発見されない。地中で永久に一人きりの孤独を突きつけられるわけです」
「いいえ、ちがう。永久に私が発見されないなんてことにはきっとならない。警察も馬鹿ではないでしょうから、そのうちあなたのやったことは明るみにでるわ。数日後のことか、数年後のことかはわからないけれど。それに、私には予感がするの。決して一人では死なないという予感よ」
「一人では死なない?」
「そう、孤独な死は訪れない」
「……それは、だれかと一緒に死ぬということですか? 昨日、あなたが話していた男の子のことを言っているのですか?」
「彼はおそらく、私を一人のままでは死なせないわ」
 箱の中で、泣いているのだろうか。彼女の声は水分を含んでいるように思えたが、どこか確信めいた揺らぎのない意思を奥に秘めていた。
 少女の恋人のことを、最初は鼻で笑うようなつもりで聞いていた。高校生の幼い恋だと思っていた。しかしなぜか今になって、わずかに不安がこみあげてくる。それは水に落とした墨汁の雫のように、黒い雲となって胸に広がっていった。
「私には理解できません……。あなたは、そんな状況にありながらなぜそんなことを言えるのか……。森野さん、あなたはそこで……、地面の中で一人きりで寂しく腐って土になるのですよ……。それ以外にありえない……」
 佐伯はそう言うと少女から離れた。
 少女の言葉を聞いたとき、職場で後輩の女性からされた質問を思い出した。結婚はしないのですか、という質問である。
 自分は、親しい人間や家族といった様々な深い関係性の網の目から孤立している。そうしなければ生きられなかった。表面的に世間話で他人と笑顔をかわしても、決して魂の交歓はないのだ。少女の言葉はそのことを思い出させ、心の中をかき乱した。
 食事をとって落ち着こうと思った。食欲はすっかり消えうせていたが、何かを口にすれば、気分もよくなるだろう。
 外食にしようと思い、スーツのポケットに入れていた財布をつかむ。上着を羽織り、玄関先で靴を履きながら、ふと、妙な違和感を抱いた。
 佐伯にはいつも、肌身はなさず持っている手帳があった。茶色の革表紙をしたものである。それはいつも財布と一緒に携帯しており、どこへ行くときも自分のそばから離さなかった。それを昨夜から見ていない。
 靴の片方を履きかけていた佐伯は、それを脱いで立ちあがり、家の中に戻った。ハンガーで壁にかけているスーツの正面へ立ち、財布を入れていた上着のポケットに手を入れる。何も入っていないことを確認すると、他のポケットを探す。どこにも手帳はなかった。周囲を見渡して、茶色の表紙が見当たらないか確かめる。テーブルに載っている雑誌を持ち上げ、|炬《こ》|燵《たつ》の掛け布団をめくり、手帳を探した。しかし、無駄だった。
 最後に手にしたのはどこだっただろうかと考える。職場にいたときは、確かに持っていたことを記憶している。どこかで落としてしまったのだろうか。
 そう考えて、佐伯はある結論に辿り着いた。そのおかげでほとんど立ちくらみにも似た感覚を味わう。それを否定しようとすればするほど、間違っていないという気がしてくる。
 もしも手帳を落としたのだとすれば、少女に組みついて激しくもみあったときではないだろうか。昨夜、あの公園脇の通りで、少女の悲鳴が周囲へ響き渡った瞬間、暴れる彼女の肘が佐伯のわき腹を打ち、スーツのポケットから手帳が飛び出したに違いない。
 庭の方で鳥のはばたく音を聞いた。家の周囲を覆う木々に、よく鳥が集まってくる。朝になると鳴き声が聞こえ、佐伯が庭を歩くとあわてて翼をはためかせて逃げ出す。しかし今、佐伯の耳に届く鳥のはばたく音は、不気味な破滅の前兆のように聞こえた。
 昨日の夕方、あの道で落ち葉の掃除が行なわれたと聞く。そのときになかった手帳が、今日、発見されたとする。それはつまり、手帳の持ち主が昨夕から今朝にかけた時間帯のどこかで、その場所にいたということだ。
 手帳の持ち主を割り出すことは簡単である。手帳の中に佐伯のことが記されていたからだ。自分がその場所にいたという事実と、昨夜に起きた少女の悲鳴、失踪とを結びつける人間がどれほどいるのかはわからない。しかし、念のためすぐに手帳を回収しに向かったほうがいいように思えた。
 焦りながら靴を履き、外へ出た。公園脇の通りまでは、車を出すほどの距離ではないため、走って行くことにする。
 門を出る前に、少女へ一言だけ声をかけて行こうと思った。玄関先から、常緑樹の立ち並ぶ一帯を抜けて、縁側のある庭へまわった。塀のそばに立つ竹筒へ近づきかけ、ふと足を止める。
 筒の先端から、まるでたがの外れたように笑う少女の声が聞こえてきた。
 昨夜から話をしていて、少女の感情が解放される瞬間はなかったように思う。悲鳴ひとつあげずに、まるで心を押し殺しているような口調で佐伯と話をしていた。
 それが一転して笑っている。痛みのためか、ときどきうめき声を交える。それでも笑わずにはいられないらしい。
 地中の箱の中で、少女は恐怖に負けて狂ってしまったのだろうか。それまでが静かだったために、より薄気味が悪くなった。結局、佐伯は、彼女に声をかけないまま昨夜の通りへと向かった。

