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日本汉字的由来
时间:2007-03-19 18:00:05  来源:http://coffeejp.com/bbs/viewthread.php?tid=2181  作者:平凡社「世界大百科事典」|


【起源と変遷】
 この漢字はいつごろつくられたかというと,その起源はわからない。現在知られるその最古の形は殷墟から出土した亀甲,獣骨に刻せられた文字である。これを殷墟文字または甲骨文字(甲骨文)と呼び,だいたい前1500年くらいといわれる。この文字は多分に絵画的であるが,しかしすでにかなり慣習化され,線条的になっていて,けっしてこの文字の原始状態そのままであるとは考えられない。そこで漢字の起源についてはなおいろいろな可能性が考えられてくる。一つの考えは西方に起源を求める説である。古くから漢字とエジプトあるいはメソポタミアの文字との字形上の類似から西方起源説をとなえる人があるが,それは多くは個々の文字の類似にもとづく空想的な説であってあまり信用はできない。しかし近来アメリカの I.J. ゲルブという人は,この問題を古代文化史全般の新しい角度からとり上げ,古代文字の単源説をとなえ,エジプト文字も漢字もメソポタミアのシュメール文字に源を発しているという新説を出した。しかしこの説は実証の域に達せず,やはり中国の中にその起源を求めるほうが無難である。今後中国での発掘によってより原始的な文字が出土することを期待する。
 殷墟文字についで周代の銅器の銘文の文字が知られている。これを金文または鐘鼎文(しようていぶん)という。これは殷墟文字の系統を受け,いっそう慣習化されているが,きわめて華麗な文字である。これは東周の時代にはいっても西方で行われていたが,東方ではやや異なった字体が使われていたといわれる。後漢の許慎の《説文解字》に載せられている古文という字体は東方の六国の文字であるという。やがて西方に秦が興起してくると,金文の系統を引く字体が現れ,これは石鼓文(せつこぶん)によって今日に伝えられている。《説文解字》に記されている籀文(ちゆうぶん)もこの系統であるといわれる。籀文はまた大篆(だいてん)という。秦の始皇帝は天下を統一すると,文字の統一をはかり,新しい字体を制定した。これは大篆の簡略化であって,小篆(しようてん)と称する。いわゆる篆書(てんしよ)はこの小篆である。金文にしろ籀文にしろ,あるいは小篆にしろ,いずれもいわば正式の装飾的な字体であって,鐘,鼎(てい)のような銅器やその他碑文などに用いられたものである。
 これに対して実用的な字体も使用されたと考えられるが,秦の統一後その実用的な字体が表に現れてきた。いわゆる隷書(れいしよ)がそれである。隷書は前漢・後漢を通じて行われたが,漢末になると,これから楷書(かいしよ)が生まれた。楷書に至って漢字の字体は固定化され,今日に及んでいる。いっぽう楷書が隷書から発展する以前から,篆書や隷書をくずした,より簡略化された草書が用いられた。いわば漢字のデモティック・スタイル demotic style である。このほか行書というのは,楷書をややくずした形で楷書ほど角ばらないときに用いられる。
 字体の変遷とともにときどき文字の整理ないし定着化が試みられた。とくに注目すべきは前述の秦の始皇帝の文字統一と唐初の文字整理である。前者はそれ以前に各国で用いられたいろいろの文字や字体の整理統一であった。のち小篆から隷書を通じて楷書に至る字体の変化,〈古文〉の発掘による経書の今古文の複雑な様相,言語の進展に由来する語と文字の関係等々により文字はなお動揺をまぬかれず,加うるに六朝時代の学術・学派の分裂は文字の上にも無統制を生んだ。隋の統一以後南北分裂の学術の統合は諸方面に認められるが,文字の上にもその顕著な現れが見られる。すなわち顔師古の経書の文字の批判にもとづく顔元孫の《干禄字書(かんろくじしよ)》,張参の《五経文字》,元度の《九経字様》などはこの文字整理の所産であり,唐の〈開成石経(かいじようせつけい)〉は経書の文字定着の成果である。だいたい,石経は後漢から文字の標準化を目的としたものであった。唐よりのちも文字の正俗に関する規範的意識はしだいに強化され,各代にわたる字書・韻書の編纂はたいがいこの意識に導かれている。宋の《類篇》ならびに《集韻》,元の《古今韻会挙要》,明の《洪武正韻》,《字彙》などから清の《康熙字典》に及んで漢字の規範は確固たる土台を得るに至った。その間印刷技術の発展に伴って,従来の筆写による流動性がしだいに固定化されたことも忘れてはならない。

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