訾毪郡婴恕⒆苑证韦馔煳铯颏筏皮い胜い长趣颔隶Д氓筏俊I绞謳い渲品违堀骏蟆⒔炭茣溲ハ隆:韦蚵浃趣筏皮い毪长趣藲荬扭骸ⅳ饯长樯碓忻鳏工毪趣いΔ韦稀⒆類櫎问·怂激à俊¥胜激胜椤荬颏膜堡皮い欷蟹坤挨长趣韦扦毪长趣坤椁馈 侵入した形跡を残しておらず、靴下も履いていることを確かめて、僕は一階へ下りた。 台所へ向かった。 篠原先生は自炊するのだろうか。食器の数は少なく、整理されている。流しに洗い物もためていない。台所にあるコップや調理器具など何もかもが、店から買ってきてそのまま使われもせず飾られているような生活感のなさだった。 テーブルの上に炊飯器が載っている。一人暮しをしているには大きすぎるサイズのものだった。先生の家族や、その歴史に関する情報はほとんど持ち合わせていない。もしかすると数年前まで先生以外の家族もいっしょに暮らしていたのかもしれない。それとも、特に炊飯器の大きさになど意味はないのかもしれない。 流しのステンレスは綺麗に磨かれて、窓から入る傾いた太陽を反射していた。電気をつけていない家の中は、時間を追うごとに暗くなっていく。流しに反射する色を帯びた光が唯一の光源となっている。冷蔵庫の低い音だけが辺りにあり、どこか化学講義室と同じ静寂さを感じた。自分の気持ちが静かになっていくのがわかる。 僕は台所の中央で自分の手首をとり、再度、脈拍を測った。左手首の皮膚の下で、血管がゆっくり一定の速度で脈打っている。その膨張と収縮の繰り返しが、指先に伝わってきた。平常時の速度である。 それが思いがけず唐突に速くなった。手首の中で、血管が爆発するように激しく脈打つ。 鼻が異様な臭いを嗅ぎ取っていた。何かが腐り、細菌の餌食になっていく臭いである。それからイメージさせるものが、僕の脈速度を上げていた。 臭いの元を探した。棚の陰や、引出しの奥には何もない。それから冷蔵庫に目をやった。 冷蔵庫の取っ手にハンカチをあてて、指紋をつけないよう注意して引く。冷蔵庫の扉を開けるとき独特の、密閉されていたものを引き剥がす音と感触。異臭が強くなり、僕は、篠原先生がリストカット事件の犯人であるという推測に間違いなかったことを知った。 冷蔵庫の冷えた空気の中、ランプに照らされて、手が並んでいた。冷蔵庫内の棚の上で、こちらがわに指先を向けてふせた状態で置かれている。指とその先端にある爪とが無数に連なり、ピアノの鍵盤のようだった。 奥に白い小皿がいくつかあった。犬や猫のものらしい前足の先端が載っている。化学準備室のごみ箱に入っていた人形の手らしいものが、ドアのポケットに入っていた。ただの小さな布の塊だったが、発見した人形と同じ色の布だったためにかろうじて人形の手だとわかった。 僕は、リストカット事件の犯人が切り取った手を保存しているという推測に以前から賛成していた。根拠はなく、ただ自分ならそうするというだけのことだったが、それは当たっていた。 手のひとつをとる。女性のものだ。爪に剥げかけた赤いマニキュアの跡がある。僕の手のひらの上に、冷たい重さがかかる。 死人の肌を触る。いや、死んではいないのだ。被害者はいずれも生きている。片手を失ったまま生活しているのだ。しかし、切り離された手首から先は、死んでいると考えてもいいはずだ。 手は、右手もあれは、左手もある。爪が変色して黒ずんでいるものもあれば、張りの残っている美しい肌の手もあった。 僕は手を幾度も撫でた。そして、篠原先生の心の一端を垣間見た気がした。おそらく普通の人間には理解できないだろうし、先生も自分以外に理解者の存在など信じないだろう。それでも僕は、篠原先生がだれもいない台所で一人、手を撫でて孤独を癒している様が容易に思い浮かぶのだ。 冷蔵庫の中に手があったことで、篠原先生が犯人であることが間違いなくなった。しかし、僕にはそれを警察に通報するという考えなどなかった。本来はそうするべきなのだろうが、興味がない。 ただ、僕の中には別の目的があった。 自分も、人間から切り取った手が欲しい。篠原先生のコレクションを直接触り、さらに強くそう感じる。 僕は冷蔵庫の中を見まわす。さまざまな手が並んでいる。どれも、今なら取り放題である。もちろんどれでもいいというわけではない。欲しい手は決まっている。しかし僕は目の前にある手をすべて、用意していた袋の中へ入れた。
篠原が勤め先の高校から帰ってきたとき、すでに辺りは暗くなっていた。玄関を抜けて家に上がり、居間へ向かう。そこで異変に気づいた。 窓が割られ、ガラスの破片がリビングの床に散らばっている。開け放たれたままの窓から涼しい外の風が部屋に入りこんでいる。何者かの侵入した形跡である。 すぐに考えは冷蔵庫に保存している手のことへ向かった。台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。 見たものが信じられなかった。朝のうちは賑やかにひしめきあっていた手が、すべて消えている。人間の手、犬猫の手、人形から切り取った手、それらがみんななくなり、冷蔵庫はほとんど空になっていた。残っているのは、手といっしょに入れていたわずかな食料だけである。 何かひっかかるものを感じた。それが何かはわからない。リビングに散らばっているガラスを片付けて綺麗にしなければいけないことと、消えてしまった手首のことで頭は一杯で、正常に思考ができなかった。 二階へ行き、パソコンを起動させて椅子に座る。 何者かが侵入して手を奪った。持って行かれた手のことを考える。 パソコンの載っている机の表面に、透明な水滴が落ちた。それが自分の頬を伝って顎先から落下したものだと知り、いつのまにか自分が泣いていることに篠原は気づいた。 これまでの人生の中で、切断したいくつもの手に触れたときほど、他人と親密に言葉を交わしたことはない。だれかが傍から見れば、自分は無言のまま何をしているのかわからないように思えただろう。しかし篠原は、何も言わない冷たい手の凹凸や弾力に触れることで世界と確かに言葉を交わし合っていた。 呼吸ができないほどの息苦しい怒りに襲われる。警察に通報されることを恐れてはいた。しかしそれよりも、自分から手を奪い去った人間に対する報復の方が重要だった。 手を奪っていった泥棒は、自分のしたことに値する罰を受けなければならない。これまでだれひとり殺さなかったが、その人物は最初の例外になるだろう。 泥棒をつかまえる。篠原は誓った。それからその人物の手首を切断し、手を救出する。後は首を締めるか心臓を刺すかして死に至らしめなくてはいけない。 それにしても犯人をどうやってつきとめればいいのだろう。篠原はパソコンの画面の前で両肘をつき、考えこむ。 キーボードの隙間にある埃が気になった。かたわらにいつも置いている圧縮空気のスプレーに手を伸ばしかける。そこで動きを止めた。自分の目が、キーボードの上であるものを発見した。 間違いない。それは犯人の落としていったものだった。それ以外には考えられない。小さなもので、見落としてしまうところだった。自分が気づいたのも奇跡に近いと篠原は思う。 それから冷蔵庫の中のことを思い出した。先ほど感じた違和感の正体がわかり、笑いがこみあげてくる。手を盗んでいった泥棒は失敗をしている。本当に惜しい間違いをおかした。そのために愚かにも自分の正体を知らせてしまったのだから……。
† 4
次の日の朝、篠原は内切り包丁を鞄に潜ませて勤め先の高校へ来た。いつも手首の切断に用いている包丁である。鞄の中にちょうどそれは収まった。職員室で同僚の教師たちと挨拶を交わすが、だれも鞄の中身には気づかない。 朝の校内は慌しい。職員室の外の廊下を、生徒たちが話をしながら足早に行き交う。もうじき一学期の中間試験がはじまるため、職員室のいくつかの机には、作成した試験問題の紙が置かれている。 同僚の教師が、もう篠原先生は問題を作りましたか、とたずねてきた。それに対して笑みを浮かべて答えを返す。このわずらわしい作業の上で自分の人生は成り立っていると篠原は思う。内心、いらついた。手。手だ。同僚の教師というよりも、手だった。最初に手があって、そこに同僚の教師と篠原の考えている人間がくっついているのだ。だからこのような会話に意味はない。 午前中は授業があり、手を盗み出した泥棒へ会いに行くことはできなかった。しかし、その正体はわかっている。早く捕まえて、冷蔵庫から盗み出した手の在り処を問い詰めなくてはならない。 まだ一晩が経過したばかりである。盗み出された手は、無事にどこかへ保管されていると信じたい。 手の隠し場所がわかったら、肉切り包丁で泥棒の手を切り取らなくてはいけない。体のほかの部分といっしょに、手まで死なせることはできなかった。それならばいっそ自分のものにしたい。 午前中最後の授業を、篠原は自分の担任するクラスを教えて過ごした。教室中の無数の手が、篠原の書いた黒板の文字をノートに書き写す。篠原のクラスには四十二人の生徒がいるため、手の数は八十四個ある。 篠原は試験範囲を説明しながら、冷蔵庫の中から盗み出されていた手について考えていた。 泥棒は食材だけ冷蔵庫に残したまま、手だけをすべて持ち去った。最初は気づかなかったが、そこがあまりにも不可解だ。 やがて、授業の終わりを示すチャイムが響く。高校はこの瞬間に午前中の授業をすべて終え、昼休みへと移る。 篠原は授業を終えて教室を出る。包丁の入った鞄は職員室に置いていた。それを取りに行く。 昼休みに入ったばかりの廊下は、一日のうちでもっとも騒々しく、賑やかである。もちろんそれらはすべて、篠原にとっては雑音にすぎない。 職員室でしばらく時間をおき、篠原は化学講義室へ向かった。
†