   † 3

 公園のそばの通りに到着したとき、時刻はちょうど十二時だった。晴れていれば太陽は空の高い位置に見えただろう。しかし今、厚い雲に遮られて辺りは薄暗く、冷たい風が吹いている。
 公園は住宅地の中にあるこぢんまりとしたものだった。子供が通りへ飛び出さないよう周囲に金網がはってある。佐伯は歩道を歩きながら金網越しに公園の中を見た。広場を中心に、いくつかの遊具がある。
 ブランコに腰掛けた人影がひとつあった。敷地の反対側で佐伯の方に背中を向けていたため、黒い服を着ているらしいとしかわからない。
 他にはだれもいないと知り、安堵した。もしかしたらすでに警察が通報を受けてこの近辺を調査しているかもしれないと考えていたが、どうやらまだらしい。自分がくるよりも先に、手帳を他人に拾われることこそもっとも危惧していたことだった。
 通りは歩道と車道とにわかれており、一定の間隔で木が植えられている。現在、車の姿はほとんどなく、静かで閑散とした道がまっすぐのびているだけである。
 風が吹いて、枯れ葉が落ちてきた。風に舞うように、という感じではない。雨が降るように、乾燥しきった葉がいくつもばらばらと落下してきた。昨日の夕方に掃除が行なわれたはずだ。
 しかしすでに歩道は枯れ葉に覆われかけている。車道はさすがに車が少しは通るためか落ちている枯れ葉の量も少ないが、端の方はそのぶん厚く積もっている。
 昨夜、車を止めていた辺りの地面を見まわす。少女ともみ合ったのもその辺りだった。しかし、一見した限り手帳は見当たらない。あるのは一面を覆う枯れ草だけである。落下した手帳の上に枯れ葉がかぶさって、通りを歩く人の目から隠しているのかもしれない。
 佐伯は膝を曲げて、アスファルトに散らばっている枯れ葉を両手で掻き分けた。歩道のすべてをそうやって探す必要はない。手帳が落ちているとすれば、少女ともみ合ったこのあたりだろうという目処はついている。そのため、すぐに見つかるだろうと思っていた。
 乾燥した枯れ葉は軽く、降り積もっている部分を|雑《ま》ぜ返すと、もろく崩れ、風に吹かれて飛んでいく。その様を見ながら、少女のことを考える。
 彼女のいる箱の中は暗闇である。蓋から突き出した筒から外界を覗けば、外の明るさが小さな点となって見えるかもしれない。しかし光はそれだけだ。少女は狭い闇の中で、自分の死と無理やり向き合わされ、取り残されている。それでも彼女は、恋人が自分を一人きりで死なせないだろうという……。
 さきほどそれを知ったとき、佐伯は動揺した。理解できない、という不安が胸に生まれた。地中で一人きりにされ、永遠の孤独が約束されてもなお、他人を信じるということがありえるのだろうか。
 昨夜から今朝にかけて、佐伯の頭には心地よい霞がかかっていた。地中に埋められた相手の無力な状況を思うと、いたたまれなさがこみあげてきて、それが蜜のような甘い味となって舌に広がった。しかし、少女の言葉を聞いて以来、まるで頬を叩かれて眠りから覚めるように、それらが急激に薄まりつつあった。
 今になって少女に対して行なったことをはっきりと自覚する。自分が彼女に言ったいくつもの恐ろしい言葉を思い返す。
 |眩《め》|暈《まい》がして、佐伯は枯れ葉の上に膝をついた。視界が歪み、枯れ葉の幾重にも重なった層が、まるで海面のように波打っている。息苦しく、酸素を求めて喘ぐように呼吸を速めた。
 自分はいつから、残虐な行為を、まるで砂糖菓子を味わうような気持ちで楽しむようになったのだろう。以前の自分は、善良な市民でいようと心がけていたはずだ。職場では真面目に振るまい、心から人にやさしく接してきた。道を歩けば知っている顔と挨拶をして、立ち止まって世間話をした。
 人を生き埋めにするという妄想が頭に思い浮かぶたび、それを振り払おうと努力した。そのようなことをしてはいけないと自分に言い聞かせながら、せめて庭に穴を掘るだけにとどめようとした。自分は人間である。人を地中に埋めて楽しむような悪魔では、決してない……。
 しかし、コウスケを地中に埋めて殺したあの日から、自分の中にあるどこか重要な歯車がおかしくなってしまったように思う。地中で身動きできない少女に対して優越を感じ、そうすることでようやく生きているのだと実感する恐ろしい自分を、はたして人間と言えるのだろうか。
 眩暈のする中、それでも佐伯は膝をついたまま枯れ草を掻き分けて手帳を探す。鼻の頭に生まれた汗が、乾燥した葉の上に落ちる。
 手帳はいくら探しても見つからなかった。念のためにと思い、少女ともみ合った場所から離れた位置の枯れ葉も雑ぜ返した。しかし見当たらない。焦りが、少しずつ膨らんでくる。
 風に飛ばされてきた新聞紙が足に引っかった。立ち上がってそれを引き剥がしたとき、公園の金網越しに自分を見ている人物がいることに気づいた。手帳を探すことに夢中で、人影の近づいていたことがわからなかった。
 ブランコが遠くで、人を乗せないまま揺れていた。さきほどそこにあった人影がいつのまにか移動していたらしい。
 金網を一枚隔てたすぐ向こう側に立っていたのは、高校生くらいの少年だった。黒い学生服を着ており、両手をポケットに入れて佐伯の方を見ている。学校が半日で終わり、そのまま公園に来たのだろうと思った。彼の顔を見ると、目があって、気まずい沈黙が生まれた。ばつの悪さを感じたらしく、少年が金網の向こう側で頭を下げた。
「……すみません。何をしているのだろう、と思ったものですから」
 よほど自分の姿は目立っていたらしい。
「何か落とし物でも……?」
 少年の質問に、佐伯は口籠もった。
「ええ、ちょっと…‥」
 どう答えたらいいのだろう。どこかへ立ち去ってほしいが、そう頼むのも不自然である気がした。一度、自分がどこかへ消え去り、少年がいなくなって改めて手帳を探したほうがいいのだろうか。
「この辺りに住んでいらっしゃる方ですか?」
 口籠もっていると、少年が再び口を開いた。
「ええ、そうです」
「名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
 特に深い考えもなく、正直に答える。
「佐伯さんですか……。佐伯さん、実は少しお聞きしたいことがあるのです。おかしな質問なのですが、よろしいでしょうか?」
「おかしな質問……?」
「はい、お手間は取らせません。昨夜の悲鳴についてのことです。何かご存知でしょうか?J
 心臓に氷をそっと当てられた気がした。
「悲鳴……? 何の悲鳴ですか……?」
「夜の九時ごろ、この周辺で人の悲鳴があがったそうです。この辺りに住んでいる知人から、その情報を得ました。でも、どうやら佐伯さんの家までは聞こえなかったようですね……」
 佐伯の反応をうかがい、彼はそう結論付けたようだ。それならば、そうしておこう。佐伯は頷いて同意する。
「そうですか……。実は、僕のクラスメイトが一人、昨夜から家に帰っていません。今日、学校が半日あったのですが、登校していませんでした」
 少年から目を逸らさずにはいられなかった。おそらく自分よりも十歳近く年下だろうその少年の目が恐ろしい。服の下に、汗が滲むのを感じた。少年が言っているのは、あの少女のことだろうか……。
「その子は毎日、この道を通って学校に通っていたそうですし、もしかすると昨日の悲鳴というのは、そのクラスメイトのものだったのではないかと……」
 やはり、自分が土の中に埋めた少女のことだ。
「きみは、彼女と仲が良かったのですか」
「ええ、まあ」
 少年の返事は、あまり気のないものだった。少女の言っていた仲の良い友人とは、彼のことだろうか。しかし、彼の返事のしかたから、それは違うという気がした。少年はひどく冷静で、少女のことを他人事のように話す。深いつながりを二人の間には見出せない。
「それできみは、そのいなくなったクラスメイトが心配で公園にいるというわけですね」
「いえ、違います。ここにきたのは、観光のようなものです」
「観光……?」
「警察署に、所々赤いマークのついた市内地図のポスターが貼ってありますよね」
「死亡事故が起きた個所を表しているものですか……?」
「その通りです、よくご存知ですね。僕以外にそのことを知っている人がいるとは思いませんでした。僕は、赤いマークのついている場所を歩いて、人の死んだ場所に立つことが趣味なのです。命の失われた場所に左右の足をそろえて立ち、靴底でアスファルトの表面を確かめる……。今回ここにきたのも、その延長です。事件のあった場所を眺めるのが好きで、もしかすると、例えば、何かの理由で現場に戻ってきた犯人に会えるかもしれないでしょう」
 少年はポケットから両手を出して金網をつかんだ。金網が揺れて、ぎしぎしと昔を出す。彼の視線はまっすぐに佐伯へと注がれていた。
 彼の言った言葉に、心臓が止まりそうになる。もしかすると、自分の話の相手をしている男が少女を捕らえた人間だと知った上で言っているのではないか。佐伯はそう考えて、否定する。そのような馬鹿なこと、あるわけがない。
 しかし胸の内側は晴れず、嫌な予感が渦を巻く。
 鳥のはばたく音がして、見上げると、寒々しい空を背景に、電線の上へ|鴉《からす》がとまっていた。黒い|嘴《くちばし》を、佐伯のほうに向けている。
 ……もしかしたら。
 佐伯は、ある可能性を考えた。
 ……この少年はここで、手帳を拾ったのかもしれない。その手帳と少女の悲鳴とを関連付け、そして近いうちに犯人が拾いに戻ってくるということも想像したかもしれない……。
 少年は手帳を隠し持って自分をためしているのだろうか。しかし、まさかそのようなことがありえるだろうか……?
「ところで、行方不明のクラスメイトのことなのですが、今、どこにいるのでしょうね」
 少年が首を傾げてこちらを見ていた。まるで佐伯のことを観察するような目で、どこか冷たいものを感じた。
 逃げたい。佐伯はそう思った。今なら、少年は金網の向こう側にいる。追いかけてくるには、金網のない公園の出入り口をまわってこなければいけないだろう。しかし、万が一にでも彼が手帳を拾っており、佐伯の不審な行動を警察へ報告したとしたら、どうなるだろう……。
「何か、ご存知ありませんか」
「……いえ、知りません」
「そうですか。なんとなく、あなたならご存知ではないかと思ったので……」
「なぜです……?」
「いえ、考えすぎだったのだと思います。だって、さきほどあなたは、自分は悲鳴を聞いていないとおっしゃったから」
「それが、何か……?」
「だから、おかしいと感じたわけです。そのとき僕は『人の悲鳴』としか説明していなかった。それなのにあなたは、行方不明になったクラスメイトの話題を出したとき、『きみは、彼女と仲が良かったのですか』とおっしゃったのです。『彼女』という言葉を使いましたよね。会話の中で性別に関することなどそれまで一度も出てきていないのに……。佐伯さん、なぜあなたは、いなくなった生徒が女子であることを知っていたのですか……?」
「ああ、それには理由があるのです。毎朝いつもこの道ですれ違う女子生徒と、なぜか今朝は会わなかった。ただそれだけです。だから、あなたの言う行方不明のクラスメイトというのはその子のことではないかと思ったのです……」
 少年は頷いた。
「髪の長い、細身の女子生徒ですよね」
「はい、左目の下にほくろのある色白の子です」
 生徒手帳にあった写真を思い出しながら佐伯は答えた。しかし、このような会話をはたしていつまで続ければいいのだろうか。少年はやはり自分を疑っているのだ。まるでゆっくりと首をしめられていくような居心地の寒さを感じる。
「大丈夫ですか、お顔の色がすぐれないようですね」
「……少し、気分が悪いみたいで」
「少し待っていてください、今、そちらへ行きますから」
 少年は金網越しに言うと、公園の出入り口へと向かった。ブランコのそばに放置していた鞄を、途中で拾い上げる。通りに出て、佐伯のもとへ近づいてくる。大丈夫ですか、と少年が佐伯に声をかける。
 さきほどから緊張で額に浮かんでいた汗を、服の袖を使って拭う。
「実は……、昨日から風邪をひいていまして……」
「そんな状態で長々と話につきあわせてしまい申し訳ありません。お手間を取らせないとあらかじめ言っていたにもかかわらず……。どこかで休まれたほうがいいのではないですか」
「そうですね……」
 少し考えるふりをしたが、続ける言葉はすでに決めていた。
「……家に、帰ろうかと思います」
 この後、数歩だけ進んでから立ちくらみで倒れるふりをするつもりだった。そして少年が駆け寄ってきたら、親切心につけこんで、家まで送ってもらう。そこですきをついて殺害し、ポケットを改めれば問題はない。しかし、そういった面倒な演技をする必要はなかった。
「心配です、家に向かうのでしたら送っていきましょう」
 少年は眉間にしわをよせて、佐伯に無理をさせまいという顔をしていた。都合が良い。
「……では、お願いします。家はあちらです」
 二人で並んで歩きはじめる。佐伯は肩をすぼめて、いかにも悪寒のするといった姿勢をする。気分が悪いのは事実だったため、風邪のふりをするのは難しくなかった。
 道すがら、この少年はいったいどのような人物なのだろうかと考えた。唐突に自分の前へ現れて、なぜか今、いっしょに歩いている。家についたらどうすればいいのだろう。どうやって彼を殺せばいいのだろう。
 そこまで考えて、また眩暈がひどくなる。いつのまにか、まるで仕事の予定を考えるように少年の殺害を計画している……。
 もうこれ以上、恐ろしいことをしてはいけないと訴える清い心の声もあるにはあった。しかし、もしも彼が手帳を拾ったのであれば、そして少女と自分との関連に気づいたというのであれば、殺害する以外にないのだ。
 でなければ、自分の行なった恐ろしい行為は世間の知るところとなるだろう。本当の佐伯が身の毛のよだつ異常者だと知ったとき、これまで自分に接してくれた職場の人間たちは、どのような顔をするのだろう。家から持ってきた花を花瓶に差して窓辺に置いていた男が、実は殺人をためらわない、唾を吐きかけるべき存在だったと知ったら、悲しむのだろうか、憤るのだろうか。一斉にあがるどよめきと失望の中心で、自分は、自分のしたことが恥ずかしくて頭をうなだれたまま何も見られないだろう。羞恥の炎は、胸を焼くに違いない。
 決してそうなってはいけない。少年を殺すのは、しかたがないことなのだ。目を必死に閉じて、泣きそうな気持ちでそう自分に言い聞かせた。
 家には、すぐに到着した。道すがらどのような会話をしたのか覚えていないが、あたりさわりのない話を、お互いに選んでいた気がする。
「立派なおうちですね」
 少年は塀の前で屋根を見上げて口にした。
「そのかわり、古いですよ。どうぞ、上がってください」
 二人で門を抜けた。車が出入りできるよう、いつも開けている。少年は途中で立ち止まり、家に並んで建っている車庫へ視線を向けた。黒い乗用車の正面が見えていた。少女を後部座席に乗せていたという痕跡は、昨夜のうちにすべて掃除していた。血の跡も、髪の毛も、何も残っていない。掃除をしたときにシャッターを開け放していたままだった。
「車はあの一台きりですか。そういえば佐伯さんは、お一人でこの家に住んでいらっしゃるのですね」
「はい」
 次に少年は、庭に目を向けた。
「木が多いですね」
「趣味なのです。まるで森のようでしょう」
 少し見てもいいですかと確認し、少年は庭へ足を進めた。佐伯も後ろをついていく。
 曇った空の下で、佐伯の育てた植物は濃い緑色をしていた。少年は立ち並んでいる常緑樹の間を歩き、感嘆するような声を出した。
「広い庭ですね」
 やがて少年の背中は、常緑樹の並んでいる区域を抜けて、広い場所に出た。そこは家の南側で、縁側と塀とにはさまれた場所である。石を並べて作った花壇がある。植物は生えておらず、乾燥した灰色の土が見えるだけだ。
 そして塀のそばに、竹の筒が数本、並んでいる。かつて朝顔のあった地面は藁に覆われており、その下には……。
「このあたりだけ、木がありませんね」
「縁側の見晴らしが悪くなりますから」
 ……下には、少女と、もはや原形をとどめていないであろうコウスケが埋まっている。
 竹筒はまっすぐ塀のそばに立っており、揺れ動いてはいない。少年はまだ竹筒に注目してはおらず、背景の一部としてしか認識していない。しかし、もしも地中で、今、少女が蓋の裏側に突き出ている部分を握ってゆらしたとする。すると少年は、不自然に動いている筒に気づき、不思議に思って近寄ることだろう。
 そうなる前に、物事を終わらせなければいけない。佐伯は少年を縁側に座らせた。
「お茶を持ってきます」
 そう言い残し、縁側から直接家に上がって奥へ向かおうとする。
「それにしても森野さんはどこへ消えてしまったのでしょうか……」
 少年のつぶやきが聞こえた。佐伯は一瞬、立ち止まって、縁側に座っている少年の背中を見つめた。
「彼女は、うまく言えないのですが、変質者を誘うフェロモンを分泌しているらしいのです」
 いつのまにか少年が振り返って佐伯の顔を見ていた。さきほどのつぶやきは、わざと聞こえるように言ったものだったに違いない。
「そんなフェロモンを振り撒きながら歩くものだから、よくおかしな人に狙われるのです」
「……待っていてください、お茶を、持ってきますから」
 佐伯はそれだけ言うと少年から離れた。少年がわざとそのような話を聞かせて佐伯の気をひこうとしているのかどうかはわからない。しかし、彼の口ぶりに、どこか気味の寒さを感じていた。
 台所で一人分のお茶の湯を沸かしながら、包丁を取り出す。人を殺す凶器として、それしか思い浮かばなかった。
 ガスコンロの青い炎がヤカンの水を熱している。盆の上に、湯のみと急須、そして包丁を並べた。その銀色の刃を眺めながら、これから縁側に腰掛けている彼に向かって背後からそれを振り下ろさなければならないのだと考える。コンロの炎がちらつき、刃に反射した。一人分のお茶の湯だから量は少なく、さっそくヤカンの水が沸騰しはじめてコトコトという音を出す。
 佐伯は流しに手をついて体を支えた。そうしていなければ立っていられなかった。少女を地中に埋めたときの甘美な気持ちはかけらもなくなっていた。そのかわり悪夢へ放り出されたような、ひどい気分である。目に映るもの、触れられるもの、何もかもがすべて腐敗臭を放つような気がしてくる。そこでもっとも醜い生物は自分自身である。コウスケを殺し、少女を埋めて、今度は少年を刺そうとしている。恋人を信じる少女の精神に比べ、自分の心はどんなにおぞましいのだろう。コウスケを殺したときから、悪夢はすでにはじまっていた。
 いや、あるいは、生まれたときからこの悪い夢は運命付けられていたのかもしれない。この世に生を受けたときからすでに、自分はこのような人殺しとしての避けられない衝動を魂の奥に持っていたのかもしれない。
 水が沸騰し、ヤカンの口から勢い長く湯気が吐き出される。火を止めようとして、佐伯は、あることに気づいた。
 コウスケ……。
 湯気が立ち上り、沸騰した水でぐらぐらとヤカンの中は煮えたぎっている。
 コウスケはどんな顔をした子供だっただろう……。
 佐伯は、自分の殺した幼い子供の顔をまったく思い出せなかった。何度も一緒に公園へ出かけては親しく遊ぶような長い関係だったはずだ。それなのにまるで、消耗品のように、もはや記憶から消している。
 自分は、いったいどうしてしまったのだろう。もはや何もわからなかった。心の一方は、人にやさしく接するような、正しい市民であろうとする。しかしもう一方は、人を地中に埋めて喜ぶような恐ろしい怪物の心である。それは二重人格のように相反していながら、別のものではなく、なだらかに地続きでつながった連続したものなのだ。決して別人ではない。
 しかしそうすると、これまで生きてきて、自分が、自分だと思っていた人間は、いったいだれだったのだろう。自分を信じられない自分は、いったいなにを信じて生きればいいというのだろう。
 盆に置いていた包丁を持ち上げる。持つ手が、震えた……。
 コンロの火を止めて湯を急須に注ぐ。盆を持って、縁側の少年のもとに向かう。
 佐伯は静かに歩いた。廊下を抜けて縁側の見える位置にくると、少年の背中が見えた。庭の方を向いて、縁側に腰掛けている。
 片手に携帯電話を握り締めて耳に当てていた。警察に電話しているのだろうかと、一瞬、動揺する。
 静かな足取りで、背後に近づく。
 電話に向かって話をする少年の声が、佐伯にも聞こえてくる。その口調から推し量ると、どうやら警察への通報ではなく、友人に対する電話のようだった。
 少年の背後に立ったとき、床板が、|軋《きし》んだ。
 不意に少年が振りかえる。そして電話を切った。
「佐伯さん、遅かったですね……」
 少年は言った。
「それに、お顔の色がさきほどよりも悪いようです……」
 佐伯は、少年のそばに盆を置く。
「ええ、ちょっと……、眩暈がひどくなって……」
 急須から湯呑みへ茶を注ぐ。
 自分は、心の内側に潜んでいる恐ろしい獣と戦わなければならない……。
 湯呑みを少年に差し出しながら、佐伯は無言で決心する。
 包丁は、台所に残してきた。コウスケの顔を思い出せないと気づいたとき、そうしなければならないと感じた。そうすることが、悪夢から抜け出すための唯一の方法であるように思えたのだ。
 佐伯の差し出す湯呑みを、少年は受け取った。薄い緑色の液体から白い湯気がのぼり、空中に消える。それを少しの間、眺めていたが、口をつけることなく湯呑みを下に置く。
「佐伯さん、ひとつ、いいお知らせがあります」
 少年は目を細めて安堵するような表情を浮かべると、ため息を吐くように言った。
「昨夜からいなくなっていた森野さんが、ついさきほど、家に戻ってきたそうです」

