た顔をしていたので以前は言い寄ってくる人間もいたそうだが、少し前に起きたある事件から少々事情が変わった。学校内で彼女を相手に、セクハラまがいのことをしようとした教師がいたのだ。森野は隠し持っていた痴漢撃退用のスプレーで冷静に攻撃し、近くにあった椅子でその先生を殴りつけた。僕はその場面をひそかに見ていたのだが、それ以来、森野に声をかける男子生徒はいなくなった。
これからする話は、僕と森野が知り合うきっかけとなった事件である、というわけではない。 しかし、教室で彼女の白い手が目に入るたびに、僕はその事件のことを思い出す。 今年の春先、連日のようにニュースをにぎわせていた連続手首切断事件である。僕はひそかに、その事件へ巻き込まれていたのだ。 それは、まだ森野と一度も言葉を交わしたことのなかった五月末のことだった……。
† 1
篠原は自分の手を見つめて考える。手とはもちろん、脊椎動物における前足の末端部分のことである。自分の手は物をつかむために発達しており、五本の指でパソコンのキーボードを打つことや、コーヒーカップを傾けることが可能である。手が人間のすべてであることはおそらく間違いないだろう。だから手相術というものがある。手相術というのは、手のひらの筋にあらわれた形相を観察することにより、その人の性格や運勢を占うものである。すなわち手はその人間の過去と未来を映す鏡なのだ。 子供のころから篠原は手が好きだった。他人の手が気になってしかたなく、親に連れられて外出した際も、幼い篠原の目に映る町中の雑踏は、人間の集団というよりもむしろ無数の手の集まりだった。小学校に通いはじめても、自分のまわりを歩いているのはクラスメイトというより、二つの手をぶら下げた生物だった。 手以外の部分は人間の本質的な部分ではない。例えば、顔の作る表情、口から出る言葉、それらに真実が混じっているとは、篠原には思えなかった。それにひきかえ、手は揺るがし難いほどの真実を含んでいる。筋の浮かぶ甲。伸びる五本の指。指の先端に耽っている爪と、そこに浮かぶ白い半月。指紋は特に個人を特定する重要な部分である。 小学校低学年のころ、姉の捨てた着せ替え人形の手首を、だれにも気づかれないようにはさみで切り取ってみた。人形の小さな手は、篠原の手のひらの上でころころと転がる。それをポケットに入れて、手首から先のない人形は捨てた。それからひまな時間があると、人形の小さく固い手を親指の腹でなぞった。微少な凹凸の感触は、母や先生からかけられる言葉よりもやさしくしっかりと充実をともなって篠原に何かを語りかけてくる。 犬や猫の前足の先端を|剪《せん》|定《てい》ばさみで切り取ったこともある。剪定ばさみというのは、小さな手首をカットするのに、実に都合がいい。篠原は犬や猫が好きだった。肉球は人間の手にはない部分で、ユーモラスな形状をしている。押すと爪が出入りし、表面には毛が生えている。人間のように物をつかむことはできないが、独特の進化をしていておもしろい。 手が人間のすべてであるという自分の考え方が一般に受け入れられないことは充分に承知していた。周囲の人間を観察していると、頭と口による中身のない言葉ばかりが世界を支配していることに気づかされるからだ。大人になり、職につくと、特に自分のそのような考えは隠さなければならなかった。 しかしふとした瞬間に手のことを考える。五本の指がついた、神が創造したとしか思えないデザイン。それが頭の中をめぐる。 この春、はじめて人間の手首を切断してみた。乳児の手だった。乳母車に乗っていた乳児を見つけ、母親がほんの一瞬そばを離れた際に剪定ばさみで切り取った。 乳児の小さな手は、熱く、ふっくらしていた。切断した瞬間、眠っていた乳児は泣き喚き、篠原の握り締める手から熱が消えていく。篠原は乳児の手をポケットに入れて持ち去り、冷蔵庫に保存した。 乳児の手だけにはとどまらなかった。小学生を気絶させ、暗闇の中で手首を切断した。高校生や、社会人の手を切ったこともある。成長した人間の手首は、剪定ばさみで切断するには太すぎた。しかしのこぎりでは切り口がきたなくなり、篠原の美意識が許さなかった。かといって斧は持ち運ぶのが面倒だった。結局、肉切り包丁で仕事をした。気絶させた人間の手首に思いきり打ちつけると、骨まで鮮やかに切断することができた。 死んだ人間はいなかった。篠原は手が欲しいだけで、殺したいわけではない。手以外の部分は、死んでいようがいまいが関係ない。自分の姿を見られていないかぎり、気絶させたまま放っておくことにしていた。 新聞やテレビの報道によると、病院に運ばれた被害者は、いずれも犯人の顔は見ていないと報告したらしい。篠原は安堵で胸をなでおろす。暗闇に紛れて慎重に行動しているとはいえ、やはり逮捕されるのは心配だった。 手そのものも好きだったし、手首を切断する作業も楽しかった。手とそれ以外の部分とを分ける瞬間、解放感が体を駆け巡る。それは、世界を支配する歪んだ価値観から手を解き放つという行為が我ながら英雄的だからだろう。 職場では、小さな人形の手を切ることもあった。布製で、中に綿が入った手のひらサイズの人形である。小さいため、細かい造形はされていない。指はなく、腕の先端は丸みをおびているだけである。だからといって手ではないというわけではないのだ。これは、人形を作製するために進化した、指のない手なのである。それをはさみで切り取るだけでも、世界と自分との間にあった緊張感が霧散する。 切断した手は、すべて冷蔵庫に入れた。人形の布でできた手や犬猫の前足も例外ではない。何一つ、捨てられるものなどなかった。 一人暮しの篠原の家は、一斉に賑やかとなった。冷蔵庫を開けると、手が並んでいる。それらを触ると、持ち主がこれまで体験した過去や、これから待ちうけているであろう未来がわかるようだった。それぞれの感触は篠原に苦楽となって語りかけ、手がこれまで両親から受けた愛情も、世界から受けた悲しい仕打ちも打ち明ける。 新聞やテレビは連日の篠原の犯行を報道した。いつのまにかリストカット事件という名前で呼ばれている。もちろん篠原にとって、事件の名称などどうでも良かった。 ただ、自分が犯人として憎まれていることが不愉快である。自分達の価値観を押しつけないでほしい。 テレビのニュースを見ながらその不満について子供の手に語りかける。冷蔵庫から取り出して握り締めている子供の手である。 「本当にそうだね、きみの言う通りだよ」 子供の手の凹凸や弾力が、手のひら越しに篠原へそう語った。不安や怒りが溶けて消え、胸の奥に生きていく勇気がわいてくるのを篠原は感じる。
† 2
