何も言わずに私がいなくなると、あなたは何も知らないままになってしまうから、ちゃんと言わなくちゃね……。
テープはそこで無音になった。 続いて、姉の声ではない、聞き覚えのある少年の声が再生された。
……北沢夏海さん、十二月三日の夜十一時に、博子さんの死んだ病院の廃墟まで一人で来てくだきい。場所は知っていますね。死体の発見された部屋ですよ。そこで、テープの続きをお渡しします。
彼の声を最後に、録音は終わっていた。
二本目のテープを開いた二日後、十二月三日はすぐに訪れた。私はその間、警察へ行くわけでもなく普通の生活を送った。学校へ行き、受験の勉強をする。 一日の授業が終わって教室を出ようとするとき、仲のいい友人が廊下で私を呼びとめた。 「夏海、今度の日曜にどこかへ遊びに行こう」 姉が死んで以来、私があまり笑わなくなったのを、その友人は気にしてくれていた。私を元気付けようと、声をかけてくれる。 「うん、いいよ。……でも、行けなくなったときは、ごめん」 「夏海、そのころなにか用事でもあるの?」 友人は首をかしげて聞いた。 用事はない。しかし今夜、必ず生きて帰ることができるという保証はなかった。私は、録音されていた少年の言葉に従うつもりだった。二日前の夜、テープを聞き終えた直後に、そのことは決定していた。 廃墟へ行ったら、姉の声を録音したテープが聞けるかもしれない。しかしそのかわり、生きて帰れるかどうかわからない。彼が何のために私を呼び出すのか意図が見えない。私はその場で殺されるかもしれないのだ。 「用事、というほどのことでもないんだけど」 そう返事をしながら、目の前にいる友人を私は不意に抱きしめたくなった。彼女はこれからどのような人生を歩むのだろう。つい最近まで、私たちはどこにでもいる普通の人間だった。あくびをしながら高校に登校し、黒板の文字をノートに書き写す生活を続けていた。これからも似たような日々を送るのだと思っていた。それは、なんて平凡で、幸福な日々なのだろう。 しかし、もう自分にそのような日がくるとは考えられなかった。穏やかな日常生活を送るには、あまりにも深く私は死と関わってしまった気がする。それでも目の前にいる友人には未来が待ちうけていて、もしかすると今ここでわかれたのを最後に二度と会えないかもしれないと考えると、愛しくなった。 「じゃあ、また明日ね」 私は手をふって友人にわかれを告げた。 校舎を出ると、十二月の冷たい風が頬を打った。まだ日は落ちていなかったが、空一面に鉛色の雲がかかっており、辺りは薄暗かった。コートの前を重ね、足元を見ながら歩いた。 校門の辺りで携帯電話が鳴った。樹からだった。 「今? 学校が終わって、ちょうど校門を出ようとしたところよ」 私は校門のそばに立ち止まって、電話の向こう側にいる彼と話をする。学校前の道は車の通りが激しかった。その音と、風の音とで、会話はしばしば遮られた。 「え、なんて言ったの? よく聞こえない」 声をはりあげて、聞き返す。 「あ、うん……。この前は、どうもありがとう。なんでもないよ、大丈夫……」 彼とも、この電話が最後になるのかもしれない。そう思うと、周囲の雑音に負けないよう大きな声で電話しながら泣きそうになる。樹とは中学生のときにはじめて会い、姉と弟のように親しくしていた。 「もっと大きな声でしゃべって……」 雑音でかすれがちに聞こえる樹の声を、私は目を閉じて聞いた。 「だから平気だってば、うん、心配かけてごめん。え? 泣いてなんかいないわよ……」 そして私と樹の、短い会話が終わった。 家へ帰る電車内で時間を確認すると、午後五時だった。駅までの道のりで太陽は沈み、電車の窓には暗闇しか見えなくなっていた。あの少年との待ち合わせの時刻まで六時間ある。 なぜかわからないが、激しい恐怖のために体が震えるといったことはなかった。心の中は静かで、私は目を閉じて電車の振動を感じていた。自分に訪れるかもしれない危険に対して、すでに麻痺してしまっているのかもしれない。レストランで見せられた姉の歯は、麻酔だったのだ。いつのまにかじわじわときいてきて、私の中から現実の感覚を失わせている。 私はあの少年に対して抵抗することなど考えていなかった。武器を持って身を守ることも、だれかにこのことを知らせることもせずに廃墟へ行くつもりだった。ただ姉の声を聞ければいいという、それだけの気持ちしかなかった。他にはなにも必要ない。たとえ、あの少年が私に危害を加えるつもりだったとしてもだ。 今日も両親は玄関の施錠を忘れていた。家に入り、帰ってきたことを両親に告げる。 母は和室で、洗濯し終えた服をたたんでいた。私が声をかけると、おかえり、と弱々しい笑みを浮かべた。これ以上、ほんの少しの力が加わるだけで崩れ去ってしまうような、脆い表情だった。 父は居間で、うなだれるような格好で炬燵に入っていた。表情は見えなかった、幼かったとき、私と姉は父の腕にぶらさがって遊んだ。それは遠い過去のことなのだと、小さく見える背中が教えてくれた。 「お父さん、ただいま……」 私はそばに膝をついて言った。返事がなかったので、寝ているのだと思った。そのままにして私は去ろうとする。 「……夏海」 父に呼びとめられた。 「その……、心配かけてごめんな……」 「なに言ってるの」 今日、私は友達に何度、父と同じことを言ったことか。 「おまえと博子が似ている、といろんな人が言っていたけど……、最近になってようやく、そのことがわかるようになったんだ。博子が生きていたときはあまり感じなかったけど、おまえだけになってみると、たしかにそうだな……」 父は顔をあげて、私を見た。ときどき私を、死んだはずの姉と間違う瞬間があったと、父は言った。その目は、やさしさと悲しみが入り混じっていた。 「しかし夏海、おまえ、今、学校から戻ってきたのか?」 私が頷くと、父は訝しげな顔をした。 「さっき、階段を上がるだれかの足音を聞いたような気が……」 「お母さんじゃなかったの?」 「ここにいたから違う」 その足音は、チャイムを鳴らさずに家へ入ったので、娘のものだと思ったらしい。 私は階段を上がって自分の部屋に向かった。 部屋の中から、テープが消えていた。おそらく少年が家に入って持ち去ったのだろう。それは容易に想像がついた。 今夜、私が廃墟から戻らないといったことになれば、警察は私の部屋にあるテープを調べるだろう。そして彼のことを知るにちがいない。そうなるのを防ぐために持ち去ったのだ。 つまり、彼は私を無事に帰すつもりがないということだ。 全身から力が抜けていくような気がして、椅子に腰掛けた。この二日間、自分は殺されるかもしれないという予感はあった。それがたった今、明確な彼の意思としてはじめてつきつけられたのだ。 テープの声に従って廃墟へ行けは、私は死ぬ。 死、とはいったい何なのだろう。あの少年は、死だけがこの世界で感じられる唯一の存在だと言う。吸血鬼が血を吸うように、彼は人の死を味わうのだ。 私はしばらくの間、椅子に座ったまま動かなかった。静寂だけがあった。姉が彼に殺される場面を私は想像する。そのうちに姉の顔は私の顔へとすりかわっていた。しかし、思ったほどの精神的な衝撃はなかった。 以前の私にとって、生と死の境界は明確に存在した。自分は生きている。姉も、両親も、みんな生きている。そうはっきりしていた。 しかし今の私にとって、その境界は曖昧になっていた。白と黒の混じった灰色の場所に私は立っている。姉の死体を間近で見た両親も同じだ。片足を死の世界に踏み入れて、そこから動けなくなった。 そして姉……。姉は確かに死んだ。だが、私にとって録音された彼女の声は生きているとも言えるのだ。テープの中に存在する姉は、今も呼吸し、何かを考え、言葉を発しようとして、私がくるのを待っている……。 生と死をわけ隔てるものがいったい何なのか私にはわからない。しかし、今、その境界上に自分は立っている。 「夏海」 階下から名前を呼ばれた。母の声だった。 「夕食よ」 私は立ちあがり、「今、行く」と返事をしようとした。私が行かなければ、父と母、二人だけの夕食になる。それでは隙間が多いだろう。 姉に残された私たち三人は、それぞれがたがたの状態になりながら、食事だけはできるだけいっしょにとっていた。一個だけ余った椅子を先にして明るい会話もなかったが、食卓は、家族の存在を確かめる最後の砦だった。 しかし私は、立ちあがりかけて、途中で動きを止めた。 「夏海……?」 私の返事がないことを不審に思ったのだろう。母の声が、階段の下から響いてくる。 先ほどの父の表情を思い出しながら、もしも今、二人と食卓を囲んだら、廃墟へ行く気持ちは確実になくなるだろうと思った。私が帰ってこなければ、父母はこの先どうやって生きていくのだろう。そう思うと、愛情なのか、憐れさなのかわからないものが、鎖のように私の動きを封じこめる。 「ごはんは……?」 母の声を聞きながら|逡《しゅん》|巡《じゅん》する。 そのうちに私の目が、机の上に転がっていた小さな筒状のものを発見する。吸いこまれるようにそれを見つめた。姉の部屋から以前に持ち出した、血のように赤い口紅だった。 私は目を閉じ、そして決断を下した。再び椅子へ、静かに腰をおろす。 「……今日は、おなかすいてないから、いらない」 部屋の扉は閉まっていて、階段の下の母が見えていたわけではない。しかし気配はわかる。返事を聞いて、少しの間、母は動かずに私の部屋を見上げていた。 罪悪感が心臓を貫く痛みに、私は胸を押さえて耐えた。二階から娘が降りてこないのを知り、母が肩を下として階段の下から去る。その様子が見えるようだった。 椅子に座ったまま、心の中で何度も両親に詫びた。しかし、どんなに請うても、自分の決断が許されるとは思えなかった。私は親不孝だ。両親を残して、廃墟へ向かうつもりなのだから。
