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GOTH リストカット事件
作者:    出处:咖啡日语    发表时间:2007-09-20    浏览次数:     

手伝っている間、化学講義室の机の下に隠しておく。片付けの仕上げとして教師と焼却炉まで運ぶのは、他の教室から移動させた方のごみ箱である。
 後は、教師とのごみ捨てが終わり、解放されてから、ゆっくり化学講義室でごみの中からメモを探せばいい。
 化学準備室を訪ねる前、すでに僕は隣の教室からごみ箱を勝手に拝借し、講義室の机の下に隠していた。準備はすべて整い、しかも昨年と同じように、化学教師は準備室のごみ箱を講義室へ運ぶよう指示した。何もかも順調である。
 僕は計画を|覚《さと》られないよう自然な様子で先生に従い、ごみ箱を抱えて化学講義室に入った。二つの部屋は扉一枚でつながっており、廊下に出る必要はない。
 計画外のことはそこで発生した。さきほどまでだれもいなかった化学講義室に、人がいた。その人物は講義室の隅にある六人掛けのテーブルにつき、一人静かに読書をしていた。髪の長い女子生徒で、化学講義室の薄暗い片隅に腰掛けているため影の塊のように見えた。今年の春から同じクラスメイトになった森野という生徒であることに、僕は気づいた。
 彼女が顔を上げ、準備室の扉から出てきた僕を一瞬だけ見る。教室のほとんど対角線と同じ距離を越えて視線があった。それから興味がなさそうに、彼女は机の上に広げた本へ再び意識を向ける。
 彼女も片づけを手伝いに来たのだろうかと思ったが、どうやら違うらしい。計画の支障にはならないと僕は判断した。
 森野と話をしたことはなかったが、その存在の特異さは時々、目を引いた。彼女は目立つ生徒ではないが、目立たないことが逆に注目させるのだ。クラスには、活発で光を発しているようなカリスマを持った人間がいる。森野はそれを逆方向へ思いきりわがままに突き進んだような存在だった。楽しげに話しかけてくるクラスメイトたちを容赦なく無視し、常に孤立し、その孤独さを愛しているようだった。
 講義室の片隅で読書している彼女を無視し、あらかじめ運んできて隠していたごみ箱と、抱えていたごみ箱とを僕はすり替えた。準備室からもってきたごみ箱は机の下に隠す。森野にその作業を気づかれた様子はなかった。
 ごみ箱は森野といっしょに化学講義室の中に放置して、何事もなかったように準備室へ戻る。
「女の子がいたでしょう。彼女、昼休みになるとほぼ毎日、講義室に来るんだ」
 化学の教師は言った。化学講義室は薄暗く、学校の中で特に静かな場所だった。ここへ来る彼女の気持ちはわかる。化学講義室は、普段の生活をしている教室とはあきらかに種類が異なっている。時間が止まったような静寂と、活発さを求めない暗さ。生き物の生死を観察するような生臭ささえ染みついているようで、居心地が良いと僕は思う。
 僕は化学教師の指図するまま、棚の上にあった段ボールを下ろし、何の薬品の壜が入っているかを調べた。
 教師は、準備室にあったパソコンのキーボードへ圧縮空気のスプレーを近づけ、キーの隙間に入り込んだ埃などをとっていた。凡帳面な性格らしい。
 結局、最初から最後まで化学教師のそばで忙しく手伝わされ、やはりごみ箱の中を調べる時間などなかった。準備室の整理を終え、大量のごみを抱えて教師といっしょに化学講義室を出る。
「彼女みたいな染めていない黒くて長い髪の毛って、最近、めずらしいんじゃないか?」
 教師は化学講義室の森野を振り返りながら言った。彼女の髪の毛はそれほど黒く、美しかった。僕の妹も髪の毛はあんな感じですよ、と教師に返事をする。
 森野のほっそりした白い手が、本のページをめくっていた。薄暗い講義室の中で、内部からぼんやりと発光するように、その白さが目に焼きついた。
 教師といっしょに焼却炉へごみを運び終え、その場で彼とは別れた。僕は足早に化学講義室へ向かう。午後の授業が始まる十分前だった。
 講義室に入ると、すでに森野はいなくなっていた。もう教室へ向かったのだろう。作業をするのに好都合だった。
 机の下に隠していたごみ箱を取りだし、だれも来ないことを確認して中を探った。しかし残念ながら、目的としていたものはそう都合よく入っていなかった。
 そのかわり、ごみ箱の奥から、紙で厳重に包まれたものが出てきた。中を確認すると、腕の先端が切断された人形だった。
 手に載るほどの小さな布製である。足先は残っていた。その造形から推測すると、切断された手には、指などの細かい部分は作られていなかっただろう。単純な作りの人形である。
 しかし、手から先がない人形は、僕にある事件を思い出させた。
 最近、テレビをにぎわせているリストカット事件である。道を歩いていた人間が、男女や年齢を問わず後ろから殴られて気絶させられ、手首を切断されるというものである。前足の先端を切断された猫や犬も発見され、同じ人間の犯行ではないかと議論されていた。いずれの事件も、ここからそう遠くない土地で発生している。
 化学教師……篠原先生本人が、人形をこのような状態にしたのだろうか。
 なんのために? ただの遊びだろうか?
 しかし僕は、先生がリストカット事件の犯人である可能性を考えた。手を切り取った人形が見つかっただけでそう考えるのは短絡的だとは思う。しかし犯人はこの世界のどこかに確実に存在しており、それが身近にいるかいないかは確率の問題だ。先生が人形の手を切り取る理由に思いをめぐらせた場合、彼の趣味の延長であるという意見を、僕は完全に否定できなかった。

 手のない人形を見つけて以来、毎日、教室で僕はリストカット事件のことを考えた。中間試験が近いことさえほとんど意識にはなかった。この猟奇事件は、最近の事件の中では特に僕の気に入っているものだった。犯人の、手に対するおぞましい執着を考えると、僕は興味を引かれる。そしてこう思うのだ。
 僕と同じ種類の人間がいる。
 もちろん些細な部分で僕と犯人とは違うだろう。しかしそれでも僕は、そういった猟奇的な事件の犯人になぜか親しいものを感じることがあった。
 休憩時間になると、僕の足は化学講義室の方角へ向かった。篠原先生とすれ違うためである。彼は僕のことを覚えており、顔を合わせるたびに片手をあげて挨拶を交わす。細身の体で短い髪の毛の、苦い男である。彼が本当にリストカット事件の犯人なのだろうかという、幾度も教室で繰り返した問いが胸の中をよぎる。
 一度、篠原先生と森野が化学講義室の前で立ち話しているところに遭遇した。森野が脇に抱えている本を見て、その続きを自分も持っていると篠原先生は話をしていた。精神薄弱者をあつかったノンフィクション小説だった。森野はいつもの無表情さを崩さず、「そうですか」と答えていた。
 教室での僕は、あいかわらずいろいろなことを偽って生活していた。できるだけ目立たない平均的な男子高校生として生きることは簡単ではあった。しかし、心の中は連日のニュースで報道される切断された手のことばかりが占めているというのに、いまどきと呼ばれる言葉遣いを使用して、周囲の人間と芸能人の話題ではしゃいでいるように見せかけるのは、つかれることだった。時々、そうしている自分が愚かであるようにも感じた。
 森野は篠原先生の言った通り、頻繁に化学講義室へ通っているようだった。昼休みに講義室を覗くと、静かな空間にただ一人、彼女は座っていた。
 森野は必ずいつも一人で行動していた。いじめられている、というわけではない。むしろ逆に、周囲の人間とは自分から縁を切っているような態度で、いつも席についている。自分はみんなとは趣味も嗜好も違うのだ、という雰囲気を無言で発散しているようだった。
「森野って、中学のときに自殺しようとしたらしいぜ」
 そうだれかが言っていた。僕はそのことを意識して彼女の白い手を見つめる。なぜ彼女が死のうとしたのかはわからない。しかし、きっと森野にとっては生きにくい世界なのだろう。
 もしも僕が周囲への演技をやめたとき、今の彼女のようになるのだろうかと考える。
 僕が究極的に無感動で慈悲のない人間だと周囲の者たちが知ったとき、どれほど生きていくことが困難になるのだろう。そして、今の状況とそのときに置かれる立場とを比較して、どちらが孤独かというと、それはたいして変わらないにちがいない。
 人形を見つけて三日後、僕はある計画を実行へ移すことにした。

