妞盲晗陇酥盲⒄妞閮Wを見た。 彼の眼は濁って、穴のように光のない黒になった。 この人が犯人である可能性は、夕立のとき店内にいた客のだれかが犯人である可能性よりも高いと思っていた。それが正解だったことを僕は知った。 「……何のことかな?」 彼は知らないふりをした。 僕は手帳を差し出した。それを見ると、彼は口元に笑みを浮かべた。尖った白い犬歯が覗いた。 「これは、森野さんが先日、拾ったものです」 彼は手帳を手にとってベージをめくる。 「よく、持ち主が私だとわかりましたね」 「半分以上は賭けみたいなものでした」 僕は、N山に森野の死体を捜しに出かけたことと、そこで考えたことを説明した。
犯人は何を思うのだろう。 僕はまず、手帳を落とした犯人について想像をめぐらせた。 この手帳は何のために書かれたのだろうか。記念のためだろうか。忘れないためだろうか。きっと、幾度も繰り返し読んで、思い出に浸っていたのだろう。 だから犯人は、自分が手帳を落としたことに気づいていないはずがないのだ。 そもそも、手帳をどこに持っていたのだろうか。普通なら、ポケットか鞄の中だろう。落とすくらいだから、ポケットの中かもしれない。トイレで手を洗い、ハンカチをポケットから出そうとして、手帳を落としたのかもしれない。 では、いつごろそれに気づいただろうか。数十分後か、数時間後か……。おそらく一日は開いてないに違いない。 そして、最後に手帳を読んだのはいつだったかを思い返すだろう。その範囲内の時間で自分は手帳をなくしたと考える。それはつまり、自分がその日に動き回った地域と照らし合わせて、手帳を落とした場所をある程度、特定する作業となる。 そしてこれは僕の勝手な思いこみだが、犯人はある程度、せまい地域で手帳を落としたのではないかと思う。なぜなら、手帳を頻繁に見たいからだ。頭の中に暗黒の思考が入り乱れるたびに、手帳を読み返して気を落ちつける。そうやって頻繁に手帳を手にして確認するほど、なくす時間や地域が狭まることにつながる。 それから犯人は探すだろう。地面を見て、手帳が落ちてないか探す。 しかしない。 そこで犯人は考えたはずだ。手帳は、だれかに拾われてしまった。 手帳の中身をだれかに読まれると、いけない。おそらく警察が三人目の被害者を捜索して死体を見つけるだろう。それだけなら別にかまわない。問題は、手帳から指紋を採取される可能性だ。また、筆跡を教えることにもなる。 そう考えた場合、僕ならどうするだろうか。 おそらく、四人目の犯行はおかさない。 もしかしたら警察がこの周辺を調査しているかもしれないのだ。なぜなら手帳は、自分が日常に動き回る範囲でなくしてしまったのだから、犯人はこの辺りにいると警察は考えるだろう。 動くのはまずい。 しかし、しばらくしても三人目の被害者である水口ナナミの死体は発見されない。僕と森野が、手帳を警察に渡さなかったからだ。 犯人は、彼女の死体発見のニュースが流れるのを待っていただろう。僕ならば、四人目は安全が確認できるまでひかえておく。 しかし、森野はいなくなった。 森野の行方不明がただの彼女のいたずらだったという可能性は考えないことにして、僕はなぜその食い違いが起きたのかについて考えてみた。 僕が犯人だとして、四人目を殺すのはどんなときだろう。
・どうしても我慢できなくなったとき。 ・自分を過信して、つかまらないとたかをくくり、警察をなめているとき。 ・警察につかまることを気にしないとき。 ・手帳はだれにも拾われず、読まれなかったと考えたとき。 ・手帳を拾った人間がその内容を本気にしなかったと考えたとき。
それとも、やはり手帳を落としたことに気づいていないのかもしれない。どれも可能性はゼロではない。しかし、僕はもうひとつの考え方に賭けてみた。犯人は、こう思考したのではないだろうか。
・手帳はだれかに拾われたが、内容は読めなかった。その結果、警察には通報されず、水口ナナミもまだ発見されていない。
喫茶店の主人は僕の話を聞きながら、興味深そうにうなずいていた。 「それで、どうして犯人が僕だと?」 手帳を彼の手から返してもらい、あるページを開けた。汗で文字がにじみ、読めなくなっている。 「インクが水溶性で、濡れると文字が消えることをあなたは知っていた。犯人は、手帳を店の中ではなく、外で落としたと考えたのではないかと推測しました。森野は外が夕立の時に手帳が落ちていたことを説明してくれました。きっと犯人も、あの夕立の時間に手帳を落としたのではないかと検討したはずです」 犯人が普通の考え方をするならば、店内のだれかが手帳を拾ったと仮定した場合、警察にそれが渡るはずだと思うだろう。しかし水口ナナミの遺体発見のニュースは流れない。 「そこで犯人は、その日、夕立の中に手帳を落としたと結論づけたのではないか。そう僕は推測しました。もしそれなら、激しい雨のために手帳は濡れて、中身が読めなくなる」 あの日、夕立の合間に外へ出たのは店長だけだったことを、森野の話は告げていた。 ほとんど想像の中だけで組み立てた綱渡りのような話を僕が終えると、店の主人は口元をほころばせた。 「確かに、その手帳は夕立の中に落としたんじゃないかと考えた」 森野さんは、うちにいる。そう彼は言った。 この喫茶店の二、三階が彼の家なのだそうだ。 そして彼は手帳を大事そうに自分のポケットへ入れた。僕に背中を向けると店の出入り口に向かい、扉を開ける。 さきほどまで曇っていた空は晴れたらしく、夏の日差しに照らされた外の世界が、店内の薄暗い照明になれた目には白く見えた。店を出た彼は通りへ向かって歩き出し、光の中に消えた。 常連だという女性客がテーブルから立ち上がり、会計をするためにレジの前へ立った。視線を店内にさまよわせた後、マスターは? と僕にたずねたが、僕は首を横にふった。