† 4
夜がふけたころ、私は起きてコートを着た。 棚に飾っている兎の人形を手にとる。子供のころから大事にしていたものだった。頭を手で撫でると、柔らかい感触が肌の上を通りすぎた。部屋中に、小さなころから大切にしていたものがあった。それらに心の中で別れを告げる。人形を棚に戻し、姉の口紅をコートのポケットに忍ばせた。自分の決心を忘れないため、持っていくことにした。 懐中電灯を携え、両親に気づかれないよう静かに家を出る。呼びとめられていたら廃墟へは行かなかっただろう。しかし私を止める声はなかった。 姉の死体の見つかった廃墟は、家から自転車で二十分ほど離れた場所にあった。街灯ひとつない国道を私は進んだ。辺りは暗闇が続いており、私の乗る赤い自転車のライトだけが唯一、光を発していた。 姉と共同で使用していた自転車だった。どこかでぶつけたのか、籠が多少、歪んでいた。私がやったという記憶はないから、犯人は姉だろう。赤い自転車、というところから、私は童話の『赤ずきんちゃん』を思い出した。まるで自分は主人公の少女のようだ。ただし、狼がいることを知った上でおばあさんの家に向かっている。 夜空の方が周囲よりも明るかった。おかげで、黒い大地と空の境目は明確に見える。山の方角へアスファルトの道路を進むと、途中で砂利のわき道がある。私はそこで自転車を降りた。道の途中に金網が張ってあり、懐中電灯で照らすと、『立入禁止』と書かれた看板が浮かび上がる。 その向こう側に病院の廃墟はあるはずだった。しかし懐中電灯の光は届かず、なにも見えない。暗闇の中に光はすいこまれてかき消える。周辺には明かりを点すような店舗や民家がなく、枯れた草だけが生い茂っていた。風はなく、細長い草はゆらぎもせず静かだった。 私はその場に自転車を置いて、懐中電灯だけを持って金網に近づいた。靴の裏側で、砂利道を踏みしめる音がする。私の吐き出した息が白くなり、すぐに消えた。金網は、砂利道のところだけ開閉式の扉のようになっている。押してみると、造作もなく開いた。私はそこを抜けて、奥へ進んだ。 姉は殺された夜、どのようにして敷地へ入ったのだろう。今の私のように、歩いて金網を通りぬけたのだろうか。少年に刃物かなにかをつきつけられて、そうすることを強要されたのかもしれない。それとも、気絶させられるか、身動きできない状態にされて、ここに選ばれたのだろうか。彼女にとって廃墟に通じるこの道は、最終的に進むだけの一方通行となってしまった。 かつて駐車場だったのだろうか。広い空間に出た。乾燥した冷たい土と小石の覆った地面に、私の持った懐中電灯の帯が細長く伸びる。その先に、巨大な白いコンクリートの塊があった。二階建てで、夜空を背負うように建っている。病院だった建物は、外側だけになり、まるで死んだ後も骨だけ残った恐竜の化石のようだった。 病院の入り口を抜けて中に入る。入り口は、かつてガラス製のドアかなにかはまっていたのかもしれないが、今はただ四角い口が虚ろに開いているだけだ。病院のロビーらしい場所を電灯で照らす。およそ原形をとどめていないようなベンチが片隅に積まれ、コンクリートの破片がいたるところに転がっていた。電灯の丸い明かりが壁を暗闇の中に浮かび上がらせると、そこにはカラースプレーで描かれた落書きの跡があった。 息苦しく、私の呼吸は浅くなっていた。頭上を、天井がどこまでも続いている。その圧迫感で、たえず頭を上から押さえつけられている気がする。天井のところどころに、蛍光灯のはまっていたらしい跡があった。その下には割れて破片となった蛍光灯が落ちており、踏みしめたときに出るガラスの砕ける音でそのことに気づいた。 暗闇の奥へ、廊下はどこまでも続いている。姉の死体が見つかった部屋を目指して、私は進んだ。おおまかな場所は話に聞いて知っていた。一階の奥にある部屋で、彼女は見つかったのだ。 手術室。そう書かれた案内の表示に従って私は進んだ。足音は壁面に反響して、冬の冷たい空気を震わせた。 やがて私は廊下の突き当たりにその部屋を見つけた。かつてドアのはまっていたらしい入り口は、ただの四角い穴になって奥に時間を湛えている。以前は何重にもドアがあったのだろうか。ひとつ入り口をくぐったところに、またひとつ同じような四角の口があった。そこを抜けると、広い空間へ出た。 電灯の丸い明かりを周囲にめぐらせる。冷たくて、心の奥底から凍えてくるような寂しい気配に満ちていた。小石の転がる音さえ響くような静けさで、暗闇の奥から、孤独な魂のすすり泣きが聞こえてくるようだった。 手を洗う場所らしい、細長い洗面台がある。壁に、いくつか小部屋の入り口があった。それらは開閉式の扉になっており、奥が手術を行なう場所となっているらしい。小部屋は、全部で三つある。ひと部屋ずつ電灯で調べていくことにした。 どこにも人の気配はなかった。小部屋は一辺が五メートルもない広さをしていた。最初に調べた二つの小部屋は、殺風景で何もなかったが、三つ目の、もっとも奥まったところに位置していた小部屋の扉を開けた時、私は奇妙な雰囲気を感じて足を止めた。 そこだけ他の場所よりもやけに暗く、闇が濃かった。火事でもあったように、壁や天井、床がところどころ黒い。 部屋の中に入り、だれもいないことを確認した。扉は支えていないと勝手に閉まるようにできており、私が通りぬけると、ゆっくり閉じた。壁際にボンベらしいものが寄せてあり、鎖で倒れないよう固定してあった。中央に、いたるところ錆びた金属製のベッドがある。いや、それは手術台というものだろうか。 私は、気づいた。壁や天井は煤けていたのではなかった。それらの黒い染みは、中央の台から広がって、私の靴が踏んでいる床まで黒く染めていた。手術室の床一面を侵食し、入り口から外にまではみ出している。 私はいつのまにか後ずさりして壁に背中をつけていた。懐中電灯を持っていないほうの手で口を押さえ、必死で悲鳴をこらえる。おそらく黒い染みは、二ヶ月前に流れた姉の血だった。 暗闇の中で、一瞬、見た気がした。警察が拾い集めたという、かつて人間の形をしていた姉の体が、黒い染みの中に散らばっているのを……。
夏海……。 ねえ、夏海、この声はあなたに届いているのかしら……。
唐突に、すぐそばで姉の声がした。それは一本目のテープに録音されていたいちばん初めの言葉だった。懐中電灯を部屋の入り口に向ける。丸い光の中で、扉が閉まろうとしている。たった今、そこをだれかが通りぬけたらしい。 「北沢夏海さん」 あの少年の声が、台をはさんで私とは反対側の壁際から聞こえてきた。唐突に、その一画が明るくなり、私はまぶしさで目を細める。 逆光の中、少年が立っていた。学生服ではないが、上下ともに黒い服を着ている。ライトを片手に持っており、それは私の懐中電灯よりもはるかに明るく部屋の中を照らし出していた。もう片方の手には黒いラジカセを持っている。小型のもので、姉の声はそのスピーカーから聞こえていた。
……その彼が、録音されたテープを、後であなたあてに届けると言ったの……。送り届けて、私の言葉を託された人の反応を見て楽しむのだそう……。
姉の声は再生され続けている。音量は大きい。憔悴した姉の息遣い、呼吸の音が、コンクリートの壁面でわずかに反響しながら、血の染みに覆われた部屋に満ちていく。他の場所よりも一段と黒く汚れている中央の手術台を見る。ほとんどなにもない部屋の中、ライトに照らされて濃い影をつけていた。 「博子さんはこの台の上でテープに声を吹きこみました」 少年はライトとラジカセを部屋の片隅に置いて台のそばに立った。黒い染みのついた部分を、手のひらでそっと撫でる。慈しむような手つきだった。 「……なぜ、私をここまで呼び出したの?」 私の声は震えた。 手術台は、もともと表面に黒い革が張ってあったらしい。しかし今は剥がれてしまって一部分しか残っていない。何かで切り裂かれた跡があり、金属製の部分が露出している。黒い染みはそれら一面を覆い、少年の指先は舐めるようにその上を移動する。ざらざらと、指の腹と血の染みのこすれあう昔が聞こえてくるようだった。自分が触れられているようで、鳥肌がたつ。 「さきほど博子さんがおっしゃったでしょう。テープを聞いたあなたがどんな反応をするのか、僕はそこに興味がありました」 少年はそう言うと、私を見つめながら、手術台を片手で二回そっと叩く。無言の中での、静かな動作だった。しかし彼の目が、こちらへおいでと私に語りかけていた。 私は壁に背中をつけ、ゆっくりと、首を横に振った。彼に近づけば私は死ぬだろう。姉のように、殺されるにちがいない。しかし、彼の意思を退けたのは、恐怖からではなかった。 手術台と、その傍らで静かにたたずんでいる少年の姿は、ライトの光のため、暗闇の中で浮かんでいるように見えた。少年の横顔は白く輝き、私の目に神々しく映る。恐怖というよりも、むしろ畏怖に近いものが私の心にあった。どんな意味もなく、無条件で、不条理な死を人間にもたらす高い位の存在として感じられた。
ねえ、私が時々、あなたを傷つけるようなことを言って、困らせてしまったのを覚えているでしょう……。