   † 3

 篠原先生の家は、静かな住宅街の一画にあった。二階建てのどこにでもあるような家で、いかにも薄そうな白い壁は夕日のために黄色く染まっていた。周囲に人気はなく、上空の高いところを飛んでいる飛行横の小さな音が、家々の静かな並びの上を通っていく。
 篠原先生は二年生のあるクラスの担任をしている。そのクラスにいた知人を通じて、先生の住所や、彼がそこで一人暮らしをしていることがわかった。
 腕時計を見る。今日は木曜日で、先生たちはこの時間、職員室で会議をおこなっているはずである。まだしばらくは学校から帰ってこないはずだった。
 周囲にだれもいないことを確認すると、門を抜けて家の裏手にまわった。小さな庭があり、物干し台がある。それだけだ。殺風景で何もない庭だった。雑草や昆虫もいない、ただの平らな地面の空間だ。家の裏手、庭に面したところに大きな窓があった。鍵がかかっていたので、手にタオルを巻きつけて叩き割る。耳をすませて隣の家から人がこないのを確認すると、鍵を開け、靴を脱いで侵入した。
 リストカット事件の犯人は、人間の手首を切断し、手を持ち去っている。その後、被害者の手をどうしているのかは知られていない。眺めて楽しんでいると推測する人もいれば、食べているのではないかと言う人もいる。本当のところはわからない。しかし、どのような場合でも犯人は家の中にその証拠を残している可能性がある。篠原先生の家でそれを探すこと、まずはそれが目的だった。
 割ったのはリビングの窓だった。割れたガラスの破片が洋間の床に散らばっている。踏んで怪我をしないよう、気をつけて歩いた。家の中は凡帳面に整理されていた。テーブルの上に置かれた雑誌、テレビやビデオのリモコンは、それぞれ整然と並べられている。
 できるだけ音をたてないように歩いた。篠原先生が突然に帰ってくる場合のことを僕は心配していた。玄関の鍵穴に鍵が差しこまれる音を聞き逃してはならない。見つかる前に逃げる必要があった。
 よく磨かれた廊下を歩く。電気をつけていないため薄暗かったが、窓から入る太陽の光が斜めに廊下を横切って壁を照らしていた。
 階段を見つけた。僕は壁や手すりに触れないよう気をつけて階段を上がる。たとえ指紋を残しても、先生がリストカット率件の犯人であるなら警察に通報はしないだろう。しかし、僕がこの家に侵入したのだという形跡を、何一つ残したくはなかった。
 二階へ行くと寝室があり、デスクトップのパソコンがあった。棚に本が並んでいる。大きさもそろえられ、定規で測ったように背表紙が連なっていた。埃なども見当たらない。
 先生が犯人であることを示すものは何もない。
 僕は自分の左手首に、右手の中指と人差し指をあてた。脈拍を測る。平常時よりも速くなっていた。それはつまり、自分が緊張しているという証拠である。僕は深く空気を吸いこみ、心拍を落ちつけるよう努めた。
 手首のことを考えた。人間が生きているのか死んでいるのかを医者が確認するとき、手首で脈拍を測る。リストカット事件の被書者たちは、今後、どうやって医者に生死を確認してもらうのだろう。彼らに手首はない。
 腕時計を確認する。学校では、ちょうど先生たちの会議が終わっているころだった。篠原先生が寄り道をせずすぐに家へ向かっているとしたら、急がなくてはいけない。
 二階にある他の部屋に目を通す。箪笥や棚のある和室が二つあった。しかし、篠原先生が犯人であることを示すような手がかりはない。
 部屋を出るたびに、自分が何も忘れ物をしていないことをチェックした。生徒手帳や制服のボタン、教科書や靴下……。何かを落としていることに気づかず、そこから身元が判明するというのは、最悪の失敗に思えた。なぜなら、気をつけていれば防ぐことのできることだからだ。
 侵入した形跡を残しておらず、靴下も履いていることを確かめて、僕は一階へ下りた。
 台所へ向かった。
 篠原先生は自炊するのだろうか。食器の数は少なく、整理されている。流しに洗い物もためていない。台所にあるコップや調理器具など何もかもが、店から買ってきてそのまま使われもせず飾られているような生活感のなさだった。
 テーブルの上に炊飯器が載っている。一人暮しをしているには大きすぎるサイズのものだった。先生の家族や、その歴史に関する情報はほとんど持ち合わせていない。もしかすると数年前まで先生以外の家族もいっしょに暮らしていたのかもしれない。それとも、特に炊飯器の大きさになど意味はないのかもしれない。
 流しのステンレスは綺麗に磨かれて、窓から入る傾いた太陽を反射していた。電気をつけていない家の中は、時間を追うごとに暗くなっていく。流しに反射する色を帯びた光が唯一の光源となっている。冷蔵庫の低い音だけが辺りにあり、どこか化学講義室と同じ静寂さを感じた。自分の気持ちが静かになっていくのがわかる。
 僕は台所の中央で自分の手首をとり、再度、脈拍を測った。左手首の皮膚の下で、血管がゆっくり一定の速度で脈打っている。その膨張と収縮の繰り返しが、指先に伝わってきた。平常時の速度である。
 それが思いがけず唐突に速くなった。手首の中で、血管が爆発するように激しく脈打つ。
 鼻が異様な臭いを嗅ぎ取っていた。何かが腐り、細菌の餌食になっていく臭いである。それからイメージさせるものが、僕の脈速度を上げていた。
 臭いの元を探した。棚の陰や、引出しの奥には何もない。それから冷蔵庫に目をやった。
 冷蔵庫の取っ手にハンカチをあてて、指紋をつけないよう注意して引く。冷蔵庫の扉を開けるとき独特の、密閉されていたものを引き剥がす音と感触。異臭が強くなり、僕は、篠原先生がリストカット事件の犯人であるという推測に間違いなかったことを知った。
 冷蔵庫の冷えた空気の中、ランプに照らされて、手が並んでいた。冷蔵庫内の棚の上で、こちらがわに指先を向けてふせた状態で置かれている。指とその先端にある爪とが無数に連なり、ピアノの鍵盤のようだった。
 奥に白い小皿がいくつかあった。犬や猫のものらしい前足の先端が載っている。化学準備室のごみ箱に入っていた人形の手らしいものが、ドアのポケットに入っていた。ただの小さな布の塊だったが、発見した人形と同じ色の布だったためにかろうじて人形の手だとわかった。
 僕は、リストカット事件の犯人が切り取った手を保存しているという推測に以前から賛成していた。根拠はなく、ただ自分ならそうするというだけのことだったが、それは当たっていた。
 手のひとつをとる。女性のものだ。爪に剥げかけた赤いマニキュアの跡がある。僕の手のひらの上に、冷たい重さがかかる。
 死人の肌を触る。いや、死んではいないのだ。被害者はいずれも生きている。片手を失ったまま生活しているのだ。しかし、切り離された手首から先は、死んでいると考えてもいいはずだ。
 手は、右手もあれは、左手もある。爪が変色して黒ずんでいるものもあれば、張りの残っている美しい肌の手もあった。
 僕は手を幾度も撫でた。そして、篠原先生の心の一端を垣間見た気がした。おそらく普通の人間には理解できないだろうし、先生も自分以外に理解者の存在など信じないだろう。それでも僕は、篠原先生がだれもいない台所で一人、手を撫でて孤独を癒している様が容易に思い浮かぶのだ。
 冷蔵庫の中に手があったことで、篠原先生が犯人であることが間違いなくなった。しかし、僕にはそれを警察に通報するという考えなどなかった。本来はそうするべきなのだろうが、興味がない。
 ただ、僕の中には別の目的があった。
 自分も、人間から切り取った手が欲しい。篠原先生のコレクションを直接触り、さらに強くそう感じる。
 僕は冷蔵庫の中を見まわす。さまざまな手が並んでいる。どれも、今なら取り放題である。もちろんどれでもいいというわけではない。欲しい手は決まっている。しかし僕は目の前にある手をすべて、用意していた袋の中へ入れた。