階段は建物の外にあり、上の階へ行くためには一度、店の外に出なければならなかった。 森野は三階で縛られていた。服装は水口ナナミのままで、手足にロープを巻かれて畳に転がされている。乱暴された様子はなかった。 彼女は僕の顔を見ると、すっと目を細くした。それは彼女の笑顔だった。口にはタオルを噛まされていたので、声は出せなかった。 タオルを取ると、彼女は大きく息を吐いた。 「あの店長、骨折したふりをして、荷物運びを私に頼んだの。気づくとこうなっていたわ」 手足に巻かれたロープを外すのは困難そうだった。彼女をそのまま放り出しておき、僕は部屋の中を見まわす。店の主人は一人暮しだったらしいことが、家の中の様子からわかった。 机の上にメモ用紙らしい白い紙が置かれていた。紙面には無数の小さな十字架が描かれていた。 棚の中に、ナイフのセットが置かれていた。それが殺害に使用されたナイフであることは容易に推測できた。手帳の記述の中にナイフという言葉が頻出している。 森野が転がったまま声をあげ、手足を自由にしない僕のことを非難した。 棚のナイフセットから手ごろなものを選び、それでロープを切った。 「早く逃げないと、店長に見つかってしまうわ」 「彼はこないよ」 おそらく二度とこの辺りには現れないだろう。僕はそのことをほとんど確信していた。口を封じるために僕や森野を殺しに来るかもしれないという可能性もあったが、そうはならないことがなぜかわかっていた。 喫茶店のカウンターをはさんだ会話の中で、僕とあの異常者はどこか心を通じ合わせてしまった気がしたからだ。 彼が静かに店を出ていったのは、僕がだれにも話さないことを直感的に知ったからだろう。 店長は二度と戻らないと宣言する僕を、森野は不思議そうに見た。立ち上がりながら服装を直す。 「あなたにメールだけ打てたけど、見つかってしまって……」 机の上に、森野の携帯電話が電源を切って置かれていた。森野がそのとき持っていたはずの水口ナナミの鞄もある。犯人は、三番目の被害者が持っていた鞄と、四番目の被害者になるはずの女が持っていた鞄とが同じものだったことに気づかなかったのだろうか。それとも、同じものだったから森野を狙ったのだろうか。 丸一日、森野はしばられて転がされていたらしい。よろよろした足取りで階段に向かった。 部屋を出るとき、僕は棚のナイフセットと机の上の紙を手にした。それらは記念にもらっておくことにする。警察がすべてを知ってこの部屋を捜索したとき、犯行に使用した凶器が見つからずに困るかもしれない。もちろん、僕は気にしない。 一階に下りて、店内を覗いてみる。無人の店内に静かな音楽が流れている。 ドアにかけられた『OPEN』という札を裏返し、『CLOSE』にした。 森野は僕の後ろに立って、手首をさすりながらその様を眺めていた。手首にはロープの痕が残っている。 「ひどいめに会ったわ」 彼女がつぶやいた。 「もうこの店にはこないことにする」 「でも、よかったじゃないか。あの人に会うことができて」 森野は首をかしげた。 「あの人って……? そもそも、あの店長はなぜ私をこんなめにあわせたのかしら?」 彼女は、あの店長が殺人鬼だということに気づいていなかった。 僕は持ってきた白い紙に目を落とし、無数に描かれた小さな十字架を眺めた。 [#改ページ] Ⅱ リストカット事件 Wristcut [#改ページ]
† プロローグ
人の少なくなった放課後の教室で僕が帰り支度をしていると、背後にだれかの立つ気配がした。振り返って見ると、森野だった。 「帰る前に、言いたいことがあって」 彼女はそう前置きした。森野とは今日一日を通して言葉を交わしていなかったので、声を聞くのはほぼ二十四時間ぶりだった。 「昨日、ビデオショップで変な映画を借りたの……」 森野はどうやら、その映画の話をだれかにしたくてしょうがなかったらしい。しかし彼女がこの教室で話をするのは僕だけだった。それも、僕が他のクラスメイトと会話をしていない一人でいるときに限っていた。だから今日、帰る直前になるまで、森野は僕にその話をすることができなかったのだ。 僕と森野が話しているのを、教室の隅にいた女子の一群が見て気にしていた。小さな声で、僕たちのことについて話題にしているのがわかった。 最初のうち、僕たちがつきあっているのではないかと推測する者もいた。しかし僕たちはお互いに親しそうな顔をしているわけではなく、ぶすっとした表情で会話をしている。だからみんなは、僕と森野がどの程度の親しさなのかを今でも測りかねていた。 そもそも周囲の人間にとっては、森野がだれかと話をしていることが珍しいのだ。彼女はこの高校に入学して以来、学校内で人と話をすることが稀だった。常に教室内では身を潜めて、下校の時間が来たら静かに消え去るといった、海底を進む潜水艇のような生き方を好んでいるようだった。 制服が夏服でないかぎり、彼女はいつも黒い服を着ていて、長い髪の毛から靴の先まで黒色に包まれている。光を嫌い、闇の中へ積極的に溶けこもうとするかのようだった。 森野に、この学校を選んだ志望動機をたずねたことがある。 「学生服が真っ黒で派手じゃないでしょう、だからこの高校を選んだの。ところで、シボウドウキってこの字を思い浮かべたわ」 彼女は黒板に向かって白いチョークで、『死亡動機』と書いた。そのとき制服から覗いた細い腕が目に入る。一度も日光に当たったことのないような白い肌をしている。 彼女は整った顔をしていたので以前は言い寄ってくる人間もいたそうだが、少し前に起きたある事件から少々事情が変わった。学校内で彼女を相手に、セクハラまがいのことをしようとした教師がいたのだ。森野は隠し持っていた痴漢撃退用のスプレーで冷静に攻撃し、近くにあった椅子でその先生を殴りつけた。僕はその場面をひそかに見ていたのだが、それ以来、森野に声をかける男子生徒はいなくなった。