「夏海さん、こっちへ……」 少年が言った。手術台に上がれと、命じている。台までは三歩程度の距離しかない。彼が素早く動けば、私などかんたんに捕まえて、身動きできなくさせられるはずだ。しかし彼は、決して動かなかった。私から手術台に歩み寄るのを待っている。 足が、一瞬、彼の望んだ通り台の方向へ進みかけた。心の奥に、不思議と、そうしなければならないという気持ちがある。そのことを自覚して、動揺した。 自ら近づいていくなんて、どうかしている。壁に背中をつけたまま、困惑して少年を見つめる。彼は、諭すように言った。 「夏海さん、あなたはもう気づいているはずです……」 何に……? 首を傾げて、私は問う。 「あなたは僕に殺される……。そして、そうされることを、すでに決断している……」 姉の震える声、息遣いが、私と少年の間に流れている。少年はほとんどまばたきをせずに私の瞳を見つめている。まるで、頭の中が覗き見られているような、透過性の高い視線だった。 「あなたは、死に魅入られた……。同時に、自分から近づいた……」 「……そんなこと、ないわ」 私は否定する。少年は、目を細めた。 「僕は、死というものを、『失われること』だととらえています……」 静かな口調だった。 「死の瞬間、その人と、その周期にあるものすべての関係が断たれる……。好きだった人や、執着していたものとのつながりが消える……。太陽や風、暗闇や沈黙とも、もう会えなくなる……。喜び、悲しみ、幸福、絶望、それらと自分との間にあった関係性の一切は失われる……。夏海さん、あなたがここに来るとき、どのような決断を下したのか、僕には手にとるようにわかりますよ……」 私は額を押さえた。握っていたはずの懐中電灯は、いつのまにか下に転がっていた。両親や樹、クラスメイトや赤木さんの顔が頭に思い浮かぶ。 「ここへ来るのはつらかったでしょうね……。でもあなたは、すでに決断済みなのです……。自分が帰れなかったとき、父親や母親がどれほど悲しむのかをわかっていながら、あなたはここへ来た。関係を断ち切り、心の中でわかれをつぶやいて、死人の声を求めた……」 私を動揺させる的確な場所を、少年は言葉で貫いた。声にならないものが、私の口から流れ出る。悲鳴とも、うめきともつかないものだった。手で額を押さえつけ、私は耐える。
……夏海、私があなたにつらくあたってしまったのは、本当に些細なことなの。それは、赤木さんのこと……。
私のしたことは、長女を失って傷ついている両親を、見捨てたのと同じだ。その罪悪感が、炎となって私の心を焼き尽くす。 「二本目のテープを渡して、今日までに二日の空き時間がありましたね。その間、あなたは何人の人に、心の中で別れを告げましたか……。あなたが、自分の人生に関わってきたものに対してひとつずつさようならを言うたびに、一歩ずつ、自ら死に近づいていたのですよ……」 私は、ようやく気づいた。少年に会って以降、私の行なっていたすべてのことは、緩慢な自殺だったのだ。両親を残して家を出てきたとき、引き返すことのできる最後の地点は通り過ぎてしまった。私をこの世につなぎとめておく、もっとも太い鎖を、自ら断ち切ってここへ来ることを選んだのだ。
ねえ夏海、私と赤木さんがどうやって知り合ったのか、一度も話していなかったわね……。
「私は……」 頭を押さえていた手を下ろし、自分の周囲を見る。コンクリートの冷たい部屋に、虚ろな闇がある。血のついた手術台と少年があるだけで、他に何もない、寂しい場所だった。 足が、動いた。背中が壁から離れて、手術台の方に近づく。 自分の人生にあったいろいろなものを、私は自ら捨てた。姉の声以外の、すべてのものに執着をなくしていた。私という人間は、それで生きていると言えるのだろうか。もはや肉体が生命活動をしているだけで、半分以上は死の世界に足を踏み入れているのではないだろうか。
あるとき、街中で声をかけられたの。同じ大学に通っているってことを知ったのは、その後よ……。
気づくと、手術台をはさんで少年と向かい合っていた。彼は一切、身動きすることなく、言葉だけで私の中から躊躇いを取り除いたのだ。 少年がすぐそばから私を見つめる。背丈の差から、わずかに見下ろすような格好だった。 「夏海さんの存在をはじめて知ったのは、博子さんがここで、テープに声を吹き込んだときでした。それ以来、いつかあなたに会ってみようと思っていましたよ」 囁くような声だった。 「本当に似ていると思います……」 ラジカセから出る姉の声が、静かな廃墟に響いて消える。 「あなたが私にテープを渡して、なぜここへ呼び寄せる必要があったのか、ようやくわかった……」 私がそう言うと、彼は興味深そうな顔をした。 「あなたは、遊びのためにこんなことをしたのではなかったのね。遊戯性を求めたのではない……。あなたはレストランで言ったわ。まわりにいる人々の会話が脚本のようだ、すべてが偽りに思えるって……。そして、死だけが存在を感じられるって……」
……でも、つきあいはじめてから赤木さんが言ったの。私がよく本屋にいるのを見て、以前から気になっていたって……。いつも歴史小説の棚の前にいたでしょう、よく着ていた白い毛糸の上着はどうしたのって……。
この少年は人を殺した。そのことに対する罪悪感も、おそらく抱いてはいないだろう。決して同情などしてはいけない。それでも、私は彼が少しかわいそうに思えた。 「あなたは、死を甘受してでも私が姉との関係を取り戻そうとするのか試したかったのね……。自分に理解できないものを、わかろうとしていたんだわ……」 彼は無表情にしばらく私の顔を見つめていた。言葉はなく、姉の声だけが辺りに響いていた。どのような感情が彼の中にあったのか、推し量ることはできなかった。
……わかったでしょう。赤木さんは、最初、あなたを見ていたの。 やがて、彼は手術台に両手を載せた。 夏海さん、この上に座って……。 私は恐怖することなく、姉の血のついた台へ腰掛ける。少年に背中を向けた格好だった。背後に立つ少年の存在を強く感じる。 ジーンズの生地を通り抜けて、手術台の冷たさが伝わってくる。これから死ぬというのに、凪いだ海のような、穏やかな気持ちだった。 両手は、手術台の縁を握っていた。姉の血の固まったものがこびりついている。体が動かなかった。あるいは、動かそうという気持ちがないから、そう感じたのかもしれない。指先から冷たく、硬くなっていく。 背後からライトの光を浴びる。正面を見ると、コンクリートの灰色の壁に、台に座る私の形が大きく写し出されていた。それに半分ほど重なって、立っている少年の形もある。
私たちはそのころ、いつも同じ格好をして、似ていると言われていたでしょう……。それで赤木さんは、あなたと間違えて、私にある日、声をかけたというわけ……。
少年の影が、動いた。腕が持ちあがり、座っている私の影に覆い被さる。 視界が彼の腕によって遮られ、何も見えなくなった。完全な闇の世界である。背後から抱きすくめられていた。首に片腕が巻きつけられ、もう一方の腕が顔を覆っている。力をこめられれば、私の首の骨は音をたてて砕けるだろう。私の吐き出す息が、顔を覆う彼の腕に当たる。そのため、自分の息の熱さを感じる。背中に、少年の胸が密着していた。服越しに、体温を感じた。 「お願い……、姉さんの声を最後まで聞かせて……」 姉の声は、少年の腕越しに耳へ届いていた。赤木さんの話は初耳だった。からまっていた糸がほぐれるように、姉がなぜ私にあのような態度をとっていたのか少しずつわかりかけていた。 首に巻かれた腕の関節が、骨の具合を確かめるように、締まったり、ゆるくなったりを繰り返す。顔を覆う腕も、骨を砕く瞬間に備えている。短距離走の選手が準備運動として手足を動かすように、私の頭をゆっくりと左右に動かした。 私は、自分の首が、細い草花の茎に思えた。糸のような茎は、花を摘み取るとき、たやすく折れるだろう。
……そのことがわかったあとでも、私たちの間には、何も問題は起こらなかった。それはたんなるきっかけでしかなくて、結果的に恋をしたのは、私と赤木さんだったのだから。彼は私の内面を好きになってくれた……。 ……でも、不安だったの。
姉の静かな声に、私の胸は痛みを覚えた。 「あなたの言う通りかもしれません……」 少年が静かにつぶやいた。彼の声は、抱きしめられた私の頭のすぐそば、ほとんど耳元で聞こえた。声を出したときの、少年の胸の振動が、密着した背中から感じられた。私の心臓が、高鳴った。 「次の被害者になる候補は二人いました……。一人は北沢夏海さん、そしてもう一人は、同じ高校に通っている女子生徒の……」 「……森野さん? いっしょに歩いていた……」 私の声は、彼の腕に遮られてくぐもる。次第に速くなっていく心臓のため、血管を大量の血液が通りすぎるのを感じた。軽く圧迫を受ける首で、血管が脈を打つ。頭が、熱くなっていく。 「神山樹くんに名前を聞いたのですね……。二人の候補の中から、最終的にあなたを選んだのは、さきほどあなたのお話しした理由が、心のどこかにあったからなのかもしれない……」 耳元で聞こえる彼の声は、私に聞かせるというより、自問自答するような響きを持っていた。彼自身も、はっきりと自分の心の中を知らないのではないだろうか。そう思ったとき、不思議なことに、私はまるで彼のことを友達のように感じた。
赤木さんにも、最後までだまってた……。彼が見ていたのは、私ではなくて、実はあなただったってこと……。どうしても言えなかった……。
私は姉の、何を見ていたのだろう。少年の腕の中で姉の独白を聞きながら、その思いが次第に膨れ上がる。 姉は私と違っていつも自信に満ちた人なのだと思っていた。明るく、堂々としていて、だれからも好かれる力を持った強い人だとも思っていた。 でも、おそらくそうではなかったのだ……。
あなたを正視できなかった……。やっぱり、私とあなたは、似ているのだもの……。私は苛立って、あなたにつらくあたってしまった……。あなたの姿から遠ざかるように、髪型や服装を変えたわ……。 あなたの、赤木さんに対する気持ちにも気づいていたから……。