その化学教師は午前中に行なわれた授業でこう言った。 「昼休みに化学準備室の大がかりな片付けをするのでひまな者は手伝いにきてほしい」 彼自身も生徒が手伝いに来てくれることを期待しているようではなかったし、クラスのほとんどの者が教師の話を聞き流していた。だから、昼休みに僕が化学準備室を訪れたのを見て、その化学教師は意外そうな顔をした。 窓の外は晴れ渡っており、春の暖かい日差しがふりそそいでいる。化学準備室はそれと対照的に暗く、少し肌寒かった。外で遊んでいる生徒達の楽しげな声が、遠くからかすかに聞こえてくる。 化学準備室は狭く、棚がひしめいている。中には薬品や分子構造を示す模型、ホルマリンに清けられた何かの内臓が並んでいた。部屋の窓際に木の机があり、植物や宇宙に関して書かれた理科的な書物や紙片が置かれている。古いタイプのパソコンがあり、かたわらの別の机には、積まれた本に隠れるようにしてプリンターがあった。ブラインドの隙間からもれてくる縞模様の外の光が、空中に漂う埃を浮かび上がらせる。 「ええと、それじゃあまず、この部屋にあるごみ箱を化学講義室に持っていってくれ」 化学教師は、丸められた紙くずでいっぱいになった青いプラスチック製のごみ箱を指し示した。僕は頷いてそれを抱えると、化学講義室に向かった。
「だれがわざわざ好きで昼休みをつぶすんだよ」 授業中に化学教師が手伝ってくれる者を募ったとき、近くの席にいたクラスメイトの一人が、僕に小声で話しかけてきた。自分がそれにどのような返事をしたのかはすでに忘れてしまった。しかし、そのクラスメイトが僕の返事で笑い声をあげたことから、気の利いたことを僕は言ったのだろう。 陽気なクラスメイトたちに調子を合わせるのは簡単だった。テレビのバラエティ番組とドラマをチェックして、適当な相槌と作り笑顔を覚えておけば、大抵は足並みをそろえることができた。そうしておくことで僕は性格の明るい高校生の一人としてみんなに認知され、様々なわずらわしい障害は取り除かれる。 障害というのはつまり、これは僕の幼稚園時代の記憶なのだが、人形の顔をマジックで黒く塗りつぶして四肢を切断しなければいけないという強迫観念のもとにそれを実行し、周囲のものを心配がらせるといったことである。当時、母と幼稚園の先生が僕をちらちらと見て不安そうにしていたのを思い出す。 僕が嘘をつくのが上手になったのはそれからだった。たとえば絵を描くときに使っていたクレヨン。それまでは黒いクレヨンばかりが短くなっていったのだが、意識してすべての色のクレヨンが均等に短くなるよう心がけた。自分がどのような夢見がちな絵を描いたのかは覚えていないが、おそらく虹とか花とかそういうものだろう。そうしておけば周囲の大人達はほっとした。 世間で好かれるような価値観を知り、それを覚えて装うことで、僕は問題のない人間として生活することができる。クラスメイトたちとの特に興味のない会話にも、僕は陽気な調子で参加するという作業をこなさなくてはならない。 僕が化学準備室の片づけの手伝いをすることは、クラスメイトたちにはだまっていた。なぜなら教室での僕はそのようなことをするキャラクターではなかったし、積極的に手伝っていい人ぶっているというイメージを与えるのも避けたかったからだ。 それに、化学準備室の片づけをボランティアで手伝うことにしたわけではない。僕には思惑がある。 僕たちのクラスを教える化学教師には、試験の問題を化学準備室の机で作成するという噂があった。そのメモをごみ箱へ捨てる可能性があり、片づけのついでにそれを手に入れられないかと考えていたのだ。 一年生のとき、僕はたまたまその教師と準備室の片づけをしたことがあった。だから、片づけの手順はあらかじめ知っている。 まず、化学準備室にあったごみ箱を隣り合った化学講義室へ運び出す。そして準備室の整理を行ない、その後で先生といっしょにごみ捨てをする。整理中に次々とごみは増えていくので、それらを捨てるときはおそらく二人がかりになる。それが昨年の例だった。 ここで問題が発生する。このままでは、ごみ箱の中をゆっくり探る時間がないのだ。そのため、僕は次のような計画をたてる必要があった。 片づけを手伝う前に、あらかじめ他の教室からごみ箱を借りて、化学講義室に隠しておく。それから準備室を訪ね、片づけの手伝いをする。 昨年の通りだと、準備室のごみ箱を講義室へ運ぶようにと先生が僕に指示を出す。そうでなかった場合は、際を見て講義室に運びこむ。 学校内のごみ箱は、どの教室も統一されている。つまり化学準備室のごみ箱も、他の教室のごみ箱も、青いプラスチック製の同じ形なのだ。したがって、たとえ僕が、準備室にあったごみ箱と、あらかじめ選びこんで隠していた他の教室のごみ箱とを、講義室でひそかに入れ替えていたとしても、教師は気づかないというわけである。 テスト作成のメモが入っている可能性のある準備室のごみ箱は、教師の片づけを手伝っている間、化学講義室の机の下に隠しておく。片付けの仕上げとして教師と焼却炉まで運ぶのは、他の教室から移動させた方のごみ箱である。 後は、教師とのごみ捨てが終わり、解放されてから、ゆっくり化学講義室でごみの中からメモを探せばいい。 化学準備室を訪ねる前、すでに僕は隣の教室からごみ箱を勝手に拝借し、講義室の机の下に隠していた。準備はすべて整い、しかも昨年と同じように、化学教師は準備室のごみ箱を講義室へ運ぶよう指示した。何もかも順調である。 僕は計画を|覚《さと》られないよう自然な様子で先生に従い、ごみ箱を抱えて化学講義室に入った。二つの部屋は扉一枚でつながっており、廊下に出る必要はない。 計画外のことはそこで発生した。さきほどまでだれもいなかった化学講義室に、人がいた。その人物は講義室の隅にある六人掛けのテーブルにつき、一人静かに読書をしていた。髪の長い女子生徒で、化学講義室の薄暗い片隅に腰掛けているため影の塊のように見えた。今年の春から同じクラスメイトになった森野という生徒であることに、僕は気づいた。 彼女が顔を上げ、準備室の扉から出てきた僕を一瞬だけ見る。教室のほとんど対角線と同じ距離を越えて視線があった。それから興味がなさそうに、彼女は机の上に広げた本へ再び意識を向ける。 彼女も片づけを手伝いに来たのだろうかと思ったが、どうやら違うらしい。計画の支障にはならないと僕は判断した。 森野と話をしたことはなかったが、その存在の特異さは時々、目を引いた。彼女は目立つ生徒ではないが、目立たないことが逆に注目させるのだ。クラスには、活発で光を発しているようなカリスマを持った人間がいる。森野はそれを逆方向へ思いきりわがままに突き進んだような存在だった。楽しげに話しかけてくるクラスメイトたちを容赦なく無視し、常に孤立し、その孤独さを愛しているようだった。 講義室の片隅で読書している彼女を無視し、あらかじめ運んできて隠していたごみ箱と、抱えていたごみ箱とを僕はすり替えた。準備室からもってきたごみ箱は机の下に隠す。森野にその作業を気づかれた様子はなかった。 ごみ箱は森野といっしょに化学講義室の中に放置して、何事もなかったように準備室へ戻る。 「女の子がいたでしょう。彼女、昼休みになるとほぼ毎日、講義室に来るんだ」 化学の教師は言った。化学講義室は薄暗く、学校の中で特に静かな場所だった。ここへ来る彼女の気持ちはわかる。化学講義室は、普段の生活をしている教室とはあきらかに種類が異なっている。時間が止まったような静寂と、活発さを求めない暗さ。生き物の生死を観察するような生臭ささえ染みついているようで、居心地が良いと僕は思う。 僕は化学教師の指図するまま、棚の上にあった段ボールを下ろし、何の薬品の壜が入っているかを調べた。 教師は、準備室にあったパソコンのキーボードへ圧縮空気のスプレーを近づけ、キーの隙間に入り込んだ埃などをとっていた。