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『天声人语』2010年0307救救孩子
时间:2010-03-16 16:02:37  来源:咖啡日语原创  作者:华南虎

100307救救孩子

子どもを連れた母親が危険に直面したときにとる姿勢は、日本と米国で異なるらしい。日本のお母さんはたいてい、わが子を抱きしめてうずくまる防御姿勢をとるのだという。

  在日本和美国,带着孩子的母亲在直面危险时所采取的姿势据说是不一样的。日本的母亲基本上是抱紧自己的孩子,蹲下身子作防御状。

これに対し、アメリカの母親は、まず子どもを後ろにはねのけ、敵に直面して、両手を広げ仁王立ちになるそうだ。歴史学者だった会田雄次の著作を引いた『ことばの四季報』(稲垣吉彦)から孫引きさせてもらった。民族、文化的背景の考察はおいて、どちらの姿も、本能ともいえる親の愛の表れに違いはあるまい。
而美国的母亲则往往是将孩子藏到身后,正面对敌,伸开两手呈怒目金刚状。历史学家会田雄次的著作所引用的《语言的四季报》(稻垣吉彦)中有这样的描写。有关民族、文化背景的考察暂且不论,无论哪种姿势无疑都是出自本能的母爱表现。
危険からわが子を守るどころか、自らが鬼畜となって子を死なせる虐待が、この国で後を絶たない。「死なせる」と書いたが、実情を聞けば「殺す」にも等しい。奈良の智樹くんは、食べさせてもらえず、5歳なのに体重は6キロしかなかった。

  可在我们这个国家里,别说保护孩子了,自己变身为恶魔将孩子虐待致死的事件竟也层出不穷。我虽然写作“致死”,但了解了实际情形后觉得那简直和“谋杀”没什么两样。奈良的智树小朋友已经五岁了,由于没有东西吃,体重却只有六公斤。

4歳で死亡した埼玉の力人くんは、「お水をください」と哀願する声を近所の人が聞いていた。肉体の苦痛はむろん、恐怖と絶望はいかばかりだったか。短い命が不憫(ふびん)でならない。

  琦玉县的力人小朋友死的时候才四岁,邻居都听到过他“我要喝水”的哀求声。肉体上的痛苦自不必说,精神上的恐惧和绝望又该是多么深重啊。短暂的生命令人痛心不已。

俳優の加藤剛さんの随筆を読んでいたら、幼いわが子を肩車する場面があった。父の額をしっかり押さえる小さな手を「若木の枝で編んだ桂冠(けいかん)」にたとえている。栄誉の冠を戴(いただ)いて、父親たる加藤さんは「凱旋(がいせん)将軍のごとく」歩を進めるのである。

  演员加藤刚的随笔中,有将自己的孩子扛在肩上的描写。他将紧紧地抱住自己额头的小手喻为“嫩枝编成的桂冠”。作为父亲的加藤先生头戴着荣誉之冠,如同“凯旋的将军一般”昂首阔步向前进,那该是个多么感人的场景啊。

愛された記憶が、愛するという資質を耕す。親から子への豊かな申し送りがいま、揺らいでいるようにも思われる。虐待という危機には、地域と社会が両手を広げて仁王立ちになりたい。命が奪われてからでは総(すべ)てが遅い。

  被爱的记忆,耕耘着慈爱的心田。然而现在,这种父母给子女的宝贵传承似乎正在发生危机。希望地方和社会要像怒目金刚一般伸开双手,挡在虐童的危机面前。幼小的生命一旦受到了伤害就悔之不及了。

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