これからする話は、僕と森野が知り合うきっかけとなった事件である、というわけではない。 しかし、教室で彼女の白い手が目に入るたびに、僕はその事件のことを思い出す。 今年の春先、連日のようにニュースをにぎわせていた連続手首切断事件である。僕はひそかに、その事件へ巻き込まれていたのだ。 それは、まだ森野と一度も言葉を交わしたことのなかった五月末のことだった……。
† 1
篠原は自分の手を見つめて考える。手とはもちろん、脊椎動物における前足の末端部分のことである。自分の手は物をつかむために発達しており、五本の指でパソコンのキーボードを打つことや、コーヒーカップを傾けることが可能である。手が人間のすべてであることはおそらく間違いないだろう。だから手相術というものがある。手相術というのは、手のひらの筋にあらわれた形相を観察することにより、その人の性格や運勢を占うものである。すなわち手はその人間の過去と未来を映す鏡なのだ。 子供のころから篠原は手が好きだった。他人の手が気になってしかたなく、親に連れられて外出した際も、幼い篠原の目に映る町中の雑踏は、人間の集団というよりもむしろ無数の手の集まりだった。小学校に通いはじめても、自分のまわりを歩いているのはクラスメイトというより、二つの手をぶら下げた生物だった。 手以外の部分は人間の本質的な部分ではない。例えば、顔の作る表情、口から出る言葉、それらに真実が混じっているとは、篠原には思えなかった。それにひきかえ、手は揺るがし難いほどの真実を含んでいる。筋の浮かぶ甲。伸びる五本の指。指の先端に耽っている爪と、そこに浮かぶ白い半月。指紋は特に個人を特定する重要な部分である。 小学校低学年のころ、姉の捨てた着せ替え人形の手首を、だれにも気づかれないようにはさみで切り取ってみた。人形の小さな手は、篠原の手のひらの上でころころと転がる。それをポケットに入れて、手首から先のない人形は捨てた。それからひまな時間があると、人形の小さく固い手を親指の腹でなぞった。微少な凹凸の感触は、母や先生からかけられる言葉よりもやさしくしっかりと充実をともなって篠原に何かを語りかけてくる。 犬や猫の前足の先端を|剪《せん》|定《てい》ばさみで切り取ったこともある。剪定ばさみというのは、小さな手首をカットするのに、実に都合がいい。篠原は犬や猫が好きだった。肉球は人間の手にはない部分で、ユーモラスな形状をしている。押すと爪が出入りし、表面には毛が生えている。人間のように物をつかむことはできないが、独特の進化をしていておもしろい。 手が人間のすべてであるという自分の考え方が一般に受け入れられないことは充分に承知していた。周囲の人間を観察していると、頭と口による中身のない言葉ばかりが世界を支配していることに気づかされるからだ。大人になり、職につくと、特に自分のそのような考えは隠さなければならなかった。 しかしふとした瞬間に手のことを考える。五本の指がついた、神が創造したとしか思えないデザイン。それが頭の中をめぐる。 この春、はじめて人間の手首を切断してみた。乳児の手だった。乳母車に乗っていた乳児を見つけ、母親がほんの一瞬そばを離れた際に剪定ばさみで切り取った。 乳児の小さな手は、熱く、ふっくらしていた。切断した瞬間、眠っていた乳児は泣き喚き、篠原の握り締める手から熱が消えていく。篠原は乳児の手をポケットに入れて持ち去り、冷蔵庫に保存した。 乳児の手だけにはとどまらなかった。小学生を気絶させ、暗闇の中で手首を切断した。高校生や、社会人の手を切ったこともある。成長した人間の手首は、剪定ばさみで切断するには太すぎた。しかしのこぎりでは切り口がきたなくなり、篠原の美意識が許さなかった。かといって斧は持ち運ぶのが面倒だった。結局、肉切り包丁で仕事をした。気絶させた人間の手首に思いきり打ちつけると、骨まで鮮やかに切断することができた。 死んだ人間はいなかった。篠原は手が欲しいだけで、殺したいわけではない。手以外の部分は、死んでいようがいまいが関係ない。自分の姿を見られていないかぎり、気絶させたまま放っておくことにしていた。 新聞やテレビの報道によると、病院に運ばれた被害者は、いずれも犯人の顔は見ていないと報告したらしい。篠原は安堵で胸をなでおろす。暗闇に紛れて慎重に行動しているとはいえ、やはり逮捕されるのは心配だった。 手そのものも好きだったし、手首を切断する作業も楽しかった。手とそれ以外の部分とを分ける瞬間、解放感が体を駆け巡る。それは、世界を支配する歪んだ価値観から手を解き放つという行為が我ながら英雄的だからだろう。 職場では、小さな人形の手を切ることもあった。布製で、中に綿が入った手のひらサイズの人形である。小さいため、細かい造形はされていない。指はなく、腕の先端は丸みをおびているだけである。だからといって手ではないというわけではないのだ。これは、人形を作製するために進化した、指のない手なのである。それをはさみで切り取るだけでも、世界と自分との間にあった緊張感が霧散する。 切断した手は、すべて冷蔵庫に入れた。人形の布でできた手や犬猫の前足も例外ではない。何一つ、捨てられるものなどなかった。 一人暮しの篠原の家は、一斉に賑やかとなった。冷蔵庫を開けると、手が並んでいる。それらを触ると、持ち主がこれまで体験した過去や、これから待ちうけているであろう未来がわかるようだった。それぞれの感触は篠原に苦楽となって語りかけ、手がこれまで両親から受けた愛情も、世界から受けた悲しい仕打ちも打ち明ける。 新聞やテレビは連日の篠原の犯行を報道した。いつのまにかリストカット事件という名前で呼ばれている。もちろん篠原にとって、事件の名称などどうでも良かった。 ただ、自分が犯人として憎まれていることが不愉快である。自分達の価値観を押しつけないでほしい。 テレビのニュースを見ながらその不満について子供の手に語りかける。冷蔵庫から取り出して握り締めている子供の手である。 「本当にそうだね、きみの言う通りだよ」 子供の手の凹凸や弾力が、手のひら越しに篠原へそう語った。不安や怒りが溶けて消え、胸の奥に生きていく勇気がわいてくるのを篠原は感じる。