凡帳面な性格らしい。 結局、最初から最後まで化学教師のそばで忙しく手伝わされ、やはりごみ箱の中を調べる時間などなかった。準備室の整理を終え、大量のごみを抱えて教師といっしょに化学講義室を出る。 「彼女みたいな染めていない黒くて長い髪の毛って、最近、めずらしいんじゃないか?」 教師は化学講義室の森野を振り返りながら言った。彼女の髪の毛はそれほど黒く、美しかった。僕の妹も髪の毛はあんな感じですよ、と教師に返事をする。 森野のほっそりした白い手が、本のページをめくっていた。薄暗い講義室の中で、内部からぼんやりと発光するように、その白さが目に焼きついた。 教師といっしょに焼却炉へごみを運び終え、その場で彼とは別れた。僕は足早に化学講義室へ向かう。午後の授業が始まる十分前だった。 講義室に入ると、すでに森野はいなくなっていた。もう教室へ向かったのだろう。作業をするのに好都合だった。 机の下に隠していたごみ箱を取りだし、だれも来ないことを確認して中を探った。しかし残念ながら、目的としていたものはそう都合よく入っていなかった。 そのかわり、ごみ箱の奥から、紙で厳重に包まれたものが出てきた。中を確認すると、腕の先端が切断された人形だった。 手に載るほどの小さな布製である。足先は残っていた。その造形から推測すると、切断された手には、指などの細かい部分は作られていなかっただろう。単純な作りの人形である。 しかし、手から先がない人形は、僕にある事件を思い出させた。 最近、テレビをにぎわせているリストカット事件である。道を歩いていた人間が、男女や年齢を問わず後ろから殴られて気絶させられ、手首を切断されるというものである。前足の先端を切断された猫や犬も発見され、同じ人間の犯行ではないかと議論されていた。いずれの事件も、ここからそう遠くない土地で発生している。 化学教師……篠原先生本人が、人形をこのような状態にしたのだろうか。 なんのために? ただの遊びだろうか? しかし僕は、先生がリストカット事件の犯人である可能性を考えた。手を切り取った人形が見つかっただけでそう考えるのは短絡的だとは思う。しかし犯人はこの世界のどこかに確実に存在しており、それが身近にいるかいないかは確率の問題だ。先生が人形の手を切り取る理由に思いをめぐらせた場合、彼の趣味の延長であるという意見を、僕は完全に否定できなかった。
手のない人形を見つけて以来、毎日、教室で僕はリストカット事件のことを考えた。中間試験が近いことさえほとんど意識にはなかった。この猟奇事件は、最近の事件の中では特に僕の気に入っているものだった。犯人の、手に対するおぞましい執着を考えると、僕は興味を引かれる。そしてこう思うのだ。 僕と同じ種類の人間がいる。 もちろん些細な部分で僕と犯人とは違うだろう。しかしそれでも僕は、そういった猟奇的な事件の犯人になぜか親しいものを感じることがあった。 休憩時間になると、僕の足は化学講義室の方角へ向かった。篠原先生とすれ違うためである。彼は僕のことを覚えており、顔を合わせるたびに片手をあげて挨拶を交わす。細身の体で短い髪の毛の、苦い男である。彼が本当にリストカット事件の犯人なのだろうかという、幾度も教室で繰り返した問いが胸の中をよぎる。 一度、篠原先生と森野が化学講義室の前で立ち話しているところに遭遇した。森野が脇に抱えている本を見て、その続きを自分も持っていると篠原先生は話をしていた。精神薄弱者をあつかったノンフィクション小説だった。森野はいつもの無表情さを崩さず、「そうですか」と答えていた。 教室での僕は、あいかわらずいろいろなことを偽って生活していた。できるだけ目立たない平均的な男子高校生として生きることは簡単ではあった。しかし、心の中は連日のニュースで報道される切断された手のことばかりが占めているというのに、いまどきと呼ばれる言葉遣いを使用して、周囲の人間と芸能人の話題ではしゃいでいるように見せかけるのは、つかれることだった。時々、そうしている自分が愚かであるようにも感じた。 森野は篠原先生の言った通り、頻繁に化学講義室へ通っているようだった。昼休みに講義室を覗くと、静かな空間にただ一人、彼女は座っていた。 森野は必ずいつも一人で行動していた。いじめられている、というわけではない。むしろ逆に、周囲の人間とは自分から縁を切っているような態度で、いつも席についている。自分はみんなとは趣味も嗜好も違うのだ、という雰囲気を無言で発散しているようだった。 「森野って、中学のときに自殺しようとしたらしいぜ」 そうだれかが言っていた。僕はそのことを意識して彼女の白い手を見つめる。なぜ彼女が死のうとしたのかはわからない。しかし、きっと森野にとっては生きにくい世界なのだろう。 もしも僕が周囲への演技をやめたとき、今の彼女のようになるのだろうかと考える。 僕が究極的に無感動で慈悲のない人間だと周囲の者たちが知ったとき、どれほど生きていくことが困難になるのだろう。そして、今の状況とそのときに置かれる立場とを比較して、どちらが孤独かというと、それはたいして変わらないにちがいない。 人形を見つけて三日後、僕はある計画を実行へ移すことにした。
† 3
篠原先生の家は、静かな住宅街の一画にあった。二階建てのどこにでもあるような家で、いかにも薄そうな白い壁は夕日のために黄色く染まっていた。周囲に人気はなく、上空の高いところを飛んでいる飛行横の小さな音が、家々の静かな並びの上を通っていく。 篠原先生は二年生のあるクラスの担任をしている。そのクラスにいた知人を通じて、先生の住所や、彼がそこで一人暮らしをしていることがわかった。 腕時計を見る。今日は木曜日で、先生たちはこの時間、職員室で会議をおこなっているはずである。まだしばらくは学校から帰ってこないはずだった。 周囲にだれもいないことを確認すると、門を抜けて家の裏手にまわった。小さな庭があり、物干し台がある。それだけだ。殺風景で何もない庭だった。雑草や昆虫もいない、ただの平らな地面の空間だ。家の裏手、庭に面したところに大きな窓があった。鍵がかかっていたので、手にタオルを巻きつけて叩き割る。耳をすませて隣の家から人がこないのを確認すると、鍵を開け、靴を脱いで侵入した。 リストカット事件の犯人は、人間の手首を切断し、手を持ち去っている。その後、被害者の手をどうしているのかは知られていない。眺めて楽しんでいると推測する人もいれば、食べているのではないかと言う人もいる。本当のところはわからない。しかし、どのような場合でも犯人は家の中にその証拠を残している可能性がある。篠原先生の家でそれを探すこと、まずはそれが目的だった。 割ったのはリビングの窓だった。割れたガラスの破片が洋間の床に散らばっている。踏んで怪我をしないよう、気をつけて歩いた。家の中は凡帳面に整理されていた。テーブルの上に置かれた雑誌、テレビやビデオのリモコンは、それぞれ整然と並べられている。 できるだけ音をたてないように歩いた。篠原先生が突然に帰ってくる場合のことを僕は心配していた。玄関の鍵穴に鍵が差しこまれる音を聞き逃してはならない。見つかる前に逃げる必要があった。 よく磨かれた廊下を歩く。電気をつけていないため薄暗かったが、窓から入る太陽の光が斜めに廊下を横切って壁を照らしていた。 