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GOTH リストカット事件
作者:    出处:咖啡日语    发表时间:2007-09-20    浏览次数:     

川に、巨大な橋がかかっている。橋の|袂《たもと》から土手を下りた川辺は、一面に広がる背の高い草の海だった。その中を進むときは、草を掻き分けなければいけない。しかし、橋の下の辺りに、草の生えていない小さな空間がある。そこだけ日当たりが悪いのか、円形の空地となっている。私たちが、今、そこにいた。
 夏の日に私とユカはその空地を発見した。真ん中に立つと、まわりを草の壁に囲まれているように見える。発見して以来、そこは秘密の遊び場所だった。
 しかし今、空地は、ユカが私を戦わせる場所になっている。
 私は、他の動物を噛み殺したくはない。でも、ユカがそうしろと望む。そのときの彼女の目は、光のない真っ暗な夜のようだった。
 ユカは、円形の空地の、端の方に座って私の戦いを見ていた。その彼女が、立ちあがる。
 帰ろう。
 そう考えていることが伝わった。私たちの絆に言葉はいらない。
 |屍《し》|骸《がい》をくわえて、穴へ捨てに行く。空地から|叢《くさむら》の中へ少し分け入ったところに、その穴はあった。
 放りこむと、小さな相手の体は穴の縁にぶつかり、力なく転がって落ちる。それほど深い穴ではないが、底は暗くてよく見えない。私の耳は、相手の体が穴の底に着地する音を聞いた。
 穴はもとからこの場所にあった。だれかが何かを埋めようとして掘ったものかもしれない。闇の中に沈んで見えないが、穴の底にはユカが私に殺させた無数の動物の屍骸が敷き詰められているはずだ。近寄ると、穴からはひどい臭いがした。
 はじめて橋の下でこの儀式をやったとき、そこへ屍骸を捨てるようにユカが命令した。私はそのころ戦い方がわかっておらず、相手の屍骸と同じくらいに自分もぼろぼろになっていた。相手と向き合っても、頭が真っ白になるだけで、どうすればいいのかわからなかったのだ。でも、今はもう戦うことになれていた。冷静に相手を殺すことができる。強くなった私を見て、ユカは満足そうにする。
 噛みついた際に抜けた相手の体毛が、私の口の中に多く残っていた。それを飲みこみながら水のある場所へ向かった。高い草の中を少し進むと、急に視界が開ける。
 広大な流れる水が広がっており、雑草の林はそのほとりで急に途切れている。水はあまりにも黒く、川というよりも、巨大な樹がただ広がっているだけのように見える。頭上の席に並んでいる電灯が、対岸まで川面に点々と写りこんでいた。私は川の水で血に塗れた口を洗い、ユカの待っている空地へ戻る。
 ほら、もう行くよ。
 ユカがコンクリートの階段へ向かいながら、そのような意味の声を発した。階段は、土手の斜面に合わせて作られており、川辺に広がる雑草の中から橋の袂まで続いている。空地から階段のある場所まで、やはり草の茂みを通らなければいけない。彼女のそばに駆け寄り、いっしょになって階段を目指した。
 階段を上がっている途中、そばの叢を振りかえる。
 草の尖った葉の先端が、ゆっくりと左右に揺れていた。一瞬、だれかがそこにいるのかと身構える。私は緊張した。耳をすませ、気配を感じ取ろうとする。しかし、どうやら風のせいだったらしい。
 ユカはすでに階段を上がりきったところで、私がくるのを待っていた。私は階段を駆け上がり、秘密の場所を後にした。

   †

 一日の授業が終わって学校を離れた僕は、駅前でクラスメイトの森野と合流した。駅前には大きなバスのターミナルがあり、噴水や花堀のあるちょっとした広場となっている。いくつかベンチが設置され、ひまな時間をもてあましている人々がそこに座る。
 森野はベンチのひとつに腰掛けていた。通りから離れた場所で、植木が太陽をさえぎって日陰となっている。彼女はいつもひまな時間は本を読んでいる。しかし今は違っていた。本は閉じてかたわらに置いている。
 彼女はベンチに前傾姿勢でうつむいていた。そのため、長い髪の毛がベールのように顔を隠していた。
 僕が近寄ると、彼女は顔を上げ、振り向いた。太陽とは縁のない陶器のような白い顔で、左目の下に小さなほくろがある。人形のように生気の感じられない顔立ちである。動かなければ、マネキンの仕事ができるだろう。
 彼女は無言で地面を指差した。白い石の板が歩道一面に敷き詰められており、彼女の足元に、小さなごみくずのようなものがある。よく見ると、少しずつ動いている。
 蝶が蟻に解体されて運ばれようとしている。蟻の顎に支えられ、ヨットの帆のように立ちあがった蝶の羽根が、地面の敷石に影を落としている。彼女はそれを熱心に見つめていたらしい。
 駅前で待ち合わせをしなければならない必要が、あるわけではなかった。スケジュール的には、いっしょに学校を出て、並んで下校してもよかった。しかし、彼女は学校で少々、知名度が高い。風貌や雰囲気、彼女にまつわる逸話などのせいで、歩いていると、振りかえられる場合が多い。そのように目立つ彼女と、あまり頻繁に並んで歩いているところを見られたくなかった。
 もっとも、彼女は周囲のそのような雑音を気にしている様子がない。それは、他人を意識するという回路が断線しているからだろう。あるいは、注目されているなどとは気づいていないだけかもしれない。彼女には、少し鈍感なところがあった。
「では、行きますか」
 彼女はそう言うと、立ちあがって歩き出した。僕も同じ方向に向かう。これから、彼女がいつも通っている古本屋に案内してもらう約束だった。
「私しか客がいないような、小さな店なの」
 教室で店の名前を聞いたが、僕の知らない古本屋だった。彼女に大まかな店の位置を教えてもらったが、聞いただけではよくわからない。
 黒板に地図を描いてもらったが、彼女の描く地図は地球上のどこにもありえないような地形で、解読が困難だった。白いチョークで線をひきながら、彼女自身、なぜ川の中にその古本屋が建っているのかを不思議がっていた。そこで、実際に案内してもらうことになったのだ。
 店の並んでいる区域を抜けて、住宅地へ彼女は入る。空は晴れており、太陽が背中に当たるのを感じた。道は前方にまっすぐ延びて、両側に一戸建ての家が並んでいる。歩きなれている道なのか、森野は淀みなく歩みをすすめていた。
「最近、近所で起こっているペットの誘拐事件、知っているかい」
 僕は彼女に尋ねた。
「ペット誘拐?」
 彼女は首を傾げた。どうやら知らないらしい。僕は、歩きながら説明した。
 うちの近所の家で飼われていた犬が、朝、起きると、忽然と消えていたそうだ。朝食の席で父と母がその話をしていた。
「最近、多いわね」
 母がそうつぶやいていた。僕はテレビなどで異常な犯罪の情報をこまめに調べていたが、近所の事件については母の方が詳しかった。
 母の話では、一週間のうちに二回、水曜と土曜の朝、庭で飼っていた動物が消えているのだという。ということは、火曜と金曜の深夜に犯行が行なわれているということだ。消えたペットは、すべて犬だった。最近は誘拐されることを警戒して、夜になると飼い犬を家の中にいれておく家が増えたという。
 僕の話を、森野は熱心に聞いていた。僕が知っていることを話し終えても、彼女は、「他に情報はないの?」と知りたがっていた。首を横にふると、彼女は何か考えるような素振りを見せた。
 ペットの誘拐事件が彼女の気をひくというのは少し意外だった。知り合って以来、彼女が犬や猫、ハムスターなどの話題を持ち出したことはなく、動物には興味がないのだと思っていた。
「その誘拐犯人は、あれを連れ去ってどうしているのかしら?」
「あれ?」
「嫌な臭いのする四本足の動物よ。うるさく吠えるやつ」
 犬のことだろうか。彼女は前方を見据えながらさらにつぶやいていた。
「わからないわ。あの動物をたくさん集めて何をたくらんでいるのかしら。軍団を組織するつもりかしら。さっぱりわからない」
 ひとり言のようだったので、僕は特に返事をしなかった。
「ちょっと待って」
 古本屋に向かって隣を歩いていた森野が、急に立ち止まる。僕も歩くのをやめた。
 正面の遠くにあるT字路の突き当たりまで、まだ道は続いている。僕は彼女に、なぜ立ち止まったのか理由を聞かせてほしいという意味をこめて視線を向けた。
「静かにしてっ」
 彼女は人差し指を立てた。
 視線を向けただけの人間にそのような台詞を吐くほど、彼女は気が立っているらしい。耳をそばだてて、何かの気配を感じ取ろうとしている。
 僕には、特別な物音は何も聞こえなかった。ただどこかで犬が鳴いているだけである。その他は静かな午後だった。じっとしていると、背中に当たる太陽の暖かさばかりが感じられた。
「だめだわ、この先は通れない」
 やがて彼女はそう言いきった。
 道の先をよく見たが、特に工事をして通行止めになっているような様子はなかった。実際、老人の乗った自転車が、ゆっくりと僕たちの横を通りすぎていく。
「古本屋はあきらめましょう。この道、以前は通れたのに……」
 理由をたずねてみたが、彼女は悔しそうに、首を横にふるだけである。これまで歩いてきた道を、彼女は戻り始める。
 森野は普段、だれにどう思われようと自分を貫く部分があった。クラスメイトたちには染まらず、他人のどのような言葉も気にかけない。ほとんどの時間を一人、無表情に過ごしている。そのような彼女から、ここまで悔しそうな顔を引き出して敗北させるのは、よっぽどのことがあると感じた。
 もう一度、僕は道を調べた。通りの両隣には家が並んでいる。少し先にある家の門から、犬小屋が見えた。最近、飼い始めたのだろうか、真新しい犬小屋だった。わずかに、そこから犬の息遣いが聞こえる。それ以外の音を、僕は探した。最初、犬のことは頭から切り離していた。
 気づくまで、しばらく時間がかかった。
 そのうちに森野は足早に二十メートルほど道を戻っていた。後を追いかけると、再び彼女は立ち止まり、片手を水平に上げて僕に注意した。
「危ない。これ以上、進まないで」
 彼女は視線を先に向けたまま、下唇を噛んでいた。
「はさまれたわ」
 緊張を|孕《はら》んだ声で彼女はうめいた。
 道の先から、大きな犬をつれた女の子が歩いてくる。
 犬はゴールデンレトリバーである。豊かな毛並みをしていた。首輪につながった紐を女の子が握っている。背が低く、痩せ細った女の子だった。小学三年生ぐらいの年齢だろうか。肩までの髪の毛が、歩くたびに跳ねていた。
 横を通り過ぎる瞬間、僕は、彼女の連れた犬と目があった。前足を踏み出すたびに上下する犬の瞳の表面に、僕の姿が映りこむ。
 深い黒色の、知的な目をしていた。僕は吸い寄せられるようにその瞳を見つめる。
 目の表面に映りこんでいた僕の姿が消えた。犬は僕から視線を外し、女の子を見上げる。
 やがて犬を連れた少女は僕の横を通りすぎて、すぐそばの家へ入っていった。赤い屋根をした平屋の建物である。
「ただいま……」
 そう言った少女の声が聞こえる。ゴールデンレトリバーも玄関を抜けて家に入った。外に犬小屋などが見えない。中で飼っているのだろう。
 少女と犬がいなくなると、壁際にぴったりと体を寄せていた森野が何事もなかったように歩き出した。特別に何かコメントがあるだろうと思っていたが、無言だった。態度も表情もいつも通りだったため、森野にとってさきほどのことは日常のありふれた儀式なのだと理解する。
「この道が、こんなに危険だったなんて知らなかったわ」
 彼女は悔しそうに言った。他の道を使って古本屋に行けないのかとたずねたが、それだと非常に遠回りになるので面倒だそうだ。彼女はすでに案内する気が失せているらしい。
 森野の隣に追いつきながら、僕はまた犬が消え去る事件のことを考えた。なぜ、一週間に二回、火曜と金曜の夜に活動するのだろうか。持ち去られた犬は、その後、どのような運命をたどったのだろうか。
 僕や森野は、異常な事件や、それを実行した者に対して、暗い魅力を感じる。心が切り裂かれるような、悲痛な人間の死。叫び出したくなるほどの不条理な死。それらの新聞記事を切り抜いて集め、その向こう側にある人間の心の、深く暗い底無しの穴を見つめるのが好きだった。
 そういったものに対する興味は、一般的に悪趣味と呼ばれるようなものだろう。しかし、まるで魔法のように、僕や森野を魅了する。
 今回の事件は、特別に異常な事件というわけではない。ただの飼い犬の誘拐だ。しかし、すぐ身近で行なわれているということが気になった。外国の大火事よりも、身近なぼや騒ぎのほうがおもしろいこともある。
「連続飼い犬誘拐事件の犯人がどんな人か興味ないかい」
 僕は森野に話を持ちかけた。
「わかったら教えてちょうだい」
 彼女は無表情にそう言ったが、その事件……具体的には犬……には近寄りたくないという意思が隠れているように思えた。