 篠原が勤め先の高校から帰ってきたとき、すでに辺りは暗くなっていた。玄関を抜けて家に上がり、居間へ向かう。そこで異変に気づいた。
 窓が割られ、ガラスの破片がリビングの床に散らばっている。開け放たれたままの窓から涼しい外の風が部屋に入りこんでいる。何者かの侵入した形跡である。
 すぐに考えは冷蔵庫に保存している手のことへ向かった。台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。
 見たものが信じられなかった。朝のうちは賑やかにひしめきあっていた手が、すべて消えている。人間の手、犬猫の手、人形から切り取った手、それらがみんななくなり、冷蔵庫はほとんど空になっていた。残っているのは、手といっしょに入れていたわずかな食料だけである。
 何かひっかかるものを感じた。それが何かはわからない。リビングに散らばっているガラスを片付けて綺麗にしなければいけないことと、消えてしまった手首のことで頭は一杯で、正常に思考ができなかった。
 二階へ行き、パソコンを起動させて椅子に座る。
 何者かが侵入して手を奪った。持って行かれた手のことを考える。
 パソコンの載っている机の表面に、透明な水滴が落ちた。それが自分の頬を伝って顎先から落下したものだと知り、いつのまにか自分が泣いていることに篠原は気づいた。
 これまでの人生の中で、切断したいくつもの手に触れたときほど、他人と親密に言葉を交わしたことはない。だれかが傍から見れば、自分は無言のまま何をしているのかわからないように思えただろう。しかし篠原は、何も言わない冷たい手の凹凸や弾力に触れることで世界と確かに言葉を交わし合っていた。
 呼吸ができないほどの息苦しい怒りに襲われる。警察に通報されることを恐れてはいた。しかしそれよりも、自分から手を奪い去った人間に対する報復の方が重要だった。
 手を奪っていった泥棒は、自分のしたことに値する罰を受けなければならない。これまでだれひとり殺さなかったが、その人物は最初の例外になるだろう。
 泥棒をつかまえる。篠原は誓った。それからその人物の手首を切断し、手を救出する。後は首を締めるか心臓を刺すかして死に至らしめなくてはいけない。
 それにしても犯人をどうやってつきとめればいいのだろう。篠原はパソコンの画面の前で両肘をつき、考えこむ。
 キーボードの隙間にある埃が気になった。かたわらにいつも置いている圧縮空気のスプレーに手を伸ばしかける。そこで動きを止めた。自分の目が、キーボードの上であるものを発見した。
 間違いない。それは犯人の落としていったものだった。それ以外には考えられない。小さなもので、見落としてしまうところだった。自分が気づいたのも奇跡に近いと篠原は思う。
 それから冷蔵庫の中のことを思い出した。先ほど感じた違和感の正体がわかり、笑いがこみあげてくる。手を盗んでいった泥棒は失敗をしている。本当に惜しい間違いをおかした。そのために愚かにも自分の正体を知らせてしまったのだから……。

   † 4

 次の日の朝、篠原は内切り包丁を鞄に潜ませて勤め先の高校へ来た。いつも手首の切断に用いている包丁である。鞄の中にちょうどそれは収まった。職員室で同僚の教師たちと挨拶を交わすが、だれも鞄の中身には気づかない。
 朝の校内は慌しい。職員室の外の廊下を、生徒たちが話をしながら足早に行き交う。もうじき一学期の中間試験がはじまるため、職員室のいくつかの机には、作成した試験問題の紙が置かれている。
 同僚の教師が、もう篠原先生は問題を作りましたか、とたずねてきた。それに対して笑みを浮かべて答えを返す。このわずらわしい作業の上で自分の人生は成り立っていると篠原は思う。内心、いらついた。手。手だ。同僚の教師というよりも、手だった。最初に手があって、そこに同僚の教師と篠原の考えている人間がくっついているのだ。だからこのような会話に意味はない。
 午前中は授業があり、手を盗み出した泥棒へ会いに行くことはできなかった。しかし、その正体はわかっている。早く捕まえて、冷蔵庫から盗み出した手の在り処を問い詰めなくてはならない。
 まだ一晩が経過したばかりである。盗み出された手は、無事にどこかへ保管されていると信じたい。
 手の隠し場所がわかったら、肉切り包丁で泥棒の手を切り取らなくてはいけない。体のほかの部分といっしょに、手まで死なせることはできなかった。それならばいっそ自分のものにしたい。
 午前中最後の授業を、篠原は自分の担任するクラスを教えて過ごした。教室中の無数の手が、篠原の書いた黒板の文字をノートに書き写す。篠原のクラスには四十二人の生徒がいるため、手の数は八十四個ある。
 篠原は試験範囲を説明しながら、冷蔵庫の中から盗み出されていた手について考えていた。
 泥棒は食材だけ冷蔵庫に残したまま、手だけをすべて持ち去った。最初は気づかなかったが、そこがあまりにも不可解だ。
 やがて、授業の終わりを示すチャイムが響く。高校はこの瞬間に午前中の授業をすべて終え、昼休みへと移る。
 篠原は授業を終えて教室を出る。包丁の入った鞄は職員室に置いていた。それを取りに行く。
 昼休みに入ったばかりの廊下は、一日のうちでもっとも騒々しく、賑やかである。もちろんそれらはすべて、篠原にとっては雑音にすぎない。
 職員室でしばらく時間をおき、篠原は化学講義室へ向かった。

   †

 僕は昼休みになると化学講義室へ向かった。扉を開けて中を確認すると、だれもいなかった。入って扉を閉める。校内の騒々しさから切り離され、化学講義室は、時間の止まったような静かな空間となる。
 手首で脈拍を測ると、全力で走った後と同じ速度で血管が脈打っているのがわかる。自分の肌が固く張りつめており、それは僕が緊張しているからだった。
 篠原先生は昨日、家に帰りついてからどうしただろう。手を盗まれているのを知り、どう思っただろう。怒りのために何も判断できない状態になっただろうか……。すべては推測するしかない。
 午前中は篠原先生に会わなかったが、もしも会っていれは、知らないふりをしてやりすごすつもりだった。気をつけなければいけない。何かおかしな仕草をしてしまえば、たちまちすべてを見通される危険があった。しかしまだ、僕が手を盗んだことには気づかれていないと思う。もちろんそれは、たんなる希望でしかない。
 ……もしかすると僕は、自分で気づいていないだけで何かミスをおかしているのかもしれない。しかしそれが何かは当然わからないのだ。もしもミスがあり、それが何なのかを復讐心にかられた篠原先生に指摘されることがあるとすれば、それは高い確率で僕の命が危険である瞬間だろう。
 薄暗い無人の化学講義室内を眺めてそう考えていたとき、化学講義室の扉の前に、だれかの立つ気配がした。

   †

 篠原は化学講義室の扉を開ける。一人の生徒が見えた。その顔を見た瞬間、激しい衝動を感じた。
 ぶちのめしたい。胸に膨れ上がる感情を押さえつけ、軽くあいさつをする。まずは知らないふりをして近づこうと考えていた。
 その生徒が篠原を見る。
「こんにちは先生」
 何気ない、いつもと同じ様子である。しかし内心では自分のことを笑っているのだろうと篠原は思う。この生徒はこうやって演技をして自分に近づくことで、楽しんでいるにちがいない。手首を盗まれて動揺している自分をただ眺めるためだけにこの化学講義室へ来たのだろう。
 篠原は吐き気にも似た怒りを隠しながら、その生徒のそばに歩み寄った。この生徒はまだ気づいていない。手首を盗んだ泥棒の正体に自分が気づいているのだということを、この生徒はまだ愚かにも気づかないまま逃げようともしない。不審がられずに背後へ立つのは容易にできた。
 ……泥棒は、切り取った人形の手まで持ち去った。だれがあれを手だと認識できるだろう。ほんの小さな人形の手の先端部分である。指などの造形はない。切り取られた人形の手は、ただ少しの綿を包む半球の布である。それなのに犯人は、他の手といっしょにそれを持ち去った。
 あれが手だとわかり、持ち去ることのできた人物……。それはもちろん、手の切り取られた人形を偶然に見てしまった人間だけだろう。おそらくその人形の発見を発端として、自分を教える教師がリストカット事件の犯人であることを推測したに違いない。
 篠原は、目の前にいる生徒の肩に、自分の右手を置いた。生徒の肩が、震える。ゆっくりと首が回り、篠原の方に顔を向けた。
「……なんですか、先生」
 演技が上手いものだ、と篠原はその生徒に対して思う。
 手先のない人形は、化学準備室のごみ箱に捨てていた。それを見ることのできる人物は限られる。
 すなわち、化学準備室の片づけをしたあの昼休み、化学講義室に置いていたごみ箱の中身をあさる時間のあった人物、森野という女子生徒のみである。自分を手伝ってくれていた男子生徒には、その時間はなかったはずだ。
「先生、この手を|退《ど》けてください。読書の邪魔です」
 いつも通り化学講義室の片隅で読書をしていた少女は、珍しく眉を吊り上げて篠原に言った。記憶にある限り、この少女の表情が変化したのははじめてだった。
 昨日、パソコンのキーボードの埃を見ていて気づいた。キーの隙間に、黒く長い髪の毛が落ちていたのだ。広い家の中でたった一本の髪の毛を見つけられたのは偶然だろう。篠原の髪は短かったため、自分の髪の毛であるはずがない。侵入者が長い髪の毛の持ち主であることがそれでわかった。
 それに本棚。目の前の少女が読んでいる本の続編が本棚に並んでいる。それが微妙にいつもと位置がずれていた。背表紙は凡帳面にそろえている。五ミリメートルでもずれていればわかった。おそらくこの女がそれを見つけた際にうっかり手をのばしてしまったのだろう。
 疑いようがない。手を盗んだ泥棒は目の前にいるこの生徒だ。
 篠原は、森野の肩に置いた手へ力を加え、強く握り締めた。そのまま、握りつぶそうと思った。森野が顔をしかめる。
「手を、どこに隠したのか言いなさい」
 できるだけ紳士的に、篠原は命令した。しかし、森野は痛みを訴えながら篠原の手から逃げようとするばかりで返事をしない。机の上に広げられていた本が、床に落ちる。
「手は、どこにありますか?」
 力を緩めて、聞き取りやすいようゆっくりとたずねる。いつもなら何を話しかけても無表情な様子で篠原をあしらっていたその生徒は、わけがわからないといった顔で首を振る。
 知らないふりをしているのだ、と篠原は思った。そう考えた瞬間、いつのまにか少女の細い首に手を回し、力をこめていた。
 森野が大きく目を広げて自分を見る。驚愕する顔である。やわらかい首の肌に、自分の手や指が食いこんでいく。自分は今この少女を殺そうとしているが、それもしかたのないことだな、と篠原は考えた。それで、そのまま力を加えつづけることにした。
 もうしばらくこうしていれば、この女子生徒は動かなくなるだろう。そう考えたときだった。篠原の視界の端で、森野が小さな細長い円筒状のものを手にしているのが見えた。何かのスプレーだと瞬間的にわかったが、それに気づいて意識したとき、すでに射出口は目の前にあった。
 圧縮されたガスの吹き出る音。篠原は目に激痛を覚えた。