階段を見つけた。僕は壁や手すりに触れないよう気をつけて階段を上がる。たとえ指紋を残しても、先生がリストカット率件の犯人であるなら警察に通報はしないだろう。しかし、僕がこの家に侵入したのだという形跡を、何一つ残したくはなかった。 二階へ行くと寝室があり、デスクトップのパソコンがあった。棚に本が並んでいる。大きさもそろえられ、定規で測ったように背表紙が連なっていた。埃なども見当たらない。 先生が犯人であることを示すものは何もない。 僕は自分の左手首に、右手の中指と人差し指をあてた。脈拍を測る。平常時よりも速くなっていた。それはつまり、自分が緊張しているという証拠である。僕は深く空気を吸いこみ、心拍を落ちつけるよう努めた。 手首のことを考えた。人間が生きているのか死んでいるのかを医者が確認するとき、手首で脈拍を測る。リストカット事件の被書者たちは、今後、どうやって医者に生死を確認してもらうのだろう。彼らに手首はない。 腕時計を確認する。学校では、ちょうど先生たちの会議が終わっているころだった。篠原先生が寄り道をせずすぐに家へ向かっているとしたら、急がなくてはいけない。 二階にある他の部屋に目を通す。箪笥や棚のある和室が二つあった。しかし、篠原先生が犯人であることを示すような手がかりはない。 部屋を出るたびに、自分が何も忘れ物をしていないことをチェックした。生徒手帳や制服のボタン、教科書や靴下……。何かを落としていることに気づかず、そこから身元が判明するというのは、最悪の失敗に思えた。なぜなら、気をつけていれば防ぐことのできることだからだ。 侵入した形跡を残しておらず、靴下も履いていることを確かめて、僕は一階へ下りた。 台所へ向かった。 篠原先生は自炊するのだろうか。食器の数は少なく、整理されている。流しに洗い物もためていない。台所にあるコップや調理器具など何もかもが、店から買ってきてそのまま使われもせず飾られているような生活感のなさだった。 テーブルの上に炊飯器が載っている。一人暮しをしているには大きすぎるサイズのものだった。先生の家族や、その歴史に関する情報はほとんど持ち合わせていない。もしかすると数年前まで先生以外の家族もいっしょに暮らしていたのかもしれない。それとも、特に炊飯器の大きさになど意味はないのかもしれない。 流しのステンレスは綺麗に磨かれて、窓から入る傾いた太陽を反射していた。電気をつけていない家の中は、時間を追うごとに暗くなっていく。流しに反射する色を帯びた光が唯一の光源となっている。冷蔵庫の低い音だけが辺りにあり、どこか化学講義室と同じ静寂さを感じた。自分の気持ちが静かになっていくのがわかる。 僕は台所の中央で自分の手首をとり、再度、脈拍を測った。左手首の皮膚の下で、血管がゆっくり一定の速度で脈打っている。その膨張と収縮の繰り返しが、指先に伝わってきた。平常時の速度である。 それが思いがけず唐突に速くなった。手首の中で、血管が爆発するように激しく脈打つ。 鼻が異様な臭いを嗅ぎ取っていた。何かが腐り、細菌の餌食になっていく臭いである。それからイメージさせるものが、僕の脈速度を上げていた。 臭いの元を探した。棚の陰や、引出しの奥には何もない。それから冷蔵庫に目をやった。 冷蔵庫の取っ手にハンカチをあてて、指紋をつけないよう注意して引く。冷蔵庫の扉を開けるとき独特の、密閉されていたものを引き剥がす音と感触。異臭が強くなり、僕は、篠原先生がリストカット事件の犯人であるという推測に間違いなかったことを知った。 冷蔵庫の冷えた空気の中、ランプに照らされて、手が並んでいた。冷蔵庫内の棚の上で、こちらがわに指先を向けてふせた状態で置かれている。指とその先端にある爪とが無数に連なり、ピアノの鍵盤のようだった。 奥に白い小皿がいくつかあった。犬や猫のものらしい前足の先端が載っている。化学準備室のごみ箱に入っていた人形の手らしいものが、ドアのポケットに入っていた。ただの小さな布の塊だったが、発見した人形と同じ色の布だったためにかろうじて人形の手だとわかった。 僕は、リストカット事件の犯人が切り取った手を保存しているという推測に以前から賛成していた。根拠はなく、ただ自分ならそうするというだけのことだったが、それは当たっていた。 手のひとつをとる。女性のものだ。爪に剥げかけた赤いマニキュアの跡がある。僕の手のひらの上に、冷たい重さがかかる。 死人の肌を触る。いや、死んではいないのだ。被害者はいずれも生きている。片手を失ったまま生活しているのだ。しかし、切り離された手首から先は、死んでいると考えてもいいはずだ。 手は、右手もあれは、左手もある。爪が変色して黒ずんでいるものもあれば、張りの残っている美しい肌の手もあった。 僕は手を幾度も撫でた。そして、篠原先生の心の一端を垣間見た気がした。おそらく普通の人間には理解できないだろうし、先生も自分以外に理解者の存在など信じないだろう。それでも僕は、篠原先生がだれもいない台所で一人、手を撫でて孤独を癒している様が容易に思い浮かぶのだ。 冷蔵庫の中に手があったことで、篠原先生が犯人であることが間違いなくなった。しかし、僕にはそれを警察に通報するという考えなどなかった。本来はそうするべきなのだろうが、興味がない。 ただ、僕の中には別の目的があった。 自分も、人間から切り取った手が欲しい。篠原先生のコレクションを直接触り、さらに強くそう感じる。 僕は冷蔵庫の中を見まわす。さまざまな手が並んでいる。どれも、今なら取り放題である。もちろんどれでもいいというわけではない。欲しい手は決まっている。しかし僕は目の前にある手をすべて、用意していた袋の中へ入れた。
篠原が勤め先の高校から帰ってきたとき、すでに辺りは暗くなっていた。玄関を抜けて家に上がり、居間へ向かう。そこで異変に気づいた。 窓が割られ、ガラスの破片がリビングの床に散らばっている。開け放たれたままの窓から涼しい外の風が部屋に入りこんでいる。何者かの侵入した形跡である。 すぐに考えは冷蔵庫に保存している手のことへ向かった。台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。 見たものが信じられなかった。朝のうちは賑やかにひしめきあっていた手が、すべて消えている。人間の手、犬猫の手、人形から切り取った手、それらがみんななくなり、冷蔵庫はほとんど空になっていた。残っているのは、手といっしょに入れていたわずかな食料だけである。 何かひっかかるものを感じた。それが何かはわからない。リビングに散らばっているガラスを片付けて綺麗にしなければいけないことと、消えてしまった手首のことで頭は一杯で、正常に思考ができなかった。 二階へ行き、パソコンを起動させて椅子に座る。 何者かが侵入して手を奪った。持って行かれた手のことを考える。 パソコンの載っている机の表面に、透明な水滴が落ちた。それが自分の頬を伝って顎先から落下したものだと知り、いつのまにか自分が泣いていることに篠原は気づいた。 これまでの人生の中で、切断したいくつもの手に触れたときほど、他人と親密に言葉を交わしたことはない。だれかが傍から見れば、自分は無言のまま何をしているのかわからないように思えただろう。