僕は昼休みになると化学講義室へ向かった。扉を開けて中を確認すると、だれもいなかった。入って扉を閉める。校内の騒々しさから切り離され、化学講義室は、時間の止まったような静かな空間となる。 手首で脈拍を測ると、全力で走った後と同じ速度で血管が脈打っているのがわかる。自分の肌が固く張りつめており、それは僕が緊張しているからだった。 篠原先生は昨日、家に帰りついてからどうしただろう。手を盗まれているのを知り、どう思っただろう。怒りのために何も判断できない状態になっただろうか……。すべては推測するしかない。 午前中は篠原先生に会わなかったが、もしも会っていれは、知らないふりをしてやりすごすつもりだった。気をつけなければいけない。何かおかしな仕草をしてしまえば、たちまちすべてを見通される危険があった。しかしまだ、僕が手を盗んだことには気づかれていないと思う。もちろんそれは、たんなる希望でしかない。 ……もしかすると僕は、自分で気づいていないだけで何かミスをおかしているのかもしれない。しかしそれが何かは当然わからないのだ。もしもミスがあり、それが何なのかを復讐心にかられた篠原先生に指摘されることがあるとすれば、それは高い確率で僕の命が危険である瞬間だろう。 薄暗い無人の化学講義室内を眺めてそう考えていたとき、化学講義室の扉の前に、だれかの立つ気配がした。
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篠原は化学講義室の扉を開ける。一人の生徒が見えた。その顔を見た瞬間、激しい衝動を感じた。 ぶちのめしたい。胸に膨れ上がる感情を押さえつけ、軽くあいさつをする。まずは知らないふりをして近づこうと考えていた。 その生徒が篠原を見る。 「こんにちは先生」 何気ない、いつもと同じ様子である。しかし内心では自分のことを笑っているのだろうと篠原は思う。この生徒はこうやって演技をして自分に近づくことで、楽しんでいるにちがいない。手首を盗まれて動揺している自分をただ眺めるためだけにこの化学講義室へ来たのだろう。 篠原は吐き気にも似た怒りを隠しながら、その生徒のそばに歩み寄った。この生徒はまだ気づいていない。手首を盗んだ泥棒の正体に自分が気づいているのだということを、この生徒はまだ愚かにも気づかないまま逃げようともしない。不審がられずに背後へ立つのは容易にできた。 ……泥棒は、切り取った人形の手まで持ち去った。だれがあれを手だと認識できるだろう。ほんの小さな人形の手の先端部分である。指などの造形はない。切り取られた人形の手は、ただ少しの綿を包む半球の布である。それなのに犯人は、他の手といっしょにそれを持ち去った。 あれが手だとわかり、持ち去ることのできた人物……。それはもちろん、手の切り取られた人形を偶然に見てしまった人間だけだろう。おそらくその人形の発見を発端として、自分を教える教師がリストカット事件の犯人であることを推測したに違いない。 篠原は、目の前にいる生徒の肩に、自分の右手を置いた。生徒の肩が、震える。ゆっくりと首が回り、篠原の方に顔を向けた。 「……なんですか、先生」 演技が上手いものだ、と篠原はその生徒に対して思う。 手先のない人形は、化学準備室のごみ箱に捨てていた。それを見ることのできる人物は限られる。 すなわち、化学準備室の片づけをしたあの昼休み、化学講義室に置いていたごみ箱の中身をあさる時間のあった人物、森野という女子生徒のみである。自分を手伝ってくれていた男子生徒には、その時間はなかったはずだ。 「先生、この手を|退《ど》けてください。読書の邪魔です」 いつも通り化学講義室の片隅で読書をしていた少女は、珍しく眉を吊り上げて篠原に言った。記憶にある限り、この少女の表情が変化したのははじめてだった。 昨日、パソコンのキーボードの埃を見ていて気づいた。キーの隙間に、黒く長い髪の毛が落ちていたのだ。広い家の中でたった一本の髪の毛を見つけられたのは偶然だろう。篠原の髪は短かったため、自分の髪の毛であるはずがない。侵入者が長い髪の毛の持ち主であることがそれでわかった。 それに本棚。目の前の少女が読んでいる本の続編が本棚に並んでいる。それが微妙にいつもと位置がずれていた。背表紙は凡帳面にそろえている。五ミリメートルでもずれていればわかった。おそらくこの女がそれを見つけた際にうっかり手をのばしてしまったのだろう。 疑いようがない。手を盗んだ泥棒は目の前にいるこの生徒だ。 篠原は、森野の肩に置いた手へ力を加え、強く握り締めた。そのまま、握りつぶそうと思った。森野が顔をしかめる。 「手を、どこに隠したのか言いなさい」 できるだけ紳士的に、篠原は命令した。しかし、森野は痛みを訴えながら篠原の手から逃げようとするばかりで返事をしない。机の上に広げられていた本が、床に落ちる。 「手は、どこにありますか?」 力を緩めて、聞き取りやすいようゆっくりとたずねる。いつもなら何を話しかけても無表情な様子で篠原をあしらっていたその生徒は、わけがわからないといった顔で首を振る。 知らないふりをしているのだ、と篠原は思った。そう考えた瞬間、いつのまにか少女の細い首に手を回し、力をこめていた。 森野が大きく目を広げて自分を見る。驚愕する顔である。やわらかい首の肌に、自分の手や指が食いこんでいく。自分は今この少女を殺そうとしているが、それもしかたのないことだな、と篠原は考えた。それで、そのまま力を加えつづけることにした。 もうしばらくこうしていれば、この女子生徒は動かなくなるだろう。そう考えたときだった。篠原の視界の端で、森野が小さな細長い円筒状のものを手にしているのが見えた。何かのスプレーだと瞬間的にわかったが、それに気づいて意識したとき、すでに射出口は目の前にあった。 圧縮されたガスの吹き出る音。篠原は目に激痛を覚えた。
†
森野は痴漢撃退用のスプレーを携帯していたらしい。篠原先生はそれをあびせられて、その上、椅子で頭を殴られた。 森野は大声で人を呼んだ。悲鳴などではなかった。ただ冷静に、大きな声で人を呼んだ。 しばらくすると声を聞きつけた生徒や先生たちが講義室に集まった。篠原先生は、野次馬たちの騒ぐ講義室の中心で床にはいつくばり、痛む目を押さえていた。 化学講義室が人であふれ返ったどさくさにまぎれるまで、僕は隠れていた教壇の裏から出ることはできなかった。
† エピローグ
篠原先生は警察に逮捕されたが、リストカット事件の犯人としてではなく、もっとみじめな罪で社会から制裁を受けた。今でも彼の本当の罪を知っている人間はいない。 彼は今、教師の職をおわれて遠い地に住みついている。リストカット事件はその後、新しい被書者を増やすことはなかった。 先生の家から持ち出した手は、すべて僕の家の庭先に埋めていた。それらはあまり必要のないものだった。なぜなら僕は、篠原先生のように手ならなんでもいいというわけではないからだ。 あのとき、森野が手を盗んだ犯人であると先生に思わせようとした。 先生の家で冷蔵庫の中を確認し、予想通りすべての手を捨てずに保存していることを僕は知った。その事実と人形の手を利用して先生の意識を森野に向かわせることは、家に侵入する以前から考えていた。人形の手について気づくほど、先生が頭のいい人間で良かったと思う。ただ、僕がごみ箱をすりかえて、後でゆっくりあさる時間があったことを先生は知らなかっただけなのだ。 さらに、森野と同じ黒く長い髪の毛を、先生の家に残してきた。うちで採取した妹の髪の毛が、それには都合がよかった。どこにそれを置けば発見される確率が高いのか、化学準備室の片づけをする際、先生がキーボードの隙間の埃をスプレーでとっているのを思い出して考え付いた。 たまたま本棚にあった森野に関係した本をずらしたのは、わざとらしい駄目押しだったかもしれない。 森野が手を盗んだ泥棒であると判断し、先生が彼女を殺して手を切断すれば、僕の計画は完成だった。後は先生が彼女の切断した手を冷蔵庫に保存するのを待って、それを盗みに行けばいいのだ。もちろん様々な部分に不確定な要素は多くあった。そもそも、先生が森野を殺したとして、必ず手首を切断して持ち帰るとはかぎらないのだ。しかし達成できる可能性はゼロではなかった。 僕が欲しかったのはただひとつ、森野の優美な白い手だけだった。 「私にも、その表情のつくりかたを教えてくれる?」 教室で放課後、はじめて森野が僕に話しかけてきたとき、彼女はそんなことを言った。 僕はたいてい、だれかと話をするときは微笑みを絶やさなかった。しかし、内心ではまったくの無表情であることを、森野はなぜか気づいていたらしい。だれにも見破られなかった演技を、彼女の嗅覚はかぎとったのだ。 それ以来、僕たちはお互いに話し相手を得た。それは友人と呼べない冷たい関係だったかもしれない。しかし、彼女と応対するときだけ、僕は演技をせず思ったことをそのまま顔表面の皮膚に伝えることができた。したがって僕の額の筋肉は休憩時間を得たわけである。それはつまり、みんなにひた隠しにしていた僕の心の無表情さや非人間的な部分を、森野は心地よい無関心さで許したということだった。
世間の人がリストカット事件のことを忘れてしばらくたった。学校では夏休みが終わり、二学期がはじまっている。 放課後の傾いた日差しが校庭を黄色に染めている。教室の開け放した窓から風が入り、僕の机の前に立つ森野の長い髪の毛を揺らす。 「……それでその映画、本物のフリークスが俳優として起用されているんだけど、すごく変な話だったわ。フリークスたちがおみこしみたいなのをかついでいたりするの」 森野の話を聞きながら、僕は心当たりのある映画の題名を言ってみた。彼女はひかえめに少しだけ驚いた顔をした。それは表情をあまり変えない彼女の、驚愕に値する顔だった。 「正解」 ドイツの女性監督の映画である。そしてこのような変な作品に興味を示すのは、僕の知るところでは自分と森野だけだった。 「ところで、リストカット事件って覚えてるかい」 僕は話題を変えた。 「春ごろに起きていた事件ね」 「もしもきみがその被害者になっていたら、今ごろどうしてた?」 森野は自分の両手昔をじっと見つめた。 「……たぶん、腕時計を巻くたびに困っていたでしょうね。でも、なぜいきなりそんなことを聞くの?」 森野は不思議そうにした。 今でも彼女は、痴漢だと思って撃退したのがリストカット事件の犯人であることに気づいていない。そして僕は、時折、今でも彼女の手に見とれるのだ。もしかすると篠原先生に切断させなくて良かったかもしれないと思う。それは、生きている方が美しいといったことではない。篠原先生は間違った個所で切断してしまいかねなかった。 「別に、なんでもない」 そう返事をして、下校するために立ちあがる。 僕が森野の手を欲しいと思ったのは、自殺しようとしたことを示すリストカットの美しい傷跡が手首に残っていたからだ。 [#改ページ] Ⅲ 犬 Dog [#改ページ]