本当の姉は、不安と心細さにいつも耐えていたにちがいない。赤木さんや私に打ち明けることができず、ずっと秘密を胸に抱えていたのだ。ポケットに入っている口紅……、彼女は怯える自分を他人から隠すために、それを唇へ塗っていたのだ。 生きているときに気づきたかった。もしそれを知っていれば、抱きしめて、不安に思うことなど何もないのだと言ってあげることができたはずだ。 彼の腕の関節が、締まる。準備運動は終わったらしい。力強く私の頭を抱きしめた。かき抱かれるように、私の頭は彼の腕の中に収まっている。闇の中で私は、これから殺されるというよりも、愛しさのために抱擁されているような気分になる。 姉の声が終わったとき、私の首は勢い良くひねられるのだろう。締まっている首と、ひねられた頭との間で、首の骨は耐えきれず、鈍い音をたてて砕けるのだろう。彼がそのタイミングで殺すつもりだということが、なぜだか理解できた。
今、こうやって最後の言葉を録音していて、後悔がおしよせるの……。あなたに告白できるときが、もっと何ヶ月も前だったらよかったのに……。
彼の腕に目隠しをされた状態で、自分の心臓の昔が、次第に大きくなっていく。血を全身に送るポンプの激しい音は、姉の声に重なってもはっきり聞こえていた。 少年の心音もわかる。背中越しに、彼の心臓の鼓動が伝わってくる。私は、泣きたいような、胸の締めつけられるような気持ちになった。彼に対して、もはや憎しみも、怒りも抱いていなかった。死と同じで、避け難いもののように彼を感じていた。 姉の告白は終わりに近づいている。そのことが、姉の声の高まりや、少年の腕の緊張から感じられた。 テープを聞くことができて、良かったと思う。 「ここで私を殺すから、あなたはうちに入ってテープを取り戻したのね……。私が家に帰らなかったとき、警察がテープを発見しないように……」 姉の声を一言も開き逃すまいと注意しながら私は言った。姉は人生の最後に、私にこの声を残してくれたのだ。だから、テープを最後まで聞くことは、私に課せられた使命だと思う。
……でも、時間はもう元には戻らない。夏海、私はあなたが好きだった。
「夏海さん……」 少年の声が聞こえる。同時に、私の首へ巻かれていた腕がゆるんだ。筋肉の緊張が消え、弛緩する。予想外だったので、私は彼の行動に戸惑った。 「僕はあなたの家に入っていない……」 彼は言った。すぐには言葉の意味がわからなかった。テープを持ち去ったのは、あなたではない……? そう聞き返そうとしたとき、唐突に、手術室の入り口の開閉する音が聞こえた。 だれかが部屋に入ってきたらしい。 ゆるんだとはいえ、私の顔にはあいかわらず少年の腕がかぶさっており、目隠しされた状態だった。したがって、三人目の人間の姿を見ることはできなかった。腕を押しのけるために動くこともできず、私は、部屋に入ってきた人物の足音が移動するのを闇の中で聞いていた。 「だれ……?」 私の声はかすれた。 足音は、入り口を抜けた後、私と少年のいる手術台の脇を通りすぎた。古い、埃のたまったリノリウムの床が、靴の踵を受けて音を出す。 少年が、ゆっくりと、私の顔や首に巻きつけていた腕を解き放つ。私は自由になった。彼の腕で闇に覆われていた視界が元に戻ると、目の前の壁に、三つの人影が写し出されているのを見た。
あなたを悲しませることを言ったのは、あなたが悪かったからじゃない……。
私でも、少年でもない、三つ目の影が、腰を屈める。ラジカセの停止ボタンが押される音。同時に、姉の声が聞こえなくなった。手術室内は、静寂となる。 私は台に腰掛けたまま首をめぐらせた。私の背後に少年が立っており、彼も振りかえって後ろを見ている。少年の向こう側、壁のすぐそばに、樹がいた。樹は、下に置かれていたラジカセの停止ボタンから、人差し指を離すところだった。 「テープを持ち去ったのは俺です、先輩……」 もう聞けないと思っていた彼の声だった。なぜここにいるのだろう。私は幻覚を見ているのだろうか。しかし、彼はたしかに存在し、ライトによる影が壁に写し出されている。決して幻ではない。 「病院内は広くて、探すのに苦労しました……。博子さんの声が聞こえなけれは、二人がどこにいるのかわからなかったかもしれない……」 夕方に彼からもらった電話を思い出す。電話で私は、自分が学校の前にいることを話した。なぜなら彼が電話の向こうで、私の居場所をたずねたからだ。部屋に入りこんでいる間、私が帰ってこないかどうかを、彼は確認していたのかもしれない。 レストランで私は、両親がよく玄関の鍵をかけ忘れると話した。だから堂々と侵入できたのだ。そして偶然、私の部屋に奇妙な題名のつけられたカセットテープを発見した。そう考えれば、どうしてこの場所にいるのかもわかる。この場所と時間の指定は、二本目のテープの最後に録音されていたからだ。 「神山君、ひさしぶり……」 背後に立っていた少年は、そう言うと私の左肩に手を置いた。熱のある手のひらだった。それから、手術台のそばから離れて樹と向かい合う位置に移動する。肩に置かれた手も離れて遠ざかる。私はその間、動くこときえできなかった。樹を振りかえった格好で固まっていた。 「こんばんは**君」 樹は少年の名前を口にして、そのまま彼から目を離さない。その横顔は、まるで私がこの部屋にいることなど忘れてしまったかのようだった。 二人は部屋の両端に立ち、無言で向かい合っている。手術室内は、音のない緊張に包まれた。耳が痛くなるような静寂だった。 それまで部屋にあった姉の声を私は求めた。手術台に座ったまま、視線を樹の足元に向ける。テープの止まったラジカセがあった。 手術台の縁を握り締めて冷たくなった指先へ、動くようにと信号を送る。麻痺したように、力は入らない。 「きみは、彼女を助けるためにここへ……?」 少年が、問うように声を出す。部屋の沈黙はそれで破られたが、押さえつけられるような息苦しい緊張は強くなっていく。 もう一度、動くように筋肉へ命令する。しかし、指先も、足も、私の意思に反応しない。心臓は早鐘を打つように動いていたが、まるで全身に麻酔をかけられたようだった。 目を閉じ、息をつめ、祈った。 お願い、動いて。そしてあのラジカセのところまで私を歩かせて……。 |痙《けい》|攣《れん》するように、指先がぎこちなく震えた。 「邪魔をして悪かったかい」 樹の声。 指先が動くようになると、連鎖反応のように、腕や足が眠りから覚めた。しかし筋肉は硬く強張り、動きはしたが、力が入らない。それでも私は、手術台の黒くなった血の染みに手のひらをついて落ちるように床へ下りる。姉の死んだ手術台を離れると、私は、自分が生きているのだという、なんでもないことを感じた。 足が震えて立ちあがれなかった。私はリノリウムの床を這った。腕に全体重をかけ、足を引きずるようにして進む。床を覆っていた土ぼこりで、私の全身は汚れた。手術台をまわり、樹の足元にあるラジカセを目指した。 樹と少年は何か言葉を交わしていた。しかし、私にはもはや何も聞こえなかった。地面を這う虫のように体を動かしながら、テープのことばかり無心で思いつづけた。 床に落ちていた尖ったコンクリートの破片が、体重をかけた腕に刺さる。しかし、気にならなかった。 少年はさきほど、死とは『失われること』だと言った。私はすでに多くのことを自ら放棄して死を選んだのだとも言った。 しかし、私はまだ死んでいない。生きることを放棄してなどいない。私がこの廃墟まできたのは、失うものを越えて、取り戻したいものがあったからだ。 姉さん……。床に置かれたラジカセに近づきながら、強く姉のことを思う。 ラジカセの横にあるライトが輝きを放ち、目がくらむ。樹の踵が持ちあがり、ライトの前を横切った。私に影を投げかけて、視界から消える。しかし私は、彼を目で追いかけなかった。 手を伸ばせばラジカセまで届く場所に辿り普く。床に這いつくばって、指先を、少年の持ってきた黒いラジカセに引っ掛けた。急いで胸に引き寄せて、震える人差し指で再生のボタンを押す。 ラジカセの内部から、機械の作動する音と振動が伝わってくる。金属製の網の張られたスピーカーから、姉の声が聞こえてきた。空気の震えではなかった。ラジカセを抱きしめる腕から、直接、声の振動が伝わってきた。
……夏海、あなたのことがずっと気がかりだった。あなたにひどいことを言うたびに、後悔した……。あなたを不安そうな表情にさせてしまって、本当に、ごめんなさい……。
最後の数年間、私と姉は仲良くできていなかった。同じ家の中にいて、まるで他人のように遠くへ感じていた。私は嫌われているものだと思っていた……。
こんな伝言を残されて、あなたには迷惑かしら……。きっと、そうよね……。私だったら戸惑ってしまうと思うの……。でも、最後に謝ることができて良かった……。だって、あなたがこの先、私のことで笑えなくなってしまったら、私は嫌だもの……。
姉さん……。私はラジカセを胸に抱き、床の上で体を丸めた。腕の中から、やさしい姉の声が聞こえてくる。腕の中に、仲良く遊んだころの姉がいた。
今、こんなときに思い出すのは小さいころあなたといっしょに遊んだことばかり……。
私は目を閉じて、耳を傾けた。
坂道をのぼったところに、見上げるような大きな森があったわね……。
頭の中に、幼かったころ見た風景が蘇る。 暗い闇も、冷たいコンクリートの壁も、すべて一瞬のうちに消え去り、私は心地よい日差しの降り注ぐアスファルトの坂道に立っていた。 ガードレールも、ポストも、すべてが大きかった。私は子供用の小さな靴を履いて、はるか高い坂の上を見上げていた。道の片側に家が並んでおり、もう一方の側はガードレールの他に何もなく、町を見下ろせた。
手をつないで歩いたこと、覚えてる……?