   †

 家には、私とユカ、そして「ママ」が暮らしている。でも、「ママ」はいつも家にいない。朝になると外に出ていく。遅いときは夕方まで戻ってこない。その間、家の中は私とユカだけのものになる。
 私とユカは小さなころからいっしょだった。生まれてすぐ離れ離れになった兄弟たちのかわりに、いつもそばには彼女がいてくれた。
 ユカはたいてい、いつも寝転がってテレビを見て過ごす。私はそんな彼女に寄り添い、広がっている新聞や雑誌の上に横たわる。寝転んでいる彼女の背中に、顎を載せる。
 テレビに飽きると、私たちは起きあがっていっしょに背伸びをする。ユカが台所や洗面所を行ったりきたりする。私は置いていかれまいとその後を必死でついてまわる。
 その後で散歩へ行く。散歩も好きだ。私とユカはいっしょに歩く。私たちの間は、散歩用のひもで結ばれている。私が間違った方向へ歩き始めると、ユカが「そっちじゃないよ」と眉間にしわをよせる。
 時々、知らない人間が家にくる。大きな、人間の男だ。「ママ」が外から帰ってきたとき、そいつをいっしょに連れてくる。
 そうすると、家の中の空気に、嫌な臭いが混じる。それまで私とユカの楽しかった雰囲気が、急にしぼむ。
 そいつは家にあがると、まず私の頭を撫でる。「ママ」に笑いかけながら、そうする。でも、決して私と目を合わせようとはしない。
 そいつの手の感触を頭で感じながら、私は噛みついてやろうかといつも思う。
 私とユカは、そいつが嫌いだ。なぜなら、「ママ」がいないとき、そいつはひそかにユカをぶつからだ。
 最初にその場面を見たとき、私は、気のせいだと思った。「ママ」が席を外して、居間に私とユカ、そしてそいつだけになったときのことだった。
 そいつの肘が、隣にいたユカを小突いた。ユカは驚いた顔をして、そいつの方を振り向いた。
 そいつは口元に笑みを浮かべながら、顔を近づけて何かを囁いた。部屋の隅からその様子を見ていた私には、そいつがなんと言ったのか聞こえなかった。しかし、ユカの表情がかわったのを、私は見た。
 恐ろしい胸騒ぎを感じた。部屋の中で私とユカは離れて座っていたけれど、心の深いところを共有している。だから、彼女の感じた動揺や困惑は、そのまま私の中に流れこんでくる。
 「ママ」が部屋に戻ってくると、そいつはもう何もしなくなった。ユカは不安そうな表情で「ママ」を見たが、「ママ」は異変にも気づいていなかった。
 ユカが、救いを求めるように私を見た。私はただ、部屋の中をうろうろ行ったり来たりしているしかできなかった。
 そいつのユカへの態度は、家へ来るたびにひどくなっていった。時々、おなかを蹴ることさえあった。ユカは苦しそうにうめいて、部屋に倒れて咳き込む。私がそばに駆けよって、かばうような格好でそいつを見上げると、そいつは舌打ちする。
 あの男が家にくる夜は決まっていた。私とユカは、あいつから身を守るため、いつも家の片隅で固まっていた。そんな夜はいつも、家の中が不気味に思える。いつ、あいつが扉を開けて入ってくるかわからない。ユカはそれをおそれて眠れない。
 耐えきれずに、そんな夜、私たちはひそかに家を出る。
 ユカが私に動物を殺させるようになったのは、あの男が家にくるようになってからだ。あいつが来るようになって、ユカはいつも泣いている。そして、ぞっとする暗い目をするようになった。
 私はそれを、悲しく思う。

   † 2

「気づいたのは、夜中の十二時ごろだったわ……」
 まだ若いその主婦は子供を胸に抱いて説明した。子供は目を閉じて眠っている。さきほどまで交わしていた世間話の中で、その子は生まれてまだ三ヶ月なのだと、彼女は話していた。
「寝る前に、主人がパブロフの様子を見に行くと、小屋にいなかったの……」
 パブロフというのが、二週間前の火曜深夜にいなくなった犬の名前である。僕の知らない種類の、血統書つきの犬だった。
 うちから二キロほどしか離れていない洋風一戸建ての家の玄関先に、僕とその主婦は向かい合って立っていた。
 学校の帰りに、犬が誘拐されたという家をたずねることにしたのだ。自分は高校の新聞部で、最近、近所で頻発しているペット誘拐のことについて調べているのだと説明しておいた。もしかすると取材の過程で犯人について何かがわかるかもしれないと言うと、彼女は協力的に事件のことを話してくれた。
「後から思い出したのだけど、そういえば十時ごろに、パブロフが激しく吠えていたような気がした。でも、よく通行人に吠えていたから、気にしなかったわ……」
「それが、最後に聞いたパブロフの声ですね?」
 そうたずねると、主婦は頷いた。
 玄関先から横に顔を向けると、小さな庭があり、空になった犬小屋が置かれている。大きな犬小屋だった。屋根の先に、犬の紐をつないでおくための金具がある。
「犯人はあそこから紐を外して、犬を引っ張っていったわけですね?」
 僕が聞くと、主婦は首を横に振った。
「紐は残っていたわ。それと、食べかけのからあげが落ちていたの」
 からあげは犯人が置いていったものらしいと、彼女は説明した。市販されているものだったかどうかを聞いてみると、断言はできないが、どこかの家庭で作られたものらしかったという。
 犯人は家から犬の食べそうなものを持ち出して、手なずけてから誘拐したということになる。からあげを使ったという部分が、庶民的な犯罪めいて風情のある気がした。神隠しやペット誘拐のプロといったものではなく、もっと人間的な臭いがする。
 僕はその主婦に頭を下げて、取材に協力してもらったことを感謝するふりをした。彼女は愛犬のことを思い出しているのか、犬小屋を見ながら言った。
「それより、犯人を絶対に見つけてね」
 静かだったが、彼女の声には殺気がこもっていた。胸の子供が起きてぐずりはじめる。僕は別れを告げて彼女に背中を向けた。
 そのとき、向かい側の家も犬を飼っていることに気づいた。門の間から、黒い毛の犬が見える。背丈が僕の腰まである、大きめの犬だった。
「チョコレート、という名前なの」
 背後からさきほどの主婦が声をかけた。今まで向かいの家にも犬がいたことに気づきませんでした、と僕は話をする。
「そうね、あの子は、あんまり吠えないから」
 見たところ、犬小屋は、パブロフの小屋よりも目立つ位置にある。しかし、静かにしていたため、犯人に気づかれなかったのかもしれない。
 家に戻ると、妹の桜と母が並んで夕食の支度をしていた。母が鍋の前に立ち、中身をかき混ぜている。桜は包丁を片手に、野菜を切っている。
 妹は僕より二歳年下で、高校受験を控えている。いつもなら塾にいる時間だが、今日は休みだという。今年の春ごろまで長い髪の毛の持ち主だったが、夏に短くして、今では少年のような髪型になっている。
 僕とは正反対に性格がいいらしく、よく母の家事を手伝っている。頼まれたら嫌だと言えない性格なのだ。
 たとえば、テレビの前で菓子をかじっている母が、両手をあわせて妹に拝んだとする。
「桜ちゃん、洗い物よろしくっ」
「え、やだよ。自分でやってよ」
 最初、桜は断る。
 母は顔をうつむけて、悲しい顔をしてみせる。世界が終わったような暗い顔である。それを見た桜は、あわてふためく。心からショックを受けたような顔をする。
「わかったから、もう泣かないで!」
 ほとんどもらい泣きしそうな勢いで、母を勇気づけ、慰める。その後、立ちあがって彼女は台所へ向かう。一連の作業が終わると、母はまたテレビと煎餅に戻る。はたして桜はどの程度わかっていて母の言うことを聞いているのだろう。あるいは天然なのだろうかと思う。この調子で僕のかわりに、彼女が両親の老後を見ることになるのだろう。
 そのような彼女には特別な才能がある。その点において僕は一目おいているのだが、彼女自身はそれをほとんど呪いのように思っている。しかし、今のように普通の生活をしているぶんには、どこにでもいる人間に見える。
「またゲームセンターに寄ってきたの?」
 帰ってきた僕に、母がため息をつきながら言った。ゲームセンターにさほど典味などなかったが、学校からの帰りが遅くなったとき、いつもそう言い訳していた。
 僕は台所の椅子に腰掛けて、料理をしている二人の背中を見た。息があっている。フライパンで野菜を炒めている母が無言で片手を差し出すと、何が求められているのかが妹にはわかるらしく、黙って塩の小壜を渡す。味見をした母が「みりんちょうだい!」と口にする前から、すでに妹がみりんの壜を持って横に立っている。
 二人が僕に話しかけてくるので、てきとうな返事をする。二人は、僕の話に笑う。桜は笑いすぎて苦しそうにしながら言う。
「笑わせるのはやめて、お皿に盛りつけてるんだから。それで、その先生はどうなったの?」
 桜の言葉で、僕は、学校であった話をしていたらしいと気づく。ときどき、家族に何を話していたのか、なぜ母や妹が笑っているのか、何もかもわからなくなる。なぜなら、家族へ聞かせる話のほとんどは、無意識的な反射であり、|咄《とっ》|嗟《さ》に考えた作り話であり、まったく意味をもたない感想だったからだ。
 不思議とそれでも|齟《そ》|齬《ご》は起きない。傍《はた》から見ている分には、母と妹が織り成す家族間の会話へ僕は混じっているように見えるだろう。実際、家族が僕に向ける視線は、勉強はできないが人を笑わせるような明るい青年に向けるものと同じだった。
 しかし、僕から見れば違っていた。両親や妹と、僕との間に、どんな会話もなかった。話した内容は直後に忘れた。おかげで、僕自身はずっと黙りこんでいたはずなのに、周囲の者たちはなぜかおかしそうにしているという、異様な夢を見ている気がするのだ。
「キリちゃんちで飼っていた犬、いなくなったままなんだって」
 料理に使った器具を洗いながら、桜が母に言った。それまでくぐもってよく聞こえなかった僕の耳が、急に音を伝え始めたようにはっきりとしはじめた。
「そのうちに戻ってくると思ってたそうだけど……」
 詳しく話を開いてみる。
 桜の説明によると、彼女のクラスメイトの家で飼っていた犬が、先週の火曜日からいなくなっているそうだ。ペット誘拐の犯人の仕業ではないかと囁かれているらしい。
「それでね、犬を見かけなくなった朝、ソーセージでおびきよせた跡があったんだって」
「まあ……」
 母はそうつぶやいて、そういえばソーセージを買ってくるのを忘れていたわとつぶやいた。
「犬の種類はなんだった? 大型犬?」
 そう聞くと、桜が眉をひそめて僕を見る。
「兄さん……?」
 僕は、家族に対してあまり見せないようにしている表情をしていたらしい。
「ん、なに……?」
 そう言って僕はごまかした。
「いなくなった犬は、雑種だったみたい。けっこう小さな体だったそうよ」
 僕は急に、パブロフの飼い主へ聞き忘れていたことがあることに気づいた。不自然でない印象で家族との会話を打ち切り、制服のまま再び外へ出た。もうすぐ夕飯なのに、と母が迷惑そうな声を出した。
 パブロフの飼われていた家に到着したとき、辺りは暗くなりはじめていた。玄関のチャイムを鳴らすと、つい二時間ほど前に話を聞かせてくれた若い主婦が現れた。僕の顔を見ると、あら、と声を出した。子供は抱いていなかった。
「度々すみません、取材し忘れていたことを思い出してしまって……。パブロフは、どの程度の大きさの犬だったのですか?」
「それを聞くためだけにまたきたの?」
 彼女は僕の二度目の訪問に当惑しながら、パブロフはまだ大人になりきっておらず、大きくはなかったと説明した。
「子犬より少し大きいくらいですか?」
「うん、そう。でも、大人になると大きくなる種類なの。だから犬小屋も大きなタイプを買っていたのだけど……」
 僕は礼を言って立ち去った。
 犯人は犬を誘拐するとき、犬小屋に紐を残していった。では、どうやってつれていったのだろう。別の紐を用意していたのだろうか。それなら、犬小屋から紐をはずせはいいことだ。つけかえる手間がはぶける。犯人は、紐を首輪から外し、犬を両手で抱えて運んだのだ。
 そして向かい側に飼われていた静かな犬ではなく、なぜパブロフを選んだのか。僕なら、吠えない方を選ぶ。その方が誘拐しやすそうだからだ。しかし、犯人はそうしなかった。おそらく、パブロフの方が小さな体をしており、運びやすかったからだろう。妹の知人が飼っていた犬も、割合に小さな体をしていたという。犯人は犬を誘拐するとき、小さな犬を選んでいるのではないだろうか。
 なぜ、運びやすい犬ばかり選ぶのか。推測のひとつとして、犯人は車などの犬を運ぶ乗り物を持っていなかったということが考えられた。だから、大きな犬ではなく、小さな犬を選んだのだ。これまで僕の耳に入ってきた情報によると、犬の消えた家はそれほど広範囲には分布していない。もしも車を持っている人間であれば、せまい範囲の中で繰り返し犯行を行なうことはせず、遠くから犬を盗むにちがいない。
 僕は、しばしば動機のない異常快楽殺人事件の捜査に適用される心理分析のことを思い出した。それは、犯人が獲物を選ぶときの、判断基準に関するものだ。
 犯人は無意識のうちに、自分よりも弱そうな相手を獲物として選ぶという。たとえば、被害者の身長がいずれも百五十センチ未満で、百六十センチ以上の人間は一人もいなかったとする。すると犯人は、百五十センチから百六十センチまでの身長の人間だと推測できるわけだ。この飼い犬誘拐事件に関しても、似たようなことが考えられるかもしれない。
 家に帰ると、父が会社から戻っていた。夕食がはじまっており、僕はコンビニに行ってきたと説明した。自然な様子で家族の会話に混じり、さりげなく、庭で犬を飼っている家を尋ねた。
「あ、あそこの犬ってかわいいよね。なんで室内で飼わないのかしら、あんなに小さいのに」
 次々と近所の家の名があがっていく最中、桜が言った。
「家の中だとうるさいからだろ」
 父が返事をした。僕は、その家の場所を尋ねた。今日は火曜である。夜、その家へ犯人が現れる可能性はゼロではなかった。