† 1
点々と血を滴らせながら、相手は草の茂みへ逃げこもうとする。しかし、私にとって前に回りこむのは簡単だった。その四本足の動物は全身に傷を負い、すでに体力を消耗しきって動きを鈍らせている。 私はそろそろ、相手を楽にしてあげたいと思った。もう反撃をするような強い意志など、残っていないだろう。 私はその動物の首筋を、上顎と下顎の間にはさんだ。口の中で、相手の首の骨が折れる。その音と感触が、顎から伝わってくる。その動物は脱力し、私の顎にぶら下がった。 容赦はしない。本当はこんなことしたくはないのだけど、ユカがこうすることを望むのだ。だから私は、相手を殺す。 上顎と下顎を開けると、口からその動物の体が落下する。地面に力なく横たわる。瞳に光は無く、完全に沈黙している。 私は吠えた。 この四本足の動物は、さきほど私とユカが橋の下へつれてきたものだった。ある家の前を通りかかったとき、ユカが立ち止まって、品定めをするように門の奥を見ていたのだ。彼女の視線の先を見ると、この動物が首を傾げて私たちを見返していた。ユカが私を見て言った。 今夜の獲物はこの子にしよう。 私は、ユカの話す言葉が理解できるというわけではない。でも、何と言っているのか、漠然とわかる。 この儀式は時々、夜に行なっている。これで何度目になるだろう。町で見つけた獲物を、私とユカだけが知っている橋の下の秘密の空地へ連れていく。ユカは、そこで私と彼らを戦わせる。 彼女の命令に私は従う。ユカの命じるまま、私は地を駆ける。相手に飛びかかり、はね飛ばす。獲物となる四本足の動物は、いつも私より体が小さい。だから私が本気でぶつかると、相手は簡単に転がり、傷を負う。体毛に血が飛び散り、骨が折れる。 私が勝つと、ユカは微笑む。嬉しそうにする。言葉は通じないが、彼女の感情は、川の水のように私の中へ流れこんでくるのだ。だから、彼女が喜んでいるのだということがよくわかる。 ユカは、私が小さかったころからの友達だ。彼女にはじめて会ったとき、私には、いっしょに生まれた他の兄弟たちがいた。彼らと母親の懐に抱かれて眠っているとき、ユカは好奇心旺盛な顔で私を見下ろしていたのだ。そのことをいまだに覚えている。 私の吠える声は、半分、夜の空を渡る。もう半分は、橋の底に反響して巨大なうねりとなる。頭上近くにかかる巨大な橋は夜空の多くを占めており、見上げると裏側が黒い闇となっている。 幅の広い大きな川に、巨大な橋がかかっている。橋の|袂《たもと》から土手を下りた川辺は、一面に広がる背の高い草の海だった。その中を進むときは、草を掻き分けなければいけない。しかし、橋の下の辺りに、草の生えていない小さな空間がある。そこだけ日当たりが悪いのか、円形の空地となっている。私たちが、今、そこにいた。 夏の日に私とユカはその空地を発見した。真ん中に立つと、まわりを草の壁に囲まれているように見える。発見して以来、そこは秘密の遊び場所だった。 しかし今、空地は、ユカが私を戦わせる場所になっている。 私は、他の動物を噛み殺したくはない。でも、ユカがそうしろと望む。そのときの彼女の目は、光のない真っ暗な夜のようだった。 ユカは、円形の空地の、端の方に座って私の戦いを見ていた。その彼女が、立ちあがる。 帰ろう。 そう考えていることが伝わった。私たちの絆に言葉はいらない。 |屍《し》|骸《がい》をくわえて、穴へ捨てに行く。空地から|叢《くさむら》の中へ少し分け入ったところに、その穴はあった。 放りこむと、小さな相手の体は穴の縁にぶつかり、力なく転がって落ちる。それほど深い穴ではないが、底は暗くてよく見えない。私の耳は、相手の体が穴の底に着地する音を聞いた。 穴はもとからこの場所にあった。だれかが何かを埋めようとして掘ったものかもしれない。闇の中に沈んで見えないが、穴の底にはユカが私に殺させた無数の動物の屍骸が敷き詰められているはずだ。近寄ると、穴からはひどい臭いがした。 はじめて橋の下でこの儀式をやったとき、そこへ屍骸を捨てるようにユカが命令した。私はそのころ戦い方がわかっておらず、相手の屍骸と同じくらいに自分もぼろぼろになっていた。相手と向き合っても、頭が真っ白になるだけで、どうすればいいのかわからなかったのだ。でも、今はもう戦うことになれていた。冷静に相手を殺すことができる。強くなった私を見て、ユカは満足そうにする。 噛みついた際に抜けた相手の体毛が、私の口の中に多く残っていた。それを飲みこみながら水のある場所へ向かった。高い草の中を少し進むと、急に視界が開ける。 広大な流れる水が広がっており、雑草の林はそのほとりで急に途切れている。水はあまりにも黒く、川というよりも、巨大な樹がただ広がっているだけのように見える。頭上の席に並んでいる電灯が、対岸まで川面に点々と写りこんでいた。私は川の水で血に塗れた口を洗い、ユカの待っている空地へ戻る。 ほら、もう行くよ。 ユカがコンクリートの階段へ向かいながら、そのような意味の声を発した。階段は、土手の斜面に合わせて作られており、川辺に広がる雑草の中から橋の袂まで続いている。空地から階段のある場所まで、やはり草の茂みを通らなければいけない。彼女のそばに駆け寄り、いっしょになって階段を目指した。 階段を上がっている途中、そばの叢を振りかえる。 草の尖った葉の先端が、ゆっくりと左右に揺れていた。一瞬、だれかがそこにいるのかと身構える。私は緊張した。耳をすませ、気配を感じ取ろうとする。しかし、どうやら風のせいだったらしい。 ユカはすでに階段を上がりきったところで、私がくるのを待っていた。私は階段を駆け上がり、秘密の場所を後にした。
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一日の授業が終わって学校を離れた僕は、駅前でクラスメイトの森野と合流した。駅前には大きなバスのターミナルがあり、噴水や花堀のあるちょっとした広場となっている。いくつかベンチが設置され、ひまな時間をもてあましている人々がそこに座る。 森野はベンチのひとつに腰掛けていた。通りから離れた場所で、植木が太陽をさえぎって日陰となっている。彼女はいつもひまな時間は本を読んでいる。しかし今は違っていた。本は閉じてかたわらに置いている。 彼女はベンチに前傾姿勢でうつむいていた。そのため、長い髪の毛がベールのように顔を隠していた。 僕が近寄ると、彼女は顔を上げ、振り向いた。太陽とは縁のない陶器のような白い顔で、左目の下に小さなほくろがある。人形のように生気の感じられない顔立ちである。動かなければ、マネキンの仕事ができるだろう。 彼女は無言で地面を指差した。白い石の板が歩道一面に敷き詰められており、彼女の足元に、小さなごみくずのようなものがある。よく見ると、少しずつ動いている。 蝶が蟻に解体されて運ばれようとしている。蟻の顎に支えられ、ヨットの帆のように立ちあがった蝶の羽根が、地面の敷石に影を落としている。彼女はそれを熱心に見つめていたらしい。 駅前で待ち合わせをしなければならない必要が、あるわけではなかった。スケジュール的には、いっしょに学校を出て、並んで下校してもよかった。しかし、彼女は学校で少々、知名度が高い。風貌や雰囲気、彼女にまつわる逸話などのせいで、歩いていると、振りかえられる場合が多い。そのように目立つ彼女と、あまり頻繁に並んで歩いているところを見られたくなかった。 もっとも、彼女は周囲のそのような雑音を気にしている様子がない。それは、他人を意識するという回路が断線しているからだろう。あるいは、注目されているなどとは気づいていないだけかもしれない。彼女には、少し鈍感なところがあった。 「では、行きますか」 彼女はそう言うと、立ちあがって歩き出した。僕も同じ方向に向かう。これから、彼女がいつも通っている古本屋に案内してもらう約束だった。 「私しか客がいないような、小さな店なの」 教室で店の名前を聞いたが、僕の知らない古本屋だった。彼女に大まかな店の位置を教えてもらったが、聞いただけではよくわからない。 黒板に地図を描いてもらったが、彼女の描く地図は地球上のどこにもありえないような地形で、解読が困難だった。白いチョークで線をひきながら、彼女自身、なぜ川の中にその古本屋が建っているのかを不思議がっていた。そこで、実際に案内してもらうことになったのだ。 店の並んでいる区域を抜けて、住宅地へ彼女は入る。空は晴れており、太陽が背中に当たるのを感じた。道は前方にまっすぐ延びて、両側に一戸建ての家が並んでいる。歩きなれている道なのか、森野は淀みなく歩みをすすめていた。 「最近、近所で起こっているペットの誘拐事件、知っているかい」 僕は彼女に尋ねた。 「ペット誘拐?」 彼女は首を傾げた。どうやら知らないらしい。僕は、歩きながら説明した。 うちの近所の家で飼われていた犬が、朝、起きると、忽然と消えていたそうだ。朝食の席で父と母がその話をしていた。 「最近、多いわね」 母がそうつぶやいていた。僕はテレビなどで異常な犯罪の情報をこまめに調べていたが、近所の事件については母の方が詳しかった。 母の話では、一週間のうちに二回、水曜と土曜の朝、庭で飼っていた動物が消えているのだという。ということは、火曜と金曜の深夜に犯行が行なわれているということだ。消えたペットは、すべて犬だった。最近は誘拐されることを警戒して、夜になると飼い犬を家の中にいれておく家が増えたという。 僕の話を、森野は熱心に聞いていた。僕が知っていることを話し終えても、彼女は、「他に情報はないの?」と知りたがっていた。首を横にふると、彼女は何か考えるような素振りを見せた。 