徣毪工搿qkを行き交う大勢の人波に遮られ、見え隠れしながら、その姿が確認できた。 森野が腕組を解いた。右手に持っていた缶ジュースに、一度、視線を落とす。 壁の広告にもたれかかっていた彼女の背中が、離れた。その動きに少し遅れて長い髪の毛がついていく。止まっていた川の水が音もなく静かに流れを再開するように、そろそろと彼女は歩き出した。 あまりにも静かな動作だったので、森野が動き出したことに、一瞬、僕は気づかなかった。彼女の意思が読めず、最初のうち、目で追うだけだった。その背中が人通りの中へ埋没したとき、ようやく僕も後を追う気になった。 彼女の視線の先に、北沢夏海の姿があった。切符を購入して、改札に向かっている。森野夜は、どこか夢遊病者を思わせる心もとない足取りで、北沢夏海を目指して歩いていた。しかし、人ごみの中を歩くのになれていないらしい。行き交う人々に、次から次へとぶつかる。彼女なりに避けようとしているらしいが、まるで狙っているとしか思えないタイミングで、帰宅を急ぐ背広姿の人や若い女性に衝突する。そのたびに跳ね返されて、鼻を押さえながら、また歩き出す。僕はこれまで生きてきて、ここまで不器用に人ごみを歩けない人間を見たことがない。だから、彼女の背中に追いつくのはかんたんだった。 そうしているうちに、北沢夏海は雑踏に紛れて改札を通りぬけた。人通りに対して改札の数は少なく、大勢の人間がその辺りに集中している。僕と森野の前に多くの人間の背中や頭があり、視界を遮って、ついに北沢夏海の姿は見えなくなった。どうやら彼女は、森野に気づかないまま駅構内へ向かったようだ。 森野がまた、人に衝突した。相手は体の大きな中年の男性で、ダンプカーと三輪車の衝突事故を思わせた。彼女は跳ね返され、よろめき、後ろをついて歩いていた僕に倒れ掛かってきた。僕は、顎に頭突きをくらった。それは、ここ数ヶ月のうちに起こったいろいろなことの中で、もっとも大きなダメージだった。しかし彼女は僕に気づいた様子もなく、ただ前方の、北沢夏海の消えたところに目を向けていた。姿勢を立てなおし、やや躊躇うように顎をひいた後、肩を張って大きな声をあげた。 「夏海さん!」 普段の彼女からは想像できない、大きな声だった。細い体のどこに拡声機が仕組まれているのかと思った。辺り一帯にあったすべての音、雑踏や話し声が、一瞬、消えた。歩いていた大勢の人が驚いた顔で立ち止まり、沈黙し、彼女を見た。 森野が、再度、歩き始める。まっすぐに、北沢夏海の消えた改札へ進む。声を聞いて立ち止まっていた人々は、彼女のために体を避けて道をあけた。僕も後を追う。 再びざわめきが駅に戻り、人々は歩き出した。そのときすでに森野は改札へ駆けよっていた。彼女は電車通学をしているわけではなかったので、切符も定期も持っておらず、自動改札機を通り抜けることはできなかった。閉ざされた改札の手前で立ち止まる。 「森野さん?」 北沢夏海の声が聞こえた。改札の向こう側にある人波の間から、彼女の姿が現れる。声を聞いて戻ってきたのだろう。驚いたという表情をして小走りに近づいてくると、改札を挟んで森野と向かい合わせの位置に立った。その改札を抜けようとしていた人々が、立ち止まっている森野のために足止めを食らい、周囲は一気に混雑さを増した。しかし森野は気にしなかった。 「夏海さん、これをあげる」 森野は、持っていた柑橘系の缶ジュースを改札越しに差し出した。 「あ、ありがとう……」 北沢夏海が戸惑いながらそれを受け取る。 「さっきは、不機嫌になっていてごめんなさい。あなたともっとよくお話をするべきだった。……お姉さんと仲直りしたそうですね」 森野と、そのそばにいる僕へ向かって、改札を通れない大勢の人間の視線が集中していた。騒ぎを見た駅員がこちらを気にして駆け寄ってこようとしている。僕は森野の左腕を引っ張り、そこから退かせようとした。しかし彼女は、わずかに姿勢を崩しながらも反抗して北沢夏海の正面から動かなかった。 