   †

 森野は痴漢撃退用のスプレーを携帯していたらしい。篠原先生はそれをあびせられて、その上、椅子で頭を殴られた。
 森野は大声で人を呼んだ。悲鳴などではなかった。ただ冷静に、大きな声で人を呼んだ。
 しばらくすると声を聞きつけた生徒や先生たちが講義室に集まった。篠原先生は、野次馬たちの騒ぐ講義室の中心で床にはいつくばり、痛む目を押さえていた。
 化学講義室が人であふれ返ったどさくさにまぎれるまで、僕は隠れていた教壇の裏から出ることはできなかった。

   † エピローグ

 篠原先生は警察に逮捕されたが、リストカット事件の犯人としてではなく、もっとみじめな罪で社会から制裁を受けた。今でも彼の本当の罪を知っている人間はいない。
 彼は今、教師の職をおわれて遠い地に住みついている。リストカット事件はその後、新しい被書者を増やすことはなかった。
 先生の家から持ち出した手は、すべて僕の家の庭先に埋めていた。それらはあまり必要のないものだった。なぜなら僕は、篠原先生のように手ならなんでもいいというわけではないからだ。
 あのとき、森野が手を盗んだ犯人であると先生に思わせようとした。
 先生の家で冷蔵庫の中を確認し、予想通りすべての手を捨てずに保存していることを僕は知った。その事実と人形の手を利用して先生の意識を森野に向かわせることは、家に侵入する以前から考えていた。人形の手について気づくほど、先生が頭のいい人間で良かったと思う。ただ、僕がごみ箱をすりかえて、後でゆっくりあさる時間があったことを先生は知らなかっただけなのだ。
 さらに、森野と同じ黒く長い髪の毛を、先生の家に残してきた。うちで採取した妹の髪の毛が、それには都合がよかった。どこにそれを置けば発見される確率が高いのか、化学準備室の片づけをする際、先生がキーボードの隙間の埃をスプレーでとっているのを思い出して考え付いた。
 たまたま本棚にあった森野に関係した本をずらしたのは、わざとらしい駄目押しだったかもしれない。
 森野が手を盗んだ泥棒であると判断し、先生が彼女を殺して手を切断すれば、僕の計画は完成だった。後は先生が彼女の切断した手を冷蔵庫に保存するのを待って、それを盗みに行けばいいのだ。もちろん様々な部分に不確定な要素は多くあった。そもそも、先生が森野を殺したとして、必ず手首を切断して持ち帰るとはかぎらないのだ。しかし達成できる可能性はゼロではなかった。
 僕が欲しかったのはただひとつ、森野の優美な白い手だけだった。
「私にも、その表情のつくりかたを教えてくれる?」
 教室で放課後、はじめて森野が僕に話しかけてきたとき、彼女はそんなことを言った。
 僕はたいてい、だれかと話をするときは微笑みを絶やさなかった。しかし、内心ではまったくの無表情であることを、森野はなぜか気づいていたらしい。だれにも見破られなかった演技を、彼女の嗅覚はかぎとったのだ。
 それ以来、僕たちはお互いに話し相手を得た。それは友人と呼べない冷たい関係だったかもしれない。しかし、彼女と応対するときだけ、僕は演技をせず思ったことをそのまま顔表面の皮膚に伝えることができた。したがって僕の額の筋肉は休憩時間を得たわけである。それはつまり、みんなにひた隠しにしていた僕の心の無表情さや非人間的な部分を、森野は心地よい無関心さで許したということだった。

 世間の人がリストカット事件のことを忘れてしばらくたった。学校では夏休みが終わり、二学期がはじまっている。
 放課後の傾いた日差しが校庭を黄色に染めている。教室の開け放した窓から風が入り、僕の机の前に立つ森野の長い髪の毛を揺らす。
「……それでその映画、本物のフリークスが俳優として起用されているんだけど、すごく変な話だったわ。フリークスたちがおみこしみたいなのをかついでいたりするの」
 森野の話を聞きながら、僕は心当たりのある映画の題名を言ってみた。彼女はひかえめに少しだけ驚いた顔をした。それは表情をあまり変えない彼女の、驚愕に値する顔だった。
「正解」
 ドイツの女性監督の映画である。そしてこのような変な作品に興味を示すのは、僕の知るところでは自分と森野だけだった。
「ところで、リストカット事件って覚えてるかい」
 僕は話題を変えた。
「春ごろに起きていた事件ね」
「もしもきみがその被害者になっていたら、今ごろどうしてた?」
 森野は自分の両手昔をじっと見つめた。
「……たぶん、腕時計を巻くたびに困っていたでしょうね。でも、なぜいきなりそんなことを聞くの?」
 森野は不思議そうにした。
 今でも彼女は、痴漢だと思って撃退したのがリストカット事件の犯人であることに気づいていない。そして僕は、時折、今でも彼女の手に見とれるのだ。もしかすると篠原先生に切断させなくて良かったかもしれないと思う。それは、生きている方が美しいといったことではない。篠原先生は間違った個所で切断してしまいかねなかった。
「別に、なんでもない」
 そう返事をして、下校するために立ちあがる。
 僕が森野の手を欲しいと思ったのは、自殺しようとしたことを示すリストカットの美しい傷跡が手首に残っていたからだ。
[#改ページ]
Ⅲ 犬  Dog
[#改ページ]