ペットの誘拐事件が彼女の気をひくというのは少し意外だった。知り合って以来、彼女が犬や猫、ハムスターなどの話題を持ち出したことはなく、動物には興味がないのだと思っていた。 「その誘拐犯人は、あれを連れ去ってどうしているのかしら?」 「あれ?」 「嫌な臭いのする四本足の動物よ。うるさく吠えるやつ」 犬のことだろうか。彼女は前方を見据えながらさらにつぶやいていた。 「わからないわ。あの動物をたくさん集めて何をたくらんでいるのかしら。軍団を組織するつもりかしら。さっぱりわからない」 ひとり言のようだったので、僕は特に返事をしなかった。 「ちょっと待って」 古本屋に向かって隣を歩いていた森野が、急に立ち止まる。僕も歩くのをやめた。 正面の遠くにあるT字路の突き当たりまで、まだ道は続いている。僕は彼女に、なぜ立ち止まったのか理由を聞かせてほしいという意味をこめて視線を向けた。 「静かにしてっ」 彼女は人差し指を立てた。 視線を向けただけの人間にそのような台詞を吐くほど、彼女は気が立っているらしい。耳をそばだてて、何かの気配を感じ取ろうとしている。 僕には、特別な物音は何も聞こえなかった。ただどこかで犬が鳴いているだけである。その他は静かな午後だった。じっとしていると、背中に当たる太陽の暖かさばかりが感じられた。 「だめだわ、この先は通れない」 やがて彼女はそう言いきった。 道の先をよく見たが、特に工事をして通行止めになっているような様子はなかった。実際、老人の乗った自転車が、ゆっくりと僕たちの横を通りすぎていく。 「古本屋はあきらめましょう。この道、以前は通れたのに……」 理由をたずねてみたが、彼女は悔しそうに、首を横にふるだけである。これまで歩いてきた道を、彼女は戻り始める。 森野は普段、だれにどう思われようと自分を貫く部分があった。クラスメイトたちには染まらず、他人のどのような言葉も気にかけない。ほとんどの時間を一人、無表情に過ごしている。そのような彼女から、ここまで悔しそうな顔を引き出して敗北させるのは、よっぽどのことがあると感じた。 もう一度、僕は道を調べた。通りの両隣には家が並んでいる。少し先にある家の門から、犬小屋が見えた。最近、飼い始めたのだろうか、真新しい犬小屋だった。わずかに、そこから犬の息遣いが聞こえる。それ以外の音を、僕は探した。最初、犬のことは頭から切り離していた。 気づくまで、しばらく時間がかかった。 そのうちに森野は足早に二十メートルほど道を戻っていた。後を追いかけると、再び彼女は立ち止まり、片手を水平に上げて僕に注意した。 「危ない。これ以上、進まないで」 彼女は視線を先に向けたまま、下唇を噛んでいた。 「はさまれたわ」 緊張を|孕《はら》んだ声で彼女はうめいた。 道の先から、大きな犬をつれた女の子が歩いてくる。 犬はゴールデンレトリバーである。豊かな毛並みをしていた。首輪につながった紐を女の子が握っている。背が低く、痩せ細った女の子だった。小学三年生ぐらいの年齢だろうか。肩までの髪の毛が、歩くたびに跳ねていた。 横を通り過ぎる瞬間、僕は、彼女の連れた犬と目があった。前足を踏み出すたびに上下する犬の瞳の表面に、僕の姿が映りこむ。 深い黒色の、知的な目をしていた。僕は吸い寄せられるようにその瞳を見つめる。 目の表面に映りこんでいた僕の姿が消えた。犬は僕から視線を外し、女の子を見上げる。 やがて犬を連れた少女は僕の横を通りすぎて、すぐそばの家へ入っていった。赤い屋根をした平屋の建物である。 「ただいま……」 そう言った少女の声が聞こえる。ゴールデンレトリバーも玄関を抜けて家に入った。外に犬小屋などが見えない。中で飼っているのだろう。 少女と犬がいなくなると、壁際にぴったりと体を寄せていた森野が何事もなかったように歩き出した。特別に何かコメントがあるだろうと思っていたが、無言だった。態度も表情もいつも通りだったため、森野にとってさきほどのことは日常のありふれた儀式なのだと理解する。 「この道が、こんなに危険だったなんて知らなかったわ」 彼女は悔しそうに言った。他の道を使って古本屋に行けないのかとたずねたが、それだと非常に遠回りになるので面倒だそうだ。彼女はすでに案内する気が失せているらしい。 森野の隣に追いつきながら、僕はまた犬が消え去る事件のことを考えた。なぜ、一週間に二回、火曜と金曜の夜に活動するのだろうか。持ち去られた犬は、その後、どのような運命をたどったのだろうか。 僕や森野は、異常な事件や、それを実行した者に対して、暗い魅力を感じる。心が切り裂かれるような、悲痛な人間の死。叫び出したくなるほどの不条理な死。それらの新聞記事を切り抜いて集め、その向こう側にある人間の心の、深く暗い底無しの穴を見つめるのが好きだった。 そういったものに対する興味は、一般的に悪趣味と呼ばれるようなものだろう。しかし、まるで魔法のように、僕や森野を魅了する。 今回の事件は、特別に異常な事件というわけではない。ただの飼い犬の誘拐だ。しかし、すぐ身近で行なわれているということが気になった。外国の大火事よりも、身近なぼや騒ぎのほうがおもしろいこともある。 「連続飼い犬誘拐事件の犯人がどんな人か興味ないかい」 僕は森野に話を持ちかけた。 「わかったら教えてちょうだい」 彼女は無表情にそう言ったが、その事件……具体的には犬……には近寄りたくないという意思が隠れているように思えた。
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家には、私とユカ、そして「ママ」が暮らしている。でも、「ママ」はいつも家にいない。朝になると外に出ていく。遅いときは夕方まで戻ってこない。その間、家の中は私とユカだけのものになる。 私とユカは小さなころからいっしょだった。生まれてすぐ離れ離れになった兄弟たちのかわりに、いつもそばには彼女がいてくれた。 ユカはたいてい、いつも寝転がってテレビを見て過ごす。私はそんな彼女に寄り添い、広がっている新聞や雑誌の上に横たわる。寝転んでいる彼女の背中に、顎を載せる。 テレビに飽きると、私たちは起きあがっていっしょに背伸びをする。ユカが台所や洗面所を行ったりきたりする。私は置いていかれまいとその後を必死でついてまわる。 その後で散歩へ行く。散歩も好きだ。私とユカはいっしょに歩く。私たちの間は、散歩用のひもで結ばれている。私が間違った方向へ歩き始めると、ユカが「そっちじゃないよ」と眉間にしわをよせる。 時々、知らない人間が家にくる。大きな、人間の男だ。「ママ」が外から帰ってきたとき、そいつをいっしょに連れてくる。 そうすると、家の中の空気に、嫌な臭いが混じる。それまで私とユカの楽しかった雰囲気が、急にしぼむ。 そいつは家にあがると、まず私の頭を撫でる。「ママ」に笑いかけながら、そうする。でも、決して私と目を合わせようとはしない。 そいつの手の感触を頭で感じながら、私は噛みついてやろうかといつも思う。 私とユカは、そいつが嫌いだ。なぜなら、「ママ」がいないとき、そいつはひそかにユカをぶつからだ。 最初にその場面を見たとき、私は、気のせいだと思った。「ママ」が席を外して、居間に私とユカ、そしてそいつだけになったときのことだった。 そいつの肘が、隣にいたユカを小突いた。ユカは驚いた顔をして、そいつの方を振り向いた。 そいつは口元に笑みを浮かべながら、顔を近づけて何かを囁いた。部屋の隅からその様子を見ていた私には、そいつがなんと言ったのか聞こえなかった。しかし、ユカの表情がかわったのを、私は見た。 恐ろしい胸騒ぎを感じた。部屋の中で私とユカは離れて座っていたけれど、心の深いところを共有している。だから、彼女の感じた動揺や困惑は、そのまま私の中に流れこんでくる。 「ママ」が部屋に戻ってくると、そいつはもう何もしなくなった。ユカは不安そうな表情で「ママ」を見たが、「ママ」は異変にも気づいていなかった。 ユカが、救いを求めるように私を見た。私はただ、部屋の中をうろうろ行ったり来たりしているしかできなかった。 そいつのユカへの態度は、家へ来るたびにひどくなっていった。時々、おなかを蹴ることさえあった。ユカは苦しそうにうめいて、部屋に倒れて咳き込む。私がそばに駆けよって、かばうような格好でそいつを見上げると、そいつは舌打ちする。 あの男が家にくる夜は決まっていた。私とユカは、あいつから身を守るため、いつも家の片隅で固まっていた。そんな夜はいつも、家の中が不気味に思える。いつ、あいつが扉を開けて入ってくるかわからない。ユカはそれをおそれて眠れない。 耐えきれずに、そんな夜、私たちはひそかに家を出る。 ユカが私に動物を殺させるようになったのは、あの男が家にくるようになってからだ。あいつが来るようになって、ユカはいつも泣いている。そして、ぞっとする暗い目をするようになった。 私はそれを、悲しく思う。
† 2