 その家は曲がり角に位置していた。古い日本家屋である。塀の上から中を覗いた。庭は広く、犬小屋が端の方に置かれている。犬小屋は手作りらしく、木箱のようにも見える。そばに杭が打たれ、そこに犬が紐でつながれていた。目が大きく、僕を見ると、街灯の下で吠えながら何度も跳ねた。子供でも運べるくらいの小さな体をしていた。
 家から距離を置き、離れた位置にある雑木林に身を潜めた。そばに街灯がなく、周囲は完全な暗闇だった。
 腕時計を確認する。周囲は暗かったが、腕時計側面のボタンを押すと、内部でランプが点灯して液晶が照らされるようになっている。夜の十時だった。パブロフの鳴き声を主婦が最後に聞いたのは、ちょうど二週間前のこの時間だったという。犯人がこの家を狙って来るとしたら、そろそろだろう。
 雑木林の地面は落ち葉が厚くつもっていた。少し身動きをしただけで、周囲にある木々の細い枝が、音をたてて折れた。夏が過ぎたばかりで、昼間はまだ暖かいが、夜は少し冷えた。
 上背のポケットに手を入れるとナイフの柄に当たった。念のために用意した武器だった。
 犯人をもしも見つけても、通報するつもりはなかった。ただ遠くから、見つからないように眺めているつもりだった。だから武器が必要になることはまずないだろう。
 しかし、深い考えもなく僕は、ナイフセットの中から一本を抜き取って持ってきていた。剥き出しのままでは怪我をするため、別に購入した革製のケースに入れていた。
 僕は、異常犯罪の犯人を観察するのが好きだ。そのための行動を起こしているうちに、かつて、数人の女性を殺害した犯人と顔を合わせたことがある。その人の部屋にあった二十三本のナイフセットを、僕は勝手に持ち帰って本棚の奥に隠していた。家にいるとき、蛍光灯の下でナイフの銀色の表面を眺めた。まるで濡れているように、白く光を反射した。
 時々、刃に映った自分の顔が、かつてそのナイフによって殺された女性の顔へと変化した。それは錯覚には違いないが、確かに苦痛と絶望の叫びが刃に染みこんでいるのを感じた。
 僕は内心、ナイフをもてあましていた。記念に持ち帰っていいものではなかったのだ。表面に薄く光沢を|纏《まと》ったナイフを見つめながら、これは実用されるべきものかもしれないと思った。
 腕時計を、再度、確認する。液晶を照らし出すランプのボタンを押し、時刻を読む。水曜日になっていた。雑木林に隠れている問、目の前の道をだれも通らなかった。
 犯人は、どの辺りの地区に住んでいる人間なのだろう。それがわかれば、もっと張りこむ地点を絞り込めるにちがいない。少なくとも今日、僕の前に犯人は現れないだろうと思った。
 十分後、雑木林を出て家に戻った。
 父母は眠っていたが、桜は受験勉強をしていたらしい。僕が帰ってきたのを知り、どこに行ってきたの、と言いながら一階におりてきた。コンビニへ行ってきたと僕は説明した。

   †

 今夜があいつのくる日だということは知っていたのに、居眠りした私がいけなかった。私は、ユカの悲鳴で飛び起きる。声は居間のほうから聞こえた。
 眠っていた部屋から飛び出す。
 奥の部屋で私といっしょに降れていたユカは、いつのまにかあいつのいる居間に連れてこられていた。「ママ」はどこかへ出かけているらしく、あいつとユカだけが居間にいた。
 ユカが、倒れてうめいている。痛みをこらえるような、悲しい声を出している。
 あいつはユカの頭のそばに直立して、無表情に彼女を見下ろしていた。私の目からは、頭が天井に届くような大きさに見えた。それにひきかえ、ユカはなんて小さいのだろう。なんて無力に、痛みで|喘《あえ》ぐことしかできないのだろう。
 頭の中が、怒りのために沸騰する。
 私は吠えた。体の奥から声を絞り出した。あいつは私を振りかえると、目を大きく広げて驚いていた。一歩だけ後退し、ユカのそばから離れる。
 倒れてうめいていたユカが、私に目を向けた。愛しいものを見る瞳だった。私は、心の底から彼女を守らなければいけないと思った。
 玄関の開く音と、「ママ」の声。買い物袋をかかえた「ママ」が帰ってきた。あいつを家に残して、出かけていたらしい。
 あいつの手に噛みつこうとする私を、「ママ」が後ろから捕まえる。私の顎は、寸前であいつに届かなかった。
 しかし、その間にユカが立ちあがる。怒りを含んだ「ママ」の声がする中、彼女は玄関の方へ逃げる。それを追いかけ、私たちはいっしょに家を飛び出した。
 外に出て懸命に走る。背後から、玄関先に立つ「ママ」の声が追いかけてくる。それを振り払って、夜の奥深くへと逃亡する。
 静かな暗い路地に街灯が並んでいた。その足元だけ、白く照らされて地面が浮かんでいるように見えた。私たちは小さな二つの影を連れて、いくつもの街灯の下を通りすぎる。
 どこまで進んでも夜は続いていたが、私はユカといっしょだったから恐くなかった。でも、彼女のことを思うと悲しかった。
 ユカは泣いているわけではなかったけれど、ひどい苦しみを抱えて歩いていた。それが私にはわかる。体が痛むのか、ときどき、彼女は立ち止まった。痛ましかったけれど、私は彼女のそばをついて歩くことしかできなかった。
 お昼に見つけたあの家の動物を、今夜の獲物にしよう。
 ユカが言った。今日、散歩をしたときに、連れ出しやすそうな動物を見つけていた。私たちはその家を目指した。
 ユカもきっと気づいているが、最近、獲物にしやすそうな動物を見つけるのが難しい。動物を家の中で飼う家が多くなった。私たちの存在が、警戒されはじめている。
 心の中で、いつも不安だった。だれにも私たちのやっていることを見られてはいけない……。そう心構えをすると同時に、いつも私はだれかの影を恐れていた。
 そのだれかというのは、私やユカでもなければ、「ママ」やあの嫌な人間の男でもない。まったく知らない人だ。その影の人物は、動物をさらう私とユカを追いかけている。そして、橋の下で恐ろしいことをしている私たちを、いつかきっと発見するだろう。
 そうなったときのことを想像すると恐くなる。私やユカのやっていることをみんなが知ったら、私たちはひきはなされるかもしれない。私がいなくなったら、誰もユカを守るものがいなくなってしまう。決してそのようなことになってはいけない……。
 目的の家が、道の先に見えた。街灯の下に、屋根の先が照らされている。他の場所は暗く、闇の中に消えていた。曲がり角に位置しており、昼間の散歩で確認したとき、小さな体をした犬が庭に飼われていた。
 行こう。ユカが言って、その家に向かって歩く。
 そのとき、私は視界の端で何かを見つけた。小さな声で私はユカを呼びとめ、立ち止まる。どうしたの、と彼女は私に無言の目配せでたずねた。
 さきほど、家よりも事前にある雑木林の暗闇で小さな明かりが見えた。点のような光がついて、そして消えた。
 だれかがいる。私は注意深くその暗闇へ神経を向けた。はっきりとはわからないが、だれかが身を潜めて、これから私とユカが行こうとしている家を監視しているように思えた。考えすぎで、実際にはだれもいないのかもしれない。でも、そう直感した。
 ……今日は、帰ろう。私はユカに目でそう語りかけた。彼女は家と私を交互に見て、わかった、と返事をした。
 私とユカは、その夜、動物を盗まなかった。橋の下でしばらく時間をつぶし、家に帰った。ユカは私に何かを殺させたがっていたが、私は何も殺さずにすんでほっとしていた。
 でも、不安だけはつきまとっていた。
 私たちを追うだれかの形が、ついに今夜、はっきりした形となって目の前に現れた気がしていた。
 その人物は私の杞憂にとどまらず、確かに存在していたのだ……。

   † 3

 張りこみをした火曜の夜、結局、僕の前に犯人は現れなかった。翌日の水曜日、僕はクラスメイトや家族にさりげなく質問し、どこかの家のペットが消えていないかを調査した。その結果、火曜の夜に犯人は何もしなかったらしいとわかった。もっとも、犯人が野良犬を持ち去っていたり、僕の情報網にひっかからない場所で犯行を行なっていたりすれは別である。
「犯人がどんな人かわかった?」
 水曜の昼休み、化学講義室の片隅に座って読書をしていた森野が、僕にそうたずねた。
 僕は首を横にふり、まったくわかっていないと彼女に告げた。
「そもそも、なんのためにあんな動物を盗むのかしら。ペットショップに売って、お金に換金しているのかしら」
 森野は、あんな動物を欲しがる人の気が知れないとでもいうような口調でそう言った。
「おそらくお金が目的ではないだろうね。ペットショッブで売られている血統書つきの犬でも、育ちすぎると処分されることが多いんだ。買う人はほとんどいないだろう」
 もしも購入するとしたら、ペットとしてではなく、研究目的の実験動物としてだろう。飼われていた犬は、野良犬よりも人間に対する信頼が厚い分、扱いが楽だ。だからヤミで重宝されているという話を聞いたことがある。
「犬を盗むのは、虐待するのが目的としか考えられない。そういった趣味を満たすために、インターネットの捨て猫や捨て犬サイトから引き取る人もいるんだ」
「それでは、犯人は盗んだペットを、どこかで殺して楽しんでいるというわけね。犯人は、頭のおかしい人なんだわ」
 森野の言葉を聞きながら、僕はふと疑問に思った。
 もしそうなら、犯人はどこで動物の虐待を行なっているのだろうか。自分の家ではないだろう。ときどき、殺された動物の屍骸が公園で見つかるというニュースがテレビで報道され、動物虐待に関する問題が取りざたされる。しかし、この近辺で屍骸が発見されたという噂は聞いていない。

 水曜と木曜の夕方、学校から帰る途中、ペットの誘拐された家をたずねて歩いた。どこの家の人も、僕が新聞部だということに疑いを抱いた様子はなく、割合かんたんに話を聞かせてくれた。一日に一軒がノルマとなっていた。
 結局、犯人に関する有力な情報はなかった。盗まれた動物はいずれも小柄で、雑種だった。食べ物でおびきよせた形跡は、あったり、なかったりした。
 金曜日、学校が終わると、僕はバスに乗ってペットの消えた家に向かった。僕の得た情報によると、最初に犬の消えた場所で、うちからも学校からも遠く離れた、川沿いの住宅地にあった。
 地図で住所を確認しながら、家を見つけた。真新しい家だった。玄関のチャイムを鳴らしたが、住人は留守らしく、だれも出てこなかった。
 小さな庭に、チューリップの花壇があった。空になった犬小屋と、餌の皿が放置されている。皿はプラスチック製で、泥がついて汚れており、子供らしいマジックの文字で「マーブルのお皿」と書かれている。
 僕は家を後にして、ふたたびバスに乗り込み、家の近くにあるバス停で下車した。
 今日は金曜日だ。夜にまた、どこかでペットが消えるのだろうか。そう考えながら歩いていると、声をかけられた。振りかえると、中学の制服を着た桜が、自転車を押して歩いていた。彼女は少し小走りに駆け寄ってきて、僕の横に並んだ。
 彼女はいつも、学校から帰る途中、塾で数時間ほど勉強して家に帰ってくる。それなのになぜ今日はこの時間にここにいるのかと質問した。
「わけありで、塾に行かなかったのよ……」
 彼女は元気の失せた声で言った。顔色が悪く、ふし目がちで、自転車を押すのもままならない様子だった。
「……また、何かを見たのか?」
 彼女の自転車を受け取り、かわりに押した。ありがとう、と小声で彼女は言って、うん、見た、と唇を動かした。
 彼女は特殊な星のもとに生まれついている。僕はそれを才能だと思っているが、彼女自身はそのことを呪いだと思って忌み嫌っている。
 桜はよく、死体を発見するのだ。
 最初は小学校の遠足で行った山だった。当時、彼女は一年生だったのだが、一人、みんなから離れて道に迷っていると、湖のほとりに出たそうだ。そこで彼女は、湖面にただよっている人間の水死体を発見した。
 二度めは四年後だった。友達の家族と行った海で、やはり桜はみんなとはぐれてしまった。そのうち海岸の端に辿り着き、岩場の陰に打ち上げられた男性を見つけた。
 三度めはさらに二年後、中学二年のとき、バレー部の合宿で行った高原でのことだった。ランニング中にコースを聞違えて、あまり人の近寄らない場所へ行ってしまった。なにかに|躓《つまづ》いて、彼女は転んでしまった。彼女の足をひっかけたのは、人間の頭蓋骨だった。
 彼女は死体を発見するたびに、青い顔で家へ帰ってくる。それから熱を出して、一週間は寝こむ。
「なんで私ばっかり……」
 うなされながら泣く。
 しかし、彼女が死体を発見する間隔はしだいに短くなっている。この計算でいくと、今年か来年に四つめの死体を発見するだろう。彼女が年を取ったとき、毎分一体の割合で死体を見つけることになるかもしれない。
「それで、今日は何を見た……?」
 僕は彼女に聞いた。押している自転車のタイヤが、からからとまわる。
「さっき、塾に向かっている途中、ちょっと気持ち悪いものを……。それで、気分が悪くなって、塾を休むことに……」
 中学校と塾との間に川がある。大きな幅の川で、ゆったりと大量の水が流れていた。そこには大きなコンクリート製の橋がかかっており、多くの車が行き交っている。車道と別に、歩行者や自転車が通るための区画があった。桜はそのとき、歩道を自転車で渡っていたそうだ。
「自転車のカゴに、鞄とタオルを入れていたの」
 彼女の気にいっている、白と青の縞模様のタオルだったそうだ。そばをトラックが通り抜けた瞬間、風が吹いてカゴの中のタオルが空中へ舞いあがった。彼女の見ている前で、橋の外に飛んでいき、風に流されて落ちていった。
 背後で車が行き交う音を聞きながら、彼女は手すりから顔を突き出して見下ろす。幸いにも、タオルは川の中へ落ちたわけではなかった。はるか下の川辺に生い茂る一面の緑色の中に、小さくタオルが引っかかっていたそうだ。
「私は土手におりてタオルを拾いに行くことにしたの」
 川のそばへ下りるための階段が、橋の|袂にあった。コンクリート製で、そこをつかって土手を下りる。階段を下りきると、雑草の林だった。緑色の尖った無数の葉が、目の高さまである。雑草の茂みをかきわけて彼女は進んだ。生い茂っているといっても、人が通れる程度の余裕はあったらしい。
「上からは気付かなかったけど、橋の下あたりに、草のあまり生えていない広場があったの」
 その広場は、円形に乾いた地面が露出していたという。周囲は雑草の壁であるから、中心に立つと檻に囲まれたような印象を受けたそうだ。
 頭上の高いところに、巨大な橋がかかっていた。ほとんど屋根のように覆い被さって、見上げた空の半分は、橋の裏側でさえぎられていたそうだ。
「私はタオルを探してその辺りを歩いてみたのだけど……」
 そのうちに彼女は、虫の飛ぶ音を聞いた。蝿が羽を忙しく震わせる、あの音だ。よく見ると、雑草の上空、ある一画だけ、やけに蝿が多いことに気づいた。
「私はためしに、そこへ近づいていったの……。タオルの引っかかっていた方向だったし……」
 彼女が歩みを進めると、何かの腐った臭いがしはじめた。草をかきわけ、やがて虫の飛んでいる場所に近くなったとき、唐突に彼女の足元に、黒い穴が出現した。穴というよりもくぼみだった。半径、深さ、ともに一メートル程度で、あやうくそこへ足を踏み入れるところだったという。腐臭に胸をつまらせながら視線を下ろし、彼女はその穴の中にあるものを見た……。