   † 1

 点々と血を滴らせながら、相手は草の茂みへ逃げこもうとする。しかし、私にとって前に回りこむのは簡単だった。その四本足の動物は全身に傷を負い、すでに体力を消耗しきって動きを鈍らせている。
 私はそろそろ、相手を楽にしてあげたいと思った。もう反撃をするような強い意志など、残っていないだろう。
 私はその動物の首筋を、上顎と下顎の間にはさんだ。口の中で、相手の首の骨が折れる。その音と感触が、顎から伝わってくる。その動物は脱力し、私の顎にぶら下がった。
 容赦はしない。本当はこんなことしたくはないのだけど、ユカがこうすることを望むのだ。だから私は、相手を殺す。
 上顎と下顎を開けると、口からその動物の体が落下する。地面に力なく横たわる。瞳に光は無く、完全に沈黙している。
 私は吠えた。
 この四本足の動物は、さきほど私とユカが橋の下へつれてきたものだった。ある家の前を通りかかったとき、ユカが立ち止まって、品定めをするように門の奥を見ていたのだ。彼女の視線の先を見ると、この動物が首を傾げて私たちを見返していた。ユカが私を見て言った。
 今夜の獲物はこの子にしよう。
 私は、ユカの話す言葉が理解できるというわけではない。でも、何と言っているのか、漠然とわかる。
 この儀式は時々、夜に行なっている。これで何度目になるだろう。町で見つけた獲物を、私とユカだけが知っている橋の下の秘密の空地へ連れていく。ユカは、そこで私と彼らを戦わせる。
 彼女の命令に私は従う。ユカの命じるまま、私は地を駆ける。相手に飛びかかり、はね飛ばす。獲物となる四本足の動物は、いつも私より体が小さい。だから私が本気でぶつかると、相手は簡単に転がり、傷を負う。体毛に血が飛び散り、骨が折れる。
 私が勝つと、ユカは微笑む。嬉しそうにする。言葉は通じないが、彼女の感情は、川の水のように私の中へ流れこんでくるのだ。だから、彼女が喜んでいるのだということがよくわかる。
 ユカは、私が小さかったころからの友達だ。彼女にはじめて会ったとき、私には、いっしょに生まれた他の兄弟たちがいた。彼らと母親の懐に抱かれて眠っているとき、ユカは好奇心旺盛な顔で私を見下ろしていたのだ。そのことをいまだに覚えている。
 私の吠える声は、半分、夜の空を渡る。もう半分は、橋の底に反響して巨大なうねりとなる。頭上近くにかかる巨大な橋は夜空の多くを占めており、見上げると裏側が黒い闇となっている。
 幅の広い大きな川に、巨大な橋がかかっている。橋の|袂《たもと》から土手を下りた川辺は、一面に広がる背の高い草の海だった。その中を進むときは、草を掻き分けなければいけない。しかし、橋の下の辺りに、草の生えていない小さな空間がある。そこだけ日当たりが悪いのか、円形の空地となっている。私たちが、今、そこにいた。
 夏の日に私とユカはその空地を発見した。真ん中に立つと、まわりを草の壁に囲まれているように見える。発見して以来、そこは秘密の遊び場所だった。
 しかし今、空地は、ユカが私を戦わせる場所になっている。
 私は、他の動物を噛み殺したくはない。でも、ユカがそうしろと望む。そのときの彼女の目は、光のない真っ暗な夜のようだった。
 ユカは、円形の空地の、端の方に座って私の戦いを見ていた。その彼女が、立ちあがる。
 帰ろう。
 そう考えていることが伝わった。私たちの絆に言葉はいらない。
 |屍《し》|骸《がい》をくわえて、穴へ捨てに行く。空地から|叢《くさむら》の中へ少し分け入ったところに、その穴はあった。
 放りこむと、小さな相手の体は穴の縁にぶつかり、力なく転がって落ちる。それほど深い穴ではないが、底は暗くてよく見えない。私の耳は、相手の体が穴の底に着地する音を聞いた。
 穴はもとからこの場所にあった。だれかが何かを埋めようとして掘ったものかもしれない。闇の中に沈んで見えないが、穴の底にはユカが私に殺させた無数の動物の屍骸が敷き詰められているはずだ。近寄ると、穴からはひどい臭いがした。
 はじめて橋の下でこの儀式をやったとき、そこへ屍骸を捨てるようにユカが命令した。私はそのころ戦い方がわかっておらず、相手の屍骸と同じくらいに自分もぼろぼろになっていた。相手と向き合っても、頭が真っ白になるだけで、どうすればいいのかわからなかったのだ。でも、今はもう戦うことになれていた。冷静に相手を殺すことができる。強くなった私を見て、ユカは満足そうにする。
 噛みついた際に抜けた相手の体毛が、私の口の中に多く残っていた。それを飲みこみながら水のある場所へ向かった。高い草の中を少し進むと、急に視界が開ける。
 広大な流れる水が広がっており、雑草の林はそのほとりで急に途切れている。水はあまりにも黒く、川というよりも、巨大な樹がただ広がっているだけのように見える。頭上の席に並んでいる電灯が、対岸まで川面に点々と写りこんでいた。私は川の水で血に塗れた口を洗い、ユカの待っている空地へ戻る。
 ほら、もう行くよ。
 ユカがコンクリートの階段へ向かいながら、そのような意味の声を発した。階段は、土手の斜面に合わせて作られており、川辺に広がる雑草の中から橋の袂まで続いている。空地から階段のある場所まで、やはり草の茂みを通らなければいけない。彼女のそばに駆け寄り、いっしょになって階段を目指した。
 階段を上がっている途中、そばの叢を振りかえる。
 草の尖った葉の先端が、ゆっくりと左右に揺れていた。一瞬、だれかがそこにいるのかと身構える。私は緊張した。耳をすませ、気配を感じ取ろうとする。しかし、どうやら風のせいだったらしい。
 ユカはすでに階段を上がりきったところで、私がくるのを待っていた。私は階段を駆け上がり、秘密の場所を後にした。

   †

 一日の授業が終わって学校を離れた僕は、駅前でクラスメイトの森野と合流した。駅前には大きなバスのターミナルがあり、噴水や花堀のあるちょっとした広場となっている。いくつかベンチが設置され、ひまな時間をもてあましている人々がそこに座る。
 森野はベンチのひとつに腰掛けていた。通りから離れた場所で、植木が太陽をさえぎって日陰となっている。彼女はいつもひまな時間は本を読んでいる。しかし今は違っていた。本は閉じてかたわらに置いている。
 彼女はベンチに前傾姿勢でうつむいていた。そのため、長い髪の毛がベールのように顔を隠していた。
 僕が近寄ると、彼女は顔を上げ、振り向いた。太陽とは縁のない陶器のような白い顔で、左目の下に小さなほくろがある。人形のように生気の感じられない顔立ちである。動かなければ、マネキンの仕事ができるだろう。
 彼女は無言で地面を指差した。白い石の板が歩道一面に敷き詰められており、彼女の足元に、小さなごみくずのようなものがある。よく見ると、少しずつ動いている。
 蝶が蟻に解体されて運ばれようとしている。蟻の顎に支えられ、ヨットの帆のように立ちあがった蝶の羽根が、地面の敷石に影を落としている。彼女はそれを熱心に見つめていたらしい。
 駅前で待ち合わせをしなければならない必要が、あるわけではなかった。スケジュール的には、いっしょに学校を出て、並んで下校してもよかった。しかし、彼女は学校で少々、知名度が高い。風貌や雰囲気、彼女にまつわる逸話などのせいで、歩いていると、振りかえられる場合が多い。そのように目立つ彼女と、あまり頻繁に並んで歩いているところを見られたくなかった。
 もっとも、彼女は周囲のそのような雑音を気にしている様子がない。それは、他人を意識するという回路が断線しているからだろう。あるいは、注目されているなどとは気づいていないだけかもしれない。彼女には、少し鈍感なところがあった。
「では、行きますか」
 彼女はそう言うと、立ちあがって歩き出した。僕も同じ方向に向かう。これから、彼女がいつも通っている古本屋に案内してもらう約束だった。
「私しか客がいないような、小さな店なの」
 教室で店の名前を聞いたが、僕の知らない古本屋だった。彼女に大まかな店の位置を教えてもらったが、聞いただけではよくわからない。
 黒板に地図を描いてもらったが、彼女の描く地図は地球上のどこにもありえないような地形で、解読が困難だった。白いチョークで線をひきながら、彼女自身、なぜ川の中にその古本屋が建っているのかを不思議がっていた。そこで、実際に案内してもらうことになったのだ。
 店の並んでいる区域を抜けて、住宅地へ彼女は入る。空は晴れており、太陽が背中に当たるのを感じた。道は前方にまっすぐ延びて、両側に一戸建ての家が並んでいる。歩きなれている道なのか、森野は淀みなく歩みをすすめていた。
「最近、近所で起こっているペットの誘拐事件、知っているかい」
 僕は彼女に尋ねた。
「ペット誘拐?」
 彼女は首を傾げた。どうやら知らないらしい。僕は、歩きながら説明した。
 うちの近所の家で飼われていた犬が、朝、起きると、忽然と消えていたそうだ。朝食の席で父と母がその話をしていた。
「最近、多いわね」
 母がそうつぶやいていた。僕はテレビなどで異常な犯罪の情報をこまめに調べていたが、近所の事件については母の方が詳しかった。
 母の話では、一週間のうちに二回、水曜と土曜の朝、庭で飼っていた動物が消えているのだという。ということは、火曜と金曜の深夜に犯行が行なわれているということだ。消えたペットは、すべて犬だった。最近は誘拐されることを警戒して、夜になると飼い犬を家の中にいれておく家が増えたという。
 僕の話を、森野は熱心に聞いていた。僕が知っていることを話し終えても、彼女は、「他に情報はないの?」と知りたがっていた。首を横にふると、彼女は何か考えるような素振りを見せた。
 ペットの誘拐事件が彼女の気をひくというのは少し意外だった。知り合って以来、彼女が犬や猫、ハムスターなどの話題を持ち出したことはなく、動物には興味がないのだと思っていた。
「その誘拐犯人は、あれを連れ去ってどうしているのかしら?」
「あれ?」
「嫌な臭いのする四本足の動物よ。うるさく吠えるやつ」
 犬のことだろうか。彼女は前方を見据えながらさらにつぶやいていた。
「わからないわ。あの動物をたくさん集めて何をたくらんでいるのかしら。軍団を組織するつもりかしら。さっぱりわからない」
 ひとり言のようだったので、僕は特に返事をしなかった。
「ちょっと待って」
 古本屋に向かって隣を歩いていた森野が、急に立ち止まる。僕も歩くのをやめた。
 正面の遠くにあるT字路の突き当たりまで、まだ道は続いている。僕は彼女に、なぜ立ち止まったのか理由を聞かせてほしいという意味をこめて視線を向けた。
「静かにしてっ」
 彼女は人差し指を立てた。
 視線を向けただけの人間にそのような台詞を吐くほど、彼女は気が立っているらしい。耳をそばだてて、何かの気配を感じ取ろうとしている。
 僕には、特別な物音は何も聞こえなかった。ただどこかで犬が鳴いているだけである。その他は静かな午後だった。じっとしていると、背中に当たる太陽の暖かさばかりが感じられた。
「だめだわ、この先は通れない」
 やがて彼女はそう言いきった。
 道の先をよく見たが、特に工事をして通行止めになっているような様子はなかった。実際、老人の乗った自転車が、ゆっくりと僕たちの横を通りすぎていく。
「古本屋はあきらめましょう。この道、以前は通れたのに……」
 理由をたずねてみたが、彼女は悔しそうに、首を横にふるだけである。これまで歩いてきた道を、彼女は戻り始める。
 森野は普段、だれにどう思われようと自分を貫く部分があった。クラスメイトたちには染まらず、他人のどのような言葉も気にかけない。ほとんどの時間を一人、無表情に過ごしている。そのような彼女から、ここまで悔しそうな顔を引き出して敗北させるのは、よっぽどのことがあると感じた。
 もう一度、僕は道を調べた。通りの両隣には家が並んでいる。少し先にある家の門から、犬小屋が見えた。最近、飼い始めたのだろうか、真新しい犬小屋だった。わずかに、そこから犬の息遣いが聞こえる。それ以外の音を、僕は探した。最初、犬のことは頭から切り離していた。
 気づくまで、しばらく時間がかかった。
 そのうちに森野は足早に二十メートルほど道を戻っていた。後を追いかけると、再び彼女は立ち止まり、片手を水平に上げて僕に注意した。
「危ない。これ以上、進まないで」
 彼女は視線を先に向けたまま、下唇を噛んでいた。
「はさまれたわ」
 緊張を|孕《はら》んだ声で彼女はうめいた。
 道の先から、大きな犬をつれた女の子が歩いてくる。
 犬はゴールデンレトリバーである。豊かな毛並みをしていた。首輪につながった紐を女の子が握っている。背が低く、痩せ細った女の子だった。小学三年生ぐらいの年齢だろうか。肩までの髪の毛が、歩くたびに跳ねていた。
 横を通り過ぎる瞬間、僕は、彼女の連れた犬と目があった。前足を踏み出すたびに上下する犬の瞳の表面に、僕の姿が映りこむ。
 深い黒色の、知的な目をしていた。僕は吸い寄せられるようにその瞳を見つめる。
 目の表面に映りこんでいた僕の姿が消えた。犬は僕から視線を外し、女の子を見上げる。
 やがて犬を連れた少女は僕の横を通りすぎて、すぐそばの家へ入っていった。赤い屋根をした平屋の建物である。
「ただいま……」
 そう言った少女の声が聞こえる。ゴールデンレトリバーも玄関を抜けて家に入った。外に犬小屋などが見えない。中で飼っているのだろう。
 少女と犬がいなくなると、壁際にぴったりと体を寄せていた森野が何事もなかったように歩き出した。特別に何かコメントがあるだろうと思っていたが、無言だった。態度も表情もいつも通りだったため、森野にとってさきほどのことは日常のありふれた儀式なのだと理解する。
「この道が、こんなに危険だったなんて知らなかったわ」
 彼女は悔しそうに言った。他の道を使って古本屋に行けないのかとたずねたが、それだと非常に遠回りになるので面倒だそうだ。彼女はすでに案内する気が失せているらしい。
 森野の隣に追いつきながら、僕はまた犬が消え去る事件のことを考えた。なぜ、一週間に二回、火曜と金曜の夜に活動するのだろうか。持ち去られた犬は、その後、どのような運命をたどったのだろうか。
 僕や森野は、異常な事件や、それを実行した者に対して、暗い魅力を感じる。心が切り裂かれるような、悲痛な人間の死。叫び出したくなるほどの不条理な死。それらの新聞記事を切り抜いて集め、その向こう側にある人間の心の、深く暗い底無しの穴を見つめるのが好きだった。
 そういったものに対する興味は、一般的に悪趣味と呼ばれるようなものだろう。しかし、まるで魔法のように、僕や森野を魅了する。
 今回の事件は、特別に異常な事件というわけではない。ただの飼い犬の誘拐だ。しかし、すぐ身近で行なわれているということが気になった。外国の大火事よりも、身近なぼや騒ぎのほうがおもしろいこともある。
「連続飼い犬誘拐事件の犯人がどんな人か興味ないかい」
 僕は森野に話を持ちかけた。
「わかったら教えてちょうだい」
 彼女は無表情にそう言ったが、その事件……具体的には犬……には近寄りたくないという意思が隠れているように思えた。