「私も、姉と喧嘩中で……。いえ、少し違うけど……。とにかく、おめでとうってあなたに言いたかったの。ただそれだけ」 言い終えると森野は僕に手を引かれて改札の脇に退いた。まるで体重などないように、彼女は軽かった。人の波が動き、僕と森野の前を洪水のように流れ出す。一瞬で北沢夏海の姿は人の流れに飲まれて消えた。その直前、彼女が森野に向かって口もとをほころばせ、ありがとう、と言ったのを僕は聞いた。 森野は放心したように力の消えうせた状態で、僕の手にひかれるまま改札のそばから去った。いつのまにか彼女は鞄を持っていない。周囲を探すと、さきほどまで立っていた壁際の地面に放置されていた。 僕は森野の手をひいて、外人女性の大きく写っている広告の前に戻る。人ごみの中、森野を引いて歩くのはつかれる作業だった。押されて、流されようとする彼女をつなぎとめておかないといけなかった。彼女は前方を見ておらず、下ばかり見ている。口が小さく動いて、何か言葉を発しているようだったが、雑踏にかき消されて聞こえなかった。 鞄の落ちている場所に辿り着き、人の流れから外れて、ようやく彼女の声が聞こえた。 「神山君は私と正反対だと思うわ……」 彼女はそればかり、何度もつぶやいていたらしい。 この後、彼女は駅前から徒歩で自分の家へ向かわなければいけない。僕は電車に乗るため、彼女は一人になる。森野にはどこか精神状態に危うさが残っており、無事に帰ることができるかどうか疑問の余地があった。 「最初あなたは、私に似ていると思ったの。姉さんと同じ雰囲気を持っていたから。でも、違う。私たちは似ていない……」 森野の鞄は、シンプルな黒色のものだった。それを拾って、手に握らせる。次の瞬間、鞄が落下して音をたてる。 拾い上げて、もう一度、取っ手を握らせるが、無駄だった。彼女にはつかんでおく気力がないらしい。指が鞄の重さに負けて開き、取っ手は手の中から離れる。 「神山君はときどき、心が空っぽのまま笑っているような気がするの。気を悪くしたらごめんなさい……、私の知っているあなたと、みんなと楽しそうに振舞っているあなたが、とても違うからそう感じるだけなのかもしれないけど……。私はあなたが、ときどきすごく憐れに思えるの……」 伏し目がちに彼女は言った。声がわずかに震えて、泣き出す直前の子供のようだと思った。 「言っておくけど私は逆よ……」 彼女は顔を上げて僕の目を見た。背は僕のほうが高く、そばに立つと、彼女が見上げる格好となる。特に表情があるわけではないが、彼女の目は赤味を帯びて、水分を多く含んでいる。 「言われなくても知っている」 僕の言葉を聞いても、彼女はしばらく沈黙したまま動かなかった。やがて、ゆっくりと顔をうつむかせ、頷く。 「そう、それならいいの……。おかしなことを言ってごめんなさい……」 拾い上げた鞄を彼女に差し出すと、まるで何事もなかったように受け取る。取っ手をしっかりと握り締め、今度は離さなかった。 目の前を過ぎる人の流れに、彼女は目を向ける。右に行く人もいれば、左に行く人もいた。正確に彼女が何を見ているのかはわからなかった。ただ、僕たちの前を、大勢の人間が歩いているだけだった。彼女が口を開き、静かに言った。 「夏海さんのこと、私は本当に良かったと思っているの。それに、うらやましかった……」 僕の手を借りないいつもの立ち姿に、彼女は戻っていた。僕たちは別れの挨拶もしないまま、その場所で反対方向に歩き出した。 [#改ページ] あとがき Postscript [#改ページ] できあがってみると、手帳と姉妹と犬の本になっていました。GOTHの一話目を書いたときは、まさかこのようにシリーズ化して短編集にするとは思っていなかったので、不思議な気持ちです。一話目の『暗黒系』は、もともと、角川スニーカー文庫『ミステリアンソロジー・殺人鬼の放課後』に収録する予定で書きました。