† 2
その化学教師は午前中に行なわれた授業でこう言った。 「昼休みに化学準備室の大がかりな片付けをするのでひまな者は手伝いにきてほしい」 彼自身も生徒が手伝いに来てくれることを期待しているようではなかったし、クラスのほとんどの者が教師の話を聞き流していた。だから、昼休みに僕が化学準備室を訪れたのを見て、その化学教師は意外そうな顔をした。 窓の外は晴れ渡っており、春の暖かい日差しがふりそそいでいる。化学準備室はそれと対照的に暗く、少し肌寒かった。外で遊んでいる生徒達の楽しげな声が、遠くからかすかに聞こえてくる。 化学準備室は狭く、棚がひしめいている。中には薬品や分子構造を示す模型、ホルマリンに清けられた何かの内臓が並んでいた。部屋の窓際に木の机があり、植物や宇宙に関して書かれた理科的な書物や紙片が置かれている。古いタイプのパソコンがあり、かたわらの別の机には、積まれた本に隠れるようにしてプリンターがあった。ブラインドの隙間からもれてくる縞模様の外の光が、空中に漂う埃を浮かび上がらせる。 「ええと、それじゃあまず、この部屋にあるごみ箱を化学講義室に持っていってくれ」 化学教師は、丸められた紙くずでいっぱいになった青いプラスチック製のごみ箱を指し示した。僕は頷いてそれを抱えると、化学講義室に向かった。
「だれがわざわざ好きで昼休みをつぶすんだよ」 授業中に化学教師が手伝ってくれる者を募ったとき、近くの席にいたクラスメイトの一人が、僕に小声で話しかけてきた。自分がそれにどのような返事をしたのかはすでに忘れてしまった。しかし、そのクラスメイトが僕の返事で笑い声をあげたことから、気の利いたことを僕は言ったのだろう。 陽気なクラスメイトたちに調子を合わせるのは簡単だった。テレビのバラエティ番組とドラマをチェックして、適当な相槌と作り笑顔を覚えておけば、大抵は足並みをそろえることができた。そうしておくことで僕は性格の明るい高校生の一人としてみんなに認知され、様々なわずらわしい障害は取り除かれる。 障害というのはつまり、これは僕の幼稚園時代の記憶なのだが、人形の顔をマジックで黒く塗りつぶして四肢を切断しなければいけないという強迫観念のもとにそれを実行し、周囲のものを心配がらせるといったことである。当時、母と幼稚園の先生が僕をちらちらと見て不安そうにしていたのを思い出す。 僕が嘘をつくのが上手になったのはそれからだった。たとえば絵を描くときに使っていたクレヨン。それまでは黒いクレヨンばかりが短くなっていったのだが、意識してすべての色のクレヨンが均等に短くなるよう心がけた。自分がどのような夢見がちな絵を描いたのかは覚えていないが、おそらく虹とか花とかそういうものだろう。そうしておけば周囲の大人達はほっとした。 世間で好かれるような価値観を知り、それを覚えて装うことで、僕は問題のない人間として生活することができる。クラスメイトたちとの特に興味のない会話にも、僕は陽気な調子で参加するという作業をこなさなくてはならない。 僕が化学準備室の片づけの手伝いをすることは、クラスメイトたちにはだまっていた。なぜなら教室での僕はそのようなことをするキャラクターではなかったし、積極的に手伝っていい人ぶっているというイメージを与えるのも避けたかったからだ。 それに、化学準備室の片づけをボランティアで手伝うことにしたわけではない。僕には思惑がある。 僕たちのクラスを教える化学教師には、試験の問題を化学準備室の机で作成するという噂があった。そのメモをごみ箱へ捨てる可能性があり、片づけのついでにそれを手に入れられないかと考えていたのだ。 一年生のとき、僕はたまたまその教師と準備室の片づけをしたことがあった。だから、片づけの手順はあらかじめ知っている。 まず、化学準備室にあったごみ箱を隣り合った化学講義室へ運び出す。そして準備室の整理を行ない、その後で先生といっしょにごみ捨てをする。整理中に次々とごみは増えていくので、それらを捨てるときはおそらく二人がかりになる。それが昨年の例だった。 ここで問題が発生する。このままでは、ごみ箱の中をゆっくり探る時間がないのだ。そのため、僕は次のような計画をたてる必要があった。 片づけを手伝う前に、あらかじめ他の教室からごみ箱を借りて、化学講義室に隠しておく。それから準備室を訪ね、片づけの手伝いをする。 昨年の通りだと、準備室のごみ箱を講義室へ運ぶようにと先生が僕に指示を出す。そうでなかった場合は、際を見て講義室に運びこむ。 学校内のごみ箱は、どの教室も統一されている。つまり化学準備室のごみ箱も、他の教室のごみ箱も、青いプラスチック製の同じ形なのだ。したがって、たとえ僕が、準備室にあったごみ箱と、あらかじめ選びこんで隠していた他の教室のごみ箱とを、講義室でひそかに入れ替えていたとしても、教師は気づかないというわけである。 テスト作成のメモが入っている可能性のある準備室のごみ箱は、教師の片づけを手伝っている間、化学講義室の机の下に隠しておく。片付けの仕上げとして教師と焼却炉まで運ぶのは、他の教室から移動させた方のごみ箱である。 