   †

 家には、私とユカ、そして「ママ」が暮らしている。でも、「ママ」はいつも家にいない。朝になると外に出ていく。遅いときは夕方まで戻ってこない。その間、家の中は私とユカだけのものになる。
 私とユカは小さなころからいっしょだった。生まれてすぐ離れ離れになった兄弟たちのかわりに、いつもそばには彼女がいてくれた。
 ユカはたいてい、いつも寝転がってテレビを見て過ごす。私はそんな彼女に寄り添い、広がっている新聞や雑誌の上に横たわる。寝転んでいる彼女の背中に、顎を載せる。
 テレビに飽きると、私たちは起きあがっていっしょに背伸びをする。ユカが台所や洗面所を行ったりきたりする。私は置いていかれまいとその後を必死でついてまわる。
 その後で散歩へ行く。散歩も好きだ。私とユカはいっしょに歩く。私たちの間は、散歩用のひもで結ばれている。私が間違った方向へ歩き始めると、ユカが「そっちじゃないよ」と眉間にしわをよせる。
 時々、知らない人間が家にくる。大きな、人間の男だ。「ママ」が外から帰ってきたとき、そいつをいっしょに連れてくる。
 そうすると、家の中の空気に、嫌な臭いが混じる。それまで私とユカの楽しかった雰囲気が、急にしぼむ。
 そいつは家にあがると、まず私の頭を撫でる。「ママ」に笑いかけながら、そうする。でも、決して私と目を合わせようとはしない。
 そいつの手の感触を頭で感じながら、私は噛みついてやろうかといつも思う。
 私とユカは、そいつが嫌いだ。なぜなら、「ママ」がいないとき、そいつはひそかにユカをぶつからだ。
 最初にその場面を見たとき、私は、気のせいだと思った。「ママ」が席を外して、居間に私とユカ、そしてそいつだけになったときのことだった。
 そいつの肘が、隣にいたユカを小突いた。ユカは驚いた顔をして、そいつの方を振り向いた。
 そいつは口元に笑みを浮かべながら、顔を近づけて何かを囁いた。部屋の隅からその様子を見ていた私には、そいつがなんと言ったのか聞こえなかった。しかし、ユカの表情がかわったのを、私は見た。
 恐ろしい胸騒ぎを感じた。部屋の中で私とユカは離れて座っていたけれど、心の深いところを共有している。だから、彼女の感じた動揺や困惑は、そのまま私の中に流れこんでくる。
 「ママ」が部屋に戻ってくると、そいつはもう何もしなくなった。ユカは不安そうな表情で「ママ」を見たが、「ママ」は異変にも気づいていなかった。
 ユカが、救いを求めるように私を見た。私はただ、部屋の中をうろうろ行ったり来たりしているしかできなかった。
 そいつのユカへの態度は、家へ来るたびにひどくなっていった。時々、おなかを蹴ることさえあった。ユカは苦しそうにうめいて、部屋に倒れて咳き込む。私がそばに駆けよって、かばうような格好でそいつを見上げると、そいつは舌打ちする。
 あの男が家にくる夜は決まっていた。私とユカは、あいつから身を守るため、いつも家の片隅で固まっていた。そんな夜はいつも、家の中が不気味に思える。いつ、あいつが扉を開けて入ってくるかわからない。ユカはそれをおそれて眠れない。
 耐えきれずに、そんな夜、私たちはひそかに家を出る。
 ユカが私に動物を殺させるようになったのは、あの男が家にくるようになってからだ。あいつが来るようになって、ユカはいつも泣いている。そして、ぞっとする暗い目をするようになった。
 私はそれを、悲しく思う。