「気づいたのは、夜中の十二時ごろだったわ……」 まだ若いその主婦は子供を胸に抱いて説明した。子供は目を閉じて眠っている。さきほどまで交わしていた世間話の中で、その子は生まれてまだ三ヶ月なのだと、彼女は話していた。 「寝る前に、主人がパブロフの様子を見に行くと、小屋にいなかったの……」 パブロフというのが、二週間前の火曜深夜にいなくなった犬の名前である。僕の知らない種類の、血統書つきの犬だった。 うちから二キロほどしか離れていない洋風一戸建ての家の玄関先に、僕とその主婦は向かい合って立っていた。 学校の帰りに、犬が誘拐されたという家をたずねることにしたのだ。自分は高校の新聞部で、最近、近所で頻発しているペット誘拐のことについて調べているのだと説明しておいた。もしかすると取材の過程で犯人について何かがわかるかもしれないと言うと、彼女は協力的に事件のことを話してくれた。 「後から思い出したのだけど、そういえば十時ごろに、パブロフが激しく吠えていたような気がした。でも、よく通行人に吠えていたから、気にしなかったわ……」 「それが、最後に聞いたパブロフの声ですね?」 そうたずねると、主婦は頷いた。 玄関先から横に顔を向けると、小さな庭があり、空になった犬小屋が置かれている。大きな犬小屋だった。屋根の先に、犬の紐をつないでおくための金具がある。 「犯人はあそこから紐を外して、犬を引っ張っていったわけですね?」 僕が聞くと、主婦は首を横に振った。 「紐は残っていたわ。それと、食べかけのからあげが落ちていたの」 からあげは犯人が置いていったものらしいと、彼女は説明した。市販されているものだったかどうかを聞いてみると、断言はできないが、どこかの家庭で作られたものらしかったという。 犯人は家から犬の食べそうなものを持ち出して、手なずけてから誘拐したということになる。からあげを使ったという部分が、庶民的な犯罪めいて風情のある気がした。神隠しやペット誘拐のプロといったものではなく、もっと人間的な臭いがする。 僕はその主婦に頭を下げて、取材に協力してもらったことを感謝するふりをした。彼女は愛犬のことを思い出しているのか、犬小屋を見ながら言った。 「それより、犯人を絶対に見つけてね」 静かだったが、彼女の声には殺気がこもっていた。胸の子供が起きてぐずりはじめる。僕は別れを告げて彼女に背中を向けた。 そのとき、向かい側の家も犬を飼っていることに気づいた。門の間から、黒い毛の犬が見える。背丈が僕の腰まである、大きめの犬だった。 「チョコレート、という名前なの」 背後からさきほどの主婦が声をかけた。今まで向かいの家にも犬がいたことに気づきませんでした、と僕は話をする。 「そうね、あの子は、あんまり吠えないから」 見たところ、犬小屋は、パブロフの小屋よりも目立つ位置にある。しかし、静かにしていたため、犯人に気づかれなかったのかもしれない。 家に戻ると、妹の桜と母が並んで夕食の支度をしていた。母が鍋の前に立ち、中身をかき混ぜている。桜は包丁を片手に、野菜を切っている。 妹は僕より二歳年下で、高校受験を控えている。いつもなら塾にいる時間だが、今日は休みだという。今年の春ごろまで長い髪の毛の持ち主だったが、夏に短くして、今では少年のような髪型になっている。 僕とは正反対に性格がいいらしく、よく母の家事を手伝っている。頼まれたら嫌だと言えない性格なのだ。 たとえば、テレビの前で菓子をかじっている母が、両手をあわせて妹に拝んだとする。 「桜ちゃん、洗い物よろしくっ」 「え、やだよ。自分でやってよ」 最初、桜は断る。 母は顔をうつむけて、悲しい顔をしてみせる。世界が終わったような暗い顔である。それを見た桜は、あわてふためく。心からショックを受けたような顔をする。 「わかったから、もう泣かないで!」 ほとんどもらい泣きしそうな勢いで、母を勇気づけ、慰める。その後、立ちあがって彼女は台所へ向かう。一連の作業が終わると、母はまたテレビと煎餅に戻る。はたして桜はどの程度わかっていて母の言うことを聞いているのだろう。あるいは天然なのだろうかと思う。この調子で僕のかわりに、彼女が両親の老後を見ることになるのだろう。 そのような彼女には特別な才能がある。その点において僕は一目おいているのだが、彼女自身はそれをほとんど呪いのように思っている。しかし、今のように普通の生活をしているぶんには、どこにでもいる人間に見える。 「またゲームセンターに寄ってきたの?」 帰ってきた僕に、母がため息をつきながら言った。ゲームセンターにさほど典味などなかったが、学校からの帰りが遅くなったとき、いつもそう言い訳していた。 僕は台所の椅子に腰掛けて、料理をしている二人の背中を見た。息があっている。フライパンで野菜を炒めている母が無言で片手を差し出すと、何が求められているのかが妹にはわかるらしく、黙って塩の小壜を渡す。味見をした母が「みりんちょうだい!」と口にする前から、すでに妹がみりんの壜を持って横に立っている。 二人が僕に話しかけてくるので、てきとうな返事をする。二人は、僕の話に笑う。桜は笑いすぎて苦しそうにしながら言う。 「笑わせるのはやめて、お皿に盛りつけてるんだから。それで、その先生はどうなったの?」 桜の言葉で、僕は、学校であった話をしていたらしいと気づく。ときどき、家族に何を話していたのか、なぜ母や妹が笑っているのか、何もかもわからなくなる。なぜなら、家族へ聞かせる話のほとんどは、無意識的な反射であり、|咄《とっ》|嗟《さ》に考えた作り話であり、まったく意味をもたない感想だったからだ。 不思議とそれでも|齟《そ》|齬《ご》は起きない。傍《はた》から見ている分には、母と妹が織り成す家族間の会話へ僕は混じっているように見えるだろう。実際、家族が僕に向ける視線は、勉強はできないが人を笑わせるような明るい青年に向けるものと同じだった。 しかし、僕から見れば違っていた。両親や妹と、僕との間に、どんな会話もなかった。話した内容は直後に忘れた。おかげで、僕自身はずっと黙りこんでいたはずなのに、周囲の者たちはなぜかおかしそうにしているという、異様な夢を見ている気がするのだ。 「キリちゃんちで飼っていた犬、いなくなったままなんだって」 料理に使った器具を洗いながら、桜が母に言った。それまでくぐもってよく聞こえなかった僕の耳が、急に音を伝え始めたようにはっきりとしはじめた。 「そのうちに戻ってくると思ってたそうだけど……」 詳しく話を開いてみる。 桜の説明によると、彼女のクラスメイトの家で飼っていた犬が、先週の火曜日からいなくなっているそうだ。ペット誘拐の犯人の仕業ではないかと囁かれているらしい。 「それでね、犬を見かけなくなった朝、ソーセージでおびきよせた跡があったんだって」 「まあ……」 母はそうつぶやいて、そういえばソーセージを買ってくるのを忘れていたわとつぶやいた。 「犬の種類はなんだった? 大型犬?」 そう聞くと、桜が眉をひそめて僕を見る。 「兄さん……?」 僕は、家族に対してあまり見せないようにしている表情をしていたらしい。 「ん、なに……?」 そう言って僕はごまかした。 「いなくなった犬は、雑種だったみたい。けっこう小さな体だったそうよ」 僕は急に、パブロフの飼い主へ聞き忘れていたことがあることに気づいた。不自然でない印象で家族との会話を打ち切り、制服のまま再び外へ出た。もうすぐ夕飯なのに、と母が迷惑そうな声を出した。 パブロフの飼われていた家に到着したとき、辺りは暗くなりはじめていた。玄関のチャイムを鳴らすと、つい二時間ほど前に話を聞かせてくれた若い主婦が現れた。僕の顔を見ると、あら、と声を出した。子供は抱いていなかった。 「度々すみません、取材し忘れていたことを思い出してしまって……。パブロフは、どの程度の大きさの犬だったのですか?」 「それを聞くためだけにまたきたの?」 彼女は僕の二度目の訪問に当惑しながら、パブロフはまだ大人になりきっておらず、大きくはなかったと説明した。 「子犬より少し大きいくらいですか?」 「うん、そう。でも、大人になると大きくなる種類なの。だから犬小屋も大きなタイプを買っていたのだけど……」 僕は礼を言って立ち去った。 犯人は犬を誘拐するとき、犬小屋に紐を残していった。では、どうやってつれていったのだろう。別の紐を用意していたのだろうか。それなら、犬小屋から紐をはずせはいいことだ。つけかえる手間がはぶける。犯人は、紐を首輪から外し、犬を両手で抱えて運んだのだ。 そして向かい側に飼われていた静かな犬ではなく、なぜパブロフを選んだのか。僕なら、吠えない方を選ぶ。その方が誘拐しやすそうだからだ。しかし、犯人はそうしなかった。おそらく、パブロフの方が小さな体をしており、運びやすかったからだろう。妹の知人が飼っていた犬も、割合に小さな体をしていたという。犯人は犬を誘拐するとき、小さな犬を選んでいるのではないだろうか。 なぜ、運びやすい犬ばかり選ぶのか。推測のひとつとして、犯人は車などの犬を運ぶ乗り物を持っていなかったということが考えられた。だから、大きな犬ではなく、小さな犬を選んだのだ。これまで僕の耳に入ってきた情報によると、犬の消えた家はそれほど広範囲には分布していない。もしも車を持っている人間であれば、せまい範囲の中で繰り返し犯行を行なうことはせず、遠くから犬を盗むにちがいない。 僕は、しばしば動機のない異常快楽殺人事件の捜査に適用される心理分析のことを思い出した。それは、犯人が獲物を選ぶときの、判断基準に関するものだ。 犯人は無意識のうちに、自分よりも弱そうな相手を獲物として選ぶという。たとえば、被害者の身長がいずれも百五十センチ未満で、百六十センチ以上の人間は一人もいなかったとする。すると犯人は、百五十センチから百六十センチまでの身長の人間だと推測できるわけだ。この飼い犬誘拐事件に関しても、似たようなことが考えられるかもしれない。 家に帰ると、父が会社から戻っていた。夕食がはじまっており、僕はコンビニに行ってきたと説明した。自然な様子で家族の会話に混じり、さりげなく、庭で犬を飼っている家を尋ねた。 「あ、あそこの犬ってかわいいよね。なんで室内で飼わないのかしら、あんなに小さいのに」 次々と近所の家の名があがっていく最中、桜が言った。 「家の中だとうるさいからだろ」 父が返事をした。僕は、その家の場所を尋ねた。今日は火曜である。夜、その家へ犯人が現れる可能性はゼロではなかった。