後は、教師とのごみ捨てが終わり、解放されてから、ゆっくり化学講義室でごみの中からメモを探せばいい。 化学準備室を訪ねる前、すでに僕は隣の教室からごみ箱を勝手に拝借し、講義室の机の下に隠していた。準備はすべて整い、しかも昨年と同じように、化学教師は準備室のごみ箱を講義室へ運ぶよう指示した。何もかも順調である。 僕は計画を|覚《さと》られないよう自然な様子で先生に従い、ごみ箱を抱えて化学講義室に入った。二つの部屋は扉一枚でつながっており、廊下に出る必要はない。 計画外のことはそこで発生した。さきほどまでだれもいなかった化学講義室に、人がいた。その人物は講義室の隅にある六人掛けのテーブルにつき、一人静かに読書をしていた。髪の長い女子生徒で、化学講義室の薄暗い片隅に腰掛けているため影の塊のように見えた。今年の春から同じクラスメイトになった森野という生徒であることに、僕は気づいた。 彼女が顔を上げ、準備室の扉から出てきた僕を一瞬だけ見る。教室のほとんど対角線と同じ距離を越えて視線があった。それから興味がなさそうに、彼女は机の上に広げた本へ再び意識を向ける。 彼女も片づけを手伝いに来たのだろうかと思ったが、どうやら違うらしい。計画の支障にはならないと僕は判断した。 森野と話をしたことはなかったが、その存在の特異さは時々、目を引いた。彼女は目立つ生徒ではないが、目立たないことが逆に注目させるのだ。クラスには、活発で光を発しているようなカリスマを持った人間がいる。森野はそれを逆方向へ思いきりわがままに突き進んだような存在だった。楽しげに話しかけてくるクラスメイトたちを容赦なく無視し、常に孤立し、その孤独さを愛しているようだった。 講義室の片隅で読書している彼女を無視し、あらかじめ運んできて隠していたごみ箱と、抱えていたごみ箱とを僕はすり替えた。準備室からもってきたごみ箱は机の下に隠す。森野にその作業を気づかれた様子はなかった。 ごみ箱は森野といっしょに化学講義室の中に放置して、何事もなかったように準備室へ戻る。 「女の子がいたでしょう。彼女、昼休みになるとほぼ毎日、講義室に来るんだ」 化学の教師は言った。化学講義室は薄暗く、学校の中で特に静かな場所だった。ここへ来る彼女の気持ちはわかる。化学講義室は、普段の生活をしている教室とはあきらかに種類が異なっている。時間が止まったような静寂と、活発さを求めない暗さ。生き物の生死を観察するような生臭ささえ染みついているようで、居心地が良いと僕は思う。 僕は化学教師の指図するまま、棚の上にあった段ボールを下ろし、何の薬品の壜が入っているかを調べた。 教師は、準備室にあったパソコンのキーボードへ圧縮空気のスプレーを近づけ、キーの隙間に入り込んだ埃などをとっていた。凡帳面な性格らしい。 結局、最初から最後まで化学教師のそばで忙しく手伝わされ、やはりごみ箱の中を調べる時間などなかった。準備室の整理を終え、大量のごみを抱えて教師といっしょに化学講義室を出る。 「彼女みたいな染めていない黒くて長い髪の毛って、最近、めずらしいんじゃないか?」 教師は化学講義室の森野を振り返りながら言った。彼女の髪の毛はそれほど黒く、美しかった。僕の妹も髪の毛はあんな感じですよ、と教師に返事をする。 森野のほっそりした白い手が、本のページをめくっていた。薄暗い講義室の中で、内部からぼんやりと発光するように、その白さが目に焼きついた。 教師といっしょに焼却炉へごみを運び終え、その場で彼とは別れた。僕は足早に化学講義室へ向かう。午後の授業が始まる十分前だった。 講義室に入ると、すでに森野はいなくなっていた。もう教室へ向かったのだろう。作業をするのに好都合だった。 机の下に隠していたごみ箱を取りだし、だれも来ないことを確認して中を探った。しかし残念ながら、目的としていたものはそう都合よく入っていなかった。 そのかわり、ごみ箱の奥から、紙で厳重に包まれたものが出てきた。中を確認すると、腕の先端が切断された人形だった。 手に載るほどの小さな布製である。足先は残っていた。その造形から推測すると、切断された手には、指などの細かい部分は作られていなかっただろう。単純な作りの人形である。 しかし、手から先がない人形は、僕にある事件を思い出させた。 最近、テレビをにぎわせているリストカット事件である。道を歩いていた人間が、男女や年齢を問わず後ろから殴られて気絶させられ、手首を切断されるというものである。前足の先端を切断された猫や犬も発見され、同じ人間の犯行ではないかと議論されていた。いずれの事件も、ここからそう遠くない土地で発生している。 化学教師……篠原先生本人が、人形をこのような状態にしたのだろうか。 なんのために? ただの遊びだろうか? しかし僕は、先生がリストカット事件の犯人である可能性を考えた。手を切り取った人形が見つかっただけでそう考えるのは短絡的だとは思う。しかし犯人はこの世界のどこかに確実に存在しており、それが身近にいるかいないかは確率の問題だ。先生が人形の手を切り取る理由に思いをめぐらせた場合、彼の趣味の延長であるという意見を、僕は完全に否定できなかった。