   † 2

「気づいたのは、夜中の十二時ごろだったわ……」
 まだ若いその主婦は子供を胸に抱いて説明した。子供は目を閉じて眠っている。さきほどまで交わしていた世間話の中で、その子は生まれてまだ三ヶ月なのだと、彼女は話していた。
「寝る前に、主人がパブロフの様子を見に行くと、小屋にいなかったの……」
 パブロフというのが、二週間前の火曜深夜にいなくなった犬の名前である。僕の知らない種類の、血統書つきの犬だった。
 うちから二キロほどしか離れていない洋風一戸建ての家の玄関先に、僕とその主婦は向かい合って立っていた。
 学校の帰りに、犬が誘拐されたという家をたずねることにしたのだ。自分は高校の新聞部で、最近、近所で頻発しているペット誘拐のことについて調べているのだと説明しておいた。もしかすると取材の過程で犯人について何かがわかるかもしれないと言うと、彼女は協力的に事件のことを話してくれた。
「後から思い出したのだけど、そういえば十時ごろに、パブロフが激しく吠えていたような気がした。でも、よく通行人に吠えていたから、気にしなかったわ……」
「それが、最後に聞いたパブロフの声ですね?」
 そうたずねると、主婦は頷いた。
 玄関先から横に顔を向けると、小さな庭があり、空になった犬小屋が置かれている。大きな犬小屋だった。屋根の先に、犬の紐をつないでおくための金具がある。
「犯人はあそこから紐を外して、犬を引っ張っていったわけですね?」
 僕が聞くと、主婦は首を横に振った。
「紐は残っていたわ。それと、食べかけのからあげが落ちていたの」
 からあげは犯人が置いていったものらしいと、彼女は説明した。市販されているものだったかどうかを聞いてみると、断言はできないが、どこかの家庭で作られたものらしかったという。
 犯人は家から犬の食べそうなものを持ち出して、手なずけてから誘拐したということになる。からあげを使ったという部分が、庶民的な犯罪めいて風情のある気がした。神隠しやペット誘拐のプロといったものではなく、もっと人間的な臭いがする。
 僕はその主婦に頭を下げて、取材に協力してもらったことを感謝するふりをした。彼女は愛犬のことを思い出しているのか、犬小屋を見ながら言った。
「それより、犯人を絶対に見つけてね」
 静かだったが、彼女の声には殺気がこもっていた。胸の子供が起きてぐずりはじめる。僕は別れを告げて彼女に背中を向けた。
 そのとき、向かい側の家も犬を飼っていることに気づいた。門の間から、黒い毛の犬が見える。背丈が僕の腰まである、大きめの犬だった。
「チョコレート、という名前なの」
 背後からさきほどの主婦が声をかけた。今まで向かいの家にも犬がいたことに気づきませんでした、と僕は話をする。
「そうね、あの子は、あんまり吠えないから」
 見たところ、犬小屋は、パブロフの小屋よりも目立つ位置にある。しかし、静かにしていたため、犯人に気づかれなかったのかもしれない。
 家に戻ると、妹の桜と母が並んで夕食の支度をしていた。母が鍋の前に立ち、中身をかき混ぜている。桜は包丁を片手に、野菜を切っている。
 妹は僕より二歳年下で、高校受験を控えている。いつもなら塾にいる時間だが、今日は休みだという。今年の春ごろまで長い髪の毛の持ち主だったが、夏に短くして、今では少年のような髪型になっている。
 僕とは正反対に性格がいいらしく、よく母の家事を手伝っている。頼まれたら嫌だと言えない性格なのだ。
 たとえば、テレビの前で菓子をかじっている母が、両手をあわせて妹に拝んだとする。
「桜ちゃん、洗い物よろしくっ」
「え、やだよ。自分でやってよ」
 最初、桜は断る。
 母は顔をうつむけて、悲しい顔をしてみせる。世界が終わったような暗い顔である。それを見た桜は、あわてふためく。心からショックを受けたような顔をする。
「わかったから、もう泣かないで!」
 ほとんどもらい泣きしそうな勢いで、母を勇気づけ、慰める。その後、立ちあがって彼女は台所へ向かう。一連の作業が終わると、母はまたテレビと煎餅に戻る。はたして桜はどの程度わかっていて母の言うことを聞いているのだろう。あるいは天然なのだろうかと思う。この調子で僕のかわりに、彼女が両親の老後を見ることになるのだろう。
 そのような彼女には特別な才能がある。その点において僕は一目おいているのだが、彼女自身はそれをほとんど呪いのように思っている。しかし、今のように普通の生活をしているぶんには、どこにでもいる人間に見える。
「またゲームセンターに寄ってきたの?」
 帰ってきた僕に、母がため息をつきながら言った。ゲームセンターにさほど典味などなかったが、学校からの帰りが遅くなったとき、いつもそう言い訳していた。
 僕は台所の椅子に腰掛けて、料理をしている二人の背中を見た。息があっている。フライパンで野菜を炒めている母が無言で片手を差し出すと、何が求められているのかが妹にはわかるらしく、黙って塩の小壜を渡す。味見をした母が「みりんちょうだい!」と口にする前から、すでに妹がみりんの壜を持って横に立っている。
 二人が僕に話しかけてくるので、てきとうな返事をする。二人は、僕の話に笑う。桜は笑いすぎて苦しそうにしながら言う。
「笑わせるのはやめて、お皿に盛りつけてるんだから。それで、その先生はどうなったの?」
 桜の言葉で、僕は、学校であった話をしていたらしいと気づく。ときどき、家族に何を話していたのか、なぜ母や妹が笑っているのか、何もかもわからなくなる。なぜなら、家族へ聞かせる話のほとんどは、無意識的な反射であり、|咄《とっ》|嗟《さ》に考えた作り話であり、まったく意味をもたない感想だったからだ。
 不思議とそれでも|齟《そ》|齬《ご》は起きない。傍《はた》から見ている分には、母と妹が織り成す家族間の会話へ僕は混じっているように見えるだろう。実際、家族が僕に向ける視線は、勉強はできないが人を笑わせるような明るい青年に向けるものと同じだった。
 しかし、僕から見れば違っていた。両親や妹と、僕との間に、どんな会話もなかった。話した内容は直後に忘れた。おかげで、僕自身はずっと黙りこんでいたはずなのに、周囲の者たちはなぜかおかしそうにしているという、異様な夢を見ている気がするのだ。
「キリちゃんちで飼っていた犬、いなくなったままなんだって」
 料理に使った器具を洗いながら、桜が母に言った。それまでくぐもってよく聞こえなかった僕の耳が、急に音を伝え始めたようにはっきりとしはじめた。
「そのうちに戻ってくると思ってたそうだけど……」
 詳しく話を開いてみる。
 桜の説明によると、彼女のクラスメイトの家で飼っていた犬が、先週の火曜日からいなくなっているそうだ。ペット誘拐の犯人の仕業ではないかと囁かれているらしい。
「それでね、犬を見かけなくなった朝、ソーセージでおびきよせた跡があったんだって」
「まあ……」
 母はそうつぶやいて、そういえばソーセージを買ってくるのを忘れていたわとつぶやいた。
「犬の種類はなんだった? 大型犬?」
 そう聞くと、桜が眉をひそめて僕を見る。
「兄さん……?」
 僕は、家族に対してあまり見せないようにしている表情をしていたらしい。
「ん、なに……?」
 そう言って僕はごまかした。
「いなくなった犬は、雑種だったみたい。けっこう小さな体だったそうよ」
 僕は急に、パブロフの飼い主へ聞き忘れていたことがあることに気づいた。不自然でない印象で家族との会話を打ち切り、制服のまま再び外へ出た。もうすぐ夕飯なのに、と母が迷惑そうな声を出した。
 パブロフの飼われていた家に到着したとき、辺りは暗くなりはじめていた。玄関のチャイムを鳴らすと、つい二時間ほど前に話を聞かせてくれた若い主婦が現れた。僕の顔を見ると、あら、と声を出した。子供は抱いていなかった。
「度々すみません、取材し忘れていたことを思い出してしまって……。パブロフは、どの程度の大きさの犬だったのですか?」
「それを聞くためだけにまたきたの?」
 彼女は僕の二度目の訪問に当惑しながら、パブロフはまだ大人になりきっておらず、大きくはなかったと説明した。
「子犬より少し大きいくらいですか?」
「うん、そう。でも、大人になると大きくなる種類なの。だから犬小屋も大きなタイプを買っていたのだけど……」
 僕は礼を言って立ち去った。
 犯人は犬を誘拐するとき、犬小屋に紐を残していった。では、どうやってつれていったのだろう。別の紐を用意していたのだろうか。それなら、犬小屋から紐をはずせはいいことだ。つけかえる手間がはぶける。犯人は、紐を首輪から外し、犬を両手で抱えて運んだのだ。
 そして向かい側に飼われていた静かな犬ではなく、なぜパブロフを選んだのか。僕なら、吠えない方を選ぶ。その方が誘拐しやすそうだからだ。しかし、犯人はそうしなかった。おそらく、パブロフの方が小さな体をしており、運びやすかったからだろう。妹の知人が飼っていた犬も、割合に小さな体をしていたという。犯人は犬を誘拐するとき、小さな犬を選んでいるのではないだろうか。
 なぜ、運びやすい犬ばかり選ぶのか。推測のひとつとして、犯人は車などの犬を運ぶ乗り物を持っていなかったということが考えられた。だから、大きな犬ではなく、小さな犬を選んだのだ。これまで僕の耳に入ってきた情報によると、犬の消えた家はそれほど広範囲には分布していない。もしも車を持っている人間であれば、せまい範囲の中で繰り返し犯行を行なうことはせず、遠くから犬を盗むにちがいない。
 僕は、しばしば動機のない異常快楽殺人事件の捜査に適用される心理分析のことを思い出した。それは、犯人が獲物を選ぶときの、判断基準に関するものだ。
 犯人は無意識のうちに、自分よりも弱そうな相手を獲物として選ぶという。たとえば、被害者の身長がいずれも百五十センチ未満で、百六十センチ以上の人間は一人もいなかったとする。すると犯人は、百五十センチから百六十センチまでの身長の人間だと推測できるわけだ。この飼い犬誘拐事件に関しても、似たようなことが考えられるかもしれない。
 家に帰ると、父が会社から戻っていた。夕食がはじまっており、僕はコンビニに行ってきたと説明した。自然な様子で家族の会話に混じり、さりげなく、庭で犬を飼っている家を尋ねた。
「あ、あそこの犬ってかわいいよね。なんで室内で飼わないのかしら、あんなに小さいのに」
 次々と近所の家の名があがっていく最中、桜が言った。
「家の中だとうるさいからだろ」
 父が返事をした。僕は、その家の場所を尋ねた。今日は火曜である。夜、その家へ犯人が現れる可能性はゼロではなかった。