しかし篠原は、何も言わない冷たい手の凹凸や弾力に触れることで世界と確かに言葉を交わし合っていた。 呼吸ができないほどの息苦しい怒りに襲われる。警察に通報されることを恐れてはいた。しかしそれよりも、自分から手を奪い去った人間に対する報復の方が重要だった。 手を奪っていった泥棒は、自分のしたことに値する罰を受けなければならない。これまでだれひとり殺さなかったが、その人物は最初の例外になるだろう。 泥棒をつかまえる。篠原は誓った。それからその人物の手首を切断し、手を救出する。後は首を締めるか心臓を刺すかして死に至らしめなくてはいけない。 それにしても犯人をどうやってつきとめればいいのだろう。篠原はパソコンの画面の前で両肘をつき、考えこむ。 キーボードの隙間にある埃が気になった。かたわらにいつも置いている圧縮空気のスプレーに手を伸ばしかける。そこで動きを止めた。自分の目が、キーボードの上であるものを発見した。 間違いない。それは犯人の落としていったものだった。それ以外には考えられない。小さなもので、見落としてしまうところだった。自分が気づいたのも奇跡に近いと篠原は思う。 それから冷蔵庫の中のことを思い出した。先ほど感じた違和感の正体がわかり、笑いがこみあげてくる。手を盗んでいった泥棒は失敗をしている。本当に惜しい間違いをおかした。そのために愚かにも自分の正体を知らせてしまったのだから……。
† 4
次の日の朝、篠原は内切り包丁を鞄に潜ませて勤め先の高校へ来た。いつも手首の切断に用いている包丁である。鞄の中にちょうどそれは収まった。職員室で同僚の教師たちと挨拶を交わすが、だれも鞄の中身には気づかない。 朝の校内は慌しい。職員室の外の廊下を、生徒たちが話をしながら足早に行き交う。もうじき一学期の中間試験がはじまるため、職員室のいくつかの机には、作成した試験問題の紙が置かれている。 同僚の教師が、もう篠原先生は問題を作りましたか、とたずねてきた。それに対して笑みを浮かべて答えを返す。このわずらわしい作業の上で自分の人生は成り立っていると篠原は思う。内心、いらついた。手。手だ。同僚の教師というよりも、手だった。最初に手があって、そこに同僚の教師と篠原の考えている人間がくっついているのだ。だからこのような会話に意味はない。 午前中は授業があり、手を盗み出した泥棒へ会いに行くことはできなかった。しかし、その正体はわかっている。早く捕まえて、冷蔵庫から盗み出した手の在り処を問い詰めなくてはならない。 まだ一晩が経過したばかりである。盗み出された手は、無事にどこかへ保管されていると信じたい。 手の隠し場所がわかったら、肉切り包丁で泥棒の手を切り取らなくてはいけない。体のほかの部分といっしょに、手まで死なせることはできなかった。それならばいっそ自分のものにしたい。 午前中最後の授業を、篠原は自分の担任するクラスを教えて過ごした。教室中の無数の手が、篠原の書いた黒板の文字をノートに書き写す。篠原のクラスには四十二人の生徒がいるため、手の数は八十四個ある。 篠原は試験範囲を説明しながら、冷蔵庫の中から盗み出されていた手について考えていた。 泥棒は食材だけ冷蔵庫に残したまま、手だけをすべて持ち去った。最初は気づかなかったが、そこがあまりにも不可解だ。 やがて、授業の終わりを示すチャイムが響く。高校はこの瞬間に午前中の授業をすべて終え、昼休みへと移る。 篠原は授業を終えて教室を出る。包丁の入った鞄は職員室に置いていた。それを取りに行く。 昼休みに入ったばかりの廊下は、一日のうちでもっとも騒々しく、賑やかである。もちろんそれらはすべて、篠原にとっては雑音にすぎない。 職員室でしばらく時間をおき、篠原は化学講義室へ向かった。
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僕は昼休みになると化学講義室へ向かった。扉を開けて中を確認すると、だれもいなかった。入って扉を閉める。校内の騒々しさから切り離され、化学講義室は、時間の止まったような静かな空間となる。 手首で脈拍を測ると、全力で走った後と同じ速度で血管が脈打っているのがわかる。自分の肌が固く張りつめており、それは僕が緊張しているからだった。 篠原先生は昨日、家に帰りついてからどうしただろう。手を盗まれているのを知り、どう思っただろう。怒りのために何も判断できない状態になっただろうか……。すべては推測するしかない。 午前中は篠原先生に会わなかったが、もしも会っていれは、知らないふりをしてやりすごすつもりだった。気をつけなければいけない。何かおかしな仕草をしてしまえば、たちまちすべてを見通される危険があった。しかしまだ、僕が手を盗んだことには気づかれていないと思う。もちろんそれは、たんなる希望でしかない。 ……もしかすると僕は、自分で気づいていないだけで何かミスをおかしているのかもしれない。しかしそれが何かは当然わからないのだ。もしもミスがあり、それが何なのかを復讐心にかられた篠原先生に指摘されることがあるとすれば、それは高い確率で僕の命が危険である瞬間だろう。 薄暗い無人の化学講義室内を眺めてそう考えていたとき、化学講義室の扉の前に、だれかの立つ気配がした。
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篠原は化学講義室の扉を開ける。一人の生徒が見えた。その顔を見た瞬間、激しい衝動を感じた。 ぶちのめしたい。胸に膨れ上がる感情を押さえつけ、軽くあいさつをする。まずは知らないふりをして近づこうと考えていた。 その生徒が篠原を見る。 「こんにちは先生」 何気ない、いつもと同じ様子である。しかし内心では自分のことを笑っているのだろうと篠原は思う。この生徒はこうやって演技をして自分に近づくことで、楽しんでいるにちがいない。手首を盗まれて動揺している自分をただ眺めるためだけにこの化学講義室へ来たのだろう。 篠原は吐き気にも似た怒りを隠しながら、その生徒のそばに歩み寄った。この生徒はまだ気づいていない。手首を盗んだ泥棒の正体に自分が気づいているのだということを、この生徒はまだ愚かにも気づかないまま逃げようともしない。不審がられずに背後へ立つのは容易にできた。 ……泥棒は、切り取った人形の手まで持ち去った。だれがあれを手だと認識できるだろう。ほんの小さな人形の手の先端部分である。指などの造形はない。切り取られた人形の手は、ただ少しの綿を包む半球の布である。それなのに犯人は、他の手といっしょにそれを持ち去った。 あれが手だとわかり、持ち去ることのできた人物……。それはもちろん、手の切り取られた人形を偶然に見てしまった人間だけだろう。おそらくその人形の発見を発端として、自分を教える教師がリストカット事件の犯人であることを推測したに違いない。 篠原は、目の前にいる生徒の肩に、自分の右手を置いた。生徒の肩が、震える。ゆっくりと首が回り、篠原の方に顔を向けた。 「……なんですか、先生」 演技が上手いものだ、と篠原はその生徒に対して思う。 手先のない人形は、化学準備室のごみ箱に捨てていた。それを見ることのできる人物は限られる。 