   † 4

 壁の掛け時計の針が深夜の十二時を差したとき、佐伯は電気を消した自室の片隅で体を丸めていた。膝を抱え、ただ暗闇の中で息を潜めさせていた。体の震えは容易に止まなかった。日の落ちはじめるころからずっとその状態で、もはや寒いのか暑いのか、自分が生きているのか死んでいるのかもわからなかった。
 掛け時計の長針がひと目盛り動いた。すると、ちょうど窓の外から差し込む月光を反射する角度になったらしい。針が白く輝いた。それを視界の中にとらえて、ようやく佐伯は決心して立ちあがる。階段を下りて、まずは車庫へ行った。中に置いていたスコップと、箱の蓋を開けるためのバールを携えて、庭へと向かう。
 世界が暗闇へ沈むのを待っていた。日のある明るいうちには、だれかが間違って塀から覗きこみ、佐伯のしていることを見てしまうかもしれないと考えたからだ。しかし待っている間、あらゆる想像が頭の中を駆け巡り、もはや平常心ではいられなかった。暗闇の中で恐怖ばかり膨れ上がり、何度も気絶しそうになりながら、気づくと六時間も体を丸めていたことになる。
 常緑樹の並んだ場所を抜けて、縁側と塀にはさまれた庭へ出る。塀のそばに立っている竹筒を見据えながら、一歩ずつ近づく。手の甲が、やけにずきずきと痛んだ。前夜、少女に爪痕を残された場所である。
 佐伯は、胸の辺りまで高さのある乾いた竹筒の前に立った。少女の棺桶とつながっているはずの竹筒である。手の痛みは、まるで血の流れそうなほどだった。
 まずはじめに少女へ呼びかける。しかし返事はなかった。佐伯は震える手で筒を土から引き抜き、そばに置いた。地面を覆っていた藁を掻き分けると、まるで蝉の|蛹《さなぎ》が掘り起こした跡のような筒の立っていた穴が現れた。
 スコップの先端を、地面に突き刺す。佐伯は穴を掘り始めた。
 目立たないよう照明を一切つけずに作業した。昼間に空を覆っていた雲は、風に流されて消えていた。昨晩と同じように、辺りは白く月光に照らされている。塀の向こう側にある通りを人の通る気配はなく、ほとんど無音の中、スコップの先が地面に食い込む音だけが存在した。眩暈はあいかわらずひどく、熱でもあるように体がふらつく。その状態で穴を掘り続けながら、昼間、縁側で少年の言ったことが頭に|蘇《よみがえ》る。
「彼女、ひどいめにあったらしいですが、命に別状はないそうです。さきほど電話で話をしました。もう帰ります。いろいろな話を聞かせてくださって、ありがとうございました」
 湯呑みの中の茶が冷めてもいないうちに少年はそう言うと、頭を下げて縁側から立ちあがったのだ。彼は何を言っているのだろうかと、佐伯には、少年の話す言葉の意味がわからなかった。少女が土の中から出られるはずがない。
 しかし少年は、戸惑っている佐伯を振りかえりもせず、足元に置いていた鞄を拾い上げて門の方向へと歩き出す。面食らいながらも、佐伯は縁側から下りて靴を履き後を追った。林立する木の幹の間で、少年の背中に追いついた。
「家に……、家に戻ったというのは……?」
 そんなことは嘘にちがいない。内心では思いながら、佐伯は聞かずにいられなかった。
「そのままの意味ですよ。電話の彼女は、なにか精神的にひどくショックをうけているみたいでした。今後が心配です。立ち直れるでしょうか」
 門を抜け、鞄を下げた学生服の少年は、公園の方角へ歩き出した。佐伯は門のところで足を止めた。片方の門柱に片手をついて体を支え、離れていく少年の背中をただ見ていた。
 不意に、門からさほど遠くないところにあるT字路で、少年が立ち止まった。角の向こう側、佐伯には見えない位置からだれかが近づいてくるらしく、彼は片手をあげていた。やがて角から現れて少年のそばに立ったのは、見覚えのある、髪の長い少女だった。
 目を疑った。少女の顔は、よく見えた。整った美しい顔で、白い肌である。地中に埋まっているはずの少女だった。彼女は少年と何か話をしている。
 自分は夢の中にいるのだろうか。眩暈のために家や電柱のあらゆる直線がやわらかく歪んだ。道路や壁は粘性の沼のように波をうつ……。
 少女を埋めていた竹筒のある方を見る。佐伯は走り出した。T字路にいた二人から目を離す瞬間、少年が自分の方を振りかえった。しかし問題は竹筒の下である。佐伯は、少女を埋めた場所に立った。棺桶へ通した筒に呼びかける。しかし返事はなかった。地面の下にどんな人間の気配もなく、筒の中を覗いても暗闇が濁った黒い水のようにたまっているだけである。
 少女はやはり、土の中から脱出していたのだ。
 いや、ちがう。佐伯は否定した。土に掘り返した跡はない。
 それならば……。
 自分はいったい、何を地面に埋めてしまったのだろう……。
 少年が帰って以降、暗くなるまでの間、幾度も竹筒に呼びかけた。しかし声の返ってくることは一度もなかった。いくら考えても答えは出ず、結局、夜がふけるのを待って箱を掘り返すという以外にできることはなかった。
 月光の下に、土を掘り返す音だけがある。佐伯は一心に作業を行なつた。庭木が黒い壁のように両側から見下ろしていた。夜の露を受けて常緑樹の葉は濃密な匂いを出している。
 淡く白い霧のようなものが、立ち並ぶ幹の間から漂い、庭中を覆っていた。木々も呼吸をする。それら白い霧は、自分の植えた植物たちの吐息なのだと、佐伯は感じていた。
 スコップの先端が土へ刺さる感触を手に感じながら、そして土を持ち上げてそばに捨てるという作業を繰り返しながら、まるで自分が悪夢の中に閉じ込められているような気がした。土を掘り返す作業が単調だからだろうか。自分がこの世で生きて暮らしているという人間ではなく、はるか昔から今まで、そしてこれからさきもずっと、ただ夜の闇の中で永遠に土を掘り返し続けるただの人形である気がしてくる。
 手が痛む。手の甲に幾本も引かれた赤い爪痕の線が、それぞれ少女の怨念を宿しているように思える。
 はたして土の下に何が埋まっているのだろう。穴が深くなっていくにつれ、わけもわからず佐伯の目から涙が出てきた。スコップで一山の土を捨てるたびに、服の肩の部分で目元を拭わなければ何も見えなくなった。地中に埋めたものが恐ろしい。自分のおかした罪の塊が、そこにあるはずなのだ。それはきっと鏡のように、人間とは思えない自分の本性を映し出して佐伯に突きつけるだろう。
 永遠に続くと思われた作業が、やがて終わった。庭の隅へ掘った穴の中に、自分で作り出した木の箱が静かに現れた。土の匂いの中、白い霧に包まれて、月光に浮かび上がっている。蓋は釘付けされたまま開いた様子がなく、親指ほどの二つの空気穴は暗い。肌の粟立つような気配が、箱から漂ってくる。それは妖気とも言えるほどの、冷たい空気だった。佐伯は嗚咽をもらしながら、バールで蓋をこじ開けた。
 最初にむせ返るほどの血の臭いが鼻をつき、次に箱の中へ収まっている制服姿の少女が現れた。彼女は胸の上に手を組んだ状態で仰向けに寝ていた。彼女の顔や箱の壁、蓋の表側が、赤く汚れていた。箱の底から数センチほどの高さまで黒々とした液体がたまっている。
 少女の首から流れ出た血だった。組んだ手の中に、シャープペンシルが振られている。彼女は佐伯に宣言した通り、それで首を切ったのだろう。
 勢い良く吹き出したであろう血で、箱の中はひどい有様だった。佐伯は口に手を当てて穴から出た。とにかく少女から遠ざかりたかった。塀に沿って歩き、一本の常緑樹のそばまでくると、膝をついて吐いた。一日、何も食べていなかったため、胃液しか出てこなかった。
 お気づきの通り、彼女は森野夜さんではありませんよ……。
 恐ろしさに肩を震わせていると、そのような声が聞こえた。最初は自分の頭の中に聞こえるだけの声かと思ったが、もう一度、今度ははっきりと昼間の少年の声で聞こえた。
「佐伯さん、あなたは彼女を森野さんだと思いこんでいただけなのです」
 すぐそばで、地面を踏む靴の音が聞こえた。佐伯が顔を上げると、人影が白い霧の中から現れた。木のそばに立ち、月光を背中で受けるような格好で佐伯を見下ろす。影になって顔はよく見えなかったが、おそらくあの少年だった。
 もうひとつ、今度は少し離れた場所で靴音がした。常緑樹の間、霧の向こうにだれかがもう一人いた。その人物も歩み出てきて、佐伯の掘り起こした棺桶にまっすぐ向かう。佐伯や少年よりも背が高い、大きな体の男の子だった。おそらく少年と同年代だろう。月明かりの下で見えた顔には見覚えがない。
 自分の埋めた見知らぬ少女に、見知らぬ男が近づく。いったい今、何が起こっているというのだろう。理解ができなかった。はたして現実なのか、それとも自分は眠っているのか、わからない。少年を見上げて、佐伯は首を横に振った。何もわからないという意思表示だった。涙を流しながら首を振る佐伯に、少年は説明した。
「彼もクラスメイトです。あなたが埋めていたあの子の、恋人です。彼の名前は……」
 少年は名前を言った。聞き覚えのある名だった。
「ああ……、それでは彼が……」
 少女の話していた人物だった。
 その人物は穴の中に下りて、身をかがめた。佐伯のいる位置からは、彼の背中だけが見えた。悲痛な声で話しかけて、そのたびに彼の背中は揺れた。おそらく少女の肩を揺さぶっているのだろう。
 彼は少女に語りかけている。最初のうち静かな、冗談を確認するような声だったものが、何度も呼びかけて少女の返事がないたびに、大きな声となっていく。
「さきほどあなたが見た彼女の顔に、ほくろはありましたか」
 少年が問いかけた。佐伯は無言で、首を横に振る。
 血で汚れた少女の顔は、昨晩、殴ったせいでひどく腫れていた。しかし、さきほど見た限りでは、ほくろはなかった。
「いつもすれ違っていたのに、今朝だけは見かけなかった女子生徒……、今日の昼にあなたは、その行方不明になった少女の左目の下に、ほくろがあったと説明した。それが、あなたを疑った原因です。森野さんとあの子を取り違えているのだと、そのときに知ったのです」
「でも、あの子の鞄の中に生徒手帳が……」
「森野さんの落とし物を、家の近いあの子が届けようと持っていたものなのです。そのことは、今日の午前中、学校で森野さんから聞いて知っていました。だからあなたがほくろのことを言ったとき、生徒手帳の写真を見たのではないかと思ったわけです。最初は佐伯さんが、あの子を車で轢いてしまったのかと考えました。顔がつぶれてしまってわからなくなったため、やむなく生徒手帳の写真で確認したのかと……」
 佐伯は自分の両手を見つめた。車に押しこむとき、彼女の顔をひどく殴ってしまった。その腫れあがった顔を正視できず、すぐに棺桶の蓋をかぶせてしまい、まともに顔を見なかったのだ。だから、生徒手帳の写真を彼女だと思いこんでしまった……。
 ゆっくりと、自分のおかした間違いを理解していく。今日の昼、少女は土の中で笑っていた。あれは狂っていたのではなかったのに違いない。佐伯が彼女のことを、違う名前で呼んでいたからだ。そのときすでに、少女は佐伯のおかした間違いに気づいており、それがおかしかったための笑い声だったのだ。
 佐伯はあらためて穴を見た。自分の埋めた少女のそばに、その恋人という人物がいる。はたしてどれほど深く二人が愛し合っていたのか、佐伯には具体的なことは何もわからない。ただ、地中にいる少女と交わした短い会話の中で、彼女が彼の名を口にしたことが、二人の関係の重みを表している気がした。四方を塞がれた小さな暗闇の中で、彼女は決して佐伯に屈するような態度を取らなかった。しかし恐怖は想像以上だっただろう。そのような中で唯一、自分を助けに来るかもしれない存在として、彼のことを思い出して名を挙げたのだから。
 彼は少女のわきに腰を下ろし、静かになっていた。語りかけるのをやめ、沈黙したまま棺桶の中を見ている。
「佐伯さん、あなたがあの子を家のどこかに隠していると気づいたのは、今日の昼、別れ際のことでした。あなたは、門のところに立っていましたね。実を言うとあのとき、彼女の居場所について、僕は何もわからなかった。でもあなたは、生きて動いている森野さんを目にした瞬間、顔を青ざめさせて庭に目を向けたのです。そして走った。だから、庭のどこかに埋めたのではないかと推測できました」
 少年が森野夜という少女を電話で呼び出したのは、自分に見せて動揺させるためだったのだと気づいた。その結果、少年は庭に目星をつけて、自分を監視しておくことができたのだ。
「あなたは……」
 佐伯は少年を見上げて口籠もる。目の前にいるこの少年は、いったい何者なのだろう。クラスメイトの仇をとるため自分の前に現れたとしか思えなかった。しかし、それでいて自分に向ける彼の口調には、犯罪者に対するような蔑みや憤りを感じなかった。静かで、穏やかな声である。
 もしもこの少年に会わなければ、自分の罪は暴かれなかったかもしれない。なぜ自分は彼と関わってしまったのだろう。
 そう考えたとき、ようやく手帳のことを思い出した。それを拾うために出かけて、少年に会ったのだ。
「私の手帳は、どうしましたか……」
 少年にそう尋ねたが、彼は首を傾げた。
「あなたが公園のそばで、私の手帳を拾ったのではないのですか……」
 佐伯は、手帳のことを説明する。少年は納得したように頷いた。
「それで地面を探していたのですか」
 しかし彼は、手帳など見ていないという。
「あなたが持っていないとすると、私の手帳はいったいどこに……」
「最後に見たのはどこでしたか」
「職場でした。いつもは上着のポケットに……」
 もしかすると……。
 佐伯の頭の中に、ある考えが浮かんだ。
「……あの子の体を調べてみてください。私のかわりに、お願いします」
 佐伯は少女のいる方を指差して、少年に頼んだ。恐ろしくて、少女とその恋人のいる穴には近づけなかった。
「あの子が、持っているかもしれない」
 車の中で上着を少女にかぶせた。そして少女は、埋められるよりも前に目覚めていた……。
 少年は佐伯のそばを離れて穴に近づき、静かになっている少女の恋人のわきを抜けて穴におりた。身を屈めて、少女の服を調べる。
「ありました。これですね」
 やがて少年は、手に小さな手帳を持って立ちあがった。
「そしてついでにこれ。彼女の生徒手帳です。スカートのポケットに入っていましたよ」
 少年は二つの手帳を持って、再び佐伯のそばに近づいてくる。
 佐伯の手帳を持っていたのは、やはり少女だったのだ。おそらく、逃げ出す機会があったときのために、犯人の手がかりをつかんでおきたかったのだろう。箱に閉じ込められた後は、自分が死んでも、いっしょに中に入っている手帳が犯人を告発してくれると願っていたかもしれない。そして少女のその行動は、不幸を運ぶ鳥となって佐伯を破滅に導いた。
 自分は、地中にいる少女に負けた。彼女を埋めたとき、すでに自分は罠へかかっていたのだ。
「佐伯さん、あなたは……」
 少年は手帳を眺めながら何かを言いかけた。彼が何を言おうとしたのかはわかった。地面に手をついたまま、佐伯は首をうなだれた。
「ええ……、その通りです……」
 それだけは、見られたくなかった。
 佐伯は少年に顔を向けられなかった。彼の視線が痛く、ただ顔を伏せていることしかできない。身を焼くほどの恥ずかしさで、痙攣するように体が震える。
 少年が探し出して月光の下に持ち出したものは、茶色の革表紙をした警察手帳だった。表紙には県の警察名が金色で縦書きされており、それをめくった一枚目には佐伯の顔写真が、その下には階級と名前がはっきりと記されているはずだった。
 あってはならないことである。佐伯は真面目に勤務し、思いやりのある人間として人望もあった。商店街を巡回中、仲良くなった店のおばさんに、笑顔であいさつをしたこともあった。コウスケの両親が、幼い息子を佐伯に預けたのも、信頼してくれていたからだ。自分自身、昔は、この仕事に従事する清い人間として自分が生きていくことを疑わなかった。それなのに、法律も、人権も、自分をやさしい子だと言ってくれた祖母も、この世にあるすべてのものを裏切ってしまった……。
「お願いです……。わかっていますから……。どうか、何も言わないでください……」
 懇願するように少年へ言った。地面に膝をつけ、顔を伏せている佐伯のもとに、彼の足音が近づいてくる。
「顔を上げてください」
 少年の言葉に、おそるおそる従った。目の前に、少年の差し出した警察手帳があった。受け取れ、という意味なのだろう。地面に膝をついたままそう解釈し、佐伯は手帳をもらいうけた。立ちあがることができず、今では正座をするような格好となっていた。
「佐伯さん、まだ聞きたいことがあります。あなたがあの子と森野さんを取り違えていたと知ったとき、交通事故のあった可能性を考えました。あの子の顔がわからなくなる理由として、もっともありえそうだと思ったのです……」
 警察手帳を両手で強く握り締めながら、少年の言葉を聞いた。
「でも、地面には血の跡もなく、あなたの車には事故の跡もなかった。さきほどあの子を調べたとき、殴られた跡や骨折した個所はありましたが、どうやら自殺したような首の怪我以外に致命傷はない。あなたは、彼女を事故で死なせてしまって、それを隠すためにあそこへ埋めたのではありませんね」
 佐伯は頷いた。すると少年は両手を膝にあてて前かがみになり、顔を近づけてきた。
「それでは、あなたはなぜ、あの子を埋めていたのですか……?」
 一人の少女を死に至らしめた佐伯を非難するわけでもなく、まるで少年は、それを知ることがもっとも重要なことであるかのように問いかけた。佐伯は質問に対する明確な回答が思いつかず、困り果てた後に、無言で少年を見て首を横に振った。
「……まるで、わからないのです。埋めたくて、埋めてしまいました」
 それが正直な気持ちだった。
 自分はなぜコウスケを殺してしまったのだろう。なぜ人を生き埋めにするという恐ろしい妄想に取りつかれたのだろう……。
 どこにも理由はない。まるでそういう生き物として生まれてきたように、佐伯は、二人の人間を埋めたのだ。
「埋めてみたくて、埋めてみました……」
 もう一度、泣き笑いのようにつぶやいてみると、胸が|抉《えぐ》られるようだった。やはり自分は人間でありえないという答えに、ついに行きついてしまった。手が震えだし、持っていた警察手帳を取り落とす。
「私は……」
 これからどうやって生きていけはいいのだろう。見つけてしまった自分の本当の姿が恐ろしい。そのような自分と、これからどのように生きればいいというのだろう。
 なぜ自分は、このような|穢《けが》れた魂を持って生まれついてしまったのだろう。なぜ、他の人と同じではないのだろう。心の中に、そのことへの疑問と悲しみが溢れ出す。
 人を殺して喜びを得るようなことをせず、自分も普通の人のように生きたかった。人間を生き埋めにするという妄想に取りつかれず、夜に一人で穴を掘って心を落ち着けることもせず、ただそっとだれにも迷惑をかけないよう生きたかった。
 決して多くを望まない。どんなにささやかでもいい。ただ自分は、上司が子供の写真を眺めるように、同僚が真新しいシャツで職場へ現れるように、普通の人が送るような、当たり前の人生をいつも夢見ていた。自分にそれが与えられていたなら、どんなによかっただろう。
 両目から静かに涙がこぼれてきた。地面に膝をついたまま、その涙が落下して土に染みこんで消えるのを見つめた。どうすれはいいのか、何もわからなかった。世界は闇へと沈み、息苦しさと圧迫感の支配する見えない棺桶の中へと、佐伯は閉じ込められた。