 その家は曲がり角に位置していた。古い日本家屋である。塀の上から中を覗いた。庭は広く、犬小屋が端の方に置かれている。犬小屋は手作りらしく、木箱のようにも見える。そばに杭が打たれ、そこに犬が紐でつながれていた。目が大きく、僕を見ると、街灯の下で吠えながら何度も跳ねた。子供でも運べるくらいの小さな体をしていた。
 家から距離を置き、離れた位置にある雑木林に身を潜めた。そばに街灯がなく、周囲は完全な暗闇だった。
 腕時計を確認する。周囲は暗かったが、腕時計側面のボタンを押すと、内部でランプが点灯して液晶が照らされるようになっている。夜の十時だった。パブロフの鳴き声を主婦が最後に聞いたのは、ちょうど二週間前のこの時間だったという。犯人がこの家を狙って来るとしたら、そろそろだろう。
 雑木林の地面は落ち葉が厚くつもっていた。少し身動きをしただけで、周囲にある木々の細い枝が、音をたてて折れた。夏が過ぎたばかりで、昼間はまだ暖かいが、夜は少し冷えた。
 上背のポケットに手を入れるとナイフの柄に当たった。念のために用意した武器だった。
 犯人をもしも見つけても、通報するつもりはなかった。ただ遠くから、見つからないように眺めているつもりだった。だから武器が必要になることはまずないだろう。
 しかし、深い考えもなく僕は、ナイフセットの中から一本を抜き取って持ってきていた。剥き出しのままでは怪我をするため、別に購入した革製のケースに入れていた。
 僕は、異常犯罪の犯人を観察するのが好きだ。そのための行動を起こしているうちに、かつて、数人の女性を殺害した犯人と顔を合わせたことがある。その人の部屋にあった二十三本のナイフセットを、僕は勝手に持ち帰って本棚の奥に隠していた。家にいるとき、蛍光灯の下でナイフの銀色の表面を眺めた。まるで濡れているように、白く光を反射した。
 時々、刃に映った自分の顔が、かつてそのナイフによって殺された女性の顔へと変化した。それは錯覚には違いないが、確かに苦痛と絶望の叫びが刃に染みこんでいるのを感じた。
 僕は内心、ナイフをもてあましていた。記念に持ち帰っていいものではなかったのだ。表面に薄く光沢を|纏《まと》ったナイフを見つめながら、これは実用されるべきものかもしれないと思った。
 腕時計を、再度、確認する。液晶を照らし出すランプのボタンを押し、時刻を読む。水曜日になっていた。雑木林に隠れている問、目の前の道をだれも通らなかった。
 犯人は、どの辺りの地区に住んでいる人間なのだろう。それがわかれば、もっと張りこむ地点を絞り込めるにちがいない。少なくとも今日、僕の前に犯人は現れないだろうと思った。
 十分後、雑木林を出て家に戻った。
 父母は眠っていたが、桜は受験勉強をしていたらしい。僕が帰ってきたのを知り、どこに行ってきたの、と言いながら一階におりてきた。コンビニへ行ってきたと僕は説明した。

   †

 今夜があいつのくる日だということは知っていたのに、居眠りした私がいけなかった。私は、ユカの悲鳴で飛び起きる。声は居間のほうから聞こえた。
 眠っていた部屋から飛び出す。
 奥の部屋で私といっしょに降れていたユカは、いつのまにかあいつのいる居間に連れてこられていた。「ママ」はどこかへ出かけているらしく、あいつとユカだけが居間にいた。
 ユカが、倒れてうめいている。痛みをこらえるような、悲しい声を出している。
 あいつはユカの頭のそばに直立して、無表情に彼女を見下ろしていた。私の目からは、頭が天井に届くような大きさに見えた。それにひきかえ、ユカはなんて小さいのだろう。なんて無力に、痛みで|喘《あえ》ぐことしかできないのだろう。
 頭の中が、怒りのために沸騰する。
 私は吠えた。体の奥から声を絞り出した。あいつは私を振りかえると、目を大きく広げて驚いていた。一歩だけ後退し、ユカのそばから離れる。
 倒れてうめいていたユカが、私に目を向けた。愛しいものを見る瞳だった。私は、心の底から彼女を守らなければいけないと思った。
 玄関の開く音と、「ママ」の声。買い物袋をかかえた「ママ」が帰ってきた。あいつを家に残して、出かけていたらしい。
 あいつの手に噛みつこうとする私を、「ママ」が後ろから捕まえる。私の顎は、寸前であいつに届かなかった。
 しかし、その間にユカが立ちあがる。怒りを含んだ「ママ」の声がする中、彼女は玄関の方へ逃げる。それを追いかけ、私たちはいっしょに家を飛び出した。
 外に出て懸命に走る。背後から、玄関先に立つ「ママ」の声が追いかけてくる。それを振り払って、夜の奥深くへと逃亡する。
 静かな暗い路地に街灯が並んでいた。その足元だけ、白く照らされて地面が浮かんでいるように見えた。私たちは小さな二つの影を連れて、いくつもの街灯の下を通りすぎる。
 どこまで進んでも夜は続いていたが、私はユカといっしょだったから恐くなかった。でも、彼女のことを思うと悲しかった。
 ユカは泣いているわけではなかったけれど、ひどい苦しみを抱えて歩いていた。それが私にはわかる。体が痛むのか、ときどき、彼女は立ち止まった。痛ましかったけれど、私は彼女のそばをついて歩くことしかできなかった。
 お昼に見つけたあの家の動物を、今夜の獲物にしよう。
 ユカが言った。今日、散歩をしたときに、連れ出しやすそうな動物を見つけていた。私たちはその家を目指した。
 ユカもきっと気づいているが、最近、獲物にしやすそうな動物を見つけるのが難しい。動物を家の中で飼う家が多くなった。私たちの存在が、警戒されはじめている。
 心の中で、いつも不安だった。だれにも私たちのやっていることを見られてはいけない……。そう心構えをすると同時に、いつも私はだれかの影を恐れていた。
 そのだれかというのは、私やユカでもなければ、「ママ」やあの嫌な人間の男でもない。まったく知らない人だ。その影の人物は、動物をさらう私とユカを追いかけている。そして、橋の下で恐ろしいことをしている私たちを、いつかきっと発見するだろう。
 そうなったときのことを想像すると恐くなる。私やユカのやっていることをみんなが知ったら、私たちはひきはなされるかもしれない。私がいなくなったら、誰もユカを守るものがいなくなってしまう。決してそのようなことになってはいけない……。
 目的の家が、道の先に見えた。街灯の下に、屋根の先が照らされている。他の場所は暗く、闇の中に消えていた。曲がり角に位置しており、昼間の散歩で確認したとき、小さな体をした犬が庭に飼われていた。
 行こう。ユカが言って、その家に向かって歩く。
 そのとき、私は視界の端で何かを見つけた。小さな声で私はユカを呼びとめ、立ち止まる。どうしたの、と彼女は私に無言の目配せでたずねた。
 さきほど、家よりも事前にある雑木林の暗闇で小さな明かりが見えた。点のような光がついて、そして消えた。
 だれかがいる。私は注意深くその暗闇へ神経を向けた。はっきりとはわからないが、だれかが身を潜めて、これから私とユカが行こうとしている家を監視しているように思えた。考えすぎで、実際にはだれもいないのかもしれない。でも、そう直感した。
 ……今日は、帰ろう。私はユカに目でそう語りかけた。彼女は家と私を交互に見て、わかった、と返事をした。
 私とユカは、その夜、動物を盗まなかった。橋の下でしばらく時間をつぶし、家に帰った。ユカは私に何かを殺させたがっていたが、私は何も殺さずにすんでほっとしていた。
 でも、不安だけはつきまとっていた。
 私たちを追うだれかの形が、ついに今夜、はっきりした形となって目の前に現れた気がしていた。
 その人物は私の杞憂にとどまらず、確かに存在していたのだ……。

   † 3

 張りこみをした火曜の夜、結局、僕の前に犯人は現れなかった。翌日の水曜日、僕はクラスメイトや家族にさりげなく質問し、どこかの家のペットが消えていないかを調査した。その結果、火曜の夜に犯人は何もしなかったらしいとわかった。もっとも、犯人が野良犬を持ち去っていたり、僕の情報網にひっかからない場所で犯行を行なっていたりすれは別である。
「犯人がどんな

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