手のない人形を見つけて以来、毎日、教室で僕はリストカット事件のことを考えた。中間試験が近いことさえほとんど意識にはなかった。この猟奇事件は、最近の事件の中では特に僕の気に入っているものだった。犯人の、手に対するおぞましい執着を考えると、僕は興味を引かれる。そしてこう思うのだ。 僕と同じ種類の人間がいる。 もちろん些細な部分で僕と犯人とは違うだろう。しかしそれでも僕は、そういった猟奇的な事件の犯人になぜか親しいものを感じることがあった。 休憩時間になると、僕の足は化学講義室の方角へ向かった。篠原先生とすれ違うためである。彼は僕のことを覚えており、顔を合わせるたびに片手をあげて挨拶を交わす。細身の体で短い髪の毛の、苦い男である。彼が本当にリストカット事件の犯人なのだろうかという、幾度も教室で繰り返した問いが胸の中をよぎる。 一度、篠原先生と森野が化学講義室の前で立ち話しているところに遭遇した。森野が脇に抱えている本を見て、その続きを自分も持っていると篠原先生は話をしていた。精神薄弱者をあつかったノンフィクション小説だった。森野はいつもの無表情さを崩さず、「そうですか」と答えていた。 教室での僕は、あいかわらずいろいろなことを偽って生活していた。できるだけ目立たない平均的な男子高校生として生きることは簡単ではあった。しかし、心の中は連日のニュースで報道される切断された手のことばかりが占めているというのに、いまどきと呼ばれる言葉遣いを使用して、周囲の人間と芸能人の話題ではしゃいでいるように見せかけるのは、つかれることだった。時々、そうしている自分が愚かであるようにも感じた。 森野は篠原先生の言った通り、頻繁に化学講義室へ通っているようだった。昼休みに講義室を覗くと、静かな空間にただ一人、彼女は座っていた。 森野は必ずいつも一人で行動していた。いじめられている、というわけではない。むしろ逆に、周囲の人間とは自分から縁を切っているような態度で、いつも席についている。自分はみんなとは趣味も嗜好も違うのだ、という雰囲気を無言で発散しているようだった。 「森野って、中学のときに自殺しようとしたらしいぜ」 そうだれかが言っていた。僕はそのことを意識して彼女の白い手を見つめる。なぜ彼女が死のうとしたのかはわからない。しかし、きっと森野にとっては生きにくい世界なのだろう。 もしも僕が周囲への演技をやめたとき、今の彼女のようになるのだろうかと考える。 僕が究極的に無感動で慈悲のない人間だと周囲の者たちが知ったとき、どれほど生きていくことが困難になるのだろう。そして、今の状況とそのときに置かれる立場とを比較して、どちらが孤独かというと、それはたいして変わらないにちがいない。 人形を見つけて三日後、僕はある計画を実行へ移すことにした。
† 3
篠原先生の家は、静かな住宅街の一画にあった。二階建てのどこにでもあるような家で、いかにも薄そうな白い壁は夕日のために黄色く染まっていた。周囲に人気はなく、上空の高いところを飛んでいる飛行横の小さな音が、家々の静かな並びの上を通っていく。 篠原先生は二年生のあるクラスの担任をしている。そのクラスにいた知人を通じて、先生の住所や、彼がそこで一人暮らしをしていることがわかった。 腕時計を見る。今日は木曜日で、先生たちはこの時間、職員室で会議をおこなっているはずである。まだしばらくは学校から帰ってこないはずだった。 周囲にだれもいないことを確認すると、門を抜けて家の裏手にまわった。小さな庭があり、物干し台がある。それだけだ。殺風景で何もない庭だった。雑草や昆虫もいない、ただの平らな地面の空間だ。家の裏手、庭に面したところに大きな窓があった。鍵がかかっていたので、手にタオルを巻きつけて叩き割る。耳をすませて隣の家から人がこないのを確認すると、鍵を開け、靴を脱いで侵入した。 リストカット事件の犯人は、人間の手首を切断し、手を持ち去っている。その後、被害者の手をどうしているのかは知られていない。眺めて楽しんでいると推測する人もいれば、食べているのではないかと言う人もいる。本当のところはわからない。しかし、どのような場合でも犯人は家の中にその証拠を残している可能性がある。篠原先生の家でそれを探すこと、まずはそれが目的だった。 割ったのはリビングの窓だった。割れたガラスの破片が洋間の床に散らばっている。踏んで怪我をしないよう、気をつけて歩いた。家の中は凡帳面に整理されていた。テーブルの上に置かれた雑誌、テレビやビデオのリモコンは、それぞれ整然と並べられている。 できるだけ音をたてないように歩いた。篠原先生が突然に帰ってくる場合のことを僕は心配していた。玄関の鍵穴に鍵が差しこまれる音を聞き逃してはならない。見つかる前に逃げる必要があった。 よく磨かれた廊下を歩く。電気をつけていないため薄暗かったが、窓から入る太陽の光が斜めに廊下を横切って壁を照らしていた。 階段を見つけた。僕は壁や手すりに触れないよう気をつけて階段を上がる。たとえ指紋を残しても、先生がリストカット率件の犯人であるなら警察に通報はしないだろう。しかし、僕がこの家に侵入したのだという形跡を、何一つ残したくはなかった。 二階へ行くと寝室があり、デスクトップのパソコンがあった。棚に本が並んでいる。大きさもそろえられ、定規で測ったように背表紙が連なっていた。埃なども見当たらない。 先生が犯人であることを示すものは何もない。 僕は自分の左手首に、右手の中指と人差し指をあてた。脈拍を測る。平常時よりも速くなっていた。それはつまり、自分が緊張しているという証拠である。僕は深く空気を吸いこみ、心拍を落ちつけるよう努めた。 手首のことを考えた。人間が生きているのか死んでいるのかを医者が確認するとき、手首で脈拍を測る。リストカット事件の被書者たちは、今後、どうやって医者に生死を確認してもらうのだろう。彼らに手首はない。 腕時計を確認する。学校では、ちょうど先生たちの会議が終わっているころだった。篠原先生が寄り道をせずすぐに家へ向かっているとしたら、急がなくてはいけない。 二階にある他の部屋に目を通す。箪笥や棚のある和室が二つあった。しかし、篠原先生が犯人であることを示すような手がかりはない。 部屋を出るたびに、自分が何も忘れ物をしていないことをチェックした。生徒手帳や制服のボタン、教科書や靴下……。