すなわち、化学準備室の片づけをしたあの昼休み、化学講義室に置いていたごみ箱の中身をあさる時間のあった人物、森野という女子生徒のみである。自分を手伝ってくれていた男子生徒には、その時間はなかったはずだ。 「先生、この手を|退《ど》けてください。読書の邪魔です」 いつも通り化学講義室の片隅で読書をしていた少女は、珍しく眉を吊り上げて篠原に言った。記憶にある限り、この少女の表情が変化したのははじめてだった。 昨日、パソコンのキーボードの埃を見ていて気づいた。キーの隙間に、黒く長い髪の毛が落ちていたのだ。広い家の中でたった一本の髪の毛を見つけられたのは偶然だろう。篠原の髪は短かったため、自分の髪の毛であるはずがない。侵入者が長い髪の毛の持ち主であることがそれでわかった。 それに本棚。目の前の少女が読んでいる本の続編が本棚に並んでいる。それが微妙にいつもと位置がずれていた。背表紙は凡帳面にそろえている。五ミリメートルでもずれていればわかった。おそらくこの女がそれを見つけた際にうっかり手をのばしてしまったのだろう。 疑いようがない。手を盗んだ泥棒は目の前にいるこの生徒だ。 篠原は、森野の肩に置いた手へ力を加え、強く握り締めた。そのまま、握りつぶそうと思った。森野が顔をしかめる。 「手を、どこに隠したのか言いなさい」 できるだけ紳士的に、篠原は命令した。しかし、森野は痛みを訴えながら篠原の手から逃げようとするばかりで返事をしない。机の上に広げられていた本が、床に落ちる。 「手は、どこにありますか?」 力を緩めて、聞き取りやすいようゆっくりとたずねる。いつもなら何を話しかけても無表情な様子で篠原をあしらっていたその生徒は、わけがわからないといった顔で首を振る。 知らないふりをしているのだ、と篠原は思った。そう考えた瞬間、いつのまにか少女の細い首に手を回し、力をこめていた。 森野が大きく目を広げて自分を見る。驚愕する顔である。やわらかい首の肌に、自分の手や指が食いこんでいく。自分は今この少女を殺そうとしているが、それもしかたのないことだな、と篠原は考えた。それで、そのまま力を加えつづけることにした。 もうしばらくこうしていれば、この女子生徒は動かなくなるだろう。そう考えたときだった。篠原の視界の端で、森野が小さな細長い円筒状のものを手にしているのが見えた。何かのスプレーだと瞬間的にわかったが、それに気づいて意識したとき、すでに射出口は目の前にあった。 圧縮されたガスの吹き出る音。篠原は目に激痛を覚えた。
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森野は痴漢撃退用のスプレーを携帯していたらしい。篠原先生はそれをあびせられて、その上、椅子で頭を殴られた。 森野は大声で人を呼んだ。悲鳴などではなかった。ただ冷静に、大きな声で人を呼んだ。 しばらくすると声を聞きつけた生徒や先生たちが講義室に集まった。篠原先生は、野次馬たちの騒ぐ講義室の中心で床にはいつくばり、痛む目を押さえていた。 化学講義室が人であふれ返ったどさくさにまぎれるまで、僕は隠れていた教壇の裏から出ることはできなかった。
† エピローグ
篠原先生は警察に逮捕されたが、リストカット事件の犯人としてではなく、もっとみじめな罪で社会から制裁を受けた。今でも彼の本当の罪を知っている人間はいない。 彼は今、教師の職をおわれて遠い地に住みついている。リストカット事件はその後、新しい被書者を増やすことはなかった。 先生の家から持ち出した手は、すべて僕の家の庭先に埋めていた。それらはあまり必要のないものだった。なぜなら僕は、篠原先生のように手ならなんでもいいというわけではないからだ。 あのとき、森野が手を盗んだ犯人であると先生に思わせようとした。 先生の家で冷蔵庫の中を確認し、予想通りすべての手を捨てずに保存していることを僕は知った。その事実と人形の手を利用して先生の意識を森野に向かわせることは、家に侵入する以前から考えていた。人形の手について気づくほど、先生が頭のいい人間で良かったと思う。ただ、僕がごみ箱をすりかえて、後でゆっくりあさる時間があったことを先生は知らなかっただけなのだ。 さらに、森野と同じ黒く長い髪の毛を、先生の家に残してきた。うちで採取した妹の髪の毛が、それには都合がよかった。どこにそれを置けば発見される確率が高いのか、化学準備室の片づけをする際、先生がキーボードの隙間の埃をスプレーでとっているのを思い出して考え付いた。 たまたま本棚にあった森野に関係した本をずらしたのは、わざとらしい駄目押しだったかもしれない。 森野が手を盗んだ泥棒であると判断し、先生が彼女を殺して手を切断すれば、僕の計画は完成だった。後は先生が彼女の切断した手を冷蔵庫に保存するのを待って、それを盗みに行けばいいのだ。もちろん様々な部分に不確定な要素は多くあった。そもそも、先生が森野を殺したとして、必ず手首を切断して持ち帰るとはかぎらないのだ。しかし達成できる可能性はゼロではなかった。 僕が欲しかったのはただひとつ、森野の優美な白い手だけだった。 「私にも、その表情のつくりかたを教えてくれる?」 教室で放課後、はじめて森野が僕に話しかけてきたとき、彼女はそんなことを言った。 僕はたいてい、だれかと話をするときは微笑みを絶やさなかった。しかし、内心ではまったくの無表情であることを、森野はなぜか気づいていたらしい。だれにも見破られなかった演技を、彼女の嗅覚はかぎとったのだ。 それ以来、僕たちはお互いに話し相手を得た。それは友人と呼べない冷たい関係だったかもしれない。しかし、彼女と応対するときだけ、僕は演技をせず思ったことをそのまま顔表面の皮膚に伝えることができた。したがって僕の額の筋肉は休憩時間を得たわけである。それはつまり、みんなにひた隠しにしていた僕の心の無表情さや非人間的な部分を、森野は心地よい無関心さで許したということだった。
世間の人がリストカット事件のことを忘れてしばらくたった。学校では夏休みが終わり、二学期がはじまっている。 放課後の傾いた日差しが校庭を黄色に染めている。教室の開け放した窓から風が入り、僕の机の前に立つ森野の長い髪の毛を揺らす。 「……それでその映画、本物のフリークスが俳優として起用されているんだけど、すごく変な話だったわ。フリークスたちがおみこしみたいなのをかついでいたりするの」 森野の話を聞きながら、僕は心当たりのある映画の題名を言ってみた。彼女はひかえめに少しだけ驚いた顔をした。それは表情をあまり変えない彼女の、驚愕に値する顔だった。 「正解」 ドイツの女性監督の映画である。そしてこのような変な作品に興味を示すのは、僕の知るところでは自分と森野だけだった。 「ところで、リストカット事件って覚えてるかい」 僕は話題を変えた。 「春ごろに起きていた事件ね」 「もしもきみがその被害者になっていたら、今ごろどうしてた?」 森野は自分の両手昔をじっと見つめた。 「……たぶん、腕時計を巻くたびに困っていたでしょうね。でも、なぜいきなりそんなことを聞くの?」 森野は不思議そうにした。 今でも彼女は、痴漢だと思って撃退したのがリストカット事件の犯人であることに気づいていない。そして僕は、時折、今でも彼女の手に見とれるのだ。もしかすると篠原先生に切断させなくて良かったかもしれないと思う。それは、生きている方が美しいといったことではない。篠原先生は間違った個所で切断してしまいかねなかった。 「別に、なんでもない」 そう返事をして、下校するために立ちあがる。 僕が森野の手を欲しいと思ったのは、自殺しようとしたことを示すリストカットの美しい傷跡が手首に残っていたからだ。 [#改ページ] Ⅲ 犬 Dog [#改ページ]