 …………。
 どれほどの時間が過ぎたのか、一瞬、わからなかった。佐伯はいつのまにか縁側に座っていた。まだ夜は明けておらず外は暗かったが、じきに朝の訪れることを予感させる鳥の声が遠くから聞こえていた。
 家の中に明かりが点っており、だれかの歩く気配がする。立ちあがって確認するような体力はなく、足に力が入らない。手は、指の先まで小刻みに震えていた。
 縁側に腰掛けたまま振りかえって見ていると、やがて少年が明かりの中を横切った。目が合うと、大丈夫ですか、と声をかけてきた。どうやら、彼が縁側に座らせてくれたらしい。
「……少し、記憶がありません」
「あなたはずっと泣いていました」
 顔を触ると、まだ乾ききっていないものが残っていた。
「勝手に家へ上がらせてもらっています」
 少年の言葉を開きながら、庭をあらためて見た。
 掘り返したはずの穴が見当たらず、筒が四本立っている。一瞬、何もかもなかったことなのではないかという錯覚を覚えた。
「あの竹筒は蓋の穴に通して、呼吸ができるようにという工夫だったのですね」
 少年が佐伯のそばに立って言った。その言葉から、彼が穴を再び埋めたのだと理解した。しかしなぜ少年はすぐにでも警察に電話をしないのだろう。なぜまた穴を埋めたのだろう。
 少女の恋人という男の子の姿も見当たらない。おそらく自分と同じようにどんな反応も見せない状態になって、別の部屋で寝かされているのだろう。
 地中で少女は、彼が自分を見つけて一人きりにはさせないだろうと信じていた。狂おしい二人の恋を引き裂いた罪ははかりしれない。
 縁側のある畳の間を佐伯は振りかえる。そこで少年は携帯電話を取り出し、だれかにかけていた。片手に生徒手帳を持っている。
 きみの生徒手帳をさっき道で拾ったのだけど……。
 少年が電話に向かって言うのを聞き、その生徒手帳が森野夜という少女のもので、電話の相手も彼女にちがいないと推測した。
 電話をはじめた直後に通話が切られたらしく、少年は携帯電話をまじまじと見て、そういえばまだ朝だったな、とつぶやいた。結局、森野という少女は、自分の落とした手帳が佐伯の人生に大きく影響を与えたことなど、何も気づいていないのだろう。
 空が明るくなり始めた。縁側から東を見ると、立ち並ぶ常緑樹がある。黒く影になった木々の向こう側が、朝焼けで赤くなっていた。いつのまにか白い霧も消えている。
 少年が近づいてきて、佐伯の左隣に腰掛けた。
 地面に突き立っている数本の竹を眺める。埋めなおしたときに使ったらしいスコップが、そのそばに放置されている。
 木々の間から朝日がもれて、佐伯の隣に座る少年の白い頬を照らし出した。逆光だったため、まぶしくて佐伯は少し目を細めた。少年の横顔の輪郭だけ輝き、後は影で黒く染まった。そのような中、竹筒を見つめている彼の瞳が印象に残った。
 少年の目にはどんな感情も宿っておらず、無表情だった。それは、地中に埋める標的を探して車を運転しているとき、不意にルームミラーに写った自分の顔にあった、底無しの暗闇を秘めた瞳に似ていた。
 佐伯は朝日の中で、静かな気持ちになった。涙に溶けて消えたのか、眩暈もいつのまにかなくなっていた。
「私は……」
 佐伯が口を開いてそう言うと、少年が振り向いた。逆光の作る暗い影の中で、佐伯の紡ぎ出そうとする言葉に耳をすませている。
「……私は、私の行なったことをすべて、警察でお話ししようかと思います」
 その決心は、唇の間から零れ落ちるように出てきた。その途端、全身の力が抜けていきそうになる。せっかく止まっていた涙が、また出てきた。しかし今度は、絶望からくる涙ではない。朝の光と同様、清く透明なものだった。
 おそらく自分の人生はそれでおしまいになるだろう。大勢の人間が佐伯をなじり、その視線は体を貫くだろう。しかし構わない。自ら罪を告白し、裁かれることを望むことこそ、人間としての最後の決断だった。
「よかった……。自分でそう決心できてよかった……」
 これまで、自分のことをはたしてどれだけの回数、人間ではないと悲しんだことだろう。恐ろしいことを想像し、実行し、そのたびに胸の奥の暗闇こそが自分の本性だと嘆いていた。しかし今、自分に残っている人間の部分が静かに勝ったのだ。
「自分の罪がそれで消えるとは思えません。ですが、私は自分でそう決心できたことを誇りに思います……」
 少年が、口を開いた。
「佐伯さんが自首したいのなら止めません。でも、あと半年、待ってもらえませんか」
 理由をたずねると、少年は立ちあがった。
「もう家に帰ります。佐伯さん、いいですか、半年ですよ。でなければひと月でもいい。感謝しているのならお願いします。そして警察には、佐伯さんが自分一人で何もかもやって、自首を決断したと説明してください」
 森野夜という少女のことや少年のことをだれにも言わない。佐伯はそう誓わされた。
「いいですか、彼は、自ら望んだのです。それについてあなたは気に病む必要はない。助け出そうとしても彼は拒否するでしょう。しかし世間には、あなたがやったと説明してください。ここには何も証拠を残していきませんから、たとえ佐伯さんがどのようなことを証言しても、あなたの他に僕がいたなどとだれも信じませんよ」
 縁側の下に置いていた靴を履きながら、少年は佐伯に言い聞かせるような口調で話した。
 彼が何を言っているのか、理解できなかった。聞き返そうとするうちに少年は縁側のそばを離れ、門の方へ向かいはじめる。別れの挨拶もせずに無言だった。振り返ることもなく、立ち並ぶ常緑樹の幹の間へ少年の背中は消えた。あとはただ、朝のおとずれた庭と、佐伯だけが残された。
 ふと、気づいた。彼が一人で帰ったのだとすれば、どこかの部屋で寝かされていると考えた少女の恋人は、どこへ消えたのだろう。
 縁側から立ちあがる。
 予感はあった。
 半ばよろけそうになりながら、裸足で庭を横切る。朝の冷たい空気が、吐き出す息を白色に変えた。
 庭の端に突き立っている竹筒は少しも傾いたところがなく、明るくなりかけた空をまっすぐ差している。少年の埋めなおした棺桶が、その筒の下にあるはずだった。
 佐伯は筒の先端に耳を近づけた。
 筒の内側の壁に反響し、少しくぐもっていたが、地中から声が聞こえた。棺桶の中で恋人と寄り添い名前を呼び続ける男の子の声だった。それはすすり泣くような静かな声で、ただ少女の名前だけ繰り返し呼んでいた。
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Ⅵ 声 Voice
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   † プロローグ

 最近の妹は起きて顔を洗うと、まず犬の散歩に出かける。十一月も終わりになると朝が冷えこむため、いつも寒そうにしながら外へ行く。
 その日の朝も、彼女は震えながら玄関に向かっていた。僕は食卓で朝食を食べながら、いつも通り新聞の死亡欄に目を通していた。
 部屋の隅に石油ストーブがあった。母がつけたばかりで、灯油の臭いが部屋に充満していた。脳細胞が消滅していくような臭いだった。ストーブの一酸化炭素中毒で子供が死んだという記事を、読んでいた新聞の中でちょうど発見した。
 換気のために窓を開けると、冷たい朝の空気がなだれこんできて、部屋に充満する臭いを吹き飛ばした。空に雲が薄くかかっており、庭には霜がおりていた。
 セーターとマフラーで身を包んだ妹が、窓の外に立っていた。窓を開けた僕と目があうと、やあ、と言って手袋の緑まった手を振った。足元に犬がいて、首輪につなげた紐を彼女は片手に持っていた。
「さっきからこの子、庭の隅を妙に気にして動かないの」
 妹は犬を指差して言った。犬は、隣の家との境にある塀のそばで、地面に鼻先を近づけ臭いを嗅いでいる。前足で、穴を掘ろうとする仕草も見せた。
「ほら、もう行こう。散歩の時間がなくなるよ」
 妹は犬の紐を引っ張りながら話しかけた。彼女は散歩の後、身支度を整えて学校へ行かなければならない。犬は彼女の言葉を理解したのか、庭の片隅から離れる。そうして妹と犬は、白い息を吐きながら視界から消えていった。
 窓を閉めてよ、と背後から母に言われた。僕は言われた通りに窓を閉めてから外へ出た。
 庭の片隅に、一抱えもある大きな石が転がっていた。僕はそれを、犬の掘ろうとしていた場所に移動させた。それで、犬は地面が掘れなくなった。その場所を掘り返されてはまずかった。もう少しで妹は、僕が半年前に埋めた何人分もの人間の手を発見してしまうところだった。学校から帰ったら、見つかる前に別の場所へ埋めなおそうと考えた。そして、おかしなものをなぜか見つけてしまうという妹の特殊な運命を垣間見た気がしていた。
 家の中に戻り、僕は新聞を再び読んだ。何かおもしろい記事でもあるの、と母が聞いた。別に、と返事をしながら、その日の新聞にも、北沢博子に関する新たな情報が掲載されていないことを確認した。
 北沢博子の死体は、七週間前に廃墟で見つかった。うちからそう遠くない、同じ市内のことである。その廃墟は、以前、病院だった。市の中心から山の方へ向かった寂しい場所にあり、道路からそれて砂利道を進んだ先にあった。錆びた金網を越えたところに、取り壊されず残っている。周囲は一年中、枯れた草が広がっているだけで、他にどんな建物もなかった。
 三人の小学生が、その廃墟を探険している最中に、北沢博子の死体を発見した。その三人は現在、カウンセリングを受けているという。
 死体の発見された当時、新聞やテレビはこのニュースを大きく取り上げた。しかし今ではほとんどだれも彼女のことを語らない。捜査の状況が現在どうなっているのかわからなかった。
 僕の集めた彼女に関する記事は、死体発見の経緯を印字した文章と、彼女の顔写真だけである。どちらも新聞の切り抜きだった。
 写真は、生前の笑った顔だった。白い八重歯を覗かせて彼女は笑みを浮かべ、直毛の黒い髪の毛を肩でそろえていた。彼女の写真はそれ以外に公開されていない。
 警察はどこまで犯人に近づいているのだろう。
 その日の夕方。
 授業の終わるころ外はすでに薄暗くなっていた。教室は蛍光灯をつけており、窓ガラスは鏡のように教室内を反射して映し出している。帰りのホームルームが終わると、クラスメイトたちはまるで波がひくように教室を去っていく。ざわめきとともに教室の出入り口から出ていく彼らの中で、ひとつだけ動かない人影が、僕の見ていた窓ガラスに映っていた。まっすぐの長く黒い髪の毛に、雪で作られているのではないかと思うような、白い顔をした女子生徒である。森野夜だった。
 教室に二人だけが残った。
「見せたいもの、というのは?」
 僕は彼女に聞いた。その日、昼休みの終わるころ、廊下を歩いている僕にそっと彼女が耳うちしたのだ。見せたいものがあるから残ってなさい、と。
「死体の写真よ。手に入れたの」
 人にはそれぞれ、生きかたというのがある。百人いれば、百通りの生きかたがあり、おそらく人は、自分以外の人間の生きかたをうまく理解できないだろう。
 彼女と僕はお互いに、一般的な|範《はん》|疇《ちゅう》からはみだしている特殊な生きかたをしていた。つまり、入手した死体の写真を見せ合うような、生きかただ。
 彼女は鞄からA4サイズの紙を一枚、取り出した。光沢のある滑らかな表面をしている。プリンタで美しく印刷するための、専用の紙だった。
 コンクリートの殺風景な部屋を撮影した画像が印刷されている。それを一目、見たときに感じたことは、赤い、だった。
 写真の中心に横長の台が配置されており、その上や周辺、壁や天井がその色に染まっている。鮮やかな赤ではない。照明が届かずに部屋の片隅へ残っている暗闇から、徐々に浮かび上がってくるような、黒味を帯びた赤色だった。
 中心に写っている横長の台に、彼女が載っていた。
「……これは北沢博子さんの」
 僕がそう言うと、森野はわずかに眉をあげた。見落としそうなほどきさやかな、彼女の驚いた表情である。
「よくわかったわね」
「ネットで入手したのかい」
「人にもらったのよ。市の図書館で、北沢さんに関する新開記事を切り抜いて集めていたら、通りがかった人がくれたの。北沢さんの写真だそうだけど、私にはよくわからなかったわ」
 森野夜は美しい顔をしていたため、他校の男子生徒に町中で声をかけられるということがときどきあった。しかし、学校内ではほとんどだれも近寄らない。彼女がまったくそういうことに興味を示さないことを周囲の人間は|覚《さと》りはじめていた。
 しかし市の図書館という特殊な場所で、彼女が変わった新聞記事を切り抜きするのを見て、新たな声のかけかたを思いついた者がいたらしい。
 写真の印刷された紙を、彼女は僕の手から取り上げて眺めた。目を細めて、顔を近づける。
「よくこの写真を一目、見ただけで、北沢博子さんだってわかったわね……」
 だってこの写真の彼女……。
 ほとんど人間らしいところが……。
 彼女はそうつぶやいた。僕は、ほとんどあてずっぽうで言ったのだと説明する。写真の台に、北沢博子の頭部が置かれていた。その横顔と髪型から推測したのだと告げる。
「ああ、そうなの」
 彼女は納得したらしく、頷いた。
 僕はその写真をくれた人物についてたずねたが、彼女は教えてくれなかった。帰ったら自分でネットを探してみようと思った。
 森野から目を離して、僕は窓を見た。ガラスの向こう側には暗闇しかなくなっていた。深く底無しの闇である。白い明かりに照らされた教室内の、並んでいる無数の机が、反射して浮かび上がっている。
「人間には、殺す人間と、殺される人間がいるね」
「突然、何を言い出すの」
 人を殺す人間が、確かに存在している。どんな理由もなく、殺したくなるのだ。成長する過程でそうなるのか、生まれつきそうなるのかはわからない。問題は、その性質を隠して、それらの人々は、普通の人間として生活しているということだ。この世界にまぎれこんで、見た目には普通の人と何ら変わらない。
 しかしあるときふと、殺さずにはいられなくなる。社会的な生活から離れて、狩りへ赴く。
 僕も、そのうちの一人だ。
 これまでに僕は、幾人かの殺人者と目を合わせた。それらの多くの目は、ある瞬間、人間でない目をする。ほとんど気づくか気づかないかという程度のちがいだが、瞳の奥に、通常とは異質のものを見た。
 たとえば、普通の人と正面に向き合って接していれば、その人は僕を人間として認識し、それ相応の配慮を持って応対するだろう。
 しかしこれまでに僕の見た殺人者は少し違っていた。彼らの瞳をよく見ていると、「今この人は目の前にいる僕のことを生きた人間ではなくただの物体としてとらえた」と感じられる瞬間があった。
「ねえ……」
 窓ガラスに浮かび上がっている森野と目が合った。
 あなたが彼女を殺したわけじゃないでしょうね……?
 だってこの写真の彼女、髪の毛はパーマがかかっているし、色も……。新聞で公開されていた写真とは違っているのに、なぜあなたはこれが彼女だとわかったの……?
 森野の声を聞きながら、今日は冴えているな、と思った。
 彼女の瞳には、これまでに会った殺人者と同じような特殊な気配はない。人間を人間として映し出す瞳をしている。おそらく彼女がこの先、人を殺すことはないだろう。彼女は普通の人に比べて特殊な趣味を持っているが、正常な人間の範疇にいる。
 僕と森野はところどころ似通ってはいるが、そこが違うのだ。その違いは決定的で、人間なのか、そうでないかをわけるようなものだと思う。
 彼女は人間。いつも殺される役だ。
 だが僕は違う。
「パーマをあてた後の顔写真も公開されているんだ。親族に無断で使用された写真だから、あまり出まわってないみたいだけど。そっちに見覚えがあっただけだよ」
「そういうわけか」
 彼女は再び納得した。
 家に帰り、僕は二階の自室でパソコンを起動させた。北沢博子の死体の写真を求めてネットを探しまわる。部屋の空気が淀み始め、濁ってくる。しかし見つからなかった。
 あきらめて僕は、本棚の奥に際していたナイフを取り出した。刃に映りこんだ自分の顔を見つめる。外から聞こえる風の音が、かつてそのナイフによって殺害された人の悲鳴に似てくる。
 ナイフがまるで意思を持ったように僕へ呼びかけることがあった。あるいはもしかすると、僕の心の奥底にいるものが、ナイフという鏡に映して自分の声を聞かせているだけなのかもしれない。僕は窓の外を見た。遠くにある街の光が、夜空に薄く明かりを滲ませていた。
 手に持ったナイフから、あるはずのない音が聞こえてくる。刃の乾燥する音だと、なぜか僕はそう感じる。
 僕は森野に嘘をついた。パーマをあてた北沢博子の顔写真は、一切、出まわっていない。