 穴の中には、おびただしい数の、何かの塊が敷き詰められていた。ぼろぼろで外見をまともにとどめておらず、最初のうち、何があるのかわからなかった。黒く、そして赤い塊だった。
 僕は腐臭に耐えながら穴の縁に屈み、底へ顔を近づけた。
 犬らしい顎、尻尾、そして首輪があった。毛皮の下や、柔らかく崩れたものの間から、無数の小さな白い蛆がぽろぽろと這い出して表面を覆っていた。それが幾重にも折り重なり、原型をとどめずに穴の底で層をなしている。かつてこれが、命を持ち、太陽の下を駆け回っていたのだと考えると、不思議な気持ちにさせられる。おそらくそれが、死と破壊の持つ魅力だった。
 腐敗と悪臭の穴だと思った。中にあるものを見ながら、僕はわけもなく第二次世界大戦の記録映像や写真を思い出した。この死の穴はそこともつながっている気がした。
 立ちあがり、僕は周囲をあらためて見渡した。橋の下は、桜の言ったとおり、雑草しかない。草の尖った先端に赤い夕日が載っており、蝿の黒い点が飛びまわっている。僕を仲間だと思うのか、蝿がさきほどからしきりにまとわりついて学生服や頬に衝突する。傾いた太陽が視界にあるものすべてを赤く染め上げていた。
 桜から話を聞いた僕は、穴とペット誘拐事件とをすぐに頭の中で結び付けた。彼女の見つけたものは、僕の探していた場所である可能性が高いと思った。
 彼女を一人で家に帰らせると、僕は橋の下へ向かった。橋の袂からコンクリートの階段を使って土手に下りると、話に聞いたとおりの円形の広場が、雑草の海の中にあった。そこからさほど離れていない場所に、虫の多く飛んでいる場所はあった。
 足元にある穴を見下ろす。この屍骸の中に、パブロフとマーブルもいるのだろうと思った。僕は穴に背を向けて、橋の下を立ち去った。
 家に帰り、夜が深くなるのを待った。時計の針が十時を指したころ、ナイフをポケットに入れて自分の部屋から出る。
 桜はまだ動物の屍骸を見たショックが残っているのか、居間のソファでぐったりとしていた。その前を通り、玄関へ向かう。テレビドラマを見ていた母が振りかえって、どこへ行くのかとたずねた。コンビニに行くと答えると、「深夜のコンビニ族……」と桜がつぶやいた。
 僕は再び橋の下へ向かった。今日は金曜である。犯人が席の下に現れる可能性は高かった。
 歩きながら、楽しみのために小さな動物をいたぶって殺す人間の姿を想像した。その人物が死んだ犬を穴に投げこむ場面も思い浮かべる。
 できることなら、その様子を見てみたいと思っていた。どのような儀式が行なわれた末にここへ屍骸が捨てられているのか、興味がある。
 猟奇的で残酷なことに、いつも僕は心をゆり動かされる。胸の奥に深く響いてくるのは、クラスメイトたちとの楽しい話でもなければ、家族と交わす暖かい言葉でもなかった。まるでそれらはチューニングのあっていないラジオの雑音のようにしか聞こえない。
 巨大な川は夜になると、一面が黒くなり、地上に星のない宇宙が広がっているように見えた。横に並んでいる街灯がかろうじて薄く辺りを照らしている。周囲にだれの気配もないことから、犯人はどうやらまだ来ていないとわかる。
 硬いコンクリートの階段を一歩ずつ下りて草の海へと入る。雑草の中をかきわけて進みながら、家を出る前に電話で交わした森野との会話を思い出す。
「これから犬好きの人間を見に行くつもりだけど、きみはどうする?」
「……ああ、本当は行きたいのだけど、宿題をやらないといけないから」
「宿題なんて出ていなかったはずだけど」
「……お母さんが病気で、死にそうなの」
「無理に理由をつくらなくても、犬嫌いの人を無理に誘わないよ」
 僕がそう言うと、予想を越えた返事がきた。
「な、なにを言っているの。私が犬嫌いだなんて、馬鹿にしないで……。あんなもの、別に恐かないわよ……」
 彼女の声はどうやら本気だったし、人をからかうようなサービス精神を持った人間でもない。僕はひとまず謝罪し、彼女のプライドのために気付いていないふりをして電話を切った。
 雑草の中に僕は身を隠す。
 膝を地面につけた格好で、ポケットからデジタルカメラを取り出した。明かりは横の上にある街灯だけなので、映るかどうか怪しかった。絞りを解放してシャッタースピードを最長に設定する。フラッシュを焚かずに写すための努力だった。フラッシュを焚けば、犯人に気づかれるだろう。それを防ぎたかった。
 犯行を警察に知らせるつもりはなかった。犯人に自分の存在を覚られることも避けたかった。僕は事件に関わりあいになってはいけない。それはルールのように心の中で決めていた。第三者の立場で、ただそっと眺めているだけだ。通報せずに、このままペットが誘拐され続け、何人の人間が悲しみで泣こうと、まったく良心は咎めない。僕はそういった人間である。
 隠れている茂みから、川辺に下りてくるコンクリートの階段と丸い広場が観察できた。屍骸のある穴へ向かう途中、おそらく広場の中を通るはずだ。そのときがシャッターを切るチャンスだろう。
 巨大な川を大量の水が流れている。その音が、雑草の中に身を潜ませている僕のもとにまで聞こえてきた。頭の中に、夜を映し出す漆黒の川面が思い浮かんだ。ひどく静かな光景だった。
 冷えた風が吹き、周囲の雑草が一斉にざわめいた。僕の頬に、尖った葉の先端が触れる。
 腕時計の液晶が深夜の十二時を示したとき、土手の上に、黒い影が立った。影は階段を下りてくる。僕は頭を低くして、自分のいることを|覚《さと》られないよう呼吸を小さくした。
 影は階段を下りきって、一度、雑草の中に埋没する。橋の上から降り注ぐ薄明かりの中、その人物がかきわけているらしい辺りの、草の先端だけが揺れている。徐々に草の揺れが近づいてきて、やがてその人物が、円形の広場に現れた。階段を下りてくるときには黒い影に覆われていたが、雑草の中から現れたとき、薄明かりが影を拭い去った。
 草をかきわけて顔を出したのは、少女と犬だった。少女は背が低く、髪の毛は肩までで、ひどく痩せていた。犬はゴールデンレトリバーだ。以前、森野と道を歩いていたときにすれ違った少女と犬だと気づく。
 少女の胸に、さほど大きくはない犬が抱かれていた。犬はもがいて吠えているが、犬の扱いになれているらしく、放さない。
 僕はカメラを構えた。