なつかしい子供の声に呼びかけられて、私は振りかえる。そこに姉が立っていた。背丈はほとんど私と変わらず、会う人はみんな、私たちのことを似ていると言った。 姉が、小さな手で私の手をつかむ。坂道の先を指差して、あそこへ行ってみようよと提案する。 私は、わくわくした。姉の手に引かれながら駆け出す。暖かい日差しが私と姉の小さな影を地面に落としていた。坂の上で枝葉を伸ばしている木々を目指し、アスファルトの道に靴音を響かせる。
坂をのぼりきって、森の茂みに入ると、涼しい空気が汗を乾かしたの……。木々の間を抜けると、見晴らしのいい崖があって、そこから町を見下ろしたよね……。並んで、私たちは手をつないでいたわ……。
姉の小さな、熱い手の感触が蘇る。かたわらに立つ姉が、私を見て微笑んだ。口のはしから、八重歯が覗いていた。
町の上を高く、鳥が飛んでいた……。
翼をぴんと伸ばした白い鳥だった。私はその鳥が、町を流れる大きな川に住んでいる鳥なのだと、勝手に思っていた。ほとんど翼をはばたかせることなく、風に乗ってはてのない青空を飛んでいた。
夏海、お姉ちゃんはここで死ぬの。でも、あなたはこれからも生きる。生きていくんだわ……。そしてまっすぐに笑いなさい。でないと許さないからね。さようなら、夏海……。
小さく消え入るように、姉の声は聞こえなくなった。呼吸も雑音もなく、スピーカーは沈黙し、告白の終わりがきたことを告げる。胸に抱いたラジカセの、前面にある透明なプラスチックの小窓の奥で、無音のままテープがまわり続けている。そこに透明な水滴が落ちた。私の頬を伝った涙だった。 ごめんなさい、ありがとう……。 心の中でつぶやいた。暗闇の濃い、寂しく、虚ろな病院の廃墟に私はいる。しかし、確かに私はたった今、姉と坂道を歩いていた。 どれくらい、体を丸めて泣いていたのだろう……。 いつのまにか廃墟の中で私は一人になっていた。手術台と、明かりを点し続けるライトだけがそばにある。二人の姿はどこにもなかった。 ライトの光が床の一部分で反射し、そこだけ強く輝かせていた。目を凝らすと、床のその辺りだけが濡れているとわかる。大量の血だまりが広がっていた。新しく、乾いていない。私はそれが、樹のものではないことを祈った。 ラジカセを抱いたまま立ちあがろうとする。最初、足に力が入らなかった。ゆっくりと時間をかけて、よろけそうになりながらなんとか立つことができた。 危うい足取りで手術室を出る。樹の名前を呼んだ。私の声は壁に反響しながら暗闇の奥へ消える。 病院の入り口で樹が戻ってくるのを待った。静かな冷たい空気が服を通り抜けて体を冷やした。震えながら体を丸め、廃墟の暗闇へ身を潜ませていた。やがて半分眠りかけながら朝を迎えた。結局、樹も、あの少年も戻ってこなかった。
† エピローグ
「この傷は、なんでもない……。犬が僕にじゃれついてきたとき、転んでできたものだよ……。」 黒い鞄を片手に持って階段を下りる森野に、僕はそう説明した。 十二月四日の放課後、僕たちは同時に教室を出て、歩きながら話をしていた。階段の踊り場に差しかかったとき、彼女は僕の首筋にできた赤い線を指差し、それはどうしたのかとたずねたのだ。 「あら、そう。きっとあなたを殺そうとしたのよ」 「犬が?」 「間違いないわ」 確信するように彼女は頷いていた。実際は、昨晩に病院の廃墟でつけられた傷だった。他の部分にも打撲した個所はあったが、学生服で隠れて見えなかった。 「そういえは、北沢博子さんの殺害事件についてスクラップを作るために、私は先日から情報を集めていたの」 彼女は図書館で知り合った人物から様々な情報を得ていた。しばらく前、その情報通の名前をたずねたが、彼女は教えたがらなかった。後をつけてその人物について調べようと思ったこともあったが、もはやどうでもよかった。 「完成はしたのかい?」 「もう少し、というところね。後は、そう、犯人のインタビューさえとれたら完璧なのでしょうけど」 校舎を出て校門に向かって歩きながら、あの事件は警察が公表しているよりもはるかに猟奇的な事件だったことを彼女は述べていた。外はすでに太陽が沈みかけて、冷たい風が吹いていた。校舎から校門までは、両側に並木の植えられた幅の広い道が続いている。今はそこを数人の生徒が歩いているだけである。風に吹かれて白いビニール袋のゴミが道の上を滑っていた。 校門を出て、道路を渡る。その先にあるコンビニエンスストアの中に、北沢夏海がいた。雑誌売り場に立ち、ガラス越しに目があった。 僕はコンビニエンスストアの正面で歩みを止めた。横を並んで歩いていた森野も、それにあわせて立ち止まる。 店内で北沢夏海が、持っていた本を下に置いた。その間も、目を僕の顔から離さなかった。店の出入り口を抜けて、外へ出てくる。 店の前には数台分の車がかろうじて停められるほどの小さな駐車場があった。その車止めをはさんで、僕と彼女は向かい合った。店内から漏れてくる白っぽい蛍光灯の明かりが僕たちを照らしていた。 昨晩、ラジカセを抱いたままうずくまっている彼女の横で、僕は人間を殺した。ナイフが乾燥する音は、それで止まった。 しかし僕は彼女に構っている余裕がなく、廃墟に残したまま帰っていた。彼女は、横で行なわれていた乱闘に気づいておらず、僕が校門から出てくるのを見るまで、どちらが血を流すことになったのかわかっていなかったのだろう。 僕が北沢夏海に話しかけようとすると、横にいた森野が先に口を開いた。彼女はじっと北沢夏海の顔を見つめていた。 「もしかして北沢夏海さんですか」 「……はい、そうです」 「やっぱり。新聞に掲載されていたお姉さんの写真に似ていらっしゃいます」 「髪型を変える前の写真ですね……」 「はい。私は趣味で、お姉さんの事件のことを調べています。でも、あなたの写真は入手できていなかったから、数日前、あなたがここに立っているのを見たとき、似ているな、ぐらいにしか思っていませんでした」 「姉の事件のことを、調べていらっしゃるの?」 北沢夏海は意表をつかれたような顔をして、問いかけるような視線を僕に向けた。 「彼女には情報源があるみたいです。はっきりと教えてくれませんが……」 僕がそう補足説明をすると、北沢夏海は複雑な表情をした。 森野は僕に顔を向けた。いつもの無表情ではあったが、興味深そうな声だった。 「それで、北沢さんとはどういうご関係なのかしら」 僕は返事をせずにポケットから小銭を取り出して森野に握らせた。彼女は受け取ったコインを眺めて、これはなに、と質問する。百メートル先に自販機があるから、そこでジュースを買ってきてもらえないでしょうかと丁寧に頼んだ。 「目の前にコンビニがあるけど、ぜひ遠くにある自動販売機のジュースが飲みたいと思うのです。もちろん、きみに話を聞かれないよう追い払う目的でそうしているのではないよ」 森野は僕と北沢夏海を交互に見て、しばらくためらっていた。しかし、だまって背中を向けると、自販機のある方向へ歩いていく。 「あの子は、なにも気づいていないのね。自分が、殺される標的になっていたことにも……」 北沢夏海のつぶやきに、僕は頷いてみせた。 しばらく二人で、遠く小さくなっていく森野の後ろ姿を見ていた。暗くなった歩道に、彼女の黒い姿は半ば消えそうになる。道路を、ライトのつけた車が通りぬけるたびに、小さな形が浮かび上がる。 「……少し前、博子さんの死体写真を、彼女に見せてもらいました」 「死体の写真を?」 「はい。どこにも流出していないはずの写真を、彼女は、だれかからもらっていました。確かに博子さんの顔が写っていました。葬式のときに飾られていた写真と同じ髪型でしたよ……」 「それじゃあ、あなたはそれを見て……」 「犯人が撮影した写真だという可能性は、ゼロではないですよね。自分でも半信半疑でした。しかしそうだとすると、博子さんを殺した人間が、彼女へ近づいていることになる。もしかすると次の標的として彼女を選んだために……」 「それは半分、当たっていた……。でも犯人が最終的に選んだのは森野さんではなく私だった……」 「先輩がこのコンビニに立っていたとき、犯人がまた活動をはじめたのではないかという予感がしました。先輩の様子が変だったから、犯人がなにか接触してきたんじゃないかと……」 「そう……、そういうことだったのね……。あなたはそう考えたから、その証拠となるものを求めて私の部屋へ侵入した……」 「先輩はきっと、聞いても教えてはくれなかったでしょう?」 店内から漏れる明かりは、僕と北沢夏海の形を駐車場の乾燥したアスファルトに浮かび上がらせた。