   † 1

 これまで、家族のうちのだれかが一人、一時的に家の中から消えるということはあった。たとえば父が出張でいなくなったときや、母が友達との旅行で出かけているとき、四人で暮らしていた家の中が、妙に風通し良くなったように感じた。私が修学旅行に参加しているときも、家にいる両親や姉は、いつも私のいるはずの空間に空気しかないのを見て、似たような虚しさを感じていたのだろうか。しかしそういった家族のひと欠けも、たいていはほんの数日のことだった。欠けていた家族が旅行先から帰ってくれば、また元通り、家の中には四人の顔が見られるようになる。家の中はちょうどよく慣れた広さになって、テレビの前を横切るときに姉の伸ばした足につい|躓《つまづ》いてしまうような、心地よい窮屈さに復帰する。
 私の家は少し前まで、四人家族だった。しかし今、姉が永遠にいなくなって、テーブルに家族がついても、ひとつだけ椅子が余るようになった。
 姉がなぜ殺されなければいけなかったのか、だれにもわからない。しかし、七週間前に姉の北沢博子は死んだ。最後に目撃されてから十二時間後、彼女はだれかに殺された状態で、郊外にある病院の廃墟で発見されたのだ。
 私は実際にその廃墟の中へ入ったことがない。しかし、姉が発見された後、外から一度だけ眺めたことならある。枯れた草の他になにもない、寒々しい場所だった。地面は砂利道で、細かい砂埃が風に吹かれて靴の表面を白くした。病院の廃墟は、四角いコンクリートで、巨大な何かの抜け殻のように見えた。窓ガラスがすべて割れていて、奥は暗かった。姉がその中で発見されてさほど時間がたっていなかったので、入り口にテープがはられ、警察がそれをくぐって出入りしていた。
 廃墟の奥まったところにある部屋で、姉は小学生に発見されたという。警察は情報を公開していないが、その部屋は以前、患者の手術を行なっていた部屋だった。
 遺体の損傷は激しく、身元を判別することは困難だったそうだが、近くにあったバッグから姉の持ち物が出てきて、警察はうちに連絡をすることができた。電話を受けたのは母だった。最後に姉を見てから一日も経過していない昼間のことで、電話はだれかのいたずらとしか思えなかったそうだ。
 しかし遺体はたしかに姉のものだった。それは、実際に姉を知っている両親や私、恋人の赤木さんが姉の|亡《なき》|骸《がら》を確認してわかったというわけではない。生前に姉のかかっていた外科医のカルテや、いくつかの精密な医学的な検査が判定したことだった。
 ……警察は、姉がどのような状態で発見されたのか、どのような方法で殺されたのかを、あまり公にはしなかった。世間には、絞殺され、刃物で切断されていたとだけ広めた。それだけでも、相当に残酷な事件で、ニュースは騒ぎ立てた。しかし実際は、その程度のことではなかったらしい。
 姉の受けた仕打ちを何もかも公開すると、あまりにも社会に対する影響が大きいと判断したらしく、だれもが口を閉ざしたのだ。発見した小学生にまで、その箝口令はしかれたらしい。
 両親は、姉の死体を見せてくれるように警察や医者へ頼みこんだ。しかし彼らはしぶった。姉はもう、もとの姿にまで復元することは不可能な状態で、家族には見せないほうがいいと判断されたのだ。
 父母は生前の姉を、特別に溺愛していたというわけではなかったと思う。どこにでもあるような親子で、テレビコマーシャルの話題で盛りあがったり、新聞をどこに置き忘れたかで険悪になったりするような家族だった。人前で姉を誉めるということもなく、どれだけの愛情を注いで育てていたのかなど、姉の死を知らされた両親が顔を擦って泣き出すまで私は知らなかった。
「博子に会わせてください!」
 病院で、父は必死に医者と警察へ頼みこんだ。顔を赤くして、ほとんど怒っているように見えた。少しも引く様子がないのを見て、医者と警察は困惑しながら、父母を遺体の安置されている部屋に通した。
 四角い両開きの扉を抜けて両親の背中が消えるのを、私は廊下から見送った。恐ろしくて、私は姉を見るためにその部屋へ入る勇気がわかなかった。
 刑事と医者が話しているのを、ちらりと耳にした。彼らは、私が階段の陰にいることに気づいていなかったらしい。
 散らばった体を集めるのが大変で……。
 刑事は、そう口にした。私の靴が、病院の床で擦れて高い音を出した。刑事が振り向いて、私の存在に気づく。しまった、という表情をして口をつぐんだ。
 姉の体を、集める。私は立ちすくんで、その言葉の意味を考えた。
 しばらくして両親が連体の安置された部屋から出てきたとき、姉はどのような状態だったのかと私は尋ねた。しかし、言葉は二人の上を素通りした。それまで涙を流し続けていた二人は、その部屋に入った後、もう泣かなくなっていた。そのかわり、だれとも目をあわせないまま下を向いて押し黙っていた。表情を部屋の中に忘れてきたようだった。二人の顔の皮膚はひどく黄色くて、まるで動かないマスクのようになっていた。
 姉の遺体について、警察は固く口を閉ざし、世間に対しては、黒い箱の中へ入れたままにした。そのおかげなのか、遺体が発見された当時は賑やかだった報道も、長くは続かなかった。姉が殺されて七週間が経過した今、もう警察や報道関係者がうちにくることはなくなっていた。

 姉は私より二歳年上で、死んだとき二十歳だった。二人きりの姉妹だったから、いつも姉を見て私は生きてきたようなものだった。
 私が小学五年生になったとき、姉は中学校の見なれない制服を着た。私が中学二年生になったとき、姉は高校というやはり私の知らない世界のことを家で話し始めた。二年後の私に訪れるはずの生活を、私は姉の中に見ていた。そう考えてみると、姉は私にとって、暗い海を先導して進む船のような存在だったのではないかと思う。
 二歳のちがいはあったが、背丈はほとんど変わらなかった。そのせいか、私たちはよく人から、似ていると言われた。小学生だったころ、正月に親戚の家へ行くと、会う人ごとにそう話しかけられて困った。
「べつに、そんなことないよねー?」
 姉は親戚たちの反応をおかしそうに見ながら私にそう言った。私たちにとって、毎日、目にするお互いの顔は、自分とは全然ちがった別の顔にしか見えなかった。どこが似ているというのだろう。いつもそう思っていたが、姉と別の部屋で親戚の子供といっしょにゲームなどをやっていると、部屋の前を通りかかった親戚のおばさんは、「あら、あなたさっき、向こうの部屋にいなかった?」と首をかしげていた。
 子供のころ、私と姉は仲が良くて、いつもいっしょに遊んだ。姉に手を引かれて、二歳年上の、姉のクラスメイトの家に行ったこともあった。
 ……それが、いつごろから変わってしまったのだろう。最後に笑って姉と会話したのが、いつだったのかを思い出せない。
 数年前から私たちの間に、わずかな溝ができていた。それは、まわりの人にもわかるような、はっきりとしたものではなかった。あるいは、溝というほどの大げさなものではなかったのかもしれない。私と話をしていると、姉が、わずかに不機嫌そうな顔をするときがあったのだ。
 あるとき私が居間のソファーで、読んでいた雑誌を指差し、こんなおもしろい記事があるよと姉に声をかけた。ただそれだけなのに、彼女はちらりと雑誌を目にすると眉間に皺をよせ、ああそう、とそっけなく居間を出ていった。そのときの姉の仕草や表情に、気のせいか、いらつきの断片が見え隠れしたように思えた。
 虫の居所が悪かっただけにちがいない。あるいは、忙しいときに私は声をかけてしまったのかもしれない。私はそのように考え、姉の見せた表情が、たいした理由によるものではないと信じようとした。
 しかし姉のいらつきは気のせいでも、そのときだけの特別なことでもなかった。
 たとえばある日、私が高校から帰ってくると、姉が居間で友達と電話をしていた。コードレスの受話器に向かって話す彼女の声には、笑い声が交じっていた。私は電話の邪魔をしないよう、ソファーに腰掛け小さな音声でテレビを眺めた。
 やがて姉が電話を終えると、部屋は急に静かな空間へと変わった。私たちは向かい合わせのソファーにそれぞれ座り、無言でテレビ画面を見つめていた。私は何か姉に話しかけたかったのだが、それをためらわせる気配が姉から発散されていた。ついさきほどまで電話に向かって機嫌良く話をしていたはずなのに、私とふたりきりという状況になると、急に姉は黙りこむ。毛布のような暖かい雰囲気を消して、見えない壁を作り、私から距離をとる。
 そこへ近づいて話しかけようとすると、姉は不機嫌な表情で拒否するのだ。私と話をするときの、姉の受け答えは短かった。母と話をするときに比べ、短時間で会話を終わらせようという意思を感じた。
 理由がわからず、恐かった。言葉よりも前に姉の不機嫌さだけを肌で感じ、そばにいることすらできなくなる。やがて姉の前を横切ったり、いっしょの部屋にいたりするだけで緊張するようになり、そのようなとき私は、体を硬くした。
「夏海、その服はやめたほうがいいんじゃない」
 半年ほど前、参考書を買いに本屋へ向かおうとしていると、姉がそう声をかけてきた。彼女が指差していたのは、私がよく外出するときに羽織っていた白い毛糸の上着だった。昔から愛用していたものだから、近くで見ると、たしかに毛玉がついていたり、ほつれたところがあったりした。
「でも、これ好きだから」
 そう返事をすると、姉は不満そうな顔をした。
「あ、そう」
 私になどもう興味ないと言いたげに、そっぽを向いた。私は立ちすくみ、世界にあった光が急激にしぼんでいくような気持ちに耐えた。
 私たち姉妹は人の言うように外見が似ていたかもしれない。しかし趣味や性格は正反対だった。
 姉は明るく、恋人もいて、いつも笑顔を絶やさない人だった。まわりにはいつも姉を慕う友人がついており、毎日だれかから電話がかかってきていた。活動的で多趣味だったから、落ち着いて家の中にいるということが少なかったように思う。妹の私から見ても、姉は輝いていた。
 一方で私といえば受験生である。いつも机に向かって、ペンシルの芯が折れる音しか最近は聞いていない。暇な時間は、歴史小説を読むだけだ。姉が中学に入り、私の知らない町のことや、知らない人々との交流を持って家を空けるようになったころから、姉に引っ張られて外遊びをしていただけの私は、だんだんうちにこもって本を読むばかりになったのだ。しかしその変化は自分にとってごく自然なことだったし、華やかで明るい姉のことは好きだった。
 外を軽やかに飛びまわるような姉と、家の中で石のようにじっとしている自分の姿とを、私はよく見比べた。劣等感を抱いたことは、あまりなかった。ただ、自分はすごい姉を持ったものだという誇らしさを感じることならあった。
 しかし姉にとって私は、野暮ったいだけの人間だったのかもしれない。以前は気づかなかったが、私の生活のしかたなどが、彼女の気にさわっていたのではないだろうか。
 姉はやさしい人だった。私に対する不満をはっきり口にしなかったのは、その表れだったように思う。彼女が私のことを嫌いだなどと言ったことは一度もなく、自分の不機嫌さを私に|覚《さと》られまいとしている印象もどこかあった。だから、長い間、妹としてそばにいながら彼女の気持ちに気づかなかったのだ。
 姉は私のことを、私が思っていたようには好きではないのかもしれないなあ……。
 その結論が真実かどうかはわからない。しかしその悲しい解の他にどのような答えも思い浮かばなかった。
 なぜなの? ただ一言、そう聞けばよかったのに、もう遅い。どうして私は、姉が生きているうちに勇気を出して問いたださなかったのだろう。後悔するような返事をもらうことになっても、そのほうが良かったに違いない。
 しかし、姉が言葉を発する機会は永遠にこなくなった。もはや私は、疑問を抱いたまま姉のことを思い返すことしかできないのだ。
 姉がいなくなった家の中は、朝のこなくなった夜のように静かだった。二ヶ月前と比べて同じ家庭とは思えないほど変わってしまった。
 両親は姉の遺体を見て以来、口数が少なくなっていた。感情の抜け落ちた顔で、世間話をすることなくテレビを見ていることが多くなった。バラエティ番組にチャンネルを合わせていても、笑い声をあげることもなく、楽しそうな笑みを浮かべることなく、静かに見ているだけなのだ。両親は、一生この先、このままなのかもしれない。二人を見ていると、そう思うことがあった。
 もはやこの先、どんな幸せなことが起こっても心から楽しめないものを背負ってしまったような、そんな顔を二人はしていた。
 かろうじて母は食事を作ってくれる。これまでの生活で体に染みついた習慣どおりに食事を用意する母は、まるで機械のようだった。
 部屋の隅に落ちていた埃の塊を見たとき、私は泣きそうになった。父母が憐れだった。母は姉のいなくなる前、こまめに掃除をしていたはずだった。しかし今の家の中は、どこも薄く埃に覆われている。それにも気づかずに二人は、きっとどんな瞬間にも、幼いころの笑った姉の顔を思い出しているのだろう。はじめて抱き上げたとき、腕に感じた重みは、まだ二人の腕にきっと残っているのだ。
 二人はやはり、遺体の安置された部屋に入るべきではなかったのだ。そこで見てしまったものと、記憶の中にある幼い姉の笑顔とのギャップに、二人は首を永遠に傾げ続けることになってしまったのだ。
 沈黙しかない家庭の中で、私の存在は希薄だった。父に話しかけても、「うん……」という意味のない頷きしか返ってこない。しかしはたから見ると、私も両親と同じように映っていたのかもしれない。友達との会話で、両親と同じく笑うということができなくなっていたからだ。
 私はときどき、夜になると、主のいなくなった姉の部屋に入り、椅子に座って考え事をした。姉の部屋は、私の部屋の隣にあった。生前に断りもなく入ったとしたら、きっと姉に怒られていただろう。
 使うもののいなくなった部屋は、埃のつもるのが早かった。姉の使っていた机の上に手を載せると、ざらつくものが表面を覆っていた。
 姉はここでどのようなことを考え、生きていたのだろう。椅子の上で膝を抱えるようにして座り、家具のひとつひとつを見ながら思った。カーテンの閉められていないガラス窓は、夜の暗闇のために黒かった。
 姉の顔が、ガラス窓の中に浮かんでいた。一瞬、そう思ったが、私の姿が反射しているだけだった。自分で見間違うということは、やっぱり私たちは似た姉妹だったのだろうか。
 棚に、手鏡が置かれていた。私は自分の顔を見ようと、それに手を伸ばす。手鏡の横に小さな筒状のものが転がっているのを見つけ、そちらに興味がわいた。どうやら口紅らしい。手鏡ではなく、それを手にする。
 血のような、赤色の口紅だった。薄いピンク色をしたかわいらしい口紅もいくつか転がっていたが、血のような赤に、私は吸い寄せられた。
 鏡を見るまでもない。それらを持っているか、いないかが、私と姉の違いだったと思う。口紅を握り締めたまま、私は部屋を出た。
 この先、どうやって生きていけばいいのかわからなかった。そのような状態の私が姉の声を聞くことになったのは、十一月の終わりかけたある夕方のことだった。