   †

 私とユカがはじめて橋の下の広場を見つけたのは、夏の、とても暑い日だった。空には雪が一片も見当たらず、高いところにある太陽が、橋の下に広がる草を一面の緑色に輝かせていた。
 私とユカは、散歩の途中だった。いつもやっていた遊びの中に、全速力で息が続かなくなるまで走る、というものがあり、その日も私たちはとにかく走っていた。やがて息が切れて走れなくなったとき、川沿いの道に出た。
 私たちはコンクリートの土手に腰掛けて休みながら、橋の下に広がる草の海を眺めることにした。かすかに吹く風が、見えない手で触ったように、草の茂みを揺らして消えた。
 ユカが私を呼んだ。振りかえると、彼女は橋の袂にある階段に視線を向けていた。
 下に行ってみよう。
 躍るような、彼女の冒険心が伝わってきた。階段を下りると、そこは周囲に草しかない世界だった。濃厚な草の匂いの中を、私たちは進んだ。
 普通に進んだのではつまらないと思ったのか、ユカが、背後を歩いていた私をちらりと見て、急に走り出した。それは追いかけっこをはじめる合図だった。私たちは走りつかれていたことも忘れて、草の中で追いかけっこをした。夏の熱気が、すぐに私たちを熱の塊にする。
 草をかきわけながら逃げるユカを、私が追いかける。彼女の背中を見失って途方にくれると、すぐそばから彼女の笑い声が聞こえる。そこにいたのかと、声のしたほうに突進すると、またユカが逃げ出す。
 そうしていると、唐突に、広いところへ出た。急に視界が広がったような気がした。濃厚だった草の匂いが薄れ、涼しい風が体を包む。草が生えていない円形の広場だった。
 先を走っていた彼女は、面食らった顔をして広場の中央にいた。周囲を眺め、そして草の壁から飛び出してきた私を見る。最初のうち戸惑っていたが、すぐに、いいものを見つけた、という気分になったらしい。彼女の瞳は、楽しいことの予感で、明るく輝いていた。
 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。まるで、遠い昔のことのようだった。
 橋の下の広場を見つけてまもなく、あいつがうちへ来るようになったのだ。そして、私とユカは夜に出歩くことを覚えた。日に日に風は冷たくなっていく。あの夏の日、私たちを包んでいた暖かい光は、もう感じなくなっていた。
 昼間に散歩をしても、全速力で走る遊びや追いかけっこをしなくなった。遊ぶかわりに、家々で飼われている犬を調べながら歩いた。事前にそうしておけば、夜に散歩をするとき、獲物探しが楽だった。
 ユカが私にそうすることを命令する。何のため私にそうさせるのかはわからない。でも、彼女自身の楽しみのためではないと、なぜかそう感じる。ユカの目は、いつも笑っていない。どんな感情よりも強く、悲しみや憎しみが宿っている。だから、私はしたがうのだ。
 風は、前回のときよりも、また少し冷たくなっていた。夜のまだ早い時間だったから、橋には多くの車が行き交っていた。ライトのまぶしい光が近づくと、私とユカの影が地面に細長く伸び、横を通りすぎると、伸びた影がぐるりと円を描いて消える。
 私たちは、階段の上から草の海を見下ろした。大部分が闇の中に消えている。草同士の、風でゆれてこすれる音が、黒々とした闇の中から波のように聞こえてくる。橋の上からの街灯に薄く照らされた部分だけ、雑草の形が見えた。
 私とユカは階段を下りて草の間を進み、円形の広場に到着した。
 周囲を取り囲んでいる草の壁をよく観察する。だれか潜んでいないだろうか。風に、だれか知らない人の臭いが含まれていないだろうか。
 私が神経を尖らせて警戒していると、ユカが呼んだ。
 そろそろはじめるよ。
 円形の乾いた地面に、私とユカは、連れてきた犬を放り出す。子犬というほど小さくはないが、大人というほど大きくもない。ようやく子供の時期が終わろうとしている若い犬だ。驚いたような顔で、私とユカを見つめる。さきほど、ここへ来る途中、誘拐してきた犬だった。
 動物を連れ出すとき、大きな声で飼い主に知らせようとするので大変だった。私とユカは、そんなとき、私の分のごはんを彼らの鼻先に突き出して警戒を和らげる。
 ユカが、私と相手の犬を残して、広場の端の方へ下がる。いつも彼女は、そこに座って|殺《さつ》|戮《りく》を眺めた。私と相手とを、交互に眺める。
 私は、飛びかかる用意をした。相手を睨み据えて、姿勢を低くする。神経を尖らせて、ユカの合図を私は待つ。
 相手は、これから何がはじまるのかわかっていない。不安そうな顔で、目の前にいる私を見つめている。細い声を出した。飼い主を探している声だった。
 夜の冷たい風が、潮騒のように周囲の草を鳴らして消える。静寂が訪れた。橋の上を通る車も途切れたのか、かすかに聞こえていたタイヤの音もなくなる。沈黙の中、私は緊張した。空気が張り詰めていた。そして、小さな穴が開いて破れ、破裂するのを待っている。私は毛の先まで神経を通し、はじまる瞬間を、逃さないようにした。
 目の前で心細げにしていた犬が、辺りの異様な気配に気圧されたのか、再び飼い主を求めて細い声を出した。
 その声が出た瞬間、短く、鋭いユカの声が上がる。
 かかって!
 私は地を蹴った。まだ状況のよくわかっていない目の前の犬へ、一瞬で距離を詰める。肩からぶつかった。犬は撥ね飛ばされ、転がる。喉の奥から鳴り声をあげた。相手は、状況をうまくつかめないながらも、歯を剥き出しにする。目は、困惑と敵意に満ちている。
 私の心臓の鼓動が速さを増す。足の裏側に感じる地面、空気の流れ、そういったものがはっきりと感じ取れる。自分と相手との距離、それをどれほどの時間で詰められるかを、頭の中で分析する。相手のささいな仕草から、次にどの方向へ動くのかを推理する。幾度も繰り返した殺戮のおかげで、私はそういったことができるようになった。
 でも、胸の中はいつも悲しみで満たされていた。ユカは、いつまで私にこんなことをさせるのだろう。本当は、何かを殺すのは嫌だった。生まれてからこれまで、自分の顎を、こんなことのために使いたいと思ったことはなかった。
 相手の犬が右へ動く。私はそれを読んで、一瞬、先にそちらへ地面を蹴っていた。相手の毛が、空中に散る。血を流して、相手がよろめく。その姿が、闇の中に浮かぶ。
 しばらく攻防が続いた後、ユカが立ちあがった。
 噛みついて!
 彼女は叫ぶ。憎しみで焦げついた声だった。その感情は、おそらくあの人間の男に向けられたものだ。彼女が私にこうさせるようになったのは、あの男がくるようになってからだ。心にためていった苦しみを、彼女はこの場所で、私に殺戮させることで解放している。
 目の前で傷ついている犬と、心の底から絶叫するユカを見て、私は吠えた。声は高く、橋の裏側に反響しながら夜空を渡る。頭が熱くなる。どうしてこうなってしまったのだろう。なぜ、以前のように笑って遊びまわることができなくなったのだろう。
 相手は震えながら、薄闇の中へ体を半分、隠れさせている。もはや目に、反抗する意思が残っていない。ぼろぼろになった状態でようやく立っており、つきつけられた死に恐怖している。
 今、終わらせてあげる。
 私は心の中でつぶやきながら、四本足の動物を押さえつけた。上顎と下顎を大きく開け、首の後ろに噛みつく。歯が皮膚を突き破り、深く食い込む。あふれる血液で、口が濡れた。
 あの夏の日、幸福の光で満ちていた。私とユカは、草が気まぐれにつくった円形の広場の中を走りまわった。私がユカに飛びつくと、彼女は転んだ。一瞬、私は、やりすぎたかもしれないと不安になった。でも、彼女は転んだまま、愉快そうな笑顔を浮かべていた。そして私たちは並んで地面に横たわり、はるかな高い空を見上げた。太陽が私たちの体を温かくして、鼻は草の匂いと、かすかな汗の匂いとを感じていた……。
 顎の中で|痙《けい》|攣《れん》していた動物は、やがて静かになる。私の顎を、軌物の体からあふれた血が伝う。急速に体温がなくなっていく。それまでの喧騒が止み、また周囲は静かな空間となった。
 私は、殺すのがうまくなった。はたしてそれがいいことなのかどうかわからない。でも、私の顎が武器にもなるのだということを、ユカの命令は教えてくれた……。
 顎の中にあったぬくもりが、完全に消えた。後に残ったのは、冷たい塊だった。
 教えてくれた……。
 もう一度、私はその思いを繰り返す。
 口にくわえていた犬を地面に置いて、ユカを見る。彼女も、私を静かに見つめていた。
 ユカの意図が、わかった。私の中へ、彼女の強い意思が流れこんでくる。
 なぜ、私に多くの動物を殺させたのか?
 これまではわからなかったが、たった今、彼女の考えに気づいた。ユカは私に、練習をさせていたに違いない。
 多くの動物を殺させて、幾度も「殺す」ということを経験させる。そうして、ユカは私の中にあるとても重要なものを尖らせていた。本番でうろたえたり、ためらったりして失敗をしないように、私は死のやりとりを経験させられていたのだ。
 ユカはあの人間の男にかなわない。でも、私なら、彼女を守る牙になりえるにちがいない。
 ユカが、頷いた。私が理解したことを、彼女は感じ取ったのだろう。彼女はこれまで、私が自分で気づくのを待っていたのだ。
 もう、練習は必要ない。私はそのことを彼女に訴えた。
 男は今夜、うちに泊まっている。
 明日の朝、決着をつけようね。
 ユカはそう囁いた。
 噛み殺した動物は穴に捨て、私は口を川の水で洗い流した。口の中にはりついていた動物の毛も、飲みこむ。後は帰って、明日の朝が来るのを待てばいいだけだ。
 私とユカは橋の下にある円形の広場を立ち去ろうとする。草の壁の中にもぐりこもうとする直前、私はふと、足を止めた。すでに草の中に入っていたユカが歩くのをやめ、振りかえる。
 どうかしたの?
 彼女が問うような視線を私に向ける。
 私は、彼女の顔と、背後の草とを交互に見た。さきほど、一瞬、背後にある草が不自然に揺れたように感じた。
 ……なんでもないよ、行こう。
 私は背後の叢から視線を外して、ユカのもとに駆け寄りながら返事をする。
 そこに、だれかがいたかもしれない。いや、きっといた。私はそう確信する。それは、これまで私とユカを追いかけて、つかまえようとしていた者にちがいない。そのだれかは、今夜、ついに隠れて私たちのやることを見ていたのだ。
 ついさきほどまで、見つかることが不安だった。でも、今はそうでもない。自分のやるべきことがはっきりすると、不安が消えていった。
 私たちはもうここで動物を殺すようなことはしない。練習の時期は終わったのだ。だから、もうそのだれかの影に追いかけられて怯えることもない。
 階段を進んで土手の上に向かう。私は最後に一度、振りかえって、夜の闇にほとんど消えている草の茂みを見下ろした。
 そこに潜んでいるだれかに、私とユカがしていたことの本当の意図を教えてあげたい。ユカがどんな仕打ちのはてにこんな決心をしたのか、知ってほしい。
 不思議だけれど、今ではそう考えられた。

   † 4

「もしもし……?」
 森野の眠そうな声が携帯電話の向こう側から聞こえてくる。彼女は、このような朝早くに電話をかける僕が理解不能だという意味の言葉をもらした。
 窓の外は明るくなりかけていた。僕は三時間ほどしか眠っていなかったが、睡眠時間を自由に調節できるという特技を持っていたため、早くに起きるのがさほど苦痛ではなかった。
 森野に、昨夜、ペット誘拐の犯人をつきとめたことを話した。
「あ、そう……」
 そう言うと、彼女は一方的に電話を切った。犯人の正体が、以前に道ですれちがった少女とゴールデンレトリバーだったことなどを説明する前だった。森野にとっては、ペット誘拐の犯人よりも、睡眠の方が大事なのだろう。
 そう思っていると、携帯電話が鳴った。森野からだった。電話に出ると、彼女は前置きもなく短く質問した。
「犯人の顔、写真に撮った?」
 昨夜、デジタルカメラで撮影しようとしたが、失敗したことを説明する。橋の上の明かりだけでは、不充分だった。暗すぎたり、ばけていたりした。
「そう」
 彼女は再度、電話を切る。
 服を着替えて、部屋を出た。両親や妹はまだ眠っているらしい。家の中は静かである。玄関で靴を履き、外に出る。東の空が朝焼けで赤くなり、立ち並ぶ電柱が黒い影になって見えた。
「明日の朝に……」
 昨夜、あの橋の下でそうつぶやいた彼女の声を僕は思い出した。殺戮の儀式の直後、小さな体の少女が、大きなゴールデンレトリバーに顔を近づけて囁いていたのだ。
 叢の陰に隠れていた僕は、はっきりと全文を聞き取ることはできなかった。明日の朝、つまり土曜の朝に何が起こるというのだろう。
 また同じことをするのだろうか。僕はカメラ持参で彼女の家へ向かうことにした。家の場所はわかっている。先日、彼女と犬が家に入るのを見た。おそらくあれが彼女たちの家なのだろう。そこから彼女たちを密かに追いかけて、誘拐する様子を見るというのが、僕の計画だった。
 家を出て、少し歩き出したところで、何か忘れ物をしている気がした。財布もカメラも持ってきている。ポケットを確認し、背後にある自宅の二階、僕の部屋の窓を見上げた。ナイフを部屋に残したままだった。
 使いもしないナイフのために戻ることと、そのまま少女の家に行くこととを天秤にかける。できるだけ無駄な動きはしたくない。そのまま家を後にしたほうが労力を抑えることができる。
 そう考えたはずなのに、いつのまにか、何かに呼ばれたように僕は自室へ戻っていた。本棚の奥にあるナイフのセットから一本を取りだす。刃の表面に白い光沢があり、僕はそれで不意に指先を切ってみたくなった。その感情を押しとどめ、革製のカバーに入れた。
 ポケットの中、指先でナイフの柄の感触を確かめながら、家を出る。なぜかはわからないが、渇いている、という気がした。ナイフの刃が、焼けた砂浜の砂のように、渇きを訴えている。
 東の空を見ると、朝焼けが血のように空を染め上げていた。