まるで影絵のようだった。彼女はそれを見ながら、ええ、そうね、とつぶやいた。 「でも、樹くん、あなたがそんなに非常識な子だとは思っていなかったわ……」 「先輩も、非常識では負けていませんね」 「昨晩、心配したのよ……。急にいなくなっていて……。夜が明けてあなたに電話したけど、つながらないから」 「俺の携帯電話、あいつとのごたごたで壊れてしまっていたから」 かつて、あの北沢博子を殺害した男と僕は同じクラスに所属していた。さほど親しくはない間柄だったが、もしも近づくことが多かったなら、目の中の常人とは違う気配に気づいていたのだろうか。 「あの後……、あなたたちは、いったいどうなったの……?」 彼の死体は、廃墟の裏側にある深い|叢《くさむら》の中に埋めた。残酷な魂は、ナイフの銀色に光る刃へ吸収されたのだ。もちろんそれは僕の勝手な想像だった。体に刃が深く刺さって小さなうめきとともに彼が口から血を吐いたとき、ナイフの柄を握り締めていた僕の手が、乾きの癒える手応えを感じたというだけである。 「あいつは逃げていきました。追いかけたけど、つかまらなくて……」 こういうこともありうる。彼はそう納得した顔で、廃墟の冷たい床に散った自分の血を見つめていた。膝をつき、おそらく北沢博子の命を奪ったのと同じ程度の簡単さで、彼は自分の死を受け入れた。そして僕を見上げてそれはいいナイフだねと言うと動くのをやめた。 「そう……。警察に連絡したほうがいいのかしら」 「先輩の好きにするといいですよ。あ、でもわずらわしいのが嫌だから、俺のことはだまっていてもらえませんか。先輩の部屋に不法侵入したわけだし」 僕は歩道の先に目をやった。遠く街灯の下に小さな動く点が見えて、明かりの下を過ぎるとまた闇のなかに溶ける。しばらくしてひとつ手前の街灯の下に再び現れたとき、小さな点ではなく、戻ってくる森野の姿になっていた。 「……今朝、家に戻ったとき、お父さんに叱られたの」 北沢夏海は車止めをつま先で蹴りながら、目をほそめて言った。微笑んでいる。彼女は自転車で朝方に廃墟から帰ったそうだ。家に着いたとき、娘が自室にいないのを知って両親がひどくうろたえていたという。疲れた表情で玄関を開けた彼女を見ると、親は叱りつけた後、強く抱きしめたそうだ。 「私の顔を見て、お母さんは泣いていたの。当然ね、姉さんのことがあったのだから……。そして、私も、両親も、生きているんだなと思った……。ねえ、来年の頭に引越すことが決まったわ。たぶん、遠くへ……」 北沢夏海は顔を上げて歩道の先を見た。遠くを見る彼女の横顔は、店内からもれる明かりのために白く輝いていた。 「あなたともお別れね……」 缶ジュースを手にして戻ってくる森野が、少し離れた場所で立ち止まった。電柱にもたれかかり、僕と北沢夏海を見ている。車の通りすぎた風を受けて、彼女の髪が踊るようになびいた。どことなく、マッチ棒が立っているような、心もとない様子だった。 「お話は終わったのかしら……?」 森野が声をかける。もう少し、と僕が返事をすると、元気のない様子でなにか小さくつぶやいて、僕と北沢夏海に背中を向けた。距離があったので、彼女が何と言ったのかはわからなかった。ただ、肩幅の小さな背中だけが見えた。 「森野さんは……」 北沢夏海は彼女を見て、続いて僕に視線を向けながら、言いよどんだ。 「なんですか?」 「いえ、なんでもないわ……。でも、私たちのことを誤解しているんじゃないかしら。……事件のことを、あの子に言うつもりはないの?」 「必要がなければ、言いません。これまでもそうでした」 「それじゃあ、あの子は、あなたに守られたのだということを知らないままなのね……。樹くん、あなたは私を助けるつもりで廃墟に来たの? もしかしたら、あの子に振りかかろうとする火の粉を払いのけたかったのではないのかしら……」 彼女は僕の瞳をまっすぐに見て言葉を続けた。 「やっぱりそうなのね。森野さんに愛情を抱いているから?」 愛情ではありません、これは執着というのですよ、先輩……。 口には出さず、僕はそう心の中でつぶやく。 北沢夏海は僕から視線を外し、遠くを見つめる。右手のひらで、自分の左肩を触っていた。 「肩、怪我でもしたんですか?」 僕がたずねると、彼女は少し微笑みを浮かべて首を横に振った。 「あの子が別れ際に、ここへ手を置いたの……」 「あの子?」 「なんでもないわ。ねえ、ところでいつまで森野さんを待たせているつもりなの」 電柱にもたれている森野の背中に向かって、もう話は終わったからと僕は声をかけた。 無言で森野は戻ってきた。よく見ると彼女の手には、柑橘系のジュースが一本、握られているだけである。三人いるのだから三本買ってこなければいけなかったのではないかと僕が指摘すると、あまりに待ち時間が長くて二本は飲み干してしまったのだと彼女は言う。なおかつ、その柑橘系のジュースはだれにも渡さないと主張した。外見からはよくわからなかったが、彼女の機嫌は悪いようだった。 駅まで三人で歩くことになった。僕と北沢夏海が話をしながら並んで先を歩いた。話題は引越しのことや、大学進学についてのことばかりだった。さほど興味のある話題ではなかったが、僕は他人の話に合わせることになれていた。彼女は楽しそうに、時折、笑顔を交えて話をした。 数歩下がったところを、森野がついてきた。北沢夏海と話をしながら、僕は時折、背後を確認した。片手に鞄を下げ、もう一方の手で缶ジュースをもてあまし気味にしながら、彼女は自分のつま先を見て歩いていた。長い髪の毛が前に垂れ下がって、顔を隠していた。 彼女は無言のままで、僕と北沢夏海の会話に入ろうとはしなかった。それは教室にいるときも同じだった。僕がだれかと話をしていれば、決してそこに割って入らない。横目でちらりと見ながら、見えなかったふりをしていつも通りすぎる。 やがて駅前の広場に到着した。すでに空は暗かったが、周囲には店がひしめきあっており、看板の色づいた光や店内の蛍光灯が周囲を明るくしていた。 会社や学校が終わる時間だ。家へ帰宅しようとする人で、駅は混雑していた。巨大な駅ビルの一階が四角いトンネルのように刳りぬかれて、駅の入り口になっている。そこを、まるで駅ビルが呼吸でもしているように、大量の人間が出入りしている。 駅の入り口で北沢夏海とは別れることになった。彼女は別れの言葉を言って、片手を振りながら僕と森野から離れていく。切符を購入するらしく、券売機の方へ向かっていく。流星群を回避するSF映画の宇宙船のような動きで、彼女は人ごみを避けながら遠ざかる。券売機のあたりでは大勢の人が列を作っており、その最後尾に彼女はついた。 通行人の邪魔にならない駅の壁際に僕と森野は立った。二人ともうるさい場所や人間の多い場所は好きではなかった。長時間いると、頭が痛くなる。 駅の壁は大理石のような白く滑らかな材質だった。一定の距離を置いて、視界を覆うほど大きな、女性モデルの写った化粧品の広告が壁に並んでいる。そのうちのひとつによりかかっている森野に、僕は話しかけた。 「北沢夏海が、殺された姉とうり二つで驚いたでしょう」 「それよりもあなた、人によって『僕』とか『俺』とか使い分けるのは疲れないの?」 森野は腕組をしていた。右手に握っている缶ジュースが、左腕の下から覗いている。おそらく、彼女の体温でぬるくなっているだろうと思った。 森野は、列に並んでいる北沢夏海を視線で差し示す。 「あの人にしろ、あなたにしろ、どうしてそう自然に笑えるのか私には不思議よ」 「僕は別に、おかしくて笑っていたのではないけど」 どんな会話の中でも、心が愉快になることはない。いつも暗い穴の底にいる気がする。しかし無意識のうちに僕は演技をしつづけて、他人との会話に|齟《そ》|齬《ご》を生じさせないようにしているだけだった。 「それに、あの人も最近は笑うことがなかったんだ。さっきまで僕と話をしながら微笑んでいたけど、これまでいつもあんな感じだったわけではないんだ」 僕がそう言うと、森野は首を傾げた。 「普段は笑わない人なの? 意外よ、明るそうな人に見えたのに……」 僕は彼女に、北沢夏海とその姉の不仲について簡単な説明をした。 顔の似た姉妹で、長い間、隔たりのある関係しか持てなかったこと。嫌われているのだと思い、笑顔を浮かべられなくなっていたこと。 僕の説明を、森野は口を挟むことなく黙って開いていた。 「僕は、いつもの趣味で、北沢博子の葬式に出席したんだ。そこで、その話を聞いた。