   † 2

 十一月三十日。
 学校から帰る途中、街中にある大きめの本屋に立ち寄った。大学受験に関する問題集を購入するためである。意欲をもって大学への進学を望んでいたわけではなかった。姉のいたときははっきりと自分の学びたいことがあったけど、今は違う。他に自分が何をしていればいいのかわからずに、ただ漠然と、それまで行なっていたことをつづけているだけだった。
 本屋の奥まった場所に、問題集を詰めこんだ棚はあった。私はその前に立ち、まず一番上の段を見上げて、並んでいる背表紙を左から順番に目で追った。棚の右端までくると下の段に移り、自分と気の合うような問題集を探す。
 良さそうな本はなかなか見つからなかった。私は腰を曲げ、最後に、足元近くにある最下段を探した。並んでいる背表紙を左から一つずつ確認し、視線が右端まで移動し終えたとき、視界の端ぎりぎりのところに人の靴が見えた。
 黒い靴のつま先が、私のほうを向いていた。あきらかに私という存在を正面にとらえた立ち方だった。私が顔を上げてそちらを見ようとすると、その靴は素早く遠ざかって本棚の間に消えた。
 じっと見つめられていた気がした。胸に不安が広がっていくのを感じながら、再び私は、棚に視線を向けた。
 今度は、背後に人の立つ気配がした。店内の蛍光灯が、すぐ正面にある棚に私自身の影を落としていたのだが、それを一まわり大きな影が覆った。
 靴音もなにもしなかった。その人物は、私の背中に触れるか触れないかという近さに立っているらしく、呼吸する音が聞こえてきた。
 痴漢だということはすぐにわかった。以前、この本屋に現れたという話をだれかから聞いていた。しかし、私は悲鳴をあげることも、逃げ出すこともできなかった。すくんで足が動かない。恐くて振りかえることさえできなかった。体中が硬化し、石になったように感じた。
「すみません、通してもらえませんか?」
 唐突に、右手の方から声がした。まだ若い、男の子の声だった。
「痴漢の方、ですよね。さっきから鏡で見ていましたよ。ほら、天井に設置してあるでしょう、鏡が。興味深かったです。でも、僕はそこを通りたいので、脇によっていただけませんか」
 人がきてくれたという安堵からか、魔法のように私の体が金縛りからとけた。声のした方を振り向くと、黒い学生服を着た少年が本棚の間に立ってこちらを見ていた。
 背後にあった気配が、慌てたように少年とは反対の方向へ逃げ出していく。その後ろ姿を、私は見た。背広姿の、どこにでもいるような男の人だった。走って遠ざかる姿は少し滑稽で、自分の中の恐怖心が綺麗に溶けていくのを感じた。
「……すみません、ありがとうございます」
 私は少年に向き直り、礼を言った。彼は私より背が高く、痩せた体をしていた。どこか力のない立ち姿が印象に残った。彼の着ている黒い制服には見覚えがあった。知り合いの男の子が通っている学校のものに間違いない。
「いえ、別に。僕は、あなたを助けようと思ったわけではありません」
 彼は表情を変えずに淡々と話をした。
「それでは、本当にここを通りたくてあんなことを言ったの……?」
「あなたに話しかけようと思ったのですよ、北沢さん。北沢夏海さん、ですよね。お姉さんに、とてもよく似ていらっしゃいます。だから、すぐにわかりました」
 あまりに唐突だったので、反応ができなかった。聞き返そうとする前に、彼はまた口を開いた。
「僕は生前の博子さんと少しだけ面識のある人間です。彼女から、あなたのことを聞かせていただきました」
「ちょっと待ってください。いったい、あなたはだれなんですか?」
 それだけを言うのがやっとだった。
 少年は私の問いに答えないまま、学生服のポケットから何かを取り出した。どこにでも売っている薄い茶色の封筒だった。中に何かが入っているらしく、厚みがある。
「これをお渡しします」
 少年はそう言って私に封筒を差し出した。わけもわからないまま受け取る。封筒の口は開いており、中を確認すると、透明なケースに入ったカセットテープらしいものが奥に見える。
「すみませんが、今ここで中身だけ取り出して、封筒は返してください」
 私はそのようにした。テープを抜いて、空になった封筒を少年に渡す。彼はそれを折りたたんで、ポケットにしまった。
 カセットテープはどこにでも売っているものだった。シールが貼ってあり『Voice1・北沢博子』と書いてある。手書きではなく、プリンタで出力された文字だ。
「このテープはなに? なぜ姉の名前が書かれているの?」
「再生すればわかります。それは、生前の北沢博子さんから預かったものです。ぜひあなたに聞いていただきたいと思ってお持ちしました。あと二本テープが残っています。それは、また次の機会に。もしもあなたが僕のことをだれかに話せば、きっとその機会は訪れないでしょうけれど」
 それだけを言うと、彼は背中を向けて立ち去ろうとした。
「待って……」
 声を出して、私は追いすがろうとする。しかし、だめだった。さきほど痴漢に背後へ立たれたときと同様、足が動かなかった。なぜ、自分がそうなっているのかわからなかった。少年は私に危害を加えようとしたわけではないし、逆に痴漢から救ってくれたはずだ。それなのに私は、自分でもはっきりと意識しないうち、いつのまにか全身に汗をかいて緊張していた。
 そのうちに彼の後ろ姿は本棚の陰に見えなくなった。後には、私と、手に握ったテープだけが残った。
 帰りの電車の中、私は椅子に座って、受け取ったテープを眺めていた。辺りはすでに太陽が沈んで暗かった。窓の外は墨で塗られたように黒く、景色はほとんど見えない。そのせいか、電車が動いているようには思えなかった。すでに太陽は冬の時間で動いているのだと思った。たしか姉が殺されたとき、夕方は、明るかったはずだ。
 あの少年は何者だったのだろう。高校の学生服を着ていたことから、私と同い年か、一、二歳年下だろう。彼は姉と面識があると言っていた。しかし、私は彼のことなど聞いたことがない。
 もっとも、殺されるより少し前から姉とは親しくできていなかったから、彼のことを教えられていないのは当然のことなのかもしれない。
 テープは、姉から預かったと言っていた。ということは、姉が私に、このテープに録音されているものを聞かせたがっていたということだろうか。『Voice1・北沢博子」という題名には、どのような意味があるのだろう。
 電車がスピードを落として、私の体に慣性の力が働いた。私は立ちあがって電車を降りた。
 駅前は人の通りが多い。しかし、わき道にそれて住宅地に入ると、アスファルトの道が闇の中をのびているだけである。私は冷たい風に震えながら家に向かって歩いた。暗い中で、道の両側に並んでいる家々の窓だけが明るく光を放っていた。その中のひとつずつに家庭が存在していて、夕食の並んだテーブルがあり、それを囲む人々が生活しているのだと思うと、途方もないという気持ちになる。
 自分の家の窓は暗かった。しかし、留守でだれもいないというわけではない。私は玄関を開けると居間に向かい、ただいまと両親に声をかけた。
 二人はソファーに座って、電気をつけないまま詰もせずにテレビを見ていた。画面の発する光だけが部屋の中を照らしている。私が蛍光灯のスイッチを入れると、二人は顔を私に向けて、おかえり、と言った。弱々しい声だった。
「玄関のドア、また鍵がかかっていなかったよ、だめじゃない」
 私がそう言うと、「あら、そうね」と母が頷いた。そしてまたテレビ画面に視線を向ける。何もかもどうでもいいという、無気力な様子だった。
 二人はテレビを見ているわけではない。画面に映し出されたどんな色の変化も二人の目には届いていない。私は、皺だらけの服に身を包んだ二人の小さな背中から目をそらし、居間を離れて二階の自室へ向かった。
 制服を着たまま、鞄をベッドの上に放り出し、テープをステレオにセットする。小型で、やや青みがかった銀色のステレオである。柵の上から二段目に置いていた、私はその前に立って、心を落ち着けるための呼吸をする。
 姉の顔を思い出す。死ぬ少し前の、どこか苛立った様子で私を見る彼女の顔ではない。もっと小さなころ、手をつないで坂道を歩いたときの、八重歯を覗かせて笑った姉の顔だ。
 ステレオ本体にある再生のボタンを、人差し指で押した。ステレオの内部で機械の動き出す音がする。テープがまわりだした。スピーカーに視線を向ける。
 最初の数秒間、無音だったが、やがて雑音のような風の音が聞こえてくる。緊張で、私の心臓は早鐘を打つ。
 風の音だと思ったものは、どうやら風ではなかった。だれかの吐き出す息が、マイクに当たったもののようだった。

 夏海……。

 唐突に姉の声が聞こえてきた。まるで|憔《しょう》|悴《すい》したように弱々しい。しかし、確かに聞き覚えのある姉の声である。呼吸の音は、どうやら彼女のものだったらしい。あの少年の言ったことは嘘ではなかった。本当に姉が、私に残したテープだったのだと確信する。

 ねえ、夏海、この声はあなたに届いているのかしら……。今、私は目の前に差し出されたマイクに向かって伝言を残しているの。でも、本当にあなたへ届いているのか、今の私には確認することなんてできない……。

 姉はいつどこでこのテープを録音したのだろう。声はか細く、消え入りそうである。途切れがちに話す彼女の声は、苦しげで、切羽詰まっているように思えた。ゆっくりと、合間に沈黙をはさみながら声を出す。そのために、脚本ではなく姉が考えながら言葉を生み出しているのだと感じられる。

 よく聞いて……。私は、伝言を残すことを許されたの……。どんなことでもいいから、今、一番、言いたいことをマイクに話せって……。ただし、だれか一人だけに向けて……。
 そう言われたとき、咄嗟にあなたの顔が浮かんできて、言っておかなければいけないことが、たくさんあることに気付いたわ……。不思議ね、赤木さんではなくて、あなたへの言葉だけが浮かんでくる……。
 今、私にマイクを差し出している彼、……彼のことは話してはいけないことになっているから、言えないの、ごめんなさい、……その彼が、録音されたテープを、後であなたあてに届けると言ったの……。送り届けて、私の言葉を託された人の反応を見て楽しむのだそう……。それは、とても悪趣味なことだと思うけど、私の声があなたに届くのであれば、それでもかまわないと思う……。