   †

 朝が訪れる。
 まぶしくて、私とユカは同時に目を開けた。カーテンの隙間から、外の光が細く線状に伸びて部屋を横切っていた。|絨《じゅう》|毯《たん》、ベッド、布団、そしてくっついて眠っていた私とユカの顔を、白く清潔な光で輝かせた。布団の中で、私たちはしばらく見つめあってじっとした。
 ユカといっしょに目覚めるのは楽しかった。足でお互いの体を蹴りあいながら、今日は何をして遊ぼうかという気持ちで心が躍った。私は絶対に今という時間を忘れないだろう。たとえ離れ離れにさせられても、彼女の記憶を胸に残して生きよう。
 空中に漂っている小さなほこりを眺めた後、決心して、私たちは布団を出た。
 寝室の扉を開けて、辺りをうかがう。
「ママ」の部屋から、あいつの寝息が聞こえてきた。あいつは家にきたとき、いつも「ママ」と同じ部屋で眠っている。でも、「ママ」はいつも朝早くから外へ出かけてしまう。だからあいつは、午前中、部屋で一人、眠っていることが多い。
 私とユカは、静かに廊下を歩いて、「ママ」の部屋の入り口に立った。家の、一番、奥まったところにその部屋はある。
 廊下と部屋の間は、引き戸で区切られている。しかしその日の朝、「ママ」が閉め忘れて出ていったらしい。私が通り抜けられる程度の隙間が開いていた。
 その隙間に鼻先を突っ込んで、私は中を確認する。
 畳の上に布団が敷かれていた。そこへ、あいつが一人で仰向けに眠っている。口を半ば開き、喉元をさらしている。立つと巨大で、喉に噛みつこうとしても届かない。でも、眠っていると、私の鼻よりも低い位置に男の喉があった。
 引き戸の隙間に体をねじ込んで、私は静かに部屋へ入った。歩くと、畳がわずかに音をたてる。ユカは入り口に残り、部屋の中を見つめていた。私を心配そうに見つめている。
 私はあいつの頭のそばに近寄る。あいつは、気配を覚って起きる様子もなく、|瞼《まぶた》を閉じたままだった。掛け布団がおなかにかかっており、寝息のたびに上下する。
 一瞬、私の視界の隅で、何かが動いた。
 そちらを振りかえる。窓にかかったカーテンの向こう側を影が横切ったように見えた。
 ユカが、私の戸惑いを察した。引き戸の隙間から、どうしたのという視線を向ける。
 窓の外にだれかがいたのだろうか。いや、カーテンがゆれただけかもしれない。あるいは、外の木が風で揺れて、影が動いたのかもしれない。私は頭を振り、気にしないことにした。今は、目の前の男に集中しなければならない。
 男の寝顔を見る。ユカをいじめた姿を思い出し、私の胸の中に憎しみが広がった。
 ユカを振りかえって、目を見つめた。
 言葉はいらない。彼女が何をしてほしいか、私にどうすることを望んでいるのか、目を見れはわかる。
 私は、ゆっくりと顎を開けた。
 ためらいはない。これまで、幾度も橋の下で行なってきたことの繰り返しだった。
 私は噛みついた。
 歯が男の喉に食い込む。皮膚が破け、血が盗れた。噛み砕き、喉の肉を食いちぎるつもりだった。しかし、思いのほか、人間の喉は強靭だった。ごり、とした感触とともに私の顎は途中で止まった。
 男は目覚めて、上半身を起こした。それでも私の歯は食いこんだままだった。男の動きにつきしたがって私の体も引っ張られた。
 私を見て、男は驚き、悲鳴を上げた。しかし、大きな悲鳴は出なかった。喉の重要な部分はすでに壊れていた。男が拳で私の顔をぶった。それでも私は噛みついたままだった。男が立ちあがる。私はぶら下がった状態になる。あいつは焦ったように私を振りきろうとした。
 私は、畳の上に落ちて転がった。
 一瞬、静寂が訪れた。まるで時間が止まったように感じた。
 男の足元に転がった私の上へ、赤い液体がぼとぼとと落ちてくる。見上げると、男が呆然とした顔で、自分の首を触っている。喉の一部分が、|抉《えぐ》れている。赤いものはそこから大量に落ちてくる。男が喉を手でおさえても、血は指の間から溢れた。
 私は立ちあがり、口の中にあるものを吐き出した。布団の上へ広がった血だまりの中にそれは転がる。男の喉から食いちぎった肉片だった。
 男はそれを見ると、「あ!」という表情をして膝をつき、あわてて拾い上げた。少しの間、喉の傷口に押し当てていた。それでも喉からは赤いものが溢れ続けた。やがて男の手が震え出して、私の噛み千切った喉の肉を取り落とした。しかし、男はもうそれを拾い上げなかった。
 私の顔を見つめて、複雑な顔をしていた。怒ったようでもあるし、泣きそうな表情でもあった。大きく口を開けて、男も、吠えた。喉の抉れたところから大量に空気がもれてひゅうひゅうとおかしな音が混じっていた。しかし、部屋の中を震わせるほどの大きな声だった。
 男が私に飛びかかってきた。男の力は強く、おなかを蹴られると意識が消えそうになった。
 部屋の入り口にいたユカは、叫びながら、どうしたらいいのかわからないというように立っていた。
 逃げて!
 私は彼女に声をかけた。しかし、ユカは私を置いて逃げなかった。
 男が私の首を両手でしめた。血で汚れた畳に押さえつけて、恐ろしい言葉を吐いた。口から唾と血の混じった液体が驚くほどよく流れ落ちて私の顔にかかった。私は男の手に噛みついた。一瞬、彼がひるむ。私はその際に立ちあがり、引き戸の隙間を抜けて、ユカと一緒に逃げた。
 大量の血を出しているのに、男が死ぬ気配はない。犬だったらすでに戦意を喪失しているだろう。しかしあいつは、倒れない上に、すごい勢いで襲い掛かってくる。
 廊下を駆け抜ける私とユカの背後で、大きな音がした。男が引き戸を半ば押し破るように開けた音だった。
 私は恐怖した。だめだ、殺せない。力の差が大きすぎる。幾度、噛みついても、あいつは立ちあがって私をぶつだろう。私を殺したら、きっとユカにも手をかけるだろう。私はどうすればいいのかわからずに混乱した。
 私たちは玄関の方へ向かった。私とユカの後を、あいつが追いかけてくる。その足音が、背中に追っている。
「ママ」の部屋から玄関まで、廊下は一度、折れ曲がった後、直線となる。玄関に辿り着くまではおそらく一瞬である。しかし、その短い時間が、やけに長く感じられた。
 あと少しで外への扉に到着するというときだった。小さな悲鳴とともに、隣を走っていたユカが足を滑らせて転んだ。廊下の途中で彼女はうずくまる。
 ユカ!
 私は叫び、あわてて立ち止まろうとした。しかし全速力で走っていた私の体は急に止めることができなかった。土間に置かれていた靴を撥ね飛ばし、玄関の扉に体を当てて、ようやく停止することができた。
 舞い戻り、ユカを助け起こそうと、背後を振りかえる。そこで私は、動くのをやめる。
 あいつが、ユカのそばに立っていた。喉から血を滴らせながら私を見下ろす。恐ろしい顔をしていた。何か言葉を発していたが、うまく発音はされなかった。
 男が一歩、私に近づいた。両手を伸ばし、私が逃げないように気をつけている。
 玄関の土間に立ったまま、私は動けなかった。ユカを置いて、自分一人で外に逃げ出すこともできない。
 どうすればいいのだろう。考えても、答えは出なかった。ただ胸の中で、悔しさと怒りが荒れ狂う。しかし、もはや隙をついて襲いかかることもできない。
 諦めが、私の心を覆った。
 これまで、ユカはあいつに嫌われて、ひどい仕打ちを受けていた。彼女を助けようにも、私は、力が弱かった。どんなに立ち向かおうとしても私たちは無力で、あいつの気分次第に物事は決まっていく。私がもっと強かったら、ユカを守ってあげられていたのに……。
 男がそろそろと両手を突き出し、私を捕まえようとする。
 廊下に倒れているユカが、私を見ていた。
 ごめん……。心の中でそうつぶやく。顔をうつむけるほか、私にできることはなかった。かわいそうなユカから目をそらし、男の手に捕らえられるのを、私は待つ。
 蛍光灯はついていなかったが、窓から入る朝の光が、周囲を薄く照らしていた。うつむいた視線の先、廊下と土間の段差を、男の伸ばした手の影が移動する。少しずつ、私との距離を縮め、近づいてくる。
 助けてあげられなくてごめんね……。
 手の影につき従って、男の喉から滴っているらしい血が、線になって伸びてくる。土間の段差を滴って、靴の中に落ちる。
 いっしょにまた、遊べるとよかったのにね……。
 男の手の影が、ついに私の影へ重なった。私はうつむいたまま動かなかったが、顔のすぐ両側に、男の両手のひらがあった。視界の端に、赤く染まった男の手が見えた。まるで太陽が落ちて、辺りが暗くなるように、男の影が私の上へ覆い被さる。
 ユカ……。
 私の目に、涙が溢れた。
 その瞬間、背後で、何かの気配がした。私の背中には、扉があるだけだった。その向こう側で、だれかの靴音を聞いた気がした。
 ギィ……。なにかの|軋《きし》む音がする。続いて、硬い金属製のものが土間に落下する音……。
 うつむいて足元ばかり見ていた私の視界の中に、何かが落ちて転がった。それは、男の影の中でも、白く輝いていた。
 顔の両側にあった男の手が、止まった。突然のことに気を取られたらしい。時間が停止したような静寂が辺りを覆う。
 扉の向こう側で、再度、靴音がする。今度は、遠ざかるような足音だった。扉には新聞を受け取るための小さな窓があり、目の前のものは、そこから投げこまれたようだった。さきほどの何かが軋む音は、その窓が開閉する音だったのだろう。
 私とユカを追いかけていた知りたがりのだれかだと、私はすぐに悟った。さきほど窓の外に見かけた影も、その人物だったにちがいない。
 私が男よりも早く動けたのは、そのだれかの存在に薄々気づいていたからだった。決断の早さに差が生じ、それがおそらく運命をわけた……。

   †

 やがて少女と犬が門から飛び出して走り去っていった。僕が身を潜ませている曲がり角のある方向とは、反対側へ彼女たちは向かった。そのため、僕がいることには気づいていなかった。
 彼女たちがいなくなって、僕は家へ向かった。玄関の扉は錠がおりていなかった。開けると、男の死体が横たわっていた。仰向けになり、心臓に突き立っているナイフの柄がよく見えた。廊下の鼻から玄関のそばまで、点々と血が続いている。辺りは赤く汚れていた。
 どこにも手を触れないよう注意しながら調べる。男が何者なのかはよくわからないが、おそらく少女の父親なのだろう。母親はいないのだろうか。僕はデジタルカメラで彼を撮影して、現場から立ち去った。ナイフのことが気にはなったが、その場へ残していくことにした。そこが、ナイフのあるべき位置だという気がした。
 立ち去るとき、玄関扉の取っ手を、服の袖で拭いた。指紋を残してはいけない。
 僕は一度、家に戻った。桜がテレビを見ながら宿題をしていた。
「どこに行ってたの?」
 彼女の質問に、コンビニ、と返事をして、僕は朝食をとった。
 昼過ぎに、もう一度、少女の家へ向かった。目的地が近づくと、妙な騒々しさを空気中に感じた。曲がり角を越えて少女の家が見える場所にくると、その理由がわかった。だれかが通報したらしく、警察と野次馬が集まっていた。
 パトカーの赤いランプの明滅が、家の壁に反射していた。通りにあふれている人々は、少女の家を指差して囁きあっていた。近所の人なのだろう。エプロンを着た主婦や、パジャマ姿の中年の男が多かった。僕は、彼らの背後に近寄って、一緒に家を見上げた。囁かれている会話が、ざわめきの中で聞こえてきた。
 話によると、この家に住んでいる主婦が帰ってきたとき、知人の男性が刃物で刺されて玄関に倒れていたのだそうだ。その情報から、あの男が少女の父親ではなかったことを知った。
 僕はさりげなく、そう話していたエプロン姿の女性へ声をかけた。この家に住んでいた家族について質問してみる。突然、話しかけたにもかかわらず、その女性は答えてくれた。事件による興奮が口を滑らかにしたのだろう。
 その家では、母親と娘と犬が暮らしていたそうだ。父親がいないのは、離婚したためらしい。女の子は小学校をずっと登校拒否して、家で犬といっしょに生活していたという。
 その女性の話によると、現在、少女と犬は行方不明で、どこにいるのかわからないそうだ。
 僕は騒々しい事件現場に背中を向けて立ち去った。途中、自転車に乗った子供とすれ違った。まるで祭りでも見に行くように、事件のあった家へ自転車をこいでいた。

 橋の袂から、川辺へ降りるための、コンクリートの階段が伸びている。下の方は、一面に広がる雑草の海へ沈んでいる。
 天気のいい日になった。階段を下りながら、コンクリートに濃く写った自分の影を見た。草は緑色に太陽を反射し、風が吹くと波打つように揺れた。
 階段を下りきると、視界は背の高い草に遮られた。目の高さまで草の緑があり、見上げると、すぐそばにかかっている巨大な橋の裏側と、どこまでも青い空とが見えるだけだった。
 草をかきわけて進んでいると唐突に視界が開けた。雑草の生えていない円形の空間があり、そこにゴールデンレトリバーは座っていた。
 少女はいない。
 犬は、紐でどこかにつながれていたわけではなかった。緑色の草に囲まれて、彫像のように待っていた。まるで僕の来ることを、あらかじめ知っていた様子だった。優雅で、瞳には知性がある。美しい犬だと思った。
 この場所になら、少女と犬がいるかもしれないと僕は思っていた。しかし、予想は半分しか当たらなかった。
 犬に近づき、頭に手のひらを載せてみる。犬は動揺せず、おとなしく僕に触れさせた。
 首輪に、紙が一枚、はさまっていた。それを抜き取る。
 ナイフをくれたひとへ。
 そう書かれてある。どうやら、あの少女が僕にあてた手紙らしい。彼女は、僕のことに気づいていたのだろうか。この場所に僕が来るかどうかは、賭けだっただろう。
 手紙は、破ったノートに、鉛筆で書かれたものだった。コンクリートの階段で書き記したものだろうか。文字にそういった歪みが見られる。
 文章を読む。まとまっておらず読みにくい文だったが、内容は理解できた。なぜ自分たちがペットを誘拐していたのか、なぜ橋の下であのようなことをしていたのかについて触れていた。義父となる男の暴力についての説明と、ナイフを投げこんでくれたことへの感謝が述べられている。いずれも子供っぽい文章ではあった。しかし、一生懸命に文字を書いている様子が見えるような手紙だった。
 最後に、犬をもらってほしい、という意味の言葉が書かれている。その一文を書くために、よほど時間をかけたのだろう。何度も文字を消したような、ためらいの跡がある。いっしょに連れていけば、自分がつかまったときに処分されてしまうと考えたのだろう。
 手紙をポケットに入れ、素直に待っていたレトリバーに目をやる。首輪をしているだけで、紐はついていない。どうやって家に連れて帰るか、それともここに放置するべきかを考えた。
 昨夜、橋の下で、少女は手招きして犬を呼んでいた。ためしに僕もそうしてみると、犬は従順に僕のそばへ近づいてきた。
 その調子で家まで戻った。犬は僕の後ろにつき従って歩いた。途中でどこかへ行ってしまっても、それはそれで放っておくだけだったが、レトリバーは最後までついてきた。
 家に両親はいなかったが、妹の桜がテレビの前で宿題をしていた。犬を家にあげると、その気配に気づいて彼女は振りかえり小さな悲鳴をあげた。犬を飼うことになったと僕は告げる。
 桜は驚いたが、それでも柔軟に対応した。おそらく死体を発見するよりも衝撃は軽いのだろう。そして勝手に犬の名前を考え始める。僕はそれをやめさせた。名前なら前の飼い主が橋の下で呼んでいるのを聞いていたし、手紙にも書いてある。したがって、この犬にはすでにユカという名前があることを説明する。
 今朝、少女の家の窓から、中を覗いたときのことを思い出す。ちょうど、あの少女が男の喉に噛みつく場面だった。何が起こっているのか最初はわからなかったが、手紙を読んで理解した。あの橋の下で、少女が犬と組み合った末に噛みついて殺していたのも、すべては義父を殺害するための練習だったという。
 ユカを桜にまかせ、僕はソファーに座って手紙を読み返した。鉛筆の文字は強い筆圧で書かれ、子供っぽい形である。ひとつずつ文字を拾うように読んでいくと、ところどころに、飼い犬のユカを崇拝する文章があった。
 僕は、昨夜の様子を思い出す。時折あの少女は、ゴールデンレトリバーの方を見ながら行動していた。汚れるのを嫌ったのか、服を脱いで動物に噛みついていた。
 彼女はまるで、神の声を聞くように犬へかしずいていたらしい。手紙によると、自分はユカの言葉がわかるとはっきりある。
「この子、どうして飼うことになったの?」
 桜がユカを指差しながらたずねた。
 友人の飼っていたものだが、義父が犬嫌いでいじめられるので、預かることになったのだと説明する。事実とそれほど大きくは変わらない。少女の手紙は、ユカが義父にいじめられている恐怖と、切羽詰まって殺すまでに至った様子が、混沌とした文章で書かれている。
「こんな子をいじめるなんて!」
 桜は憤慨したように言った。ユカは首を傾げて、深い点色の瞳を彼女に向けた。はたして少女が手紙に書いているほど、ユカが様々なことを考えているのかどうかはわからなかった。あの少女は、ユカの瞳に映った自分の顔と話をしていたのかもしれない。
 そのとき、携帯電話が鳴った。森野からだった。僕は妹と犬を残して二階へ上がりながら電話をとった。彼女は、近所で起きた殺人事件について話をした。
「このまえ、一緒に道を歩いたでしょう。あの辺りで起きたの。玄関で男が倒れているところを、主婦が発見したそうよ」
 ああ、そう。僕は返事をしながら、男の喉に噛みつかれた跡があることや、寝室から玄関まで血痕が続いていることを説明した。そして、被害者の命を奪った決定的な傷は胸に刺さったナイフによるもので、その刃物は何者かの手によって犯人に受け渡されたものだということを話した。
「なぜ、あなたがそんなことまで知っているの?」
「きみは、僕たちの横を通りすぎた少女が犯人だったことに気づいていないんだ」
 それだけを言って電話を切った。
 僕は犯罪者を見るのが好きだった。しかし、第三者的な立場にとどまって、決して関わらないようにしていることがルールだった。
 今回、そのルールに違反した。少女と犬が玄関の方へ逃げ、それを義父が追いかけるのを僕は窓から見た。そこでつい、少女にナイフを渡してしまった。
 悪いことではないと思う。なぜなら、僕の良心はまったく痛んでいないからだ。それにおそらく、あれは僕の意思ではなかった。ナイフが数日前から未来を見通して望んでいたことだったように、今では思う。