† 1
点々と血を滴らせながら、相手は草の茂みへ逃げこもうとする。しかし、私にとって前に回りこむのは簡単だった。その四本足の動物は全身に傷を負い、すでに体力を消耗しきって動きを鈍らせている。 私はそろそろ、相手を楽にしてあげたいと思った。もう反撃をするような強い意志など、残っていないだろう。 私はその動物の首筋を、上顎と下顎の間にはさんだ。口の中で、相手の首の骨が折れる。その音と感触が、顎から伝わってくる。その動物は脱力し、私の顎にぶら下がった。 容赦はしない。本当はこんなことしたくはないのだけど、ユカがこうすることを望むのだ。だから私は、相手を殺す。 上顎と下顎を開けると、口からその動物の体が落下する。地面に力なく横たわる。瞳に光は無く、完全に沈黙している。 私は吠えた。 この四本足の動物は、さきほど私とユカが橋の下へつれてきたものだった。ある家の前を通りかかったとき、ユカが立ち止まって、品定めをするように門の奥を見ていたのだ。彼女の視線の先を見ると、この動物が首を傾げて私たちを見返していた。ユカが私を見て言った。 今夜の獲物はこの子にしよう。 私は、ユカの話す言葉が理解できるというわけではない。でも、何と言っているのか、漠然とわかる。 この儀式は時々、夜に行なっている。これで何度目になるだろう。町で見つけた獲物を、私とユカだけが知っている橋の下の秘密の空地へ連れていく。ユカは、そこで私と彼らを戦わせる。 彼女の命令に私は従う。ユカの命じるまま、私は地を駆ける。相手に飛びかかり、はね飛ばす。獲物となる四本足の動物は、いつも私より体が小さい。だから私が本気でぶつかると、相手は簡単に転がり、傷を負う。体毛に血が飛び散り、骨が折れる。 私が勝つと、ユカは微笑む。嬉しそうにする。言葉は通じないが、彼女の感情は、川の水のように私の中へ流れこんでくるのだ。だから、彼女が喜んでいるのだということがよくわかる。 ユカは、私が小さかったころからの友達だ。彼女にはじめて会ったとき、私には、いっしょに生まれた他の兄弟たちがいた。彼らと母親の懐に抱かれて眠っているとき、ユカは好奇心旺盛な顔で私を見下ろしていたのだ。そのことをいまだに覚えている。 私の吠える声は、半分、夜の空を渡る。もう半分は、橋の底に反響して巨大なうねりとなる。頭上近くにかかる巨大な橋は夜空の多くを占めており、見上げると裏側が黒い闇となっている。 幅の広い大きな川に、巨大な橋がかかっている。橋の|袂《たもと》から土手を下りた川辺は、一面に広がる背の高い草の海だった。その中を進むときは、草を掻き分けなければいけない。しかし、橋の下の辺りに、草の生えていない小さな空間がある。そこだけ日当たりが悪いのか、円形の空地となっている。私たちが、今、そこにいた。 夏の日に私とユカはその空地を発見した。真ん中に立つと、まわりを草の壁に囲まれているように見える。発見して以来、そこは秘密の遊び場所だった。 しかし今、空地は、ユカが私を戦わせる場所になっている。 私は、他の動物を噛み殺したくはない。でも、ユカがそうしろと望む。そのときの彼女の目は、光のない真っ暗な夜のようだった。 ユカは、円形の空地の、端の方に座って私の戦いを見ていた。その彼女が、立ちあがる。 帰ろう。 そう考えていることが伝わった。私たちの絆に言葉はいらない。 |屍《し》|骸《がい》をくわえて、穴へ捨てに行く。空地から|叢《くさむら》の中へ少し分け入ったところに、その穴はあった。 放りこむと、小さな相手の体は穴の縁にぶつかり、力なく転がって落ちる。それほど深い穴ではないが、底は暗くてよく見えない。私の耳は、相手の体が穴の底に着地する音を聞いた。 穴はもとからこの場所にあった。だれかが何かを埋めようとして掘ったものかもしれない。闇の中に沈んで見えないが、穴の底にはユカが私に殺させた無数の動物の屍骸が敷き詰められているはずだ。近寄ると、穴からはひどい臭いがした。 はじめて橋の下でこの儀式をやったとき、そこへ屍骸を捨てるようにユカが命令した。私はそのころ戦い方がわかっておらず、相手の屍骸と同じくらいに自分もぼろぼろになっていた。相手と向き合っても、頭が真っ白になるだけで、どうすればいいのかわからなかったのだ。でも、今はもう戦うことになれていた。冷静に相手を殺すことができる。強くなった私を見て、ユカは満足そうにする。 噛みついた際に抜けた相手の体毛が、私の口の中に多く残っていた。それを飲みこみながら水のある場所へ向かった。高い草の中を少し進むと、急に視界が開ける。 広大な流れる水が広がっており、雑草の林はそのほとりで急に途切れている。水はあまりにも黒く、川というよりも、巨大な樹がただ広がっているだけのように見える。頭上の席に並んでいる電灯が、対岸まで川面に点々と写りこんでいた。私は川の水で血に塗れた口を洗い、ユカの待っている空地へ戻る。 ほら、もう行くよ。 ユカがコンクリートの階段へ向かいながら、そのような意味の声を発した。階段は、土手の斜面に合わせて作られており、川辺に広がる雑草の中から橋の袂まで続いている。空地から階段のある場所まで、やはり草の茂みを通らなければいけない。彼女のそばに駆け寄り、いっしょになって階段を目指した。 階段を上がっている途中、そばの叢を振りかえる。 草の尖った葉の先端が、ゆっくりと左右に揺れていた。一瞬、だれかがそこにいるのかと身構える。私は緊張した。耳をすませ、気配を感じ取ろうとする。しかし、どうやら風のせいだったらしい。 ユカはすでに階段を上がりきったところで、私がくるのを待っていた。私は階段を駆け上がり、秘密の場所を後にした。
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一日の授業が終わって学校を離れた僕は、駅前でクラスメイトの森野と合流した。駅前には大きなバスのターミナルがあり、噴水や花堀のあるちょっとした広場となっている。いくつかベンチが設置され、ひまな時間をもてあましている人々がそこに座る。 森野はベンチのひとつに腰掛けていた。通りから離れた場所で、植木が太陽をさえぎって日陰となっている。彼女はいつもひまな時間は本を読んでいる。しかし今は違っていた。本は閉じてかたわらに置いている。 彼女はベンチに前傾姿勢でうつむいていた。そのため、長い髪の毛がベールのように顔を隠していた。 僕が近寄ると、彼女は顔を上げ、振り向いた。太陽とは縁のない陶器のような白い顔で、左目の下に小さなほくろがある。人形のように生気の感じられない顔立ちである。動かなければ、マネキンの仕事ができるだろう。 彼女は無言で地面を指差した。白い石の板が歩道一面に敷き詰められており、彼女の足元に、小さなごみくずのようなものがある。