でも、先日、生前に北沢博子の残した肉声のテープが見つかってね……」 北沢夏海は、死んで永久に会うことのできなくなったはずの姉と|邂《かい》|逅《こう》を果たすことができた……。 ややこしくなるため、犯人に関することや、昨夜のことは話さなかった。ただ、テープの内容と、それが北沢夏海にもたらしたであろう心理的な変化についてだけ説明をする。 昨夜に見た、ラジカセを抱きしめて廃墟の床に丸くなっている北沢夏海の姿を思い出す。そのとき僕は、ナイフを片手に持っており、あの男の服で刃についた血を拭っていた。ラジカセから聞こえていた北沢博子の独自は、幼い姉妹の遊ぶ姿を僕に想起させた。 彼女たちの思い出に関することまですべて話し終えたときも、森野は腕組をしたまま壁の広告に寄りかかっていた。視線をやや下方に向けて、何か考えるように沈黙していた。|瞼《まぶた》をふせぎみにしていたため、駅の白い蛍光灯によって睫毛の陰が目の下に落ちていた。 「……あなたの情報は、私の作った事件のスクラップブックからもれていたわ」 やがて彼女は、聞こえるか聞こえないかの小声でそう言った。ゆっくりと首をめぐらし、券売機の列に並んでいる北沢夏海へ目を向ける。 列が進んで、ようやく北沢夏海は券売機にコインを入れている。ボタンを押して、最寄りの駅までの切符を購入する。駅を行き交う大勢の人波に遮られ、見え隠れしながら、その姿が確認できた。 森野が腕組を解いた。右手に持っていた缶ジュースに、一度、視線を落とす。 壁の広告にもたれかかっていた彼女の背中が、離れた。その動きに少し遅れて長い髪の毛がついていく。止まっていた川の水が音もなく静かに流れを再開するように、そろそろと彼女は歩き出した。 あまりにも静かな動作だったので、森野が動き出したことに、一瞬、僕は気づかなかった。彼女の意思が読めず、最初のうち、目で追うだけだった。その背中が人通りの中へ埋没したとき、ようやく僕も後を追う気になった。 彼女の視線の先に、北沢夏海の姿があった。切符を購入して、改札に向かっている。森野夜は、どこか夢遊病者を思わせる心もとない足取りで、北沢夏海を目指して歩いていた。しかし、人ごみの中を歩くのになれていないらしい。行き交う人々に、次から次へとぶつかる。彼女なりに避けようとしているらしいが、まるで狙っているとしか思えないタイミングで、帰宅を急ぐ背広姿の人や若い女性に衝突する。そのたびに跳ね返されて、鼻を押さえながら、また歩き出す。僕はこれまで生きてきて、ここまで不器用に人ごみを歩けない人間を見たことがない。だから、彼女の背中に追いつくのはかんたんだった。 そうしているうちに、北沢夏海は雑踏に紛れて改札を通りぬけた。人通りに対して改札の数は少なく、大勢の人間がその辺りに集中している。僕と森野の前に多くの人間の背中や頭があり、視界を遮って、ついに北沢夏海の姿は見えなくなった。どうやら彼女は、森野に気づかないまま駅構内へ向かったようだ。 森野がまた、人に衝突した。相手は体の大きな中年の男性で、ダンプカーと三輪車の衝突事故を思わせた。彼女は跳ね返され、よろめき、後ろをついて歩いていた僕に倒れ掛かってきた。僕は、顎に頭突きをくらった。それは、ここ数ヶ月のうちに起こったいろいろなことの中で、もっとも大きなダメージだった。しかし彼女は僕に気づいた様子もなく、ただ前方の、北沢夏海の消えたところに目を向けていた。姿勢を立てなおし、やや躊躇うように顎をひいた後、肩を張って大きな声をあげた。 「夏海さん!」 普段の彼女からは想像できない、大きな声だった。細い体のどこに拡声機が仕組まれているのかと思った。辺り一帯にあったすべての音、雑踏や話し声が、一瞬、消えた。歩いていた大勢の人が驚いた顔で立ち止まり、沈黙し、彼女を見た。 森野が、再度、歩き始める。まっすぐに、北沢夏海の消えた改札へ進む。声を聞いて立ち止まっていた人々は、彼女のために体を避けて道をあけた。僕も後を追う。 再びざわめきが駅に戻り、人々は歩き出した。そのときすでに森野は改札へ駆けよっていた。彼女は電車通学をしているわけではなかったので、切符も定期も持っておらず、自動改札機を通り抜けることはできなかった。閉ざされた改札の手前で立ち止まる。 「森野さん?」 北沢夏海の声が聞こえた。改札の向こう側にある人波の間から、彼女の姿が現れる。声を聞いて戻ってきたのだろう。驚いたという表情をして小走りに近づいてくると、改札を挟んで森野と向かい合わせの位置に立った。その改札を抜けようとしていた人々が、立ち止まっている森野のために足止めを食らい、周囲は一気に混雑さを増した。しかし森野は気にしなかった。 「夏海さん、これをあげる」 森野は、持っていた柑橘系の缶ジュースを改札越しに差し出した。 「あ、ありがとう……」 北沢夏海が戸惑いながらそれを受け取る。 「さっきは、不機嫌になっていてごめんなさい。あなたともっとよくお話をするべきだった。……お姉さんと仲直りしたそうですね」 森野と、そのそばにいる僕へ向かって、改札を通れない大勢の人間の視線が集中していた。騒ぎを見た駅員がこちらを気にして駆け寄ってこようとしている。僕は森野の左腕を引っ張り、そこから退かせようとした。しかし彼女は、わずかに姿勢を崩しながらも反抗して北沢夏海の正面から動かなかった。 「私も、姉と喧嘩中で……。いえ、少し違うけど……。とにかく、おめでとうってあなたに言いたかったの。ただそれだけ」 言い終えると森野は僕に手を引かれて改札の脇に退いた。まるで体重などないように、彼女は軽かった。人の波が動き、僕と森野の前を洪水のように流れ出す。一瞬で北沢夏海の姿は人の流れに飲まれて消えた。その直前、彼女が森野に向かって口もとをほころばせ、ありがとう、と言ったのを僕は聞いた。 森野は放心したように力の消えうせた状態で、僕の手にひかれるまま改札のそばから去った。いつのまにか彼女は鞄を持っていない。周囲を探すと、さきほどまで立っていた壁際の地面に放置されていた。 僕は森野の手をひいて、外人女性の大きく写っている広告の前に戻る。人ごみの中、森野を引いて歩くのはつかれる作業だった。押されて、流されようとする彼女をつなぎとめておかないといけなかった。彼女は前方を見ておらず、下ばかり見ている。口が小さく動いて、何か言葉を発しているようだったが、雑踏にかき消されて聞こえなかった。 鞄の落ちている場所に辿り着き、人の流れから外れて、ようやく彼女の声が聞こえた。 「神山君は私と正反対だと思うわ……」 彼女はそればかり、何度もつぶやいていたらしい。 この後、彼女は駅前から徒歩で自分の家へ向かわなければいけない。僕は電車に乗るため、彼女は一人になる。森野にはどこか精神状態に危うさが残っており、無事に帰ることができるかどうか疑問の余地があった。 「最初あなたは、私に似ていると思ったの。姉さんと同じ雰囲気を持っていたから。でも、違う。私たちは似ていない……」 森野の鞄は、シンプルな黒色のものだった。それを拾って、手に握らせる。次の瞬間、鞄が落下して音をたてる。 拾い上げて、もう一度、取っ手を握らせるが、無駄だった。彼女にはつかんでおく気力がないらしい。指が鞄の重さに負けて開き、取っ手は手の中から離れる。 「神山君はときどき、心が空っぽのまま笑っているような気がするの。気を悪くしたらごめんなさい……、私の知っているあなたと、みんなと楽しそうに振舞っているあなたが、とても違うからそう感じるだけなのかもしれないけど……。私はあなたが、ときどきすごく憐れに思えるの……」 伏し目がちに彼女は言った。声がわずかに震えて、泣き出す直前の子供のようだと思った。 「言っておくけど私は逆よ……」 彼女は顔を上げて僕の目を見た。背は僕のほうが高く、そばに立つと、彼女が見上げる格好となる。特に表情があるわけではないが、彼女の目は赤味を帯びて、水分を多く含んでいる。 「言われなくても知っている」 僕の言葉を聞いても、彼女はしばらく沈黙したまま動かなかった。やがて、ゆっくりと顔をうつむかせ、頷く。 「そう、それならいいの……。おかしなことを言ってごめんなさい……」 拾い上げた鞄を彼女に差し出すと、まるで何事もなかったように受け取る。取っ手をしっかりと握り締め、今度は離さなかった。 目の前を過ぎる人の流れに、彼女は目を向ける。右に行く人もいれば、左に行く人もいた。正確に彼女が何を見ているのかはわからなかった。ただ、僕たちの前を、大勢の人間が歩いているだけだった。彼女が口を開き、静かに言った。 「夏海さんのこと、私は本当に良かったと思っているの。