 私は身動きできなかった。ただ、嫌な予感だけが膨れ上がっていった。頭の中で、この先を聞いてはいけないという危険を知らせる声が響いていた。恐ろしいことが待ち構えている、そしてそれを聞いて知ってしまうと、もう戻れなくなる……。私はそのことを確信しながら、息苦しさのため、あえぐように呼吸をした。
 停止のボタンを押すつもりはなかった。私はじっとして、雑音混じりの姉の声を聞いた。

 ……夏海、今、私は薄暗い部屋にいます。動けない状態なの……。まわりはコンクリートで……寒い……台に寝かされているわ……。

 私は手で口を押さえ、悲鳴をこらえた。マイクに向かって話しかけている姉がどのような場所にいるのか、ある解答が頭に浮かぶ。
 姉の声に、泣き声が混じった。鼻をすする音。

 ここは……どこかの廃墟みたい……。

 彼女の声は静かで、冷たいコンクリートの暗闇に虚しくこだまするような、悲しい響きを持っていた。その悲痛さが、直接、私の心を串刺しにする。
 私は無意識のうちに、スピーカーの方へ右手を差し出していた。姉の声へ追いすがろうとするように、震える指の先が、スピーカーを覆っている網の表面に触れる。

 ……夏海、ごめんね。

 その一言が、私の指先のすぐそばで発生して消える。わずかな振動が余韻となって手に残った。まるで声の小さな塊をつかんだような気がした。やがて姉の呼吸する音が消え、スピーカーからは雑音さえ出なくなる。録音が終わったらしい。テープを裏返してB面を聞くが、そちらにはなにも録音されていない。
 このテープは、姉が殺される直前に録音されたものに違いない。本屋で少年からテープを受け取ったときのことを思い出す。
 テープは封筒に入っており、彼はその場で私に、封筒から中身を取り出させた。それから封筒だけを返却させられた。
 彼は一度も、テープには触っていない。あの一連の動作は、指紋をつけないようにという配慮のためだったに違いない。彼が姉にマイクを向けて殺害したのだろうか。
 このテープは警察へ渡すべきだ。それがもっとも、正しいことに違いない。
 しかし、そうするつもりはなかった。あの少年は別れ際、警察に知らせたら残りのテープを聞く機会がなくなるだろうと言い残した。
 まだ、テープには続きがある。私はそれを聞きたかった。

 テープを聞いた翌日の夕方、私は学校を休んで、M高校の校門が見える場所にいた。
 M高校は、私の通う学校とは二駅しか離れていない場所にある市立の高校だった。校門は車の通りの多い道路に面している。そこから敷地を囲むように、淡い緑色の葉をつけた木がすきまなく並んで生垣を作っていた。綺麗に葉が切りそろえられていて、緑色の平らな壁に見える。その上端から、敷地の奥にある白い校舎の屋上が突き出て見える。
 道路を挟んだ学校の正面にコンビニエンスストアがあり、雑誌売り場に立つと、店のガラス越しに校門を確認することができた。雑誌を立ち読みするふりをしながら一時間ほど経過したとき、ようやく校門から、授業を終えた生徒たちが出てきた。日が傾き始めていた。
 生徒たちは校門を出ると、ほとんどが道路を渡ってコンビニエンスストアのある側にくる。駅が道路のこちら側で、歩道も広いからだろう。おかげで一人ずつ生徒の顔を確認することができた。
 大勢の行き交う生徒たちを見ながら、私は姉の声を思い出していた。昨夜のうちにも何度かテープを聞き返し、そのたびに動揺して一睡もできなかった。ベッドに寝転がり、天井を見上げて考え事をしたが、どこかへ思考が着地するわけでもなかった。
 体がふらつくような気がした。眠っていないからだろう。持っていた雑誌のページをめくりながら、視線を店員に向ける。ずっと立ち読みするふりをして移動していないから、迷惑がられているかもしれない。もしかすると不審に思われている可能性もあり、呼びかけられたらどうしようかと、少し恐かった。
 再びガラスの外に目をやり、道を歩く生徒たちの集団を見た。楽しい会話をしているのか、五人ほどの男子生徒が、おかしそうに笑い合いながら目の前を過ぎていく。その中の一人と、目が合った。
 彼は首を傾げてその場に立ち止まると、一緒に歩いていた彼の友人たちに何か声をかけた。ガラス越しだったので、なにを言ったのかはわからなかったが、おそらく別れの言葉だったのだろう。彼一人を残して他の四人は去っていく。
 私は居住まいを正した。
 彼がコンビニエンスストアの店内に入ってきて、小走りに私のそばへ駆け寄ってくる。
「北沢先輩じゃないですか。どうしたんですか、こんなところで」
 神山樹という名前の、中学時代の知り合いだった。バスケ部の幽霊部員をしていた男子生徒で、私はマネージャーだった。彼はぱっと明るくなるような笑顔の持ち主で、まるで子犬のようだった。背丈は私よりも高いが、その駆け寄ってくる様子が、ただの犬というよりも子犬のようだったのだ。
「どうしたんですか、俺の顔、ちゃんと覚えてますか?」
 私は彼に声をかけられて、ほっとして泣きそうになった。今まで自分は心細かったのだと自覚する。
「ばかね、もちろんよ。ひさしぶり、樹君……」
 姉の葬式の日を思い出した。親類や姉の大学の同級生たちが弔問に訪れる中、彼も学生服姿でかけつけてきてくれた。私のそばにいっしょにいてくれた。別に、元気付けるような言葉をかけてくれたわけではない。でも、そばに立っていてくれるだけで私は救われていた。
 そのとき彼の着ていた制服の学章を、私は覚えていた。だから、テープをくれたあの少年が、樹と同じM高校の生徒であることがわかったのだ。少年の名前がわからない今、彼を探し出す糸口はそれしかなかった。
「偶然ですね、こんなところで会うの。だれかと待ち合わせですか?」
 まさか、姉を殺したかもしれない犯人が校門から出てくるのを待っているなどと、説明するわけにはいかなかった。私は首を横に振る。ううん、そういうわけじゃないの。私はどんな顔をしていたのだろう、彼は顔を曇らせた。
「なにかあったんですか……?」
 彼の声には、人を心配するやさしさがこめられていた。
「お姉さんのことで、今も……?」
 彼は、私と姉の不仲を知っている。葬式のとき、隣に立つ彼へ話してしまった。きっと、葬式のときに飾られた写真が、死ぬ少し前に撮影されたものだったから、私は相談したい気持ちになったのだろう。胸から上を写された写真の姉は、綺麗だったが、私とは親しくなくなったころの姉だった。
「姉のことは、もういいの……」
「でもあんなに悩んでいたじゃないですか。お姉さんと話をしておきたかったって……」
「うん、でも、もういい……。お葬式のときはごめんね。私あのとき、あなたにそんなことを言ったのね……」
 樹の私を見る目は、痛ましいものを見るときの目だった。
「お姉さんを殺した犯人について、警察が何か手がかりを見つけたんですか?」
 私は彼を見つめた。
「なんとなく、様子が変だから」
 なんて勘の鋭い子だろう。私は、首を横に振った。
「警察は、何も……」
「そうですか……」
 彼がそう言って息を吐き出したとき、私の目の端に、現れた。樹と話をしている間にも太陽は沈みかけ、外は薄暗くなっている。それでも店のガラス越しに、校門を出て道路を渡る彼の顔を確認することができた。
 あの少年が姉を殺害した犯人だと決まったわけではない。しかし私は、彼が視界に現れたとき、暗闇に閉じ込められるような恐ろしい気持ちになった。
 彼は女子生徒といっしょに歩いている。髪の長い、美しい顔立ちの子である。二人ともほとんど無表情だった。
 雑誌の並んだラックと店のガラスを挟んですぐ外を、二人の横顔が通りすぎていく。私が唐突に黙りこんでしまったので不審に思ったのか、樹も私の視線を追って外を見た。
「森野さん……」
 樹の口から声が聞こえた。
「それが、あの男子生徒の名前?」
「いえ、女子の方。結構、有名な人なんですよ。以前、痴漢しようとした先生を逆に返り討ちにしたとか、しなかったとか」
 あの二人は樹と同様に、M高校の二年生なのだそうだ。
「男子生徒の方の名前、わかる!?」
 私はたずねた。つめよるような言い方だったので、彼は少し驚いていた。
「あ、はい、彼は……」
 樹は名前を口にした。私は、その男子生徒の名前を忘れないよう頭に刻み付けた。
 私は持っていた雑誌を置くと、店の外へ出た。冷たい空気と、車の排気ガスの臭いが、さっと体を包む。
 私は店の前に立ったまま、彼の歩いていった方向に目を向ける。駅のある方角へ遠ざかっていく二人の背中が見えた。
 視線を感じたのだろうか。少年の隣を歩いていた森野という女子生徒が振りかえり、こちらを見た。私をちらりと確認して、また正面を向く。
 店のドアが開いて樹も店から出てきた。
「あいつとは一年のときに同じクラスだったんです」
「どんな人だったの?」
 樹は私をまじまじと見て、肩をすくめた。
「別に、普通のやつだったけど……」
 私は迷った。追いかけたほうがいいだろうか。しかし、そばには樹がいる。あの森野という女子生徒もいる。姉の声を録音したテープについて話を聞くことはできそうにない。
 追いかけるのは諦めることにした。
「どうかしましたか……?」
 私は首を横に振った。そして二人の去っていった駅のある方向へ私たちも歩き出す。すでに二人の背中は見えなくなっていた。

 道路に面して並んでいる店の看板や自動販売機が、電灯で内側から明るく光っていた。歩いているうちに日が沈み、冬の冷たい闇が濃くなっていくと、それらの明るさだけがはっきりとしてくる。
 歩道を歩きながら私と樹は近況報告をしあった。話してもさしつかえのないような、大学受験に関することばかり私は話した。一方で彼は、学校であったおもしろい話を聞かせてくれる。友達とどんな遊びをしたとか、どんなところへ出かけたとか……。
 十七歳の男子高校生らしい、たあいのないエピソードが、こわばっていた私の心を解きほぐす。樹本人も何かに気づいて、私を励まそうと語ってくれたのだろう。
 ヘッドライトをつけた車が絶えず道路を行き交い、私たちを照らして通りすぎた。
「そこで話をしていきませんか」
 駅前で樹がファミリーレストランの看板を指差して言った。窓から見える店内は、白い蛍光灯に照らされて暖かそうだった。
 店内は夕食を食べにきた人々の和やかな声で満ちていた。ウェイトレスが私たちを奥の席に案内する。テーブルのしきりや壁に銀色の装飾が施されており、店の照明がそこに反射して輝いている。
「おじさんとおばさんの調子はどうです?」
 コーヒーを注文して、樹は質問した。私は首を横に振る。
「よくないわ、家にこもったまま……」
 姉がいなくなってからの家の様子を彼に話した。部屋の片隅にある埃の塊のことや、電気をつけずに居間でテレビを見つづけること。鍵の閉められない玄関のこと。
「やっぱり、博子さんのことがまだ……」
「うん、特にお父さんとお母さんは、見てしまったから……、姉さんの遺体を……」
 無言で彼は頷く。姉の姿が報道よりもはるかにひどい状態だったということを、以前、葬式のときに教えていた。
「立ち直れるのかしら……」
 両親の姿を思い出しながらつぶやく。二人が再生した姿など想像できなかった。私の頭に思い浮かぶのは、いつまでも今と同じように心から火が消えたままの二人の丸い背中だった。
「赤木さんはどうしていますか?」
「葬式のとき以来、何度かうちを訪ねてきたけど、最近はこない……」
 赤木さん。姉の恋人だった人である。姉が殺されてひどくショックを受けた人間の一人だった。姉とは同じ大学に通っており、はっきりと聞いたことはないが、おそらくそこで出会ったのだろう。彼は姉につれられてよくうちへ遊びにきていたから、私もよく話をした。葬式での赤木さんは、両親のそばについて支えてくれていた。
「博子を殺したのは僕なのかもしれない……」
 彼は葬式の後で私に告白した。
「彼女が殺される前日、僕たちは喧嘩をした……。それで、彼女は僕の部屋を飛び出していったんだ……」
 次の日の昼、姉は廃墟で見つかった。生前の姉を最後に目撃したのは彼だった。
 もしも喧嘩しなければ、姉は犯人に会うこともなく、殺されることもなかっただろう。赤木さんはそう言うと、手で顔を覆った。
「そろそろ俺は行かないと……」
 樹が立ちあがる。電車の時間らしい。
「私は少しここで考え事をしていくから」
「わかりました。それでは……」
 彼は立ち去ろうとして、一度、振りかえった。
「……何か悩んでいることがあるのなら、呼び出してくださいよ」
 店を出ていく彼の背中に向かって、私は感謝した。一人で残った私は、コーヒーに口をつけながら、通路を隔てた隣の席にいる家族を眺める。露骨に見ると気まずいことになるから、横目でひかえめに見る。
 夕食を食べにきたらしい、子供連れの家族だった。若い夫婦に幼い姉妹という構成で、それは昔の私の家族に似ていた。姉妹のうち妹の方は言葉も話せないほどの年齢で、指をつねに口に入れてべとべとにしながら、混じりけのない黒い瞳で周囲を見渡していた。横目で見つめていた私は、その子と不意に目があった。
 姉のことを、思い出した。
 子供のころのことだ。私たちは二人で、遠くまで歩いて出かけた。おそらく春先で、暖かい季節だった。まだ私が小学校にあがったばかりくらいの年齢で、ガードレールや塀、ポストなど、あらゆるものが巨大に見えた。
 住宅地の坂道を、姉とどこまでものぼっていく。やがて上がりきった辺りに森があった。私たちは木陰に並んで町を見下ろした。はるか遠くまで、小さくなった家々が並んでいた。
 鳥が空の高いところを飛んでいた。白く、翼のまっすぐした鳥だった。町には大きな川が流れていたから、そこに住んでいる鳥なのだと、子供の私は勝手に決めつけた。
 翼をぴんと伸ばして、あまりはばたかせることなく、風に乗って悠然と青い空を飛ぶ。それをいつまでも飽きずに眺めていた。
 姉が私を見て微笑んでいた。口の端から八重歯が覗いていた。成長して歯が生え代わった後も、姉の八重歯は残った。よく、吸血鬼ごっこをして遊んだ。けれど、もうずいぶん長い間、姉が八重歯を見せて笑ったところを、私は目にしていなかった。
 姉が髪を染めた時、私もそんな感じにしようかしらと何気なく口にした。
「やめなよ、夏海には似合わないから」
 姉はそう言った。私はその言葉を、やさしさから出た忠告だとは受け取れなかった。姉の口調が、言い放つ、といった感じのものだったからだろう。
 そういう瞬間に出会うたび、自分は姉から存在を望まれていないのだという気持ちになった。
 なぜ、姉は死んでしまったのだろう。殺されるほどの恨みをだれかに抱かせていたとは思えない。そして殺される前に私へ残したがった話の内容とは、どんなことだろう。
 そのとき、テーブルに影が落ちた。顔を上げると、黒い学生服を着た男の子がそばに立って私を見下ろしていた。さきほどコンビニエンスストアの前を森野という少女とともに通りすぎていったあの少年だった。
「北沢さん、僕が校門から出てくるのを見張っていましたよね」
 私はさほど驚かなかった。それどころか、彼が突然に現れるのは当然なことであるかのように感じていた。私はテーブルについたまま、彼を見上げる格好で聞き返した。
「……あなたが、姉を殺したの?」
彼は少しの間、無言だった。やがて静かに唇が開いて、言葉が生まれた。
 ええ、僕が殺しました。
 彼の静かな声は、店内に満ちている穏やかなざわめきを私の耳から消しさった。