よく見ると、少しずつ動いている。 蝶が蟻に解体されて運ばれようとしている。蟻の顎に支えられ、ヨットの帆のように立ちあがった蝶の羽根が、地面の敷石に影を落としている。彼女はそれを熱心に見つめていたらしい。 駅前で待ち合わせをしなければならない必要が、あるわけではなかった。スケジュール的には、いっしょに学校を出て、並んで下校してもよかった。しかし、彼女は学校で少々、知名度が高い。風貌や雰囲気、彼女にまつわる逸話などのせいで、歩いていると、振りかえられる場合が多い。そのように目立つ彼女と、あまり頻繁に並んで歩いているところを見られたくなかった。 もっとも、彼女は周囲のそのような雑音を気にしている様子がない。それは、他人を意識するという回路が断線しているからだろう。あるいは、注目されているなどとは気づいていないだけかもしれない。彼女には、少し鈍感なところがあった。 「では、行きますか」 彼女はそう言うと、立ちあがって歩き出した。僕も同じ方向に向かう。これから、彼女がいつも通っている古本屋に案内してもらう約束だった。 「私しか客がいないような、小さな店なの」 教室で店の名前を聞いたが、僕の知らない古本屋だった。彼女に大まかな店の位置を教えてもらったが、聞いただけではよくわからない。 黒板に地図を描いてもらったが、彼女の描く地図は地球上のどこにもありえないような地形で、解読が困難だった。白いチョークで線をひきながら、彼女自身、なぜ川の中にその古本屋が建っているのかを不思議がっていた。そこで、実際に案内してもらうことになったのだ。 店の並んでいる区域を抜けて、住宅地へ彼女は入る。空は晴れており、太陽が背中に当たるのを感じた。道は前方にまっすぐ延びて、両側に一戸建ての家が並んでいる。歩きなれている道なのか、森野は淀みなく歩みをすすめていた。 「最近、近所で起こっているペットの誘拐事件、知っているかい」 僕は彼女に尋ねた。 「ペット誘拐?」 彼女は首を傾げた。どうやら知らないらしい。僕は、歩きながら説明した。 うちの近所の家で飼われていた犬が、朝、起きると、忽然と消えていたそうだ。朝食の席で父と母がその話をしていた。 「最近、多いわね」 母がそうつぶやいていた。僕はテレビなどで異常な犯罪の情報をこまめに調べていたが、近所の事件については母の方が詳しかった。 母の話では、一週間のうちに二回、水曜と土曜の朝、庭で飼っていた動物が消えているのだという。ということは、火曜と金曜の深夜に犯行が行なわれているということだ。消えたペットは、すべて犬だった。最近は誘拐されることを警戒して、夜になると飼い犬を家の中にいれておく家が増えたという。 僕の話を、森野は熱心に聞いていた。僕が知っていることを話し終えても、彼女は、「他に情報はないの?」と知りたがっていた。首を横にふると、彼女は何か考えるような素振りを見せた。 ペットの誘拐事件が彼女の気をひくというのは少し意外だった。知り合って以来、彼女が犬や猫、ハムスターなどの話題を持ち出したことはなく、動物には興味がないのだと思っていた。 「その誘拐犯人は、あれを連れ去ってどうしているのかしら?」 「あれ?」 「嫌な臭いのする四本足の動物よ。うるさく吠えるやつ」 犬のことだろうか。彼女は前方を見据えながらさらにつぶやいていた。 「わからないわ。あの動物をたくさん集めて何をたくらんでいるのかしら。軍団を組織するつもりかしら。さっぱりわからない」 ひとり言のようだったので、僕は特に返事をしなかった。 「ちょっと待って」 古本屋に向かって隣を歩いていた森野が、急に立ち止まる。僕も歩くのをやめた。 正面の遠くにあるT字路の突き当たりまで、まだ道は続いている。僕は彼女に、なぜ立ち止まったのか理由を聞かせてほしいという意味をこめて視線を向けた。 「静かにしてっ」 彼女は人差し指を立てた。 視線を向けただけの人間にそのような台詞を吐くほど、彼女は気が立っているらしい。耳をそばだてて、何かの気配を感じ取ろうとしている。 僕には、特別な物音は何も聞こえなかった。ただどこかで犬が鳴いているだけである。その他は静かな午後だった。じっとしていると、背中に当たる太陽の暖かさばかりが感じられた。 「だめだわ、この先は通れない」 やがて彼女はそう言いきった。 道の先をよく見たが、特に工事をして通行止めになっているような様子はなかった。実際、老人の乗った自転車が、ゆっくりと僕たちの横を通りすぎていく。 「古本屋はあきらめましょう。この道、以前は通れたのに……」 理由をたずねてみたが、彼女は悔しそうに、首を横にふるだけである。これまで歩いてきた道を、彼女は戻り始める。 森野は普段、だれにどう思われようと自分を貫く部分があった。クラスメイトたちには染まらず、他人のどのような言葉も気にかけない。ほとんどの時間を一人、無表情に過ごしている。そのような彼女から、ここまで悔しそうな顔を引き出して敗北させるのは、よっぽどのことがあると感じた。 もう一度、僕は道を調べた。通りの両隣には家が並んでいる。少し先にある家の門から、犬小屋が見えた。最近、飼い始めたのだろうか、真新しい犬小屋だった。わずかに、そこから犬の息遣いが聞こえる。それ以外の音を、僕は探した。最初、犬のことは頭から切り離していた。 気づくまで、しばらく時間がかかった。 そのうちに森野は足早に二十メートルほど道を戻っていた。後を追いかけると、再び彼女は立ち止まり、片手を水平に上げて僕に注意した。 「危ない。これ以上、進まないで」 彼女は視線を先に向けたまま、下唇を噛んでいた。 「はさまれたわ」 緊張を|孕《はら》んだ声で彼女はうめいた。 道の先から、大きな犬をつれた女の子が歩いてくる。 犬はゴールデンレトリバーである。豊かな毛並みをしていた。首輪につながった紐を女の子が握っている。背が低く、痩せ細った女の子だった。小学三年生ぐらいの年齢だろうか。肩までの髪の毛が、歩くたびに跳ねていた。 横を通り過ぎる瞬間、僕は、彼女の連れた犬と目があった。前足を踏み出すたびに上下する犬の瞳の表面に、僕の姿が映りこむ。 深い黒色の、知的な目をしていた。僕は吸い寄せられるようにその瞳を見つめる。 目の表面に映りこんでいた僕の姿が消えた。犬は僕から視線を外し、女の子を見上げる。 やがて犬を連れた少女は僕の横を通りすぎて、すぐそばの家へ入っていった。赤い屋根をした平屋の建物である。 「ただいま……」 そう言った少女の声が聞こえる。ゴールデンレトリバーも玄関を抜けて家に入った。外に犬小屋などが見えない。中で飼っているのだろう。 少女と犬がいなくなると、壁際にぴったりと体を寄せていた森野が何事もなかったように歩き出した。特別に何かコメントがあるだろうと思っていたが、無言だった。態度も表情もいつも通りだったため、森野にとってさきほどのことは日常のありふれた儀式なのだと理解する。 「この道が、こんなに危険だったなんて知らなかったわ」 彼女は悔しそうに言った。他の道を使って古本屋に行けないのかとたずねたが、それだと非常に遠回りになるので面倒だそうだ。彼女はすでに案内する気が失せているらしい。 森野の隣に追いつきながら、僕はまた犬が消え去る事件のことを考えた。なぜ、一週間に二回、 |