しかし、妙にこの主人公コンビが気に入った僕と担当編集者は、勢い余って、あといくつか同じキャラで短編を作ってみることにしたのです。そのため、急遽、アンソロジーのために『seven rooms』という別の話を書くことになりました。 僕はこれまで、人間が回復する話を好んで書いていました。ほかのことにいまいち興味がわかなかったからです。書きたいものを書くのはいいことだと思うのですが、馬鹿のひとつ覚えだなと、自分のことを恥じています。そしていつのまにか「せつないものを書く人」という肩書きができていました。このGOTHは、そういった方向性とはちがうものだったので、楽しくもあり、心配でもありました。 二話日の『リストカット事件』を書いたとき、知り合いのホームページの掲示板に、「せつなくない」「乙一のウリであるせつなさが感じられない」という感想があって憂鬱になりました。やばい、GOTHは失敗だ、とも思いました。同時に、「せつない」という言葉への軽い恐怖症にかかりました。ところで、僕本人は、「せつない」というのをウリにしたいと思ったことはあまりありません。もちろん、本の中身が「せつない」のであれは、そういう売り方をしないと本が売れないわけですけど……。でもそういう売り方は、人の尊い部分を資本主義の汚い手で触れているような気がします。祈りをお金に換算する怪しい宗教団体と同じキナ臭さがあるように思うのですが、気にしすぎでしょうか。 また、僕はこれまでミステリというものをないがしろにしてきた気がします。もちろん、ミステリ作家としてデビューしたわけではないので、こだわる必要はないのですが。物語を最終的に収束させるやりかたとしてミステリ的な方法を使うと、なんだか書く方としては楽なので、よく利用していました。でも、そのやりかたが安易だった気がするのです。 たとえば、ドラマ部分とミステリ部分がかちあったときなど、迷わずミステリ部分を単純にして物語を作りました。途中で犯人がわかろうが、構いませんでした。そのため、知人に「あの話、途中で犯人がわかったよ」と言われたとき戸惑いました。そこを重要に感じる人もいることは知っていましたが、自分にもそれが求められているのだなと、あらためて感じました。そこで、GOTHの一話目と二話目は特に、ドラマなんてひとまずいいからとにかくミステリをやろう、という気持ちで書きました。 三話目の『犬』はさておき、四話目の『記憶』は、この本に収録されている短編の中で、最後にプロットが作られた話です。他の話が出揃って、「なんかいまいち森野の影がうすいかも」という気持ちから、即席に作ったものでした。したがって、森野のキャラクターがまさかあのような秘密を持っていたとは、作者の自分も知りませんでした。してやられました。 五話目の『土』は、担当編集者が一番、気に入っている話だそうです。そういえば担当編集者の青山さんのことを、「小説ソムリエ」と僕はときどき呼んでいます。小説を書き終えた後、青山さんに読んでもらって、違和感やおかしな部分を指摘してもらうというのがいつものやり方なのですが、そのときの青山さんの仕事っぷりといったら、ワインの雑味を探し出しているようにも見えるのです。舌の上で、文章が分解され、吟味されているのがわかります。今回とくにお世話になりました。ありがとうございます。 六話目の『声』。この話を考えていたころ、もはやネタに困っており、「なにかこう、おもしろい異常者の設定ってないですかね」と編集者に話しかけたことを覚えています。そういえば、僕はスニーカー文庫の『妖魔夜行シリーズ』が好きでした。そのシリーズが毎回いろいろな妖怪を出したように、GOTHも毎回、いろいろ変な人を出そうと思っていました。僕はこのGOTHという話を、ファンタジーとして書きました。吸血鬼ものでもあります。 僕は作中で、異常快楽殺人者のことを「生まれついてそうだった」というふうに書きました。つまり、人間ではなく、怪物のように描いてしまったのです。