何かを落としていることに気づかず、そこから身元が判明するというのは、最悪の失敗に思えた。なぜなら、気をつけていれば防ぐことのできることだからだ。 侵入した形跡を残しておらず、靴下も履いていることを確かめて、僕は一階へ下りた。 台所へ向かった。 篠原先生は自炊するのだろうか。食器の数は少なく、整理されている。流しに洗い物もためていない。台所にあるコップや調理器具など何もかもが、店から買ってきてそのまま使われもせず飾られているような生活感のなさだった。 テーブルの上に炊飯器が載っている。一人暮しをしているには大きすぎるサイズのものだった。先生の家族や、その歴史に関する情報はほとんど持ち合わせていない。もしかすると数年前まで先生以外の家族もいっしょに暮らしていたのかもしれない。それとも、特に炊飯器の大きさになど意味はないのかもしれない。 流しのステンレスは綺麗に磨かれて、窓から入る傾いた太陽を反射していた。電気をつけていない家の中は、時間を追うごとに暗くなっていく。流しに反射する色を帯びた光が唯一の光源となっている。冷蔵庫の低い音だけが辺りにあり、どこか化学講義室と同じ静寂さを感じた。自分の気持ちが静かになっていくのがわかる。 僕は台所の中央で自分の手首をとり、再度、脈拍を測った。左手首の皮膚の下で、血管がゆっくり一定の速度で脈打っている。その膨張と収縮の繰り返しが、指先に伝わってきた。平常時の速度である。 それが思いがけず唐突に速くなった。手首の中で、血管が爆発するように激しく脈打つ。 鼻が異様な臭いを嗅ぎ取っていた。何かが腐り、細菌の餌食になっていく臭いである。それからイメージさせるものが、僕の脈速度を上げていた。 臭いの元を探した。棚の陰や、引出しの奥には何もない。それから冷蔵庫に目をやった。 冷蔵庫の取っ手にハンカチをあてて、指紋をつけないよう注意して引く。冷蔵庫の扉を開けるとき独特の、密閉されていたものを引き剥がす音と感触。異臭が強くなり、僕は、篠原先生がリストカット事件の犯人であるという推測に間違いなかったことを知った。 冷蔵庫の冷えた空気の中、ランプに照らされて、手が並んでいた。冷蔵庫内の棚の上で、こちらがわに指先を向けてふせた状態で置かれている。指とその先端にある爪とが無数に連なり、ピアノの鍵盤のようだった。 奥に白い小皿がいくつかあった。犬や猫のものらしい前足の先端が載っている。化学準備室のごみ箱に入っていた人形の手らしいものが、ドアのポケットに入っていた。ただの小さな布の塊だったが、発見した人形と同じ色の布だったためにかろうじて人形の手だとわかった。 僕は、リストカット事件の犯人が切り取った手を保存しているという推測に以前から賛成していた。根拠はなく、ただ自分ならそうするというだけのことだったが、それは当たっていた。 手のひとつをとる。女性のものだ。爪に剥げかけた赤いマニキュアの跡がある。僕の手のひらの上に、冷たい重さがかかる。 死人の肌を触る。いや、死んではいないのだ。被害者はいずれも生きている。片手を失ったまま生活しているのだ。しかし、切り離された手首から先は、死んでいると考えてもいいはずだ。 手は、右手もあれは、左手もある。爪が変色して黒ずんでいるものもあれば、張りの残っている美しい肌の手もあった。 僕は手を幾度も撫でた。そして、篠原先生の心の一端を垣間見た気がした。おそらく普通の人間には理解できないだろうし、先生も自分以外に理解者の存在など信じないだろう。それでも僕は、篠原先生がだれもいない台所で一人、手を撫でて孤独を癒している様が容易に思い浮かぶのだ。 冷蔵庫の中に手があったことで、篠原先生が犯人であることが間違いなくなった。しかし、僕にはそれを警察に通報するという考えなどなかった。本来はそうするべきなのだろうが、興味がない。 ただ、僕の中には別の目的があった。 自分も、人間から切り取った手が欲しい。篠原先生のコレクションを直接触り、さらに強くそう感じる。 僕は冷蔵庫の中を見まわす。さまざまな手が並んでいる。どれも、今なら取り放題である。もちろんどれでもいいというわけではない。欲しい手は決まっている。しかし僕は目の前にある手をすべて、用意していた袋の中へ入れた。
篠原が勤め先の高校から帰ってきたとき、すでに辺りは暗くなっていた。玄関を抜けて家に上がり、居間へ向かう。そこで異変に気づいた。 窓が割られ、ガラスの破片がリビングの床に散らばっている。開け放たれたままの窓から涼しい外の風が部屋に入りこんでいる。何者かの侵入した形跡である。 すぐに考えは冷蔵庫に保存している手のことへ向かった。台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。 見たものが信じられなかった。朝のうちは賑やかにひしめきあっていた手が、すべて消えている。人間の手、犬猫の手、人形から切り取った手、それらがみんななくなり、冷蔵庫はほとんど空になっていた。残っているのは、手といっしょに入れていたわずかな食料だけである。 何かひっかかるものを感じた。それが何かはわからない。リビングに散らばっているガラスを片付けて綺麗にしなければいけないことと、消えてしまった手首のことで頭は一杯で、正常に思考ができなかった。 二階へ行き、パソコンを起動させて椅子に座る。 何者かが侵入して手を奪った。持って行かれた手のことを考える。 パソコンの載っている机の表面に、透明な水滴が落ちた。それが自分の頬を伝って顎先から落下したものだと知り、いつのまにか自分が泣いていることに篠原は気づいた。 これまでの人生の中で、切断したいくつもの手に触れたときほど、他人と親密に言葉を交わしたことはない。だれかが傍から見れば、自分は無言のまま何をしているのかわからないように思えただろう。