その家は曲がり角に位置していた。古い日本家屋である。塀の上から中を覗いた。庭は広く、犬小屋が端の方に置かれている。犬小屋は手作りらしく、木箱のようにも見える。そばに杭が打たれ、そこに犬が紐でつながれていた。目が大きく、僕を見ると、街灯の下で吠えながら何度も跳ねた。子供でも運べるくらいの小さな体をしていた。 家から距離を置き、離れた位置にある雑木林に身を潜めた。そばに街灯がなく、周囲は完全な暗闇だった。 腕時計を確認する。周囲は暗かったが、腕時計側面のボタンを押すと、内部でランプが点灯して液晶が照らされるようになっている。夜の十時だった。パブロフの鳴き声を主婦が最後に聞いたのは、ちょうど二週間前のこの時間だったという。犯人がこの家を狙って来るとしたら、そろそろだろう。 雑木林の地面は落ち葉が厚くつもっていた。少し身動きをしただけで、周囲にある木々の細い枝が、音をたてて折れた。夏が過ぎたばかりで、昼間はまだ暖かいが、夜は少し冷えた。 上背のポケットに手を入れるとナイフの柄に当たった。念のために用意した武器だった。 犯人をもしも見つけても、通報するつもりはなかった。ただ遠くから、見つからないように眺めているつもりだった。だから武器が必要になることはまずないだろう。 しかし、深い考えもなく僕は、ナイフセットの中から一本を抜き取って持ってきていた。剥き出しのままでは怪我をするため、別に購入した革製のケースに入れていた。 僕は、異常犯罪の犯人を観察するのが好きだ。そのための行動を起こしているうちに、かつて、数人の女性を殺害した犯人と顔を合わせたことがある。その人の部屋にあった二十三本のナイフセットを、僕は勝手に持ち帰って本棚の奥に隠していた。家にいるとき、蛍光灯の下でナイフの銀色の表面を眺めた。まるで濡れているように、白く光を反射した。 時々、刃に映った自分の顔が、かつてそのナイフによって殺された女性の顔へと変化した。それは錯覚には違いないが、確かに苦痛と絶望の叫びが刃に染みこんでいるのを感じた。 僕は内心、ナイフをもてあましていた。記念に持ち帰っていいものではなかったのだ。表面に薄く光沢を|纏《まと》ったナイフを見つめながら、これは実用されるべきものかもしれないと思った。 腕時計を、再度、確認する。液晶を照らし出すランプのボタンを押し、時刻を読む。水曜日になっていた。雑木林に隠れている問、目の前の道をだれも通らなかった。 犯人は、どの辺りの地区に住んでいる人間なのだろう。それがわかれば、もっと張りこむ地点を絞り込めるにちがいない。少なくとも今日、僕の前に犯人は現れないだろうと思った。 十分後、雑木林を出て家に戻った。 父母は眠っていたが、桜は受験勉強をしていたらしい。僕が帰ってきたのを知り、どこに行ってきたの、と言いながら一階におりてきた。コンビニへ行ってきたと僕は説明した。
†
今夜があいつのくる日だということは知っていたのに、居眠りした私がいけなかった。私は、ユカの悲鳴で飛び起きる。声は居間のほうから聞こえた。 眠っていた部屋から飛び出す。 奥の部屋で私といっしょに降れていたユカは、いつのまにかあいつのいる居間に連れてこられていた。「ママ」はどこかへ出かけているらしく、あいつとユカだけが居間にいた。 ユカが、倒れてうめいている。痛みをこらえるような、悲しい声を出している。 あいつはユカの頭のそばに直立して、無表情に彼女を見下ろしていた。私の目からは、頭が天井に届くような大きさに見えた。それにひきかえ、ユカはなんて小さいのだろう。なんて無力に、痛みで|喘《あえ》ぐことしかできないのだろう。 頭の中が、怒りのために沸騰する。 私は吠えた。体の奥から声を絞り出した。あいつは私を振りかえると、目を大きく広げて驚いていた。一歩だけ後退し、ユカのそばから離れる。 倒れてうめいていたユカが、私に目を向けた。愛しいものを見る瞳だった。私は、心の底から彼女を守らなければいけないと思った。 玄関の開く音と、「ママ」の声。買い物袋をかかえた「ママ」が帰ってきた。あいつを家に残して、出かけていたらしい。 あいつの手に噛みつこうとする私を、「ママ」が後ろから捕まえる。私の顎は、寸前であいつに届かなかった。 しかし、その間にユカが立ちあがる。怒りを含んだ「ママ」の声がする中、彼女は玄関の方へ逃げる。それを追いかけ、私たちはいっしょに家を飛び出した。 外に出て懸命に走る。背後から、玄関先に立つ「ママ」の声が追いかけてくる。それを振り払って、夜の奥深くへと逃亡する。 静かな暗い路地に街灯が並んでいた。その足元だけ、白く照らされて地面が浮かんでいるように見えた。私たちは小さな二つの影を連れて、いくつもの街灯の下を通りすぎる。 どこまで進んでも夜は続いていたが、私はユカといっしょだったから恐くなかった。でも、彼女のことを思うと悲しかった。 ユカは泣いているわけではなかったけれど、ひどい苦しみを抱えて歩いていた。それが私にはわかる。体が痛むのか、ときどき、彼女は立ち止まった。痛ましかったけれど、私は彼女のそばをついて歩くことしかできなかった。 お昼に見つけたあの家の動物を、今夜の獲物にしよう。 ユカが言った。今日、散歩をしたときに、連れ出しやすそうな動物を見つけていた。私たちはその家を目指した。 ユカもきっと気づいているが、最近、獲物にしやすそうな動物を見つけるのが難しい。動物を家の中で飼う家が多くなった。私たちの存在が、警戒されはじめている。 心の中で、いつも不安だった。だれにも私たちのやっていることを見られてはいけない……。そう心構えをすると同時に、いつも私はだれかの影を恐れていた。 そのだれかというのは、私やユカでもなければ、「ママ」やあの嫌な人間の男でもない。まったく知らない人だ。その影の人物は、動物をさらう私とユカを追いかけている。そして、橋の下で恐ろしいことをしている私たちを、いつかきっと発見するだろう。 そうなったときのことを想像すると恐くなる。私やユカのやっていることをみんなが知ったら、私たちはひきはなされるかもしれない。私がいなくなったら、誰もユカを守るものがいなくなってしまう。決してそのようなことになってはいけない……。 目的の家が、道の先に見えた。街灯の下に、屋根の先が照らされている。他の場所は暗く、闇の中に消えていた。曲がり角に位置しており、昼間の散歩で確認したとき、小さな体をした犬が庭に飼われていた。 行こう。ユカが言って、その家に向かって歩く。 そのとき、私は視界の端で何かを見つけた。小さな声で私はユカを呼びとめ、立ち止まる。どうしたの、と彼女は私に無言の目配せでたずねた。 さきほど、家よりも事前にある雑木林の暗闇で小さな明かりが見えた。点のような光がついて、そして消えた。 だれかがいる。私は注意深くその暗闇へ神経を向けた。はっきりとはわからないが、だれかが身を潜めて、これから私とユカが行こうとしている家を監視しているように思えた。考えすぎで、実際にはだれもいないのかもしれない。でも、そう直感した。 ……今日は、帰ろう。私はユカに目でそう語りかけた。彼女は家と私を交互に見て、わかった、と返事をした。 私とユカは、その夜、動物を盗まなかった。橋の下でしばらく時間をつぶし、家に帰った。ユカは私に何かを殺させたがっていたが、私は何も殺さずにすんでほっとしていた。 でも、不安だけはつきまとっていた。 私たちを追うだれかの形が、ついに今夜、はっきりした形となって目の前に現れた気がしていた。 その人物は私の杞憂にとどまらず、確かに存在していたのだ……。
† 3
張りこみをした火曜の夜、結局、僕の前に犯人は現れなかった。翌日の水曜日、僕はクラスメイトや家族にさりげなく質問し、どこかの家のペットが消えていないかを調査した。その結果、火曜の夜に犯人は何もしなかったらしいとわかった。もっとも、犯人が野良犬を持ち去っていたり、僕の情報網にひっかからない場所で犯行を行なっていたりすれは別である。 「犯人がどんな人かわかった?」 水曜の昼休み、化学講義室の片隅に座って読書をしていた森野が、僕にそうたずねた。 僕は首を横にふり、まったくわかっていないと彼女に告げた。 「そもそも、なんのためにあんな動物を盗むのかしら。ペットショップに売って、お金に換金しているのかしら」 森野は、あんな動物を欲しがる人の気が知れないとでもいうような口調でそう言った。 「おそらくお金が目的ではないだろうね。ペットショッブで売られている血統書つきの犬でも、育ちすぎると処分されることが多いんだ。買う人はほとんどいないだろう」 もしも購入するとしたら、ペットとしてではなく、研究目的の実験動物としてだろう。飼われていた犬は、野良犬よりも人間に対する信頼が厚い分、扱いが楽だ。だからヤミで重宝されているという話を聞いたことがある。 「犬を盗むのは、虐待するのが目的としか考えられない。そういった趣味を満たすために、インターネットの捨て猫や捨て犬サイトから引き取る人もいるんだ」 「それでは、犯人は盗んだペットを、どこかで殺して楽しんでいるというわけね。犯人は、頭のおかしい人なんだわ」 森野の言葉を聞きながら、僕はふと疑問に思った。 もしそうなら、犯人はどこで動物の虐待を行なっているのだろうか。自分の家ではないだろう。ときどき、殺された動物の屍骸が公園で見つかるというニュースがテレビで報道され、動物虐待に関する問題が取りざたされる。しかし、この近辺で屍骸が発見されたという噂は聞いていない。