 数時間後、行方不明だった少女が郊外でさまよっているところを保護された。口のまわりや服が血だらけだったそうだ。その状態で一人、だれもいない寂しい荒地を歩いていたという。
 僕は薄暗い自室にいて、森野からのメールでその情報を得た。音楽もかけていない静寂だけの部屋だったから、桜と犬の明るいはしゃぎ声が階下からはっきりと聞こえてきた。
 僕は目を閉じて、橋の下で遊ぶ少女と犬を想像した。それは暑い夏の日のことで、彼女たちを囲む草の茂みは緑色に輝いていた。
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Ⅳ 記憶 Twins
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   † 1

 森野という苗字のクラスメイトがいて、時々、話をする。彼女の名前は夜。苗字と名前を続けて読むと、森野夜となる。髪の毛や目の色は黒色である。うちの高校の制服も黒色で、彼女の履いている靴も黒だ。彼女の身につけているものの中で唯一色を持ったものといえば、制服のスカーフの赤色くらいである。
 全身が黒色の彼女にとって、夜という名前は合っているという気がした。夜の暗闇が人の形をとったら彼女のようになるのではないだろうかというほど、彼女の黒色に対するこだわりは徹底している。
 その一方で彼女の顔は、太陽を知らない月のように白い。およそ生気というものがなく、陶磁器でできているように思えることがある。左目の下に小さなほくろがあり、占い師のような、魔術的な雰囲気を彼女は纏っていた。
 森野に似た雰囲気の少女を、映画の中で見たことがある。それは、冒頭で溺死した主人公夫婦が、慣れない死後の世界で戸惑う様を描いた映画である。幽霊となった主人公夫婦は、当然、普通の人には見えない。しかし、ふとしたきっかけから、自分たちを見ることのできる少女と知り合う。その少女が、リディアという名前のヒロインである。
「私は半分、死んでいるようなものだから……」
 死者を見ることができるのはなぜか。主人公たちにそう質問されて、リディアはそう答える。
「私の心は暗黒なの」
 そう口にする彼女は、黒っぽい服を身につけ、病的な青白い顔をしている。外で遊ぶよりも、家で本を読むことを好むような、不健康な気配を持っている。
一部ではそういった人々のことをGOTHと呼ぶ。GOTHというのは、つまり文化であり、ファッションであり、スタイルだ。ネットで「GOTH」や「ゴス」を検索すると、いくつものページがヒットする。GOTHは、GOTHICの略だが、ヨーロッパの建築様式とはあまり関係がない。この場合は、ヴィクトリア朝ロンドンで流行した『フランケンシュタイン』や『吸血鬼ドラキュラ』などの小説、つまりゴシック小説のGOTHICがもとになっている。
 森野もおそらく、GOTHに分類されるだろう。彼女はしばしば、人間を処刑する道具や拷問方法などに興味を示す。GOTH特有の、人間の持つ暗黒面への興味である。
 森野は、他人と言葉を交わすことが少なかった。エネルギーの溢れる健康的なクラスメイトたちとは、根本的に話がかみ合わない。
 微笑みながらクラスメイトが話しかけたとしても、いつもの仏頂面を崩さずにじっと相手を見つめ返し、「あら、そう」しか言わない。話しかけた人間がさらに森野からの反応を待ってみても、彼女からは無反応という反応しか戻ってこない。したがって多くの場合、話しかけた方は、「無視された」と考えるらしい。以前、クラスの女子たちが、無視された、という意味のことをしゃべっていた。以来、彼女たちは森野に対して軽蔑の眼差しを向けるようになった。
 そういった周囲の認識も手伝い、森野のまわりには、人を遠ざけるバリアが形成される。教室に笑い声が溢れて騒がしい中で、彼女の座っている周辺だけが異次元のように静かとなる。そこだけ、影が落ちているように薄暗い。
 しかし当の森野にとっては、話しかけた相手を無視したわけではないらしい。僕は彼女と話をするようになり、そう思うようになった。彼女が相手に対してにこりとも返さないのは、悪気があるのではなく、ただ、そういった人間だからという気がする。相手が嫌いなのではない。なぜなら、だれに対しても平等に、彼女は素っ気無いからだ。
 むしろ観察していて僕が彼女から感じるのは、「戸惑い」だった。話しかけられて、どう返事をしたらいいのかわからずに、「あら、そう」としか言えない……。自分と他人との間にある接点が見つからずに、それ以外の言葉が浮かばない……。しかしそれもやはり僕の勝手な想像で、彼女が実際のところどう思っているのかはわからない。彼女はほとんどの場合、表情が表に現れないため、感情を推し量ることが困難なのだ。
 はじめて言葉を交わしてからしばらくの間、僕は彼女のことを、人形のようなやつだと思っていた。どこか置物のような存在感しかなかったからだ。

 十月の水曜日。木々の葉から緑色が失せ、しだいに赤味を帯びはじめていた頃のことだった。
 朝、森野がうつむいた格好で教室に入ってきたとき、一瞬、みんなが静まりかえった。黒く長い髪の毛が前に垂れ下がって表情を覆い隠し、ゆっくりと足を引きずるような不気味な歩き方で彼女は自分の席へ向かった。
 幽霊のようだ、とおそらくそれを見たほとんどの生徒が思っただろう。しかし発散していた雰囲気は、手負いの獣のように危険だった。
 いつもなら透明な球のような形をしている彼女のバリアが、表面に刺状のものを形成し、近づく人間がいれば攻撃しかねないといった雰囲気を帯びていたのだ。いつもの通り彼女自身は無音だったし、だれも彼女に話しかけたりはしなかった。しかし、そばにいて雰囲気の異常さがわかるのか、彼女と席の近いものたちはいずれも緊張した顔でその日の授業を受けていた。
 僕はさほど、彼女の様子に関心がなかった。ただ機嫌が悪いだけなのだろうと思っていた。その日に僕と彼女が言葉を交わす機会はなく、理由を知ることもなかった。森野は、僕が他のクラスメイトと話をしているときは、近づいて会話に交じることなど決してしなかったからだ。
 理由を僕が知ったのは、次の日の放課後だった。
 夕方のホームルームが終わると、生徒たちはいっせいに立ちあがって教室から出て行く。やがて教室内は広々とした空間になり、みんながいたときの騒がしさが嘘のように、静かな場所となる。机と椅子が並んでいるだけの教室に、僕と森野は残っていた。
 窓から、涼しくなった風が入りこんでいた。隣の教室ではまだ授業が行なわれているらしく、先生の声が廊下を伝わってかすかに聞こえてくる。
 森野は自分の席に浅く腰掛けていた。両手を椅子の両側からだらりとぶら下げて、ひどく疲れている様子だった。
「最近、睡眠不足なの」
 彼女はそう言うと、あくびをした。目の下の皮膚が、影を落としたように薄黒い。瞼を目の中ほどまで下ろし、半日の状態で遠くを見ていた。
 僕は自分の席で帰り支度をしていた。彼女の席から遠くはなれて、ほとんど教室の反対側にあった。教室には他にだれもいないので、声はよく届いた。話をするのならそばに寄ればいい、という発想はなかった。
「だから昨日から様子がおかしかったのか」
「ときどき、こうなるの。眠ろうとしても、眠れない。不眠症というやつかも」
 椅子に腰掛けていた彼女が、立ちあがった。見ていると、眠そうな顔をしたまま、危ない足取りで黒板の前まで歩いた。
 教室の前の壁に、コンセントがあった。そこに延長コードが差しこまれて、黒板消しクリーナーへつながっていた。森野は、おもむろにコンセントから延長コードを抜き取った。五メートルほどの長いタイプのものだ。片方が黒板消しクリーナーへつながった状態のまま、彼女はそれを首に巻きつけた。少しの間、その状態で動きを止めていた。
「これもだめだわ、しっくりこない」
 やがて首を横に振って、コードを捨てた。
「不眠症になると、私は首に紐を巻きつけて眠るの。絞殺されて死体になった自分を想像して目を閉じる。そうすると、深い水に沈んでいくような眠りにつくことができる」
 彼女は寝ぼけていたわけではなかったらしい。僕はがっかりした。
「そういう方法があるなら、寝不足になる前に実行すればいいじゃないか」
「紐ならなんでもいいってわけじゃないの」
 森野にはこだわりがあるようだ。さきほどの延長コードは、首との相性が悪かったらしい。絞殺されたい理想の紐があるのだろう。
「前回の不眠症で使った紐は、なくなってしまったの。それで、新しく首に合うやつを探しているんだけど……」
 彼女はあくびをして、不健康な顔で周囲を見回した。
「でも、自分がいったいどんな紐を探しているのか、はっきりわからない。それさえわかれば不眠症も解決するのだと思う」
「以前に使っていた紐は、どんな紐だった?」
「わからないわ。拾ったものだったし、不眠症が治ったらすぐに捨ててしまってほとんど覚えてない」
 彼女は両日を閉じて、首をごしごしと触った。
「感触は覚えているのだけど……」
 それから目を開けて、何か思いついたという表情をする。
「そうだ、これから紐を買いに行きましょう。あなたもひとつ、紐や縄を買っておくと便利だと思う。だって、必要になるでしょう、自殺するとき」
 隣の教室でも授業が終わったらしい。いっせいに椅子をひく騒々しい音が聞こえてきた。