それに、うらやましかった……」 僕の手を借りないいつもの立ち姿に、彼女は戻っていた。僕たちは別れの挨拶もしないまま、その場所で反対方向に歩き出した。 [#改ページ] あとがき Postscript [#改ページ] できあがってみると、手帳と姉妹と犬の本になっていました。GOTHの一話目を書いたときは、まさかこのようにシリーズ化して短編集にするとは思っていなかったので、不思議な気持ちです。一話目の『暗黒系』は、もともと、角川スニーカー文庫『ミステリアンソロジー・殺人鬼の放課後』に収録する予定で書きました。しかし、妙にこの主人公コンビが気に入った僕と担当編集者は、勢い余って、あといくつか同じキャラで短編を作ってみることにしたのです。そのため、急遽、アンソロジーのために『seven rooms』という別の話を書くことになりました。 僕はこれまで、人間が回復する話を好んで書いていました。ほかのことにいまいち興味がわかなかったからです。書きたいものを書くのはいいことだと思うのですが、馬鹿のひとつ覚えだなと、自分のことを恥じています。そしていつのまにか「せつないものを書く人」という肩書きができていました。このGOTHは、そういった方向性とはちがうものだったので、楽しくもあり、心配でもありました。 二話日の『リストカット事件』を書いたとき、知り合いのホームページの掲示板に、「せつなくない」「乙一のウリであるせつなさが感じられない」という感想があって憂鬱になりました。やばい、GOTHは失敗だ、とも思いました。同時に、「せつない」という言葉への軽い恐怖症にかかりました。ところで、僕本人は、「せつない」というのをウリにしたいと思ったことはあまりありません。もちろん、本の中身が「せつない」のであれは、そういう売り方をしないと本が売れないわけですけど……。でもそういう売り方は、人の尊い部分を資本主義の汚い手で触れているような気がします。祈りをお金に換算する怪しい宗教団体と同じキナ臭さがあるように思うのですが、気にしすぎでしょうか。 また、僕はこれまでミステリというものをないがしろにしてきた気がします。もちろん、ミステリ作家としてデビューしたわけではないので、こだわる必要はないのですが。物語を最終的に収束させるやりかたとしてミステリ的な方法を使うと、なんだか書く方としては楽なので、よく利用していました。でも、そのやりかたが安易だった気がするのです。 たとえば、ドラマ部分とミステリ部分がかちあったときなど、迷わずミステリ部分を単純にして物語を作りました。途中で犯人がわかろうが、構いませんでした。そのため、知人に「あの話、途中で犯人がわかったよ」と言われたとき戸惑いました。そこを重要に感じる人もいることは知っていましたが、自分にもそれが求められているのだなと、あらためて感じました。そこで、GOTHの一話目と二話目は特に、ドラマなんてひとまずいいからとにかくミステリをやろう、という気持ちで書きました。 三話目の『犬』はさておき、四話目の『記憶』は、この本に収録されている短編の中で、最後にプロットが作られた話です。他の話が出揃って、「なんかいまいち森野の影がうすいかも」という気持ちから、即席に作ったものでした。したがって、森野のキャラクターがまさかあのような秘密を持っていたとは、作者の自分も知りませんでした。してやられました。 五話目の『土』は、担当編集者が一番、気に入っている話だそうです。そういえば担当編集者の青山さんのことを、「小説ソムリエ」と僕はときどき呼んでいます。小説を書き終えた後、青山さんに読んでもらって、違和感やおかしな部分を指摘してもらうというのがいつものやり方なのですが、そのときの青山さんの仕事っぷりといったら、ワインの雑味を探し出しているようにも見えるのです。舌の上で、文章が分解され、吟味されているのがわかります。今回とくにお世話になりました。ありがとうございます。 六話目の『声』。この話を考えていたころ、もはやネタに困っており、「なにかこう、おもしろい異常者の設定ってないですかね」と編集者に話しかけたことを覚えています。そういえば、僕はスニーカー文庫の『妖魔夜行シリーズ』が好きでした。そのシリーズが毎回いろいろな妖怪を出したように、GOTHも毎回、いろいろ変な人を出そうと思っていました。僕はこのGOTHという話を、ファンタジーとして書きました。吸血鬼ものでもあります。 僕は作中で、異常快楽殺人者のことを「生まれついてそうだった」というふうに書きました。つまり、人間ではなく、怪物のように描いてしまったのです。そのことに今でも僕は引っかかっています。もちろんこれは、ファンタジー作品の特殊な設定と同じもので、現実もそうだとは決して思っていません。そこをどうか取り違えないようにお願いします。 最後になりましたが、今回もまたいろいろな人にお世話になりました。雑誌掲載時に挿絵を描いてくださった緒方則志先生、ありがとうございました。装幀デザインを担当してくださったみなさん、どうもありがとうございます。担当青山さんも小説ソムリエ的におつかれさまでした。 GOTHの続きをまたいつかやろう、短編も長編も、という話もあるのですが、なにも思いつきません。はたしてどうすればいいのでしょうか。あるいは、二度と出ないかもしれません。書くとしたらどうせ主人公の妹が死体を発見する話なのだろうなと思います。それでは。
二〇〇二年六月 [#地付き]乙 一 [#改ページ] [#ここから6字下げ] 初出 暗黒系 ザ・スニーカー01年12月号 リストカット事件 ザ・スニーカー02年2月号 犬 書き下ろし 記憶 書き下ろし 土 書き下ろし 声 書き下ろし [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 乙一(おついち) 1978年福岡県生まれ。「夏の花火と私の死体」で第六回 ジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞しデビュー。先日、 病院にて、「安楽死したいときはいつでも来てください。 いい薬ありますから」と医者に言われる。うれしかった。
GOTH《ゴス》 リストカット事件《じけん》
平成14年7月1日 初版発行
著 者 乙一《おついち》 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 東京都千代田区富士見2-13-3 〒102-8177 振替 00130-9-195208 電話 編集部 03-3238-8694 営業部 03-3238-8521 印刷所 暁印刷 製本所 本間製本株式会社
落丁・乱丁本はご面倒でも 小社営業部受注センター読者係宛にお送りください。 送料は小社負担でお取り替えいたします。 ◎Otuichi 2002 Printed in Japan ISBN4-04-873390-7 C0093
写真 厚地健太郎 ヘア&メイク 米花 スタイリスト 鬼束香奈子 モデル 吉川知見(ミル・ヴィサージュアジャンス) プロデューサー 栗本知機 [#改ページ] 乙一の本 角川スニーカー文庫
きみにしか聞こえない CALLING YOU 定価:476円(税別)
友達のいないリョウは携帯電話を空想していた。心の中にしかない携帯電話でも、握ってみるとさみしさを忘れられる気がしたのだ。しかしある日、空想のはずの着信音が、実際に聞こえてきた!? おそるおそる受けた電話の向こうにいたのは……? ふたつのさみしい心が共鳴して起きた、現代のおとぎ話。 同時収録「傷」「華歌」
失踪HOLIDAY 定価:552円(税別)
14歳の冬休み、私はいなくなった──。 継母とケンカして家を飛び出したナオ。潜伏したのは、家の敷地内にある使用人の部屋。その三畳間から、家族のようすをコッソリと観察することにしたのだったが? 「じぶんの居場所」を探す少女の、果敢で無敵なものがたり。 同時収録「しあわせは子猫のかたち」
2002年秋刊行 未来予報
僕と彼女は、たまたま近所に住んでいるというだけの、ただの幼なじみだった。ところが、「未来が見える」という同級生が、「おまえら、将来結婚するぜ」と告げたことから、お互いに目を合わせられなくなってしまう。せつない想いのゆくえは……? 同時収録「手を握る泥棒の話」「フィルムの中の少女」
角川書店
平成十七年九月二日 校正 ぴよこ
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