しかし篠原は、何も言わない冷たい手の凹凸や弾力に触れることで世界と確かに言葉を交わし合っていた。 呼吸ができないほどの息苦しい怒りに襲われる。警察に通報されることを恐れてはいた。しかしそれよりも、自分から手を奪い去った人間に対する報復の方が重要だった。 手を奪っていった泥棒は、自分のしたことに値する罰を受けなければならない。これまでだれひとり殺さなかったが、その人物は最初の例外になるだろう。 泥棒をつかまえる。篠原は誓った。それからその人物の手首を切断し、手を救出する。後は首を締めるか心臓を刺すかして死に至らしめなくてはいけない。 それにしても犯人をどうやってつきとめればいいのだろう。篠原はパソコンの画面の前で両肘をつき、考えこむ。 キーボードの隙間にある埃が気になった。かたわらにいつも置いている圧縮空気のスプレーに手を伸ばしかける。そこで動きを止めた。自分の目が、キーボードの上であるものを発見した。 間違いない。それは犯人の落としていったものだった。それ以外には考えられない。小さなもので、見落としてしまうところだった。自分が気づいたのも奇跡に近いと篠原は思う。 それから冷蔵庫の中のことを思い出した。先ほど感じた違和感の正体がわかり、笑いがこみあげてくる。手を盗んでいった泥棒は失敗をしている。本当に惜しい間違いをおかした。そのために愚かにも自分の正体を知らせてしまったのだから……。
† 4
次の日の朝、篠原は内切り包丁を鞄に潜ませて勤め先の高校へ来た。いつも手首の切断に用いている包丁である。鞄の中にちょうどそれは収まった。職員室で同僚の教師たちと挨拶を交わすが、だれも鞄の中身には気づかない。 朝の校内は慌しい。職員室の外の廊下を、生徒たちが話をしながら足早に行き交う。もうじき一学期の中間試験がはじまるため、職員室のいくつかの机には、作成した試験問題の紙が置かれている。 同僚の教師が、もう篠原先生は問題を作りましたか、とたずねてきた。それに対して笑みを浮かべて答えを返す。このわずらわしい作業の上で自分の人生は成り立っていると篠原は思う。内心、いらついた。手。手だ。同僚の教師というよりも、手だった。最初に手があって、そこに同僚の教師と篠原の考えている人間がくっついているのだ。だからこのような会話に意味はない。 午前中は授業があり、手を盗み出した泥棒へ会いに行くことはできなかった。しかし、その正体はわかっている。早く捕まえて、冷蔵庫から盗み出した手の在り処を問い詰めなくてはならない。 まだ一晩が経過したばかりである。盗み出された手は、無事にどこかへ保管されていると信じたい。 手の隠し場所がわかったら、肉切り包丁で泥棒の手を切り取らなくてはいけない。体のほかの部分といっしょに、手まで死なせることはできなかった。それならばいっそ自分のものにしたい。 午前中最後の授業を、篠原は自分の担任するクラスを教えて過ごした。教室中の無数の手が、篠原の書いた黒板の文字をノートに書き写す。篠原のクラスには四十二人の生徒がいるため、手の数は八十四個ある。 篠原は試験範囲を説明しながら、冷蔵庫の中から盗み出されていた手について考えていた。 泥棒は食材だけ冷蔵庫に残したまま、手だけをすべて持ち去った。最初は気づかなかったが、そこがあまりにも不可解だ。 やがて、授業の終わりを示すチャイムが響く。高校はこの瞬間に午前中の授業をすべて終え、昼休みへと移る。 篠原は授業を終えて教室を出る。包丁の入った鞄は職員室に置いていた。それを取りに行く。 昼休みに入ったばかりの廊下は、一日のうちでもっとも騒々しく、賑やかである。もちろんそれらはすべて、篠原にとっては雑音にすぎない。 職員室でしばらく時間をおき、篠原は化学講義室へ向かった。
†
僕は昼休みになると化学講義室へ向かった。扉を開けて中を確認すると、だれもいなかった。入って扉を閉める。校内の騒々しさから切り離され、化学講義室は、時間の止まったような静かな空間となる。 手首で脈拍を測ると、全力で走った後と同じ速度で血管が脈打っているのがわかる。自分の肌が固く張りつめており、それは僕が緊張しているからだった。 篠原先生は昨日、家に帰りついてからどうしただろう。手を盗まれているのを知り、どう思っただろう。怒りのために何も判断できない状態になっただろうか……。すべては推測するしかない。 午前中は篠原先生に会わなかったが、もしも会っていれは、知らないふりをしてやりすごすつもりだった。気をつけなければいけない。何かおかしな仕草をしてしまえば、たちまちすべてを見通される危険があった。しかしまだ、僕が手を盗んだことには気づかれていないと思う。もちろんそれは、たんなる希望でしかない。 ……もしかすると僕は、自分で気づいていないだけで何かミスをおかしているのかもしれない。しかしそれが何かは当然わからないのだ。もしもミスがあり、それが何なのかを復讐心にかられた篠原先生に指摘されることがあるとすれば、それは高い確率で僕の命が危険である瞬間だろう。 薄暗い無人の化学講義室内を眺めてそう考えていたとき、化学講義室の扉の前に、だれかの立つ気配がした。
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篠原は化学講義室の扉を開ける。一人の生徒が見えた。その顔を見た瞬間、激しい衝動を感じた。 ぶちのめしたい。胸に膨れ上がる感情を押さえつけ、軽くあいさつをする。まずは知らないふりをして近づこうと考えていた。 その生徒が篠原を見る。 「こんにちは先生」 何気ない、いつもと同じ様子である。しかし内心では自分のことを笑っているのだろうと篠原は思う。この生徒はこうやって演技をして自分に近づくことで、楽しんでいるに |