 学校を出て、僕たちは郊外にある大型雑貨店に向かった。距離はあったが、頻繁にバスの通る道沿いにあったから、到着するまでにさほど時間はかからなかった。バスの中は半分ほど座席が埋まっており、椅子に腰掛けている森野を、僕は吊り革につかまって立った状態で見ていた。彼女は常にうつむいており、眠ろうと努力しているようだった。しかし結局、バスの心地よい振動さえも彼女を睡眠に誘うことのできないまま、僕たちは目的地に到着した。
 広い店内に、工作用の木材や金具、工作道具などが並んでいた。僕たちは棚の間を歩きながら、紐状のものを眺めた。テレビとビデオを繋ぐAVケーブルや、物干しロープから凧糸まで、さまざまなものがそろっている。
 森野はそれらをひとつずつ手にとり、細い指先で触っていた。身につける服を選ぶような、大切なものをあつかう手つきだった。
 彼女は、首吊り自殺をするときの紐について自分なりの考えを持っているらしく、やつれた頬で意見を述べた。
「まず、すぐに切れてしまいそうな細いのはいやだわ。電気コードなら丈夫でよさそうだけど、なんだか美しくない」
「ビニールの紐はどう」
 棚の下の段に、白いビニール紐の巻かれた塊があった。たまたまそれが目に入ったので、聞いてみた。彼女は、無表情のまま首を横に振った。
「伸びてしまって、台無しという気がする。興ざめだわ」
 工具売り場の棚に、何種類もの鎖が売られていた。幅が二センチほどある太いものから、数ミリしかない細いものまでそろっている。トイレットペーパーのように、巻かれた状態で棚に取りつけられている。そばにある切断用の工具で好きな長さに切り取って精算するらしい。
「これを見て、この細さで五十キロの重さまで耐えられるそうよ」
 彼女は、銀色の細い鎖を、親指と人差し指でそっとつまんだ。そのまま引き出して、首筋に当てる。彼女の手からこぼれた鎖の端が、蛍光灯を反射して輝いた。
「色もいい。きっと首吊り死体も綺麗に見えるわ。……でも、首を吊った瞬間、鎖が皮膚をはさむかもしれないわね」
 そう言いながら、鎖から手を離した。これも彼女の理想とは違っていたらしい。
 どんな紐で死にたいかを、彼女はいつも考えている。僕は逆だった。もし自分が人を絞殺するならどのような紐を使うだろう。そう考えながら店内を歩いていた。
「首のまわりがちくちくするのはいやだわ」
 僕が荒縄の束を指差すと、彼女は言った。
「そんなタイプの古い縄、昔、住んでいた田舎の家にたくさんあった。農作業によく使われてたみたい」
 彼女は、小学四年生のころまで、別の場所に住んでいたそうだ。そこは、今の家から車で二時間ほど離れた山の方だったという。
「母の生まれ育った家なの。私の祖父や祖母が農作業をして、父はその家から、車で長い時間をかけて会社に通勤していたわ」
 しかし、利便性を考えて、今の家に引っ越したのだという。それは、はじめて聞く話だった。
「ところで、きみは自殺をするとき、首を吊るのではなく手首を切るものだと思っていたけど」
 僕がそう言うと、彼女は手首を差し出した。
「これのことを言っているの?」
 手首には、ミミズのはりついたような白い線が見える。わずかに皮膚が盛り上がり、刃物で手首を切った傷跡だとわかる。これまで彼女に、傷のことをたずねたことはなかった。なぜ彼女が手首を切ったのか、僕は理由を知らなかった。
「自殺しようとして、こうなったわけじゃないわ。発作的に傷をつけただけよ」
 彼女は、いつも無表情で毎日を過ごしている。しかし、発作的にそうきせるほどの感情が、彼女の中にはどうやらあるらしい。おそらく彼女の無表情さは、魔法瓶の外側が熱くないのと同じなのだ。内側に何かがあっても、それが表にまでは出てこない。
 だが、人間は感情が溢れすぎたとき、どうにかしなければならない。遊ぶことや運動をすることで気持ちを解放させる人もいれば、何かを壊して感情を落ち着かせる人もいる。後者のような人で、感情の捌け口が外に向かう場合は、家具などを壊すだけで終わるだろう。しかし彼女の場合、その衝動は外へ向かわずに、おそらく自分へと向かったのだろう。
「兄さん?」
 唐突に、知っている声が僕を呼んだ。後ろを振りかえると、少し離れた場所に妹の桜が立っていた。首を傾げて、棚の間にいる僕を見ている。両手で大きな袋を抱えていた。ドッグフードの袋だった。偶然、彼女も買い物に来ていたらしい。
 隣で眠そうな顔をしていた森野が、ドッグフードの袋に印刷された犬の顔写真を見て、少しだけ頬を引きつらせた。
 桜は、こんなところで会うのは珍しいという意味の話をして、それから森野に目を向けた。
 森野は目を逸らしたが、それは桜と目を合わせないようにしたのではなく、桜の抱えていた袋の犬写真と目を合わせまいとしたのだろう。彼女は犬という文字のある棚には決して近づかなかった。
「こちらの綺麗な方は?」
 桜は好奇心を含んだ顔でたずねた。おそらく想像しているような人間ではないのだということを、僕は丁寧に説明した。しかし彼女が納得した様子はなかった。
「まあいいわ。私はお母さんに言いつけられて買い物にきたの。ひとまずドッグフードを買って、あと、クリーニング屋で服を受けとって……」
 桜は紙のメモを取り出して読み上げた。彼女は僕と違って性格がよい。受験生で忙しい時期なのに、人からさまざまな仕事を押しつけられると断れないらしい。
「……あと、隣の家のおばちゃんに豆腐とみかん。帰ったら犬の散歩をしなくちゃ」
 そう言って、桜は去ろうとした。そのとき、森野に手を振ってにこやかに笑った。森野は妹の抱いているドッグフードの袋から目を逸らすので忙しいらしく、見てはいなかった。よろけるように棚へ片手をつき、全身で犬の写真を拒否している。
 桜が去って見えなくなったのを確認し、僕は言った。
「もう顔を上げても大丈夫だと思う」
 それを聞くと彼女は、体をまっすぐにのばした。まったくなにごともなかったとでもいうように棚と向かい合って、針金の束をチェックしはじめる。
「今のは妹さん?」
 僕は頷いた。
「……私にも妹がいたのよ。双子の妹だったの。もう、ずっと以前に死んだけど」
 初耳だった。
「名前は夕。夕よ……」
 彼女は説明しながら、鈍く銀色に光る針金を指先で触っていた。青白い唇が動いて、白い歯が覗く。その奥から、彼女の静かな声が聞こえる。
 夕は、首吊り自殺で死んだの……。
 森野夜はそう言った。
 雑貨店で様々な紐を首に巻いたが、不眠症を解決させるようなものはなかったらしい。僕たちは何も購入せずに店を出た。
 大型雑貨店の広大な駐車場を横切り、通りのある方向へ歩いた。目の下にくまを作った森野は、強い風が吹けば倒れそうな力ない足取りだった。
 大型雑貨店の巨大な建物以外、周囲にはほとんど何もなかった。畑や、枯れた草の生えている荒地があるだけだ。その中を、つい最近に舗装されたような黒いアスファルトの、広い幅を持つ道路が突っ切っていた。これから開発され、栄えていく地区なのだろう。
 道路の脇にバス停があり、ベンチが設置されていた。そこに森野が腰掛ける。彼女は家の近くまでバスに乗って帰るらしい。
 僕の家は反対方向で、歩いて帰ることのできる距離だった。バスに乗るつもりはなかったが、森野の隣に腰掛けた。
 太陽が傾きかけていた。空の色はまだ青かったが、浮かんでいる雲の下の辺りがわずかに赤く染まっている。
「きみの妹の話を聞いてもいいかい」
 彼女はちらりと僕を見た。口籠もったように、沈黙する。
 目の前を横切っている道路は、通行量が多くない。たまにしか車が通らず、僕たちの目の前には、アスファルトの平らな面とガードレール、その向こう側に広がった枯れ草の荒地があるだけだった。広い視界の中で、はるか遠くに立っている鉄塔が、微小な粒のように見えた。
「……ええ、いいわ」
しばらくして彼女はそう言った。

 


† 2

「夕が死んだのは小学二年生のことだったから、私が覚えているのは、まだ八歳にもなっていない子供のころの彼女だけよ……。当時、私の家族が住んでいたところは、田んぼと畑しかない田舎だったわ……」
 家は山裾にあったという。裏手に森があり、そこから鳥のはばたく音がよく聞こえたそうだ。
「私と夕は、同じ部屋に布団を並べて眠っていたの。暗くなって眠ろうとしていると、森から|梟《ふくろう》の声が闇を越えて部屋まで届いたわ」
 古い木造の家は、黒光りのする板と柱でできていた。屋根の瓦には緑色の苔が生えており、家の周期の地面には、割れた瓦の破片がよく落ちていた。家の中は広く、後から増築した台所以外はすべて畳の部屋だった。そこに夜と夕の双子の姉妹と両親、祖父と祖母が住んでいた。
 森野の父は、毎朝、二時間かけて町にある会社まで通っていた。祖父と祖母はよく、田んぼの水を確認するために外へ行ったり、納屋から道具を持ち出して畑で作業をしたりする。家から五分ほど歩いた場所に、畑や水田があった。家で食べる大根や白菜などは、いつもそこからとれていた。
「でも、うちでつくった大根は、店に売っているものと比べて、形もへなちょこだし、黄色味がかっていた」
 庭に、木が何本も生えていた。地面は剥き出しの土で、雨が降るとぬかるみになり、泥水が水溜りをつくった。雨の後に庭を歩くと、足が地面にとられて歩き難かった。
 家の左隣に納屋があった。母屋へ寄り添って立っているような、小さなものだった。中に、農作業の道具が置かれていた。台風で屋根が壊れていたが、青いビニールシートをかぶせたきり、修理をしていなかった。少し雨漏りしたが、農器具を置いているだけなので、さほど問題はなかった。
「妹とは、よくいっしょに遊んだわ」
 小学生になると、麓の小学校まで手をつないで歩いた。道は細く曲がりくねっていた。片側は常に山の斜面で、様々な種類の木々が絡まりあっていた。反対側にも木は茂っていたが、たまに葉の間から、山の下に広がる景色が見えた。茶色の落ち葉が道の両端にたまり、雨で柔らかくなっていた。高い木の枝葉が太陽を遮るため、いつも道は薄暗く、湿った空気が立ち込めていた。
「登校するときは下り坂だったから得した気分だったわ。でも、家に帰るときはいつも上り坂だったから、損した気分にもなった」
 夜と夕の姉妹は、顔、ほくろの位置、すべてが一致していたそうだ。その上、二人とも腰まで髪を伸ばし、服も似たようなものを選んで着ていたという。そのような姉妹が、両側に木の絡み合った山深い道を並んで駆け抜ける様を僕は想像した。
「……私たちはそっくりだった。母さえ、外見で私たちを見分けることなんてできなかった。お風呂に入る前、二人で裸になって、じっと押し黙っていたことがあるの」
 母親はそのとき、どちらが姉で、どちらが妹なのか。判別できなかったそうだ。
「……もっとも、仕草や表情に違いがあったから、少し話をすれは、家族にも区別がついたのだけど」
 見分けがつかずに困惑していた母親を見て、まだ幼い子供だった夕が、吹きだして笑ったそうだ。その瞬間に母親は、名前を呼びながら指差したという。
「こっちが夜、こっちが夕!」
 妹の夕は、姉の夜に比べて、感情が現れやすい子供だったらしい。母親や父親が話しかければ、にこにこと笑みを返していたそうだ。
「そのころ気に入っていた遊びは、お絵かきと、死体の真似をすることだった」
 夏休みになると、小学校のプールが開放されて、自由に泳ぐことができた。
「小さな小学校で、生徒全員の人数は百人くらいだったと思う。ひと学年のクラスに、二十人もいなかったわ。でも、夏休みには、ほとんど毎日、プールは大盛況だった」
 白い輝きのような太陽の光と、子供たちのたてる水飛沫とが、夏休みにはあったという。プールに浮かんでいると、そこから見える近い山から、巨大な蝉の声がほとんど壁が倒れ掛かってくるように聞こえてきたそうだ。
「プールサイドにはね、子供たちが危ないことをしないよう監視するために、大人が一人か二人、いつもついていたわ。先生のときもあれば、生徒の親が持ちまわりでやっていたこともあった。ほとんどの場合、何も問題なんて起こらなかったから、日除けの下にあるベンチで近所話をしていただけみたいだったけど」
 双子の姉妹はある日、監視をしている大人を驚かせようと水死体のふりをすることにした。
 水にうつむいて浮かび、全身の力を抜く。二人でどちらが長く、そしてより水死体に近く振舞えるかを競争した。
 エネルギーに満ち溢れている子供たちがブールではしゃいでいる中、水面に浮かんでいる姉妹の静けさは異様だっただろう。髪の毛を海藻のように漂わせながら、背中だけを水面に出して、息の続く限り身動きしない。息が続かなくなったら、そっと顔をあげて呼吸し、また死体となる。
「……予想外に大きな展開が私と夕を待ちうけていたわ」
 そのときプールの監視をしていたのは、姉妹のクラスメイトの母親二人だった。いつまでも動かない双子の姿を見て、そのうちの片方がベンチから立ちあがって大きな悲鳴をあげた。その声でプールを泳いでいた子供たち全員がベンチを振りかえった。はしゃいでいた低学年の子供たちも、水泳の練習をしていた六年生も、みんな何が起こったのだろうと思ったらしい。悲鳴をあげなかったもう一人の母親は、立ちあがると、水面へ浮かんでいる姉妹を助けるために走った。しかし、プールサイドを走るのは危険な行為だった。
「その人は転んで気絶。悲鳴をあげた方の人は、それに気づかずにプールから離れて救急車を呼びに行っていたの。私と夕が、息を止めるのにくたびれて水面から立ちあがったとき、周囲は混乱していたわ。地獄絵図だった。低学年の子たちはわけもわからず泣き出していた。転んで気絶していた人のそばで、お母さん、って呼びかけながら肩を揺り動かしている男の子もいた。私と夕のクラスメイトだった」
 彼女たちはお互いの顔を見ると、無言ですばやくプールからあがり、着替えもせずにその場から逃げたそうだ。
「こう、脇に着替えとバスタオルの入った袋を抱えてね、私たちは、靴を手にひっかけた状態で裏口から出ていったのよ。水着で田んぼのあぜ道を走っていたときにね、救急車が何台も何台も連なって遠くの道を通り過ぎていったわ。いったいあの母親は何人の水死体を見たのか、五台くらい走っていたと思うの」
 小学校は麓に位置しており、山と反対の方向には、

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责任编辑:Mashimaro

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