水曜と木曜の夕方、学校から帰る途中、ペットの誘拐された家をたずねて歩いた。どこの家の人も、僕が新聞部だということに疑いを抱いた様子はなく、割合かんたんに話を聞かせてくれた。一日に一軒がノルマとなっていた。 結局、犯人に関する有力な情報はなかった。盗まれた動物はいずれも小柄で、雑種だった。食べ物でおびきよせた形跡は、あったり、なかったりした。 金曜日、学校が終わると、僕はバスに乗ってペットの消えた家に向かった。僕の得た情報によると、最初に犬の消えた場所で、うちからも学校からも遠く離れた、川沿いの住宅地にあった。 地図で住所を確認しながら、家を見つけた。真新しい家だった。玄関のチャイムを鳴らしたが、住人は留守らしく、だれも出てこなかった。 小さな庭に、チューリップの花壇があった。空になった犬小屋と、餌の皿が放置されている。皿はプラスチック製で、泥がついて汚れており、子供らしいマジックの文字で「マーブルのお皿」と書かれている。 僕は家を後にして、ふたたびバスに乗り込み、家の近くにあるバス停で下車した。 今日は金曜日だ。夜にまた、どこかでペットが消えるのだろうか。そう考えながら歩いていると、声をかけられた。振りかえると、中学の制服を着た桜が、自転車を押して歩いていた。彼女は少し小走りに駆け寄ってきて、僕の横に並んだ。 彼女はいつも、学校から帰る途中、塾で数時間ほど勉強して家に帰ってくる。それなのになぜ今日はこの時間にここにいるのかと質問した。 「わけありで、塾に行かなかったのよ……」 彼女は元気の失せた声で言った。顔色が悪く、ふし目がちで、自転車を押すのもままならない様子だった。 「……また、何かを見たのか?」 彼女の自転車を受け取り、かわりに押した。ありがとう、と小声で彼女は言って、うん、見た、と唇を動かした。 彼女は特殊な星のもとに生まれついている。僕はそれを才能だと思っているが、彼女自身はそのことを呪いだと思って忌み嫌っている。 桜はよく、死体を発見するのだ。 最初は小学校の遠足で行った山だった。当時、彼女は一年生だったのだが、一人、みんなから離れて道に迷っていると、湖のほとりに出たそうだ。そこで彼女は、湖面にただよっている人間の水死体を発見した。 二度めは四年後だった。友達の家族と行った海で、やはり桜はみんなとはぐれてしまった。そのうち海岸の端に辿り着き、岩場の陰に打ち上げられた男性を見つけた。 三度めはさらに二年後、中学二年のとき、バレー部の合宿で行った高原でのことだった。ランニング中にコースを聞違えて、あまり人の近寄らない場所へ行ってしまった。なにかに|躓《つまづ》いて、彼女は転んでしまった。彼女の足をひっかけたのは、人間の頭蓋骨だった。 彼女は死体を発見するたびに、青い顔で家へ帰ってくる。それから熱を出して、一週間は寝こむ。 「なんで私ばっかり……」 うなされながら泣く。 しかし、彼女が死体を発見する間隔はしだいに短くなっている。この計算でいくと、今年か来年に四つめの死体を発見するだろう。彼女が年を取ったとき、毎分一体の割合で死体を見つけることになるかもしれない。 「それで、今日は何を見た……?」 僕は彼女に聞いた。押している自転車のタイヤが、からからとまわる。 「さっき、塾に向かっている途中、ちょっと気持ち悪いものを……。それで、気分が悪くなって、塾を休むことに……」 中学校と塾との間に川がある。大きな幅の川で、ゆったりと大量の水が流れていた。そこには大きなコンクリート製の橋がかかっており、多くの車が行き交っている。車道と別に、歩行者や自転車が通るための区画があった。桜はそのとき、歩道を自転車で渡っていたそうだ。 「自転車のカゴに、鞄とタオルを入れていたの」 彼女の気にいっている、白と青の縞模様のタオルだったそうだ。そばをトラックが通り抜けた瞬間、風が吹いてカゴの中のタオルが空中へ舞いあがった。彼女の見ている前で、橋の外に飛んでいき、風に流されて落ちていった。 背後で車が行き交う音を聞きながら、彼女は手すりから顔を突き出して見下ろす。幸いにも、タオルは川の中へ落ちたわけではなかった。はるか下の川辺に生い茂る一面の緑色の中に、小さくタオルが引っかかっていたそうだ。 「私は土手におりてタオルを拾いに行くことにしたの」 川のそばへ下りるための階段が、橋の|袂にあった。コンクリート製で、そこをつかって土手を下りる。階段を下りきると、雑草の林だった。緑色の尖った無数の葉が、目の高さまである。雑草の茂みをかきわけて彼女は進んだ。生い茂っているといっても、人が通れる程度の余裕はあったらしい。 「上からは気付かなかったけど、橋の下あたりに、草のあまり生えていない広場があったの」 その広場は、円形に乾いた地面が露出していたという。周囲は雑草の壁であるから、中心に立つと檻に囲まれたような印象を受けたそうだ。 頭上の高いところに、巨大な橋がかかっていた。ほとんど屋根のように覆い被さって、見上げた空の半分は、橋の裏側でさえぎられていたそうだ。 「私はタオルを探してその辺りを歩いてみたのだけど……」 そのうちに彼女は、虫の飛ぶ音を聞いた。蝿が羽を忙しく震わせる、あの音だ。よく見ると、雑草の上空、ある一画だけ、やけに蝿が多いことに気づいた。 「私はためしに、そこへ近づいていったの……。タオルの引っかかっていた方向だったし……」 彼女が歩みを進めると、何かの腐った臭いがしはじめた。草をかきわけ、やがて虫の飛んでいる場所に近くなったとき、唐突に彼女の足元に、黒い穴が出現した。穴というよりもくぼみだった。半径、深さ、ともに一メートル程度で、あやうくそこへ足を踏み入れるところだったという。腐臭に胸をつまらせながら視線を下ろし、彼女はその穴の中にあるものを見た……。
穴の中には、おびただしい数の、何かの塊が敷き詰められていた。ぼろぼろで外見をまともにとどめておらず、最初のうち、何があるのかわからなかった。黒く、そして赤い塊だった。 僕は腐臭に耐えながら穴の縁に屈み、底へ顔を近づけた。 犬らしい顎、尻尾、そして首輪があった。毛皮の下や、柔らかく崩れたものの間から、無数の小さな白い蛆がぽろぽろと這い出して表面を覆っていた。それが幾重にも折り重なり、原型をとどめずに穴の底で層をなしている。かつてこれが、命を持ち、太陽の下を駆け回っていたのだと考えると、不思議な気持ちにさせられる。おそらくそれが、死と破壊の持つ魅力だった。 腐敗と悪臭の穴だと思った。中にあるものを見ながら、僕はわけもなく第二次世界大戦の記録映像や写真を思い出した。この死の穴はそこともつながっている気がした。 立ちあがり、僕は周囲をあらためて見渡した。橋の下は、桜の言ったとおり、雑草しかない。草の尖った先端に赤い夕日が載っており、蝿の黒い点が飛びまわっている。僕を仲間だと思うのか、蝿がさきほどからしきりにまとわりついて学生服や頬に衝突する。傾いた太陽が視界にあるものすべてを赤く染め上げていた。 桜から話を聞いた僕は、穴とペット誘拐事件とをすぐに頭の中で結び付けた。彼女の見つけたものは、僕の探していた場所である可能性が高いと思った。 彼女を一人で家に帰らせると、僕は橋の下へ向かった。橋の袂からコンクリートの階段を使って土手に下りると、話に聞いたとおりの円形の広場が、雑草の海の中にあった。そこからさほど離れていない場所に、虫の多く飛んでいる場所はあった。 足元にある穴を見下ろす。この屍骸の中に、パブロフとマーブルもいるのだろうと思った。僕は穴に背を向けて、橋の下を立ち去った。 家に帰り、夜が深くなるのを待った。時計の針が十時を指したころ、ナイフをポケットに入れて自分の部屋から出る。 桜はまだ動物の屍骸を見たショックが残っているのか、居間のソファでぐったりとしていた。その前を通り、玄関へ向かう。テレビドラマを見ていた母が振りかえって、どこへ行くのかとたずねた。コンビニに行くと答えると、「深夜のコンビニ族……」と桜がつぶやいた。 僕は再び橋の下へ向かった。今日は金曜である。犯人が席の下に現れる可能性は高かった。 歩きながら、楽しみのために小さな動物をいたぶって殺す人間の姿を想像した。その人物が死んだ犬を穴に投げこむ場面も思い浮かべる。 できることなら、その様子を見てみたいと思っていた。どのような儀式が行なわれた末にここへ屍骸が捨てられているのか、興味がある。 猟奇的で残酷なことに、いつも僕は心をゆり動かされる。胸の奥に深く響いてくるのは、クラスメイトたちとの楽しい話でもなければ、家族と交わす暖かい言葉でもなかった。まるでそれらはチューニングのあっていないラジオの雑音のようにしか聞こえない。 巨大な川は夜になると、一面が黒くなり、地上に星のない宇宙が広がっているように見えた。横に並んでいる街灯がかろうじて薄く辺りを照らしている。周囲にだれの気配もないことから、犯人はどうやらまだ来ていないとわかる。 硬いコンクリートの階段を一歩ずつ下りて草の海へと入る。雑草の中をかきわけて進みながら、家を出る前に電話で交わした森野との会話を思い出す。 「これから犬好きの人間を見に行くつもりだけど、きみはどうする?」 「……ああ、本当は行きたいのだけど、宿題をやらないといけないから」 「宿題なんて出ていなかったはずだけど」 「……お母さんが病気で、死にそうなの」 「無理に理由をつくらなくても、犬嫌いの人を無理に誘わないよ」 僕がそう言うと、予想を越えた返事がきた。 「な、なにを言っているの。私が犬嫌いだなんて、馬鹿にしないで……。あんなもの、別に恐かないわよ……」 彼女の声はどうやら本気だったし、人をからかうようなサービス精神を持った人間でもない。僕はひとまず謝罪し、彼女のプライドのために気付いていないふりをして電話を切った。 雑草の中に僕は身を隠す。 膝を地面につけた格好で、ポケットからデジタルカメラを取り出した。明かりは横の上にある街灯だけなので、映るかどうか怪しかった。絞りを解放してシャッタースピードを最長に設定する。フラッシュを焚かずに写すための努力だった。フラッシュを焚けば、犯人に気づかれるだろう。それを防ぎたかった。 犯行を警察に知らせるつもりはなかった。犯人に自分の存在を覚られることも避けたかった。僕は事件に関わりあいになってはいけない。それはルールのように心の中で決めていた。第三者の立場で、ただそっと眺めているだけだ。通報せずに、このままペットが誘拐され続け、何人の人間が悲しみで泣こうと、まったく良心は咎めない。僕はそういった人間である。 隠れている茂みから、川辺に下りてくるコンクリートの階段と丸い広場が観察できた。屍骸のある穴へ向かう途中、おそらく広場の中を通るはずだ。そのときがシャッターを切るチャンスだろう。 巨大な川を大量の水が流れている。その音が、雑草の中に身を潜ませている僕のもとにまで聞こえてきた。頭の中に、夜を映し出す漆黒の川面が思い浮かんだ。ひどく静かな光景だった。 冷えた風が吹き、周囲の雑草が一斉にざわめいた。僕の頬に、尖った葉の先端が触れる。 腕時計の液晶が深夜の十二時を示したとき、土手の上に、黒い影が立った。影は階段を下りてくる。僕は頭を低くして、自分のいることを|覚《さと》られないよう呼吸を小さくした。 影は階段を下りきって、一度、雑草の中に埋没する。橋の上から降り注ぐ薄明かりの中、その人物がかきわけているらしい辺りの、草の先端だけが揺れている。徐々に草の揺れが近づいてきて、やがてその人物が、円形の広場に現れた。階段を下りてくるときには黒い影に覆われていたが、雑草の中から現れたとき、薄明かりが影を拭い去った。 草をかきわけて顔を出したのは、少女と犬だった。少女は背が低く、髪の毛は肩までで、ひどく痩せていた。犬はゴールデンレトリバーだ。以前、森野と道を歩いていたときにすれ違った少女と犬だと気づく。 少女の胸に、さほど大きくはない犬が抱かれていた。犬はもがいて吠えているが、犬の扱いになれているらしく、放さない。 僕はカメラを構えた。