   † 3

 少年が、さきほどまで樹の座っていた向かい側の椅子に腰掛ける。私は麻痺したように体が動かせず、ただ彼の行動を見つめていた。しかし、もしも動けたとして、彼が正面に座るのを拒否したり、立ちあがって悲鳴をあげたりはしなかっただろう。
 僕が殺しました……。
 少年の言葉が頭の中で繰り返される。そうかもしれない、とは思っていた。だが、耳に入ったその声は、かんたんに心の中までは染みこんでこなかった。鉢植えに、一気に大量の水を流しこんだときと同じだ。頭蓋骨と脳の間で彼の声は立ち往生し、声の大部分が、脳へ吸収されずに溢れている。
 少年が私の顔を見て、首を傾げている。わずかにテーブルへ身を乗り出して、何か口を動かしている。大丈夫ですか、彼はそう言っているらしい。唇が、そのように動いている。そして片手を伸ばし、テーブル越しに私の肩へ触れようとした。指の先端が、服に触れるか触れないかというところで声が出た。
「やめて!」
 後からできるだけ遠ざかろうと、ソファーの背もたれに体を押しつけ、壁の方に体を寄せた。考えての行動ではなく、咄嗟のことだった。
 その瞬間、急に店内の明るいざわめきが蘇った。いや、蘇ったというのは正しくない。店内の音楽も、客たちの会話も、それまで途切れずにあったのだ。私の耳に入ってこなかっただけである。しかし私には、止まっていた時間が動き出したように思えた。
 通路をはさんだ席にいる家族にまで、私の声が届いてしまったらしい。夫婦そろって、怪訝そうな顔で私を振りかえっていた。目があうと、気まずそうに目をそらして家族同士の会話に戻る。
「大丈夫ですか、夏海さん?」
 少年が、私に拒否された片腕を引いて、ソファーに深く座りながら聞いた。私も元通り座りなおしながら、首を横に振った。
「大丈夫じゃないわ……」
 胸がつまった。泣いてはいなかったが、涙声だった。
「何ひとつ大丈夫じゃない……」
 頭の中が、熱かった。彼に、恐怖すればいいのか、憤ればいいのか、何もわからなかった。しかし、目の前に向かい合わせで座っている少年の、何かを超越した雰囲気だけは感じていた。
 目の前で私が動揺し、取り乱していても、まるで生き物の観察をするように冷静な顔をしている。私は、自分がまるで人間ではなく、虫眼鏡で覗かれている昆虫になったように思えた。
「夏海さん、僕はあなたに、悲鳴をあげてほしくありません」
 彼の声には、感情のどんなゆらめきもこもっていない。まるで、心などないかのようだった。私は、テーブルを挟んでひどく恐ろしいものと向かい合っているのだと思った。
「なぜ、姉を殺したの……?」
 彼はおそらく、樹のように笑ったり、突然に悩みを打ち明けられて動揺したりすることはないのだろう。枝葉を切り落として存在だけが純化された人間の塊……、不思議な表現だが、そのような印象を彼に対して抱いた。
「僕が博子さんをなぜ殺したのか、根本的なところは自分でもわかりません」
 彼はゆっくりと、言い聞かせるように話をする。
「しかし彼女に問題があったわけでなく、殺したのは完全に僕の問題でした」
「……あなたの、問題?」
 彼は考えこむようにして、少し沈黙した。その間も私から目を離さなかった。やがて、無言のまま、わずかに顎を動かして、通路を挟んで座っている家族を差した。
「あなたはさきほど、あの家族を見ていましたね」
 子供の姉妹が、笑いあっている。その声が聞こえる。
「あの姉妹に自分と博子さんを重ねて、昔のことを思い出していましたか? 幼かったころの楽しい記憶を心の奥からそっと取り出して、大切な宝石を眺めるように見つめていたのではありませんか?」
「やめて……」
 彼の声がもう入ってこないように、耳を押さえたくなった。土足で心の中に入られたように感じた。
「僕にも妹がいます。そして十数年前には、やはりあの家族のように食事をしました。覚えてはいませんが、したはずです。意外に思いませんか?」
 彼が言葉を紡ぐたび、心臓が次第に鼓動を速めていく。奈落へ続く斜面を転がりながら、ゆっくりと加速度が増していくようだった。
「あの小さな女の子を見てください。見ていることを覚られないように、気をつけて……」
 少年が、心持ち小声で言った。
 私は彼から目を離し、隣の席の、小さな女の子を横目で見る。彼女はソファーの上に立っている。無垢な瞳を遠くに向けて、小さな指で母親の服をしっかり握っていた。私と、その女の子は他人で、名前すら知らない。それでも、愛しいという気持ちがわく。
「夏海さん、あの女の子が十年後に人を殺すとしたらどう思いますか?」
 急に、心が冷えた。何を言っているの、振りかえってそう抗議をしようとしたが、声の出る前に彼が言葉を続けた。
「両親と姉を殺すかもしれない。可能性は、ゼロではありませんよね。もしかしたらもう、すでにその計画を練っているかもしれません。ああやって子供のふりをしているのはすべて演技で、本当はあのハンバーグを切り分けているナイフをつかみあげ、一刻も早く母親の喉元につけたがっているのかもしれません」
「お願い……」
 もうよして。あなたは狂っている。私は顔を伏せ、目を強く閉じて彼の言葉に耐えた。まるで頬をぶたれているように、ひとつひとつの言葉が痛みへと変換するようだった。
「夏海さん、顔をあげてください……。冗談ですよ……。あの子はおそらくだれも殺さないでしょう。しかし今の話は、すべて僕自身のことです」
 私は顔を上げて彼を見つめる。少し涙が出て、光がにじんで見えた。
「僕は、そういうふうに生まれついていました。あの子ほど小さかったときは自覚していませんでしたが、小学校に入った時はもう、自分が他人と違うことに気づいていました」
「……いったい、何の話をしているの?」
 私は戸惑いながら質問した。彼は、面倒そうな様子を見せずに説明する。
「人を殺す、という宿命についてのことです。僕には、そうとしか思えません。まるで、吸血鬼が人間の血を吸わなければいけないように、僕は人を殺さなければいけなかった。あらかじめそのような運命を定められて生まれてきたようです。両親のふるった暴力が精神に傷をつくってそうなったわけでも、祖先に人殺しがいたわけでもありません。ごく普通の家庭に育ちました。しかし、普通の子供が想像上の友達やペットと一人遊びしているとき、僕だけは想像上の死体を見つめて過ごしていました」
「あなたは、何者なの……?」
 もはや彼が人間には見えなくなっていた。もっと恐ろしく、禍《まが》々《まが》しいものに思えた。
 彼は一瞬、静かになり、首を振った。
「わかりません。なぜ人を殺さなければいけないのか、考えても、答えは出ないのです。そして、このことを秘密にしたまま、演技をして生活しなけれはいけませんでした。だれにも自分の心の中を見せないよう慎重に生きてきました」
「家族にも……?」
 彼は頷いた。
「家族は僕のことを、普通の、どこにでもいる子供だと思っていますよ。細心の注意をはらって、そのような自分の位置を築いてきましたから」
「あなたは……、何もかも偽って生きてきたのね……?」
「同時に、何もかも偽りにしか思えませんでした」
 意味がわからなかった。すると、彼が説明を加えた。
「家族の会話も、知人たちの親しげな態度も、みんなが本心でやっているとは思えませんでした。どこかに脚本があるとしか思えずに、子供のころ、一度、家の中を探しました。自分も、みんなと同じように台詞を読みたかったのです。でも、脚本はどこにもありませんでした。本当に存在を感じるのは、死だけです」
 だから、人の死を、欲する。
 彼の唇はそのように動いた。
「……だから姉は……」
「あの夜、僕が道を歩いていると、彼女が自動販売機の前に座りこんでいました。泣きはらした目をしていて、大丈夫かと声をかけると、彼女は八重歯を覗かせてありがとうと言いました……」
 彼は、その八重歯が気に入ったので姉を殺害したのだという。これは恋愛に似たものなのだと主張した。
 私は話を聞きながら、レストランの皮張りのソファーに縛り付けられたような気持ちになった。テーブルの上に置いている彼の手を見る。学生服の黒い袖の先から、白い手が出ている。細い指に、綺麗に切りそろえられた爪。目の前にあるその手は、確かに人間の手である。しかし七週間ほど前、その手が、私の知っている姉を殺害したのだ。
「姉の八重歯が、気に入ったから……?」
 彼は頷いて、傍らに置いていた鞄から、なにかを取り出した。片手に乗るほどの大きさの立方体だった。
「樹脂で固めたものです。あなたにも、見せようと思って」
 彼がテーブルにそれを置く。透明なブロックだった。中に、二十個ほどの白く小さなものが浮かんで連なっている。ブロックの中で、上下に重なった二本のUの字を描いていた。
「部屋に散らばっているものをすべて集めるのに苦労しました」
 歯だった。それが、樹脂の透明なブロックの中に浮遊したまま固定されている。ちょうど、透明人間のはめた入れ歯のように、もともとの形を保っている。
 見覚えのある八重歯が、あった。
 子供たちの明るい笑い声を聞く。店内の照明が、銀色の装飾品に反射していた。和やかに夕食の行なわれる店内で姉の歯を前にすると、夢の中の出来事であるように感じられた。
 不思議なことに恐くなかった。ただ、悲しみがあった。私はだれからも、姉の歯がすべて抜き取られていることを知らされていなかった。
 彼はブロックを鞄の中に戻し、かわりに封筒を取り出した。
「余計な話ばかりしてしまいました。これが、二本目のテープです」
 彼は封筒の口を開けて逆さにした。中からカセットテープが出てきて、テーブル上に落下する。『Voice2・北沢博子』。そう印刷されたシールがテープに貼ってある。
「テープはあともう一つあります」
「それも、聞かせてください」
 彼は立ちあがり、背中を見せながら言った。
「二本目のテープを最後まで聞いてから、考えてください」
 彼が店から出ていった後、私はしばらくの間、立ちあがれなかった。テーブル上のテープを前にしたまま、樹脂のブロックに浮かぶ姉の歯を思い出していた。
 私はコーヒーの入ったカップを口に運んだ。すっかり冷え切っていた。通路を挟んだ隣のテーブルで、少女が私の方を向いていた。口の端を、かわいらしくケチャッブかなにかで汚している。その子は綺麗な黒目で私の手元を見ていた。おそらく、私の持ったカップと受け皿が震えてカチカチと昔を立てるのが不思議だったのだろう。

 レストランを出て電車に乗っている間、私は椅子の上で体を丸めるようにして座っていた。ひどい顔色をしていたのだろう、正面に座っていた中年の男の人が私を見ている気がした。おかしなことに、「見咎められるのではないか」という恐怖があった。あの恐ろしい少年との会話の内容や服のポケットに入ったテープのことを、周囲の乗客や駅員はすでに気づいて知っているのではないだろうか。私は声をかけられないかと不安だった。
 改札を出ると、住宅地の暗い道を走った。家の前まで戻ってきたとき、窓からもれる明かりを見た。太陽が沈んだとき、両親がそれに気づいて電気をつける気力があるかどうかは、日によって違っていた。
 玄関の扉を開けようとすると、直前に内側から開いて、中からだれかが現れた。赤木さんだった。私が玄関前に立っているのを見て、彼は少し驚いていた。
「……やあ、夏海ちゃん」
 眼鏡の奥の目を細め、弱々しく彼は笑った。
「来ていらっしゃったんですね」
「もう帰るところだけど、心配だったから……」
 大学から帰る途中に立ち寄ったのだという。私と赤木さんは、玄関先で向かい合ったまま話をした。彼は背が高い。私が普通に正面を見ていると、彼の顔は視界の上部に消えてなくなる。だから見上げていないといけないのだが、話をしているうちに首がいつもつかれる。
 彼は本のことに詳しく、実家の二階は集めた本の重みで軋んでいるほどだという。私たちは話がよく合った。しかし今は、楽しく会話をする気になれず、お互いの心配や、姉のことを考えていてくれたお札などを言うにとどまった。
 話をしている最中、テープのことを頭の端で考えていた。姉の声を、彼にも聞かせたほうがいいに決まっている。しかし、私はテープのことをだまっていた。
「じゃあね、夏海ちゃん、バイバイ……」
 ひょろ長い手を振りながら、赤木さんは去っていった。私はそれを無言で見送りながら、自分の変化に驚いていた。
 以前、赤木さんと話をしているときの私は、平常心ではいられなかった。心が上下左右に揺れ動いて落ち着かなかった。彼が姉へやさしい眼差しを向けるたびに、私は少し落ちこんだ。
 赤木さんにあこがれている部分があった。しかし今は、まるで心が冷たい石になってしまったように沈黙している。
 私は首筋をなでながら、別れの挨拶さえ言っていないことに気づく。前は、話をした後に残るおかしな首のつかれ具合とともに、熱心に手を振って、「またね」と声をかけたはずだ。
 つながりが希薄になりかけている。姉の死をきっかけに、他人同士の関係へと戻りかけている。姉がいなければ知り合わなかった人だから、そうなるのは当然なのかもしれない。
 しかし、関係を保つことに無関心なのは、おそらく赤木さんの方ではないのだ。でなければ、うちまで来てくれるはずがない。
 家に上がり、冷蔵庫のように冷たい居間へ向かった。炬燵に入っている両親に挨拶をする。玄関先で赤木さんに会ったことを話しても、気のない返事しかなかった。私は、気分が急速に重くなっていくのを感じた。
 階段を上がり、自室に入ると、扉を閉めた。ポケットからテープを取り出し、ステレオにセットする。それまでステレオ内にあった一本目のテープは、机の上に置いた。
 再生のボタンを押した。本体の内部から機械の作動する音が聞こえる。私は椅子に座って、棚のステレオを見つめた。
 不意に昔のことを思い出す。記憶の中で私と姉は小学生だった。ラジカセを使って順番に声を録音して遊んでいた。なぜ自分の声は録音すると変になるのだろうかと不思議だった。そこへ父と母が現れて、みんなで歌を歌い、テープに吹き込んだ。ひどく幼い歌を、はしゃぎながら歌った覚えがある。家族でドライブをするとき、父は車の中でよくそのテープをかけた。私と姉が中学生になってもそうだったから、「いやがらせはやめて!」と姉妹で半ば悲鳴をあげながら父からテープを取り上げようとした。母は