そのことに今でも僕は引っかかっています。もちろんこれは、ファンタジー作品の特殊な設定と同じもので、現実もそうだとは決して思っていません。そこをどうか取り違えないようにお願いします。 最後になりましたが、今回もまたいろいろな人にお世話になりました。雑誌掲載時に挿絵を描いてくださった緒方則志先生、ありがとうございました。装幀デザインを担当してくださったみなさん、どうもありがとうございます。担当青山さんも小説ソムリエ的におつかれさまでした。 GOTHの続きをまたいつかやろう、短編も長編も、という話もあるのですが、なにも思いつきません。はたしてどうすればいいのでしょうか。あるいは、二度と出ないかもしれません。書くとしたらどうせ主人公の妹が死体を発見する話なのだろうなと思います。それでは。
二〇〇二年六月 [#地付き]乙 一 [#改ページ] [#ここから6字下げ] 初出 暗黒系 ザ・スニーカー01年12月号 リストカット事件 ザ・スニーカー02年2月号 犬 書き下ろし 記憶 書き下ろし 土 書き下ろし 声 書き下ろし [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 乙一(おついち) 1978年福岡県生まれ。「夏の花火と私の死体」で第六回 ジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞しデビュー。先日、 病院にて、「安楽死したいときはいつでも来てください。 いい薬ありますから」と医者に言われる。うれしかった。
GOTH《ゴス》 リストカット事件《じけん》
平成14年7月1日 初版発行
著 者 乙一《おついち》 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 東京都千代田区富士見2-13-3 〒102-8177 振替 00130-9-195208 電話 編集部 03-3238-8694 営業部 03-3238-8521 印刷所 暁印刷 製本所 本間製本株式会社
落丁・乱丁本はご面倒でも 小社営業部受注センター読者係宛にお送りください。 送料は小社負担でお取り替えいたします。 ◎Otuichi 2002 Printed in Japan ISBN4-04-873390-7 C0093
写真 厚地健太郎 ヘア&メイク 米花 スタイリスト 鬼束香奈子 モデル 吉川知見(ミル・ヴィサージュアジャンス) プロデューサー 栗本知機 [#改ページ] 乙一の本 角川スニーカー文庫
きみにしか聞こえない CALLING YOU 定価:476円(税別)
友達のいないリョウは携帯電話を空想していた。心の中にしかない携帯電話でも、握ってみるとさみしさを忘れられる気がしたのだ。しかしある日、空想のはずの着信音が、実際に聞こえてきた!? おそるおそる受けた電話の向こうにいたのは……? ふたつのさみしい心が共鳴して起きた、現代のおとぎ話。 同時収録「傷」「華歌」
失踪HOLIDAY 定価:552円(税別)
14歳の冬休み、私はいなくなった──。 継母とケンカして家を飛び出したナオ。潜伏したのは、家の敷地内にある使用人の部屋。その三畳間から、家族のようすをコッソリと観察することにしたのだったが? 「じぶんの居場所」を探す少女の、果敢で無敵なものがたり。 同時収録「しあわせは子猫のかたち」
2002年秋刊行 未来予報
僕と彼女は、たまたま近所に住んでいるというだけの、ただの幼なじみだった。ところが、「未来が見える」という同級生が、「おまえら、将来結婚するぜ」と告げたことから、お互いに目を合わせられなくなってしまう。せつない想いのゆくえは……? 同時収録「手を握る泥棒の話」「フィルムの中の少女」
角川書店
平成十七年九月二日 校正 ぴよこ
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