†
私とユカがはじめて橋の下の広場を見つけたのは、夏の、とても暑い日だった。空には雪が一片も見当たらず、高いところにある太陽が、橋の下に広がる草を一面の緑色に輝かせていた。 私とユカは、散歩の途中だった。いつもやっていた遊びの中に、全速力で息が続かなくなるまで走る、というものがあり、その日も私たちはとにかく走っていた。やがて息が切れて走れなくなったとき、川沿いの道に出た。 私たちはコンクリートの土手に腰掛けて休みながら、橋の下に広がる草の海を眺めることにした。かすかに吹く風が、見えない手で触ったように、草の茂みを揺らして消えた。 ユカが私を呼んだ。振りかえると、彼女は橋の袂にある階段に視線を向けていた。 下に行ってみよう。 躍るような、彼女の冒険心が伝わってきた。階段を下りると、そこは周囲に草しかない世界だった。濃厚な草の匂いの中を、私たちは進んだ。 普通に進んだのではつまらないと思ったのか、ユカが、背後を歩いていた私をちらりと見て、急に走り出した。それは追いかけっこをはじめる合図だった。私たちは走りつかれていたことも忘れて、草の中で追いかけっこをした。夏の熱気が、すぐに私たちを熱の塊にする。 草をかきわけながら逃げるユカを、私が追いかける。彼女の背中を見失って途方にくれると、すぐそばから彼女の笑い声が聞こえる。そこにいたのかと、声のしたほうに突進すると、またユカが逃げ出す。 そうしていると、唐突に、広いところへ出た。急に視界が広がったような気がした。濃厚だった草の匂いが薄れ、涼しい風が体を包む。草が生えていない円形の広場だった。 先を走っていた彼女は、面食らった顔をして広場の中央にいた。周囲を眺め、そして草の壁から飛び出してきた私を見る。最初のうち戸惑っていたが、すぐに、いいものを見つけた、という気分になったらしい。彼女の瞳は、楽しいことの予感で、明るく輝いていた。 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。まるで、遠い昔のことのようだった。 橋の下の広場を見つけてまもなく、あいつがうちへ来るようになったのだ。そして、私とユカは夜に出歩くことを覚えた。日に日に風は冷たくなっていく。あの夏の日、私たちを包んでいた暖かい光は、もう感じなくなっていた。 昼間に散歩をしても、全速力で走る遊びや追いかけっこをしなくなった。遊ぶかわりに、家々で飼われている犬を調べながら歩いた。事前にそうしておけば、夜に散歩をするとき、獲物探しが楽だった。 ユカが私にそうすることを命令する。何のため私にそうさせるのかはわからない。でも、彼女自身の楽しみのためではないと、なぜかそう感じる。ユカの目は、いつも笑っていない。どんな感情よりも強く、悲しみや憎しみが宿っている。だから、私はしたがうのだ。 風は、前回のときよりも、また少し冷たくなっていた。夜のまだ早い時間だったから、橋には多くの車が行き交っていた。ライトのまぶしい光が近づくと、私とユカの影が地面に細長く伸び、横を通りすぎると、伸びた影がぐるりと円を描いて消える。 私たちは、階段の上から草の海を見下ろした。大部分が闇の中に消えている。草同士の、風でゆれてこすれる音が、黒々とした闇の中から波のように聞こえてくる。橋の上からの街灯に薄く照らされた部分だけ、雑草の形が見えた。 私とユカは階段を下りて草の間を進み、円形の広場に到着した。 周囲を取り囲んでいる草の壁をよく観察する。だれか潜んでいないだろうか。風に、だれか知らない人の臭いが含まれていないだろうか。 私が神経を尖らせて警戒していると、ユカが呼んだ。 そろそろはじめるよ。 円形の乾いた地面に、私とユカは、連れてきた犬を放り出す。子犬というほど小さくはないが、大人というほど大きくもない。ようやく子供の時期が終わろうとしている若い犬だ。驚いたような顔で、私とユカを見つめる。さきほど、ここへ来る途中、誘拐してきた犬だった。 動物を連れ出すとき、大きな声で飼い主に知らせようとするので大変だった。私とユカは、そんなとき、私の分のごはんを彼らの鼻先に突き出して警戒を和らげる。 ユカが、私と相手の犬を残して、広場の端の方へ下がる。いつも彼女は、そこに座って|殺《さつ》|戮《りく》を眺めた。私と相手とを、交互に眺める。 私は、飛びかかる用意をした。相手を睨み据えて、姿勢を低くする。神経を尖らせて、ユカの合図を私は待つ。 相手は、これから何がはじまるのかわかっていない。不安そうな顔で、目の前にいる私を見つめている。細い声を出した。飼い主を探している声だった。 夜の冷たい風が、潮騒のように周囲の草を鳴らして消える。静寂が訪れた。橋の上を通る車も途切れたのか、かすかに聞こえていたタイヤの音もなくなる。沈黙の中、私は緊張した。空気が張り詰めていた。そして、小さな穴が開いて破れ、破裂するのを待っている。私は毛の先まで神経を通し、はじまる瞬間を、逃さないようにした。 目の前で心細げにしていた犬が、辺りの異様な気配に気圧されたのか、再び飼い主を求めて細い声を出した。 その声が出た瞬間、短く、鋭いユカの声が上がる。 かかって! 私は地を蹴った。まだ状況のよくわかっていない目の前の犬へ、一瞬で距離を詰める。肩からぶつかった。犬は撥ね飛ばされ、転がる。喉の奥から鳴り声をあげた。相手は、状況をうまくつかめないながらも、歯を剥き出しにする。目は、困惑と敵意に満ちている。 私の心臓の鼓動が速さを増す。足の裏側に感じる地面、空気の流れ、そういったものがはっきりと感じ取れる。自分と相手との距離、それをどれほどの時間で詰められるかを、頭の中で分析する。相手のささいな仕草から、次にどの方向へ動くのかを推理する。幾度も繰り返した殺戮のおかげで、私はそういったことができるようになった。 でも、胸の中はいつも悲しみで満たされていた。ユカは、いつまで私にこんなことをさせるのだろう。本当は、何かを殺すのは嫌だった。生まれてからこれまで、自分の顎を、こんなことのために使いたいと思ったことはなかった。 相手の犬が右へ動く。私はそれを読んで、一瞬、先にそちらへ地面を蹴っていた。相手の毛が、空中に散る。血を流して、相手がよろめく。その姿が、闇の中に浮かぶ。 しばらく攻防が続いた後、ユカが立ちあがった。 噛みついて! 彼女は叫ぶ。憎しみで焦げついた声だった。その感情は、おそらくあの人間の男に向けられたものだ。彼女が私にこうさせるようになったのは、あの男がくるようになってからだ。心にためていった苦しみを、彼女はこの場所で、私に殺戮させることで解放している。 目の前で傷ついている犬と、心の底から絶叫するユカを見て、私は吠えた。声は高く、橋の裏側に反響しながら夜空を渡る。頭が熱くなる。どうしてこうなってしまったのだろう。なぜ、以前のように笑って遊びまわることができなくなったのだろう。 相手は震えながら、薄闇の中へ体を半分、隠れさせている。もはや目に、反抗する意思が残っていない。ぼろぼろになった状態でようやく立っており、つきつけられた死に恐怖している。 今、終わらせてあげる。 私は心の中でつぶやきながら、四本足の動物を押さえつけた。上顎と下顎を大きく開け、首の後ろに噛みつく。歯が皮膚を突き破り、深く食い込む。あふれる血液で、口が濡れた。 あの夏の日、幸福の光で満ちていた。私とユカは、草が気まぐれにつくった円形の広場の中を走りまわった。私がユカに飛びつくと、彼女は転んだ。一瞬、私は、やりすぎたかもしれないと不安になった。でも、彼女は転んだまま、愉快そうな笑顔を浮かべていた。そして私たちは並んで地面に横たわり、はるかな高い空を見上げた。太陽が私たちの体を温かくして、鼻は草の匂いと、かすかな汗の匂いとを感じていた……。 顎の中で|痙《けい》|攣《れん》していた動物は、やがて静かになる。私の顎を、軌物の体からあふれた血が伝う。急速に体温がなくなっていく。それまでの喧騒が止み、また周囲は静かな空間となった。 私は、殺すのがうまくなった。はたしてそれがいいことなのかどうかわからない。でも、私の顎が武器にもなるのだということを、ユカの命令は教えてくれた……。 顎の中にあったぬくもりが、完全に消えた。後に残ったのは、冷たい塊だった。 教えてくれた……。 もう一度、私はその思いを繰り返す。 口にくわえていた犬を地面に置いて、ユカを見る。彼女も、私を静かに見つめていた。 ユカの意図が、わかった。私の中へ、彼女の強い意思が流れこんでくる。 なぜ、私に多くの動物を殺させたのか? これまではわからなかったが、たった今、彼女の考えに気づいた。ユカは私に、練習をさせていたに違いない。 多くの動物を殺させて、幾度も「殺す」ということを経験させる。そうして、ユカは私の中にあるとても重要なものを尖らせていた。本番でうろたえたり、ためらったりして失敗をしないように、私は死のやりとりを経験させられていたのだ。 ユカはあの人間の男にかなわない。でも、私なら、彼女を守る牙になりえるにちがいない。 ユカが、頷いた。私が理解したことを、彼女は感じ取ったのだろう。彼女はこれまで、私が自分で気づくのを待っていたのだ。 もう、練習は必要ない。私はそのことを彼女に訴えた。 男は今夜、うちに泊まっている。 明日の朝、決着をつけようね。 ユカはそう囁いた。 噛み殺した動物は穴に捨て、私は口を川の水で洗い流した。口の中にはりついていた動物の毛も、飲みこむ。後は帰って、明日の朝が来るのを待てばいいだけだ。 私とユカは橋の下にある円形の広場を立ち去ろうとする。草の壁の中にもぐりこもうとする直前 |